「山田さん、そんなに焦らなくていい。時間はまだあるんだから」 修は静かに言った。 「医者の指示をちゃんと守れば、これから医学がもっと進歩するかもしれない。人工心臓が普及する可能性だってある......だから、そんなに悲観するな」 その言葉に、侑子の心は少しだけ軽くなった。 「......藤沢さん、本当にごめんなさい。こんな夜遅くに、わざわざ来させて......迷惑かけちゃったね」 「......気にするな」 外では、激しい雨が降り続いていた。 修は窓の外を見つめ、ふっとため息をつく。 「......山田さんは、テレパシーって信じるか?」 「......テレパシー?」 侑子は首をかしげた。 「どうして急にそんな話を?誰かと心が通じ合ってるって思うことでもあったの?」 修はポケットから財布を取り出し、一枚の写真を引き抜く。 映っていたのは、若子の姿だった。 「......さっき、急に前妻のことを思い出した。胸が締めつけられるように苦しくなって......腹のあたりまで痛んだ」 侑子はベッドのヘッドボードにもたれながら、彼の背中をじっと見つめる。 「......それって、ただ単に彼女を思いすぎてるから、そんな気がするだけじゃない?」 修は小さく息を吐く。 「......かもしれないな」 そう言いながら、写真をそっと財布に戻す。 侑子の目が、寂しげに揺れた。 修はそんな彼女を一瞥し、静かに言った。 「もう休め」 「......じゃあ、藤沢さんは?」 「お前が寝たら帰るよ。だから、先に休め」 修はソファに腰を下ろし、胸のあたりを押さえた。 ―痛い。 まるで心臓をえぐり取られるような感覚だった。 衝動的に、修は立ち上がった。 そのまま病室のドアを開け、駆け出す。 「......えっ?」 侑子が呼び止める間もなく、彼の姿は消えていた。 ―藤沢さん、さっきは「お前が寝たら帰る」って言ってたのに。 なのに、どうして......今すぐに? ...... ドンドンドンドン―! 夜の静寂を破る激しいノックの音に、光莉は目を覚ました。 「......んんっ?」 寝ぼけたまま体を起こし、心臓がドキドキと早鐘を打つ。 一体、こんな夜中に誰が―
出産室には、女性の悲痛な叫び声が響き渡っていた。 「深呼吸して!もうすぐ赤ちゃんが出てくるわ、頑張って!」 「っ......はぁ、はぁっ......!」 若子は息も絶え絶えになりながら、全身を襲う激痛に耐えていた。 肋骨が砕けるような痛み、全身が引き裂かれるような感覚― 彼女は目をぎゅっと閉じ、蒼白な顔を汗まみれに歪める。 「若子......!」 西也は彼女のそばを離れなかった。 この瞬間、彼女を一人になんてさせられるはずがない。 若子は必死に西也の手を握りしめる。 その力は凄まじく、指が軋むほどだったが―それでも、西也は決して振りほどかなかった。 これくらいの痛みなんて、若子が今味わっている苦しみに比べたら、大したことじゃない。 「っ......あああああっ!!」 若子の叫びが、部屋中に響く。 医者たちは懸命に声をかけながら、出産を促す。 しかし、赤ちゃんの頭が引っかかってしまい、器具を使わなければならなかった。 若子は目の前が真っ白になるほどの激痛に襲われた。 もう、意識が飛びそうだ。 「若子!もう少しだ、頑張れ!」 西也が必死に声をかける。 だが、若子はかすむ視界の中で彼を見つめ、ぼんやりと呟いた。 「......修、どこにいるの......?」 その名前を聞いた瞬間、西也の表情が凍りついた。 ―修。 彼は何も言えず、ただ若子を見つめるしかなかった。 彼女がもう一度、痛みに耐えきれず叫ぶまでは― 「若子、大丈夫だ、俺がいる!」 どんなに彼女が誰の名前を呼ぼうと、今はそれでいい。 すべては、赤ちゃんが無事に生まれてからだ。 彼女がこんなにも苦しんでいるのに、責めるなんてできるはずがない。 責めるべきは、修。 彼の存在が、未だに若子の心を離さないことが許せなかった。 「修......痛い......助けて......」 若子は泣きながら、その名を呼び続ける。 西也は苦しげに目を閉じ、震える彼女の手にそっと口づける。 「若子......よく頑張った」 ―もしできるなら、この痛みをすべて俺が引き受けたい。 お前の心にいるのが俺じゃなくても。 藤沢、お前なんかに、若子の涙を流す資格があるのか? 若子が命がけで子どもを
