「......怖くなったのか?」 ヴィンセントは薄く目を細めながら、冷たく問いかけた。 「それなら、その選択肢は却下だな。君は―死ぬのが怖い」 そう言って、彼は手の中の銃をすっと下ろす。 「残るのは二つ。百億ドルか、一週間と一万ドル。松本さん、君が選べるのはそのどちらかだ。 帰る?それは君の選択肢には入ってない」 若子は目の前の男に、こんな一面があるなんて思いもしなかった。 でも考えてみれば当然だった。出会ったばかりの彼のことを、自分は何一つ知らない。 銃弾を受けてまで自分を守ったその時、彼はただ「怖そうな人」なだけで、根は優しいのだと思い込んでいた。 けれど今― 彼は、本当に「怖い人」だった。 「......誰か他の人を雇ってもいい?プロの看護師でも、ハウスキーパーでも、最高の人を手配するわ」 「いらない。俺が欲しいのは君だけだ」 蒼白な顔色にも関わらず、ヴィンセントから放たれる威圧感は凄まじかった。 「なんで......どうして私じゃなきゃダメなの?」 「命の恩人だろ?君は俺に恩がある。それだけのことだ」 その言葉に、若子は反論できなかった。 たしかに―彼は命を懸けて、自分を救った。 元々は、自分の意思で彼の世話をするつもりだった。 でも今の状況は違う。銃で脅されての「世話」なんて、それはもう― 「じゃあ......その一週間、ずっとここにいなきゃいけないってこと? 料理して、洗濯して、掃除して......それだけ?他には何もないの?」 ヴィンセントが、一歩近づく。 若子は反射的に後ろへ下がる。 一歩、また一歩。壁に背中がぶつかった時には、もう逃げ場がなかった。 「......やめて......本当に......何かしたら、ただじゃ済まないから......」 「......君は、俺が何をしたがってると思ってる?」 ヴィンセントの手が彼女の頬を掴む。 「体が目当て......とか、思ってるのか?」 若子には、この男が次に何をするかわからない。 だからこそ、想像するだけで恐怖だった。 彼の指先が顎を撫でるように滑り、唇がゆっくりと近づいてきた。 「......そんなつもりなかったんだけどな。 でも、君の顔、けっこう俺の好みみたいだ」
その名前を耳にした途端、ヴィンセントの表情がわずかに変わった。 瞳がわずかに揺れ、そこに潜む獣のような鋭さが一瞬、顔を覗かせた。 「......その言葉、二度と口にするな」 歯を食いしばりながら、若子の顔をぐいっと掴む。 その力の強さに、骨がきしむような痛みが走った。 ―このマツって人、彼にとってよほど特別なんだ。 次の瞬間、ヴィンセントは若子の顔を放し、胸を押さえながら数歩よろめいて後退した。 助けようと手を伸ばしかけた若子だったが、さっきの乱暴な態度を思い出して、すっと手を引っ込める。 「......まだ飯、残ってんだ」 ヴィンセントはふらふらとダイニングのほうへ向かっていく。 若子は深く息を吐いた。 その場に座り込みそうになりながらも、なんとか堪える。 しばらくして気持ちを立て直すと、床に散らばったものを拾い集め、バッグにしまった。 ダイニングの方向を見やると、ヴィンセントはすでに席に着いていた。 その隙を突いて、彼女はそっと玄関へ向かい、扉に手をかける。 ......びくともしない。 「無駄だ」 背後から、ヴィンセントの冷たい声が響く。 「俺の指紋がないと、開かないよ」 若子は小さくため息をつく。 出るのに指紋が必要なんて、聞いてない。 仕方なく、バッグを置いてダイニングへ戻ると、彼の向かいに座った。 「一万ドルと一週間。あなたの世話と食事の準備だけなら、引き受けるわ」 もう他に選択肢はなかった。 百億円なんて持ってるはずがないし、西也に頼ることもできない。 借りたって返せないし、命を落とすわけにもいかない。 だったら、これしかない。 ヴィンセントは何も言わず、黙々と昼食を平らげると、再び部屋へ戻っていった。 若子は後片付けをし、食器を洗い終えると、携帯を取り出して西也に電話をかけた。 「西也、ごめん。ちょっとの間、一人になりたいの」 「若子......どうしたんだ?」 「大丈夫。ただ、少しだけ冷静になりたくて。たぶん、一週間くらいで戻るよ」 しばらく沈黙が続いた。 「......若子、もしかして、帰ってくるつもりないのか?」 「違うの!」 誤解されるのが怖くて、若子は慌てて否定する。 「西也、信じて。私は絶対に戻る
