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第815話

Author: 夜月 アヤメ
雅子が口を開くよりも早く、修が先に言った。

「......彼女は、桜井雅子だ」

ただ、それだけだった。

それ以上、雅子についての説明はしない。

まるで、ただの名前を紹介するだけのように。

その態度に、雅子の胸がざわつく。

―わざとよね?

―私のことを、あえて説明しないつもり?

納得がいかなかった。

まるで、自分の存在を隠したいかのような修の態度に、雅子はすぐに言葉を重ねる。

「私は、修の婚約者よ」

彼女ははっきりと宣言した。

「私たち、以前は結婚寸前だったの」

その言葉に、修の眉がわずかに動いた。

結婚式のことが、ふと脳裏をよぎる。

確かに、彼は雅子と結婚するはずだった。

しかし、式の最中に若子が誘拐されたと知った瞬間―

彼は何もかも投げ捨てて、彼女のもとへ駆け出していた。

その結果、雅子を一人、結婚式場に残したまま。

けれど、彼は若子を取り戻せなかった。

修は、それ以来雅子のことを気にかけることはなかった。

彼女がどうしていたのか、どんな気持ちであの後を過ごしたのか―考えたことすらなかった。

今こうして目の前にいる彼女を見て―

完全に「何も感じない」とは言えなかった。

ほんのわずかでも、罪悪感があったのは確かだった。

だからこそ、修は何も言い返さなかった。

その沈黙が、侑子の心を大きく揺さぶった。

「......婚約者?」

頭が真っ白になる。

侑子は信じられないというように、雅子を見た。

そして次に、修の顔を見る。

「......どういうこと?」

彼の表情からは、何の感情も読み取れなかった。

「彼女が、藤沢さんの婚約者......?」

混乱したまま、彼の目を覗き込む。

「......どういうこと?あんたはもう離婚してるはずよね?それなのに、どうして婚約者がいるの?あんたは元奥さんを今でも愛してるって......あんなに必死で取り戻そうとしてるのに......」

雅子の心臓が大きく跳ねる。

―どういうこと......?

驚いたまま、修を見つめた。

「ねえ、修......これは、一体どういうこと?

彼女に、私のことを話していなかったの?

彼女は本当に『友人』なの?」

雅子は言葉を失った。

あの日、結
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Comments (1)
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シマエナガlove
また雅子出てきた 結婚式場から修が消えたのに まだ婚約者って言ってくるしつこさ もう婚約者じゃないんだけど 修もはっきり言わないから 雅子がつけ上がるんだよ 侑子ちゃんショックで死んだらどうすんだ 雅子みたいに悪質さない 唯一の理解者かもしれない
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    「......俺は、そういう人間なんだよ」 修はくるりと振り返り、冷たく言い放つ。 「信じようが信じまいが、好きにすればいい」 侑子がどう思おうと、雅子がどう思おうと、もうどうでもよかった。 家族からどう見られようと、もうどうでもいい。ましてや、他人ならなおさら。 「違う......!藤沢さんはそんな人じゃない......!どうして認めようとしないの?」 彼女の目の奥に、苦しみがにじむ。 「本当は、あんた自身が一番つらいんでしょう?......なのに、どうして認めようとしないの?こんなことをするには、何か理由があるはずよ!」 「......理由なんか、あるわけないだろ」 修は苛立ちをあらわにし、低く唸るように言った。 「なんでお前は、そんなに男を擁護しようとするんだ?俺には理由なんかない。ただ、俺が妻を裏切った。だから、こうなった。それだけだ」 怒りが抑えきれず、声が一気に荒くなる。 「俺は、自業自得なんだ!」 突然の怒声に、侑子は肩を震わせる。 大きく目を見開き、修を見つめるしかできなかった。 修はハッとして、乱れた呼吸を整えるように深く息を吸った。 「......もう決まったことだ。お前は、もう俺のために言い訳を探すな」 少し落ち着いた声で、淡々と言う。 「俺は、『いい男』なんかじゃない」 侑子は拳をぎゅっと握りしめる。 涙が頬を伝いながら、それでも訴えるように言った。 「......たとえ本当にそうだったとしても、あんたはもう自分の過ちに気づいてるじゃない!」 修は鼻で笑う。 「それがどうした?」 「どうした、じゃない!人は誰でも間違いを犯すものよ。でも、間違いを認めて、ちゃんとやり直せば......」 「やり直せば?」 修は思わず笑った。 「そうか、じゃあ聞くけどな―『俺の女』は、どこにいる?戻ってきたか?俺のそばに?......いないよな」 「......藤沢さんは、彼女にこだわる必要なんてないでしょ?もう自分の過ちに気づいたんだから、次は同じ間違いをしないでしょ?私は、藤沢さんが本当にいい女に出会えるって信じてる」 侑子の言葉を聞いた瞬間、修の表情が険しくなる。 「『本当にいい女』?」 低く冷たい声が響く。 「......お前、

