小嶺家の人々の醜い姿を目の当たりにして、瀬人は初めて乙音がこれまでどんな苦しみを味わってきたのか理解した。彼は彼女の手を握り、自分の背後に隠すようにしながら、逆上した小嶺家の面々を冷たい目で見据えた。「乙音はもう羽生家に嫁いだ。今日から彼女と小嶺家の縁は一切ない」二人の密やかな仕草を見て、小嶺家の者たちはこれが羽生瀬人だと瞬時に悟った。人前で若輩者に諭される小嶺夫婦の顔が歪んだが、羽生の老夫人が居座っているのを慮り、無理やり理屈を捏ねるしかなかった。「苗字を変えようが、この子の体には小嶺家の血が流れてるわ!身内が叱るのは当然だ」瀬人が反論しようとした瞬間、乙音がそっと袖を引いた。彼女は一歩前に出ると、すっかり変わり果てた肉親たちを静かに見つめた。「私が苗字を変える必要なんてある?この名前はお祖父様がつけてくれたもの。羽生家との縁だって、お祖父様が決めてくれたこと。あなた達には何の関係もないわ」喉元で震える声を抑え、彼女は掌の傷痕を握りしめた。「小嶺家の娘、小嶺善次の妹は、四十五日前にあなた達の大事なお嬢様・美穂の車に轢かれて死んだ。縁も情けも、その日に全部断ち切れたの。私が恩知らずだと思うのなら、お祖父様の墓前で跪いてみたら?あの方があなた達の所業を許してくださるかどうか」小嶺夫婦の顔が紅潮し、罵声を浴びせようとしたその時、羽生老夫人の怒声が庭に響き渡った。「いい加減にしろ!ここは北都だ。乙音はわしの孫嫁。お前たちに何の権利があって」瀬人のお父さんが母親の目配せを読み取り、護衛たちに手を振ると、小嶺家の者たちはたちまち包囲された。追い出されかけた美穂が逆上して叫びだした。「羽生の姓を盾に威張り散らすんじゃないわ!小嶺家だって東の都では名の通った家柄よ!ここまで踏みにじるなら、もう縁もゆかりもないわ!」その言葉に、黙っていた青野の表情がこわばる。小嶺家の者たちも目を見開いたが、瀬人の冷徹な声が彼女の言葉を切り裂いた。「ならば望み通りに。神崎さん、今日をもって羽生グループと小嶺グループの全プロジェクトを停止せよ。業界に通達しろ——今後一切の取引はないと」護衛に囲まれながら退出する一行を、乙音は俯いたまま見送った。羽生家の人々が怒りを収め、彼女に寄り添う。「心配するな、乙音ちゃん。おばあちゃんがついて
瀬人は彼女の話が終わらないうちに遮った。「乙音、君はもう俺の嫁だ。君のことは羽生家全体の問題でもある。祖母が動いたのは家のためだ。謝る必要はない。小嶺家との縁切りも昨夜父と祖母が決めたことだ。あの協力関係は元々政略結婚が前提だった。実の娘すら慈しめない連中が、商売の場で信用できると思うか?早めに手を引くのはリスク管理だ。全てを自分で背負おうとするな」事情を理解した乙音の胸の重りが少し軽くなった。涙は自然に止まっていた。瀬人がハンカチで彼女の頬を拭う指先は、雪解けの川のように優しかった。その瞳に浮かぶ痛惜の色を見て、乙音はふと問いたくなった。「出会って一ヶ月しか経ってないのに……なぜここまでしてくれるの?私が嫁ぐと決まってたから?」彼の手が微かに止まり、額を撫でる指が温もりを残した。「一ヶ月じゃない。君が覚えてるのが一ヶ月分だけなんだ」声が柔らかく波打つ。「七歳までの俺の世界には、君しかいなかった。大人たちが仕事に追われてるから、善次の面倒を見ながら、掌サイズの妹が背中にくっついて『瀬人にぃ』と呼ぶのを、毎日見守ってた。東の都を離れる日、君は声が枯れるまで泣いて、ついて来たいと駄々をこねただろう?『必ず迎えにくる』と約束したのに……果たせなかった。それでも、結局ここに来てくれた」三歳頃の記憶は霞んでいた。けれど彼の確信に満ちた視線を見れば、嘘ではないとわかる。忘れていた歳月の向こうに、確かに大切な兄がいた。千里を隔てても、約束を破らなかった青年が。新婚の家に戻った時、既に灯りが揺れていた。「この家は瀬人が最初に稼いだ金で買ったんだ」瀬人が廊下を案内する背中に、老夫人の言葉を思い出す。五年間空き家だった洋館の内装は全て彼の手によるものだという。「小さい頃『大きな庭に薔薇と百合と…』って、花の名前を延々並べていただろ?足りないものはないか?」「顔や服に落書きして『画家になったら瀬人にぃの肖像画を描く』って宣言してたから、画室も作っておいた」「ピアノに凝った時は、毎日四手連弾の練習だと騒いでたな。あの頃から俺も練習してたが、五年寝てたから腕が鈍った。また教えてくれないか?」過去の話に耳を傾けながら、乙音の胸の空洞が少しずつ埋まっていく。二人の影が床で絡み合うのを見上げ、彼女は睫を濡らした。「急がなく