若子の瞳には、焦りと不安が色濃く浮かんでいた。 「......早く教えて」 薬品と器具がぎっしり詰まった薬箱を前に、怖さはある―でも、状況は一刻を争う。 逃げている暇なんて、ない。 ヴィンセントは震える声で問いかけた。 「......怖いか?」 若子はこくんと小さく頷いた。 心臓が跳ねる。 緊張で全身が張り詰める。 「怖い......でもやる。だから、早く教えて」 「ヨードチンキと消毒用のコットンを取れ。コットンにヨードをたっぷり染み込ませて、傷口の周りの皮膚を拭いてくれ」 若子は慎重に、彼の指示通りに動いた。 震える指でヨードの瓶のキャップを開ける。 ツンとくる消毒液の匂いに、少し頭がクラクラする。 でも、そんな反応を押し殺して集中した。 コットンにヨードを浸し、慎重に、傷口の周囲を優しく擦る。 指先は震え続け、怖くてたまらない。少しのミスで、もっと悪化させてしまうかもしれないから。 「......っ」 ヴィンセントの低い呻きが耳に届く。 ヨードが傷に触れれば、強い痛みが走るはずだ。 若子の胸が痛む。 でも、手を止めず、丁寧に、そして確実に消毒していった。 「......これでいい?次は?」 震える声で尋ねると、ヴィンセントが答えた。 「箱の左にある滅菌注射針と、生理食塩水を取ってくれ」 若子は言われた通りに針を手に取る。 針の先端を見た瞬間、弾丸を取り出したときの記憶がよみがえり、全身が再び強張った。 大きく深呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着ける。 「針を食塩水に浸して、しっかりと消毒してくれ」 彼の声はかすれていたけれど、的確だった。 若子は唇を噛みしめながら、消毒針を塩水にゆっくり沈める。 「......次は?」 「その針を......傷口にゆっくり挿せ。できるだけ安定させて」 心臓の鼓動がうるさいほど響く中、若子は手に針を握り、深く息を吐いてから、そっとヴィンセントの傷口へと挿していく。 顔が青ざめ、額には汗が滲む。 ヴィンセントの体が微かに震える。 「......大丈夫?」 彼女が問いかけると、ヴィンセントは歯を食いしばりながら小さく頷いた。 「......針を軽く回して、傷の中の汚れを取り除いてくれ.
若子は歯を食いしばり、内心の恐怖を押し殺しながら、消毒針を慎重に回転させて傷の中を清掃していく。 そのたびに、ヴィンセントの全身がぴくりと強張り、唇がぎゅっと閉じられる。 だが、彼は一切声を漏らさなかった。 ―この人、耐えすぎ。 やがて作業が一段落すると、ヴィンセントが息を吐きながら言った。 「......生理食塩水とガーゼを取ってくれ。まずは傷口を洗い流して、それから拭き取るんだ」 若子は薬箱を開け、生理食塩水のボトルを取り出す。 震える手でキャップを開けると、そっとヴィンセントの胸元へと傾けた。 血と一緒に、汚れが流れ落ちていく。 すぐにガーゼを取り、やさしく拭き取っていく。 ―少しずつ、落ち着いてきた。 ヴィンセントの表情も、ほんの少し和らいだ。 呼吸も穏やかになっていく。 その深い瞳が、じっと若子を見つめる。 まるで夜空を閉じ込めたみたいに、静かで、美しい目だった。 「......これでいい?次は......?」 自分がここまでできるなんて、思ってなかった。 ヴィンセントが低く答える。 「赤いチューブが抗生物質の軟膏だ。それを傷に塗ってくれ」 「うん......わかった」 若子はそっと軟膏を手に取り、震える指で塗り始める。 肌に触れるのが怖くて、ほんのわずかしか当てられない。 痛みを与えたくなくて、それだけで緊張が爆発しそうになる。 「怖がるな。ちゃんと塗ってくれ」 ヴィンセントの声は落ち着いていたが、確かに届いた。 若子は覚悟を決めて、慎重に、でもしっかりと傷口に軟膏を伸ばしていった。 すべてが終わったあと―彼女は深く息を吐いた。 ―できた。やりきった...... 怖かったけど、逃げなかった。 でも......やっぱり、自分に医者は向いてない。 こんなに手が震えるようじゃ、誰かを殺しかねない。 ヴィンセントみたいな人じゃなきゃ、とっくに危なかったかも。 その後、薬箱から清潔なガーゼを取り出し、丁寧に傷口にかぶせた。 出血や分泌物を吸収しながら、外からの雑菌も防ぐ。 きつすぎず、ゆるすぎず― 包帯を固定しながら、彼女は自分でも驚くほど手際よく仕上げた。 こればかりは、教わらなくてもなんとかなる。 道具を片付けた