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第817話

    修は雅子を見つめながら、何も言えなかった。 彼は、雅子に対して後ろめたさがある。 だから、彼女に偉そうなことを言う資格なんてない。 事実、結婚式の日に彼女を捨てたのは、自分なのだから。 雅子が怒るのは当然だ。責められるのも、仕方のないこと。 それなのに、彼女はただ怒るだけでなく、どこか悲しげだった。 修が冷静でいることが、かえって彼女を苦しめているのかもしれない。 むしろ彼が言い返してくれたほうがよかったのかもしれない。 怒鳴り合いになったほうが、まだマシだったのかもしれない。 でも、修はそうしなかった。 それが、雅子にはたまらなく辛かった。 ―この人は、本当にもう私に何の感情もないんだ。 もしかすると、最初から私のことなんて、なんとも思っていなかったのかもしれない。 ただの勘違いだったのかも― 「......それで、あの女は?」 雅子は睨みつけるように言った。 「あんた、どうするつもり?私を捨てて、今度はあの山田侑子って女と付き合う気?」 「雅子」 修は彼女の言葉を遮った。 「お前はもっといい男に出会える。だから、俺なんかに時間も感情も無駄にするな」 「......ふざけないで!」 雅子は怒りに震えた。 「そんな簡単に言うけど、私はどうすればいいのよ?あんたは好き勝手にいなくなって、今度は目の前で他の女と一緒にいるところを見せつけられるの?納得できるわけないでしょう!......私とあの女が同時に倒れたとき、あんたはあの女を助けたわよね?あんた、最低よ!」 修はこめかみを押さえながら、ぼそりと呟く。 「......あぁ、そうだな。お前の言う通りだ」 「......っ!」 雅子は拳を強く握りしめた。 「......わかったわ。もういい。あんたのその態度、はっきり伝わった」 そう言うと、雅子は涙を拭い、すっと顔を上げる。 「もう好きにすればいい。私はここを出るわ。あんたはせいぜい、その女と一緒にいれば?」 そして、修を睨みつけながら、最後に吐き捨てるように言った。 「修、あんたなんて―大っ嫌い」 そう言い残し、雅子は駆け出していった。 修は追いかけなかった。 ただ、雅子が去るのを黙って見送る。 ―すべては、自分のせいだ。 雅子