羽生家と小嶺家が絶縁したとの報が広まると、社交界は震撼に包まれた。つい先日、両家が縁組を果たしたばかりだったからだ。誰もが、ようやく意識を取り戻したばかりの羽生瀬人がここまで激怒した理由を探り始めた。やがて、小嶺家が養女を偏愛し実の娘(羽生家に嫁いだ小嶺乙音)を冷遇したため、瀬人が妻を守るために義理の実家を叩いた――そんな噂が流れ始めた。男尊女卑は珍しくないが、養女のために実子を粗末に扱う話は耳目を引き、瞬く間に広まった。同時に再燃したのが、数ヶ月前の誕生祝宴のスキャンダルや、小嶺乙音が巻き込まれた「事故」が人為的なものだったとする疑惑だ。好事家たちが情報をまとめた文書には、読む者皆が小嶺家を非難せずにはいられない内容が綴られていた。小嶺家の評判は地に堕ち、東の都の名家たちは「共犯者」と見なされるのを恐れ、次々と距離を置いた。羽生家の姿勢を察した企業群も取引を打ち切り、複数のプロジェクトが中途停止。資金繰りが悪化した小嶺グループの株価は暴落、破産寸前に追い込まれた。焦った小嶺の両親は手持ちの高級車や邸宅を売り払うが、崩れ落ちる経営を支えるには焼け石に水。窮地に陥った小嶺家の両親はふと、乙音のために蓄えていた嫁入り金の存在を思い出し、銀行に駆け込んだが、数ヶ月前に全額が慈善団体へ寄付されていたことを知らされた。団体事務所で騒ぎを起こした翌日、マスコミは「小嶺乙音氏の匿名寄付」を大々的に報じた。二つの話題が炎上する中、小嶺家の状況はさらに悪化した彼らは、小嶺乙音に助けを求めるために、人脈を頼って連絡を試みるが、一向に連絡が取れなかった。そのような状況の中、警察が小嶺家を訪れた。「小嶺美穂さんが小嶺乙音さんに対する殺人未遂の容疑で告発されています。同行をお願いします」崩れかけた一家の神経はここで完全に断絶した。長男の善次は暴力的に抵抗し、現行犯で拘束された。警察が屋敷を捜索するも美穂の姿はなく、ようやく両親は気付いた――家が傾き始めて以来、彼女の姿をほとんど見かけていないことに。親族総出で街を探し回った末、その夜、バーの片隅で彼女は見つかった。泥酔した佐藤青野の腕にすがり、涙で顔をくしゃくしゃにしながら訴えていた。「青野さん、私…善次なんて好きじゃなかった。ずっとあなたを…空港であなたが置いて
小嶺美穂が裁判で有罪判決を受けた日、北都では初雪が降った。乙音は南方育ちで、旅行以外ではこんな大雪を見る機会がほとんどなく、興奮してしまった。彼女は未央を庭に連れ出し、雪合戦を始めた。乙音の勢いに押され、未央は唇を尖らせながら、傍観していた羽生瀬人に文句をぶつけた。「朱に交われば赤く、墨に交われば黒くなる!姉ちゃんはお兄ちゃんと一緒にいるうちに、すっかり影響されちゃって、もう私を可愛がってくれなくなった!全部お兄ちゃんのせいだよ!」小さな雪玉を彼に投げつける未央。瀬人は最初は避けようとしたが、乙音が笑い転げているのを見て、じっと我慢した。未央がすっきりした顔でリビングに駆け込むと、彼はため息をつき、妻の元へ歩み寄った。そして、乙音の真っ赤に冷えた手を自分の服の中に包み込んで温めた。乙音は咳払いをし、わざと厳しい顔を作って言った。「未央の言う通りよ。あなたの影響で私まで悪くなったんだわ。そうでなければ、私みたいに優しくて可愛い人間が、十歳の子をいじめるなんてこと、あるわけないでしょう?」瀬人は頷きながら、何が何でも認める態度で答えた。「はいはい、全部俺が悪い。根っこから歪んでるからね。どんなお仕置きがいい?言ってごらん」彼の素直な態度に満足した乙音は、こっそり手のひらに隠していた雪玉を彼の服の中に滑り込ませ、目を細めて笑った。首元から流れ落ちる冷たさに、瀬人は思わず震えた。彼女の得意げな顔を見て、彼は小さくため息をつく。「俺が悪いんじゃない。未央に影響されたんじゃないか?今じゃ二人がかりで俺をいじめるんだから、たまったもんじゃないよ」そうぼやいていると、老夫人が未央を抱きかかえ、家族全員が庭に出てきた。彼女は瀬人をからかうように言った。「いいんじゃない?瀬人ならいじめられて当然よ、一番年上なんだから!」「そうよ!妹と妻にいじめられるのが、あなたの役目なのよ!」庭は一気に賑やかになった。後ろ盾ができたことで、乙音は瀬人に向かって「ふんっ」と鼻を鳴らした。その時、ポケットの携帯が鳴った。取り出してみると、友達グループのチャットだった。「ニュース見た?小嶺美穂が刑務所行きだって!嬉しいニュースだわ!」「佐藤青野がアルコール依存で胃出血を起こして緊急入院、胃癌の疑いもあるらしいよ。もしこれがデマじ