十数時間後― 西也は赤ちゃんを抱きながら、哺乳瓶を口元に当てていた。 「美味しいか?暁」 優しく語りかけるその口調とは裏腹に、次の言葉には鋭さが混じる。 「なあ、暁......ママが、また藤沢とくっついてるんじゃないかって、パパは疑ってる。 もしそうだったら、パパ......怒るかもな。でも安心しろ、絶対に連れ戻してやる。俺たち三人は、誰にも邪魔させない」 口元に、ぞっとするほど冷たい笑みを浮かべる。 そのとき、黒服の部下が慌ただしく近づいてきた。 耳元で何かを囁く。 「......藤沢修の居場所がわかりました。彼は......」 「わかった」 短く返すと、部下は一礼して退いた。 西也は赤ちゃんをあやし、揺りかごにそっと寝かせる。 「暁、パパはこれから藤沢に会いに行くよ。ママは必ず連れて帰る......あいつとくっつくなんて許さない。もしそんなことがあったら―あいつは、死ぬ」 赤ちゃんが眠りに落ちたのを見届け、西也は静かに家を出た。 ...... 日が暮れかけたころ、修は侑子の手を引いて別荘へと戻ってきた。 侑子はちょうどスマホで通話中だった。 「うん、じゃあ帰ったらね」 通話を終えると、彼女はそのまま修の腕にしがみつき、うれしそうに笑った。 「修、帰国したらね、私の従妹が遊びに来るの」 「......従妹?」 「うん、すっごくおしゃべりな子だけど、小さい頃から一緒に育ったから、仲良しなんだ。今度紹介するね。できれば彼氏も紹介してあげてよ。私が修の話したら、もう大興奮でさ。ずっと前からファンなんだって。修に関するニュースとか記事、全部読んでるの」 修は口元を少しだけ引きつらせて、軽く頷いた。 正直なところ、侑子の従妹には特に興味がなかったし、誰かを紹介する気もなかった。 ただ、侑子の顔を立てて、適当に返事をしただけだった。 今日は一日中、修は侑子と一緒に外で過ごしていた。 彼がなるべく彼女を喜ばせようとしているのは、伝わってきた。 その気持ちは、ちゃんと届いていた。 でも、ふとした瞬間―侑子には分かってしまう。 この男の心は、どこか遠くへ行ってしまっている。 どれだけ手を伸ばしても、もう戻ってこない。 その魂は、もう別の女と一緒にどこかへ行
「怖がるな」 修はそう言って、振り返りながら扉を開けた。 侑子は彼の背中にぴったりとくっつくようにして、後ろをついていく。 リビングに入ると、ソファに腰掛けているのは西也だった。 彼はナイフでリンゴの皮を剥きながら、悠々と構えている。 そのそばには、銃を構えた黒服の男たちが数人、無言で立っていた。 修が部屋に入ったのを見て、西也はちらりと顔を上げ、彼の隣にいる侑子―そして繋がれた手を見て、口元に皮肉な笑みを浮かべた。 「本当に恋人同士みたいだな」 冷たく笑いながら、続ける。 「お前の彼女、妊娠したって話を聞いたぞ」 侑子は怯えていたが、それでも震える声で言葉を発した。 「......あんた、勝手に人の家に入るなんて......」 「その通り。勝手に入った」 西也はリンゴとナイフを置き、ゆっくりと立ち上がる。 「藤沢、お前にはもうこの女がいるってのに、まだ俺の嫁を奪うつもりか?恥を知れよ」 修は眉をひそめる。 「若子は......お前がここに来たこと、知ってるのか?」 「知るわけないだろ」 西也は歩み寄り、修の目の前に立つ。 「俺だって、お前がうちの嫁をどこにやったのか知らないんだ。だからチャンスをやる。今ここで吐け、彼女がどこにいるか。でなきゃ―」 言い終わらぬうちに、冷たい銃口が修の後頭部に押し当てられる。 修は目を細め、低い声で呟いた。 「西也......命が惜しくないのか?」 「ははははっ」 西也は高らかに笑い、目をぎらつかせる。 「お前こそ、よくそんな口が利けるな。死ぬのはお前だ、藤沢!さっさと吐け、若子はどこにいる!お前みたいな男が、よくもまぁ恥知らずに!」 怒り狂ったように怒鳴り散らす西也に、侑子は修の腕にすがりつき、身を震わせた。 「や、やめて......その女の人、確かに私たちのところに来たけど、もう行っちゃったの!修は関係ない!ここにはいないのよ!」 「黙れ!そいつを引き離せ!」 不機嫌そうに一喝する西也の声に、すぐに黒服の男が動き、侑子を無理やり引き剥がした。 「修!修!」 引き離されながら、侑子は必死に泣き叫び、もがいていた。 「西也、彼女に手を出したら―必ず、お前を八つ裂きにしてやる。お前の家族も道連れだ」 「お
「知らない」 修は冷たく言い放った。 「お前が侑子の妊娠を知ってるってことは、若子が教えたってことだろ?つまり彼女と連絡を取ったんだ。じゃあ、彼女は自分の居場所を教えなかったのか?それとも、お前が彼女と連絡取れなくなったってことか?」 それは修自身も気になっていた。 まさか、若子が戻ったあと、何かトラブルに巻き込まれたんじゃないだろうか。 あの時、彼女をひとりで帰すべきじゃなかった― 「ふざけるな、話を逸らすな!若子はどこだ!」 「知らないと言ってるだろ!」 修は激しく西也を突き飛ばした。 「お前の嫁なんだろ?守れもしないくせに、どの口で『俺の嫁』なんて言える?遠藤......お前は本当に、どうしようもない男だな」 「お前......死ぬ間際まで強気か!」 西也は怒りに任せて拳を振り上げ、修の顔を殴ろうとする― だが、その直前。