修はベッドのそばに座り、そっと手を伸ばす。 優しく頬を撫で、痛ましげな瞳で見つめながら囁いた。 「......バカだな。なんで、もっと早く言ってくれなかったんだ?」 「......ごめんね、修」 若子はか細い声で呟く。 「......修が、この子を望まないんじゃないかって思ったの。だから......言えなかった」 修は深く息を吐き、ゆっくりと首を振った。 「......若子、謝るのは俺のほうだ。こんなに苦しませて......本当に、ごめん」 そのまま、彼女を包み込むように抱きしめる。 「もう絶対に離れたりしない。俺たち三人、一生ずっと一緒だ」 そう言って、修はそっと唇を重ねる。 優しく、慈しむような口づけだった。 「......っ!」 ―「三人」。 その言葉を聞いた瞬間、若子の目がぱちっと開く。 はっきりと意識が戻った。 「若子!ついに目が覚めたんだな!」 西也の声が耳に飛び込んでくる。 目の前には、心底安堵したような顔をした彼がいた。 「体調は?どこか苦しくないか?」 若子はぼんやりと天井を見つめる。 ......修じゃ、ない? そうだ。 彼女が見たのは―ただの夢。 現実ではなく、ただの幻想。 産後の疲れのせいか、叶わないはずの願いが、夢になって現れただけ。 修との未来なんて、とうに終わった話なのに。 「三人で一緒に」なんて、そんなの......ありえない。 「若子?」 放心したような彼女の表情を見て、西也は不安げに顔を覗き込む。 「大丈夫か?具合でも―」 若子はゆっくりと顔を横に向けた。 涙を湛えた瞳で、西也を見つめる。 「......西也」 「俺はここにいる」 彼は優しく微笑む。 「何でも言ってくれ。俺は、いつだってお前のそばにいるから」 ―ついに、彼女が自分の名前を呼んでくれた。 「......赤ちゃんは?」 若子は不安そうに尋ねた。 「元気だよ」 西也はそっと彼女の涙を拭う。 「......会いたい......私の子を見たい......連れてきてもらえる?」 そう言って、彼女はベッドから降りようとする。 「ダメだ」 西也はすぐに彼女の肩を押さえた。 「若子、今は動いちゃダメだ
若子は、一刻も早くこの子に名前をつけてあげたかった。 ―この子が生きていくための、たった一つの大切な証を。 彼女は以前、西也に「子どもの名前は西也が決めて」と約束していた。 それを破るわけにはいかない。 ほかの何も彼に与えることはできなくても― でも、彼はずっとそばにいてくれた。 妊娠中も、出産のときも。 どれほど痛みに苦しんでも、彼は決して離れなかった。 それがどれほど心強かったか、どれほど救われたか。 若子は心の底から申し訳なさを感じていた。 だからこそ、せめてこの子の名前は、西也に決めてもらいたかった。 それが、彼女にできる唯一のことだった。 「もう決めてある」 西也は迷いのない声で言った。 「暁......どうだ?夜明けの『暁』」 「あきら......?」 若子はその名を口にしながら、ふと窓の外に目を向けた。 ちょうど朝日が昇る時間だった。 眩い光が世界を照らし、木々の葉を優しく揺らしている。 木漏れ日がきらきらと揺らめき、すべてが新しい始まりのように感じられた。 ―なんて、美しい朝。 その光の下では、ほんの一瞬だけ、すべての悲しみが消えた気がした。 若子はゆっくりと視線を戻し、腕の中の赤ん坊を見つめる。 小さな顔を優しく撫でると、目の奥がじんわりと熱くなった。 「......若子?」 西也が不安そうに覗き込む。 「もしかして、気に入らないなら、別の名前を考えるよ」 彼は焦っていた。 若子が涙を流すたびに、どうしようもなく胸が締めつけられる。 彼女の涙が、自分のせいだったらどうしよう― そんな不安が、いつも心を掻き乱す。 「違うの、西也」 若子はすぐに首を振った。 「この名前......すごく、いい」 そう言うと、腕の中の赤ん坊に微笑みかける。 「......ねえ、これから、あなたの名前は暁よ」 やつれた顔の中に、母としての愛が滲んでいた。 西也は彼女が自分の考えた名前を受け入れてくれたことに、心の底から嬉しさを感じた。 思わず、顔に穏やかな笑みが浮かぶ。 だが、ふと何かが頭をよぎり、真剣な表情に戻った。 「......そういえば、若子」 彼はゆっくりと問いかける。 「この子の名字は.....