「何を言うの。あなたが実の娘なのよ。ただ……美穂(みほ)を手放すのは忍びないし、それに知ってるでしょう?善次(よしつぐ)も青野(あおの)君も美穂に夢中なんだから。彼女を嫁がせるなんて無理な話よ」「羽生家はもう式の準備を始めてる。乙音、荷物をまとめて、半月後には北都へ迎えが来るわ」小嶺乙音(こみね おとね)の両親はそっけなく告げ、電話を切った。暗くなった携帯画面を見下ろし、小嶺乙音はテーブルの上の写真に目を移した。両親、兄の善次、幼なじみの青野——ドレスにティアラ姿の自分を中心に囲み、皆が慈愛に満ちた笑顔を向けている。当時、社交界では「小嶺乙音になりたい」が流行り言葉だった。誰もが彼女を羨んだ。宝物のように溺愛する両親、妹を守るために命さえ惜しまない兄、そして自分一筋の幼なじみがいるから。乙音も永遠にこの幸せが続くと信じていた。十八歳の時、ある婚約の存在を知るまでは。祖父が生前に決めた縁談だったが、乙音は青野と互いに想いを通わせていたため、成人したら破談にするつもりでいた。しかし婚約者の羽生瀬人(はにゅう せと)が事故で植物状態に陥った。約束を反故にすれば「信義を捨てた」と非難される。小嶺家は縁談を履行せざるを得なくなった。だが十数年溺愛した娘を植物状態の男の世話にやるのは忍びない。途方に暮れていた小嶺家が思いついたのが、養女を探して身代わりに嫁がせることだった。孤児院育ちで路頭に迷っていた美穂が小嶺家に迎えられる。そして、罪悪感を抱いている小嶺家は美穂を寵愛し始めた。月一億の小遣い、兄が毎日贈る高級品、おさなじみの青野も彼女の望みを何でも叶えた。乙音さえも、自分の全てを譲り渡した。部屋を欲しがれば譲り、トロフィーを求めれば渡し、腎不全で腎臓を要求されても捧げた。だが美穂の本性は卑劣だった。小嶺家に入ってからというもの、乙音を陥れる嘘や罠を繰り返し、たった五年で家族の愛情を全て奪い取った。兄は美穂に、青野は美穂に、両親までが「美穂を嫁がせるのは忍びない」と乙音に婚約の履行を迫る。「約束を破るつもりはない。ただ青野との約束と、実家から遠く離れたくない気持ちがあっただけ。でも皆が美穂を傍に置きたいなら——私が嫁ごう」両親から告げられた日付を確認し、乙音は半月後のカレンダーに赤丸を描き「旅立ち」
乙音が目を覚ますと、病室の窓の外はすっかり暗くなっていた。無人の部屋を見回し、彼女の瞳に冷たい嘲笑が浮かぶ。看護師が検査結果を説明し、翌日の退院手続きを告げて去った後も、枕元の携帯は震え続けていた。美穂からのメッセージだった。数十枚の写真が送られてきている。青野に背負われて帰る姿、善次がエプロンを締めて料理する様子。二人の男性に囲まれたみほの足元には、贈り物の山が写っていた。「お姉ちゃん、善次お兄ちゃんと青野さんが本当に優しいの。私って世界一幸せな女の子かも」乙音は一瞥するだけで返信せず、翌朝退院手続きを済ませて家路についた。玄関を開けると、リビングで映画を観る三人組が目に入った。ソファに挟まれたみほに、善次が果物を、青野が飲み物を手渡している。昨日の階段に広がっていた血痕はきれいに消え、誰の記憶にも留まっていないようだ。乙音は視線を逸らし、黙って自室へ向かった。段ボール箱を引っ張り出し、思い出の品を次々と放り込む。箱が満杯になると、彼女はそれを抱えて庭へ出た。焚き火の炎が上がった時、青野と善次が駆けつけた。「乙音!何をしているんだ!」答えず、箱からベールを取り出す。七歳の頃、公園の砂場で「おままごと」をした日のこと。青野が枯れ枝で作った花冠を差し出し、「大きくなったら絶対俺の嫁になれよ」と真っ赤な顔で宣言した。その時に被せてくれた白いハンカチだ。「これ、燃やすの」炎が布を飲み込む瞬間、次に取り出したのは善次が十五歳の時、高野山の石段を額を擦りながら祈って手に入れたという御守りだった。「お前が熱を出すたびに、俺は――」善次の言葉を遮り、乙音は御守りを火中へ投じた。次はラブレター、クリスタルの靴、ドレス――幼少期からの写真さえも灰に変えていく。青野が腕を掴んだ。「みほは養女だ!あと少しで羽生家に嫁ぐのに、まだこんなことで苛立つのか!お前がみほに譲るべきものくらい――」善次の声も冷たく響く。「乙音、お前の痛みなんてみほの未来の代償に比べれば塵ほどもない。あの子は一生を捧げるんだ」「違うわ」乙音は炎の残り火を見つめた。灰が風に舞い上がり、羽生家に嫁ぐのは自分なのだと、声にならない声で呟いた。翌朝、玄関に積まれた贈り物の山に目もくれず、彼女はゴミ袋に詰め込んだ。かつてなら、善次が徹夜で部屋の前を見張
週末、乙音は静心寺(せいしんじ)を訪れた。この寺のご利益は絶大だと聞き、羽生家の婚約者であるあの人のために祈願しようと思ったのだ。かつては聡明で才気煥発な人だったが、交通事故で植物状態になり、五年もの間昏睡を続けている羽生瀬人。今や彼と運命を共にする身となった以上、たとえ目を覚まさなくても、彼を支えていく覚悟でいた。一生涯、他の誰も選ばないと。一歩一礼、額を石段に擦りつけながらひたすら祈りを捧げる乙音。しかし山腹に差し掛かった時、見知った顔に出くわした。青野と善次──二人は膝から血を滲ませながらも、真ん中の美穂を挟むようにして、彼女が転ばぬよう気を配っていた。三人は乙音と遭遇したことに驚きを隠せず、固まった。美穂は涙ぐんだ声で首元の赤い紐を撫でながら呟いた。