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第816話

    ―きっと、自分の言葉が山田さんを刺激してしまったんだ。 彼女は心臓病を抱えているのに、あんな風に追い詰めてしまった。まるで命を奪うような真似を...... でも、あのときどうすればよかった?彼女を身代わりにはできない。それだけは、どうしても。 雅子は拳を強く握りしめ、指先が手のひらに食い込みそうだった。 長い沈黙の後、彼女は大きく息を吸い、気持ちを落ち着けると修の前に立った。 「修、これは一体どういうこと?あの女は誰なの?」 修は壁にもたれ、伏し目がちに答えた。 「......彼女は、俺を救ってくれたんだ」 「......え?」雅子は目を見開く。「彼女が、あんたを?いつの話?」 その言葉に、修の胸が強く締めつけられた。あのときの光景が頭をよぎり、息が詰まりそうになる。 「......もう過去のことだ。これ以上、話すつもりはない」 彼の表情は、何も語りたくないと物語っていた。 話を変えるように、彼はぽつりと呟く。 「結婚式の件は......すまなかった。俺が悪かった。お前を捨てた」 雅子は歯を食いしばり、悔しさと痛みが入り混じった瞳で彼を見つめる。 「......やっと謝る気になったのね。私は、あんたが自分の非を少しも感じていないのかと思ってたわ。だって、あの日から一度も連絡してくれなかった。修、あんた......本当に私を捨てたの?」 修は壁から背を離し、まっすぐ彼女を見つめて言った。 「俺には、お前と一緒にいられないんだ。お前なら、もっといい男に出会えるはずだ」 「......っ!」 雅子の怒りが爆発する。 「修、あんたって人は本当に......!いったいどれだけの人を傷つければ気が済むの!?」 修は冷たく口を開く。 「雅子、お前を傷つけたくないからこそ、一緒にはなれない。俺といるのは、お前にとって不公平だ」 「公平かどうかを決めるのは、あんたじゃないでしょ?」雅子は食い下がる。「それは、私が決めることよ!」 修は黙った。これ以上、何を言っても彼女を苦しめるだけだとわかっていたから。 雅子は頬を伝う涙を乱暴に拭うと、それ以上は何も言わなかった。追いすがったところで、もう意味がない。 ―この男は、本当に私を捨てたんだ。 桜井ノラからの報告で、若子と西也が国外に

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第815話

    雅子が口を開くよりも早く、修が先に言った。 「......彼女は、桜井雅子だ」 ただ、それだけだった。 それ以上、雅子についての説明はしない。 まるで、ただの名前を紹介するだけのように。 その態度に、雅子の胸がざわつく。 ―わざとよね? ―私のことを、あえて説明しないつもり? 納得がいかなかった。 まるで、自分の存在を隠したいかのような修の態度に、雅子はすぐに言葉を重ねる。 「私は、修の婚約者よ」 彼女ははっきりと宣言した。 「私たち、以前は結婚寸前だったの」 その言葉に、修の眉がわずかに動いた。 結婚式のことが、ふと脳裏をよぎる。 確かに、彼は雅子と結婚するはずだった。 しかし、式の最中に若子が誘拐されたと知った瞬間― 彼は何もかも投げ捨てて、彼女のもとへ駆け出していた。 その結果、雅子を一人、結婚式場に残したまま。 けれど、彼は若子を取り戻せなかった。 修は、それ以来雅子のことを気にかけることはなかった。 彼女がどうしていたのか、どんな気持ちであの後を過ごしたのか―考えたことすらなかった。 今こうして目の前にいる彼女を見て― 完全に「何も感じない」とは言えなかった。 ほんのわずかでも、罪悪感があったのは確かだった。 だからこそ、修は何も言い返さなかった。 その沈黙が、侑子の心を大きく揺さぶった。 「......婚約者?」 頭が真っ白になる。 侑子は信じられないというように、雅子を見た。 そして次に、修の顔を見る。 「......どういうこと?」 彼の表情からは、何の感情も読み取れなかった。 「彼女が、藤沢さんの婚約者......?」 混乱したまま、彼の目を覗き込む。 「......どういうこと?あんたはもう離婚してるはずよね?それなのに、どうして婚約者がいるの?あんたは元奥さんを今でも愛してるって......あんなに必死で取り戻そうとしてるのに......」 雅子の心臓が大きく跳ねる。 ―どういうこと......? 驚いたまま、修を見つめた。 「ねえ、修......これは、一体どういうこと? 彼女に、私のことを話していなかったの? 彼女は本当に『友人』なの?」 雅子は言葉を失った。 あの日、結

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