花はウキウキしながら、成之の家に向かった。 玄関で使用人に尋ねると、彼は部屋にいるとのことだった。 花はすぐに階段を駆け上がり、部屋の前で扉を叩く。 「おじさん!おじさん!」 扉が開き、スーツ姿の成之が姿を現した。 「どうした?」 「おじさん!若子が出産しました!男の子です!母子ともに元気です!」 「......本当か?」 成之の顔がぱっと明るくなる。だが、すぐに表情を引き締めた。 「......なぜ俺に知らせがなかった?」 「えっと......今、私が知らせに来ました!」 「そうじゃない。西也がなぜ電話をよこさなかったんだ?」 成之は思案する。 ―前に西也に言ったあの言葉のせいで、まだ怒っているのか? 「お兄ちゃんが私に知らせるようにって......でも、どうして自分で連絡しなかったのかはわからないんです。たぶん、彼も忙しかったんでしょ。治療を受けながら、若子の世話もしなきゃいけないので......」 そう言いかけて、花自身も少し言葉に詰まった。 ―でも、電話一本くらいならすぐできるのに......お兄ちゃんはやっぱり少し変だ。 成之はそれ以上追及せず、穏やかに頷いた。 「まあ、どちらにせよ、無事に生まれたのならそれでいい」 「おじさん!若子は私のいとこだから......若子の子どもは私の......えっと......」 花は目をくるくるさせながら考え込んだ。 ―なんて呼べばいいの!? 成之はくすっと笑い、優しく答える。 「お前は従叔母になるな。そして、若子の息子はお前の甥だ」 「ああ、そうそう、それです!」 花は頭をぽりぽりとかきながら苦笑する。 「こういう呼び方、ややこしくておじさんじゃなきゃわからないですね......あ、じゃあその子はおじさんのことを何て呼ぶんですか?」 このあたりで完全に混乱してきた。 成之は落ち着いた口調で答える。 「若子が俺の兄の娘だから......彼女の子どもは俺にとって甥孫にあたる。そして、俺は大叔父だな」 「うぅ......なんかもう頭がこんがらがってきました......!」 花は頭を抱えながら、複雑すぎる親族関係にめまいを感じていた。 「でも、お兄ちゃんの奥さんってだけなら、若子が私のいとこで、つまり
会議はおよそ一時間半ほど続いた。 会場には市の幹部や主要産業の代表、そして金融界の重役たちが集まっていた。 終了後、成之は何人かと軽く言葉を交わしながら、ロビーに立っていた。 「村崎さん、ご一緒に食事でもどうですか?」 そう誘われた瞬間、彼の視線はふと遠くに現れた光莉の姿を捉えた。 「先に行ってください」 そう言い、軽く手を挙げると、彼は彼女のほうへ向かった。 少しして、光莉がハンドバッグを持って彼の前に立つ。 成之は彼女を上から下までさっと見渡し、眉を寄せた。 「......あまり元気がないようですが、昨晩はよく眠れませんでしたか?」 会議中、彼女がどこか上の空だったことに気づいていた。 光莉は軽く笑って肩をすくめる。 「ちょっと夜更かししちゃったみたいで。でも、村崎さんのスピーチ、とても勉強になりました」 少なくとも、退屈な決まり文句の羅列ではなかった。 多くの幹部は、長々と話しているように見えて、中身は何もないことが多い。 台本なしではまともに話せない者も少なくない。 だが、成之は違う。無駄な言葉を一切使わず、どんな場でも的確に話せる。 「先ほど、皆さんが食事に行くと言っていましたが、ご一緒にいかがですか?」 「私は遠慮しておきます」 光莉は微笑みながら首を振った。 「では、僕も行きません」 「え?」 彼女は驚いたように彼を見上げる。 「どうして?」 「大した話もないのに、ただのご機嫌取りばかり。もう聞き飽きました。静かに昼食をとりたい気分です。どこか良い店はありませんか?」 成之は淡々とした口調で言う。 冗談ではなく、本気らしい。 光莉は少し考えた後、尋ねる。 「どんな料理がいいですか?中華?和食?洋食?」 「中華がいいですね。ほかはあまり口に合わなくて」 「それなら、良いお店があります」 光莉はバッグから名刺を取り出し、彼に渡す。 「ここは特に特色のある料理が多くて、ほかの店ではなかなか食べられない味ですよ」 成之は名刺を受け取り、ちらりと目を通す。 「ここなら、そんなに遠くないですね。一緒に行きませんか?」 光莉は少し口元を引きつらせる。 「......私と食事を?」 成之は軽く頷く。 「ええ。お時間はあ