「お姉さん……青野さんと善次兄さんが、どうしても私のために祈願したいって……」乙音は返事もせず、ただ石段に額を付けて祈りを続ける。心の中で繰り返す。どうか、私の夫が目を覚ますように。どうか、この人が平穏に過ごせますように。血まみれの膝に眉一つ動かさない乙音の姿に、三人は息を呑んだ。善次はついに彼女の腕を掴み、「お前は生まれながらの箱入り娘だろうが!頂上まで一万段近くあるんだぞ?誰かの命を救われたわけでもないのに、そこまでする価値があるのか!」乙音は嗤った。「美穂は二人の命の恩人なの?」青野が反射的に言い返す。「美穂は……俺にとって特別だ」十七歳の時、「佐藤青野は小嶺乙音だけを愛する」と告げた男が、今は別の女を「特別な人」と呼ぶ。乙音は笑いながら頬を濡らした。「そうね。だから私が祈る人も、私の『特別』なのよ」袖を払い、再び石段に跪く乙音。その背中に善次は複雑な表情で呟いた。「俺のために……?ならもういい。兄貴はお前に苦労させたくない」青野も痛々しい視線を投げかけた。「乙音、やめろ」彼女は無言で二人を一瞥し、はるか頂上を見据えて礼を続けた。あまりの覚悟に、善次と青野は初めて美穂を置き去りにし、後を追った。日が傾きかけた頃、ようやく頂上に辿り着いた乙音。膝の傷から血が滲む中、願いを書いた赤い布を御神木に結びつけた。後から駆けつけた二人が布に記された「H.S」の文字を見た瞬間、顔色が変わる。「こいつは誰だ……!」青野が乙音
乙音は理解できなかった。先程まで美穂が「特別な人」だと言っていたのに、なぜ彼は今、こんなに嫉妬深く情熱的な顔をしているのか。彼女が口を開こうとした瞬間、横にいた美穂が突然、何もないところで転んだ。「あっ!」床に倒れた美穂を見て、佐藤青野と小嶺善次は答えを聞くどころではなく、慌てて駆け寄り彼女を支えようとした。美穂は涙を浮かべ、二人の手を優しく振り払う。「お兄ちゃん、青野さん……二人とも怪我してるのに、私のことなんか気にしないで」そう言うと、乙音の方へ瞳を向けた。「お姉さん、中まで支えてくれない?少し休みたいの」返事を待たず、彼女は乙音に体を預けてきた。乙音は反射的に振り払おうとしたが、力が入らず、ただ重い体を支えるしかなかった。拱門を曲がった途端、美穂は乙音の腕を掴み、それまでの弱々しい態度から一転、挑戦的な笑みを浮かべた。「お姉さん、こんな小細工で二人の注目を引けると思ってる?夢見てるわよ」乙音が言葉を探していると、美穂は突然自分の頬を何度も叩き始め、泣き叫んだ。「お姉さん、私が悪かった!ごめんなさい、もう叩かないで!」「お兄ちゃんも青野さんも、もう奪わないから……お願い、許して!」甲高い声が響き、すぐ近くにいた善次と青野が駆けつけた。二人の目に飛び込んだのは、頬に赤い掌痕が浮かび、涙でぐしゃぐしゃの美穂だった。善次は怒りに震え、乙音を強く押しのけた。力のない彼女は花壇に頭を打ち付け、額から血が流れ出た。青野の視線は冷たかった。「乙音!美穂は幼い頃から苦労してきたんだ!養女として程家に来ても、ずっと我慢して……お前は何不自由なく育ったのに、なぜ彼女を責める?あと十日余りで彼女は羽生家に嫁ぐ。まだ邪魔する気か!」善次の声も荒れていた。「青野、遠慮するな。本当に酷すぎる……乙音、前から美穂に因縁つけてたが、もう大人だろ?彼女が嫁ぐ今更、何が面白い!こんな妹がいるなんて……」乙音はもう痛みを感じないと思っていた。だが「酷すぎる」「邪魔する」という言葉が臓腑を抉り、窒息するような苦しみが爆発した。「私じゃない……彼女が自分で仕組んだの!監視カメラがあるはずよ、確認して……」言葉を遮るように、美穂が顔を覆って泣き叫んだ。「お兄ちゃん、青野さん……頬が痛い。傷跡、残らないよね?それに、さっきの『結婚式』って何
小嶺美穂が裁判で有罪判決を受けた日、北都では初雪が降った。乙音は南方育ちで、旅行以外ではこんな大雪を見る機会がほとんどなく、興奮してしまった。彼女は未央を庭に連れ出し、雪合戦を始めた。乙音の勢いに押され、未央は唇を尖らせながら、傍観していた羽生瀬人に文句をぶつけた。「朱に交われば赤く、墨に交われば黒くなる!姉ちゃんはお兄ちゃんと一緒にいるうちに、すっかり影響されちゃって、もう私を可愛がってくれなくなった!全部お兄ちゃんのせいだよ!」小さな雪玉を彼に投げつける未央。瀬人は最初は避けようとしたが、乙音が笑い転げているのを見て、じっと我慢した。未央がすっきりした顔でリビングに駆け込むと、彼はため息をつき、妻の元へ歩み寄った。そして、乙音の真っ赤に冷えた手を自分の服の中に包み込んで温めた。乙音は咳払いをし、わざと厳しい顔を作って言った。「未央の言う通りよ。あなたの影響で私まで悪くなったんだわ。そうでなければ、私みたいに優しくて可愛い人間が、十歳の子をいじめるなんてこと、あるわけないでしょう?」