第5話

広間は広々としていたが、静也の周りの空気は凍りつき、誰もが息苦しさを感じていた。

彼は黙り込んでいたが、誰もが彼の怒りを感じ取っていた。

タバコケースを取り出し、一本を挟んで火をつけた。

白い煙が彼の顔を包み込み、その朦朧とした煙越しに知美を見つめる眼差しは測り知れなかった。

「出て行け」

彼は冷たく言った。

続いて、宮本会長も不機嫌そうに手を振った。

葉子は知美を支え起こした。

知美は自分の手を引き離し、まっすぐに広間の中央に立って力強く言った。

「私がここにいることでご迷惑をおかけしているなら、すぐに出て行きます。

会長様、長年のご厚情、ありがとうございました」

去るならば、潔く、品位を保って去りたかった。

もう前世のようにおどおどと恐れおののくことはない。

言い終わると、知美は背を向けて立ち去った。

その後ろ姿に注がれる視線は、危険で冷酷なものだった。

広間を出ると、大量の避妊薬による胃腸の反応が襲ってきて、めまいと吐き気が込み上げた。

知美は数歩も歩けないうちに、意識を失ってしまった。

目を覚ますと、葉子が目を赤くしてベッドの傍らに座っていた。

知美が目を覚ましたのを見ると、すぐに平手打ちを食らわせた。痛くなく、くすぐったいような感じだった。

「どれほど心配したかわかる？薬を勝手に飲んじゃダメでしょう？」

「お母さん、飲まなければ、私は一生宮本家から出られないわ」

知美は弱々しく言った。

「知美ったら......不幸な子！

前から言ってたでしょう。もっと早く御曹司たちと付き合ってって。もし良い結婚ができたら、安定した生活が送れたのに」

葉子は諭すように言った。

「お母さんみたいに？」

どこが安定した生活なのか。

葉子は何か言いかけて止めた。

その時、ドアが開き、岩雄がお粥を持って入ってきた。

「知美、目が覚めたのか。ほら、少し食べて、胃も落ち着くだろう」

知美が礼を言おうとした時、岩雄の耳に傷があるのに気付いた。

傷跡から見ると、何か鋭いもので投げつけられたようだった。

きっと宮本会長だ。彼はずっと次男の分家を疎んじてきた。次男の鈍さを嫌い、さらに連れ子のいる女を妻に迎えたことも気に入らなかった。

「義父さん、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。すぐに宮本家から出ます」

知美は申し訳なさそうに言った。

「何言ってるの！」

葉子は不機嫌そうに遮った。

岩雄は彼女の肩を軽く叩いた。

「医者が言うには、知美が目を覚ましたら薬を飲まないといけないよ。

温かい水を汲んでくれないか」

葉子はすぐに立ち上がり、部屋を出た。

岩雄はベッドの傍らに座り、小さくため息をついた。

「知美、本当に宮本家から出るつもりなのか？」

「私がここにいれば、義父さんとお母さんに迷惑がかかることになります。

もう大人なんです。自分のことは自分で守れます」

「俺が情けないせいだ」

岩雄は一枚のカードを取り出し、知美の枕の下に滑り込ませた。

「遠慮するな。若い女性が外で暮らすにはお金がかかるものだ。

暗証番号は君の誕生日だ。外では気をつけろよ。何かあったら俺たちに電話しなさい」

「ありがとうございます、義父さん」

知美は感謝の気持ちを込めて言った。

岩雄は知美を見つめながら突然言った。

「今日の静也は変だったね。あまりにも異常よ」

「どういうことですか？」

知美は首を傾げた。

「知美が気を失ったと葉子が叫んだ時、静也が飛び出してきて、知美を抱いて行ったんだ。

父さんが人を呼んで君をここに連れ戻すように言わなければ、今頃まだ彼の屋敷で横になっていたかもしれないよ」

「え？」

知美は驚いて布団を握りしめた。

「心配するな、静也はお前が宮本家で死んだら噂になると言っていた」

「そうですか」

それこそ静也らしい、と知美は苦笑した。

昨夜のことはまるで夢のようだった。

知美は薬を飲んで少し休んだ後、すぐに荷物をまとめ始めた。

出発する時、葉子を避けた。さもないと、泣き叫ぶことになるだろうから。

宮本邸を出る時、使用人たちは皆頭を下げて、彼女との関わり合いを避ける様子だった。

玄関に立ち、徐々に暗くなる空を見上げた。この長い一日がようやく終わろうとしていた。

京市の秋は早く訪れた。夕暮れの風が寒々しく吹いていた。

知美はバッグの紐を握りしめ、足早に歩き出した。

宮本邸は独立した庭園式の邸宅で、京市の一等地にありながら、外部からの干渉を避けるため、宮本家は周辺の土地も買い取っていた。

周囲には私設の公園が整備され、時々一般公開されることもあった。