光莉は礼儀正しく微笑んだ。 「プレッシャーというほどではありませんが、確かに少し緊張しています」 今までにも幹部クラスの人と食事をする機会は何度もあった。 だが、成之は今まで出会ったどの人物とも違っていた。 他の人なら、一目見ればどんなタイプか、おおよその好みまで察することができる。 けれど、成之は違った。彼の考えを掴むことができない。 彼の視線を受けるたび、なぜか緊張してしまう。まるで、その目が彼女を見透かし、溶かしてしまうような錯覚に陥る。 生きてきた中で、光莉はそう簡単に勘違いをするほど天真爛漫ではない。 成之が自分に特別な感情を抱いているとは思っていない。 だが、それでも心の奥底で、彼の視線にはどこか違和感を覚えずにはいられなかった。 「なぜ緊張するのですか?伊藤さんに厳しくすると思われていますか?それとも、何か難しいお願いをするのではと?」 成之の声は穏やかで、礼儀正しく、どこまでも上品だった。 光莉は微笑みながら答える。 「村崎さんとご一緒する以上、慎重にならざるを得ません」 成之はゆっくりと視線を落とし、しばらく沈黙した後、静かに言った。 「そんなに気を遣わなくていいですよ。普段通り接してください。伊藤さんに迷惑をかけるつもりはありませんし、困らせるつもりもありません。ましてや、伊藤さんの意思に反することを強要するつもりもありません。ただの食事です。もし本当に気が重いのであれば、この場を離れても構いませんよ」 その口調は、どこまでも紳士的だった。 だが、光莉はこんなことで退席するつもりはなかった。 「村崎さん、お気遣いいただきありがとうございます。正直に言うと、ご一緒できることは光栄に思っています」 「そんなに形式ばった言い方をしなくてもいいですよ。光栄かどうかはともかく、銀行の支店長ともなれば、毎日忙しいでしょう。むしろ、こうしてお時間をいただけることは、僕にとってありがたいことです。僕は金融の専門家ではありませんから、いろいろと教えていただきたいと思っています」 光莉は、これまでに数多くの権力者と接してきた。 しかし、地位が高く、かつ謙虚で品のある人物には、滅多に出会わない。 多くの人間は、そのどちらか一方を持っているだけでも十分立派な方だ。 だが、成之はど
成之は軽く頷いた。 「どうぞ、ごゆっくり」 光莉はスマートフォンを持ったまま個室を出ると、わずかに苛立ちながら通話を繋げた。 「......今度は何?」 電話の向こうから、優しげな声が響く。 「お前のネックレスが昨夜、俺のところに落ちていたよ。今どこにいる?届けに行こうか?」 高峯の声だった。 光莉はスマートフォンを握りしめる。手のひらにじんわりと汗が滲んだ。 しばらく沈黙した後、低く問いかける。 「......どうしたら、私を解放してくれるの?」 この間ずっと、高峯は彼女を脅し続けていた。 あの夜、彼は無理やり彼女を侵した。そして、その一部始終を録画していた。 最初は必死で抵抗していた。 けれど、回数を重ねるうちに、光莉の心は次第に麻痺し、反抗することすらなくなっていった。 そして、その映像の中で、彼女が抵抗しなくなった瞬間を切り取った高峯は、それを武器に脅してきた。 ―まるで、自分から受け入れたかのように。 彼は、その映像を藤沢家の人間に見せると脅している。 高峯は狂人だ。破滅を恐れない。 だが、光莉は藤沢家がこの事実を知ることを恐れていた。 もし彼らが知れば、事態は取り返しのつかないことになる。 彼女がどれだけ傷つこうと、それ自体はもうどうでもよかった。 ―ただ、藤沢家の人たちが巻き込まれるのだけは避けたかった。 だから、高峯が「会いに来い」と言うたび、光莉はその要求に従った。 たとえ、その先にどんな屈辱が待っていても。 「これでいいじゃないか?光莉、俺はもう結婚しろなんて言わない。ただ、たまには俺の相手をしてくれればそれでいい。俺は、お前を藤沢曜だけのものにはしない」 「......いい加減にして。これ以上、しつこくするなら......」 「西也のこと、知りたくないか?」 光莉が言葉を続けようとした瞬間、高峯が遮るように言った。 「......っ」 彼女の手が震える。 「......彼が今、海外でどう過ごしているか。知りたくはないのか?」 「......あの子はあんたの息子よ。私が知る必要なんてないわ」 「強がるな、光莉」 電話の向こうで、くすりと笑う声が聞こえる。 「お前はずっと西也を気にしているじゃないか。息子だと打ち明