瀬人は頷きながら、何が何でも認める態度で答えた。「はいはい、全部俺が悪い。根っこから歪んでるからね。どんなお仕置きがいい?言ってごらん」彼の素直な態度に満足した乙音は、こっそり手のひらに隠していた雪玉を彼の服の中に滑り込ませ、目を細めて笑った。首元から流れ落ちる冷たさに、瀬人は思わず震えた。彼女の得意げな顔を見て、彼は小さくため息をつく。「俺が悪いんじゃない。未央に影響されたんじゃないか?今じゃ二人がかりで俺をいじめるんだから、たまったもんじゃないよ」そうぼやいていると、老夫人が未央を抱きかかえ、家族全員が庭に出てきた。彼女は瀬人をからかうように言った。「いいんじゃない?瀬人ならいじめられて当然よ、一番年上なんだから!」「そうよ!妹と妻にいじめられるのが、あなたの役目なのよ!」庭は一気に賑やかになった。後ろ盾ができたことで、乙音は瀬人に向かって「ふんっ」と鼻を鳴らした。その時、ポケットの携帯が鳴った。取り出してみると、友達グループのチャットだった。「ニュース見た?小嶺美穂が刑務所行きだって!嬉しいニュースだわ!」「佐藤青野がアルコール依存で胃出血を起こして緊急入院、胃癌の疑いもあるらしいよ。もしこれがデマじ
羽生家と小嶺家が絶縁したとの報が広まると、社交界は震撼に包まれた。つい先日、両家が縁組を果たしたばかりだったからだ。誰もが、ようやく意識を取り戻したばかりの羽生瀬人がここまで激怒した理由を探り始めた。やがて、小嶺家が養女を偏愛し実の娘(羽生家に嫁いだ小嶺乙音)を冷遇したため、瀬人が妻を守るために義理の実家を叩いた――そんな噂が流れ始めた。男尊女卑は珍しくないが、養女のために実子を粗末に扱う話は耳目を引き、瞬く間に広まった。同時に再燃したのが、数ヶ月前の誕生祝宴のスキャンダルや、小嶺乙音が巻き込まれた「事故」が人為的なものだったとする疑惑だ。好事家たちが情報をまとめた文書には、読む者皆が小嶺家を非難せずにはいられない内容が綴られていた。小嶺家の評判は地に堕ち、東の都の名家たちは「共犯者」と見なされるのを恐れ、次々と距離を置いた。羽生家の姿勢を察した企業群も取引を打ち切り、複数のプロジェクトが中途停止。資金繰りが悪化した小嶺グループの株価は暴落、破産寸前に追い込まれた。焦った小嶺の両親は手持ちの高級車や邸宅を売り払うが、崩れ落ちる経営を支えるには焼け石に水。窮地に陥った小嶺家の両親はふと、乙音のために蓄えていた嫁入り金の存在を思い出し、銀行に駆け込んだが、数ヶ月前に全額が慈善団体へ寄付されていたことを知らされた。団体事務所で騒ぎを起こした翌日、マスコミは「小嶺乙音氏の匿名寄付」を大々的に報じた。二つの話題が炎上する中、小嶺家の状況はさらに悪化した彼らは、小嶺乙音に助けを求めるために、人脈を頼って連絡を試みるが、一向に連絡が取れなかった。そのような状況の中、警察が小嶺家を訪れた。「小嶺美穂さんが小嶺乙音さんに対する殺人未遂の容疑で告発されています。同行をお願いします」崩れかけた一家の神経はここで完全に断絶した。長男の善次は暴力的に抵抗し、現行犯で拘束された。警察が屋敷を捜索するも美穂の姿はなく、ようやく両親は気付いた――家が傾き始めて以来、彼女の姿をほとんど見かけていないことに。親族総出で街を探し回った末、その夜、バーの片隅で彼女は見つかった。泥酔した佐藤青野の腕にすがり、涙で顔をくしゃくしゃにしながら訴えていた。「青野さん、私…善次なんて好きじゃなかった。ずっとあなたを…空港であなたが置いて
瀬人は彼女の話が終わらないうちに遮った。「乙音、君はもう俺の嫁だ。君のことは羽生家全体の問題でもある。祖母が動いたのは家のためだ。謝る必要はない。小嶺家との縁切りも昨夜父と祖母が決めたことだ。あの協力関係は元々政略結婚が前提だった。実の娘すら慈しめない連中が、商売の場で信用できると思うか?早めに手を引くのはリスク管理だ。全てを自分で背負おうとするな」事情を理解した乙音の胸の重りが少し軽くなった。涙は自然に止まっていた。瀬人がハンカチで彼女の頬を拭う指先は、雪解けの川のように優しかった。その瞳に浮かぶ痛惜の色を見て、乙音はふと問いたくなった。「出会って一ヶ月しか経ってないのに……なぜここまでしてくれるの?私が嫁ぐと決まってたから?」彼の手が微かに止まり、額を撫でる指が温もりを残した。「一ヶ月じゃない。君が覚えてるのが一ヶ月分だけなんだ」声が柔らかく波打つ。「七歳までの俺の世界には、君しかいなかった。大人たちが仕事に追われてるから、善次の面倒を見ながら、掌サイズの妹が背中にくっついて『瀬人にぃ』と呼ぶのを、毎日見守ってた。東の都を離れる日、君は声が枯れるまで泣いて、ついて来たいと駄々をこねただろう?『必ず迎えにくる』と約束したのに……果たせなかった。それでも、結局ここに来てくれた」三歳頃の記憶は霞んでいた。けれど彼の確信に満ちた視線を見れば、嘘ではないとわかる。