修の口元に浮かんだ皮肉な笑みを見て、拳は空中で止まった。 「......怖くないのか?さすが藤沢総裁、肝が据わってる」 怒りを押し殺すように西也は吐き捨て、すぐさま侑子の前に立ちはだかる。 そして部下のひとりから銃を受け取り、銃口をそのまま彼女の首筋へと押し当てた。 「ひっ......!」 侑子は恐怖で叫び、修の名を呼んだ。 「修、助けて!」 「彼女には関係ない!手を放せ!」 修の眉は鋭く吊り上がり、瞳には怒りの炎が燃え盛っていた。 その様子を見た西也は、愉快そうに鼻で笑う。 「へぇ......随分大事にしてるんだな。ほんと女には不自由しないんだな、お前。桜井雅子の次は山田侑子か。お前みたいな奴に、若子が戻るわけないんだよ。自業自得だ」 そう言って、侑子の髪を荒々しく掴む。 「痛っ......!」 侑子は悲鳴を上げる。 「手を離せ!」 修は怒りに満ちた声で叫んだ。 「どうせお前の周りには次から次へと女が寄ってくるんだ!それでもまだ若子まで奪うつもりか!返せよ、俺の若子を返せえええ!!」 西也は完全に理性を失っていた。 「本当に居場所は知らない。だから、まずは侑子を放せ、若子のこと、俺がなんとか探させる」 修は自分の軽率さを痛感していた。 ここなら誰にも邪魔されず、静かに過ごせると思っていた― まさかこんなふうに追
「きゃっ!」 侑子は再び悲鳴を上げ、床に倒れ込んだ。 修が思わず彼女に駆け寄ろうとしたその瞬間、後ろで銃を構えていた男が警告の声を上げる。 「動くな!」 西也は銃を修の額に向け、冷たい声で命じる。 「跪け!」 しかし― 「バカが」 銃声のような衝撃音が響いた。 修は電光石火の勢いで西也の顔面に拳を叩き込み、彼の手から銃を奪い取ると、そのまま背後から拘束。 奪った銃を西也の首元、大動脈に押し当てた。 室内にいた全員が一斉に銃を構え直し、修と侑子に狙いを定める。 「遠藤様を放せ!」 緊迫した空気の中、修は鋭く命じた。 「全員、銃を下ろせ。さもないと、お前らのボスの喉元を吹き飛ばす」 西也の顔が凍りつく。 まさか、修がこんな強硬な手に出るとは― 後ろにも銃、前にも銃― それでも逃げきった。 ―くそっ、油断した...... 「遠藤」 修は耳元で低く囁いた。 「今すぐ状況を理解しろ。手下に銃を下ろさせろ。でなきゃ、ここで死ぬのはお前だ」 西也は拳を握りしめ、悔しさに歯を食いしばる。 「......銃を下ろせ」 部下たちは一瞬迷ったが― 今、ボスが相手の手にある以上、逆らうことはできなかった。 彼らはしぶしぶ、手にした銃をゆっくりと地面に置いた。 「修!」 侑子が震えながら修の元へ駆け寄り、その背中に隠れるようにしがみつく。 「もう銃は下ろした。今すぐ放せ!」 西也が怒鳴る。 「今放したら、お前が逆襲してくるだろう?」 修は冷静に続けた。 「彼たちを外に出せ」 「出て行かせたら俺が殺されるに決まってるだろ!俺をバカだと思ってるのか?」 「殺しはしない。だから出させろ」 ここで西也を殺してしまえば、自分もただでは済まない。 それに―若子がこのことを知ったら、きっと一生自分を憎むだろう。 その一瞬、修の心をよぎったのは「いっそ殺してしまおうか」という衝動だった。 たとえ一生恨まれたとしても、それでもいい。 心のどこかで、自分の存在を刻み込めるのなら。 たとえそれが「憎しみ」という形だったとしても― だが結局、彼はそれを選べなかった。 若子と、そんな関係になってしまうのは、どうしても耐えられなかった。 修は
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった
「それで......あんたと山田さんは、うまくやっているの?」 光莉の問いかけには、どこか探るような調子が混ざっていた。 「......」 修は黙ったまま、答えなかった。 少しして、光莉がもう一度静かに尋ねた。 「修?どうかしたの?」 「......母さんは、俺が侑子とうまくやってほしいって、思ってるんだろ?本音を聞かせてくれ」 数秒の沈黙のあと、光莉は正直に口を開いた。 「ええ。私は、彼女があんたに合ってると思ってるの。若子との関係が終わったのなら、新しい恋に踏み出してもいいじゃない」 新しい恋―その言葉に、修はかすかに笑った。 それは皮肉と哀しみが入り混じった笑みだった。 「母さんさ、俺が雅子と付き合ってたとき、そんなふうに勧めたことあった?一度でも応援してくれた?」 「山田さんは桜井さんとは違うわ。それに......あの頃は、まだ若子との関係に望みがあると思っていたの。でも今は違う。若子はもう西也と結婚したのよ。あんたには......もう彼女を選ぶ理由がないわ」 ―また、西也か。 