「......怖くなったのか?」 ヴィンセントは薄く目を細めながら、冷たく問いかけた。 「それなら、その選択肢は却下だな。君は―死ぬのが怖い」 そう言って、彼は手の中の銃をすっと下ろす。 「残るのは二つ。百億ドルか、一週間と一万ドル。松本さん、君が選べるのはそのどちらかだ。 帰る?それは君の選択肢には入ってない」 若子は目の前の男に、こんな一面があるなんて思いもしなかった。 でも考えてみれば当然だった。出会ったばかりの彼のことを、自分は何一つ知らない。 銃弾を受けてまで自分を守ったその時、彼はただ「怖そうな人」なだけで、根は優しいのだと思い込んでいた。 けれど今― 彼は、本当に「怖い人」だった。 「......誰か他の人を雇ってもいい?プロの看護師でも、ハウスキーパーでも、最高の人を手配するわ」 「いらない。俺が欲しいのは君だけだ」 蒼白な顔色にも関わらず、ヴィンセントから放たれる威圧感は凄まじかった。 「なんで......どうして私じゃなきゃダメなの?」 「命の恩人だろ?君は俺に恩がある。それだけのことだ」 その言葉に、若子は反論できなかった。 たしかに―彼は命を懸けて、自分を救った。 元々は、自分の意思で彼の世話をするつもりだった。 でも今の状況は違う。銃で脅されての「世話」なんて、それはもう― 「じゃあ......その一週間、ずっとここにいなきゃいけないってこと? 料理して、洗濯して、掃除して......それだけ?他には何もないの?」 ヴィンセントが、一歩近づく。 若子は反射的に後ろへ下がる。 一歩、また一歩。壁に背中がぶつかった時には、もう逃げ場がなかった。 「......やめて......本当に......何かしたら、ただじゃ済まないから......」 「......君は、俺が何をしたがってると思ってる?」 ヴィンセントの手が彼女の頬を掴む。 「体が目当て......とか、思ってるのか?」 若子には、この男が次に何をするかわからない。 だからこそ、想像するだけで恐怖だった。 彼の指先が顎を撫でるように滑り、唇がゆっくりと近づいてきた。 「......そんなつもりなかったんだけどな。 でも、君の顔、けっこう俺の好みみたいだ」
彼に助けられたことは、確かに感謝している。 でも―だからといって、こんな無茶な条件を受け入れる義理はない。 そもそも、彼とは赤の他人同然なのだ。 「俺の動機なんて単純だ。1万ドルと1週間―それが嫌なら、百億ドル」 ヴィンセントは椅子に身を預けながら、気だるげに言い放つ。 若子の顔色が少しだけ険しくなる。 「......だから言ったじゃない。百億ドルなんて、持ってない」 「じゃあ、選べ。1万ドルと1週間か、百億ドルか......どっちも無理なら―君の命、無駄だったな。俺は君を殺す」 その声は低く、深淵から響いてくるような冷たさを帯びていた。 一言一言が鋭く、冷たい刃となって若子の背筋を刺す。 彼の目は闇そのもの。毒蛇が暗闇に潜んで、いつ噛みついてくるかわからない。 若子の胸に、ふと不安がよぎった。 彼が急に別人のように感じられたのは、ただの気のせいだろうか。 さっきまでは、命がけで自分を守ってくれたのに― ここに着いてからも、車を渡してくれて、護身用に銃までくれたのに。 なのに今の彼は、どこか冷たくて、何かが違う。 まるで......目の前にいるのが、さっきとは別の人間みたいだった。 若子はじっとヴィンセントの瞳を見つめた。 まるでその奥に隠された真意を探るように。 そして、しばらくしてから、静かに口を開いた。 「......あなたは、そんな人じゃない。 この世に、お金のために命を投げ出す人なんていない。 君が私をかばって銃弾を受けたのに、今さら私を殺すなんて、ありえない」 「どうしてそんな酷いこと言うのかはわからないけど......でも、私はただ、早く元気になってほしい。それだけ」 そう言って、若子は椅子から立ち上がった。 「ごはんは、私は食べない。ヴィンセントさんはゆっくり食べて。 ......私、もう行くね。息子が待ってるから」 彼女のバッグは近くの棚の上に置いてあった。 そこから一枚の付箋とペンを取り出し、さらさらと数字を書き込む。 「これ、私の電話番号。 ちゃんとした金額を考えたら連絡して。 約束する、逃げたりしないから。でも、百億ドルなんて絶対に無理。 それじゃあ、どんな誘拐犯でも取れっこないでしょ」 彼女は紙をテーブルに置く
「昨日の夜、あなたは悪い夢を見てたよ、『マツ』って名前、何度も呼んでた」 若子の言葉に、ヴィンセントの手がピクリと動いた。 握った箸に力が入り、指の関節がうっすら浮かび上がる。 「......マツって、誰?」 若子には、マツが彼の恋人なのか、それとも別の存在なのか、わからなかった。 ただひとつだけはっきりしていたのは。 ただ、あの夜、苦しそうにその名前を呼んでいた。 まるで―その「マツ」という女性は、もうこの世にいないかのような哀しみを背負って。 ヴィンセントは特に表情を変えず、目を逸らしながら静かに呟いた。 「......次、俺が悪夢見たら。近づかなくていい。放っておけ」 「......うん、わかった」 若子はそう答えてから、ふと気づいた。 ―「次」なんて、あるのかな。 少しばかり気まずい笑みを浮かべながら、言った。 「とにかく......あなたが無事でよかった。食事が終わったら、私は帰るね。安心して、『次』なんてないから」 彼が助けてくれた。重傷まで負って、それでも助けてくれた。 