忘れていた歳月の向こうに、確かに大切な兄がいた。千里を隔てても、約束を破らなかった青年が。新婚の家に戻った時、既に灯りが揺れていた。「この家は瀬人が最初に稼いだ金で買ったんだ」瀬人が廊下を案内する背中に、老夫人の言葉を思い出す。五年間空き家だった洋館の内装は全て彼の手によるものだという。「小さい頃『大きな庭に薔薇と百合と…』って、花の名前を延々並べていただろ?足りないものはないか?」「顔や服に落書きして『画家になったら瀬人にぃの肖像画を描く』って宣言してたから、画室も作っておいた」「ピアノに凝った時は、毎日四手連弾の練習だと騒いでたな。あの頃から俺も練習してたが、五年寝てたから腕が鈍った。また教えてくれないか?」過去の話に耳を傾けながら、乙音の胸の空洞が少しずつ埋まっていく。二人の影が床で絡み合うのを見上げ、彼女は睫を濡らした。「急がなく
小嶺家の人々の醜い姿を目の当たりにして、瀬人は初めて乙音がこれまでどんな苦しみを味わってきたのか理解した。彼は彼女の手を握り、自分の背後に隠すようにしながら、逆上した小嶺家の面々を冷たい目で見据えた。「乙音はもう羽生家に嫁いだ。今日から彼女と小嶺家の縁は一切ない」二人の密やかな仕草を見て、小嶺家の者たちはこれが羽生瀬人だと瞬時に悟った。人前で若輩者に諭される小嶺夫婦の顔が歪んだが、羽生の老夫人が居座っているのを慮り、無理やり理屈を捏ねるしかなかった。「苗字を変えようが、この子の体には小嶺家の血が流れてるわ!身内が叱るのは当然だ」瀬人が反論しようとした瞬間、乙音がそっと袖を引いた。彼女は一歩前に出ると、すっかり変わり果てた肉親たちを静かに見つめた。「私が苗字を変える必要なんてある?この名前はお祖父様がつけてくれたもの。羽生家との縁だって、お祖父様が決めてくれたこと。あなた達には何の関係もないわ」喉元で震える声を抑え、彼女は掌の傷痕を握りしめた。「小嶺家の娘、小嶺善次の妹は、四十五日前にあなた達の大事なお嬢様・美穂の車に轢かれて死んだ。縁も情けも、その日に全部断ち切れたの。私が恩知らずだと思うのなら、お祖父様の墓前で跪いてみたら?あの方があなた達の所業を許してくださるかどうか」小嶺夫婦の顔が紅潮し、罵声を浴びせようとしたその時、羽生老夫人の怒声が庭に響き渡った。「いい加減にしろ!ここは北都だ。乙音はわしの孫嫁。お前たちに何の権利があって」瀬人のお父さんが母親の目配せを読み取り、護衛たちに手を振ると、小嶺家の者たちはたちまち包囲された。追い出されかけた美穂が逆上して叫びだした。「羽生の姓を盾に威張り散らすんじゃないわ!小嶺家だって東の都では名の通った家柄よ!ここまで踏みにじるなら、もう縁もゆかりもないわ!」その言葉に、黙っていた青野の表情がこわばる。小嶺家の者たちも目を見開いたが、瀬人の冷徹な声が彼女の言葉を切り裂いた。「ならば望み通りに。神崎さん、今日をもって羽生グループと小嶺グループの全プロジェクトを停止せよ。業界に通達しろ——今後一切の取引はないと」護衛に囲まれながら退出する一行を、乙音は俯いたまま見送った。羽生家の人々が怒りを収め、彼女に寄り添う。「心配するな、乙音ちゃん。おばあちゃんがついて
半月にわたる苦労の末、無事に結婚式を終えた羽生家の老夫人は、ようやく長年の胸のつかえが下りたように深く息をついた。帰路の車中で目を閉じて休んでいると、突然の喧噪が彼女の耳を掻き乱した。眉を寄せて窓の外を見やると、駆けつけた執事が事の次第を詳しく報告してきた。「お婆様、半時間前に別邸の前に一団が押し掛けまして……奥方様の実家の者と称し、どうしてもお目にかかりたいと騒ぎ立てております」小嶺家の者か。老夫人はその名を聞くだけで、孫の羽生瀬人から伝え聞いた数々の顛末が脳裏をよぎり、祝い事で明るかった表情が一気に曇った。後に座ったの羽生家ご夫妻も顔色を変え、老夫人に付き添いながら車を降りた。遠目に、久方ぶりに再会した年長者たちの姿を認めた小嶺夫妻は、さっきまでの威勢をすっかり失っていた。近づくにつれ態度はますます萎縮し、か細い声で「伯母様」と呼びかけるのが精一杯だった。老夫人は数人を一瞥すると、静かな怒気を湛えて言い放った。「この老いぼれが、小嶺の者から伯母様などと呼ばれる覚えはない」幼い頃から目を掛けていた年長者に叱責され、小嶺夫妻の顔が青ざめた。慌てて言い訳を始める。「誤解でございます!乙音と瀬人様のご婚礼の報に接し、招待状が届かぬためお伺いしたまでで……」「招待せぬのは歓迎せぬ意思の表れ。その道理もわからぬか?」浴びせられた罵声に、小嶺家の者や青野は蚊の鳴くような声も出せない。ただ一人、羽生家の権勢を知らぬ養女・小嶺美穂だけが憤りを抑えきれず、猛然と反論した。「乙音は両親の実の娘です!身内すら招かぬ婚礼など聞いたことがない。ましてや瀬人様は植物状態と伺っています。婚約破棄しないだけでも寛大なのに、こちらの好意を無下になさるなんて……」突如の暴言に小嶺夫妻は真っ青になり、慌てて娘の口を塞ごうとしたが、時すでに遅し。羽生家の人々は一言一句聞き逃さなかった。老夫人は彼女の素性を即座に見抜き、鼻で笑った。「これがお前たちが溺愛する養女か。小嶺家の先代が、粗野で愚鈍な娘のために大切な孫娘を虐げるとは知ったら、墓場から飛び起きるだろうよ」母の本気の怒りに、瀬人のお父さんも前に出て旧友一家を見下すように言い放つ。「羽生と小嶺の縁組は、小嶺家先代と母上の約束。五年前に瀬人が事故に遭った際、我々は破談を申し出