その名前を聞くだけで、修の心は抉られるように痛んだ。 「なあ、ひとつだけ聞かせてくれ」 修の声は低く、抑えていた怒りがにじんでいた。 「......母さんは、若子が妊娠してたこと、知ってたんじゃないか?」 その瞬間、光莉の心臓が跳ね上がった。 「修......それ......知ってしまったのね?若子に会ったの?」 修の手が、ぎゅっとシーツを握りしめる。 その手の甲には、浮き上がった血管が脈打っていた。 「やっぱり......知ってたんだな。どうして俺に黙ってた?なぜ、何も教えてくれなかったんだ!」 「ごめんなさい......修。私だって伝えたかった。でもあの時、若子が......もう言う必要ないって。彼女がそう言ったの」 ついに、その瞬間が来た。 修は真実を知った。若子が自分の子を産んでいたという、残酷な事実を。 光莉の心は重く沈んだ。 修が今どれほど苦しんでいるか、想像に難くない。 母として、彼女の胸には後悔があった。 だが、ここまで来たら、もう「運命」としか言いようがなかった。 「......そうか、言う必要がなかったんだな」 「若子はあいつの子どもを妊娠し
「暁―忘れるなよ。『藤沢修』、その名前を覚えておけ。あいつは、おまえの仇だ」 ...... 夜が降りた。 病院は静まり返り、あたり一面が闇に包まれていた。 窓の外には星が点々と浮かび、真珠のように建物の屋根を彩っていた。 やわらかな月光が屋上からゆっくりと差し込み、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせる。 白い病室。 修は、真っ白なシーツに身を包まれてベッドに横たわっていた。 消毒液の匂いが、空気を支配している。 ベッドの脇には点滴が吊るされ、透明な液体が少しずつ彼の身体へと流れ込んでいた。 穏やかな灯りが、彼の青ざめた顔に落ちる。 その表情には、深い疲労と痛みがにじんでいた。 修は、目を開いた。 視線をさまよわせ、室内を確認する。 ゆっくりと身を起こし、点滴に目をやると、まだ半分ほど残っていた。 そのとき―病室のドアが開いた。 ひとりの外国人の男が入ってくる。 「藤沢さん、目が覚めたか」 「......見つかったか?」 修の声には焦りがにじんでいた。 男は首を振った。 「いや、まだだ。他の場所も順番に探してる」 修の瞳から、いつもの鋭さは失われ、暗く沈んでいた。 眉間には深い皺が刻まれ、重たい悔恨が彼の表情を支配していた。 彼は視線を落とし、口元に力なく笑みを浮かべる。 ―なぜあのとき、追いかけなかったのか。 若子を、あんなふうにひとりで行かせるべきじゃなかった。 夜の道を、彼女ひとりで運転させるなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。 どんな理由があろうと、あのとき引き止めて、一緒に行くべきだった。 侑子が怪我をしたからって、あそこで立ち止まるべきじゃなかったんだ。 すぐに追いかければ、若子に何か起きることもなかったかもしれない。 彼は、若子を恨んでいた。 あの瞬間、彼女が選んだのは自分ではなく、西也だったから。 でも今― 彼が選んだのは、侑子だった。そして、その選択が若子を傷つけた。 あのとき、彼にとっては難しい決断ではなかった。 もしすぐに若子を追いかけていれば、侑子に危険は及ばなかったはずなのに。 修は、自分が彼女を追わなかったことを、心の底から憎んだ。 その瞳には、痛みの波が渦を巻いていた。 まるで深い夜の湖
西也の心は―まるでとろけるようだった。 「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」 声が震えていた。 嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。 暁が笑ったのは、これが初めてだった。 しかも、それが自分に向けられた笑顔。 初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。 これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても― 心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。 この子は、自分の子ではない。 修の血を引いている子だ。 若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。 そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。 