だから彼女は一晩中、彼のそばにいた。 でも、彼がもう大丈夫なら、自分には戻るべき場所がある。 赤ちゃんが待っている。 「俺が助けたんだ......見返りくらい、もらってもいいだろ?」 ヴィンセントの気だるげな声は、どこか意味ありげだった。 若子は眉をひそめ、ふと、以前彼が「金のこと」に触れていたのを思い出す。 箸を置いて、まっすぐ彼を見つめる。 「......値段、言って。払える額なら、ちゃんと返す」 命に値段はつけられない。 でも、彼が命を救ってくれた以上、それに対して報いるのが礼儀だと思っていた。 「百億ドル」 「......は?」 一瞬、時が止まる。若子の顔がぴくりと引きつった。 「......ごめん、百億ドルなんて持ってない。もっと現実的な額にしてもらえる?」 「君、自分の命にそれだけの価値ないと思ってるのか?」 「命に値段なんてない。ただ、現実として、百億ドルは無理」 「旦那も金持ってないのか?」 その軽口に、からかわれている気がして、若子の表情が曇る。 「彼のお金は、彼のもの。私とは関係ない」 「でも夫婦だろ?俺が助けたのは、あいつが大
「西也、本当にありがとう。赤ちゃんのこと、面倒見てくれて......どう感謝していいか......」 「礼なんていらないよ。俺は、この子の父親なんだから」 その一言に、若子の笑顔がすこしだけ固まった。 若子の沈黙に、西也が静かに言葉を続ける。 「......まだ、藤沢のこと考えてるのか?まだあいつを、子どもの父親にしたいなんて思ってる?」 「......西也、私と修はもう終わったの。心配しないで。私、あなたに約束したことはちゃんと守るから。離婚とか、あんなこと言ったのは......ただ私、傷ついてたから。もう言わない」 「いいんだ、若子。俺は怒ってない。気持ちは、わかるよ」 「......じゃあ、今日はこのへんで。帰ったらまた話そう。切るね」 「うん。無理すんなよ」 通話が切れる。 その会話の間、ヴィンセントは黙ってビールを飲んでいたが、ふと視線を横に向けた。 キッチンのカウンターに手をついて、若子がぼんやりと立ち尽くしている。 彼はソファに身を預けたまま、片眉をあげる。 「さっきの電話、妙に礼儀正しかったな。子どもの面倒見るのが当然じゃない?......その子、旦那の子じゃないとか?」 その言葉に、若子の動きが一瞬止まる。 ヴィンセントの目は鋭い。そういうところ、見逃さない。 「......子どもは、前夫の子」 「へえ。で、今何ヶ月?」 「もうすぐ三ヶ月」 その答えに、ヴィンセントの眉が微かに動く。 「ってことは、妊娠中に前の旦那と離婚して、そのまま今の男と結婚したってことか?」 「......それ、私のプライベート」 若子の声が、少し冷たくなった。 彼女と西也の関係は、簡単に説明できるものじゃない。だから、いちいち他人に語るつもりもない。 この食事を作り終えたら、それで終わりにするつもりだった。 若子は包丁を手に取り、黙々と野菜を切り始める。 刃がまな板にぶつかる音が、台所に響く。 ヴィンセントはソファの上で指先を軽くトントンと弾きながら、ゆるく口を開いた。 「......前の旦那、何したんだ?妊娠中に離婚するくらいだから、よっぽどだな」 若子は無言。 「......暴力か?」 無反応。 「......浮気か?」 その言葉で、若子の
「......若子、赤ちゃん......?」 その文字を見た瞬間、ヴィンセントは微かに眉をひそめた。 この女―既婚者なのか?しかも、子どもまで? 見たところ、二十歳そこそこにしか見えない。 あの若さで、もう結婚してて子どもがいるなんて。 なんだろう、この胸の中の、ほんの小さな違和感。 ......だけどすぐに、自分の思考に苦笑する。 なにを勘違いしてるんだ、俺。 そもそも彼女とは、たいして関わりもないのに。 ヴィンセントはもう少し彼女を寝かせてやりたかったが、あの「西也」という男、様子からしてかなり心配しているようだ。 返信がなければ、通報されるかもしれない。 彼は若子のスマホを手に取り、そのままメッセージを打ち込む。 【昨夜よく眠れなくて、まだちょっと寝てたい。後で連絡するね】 するとすぐに返信が届いた。 【わかった。ゆっくり休んで。連絡待ってる】 その文章を見つめながら、ヴィンセントの心に何とも言えないもやが広がる。 ...... 若子が目を覚ましたのは、すでに昼過ぎだった。 彼女はベッドの上でぱっと体を起こし、目元をこすりながら辺りを見回す。 時計を見ると、もう正午。 「やばっ......」 寝すぎたことに気づき、急いで身支度を整える。 洗面を終えて部屋を出ようとしたその時、ちょうど廊下の向こうからヴィンセントがやってきた。 「起きたの?ごめんね、私、寝ちゃって......体の調子はどう?」 