正午十二時、非公開の結婚式が静かに幕を開けた。記者の撮影は禁止されていたが、早朝から一部の新聞社が噂を嗅ぎつけ、ホテル外で撮影した写真を即座に掲載した。#羽生瀬人回復し目覚める、小嶺家令嬢・乙音と本日結婚東の都にいた善次は、目覚めてすぐこのトレンドを目にし、呆然とした。羽生瀬人が目を覚ました?それなのに、なぜ乙音は家族に一言も伝えなかったのか?両親からは「式は半月後」と聞かされていたはずなのに、なぜ今日のニュース?仮に本日が式だとして、なぜ女方の親族を招待しなかった?疑問が重なり、善次は乙音に連絡を試みた。しかし電話をかけると、自身がブロックされていることに気付いた。驚きと怒りが込み上げるが、千里離れた地ではどうしようもない。仕方なく、北都に飛んだばかりの佐藤青野に連絡を取った。電話が繋がると、喧騒が聞こえた。青野は誰かと口論しているらしく、苛立った声で応じる。「用は?」「乙音に会えたか?ニュースでは今日結婚だと……家族にも告げず、俺をブロックしたんだぞ」同じくブロックされていた青野はホテル外で警備員たちと押し問答をしており、領带を乱しながら眉を曇らせた。「今日だ。あいつはまだ俺たちに怒ってる。親族を招待する気など最初からなく、『今後は縁を切る』と言いやがった」青野の声が荒れていたため、善次は冗談かと疑ったほどだ。乙音が縁を切ると?ありえない。同じ血を分かち、二十余年も溺愛してきた家族ではないか。嫁いだ途端に縁を断つなど、常識を逸している。善次の怒りは頂点に達し、即刻四人分の航空券を手配し、小嶺家を連れて北都へ向かった。到着して現場に駆けつけると、青野は未だ門前で警備員に阻まれ、頬に擦り傷を負っていた。その姿を見た小嶺家の面々は、さらに表情を険しくした。小嶺家の父は警備員の前に立ち、威圧的に手を振った。「新婦の実家の者だ。通せ!」警備員たちは顔を見合わせ、上層部から伝えられた言葉を繰り返した。「招待状の提示が必要です。お持ちでしょうか?」小嶺家が招待状など持っているはずもない。警備員の融通の利かなさに、善次の苛立ちは募った。「乙音を呼べ!両親や兄嫁を認めないのか?羽生家の者もだ!結婚式という大事な場に女方の親族を招かぬとは、何事だ!」乙音の醜態を見よう
帰り道、車内は静まり返っていた。瀬人は何も尋ねず、明日の結婚式の段取りを執事の神崎さんにメッセージで確認している。この一ヶ月の同居で、乙音は彼が礼儀をわきまえ、私事に干渉しない性格だと知っていた。これまで黙っていたのは、過去が恥ずかしく、口に出すのも苦痛だったからだ。だが今、式の準備に忙しい彼の姿を見て、彼にも知る権利があるとふと思った。夕食後の休息時間に、乙音はわざわざ彼を訪ね、これまでの経緯を全て話した。すっかり心が軽くなっていたのか、語るうちに感情の起伏はなく、他人事のように淡々としていた。しかしその話を聞いた瀬人は胸を締め付けられた。彼女の手を強く握り、掌の温もりを伝えた。「もう乗り越えたのはわかってる。でも、俺に打ち明けてくれてありがとう。俺が昏睡していた五年間、君も苦しんでいたんだね。今は全部終わった。また巡り会えたんだから、これからは俺がいる」今回は乙音は泣かなかった。テーブルに飾られたウェディングフォトを見つめ、生まれて初めて「式」というものに心から憧れを抱いた。二人が寄り添い、貴重な平穏を味わっているとき、乙音の携帯が激しく鳴り始めた。佐藤青野だった。狂ったように電話とメッセージを繰り返す。『乙音、俺が悪かった。許して、もう一度チャンスをくれないか』『羽生瀬人と結婚するな。本当は好きじゃないだろ?俺への当てつけだろ?』『昔約束したじゃないか。俺の花嫁になると』メッセージを読み進めるうち、乙音は呆れ果てた。隣の瀬人も特に動じず、ただ奇妙に思っている様子だった。乙音の話では、二人は相思相愛だったが、最後の一線を越えずにいた。彼女を想っていたはずの男が、小嶺美穂が現れると態度を曖昧にし、次第に彼女に傾いていった。今になって結婚を前に急に後悔し、懇願するとは。「彼の中で私って何だったんだろう。美穂は?」乙音も長くこの問いに向き合ってきた。昔の乙音は、どうして人の心があんなに移り気なのか、どうしても腑に落ちなかった。だが今は小嶺家の四人と青野を見透かしている。彼女は静かに分析した。「小嶺家にとって、血は繋がっていても、私は『いずれ嫁ぐ他人』。幼い頃は可愛がられても、成人すれば『よそ者』扱い。そこに年下の美穂さんが現れ、『娘』の穴埋めをした。彼女が善次に気に