しかし、地下鉄もバスも、タクシーさえもほとんど見かけない場所だった。

知美がどんなに急いでも、最寄りの駅まで20分はかかるだろう。

彼女は風に向かって街灯の下を歩き始めて数分後、後ろから車のクラクションが鳴った。

知美は反射的に道の端に寄った。しかし、予想に反して車は彼女の横に停まった。

「知美お嬢様、お乗りください」

車窓が下がり、見覚えのある顔が覗いた。静也の秘書、田中慎一（たなか しんいち）だった。

知美は少し驚き、後部座席を見やった。ルビーの指輪をはめた手が膝の上で軽く叩いている様子が見えた。明らかに苛立っているようだった。

宮本静也だ。

知美は彼とこれ以上関わりたくなかったので、首を振って言った。

「結構です。お気をつけて行ってください」

彼女はバッグの紐を引っ張り、前に進もうとした。しかし、後ろから田中が素早く車を降りて知美の行く手を遮った。

礼儀正しい笑顔を浮かべながら穏やかな口調で言った。

「お嬢様、どうかお乗りください。これはお嬢様のためでもあります。

三男様が言うには、お嬢様がこのように、荷物を持って出て行くところを誰かに見られたら、誰にとっても良くないです。

もしお断りなら、私なりの方法で乗っていただくことになります」

知美はバッグを強く握りしめて、後部座席の窓を見ると、真っ暗で何も見えなかった。

しかし、静也が彼女を見ていることは分かっている。

静也の手腕は京市で悪名高い。前世でも、彼女はその一端を経験していた。

本当に対立すれば、彼がどうするか想像に難くない。

知美の体から一瞬で熱が引いた。全身が冷え切ったような感覚だった。

せっかく人生をやり直せたのに、また静也の怒りを買いたくはなかった。

知美は頷き、助手席へ歩み寄った。しかし、田中によって後部座席に押し込まれた。

座るや否や、車内にアルコールの匂いが漂っていることに気付いた。

不審に思って見ると、静也のすらりとした体が椅子に寄りかかり、目を半分閉じていた。薄暗い中、彼の顔の大半が影に隠れていた。

危険で冷酷な雰囲気を醸し出していた。

静也はまぶたを少し持ち上げ、淡々と言った。

「宮本家から逃げるつもりか？」

彼の声には感情がこもっていないが、それでも知美は喉に何かが詰まったような感覚を覚えた。

しばらくして、その感覚の正体に気付いた。

それは前世で、彼が彼女を罰する時に言った「逃げたいのか？そう簡単にはいかないぞ」という口調にそっくりだった。

知美は憎しみを押し殺し、少し体を動かした。返事をしようとした時、スマホが鳴った。

葉子からだった。

知美は出たくなかった。葉子がまた機会を逃したと文句を言うのが心配だった。

しかし、静也の視線が既に向けられ、眉をひそめていた。

知美は仕方なく電話に出た。

「知美！なんで家出なんてするの？

何か不満でもあるの？私がそんなに知美を粗末に扱ったっけ？」

葉子の声は詰まり気味で、一言一言にどうしようもない気持ちが滲んでいた。

彼女も自分には娘を守る力がないことを理解していた。

「お母さん、大丈夫。ちゃんと自分の面倒は見られるから」

「知美......気をつけてね」

葉子はため息をつき、しぶしぶ妥協した。

「知美、それなら.....岩雄に頼んで、お見合いをしませんか。

一人で外にいるより、頼れる男性がいた方がいいでしょう。

岩雄なら、知美に合った人を探してくれるはずよ」

また葉子の説教が始まった。

知美は横目で静也を見たが、彼の表情は闇に紛れて読み取れなかった。

既にびくつきながら、慌てて「じゃあね」と言おうとした。

葉子は珍しく強気に出て、続けた。

「ごまかさないで。知美のためを思って言ってるのよ。

決まりよ。数日後にお見合いに......」

「お母さん！切るわ」

知美は即座に電話を切った。

前世でも、葉子はお見合いを持ちかけてきたことがあった。

でも、彼女と静也の一件があって、それは立ち消えになった。

静也について考えると......彼は聞いていなかっただろうか？

聞いていても構わないだろう。彼が気にするわけがない。

しかし、車内は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほど、静けさに包まれた。

街灯の光が木の枝で分断された。その光が車窓からまだらに差し込み、静也の深い輪郭を滑り抜けた。

知美は針のむしろに座っているような落ち着かなさを感じ、思わず手を強く握りしめた。

すると、軽い嘲笑が聞こえた。

「お見合い？

知美、昨夜のお前の言葉には、一つでも本当のことがあったのか？」