「死にはしねえ......飯、作れるか?」 「え?」 彼女は一瞬、ぽかんとした顔になる。 「腹が減った」 その一言で、すべてを察する。 「うん、作れるよ。何が食べたい?作ってあげる」 「なんでもいい。君に任せる」 「じゃあ......この近くにスーパーってある?冷蔵庫の中、食べられそうなのなかったし」 ヴィンセントは無言で指をさす。 「......今はある」 若子が冷蔵庫の扉を開けると、中にはたっぷりの野菜や果物、肉までぎっしり。 「......さっきの空っぽはどこいったの......」 呆れつつも笑いながら、彼女は食材を選び始めた。 「好きに作ってくれ」 そう言い残し、ヴィンセントはソファに腰を下ろしてビールを手に取る。
朝の柔らかな陽光が窓を通して部屋に差し込み、やさしくヴィンセントの蒼白な顔に降り注いでいた。 彼は昏睡から目を覚まし、ゆっくりと目を開ける。意識が少しずつ戻ってくる。 顔を横に向けると、若子が椅子に座っていた。華奢な体を小さく丸め、眠っている。 一晩中、彼のそばにいてくれたらしい。鼻先がほんのり赤く、朝の光に包まれて、まるで夢の中の景色のようだった。 ヴィンセントは何か声をかけようと口を開いたが、そのまま言葉を飲み込む。 彼女の長い髪が肩に落ち、黒い羽のようにふわりと揺れる。陽の光がその肌を優しく撫で、まるで金色のヴェールが彼女を包んでいるかのようだった。 眉間に少しだけ皺を寄せていて、何か困った夢でも見ているのかもしれない。睫毛の隙間からこぼれる光が、小さな光の粒になってキラキラと輝いていた。 ......そういえば、昨夜意識を失う前に、彼女の名前を聞いた。 松本若子。 その名前にも「松」という文字が入っていた。 彼はゆっくりと体を起こし、背をベッドヘッドに預けながら自分の体を見下ろす。 傷口のまわりは綺麗に拭かれ、血も乾いていた。 ......彼女がやってくれたのか。 この女、意外と優しい。いや―相当、優しい。 「松本」 その声に、彼女がぱちりと目を開けた。 ヴィンセントが起き上がっているのを見て、彼女の目がぱっと見開かれる。 「起きたの?体の具合は......大丈夫?」 彼が目を覚まさないかもしれないと思っていたから、こうして意識が戻っただけでも嬉しかった。 ずっと彼のそばにいた。時々息を確かめながら、夜が明けるまで椅子に身を預け、ほんの少しだけうたた寝していたのだ。 「君、ずっとここに?」 ヴィンセントの視線が、彼女の疲れた顔に向けられる。徹夜したのは一目瞭然だった。 若子は小さく笑って肩をすくめる。 「無事なら、それでいいの」 「隣の部屋、空いてる。ちょっと寝てこい」 「ううん、大丈夫。私......」 そう言いかけたところで、大きなあくびが出てしまい、とっさに口元を手で覆う。頬が赤くなり、気まずそうに視線を逸らした。 ヴィンセントは淡々と口を開く。 「松本、無理するな。眠いなら寝ろ。変な意地張ってどうすんだ。疲れるだけだろ」 そのストレート
電話を切った後、若子は改めてこの家の中を見渡した。 この家は二階建ての一軒家で、外から見るとガラス越しに中の様子はまったく見えない。 だけど、中からは外がはっきりと見えるようになっている。 試しにガラスをコンコンと叩いてみると、普通のものとは違う感触がした。 アメリカの住宅は、窓が大きくて簡単に割れそうな家も多くて、なんだか無防備に思えることがある。 もちろん、アメリカでは私有財産の保護が厳しく、不法侵入は重罪だ。 それでも、思い切ったことをするやつがいないとは限らない。 だけど、この家は違う。 どうやら特別な設計がされているようで、ガラスの手触りが独特だった。 透明なのに、普通のガラスとは違う強度を感じる。 もしかすると―銃弾すら通らない防弾ガラスかもしれない。 家の内装はすっきりしていて、ミニマルなデザイン。 清潔感もあって、余計な装飾がほとんどない。 ......そう思ったのも束の間。 ふとキッチンのシンクに目をやると、洗われていない皿が二枚。 たったそれだけのことなのに、さっきまでの整然とした印象が一気に崩れた。 気になって仕方ない。 若子はため息をついて、袖をまくると、さっさと皿を洗い、乾燥ラックに並べた。 ついでに冷蔵庫を開けてみると、中には水とビール、そしてシワシワになった果物がいくつか。 ......これ、いつのだろう? この人、普段何を食べてるの? リビングをひと通り見回すと、ソファのそばに、血のついたハンカチが落ちていた。 若子は拾い上げる。 これは―さっき、彼の傷を押さえるのに使ったものだ。 重傷を負った体で、わざわざこれを拾ったってこと? なんでそこまでして...... 首を傾げながら、ハンカチを持って洗面所へ向かう。 冷たい水で丁寧に血を洗い流し、ラックにかけて乾かした。 その時だった。 「......う......っ」 寝室から微かな声が聞こえる。 若子はすぐに部屋へ駆け込んだ。 ベッドの上では、ヴィンセントが苦しそうに身をよじらせ、うなされている。 額には汗が滲み、眉間には深い皺。 「痛いの......?それとも悪夢......?」 どちらにしても、相当辛そうだった。 若子はそっと耳を澄ます。