青野の顔色はその言葉で真っ白に変わった。「叔父さんも叔母さんもあなたの両親だ。善次は兄、美穂は妹。二十年以上の絆があっただろう?乙音、どうしてそんなことを言うんだ?」乙音は薄く笑い、瞳に嘲りの色を浮かべた。「そう?本当の娘であり妹は、美穂じゃないの?青野さんと一緒に育ったのは美穂でしょ?」彼女の皮肉を込めた口調に、青野はここ数ヶ月の出来事を思い出し、胸に後悔が込み上げた。慌てて言葉を継いだ。「乙音、なぜ美穂と比べるんだ?確かに彼女を優先したことはある。でもそれは羽生家との縁談を彼女が引き受けてくれたからだ。埋め合わせをしたかっただけだよ。美穂が来る前は、君だって同じように──」美穂の話題になると決まって同じ台詞。乙音は耳にタコができるほど聞かされた。彼が「美穂」を連呼する様に冷たい声を放つ。「明日から私は小嶺家とも、あなたとも縁が切れる。誰を贖いたかろうと知らないし、聞きたくもない」「そんな意地を張って地獄へ飛び込む価値があるのか?落ち着いてくれ。東の都に戻ろう。二度と同じことは繰り返さないと約束する!」焦りから青野が手を伸ばすと、乙音は数歩下がり距離を取った。「要らない。東の都には二度と足を踏み入れない。帰って」決意に満ちた冷たさに、青野の心の奥に残った希望も沈んでいった。代わりに湧き上がったのは理解不能な怒りだった。「ここまで突き放さないと駄目なのか?逃げ道すら作らないのか?」「逃げ道?」乙音はふっと笑った。彼女にはとっくに逃げ場などなかった。小嶺家は、果てしない道か、深淵か。決して安息の地ではなかった。ふと視線を移すと、状況を窺う瀬人の姿があった。その瞬間、不思議と心が落ち着くのを感じた。「その逃げ道は美穂に譲るわ。いえ、今は『小嶺夫人』かしら」「小嶺夫人」という言葉に青野の目が揺れるのを見て、乙音は可笑しくなった。「善次と美穂はもう入籍したんでしょ?東の都に帰ったら伝えてちょうだい。私の結婚式には招待しないから、彼らの式にも呼ばないでって。これからは…それぞれの道を行きましょう」残した言葉を置き去りに、乙音は振り返らずに去った。呆然と立ち尽くす青野がスマホを取り出すと、美穂のSNSの投稿が目に入った。【これからの人生、よろしくね】善次と並んで婚姻届を持つ写真。それを見
「美穂、もう一日だけ待ってくれ。これらのことは、乙音を東の都に連れて帰ってから相談しよう」美穂の顔色が、徐々に血の気を失い、真っ青になっていった。唇を噛み締め、瞳には冷たい決意が宿る。善次がまだ慰めようとするのを遮り、彼を空港の外へ引っ張っていった。「善次兄さん、私たち、養子縁組を解消して、それから入籍しましょう!」冗談ではないと悟った善次は一瞬凍りついたが、次の瞬間、喜びに包まれた。急いで実家へ向かう二人。善次の両親は彼らの決意を聞いて喜び、すぐに手続きを済ませた。婚姻届を手にした途端、養女は嫁となった。老いた両親は乙音に報告しようと電話をかけるが、彼女の反応は淡泊だった。「……ふうん、そう」不満を隠せない母の声が苛立つ。「お兄さんの結婚になんで祝福しないの?美穂さんはもうお義姉さんなんだから、これからは意地悪なんかしないでね」私が美穂さんをいじめてたって?乙音は嗤いを零した。式場のリハーサルが迫っている彼女は、話を早く切り上げるため適当に言葉を続けた。「じゃあ、おめでとう。末永く幸せに、早く赤ちゃんできて、ずっとラブラブで。これで満足?」両親がようやく納得し、今度は彼女の結婚式の日付を問い詰めてきた。ローズガーデンが広がる式場を見やり、乙音は思いつきで答える。「半月後よ」「じゃあ、その時は兄さんたちも参列するから、招待状を送っておくれ」司会のマイクチェックが始まる中、乙音は適当に相槌を打って電話を切った。冷房の効いたホールで、待ちくたびれた羽生瀬人が上着を彼女の肩にかけた。「今日は一日疲れただろう?明日も早いから、リハーサル終わったらすぐ帰ろう」確かに足元がふらつく乙音が頷くと、リハーサルは四時に終了。二人が手を繋いでホテルを出た瞬間、聞き慣れた声が背後から響いた。「乙音……結婚するって、なぜ俺に教えなかった?」振り返ると、慌てた様子で車から飛び降りてくる青野の姿。彼が手を伸ばそうとする寸前、瀬人がさっと乙音を背後に護った。青野の目が冷たく光る。「誰だ?俺が話しているのは乙音だ。どけ」初対面の二人の間に火花が散る。乙音は青野の突然の訪問に戸惑いながらも、過去の因縁に瀬人を巻き込みたくないと、乙音は彼の手を握りしめた。「瀬人さん、車で待っていて。すぐ戻るから」その名前を聞い