けれど、今― 暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。 ―愛してる。 たとえ血の繋がりがなくても。 たとえこの子が修の子でも。 そんなことは、どうでもよくなった。 ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。 暁は再び笑った。 その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。 笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。 その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。 その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。 「暁......俺の可愛い息子」 西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。 まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。 「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな...... ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」 暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。 まるで幸せのリズムを刻むように。 「......パパの顔、触りたいのか?」 西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。 暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。 その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。 まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。 恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。 その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
もしかすると―驚かせてしまったのかもしれない。 暁は、さらに激しく泣き始めた。 口を大きく開けて、嗚咽のように大声で泣いている。 「泣かないでくれよ、な?暁、パパが抱っこしてるじゃないか。 いつもはママが抱っこすると泣くくせに、パパが抱いたら泣き止んでたじゃないか。これまでずっとパパが面倒見てたんだぞ?そんなに悪かったか?なんで泣くんだよ...... ......まさか、藤沢のこと考えてるのか?」 その瞬間、西也の目が、獣のように鋭くなった。 「教えてくれ、そうなのか?あいつのことを想ってるのか?奴が......おまえの本当の父親だから? 違う......違うんだ、暁。俺が、おまえの父親だ。ずっと、ずっとおまえとママのそばにいたのは、この俺なんだ。あいつは、おまえの存在すら知らなかったくせに......女たちと好き勝手してたんだ。 暁、おまえが大きくなったら、絶対に俺だけを父親だと思うよな? 藤沢なんて、父親の資格ないんだ......そんなやつが、おまえの父親であってたまるか。 父親は俺だ!俺しかいないんだ! 暁、目を開けて、よく見ろ......この俺が、おまえの父親なんだよ! 泣くなよ......な?頼むから、泣かないで」 けれど、どれだけあやしても―暁の涙は止まらなかった。 「やめろって言ってんだろ!!」 西也はついに怒鳴りつけた。 「これ以上泣いたら......おまえを、生き埋めにしてやるからな!」 狂気をはらんだ眼差しで睨みつけた。 その瞬間― 暁の泣き声が、ぴたりと止まった。 黒く潤んだ瞳が、大きく見開かれたまま、まるで魂が抜けたように無表情になる。 動かない。 光が消えたようなその瞳を見て、西也ははっとした。 「......暁、どうした?パパだよ、わかる?」 西也はその小さな頬に手を添え、そっと撫でた。 「ごめんな、怖がらせたよな。パパ、怒ってたんじゃないんだ。ちょっと......ほんの少し、気が立ってただけなんだ」 西也は涙混じりに頬へ口づける。 「ごめん、本当にごめん。パパ、もう怒らないから。だから、お願いだから......怒らせるようなこと、しないでくれよな?」 子どもは、もう泣いていなかった。 ぐずりもせず、ただ黙っていた。