若子は、やっとの思いでヴィンセントを部屋のベッドへ運び、そっと寝かせた。 「......君、名前は?」 彼は息も絶え絶えに問いかける。 「私は......松本若子」 「......松本......若子......」 ヴィンセントはその名を繰り返しながら、次第に息遣いが弱くなり、そのまま静かに目を閉じた。 眠ったのを確認し、若子はそっと手を伸ばし、彼の額の熱を確かめる。 視線を巡らせると、部屋の隅にバスルームがあるのが見えた。 音を立てないように歩き、そっと中へ入る。 しばらくして、彼女は温水を張った洗面器とタオルを持って戻ってきた。 タオルをしっかり絞り、ヴィンセントの体についた血を拭っていく。 彼の体には無数の傷跡があった。 深いもの、浅いもの、長いもの、短いもの―そして、明らかに銃創と思われるものも。 ......この人、一体どんな人生を歩んできたの? もしかして、裏社会の人間......? でも、あの無機質な目は、どこかあの連中とは違う気がする。 タオルをすすぎながら考え込んでいると、盆の水はあっという間に赤く染まった。 彼女は水を捨て、新しく汲み直す。 結局、四回も水を替えた末、ようやくヴィンセントの上半身を綺麗に拭き終え、布団を掛けた。 これで、少しは楽に眠れるはず。 その時― ポケットの中で、携帯が震えた。 画面を確認すると、西也からの電話だ。 若子はすぐに携帯を手に取り、部屋を出てリビングへ向かう。 「もしもし、西也」 「若子、もう帰ってる?」 電話口の向こうから、心配そうな声が聞こえた。西也はもう三時間も彼女を待っていたのだ。 「西也、心配しないで。私は無事だよ。でも、帰るのは少し遅くなりそう」 そういえば、彼に連絡するのをすっかり忘れていた。 「どこにいるんだ?」 「......私は今安全な場所にいる。ただ、少し一人になりたくて......」 少なくとも、ヴィンセントが目を覚ますまではここを離れるわけにはいかない。 「......お前、本当に一人なのか?若子、正直に言ってくれ......もしかして、藤沢に会いに行ったのか?」 「......」 沈黙が返事になってしまう。 「やっぱり......」 西也の声に
男の呼吸はどんどん荒く、重くなっていった。 若子は意を決して彼の傷口を正面から見つめた。ヴィンセントはピンセットを使い、自分の胸から弾丸を無理やり引き抜くと、それを横の皿の上に投げ捨てた。 彼は仰向けになり、長く息を吐き出す。 続けて、傷口に残る破片をピンセットで丁寧に取り除いていった。 その後、過酸化水素水を取り出し、自分で傷を洗おうとするが― 手が、震えている。 「私がやるね」 若子は消毒液の瓶を受け取り、落ち着いた声でそう言った。ヴィンセントは何も言わず、手を横に下ろしたまま、抵抗しなかった。 若子は丁寧に、彼の傷を洗い始めた。 少しでも痛みを和らげようと、消毒しながらそっと息を吹きかける。 その様子を見ていたヴィンセントの目に、一瞬だけ茶目っ気のある笑みが浮かぶ。 消毒が終わると、生理食塩水で残りの液を洗い流し、次にヨード液で殺菌。包帯を使って傷口を丁寧に巻いていく。 しかし、彼の肩甲骨の裏側にもまだ一発、弾丸が残っていた。 ―背中のそれは、自分ではどうにもできない。 やるしかないのは、若子だ。 彼女の手が微かに震えていた。 ピンセットを握って傷口に近づこうとしても、どうしても制御できない。 「......っ」 親指に思い切り噛みついて、痛みで心を落ち着けようとする。 もし自分の震えで、彼の傷を悪化させてしまったら―それは取り返しのつかない失敗だ。 「僕が怖くないって言ってるのに、君は何を怖がってるんだ?早く取り出せ」 ヴィンセントの声は冷たく突き放すようだった。 若子は自分の手の甲をパチンと叩いて、深呼吸。そして、ぐっと歯を食いしばり、ピンセットを傷口へ差し込んだ。 その瞬間、彼の身体がぴくりと反応して緊張し、呼吸はどんどん荒くなっていった。 少しでも苦しむ時間を短くするために、若子はさらに深くまでピンセットを差し入れた。けれど何度挟んでも、弾は出てこない。 初めてのことで経験なんてない。 それでも、彼は黙って耐えていた。一言も発せずに。 血がにじむ傷を見ていると、心まで震えてくる。 「ごめん......すごく痛いよね?」 痛いに決まってる。傷口の中で何度も突かれているのだから。 ヴィンセントが顔をこちらに向けて言った。 「十秒数える