「意味がない」―その言葉を聞いた瞬間、光莉の心は深い谷底へと突き落とされた。 ―そうだ、西也にとって藤沢家にどんな意味がある?私という母親にどんな意味がある? 彼は、光莉が母親だということすら知らない。 それは、彼女が臆病だったから。怖かったから。西也に憎まれるのが。 でも、母親として憎まれるより、ただの他人として憎まれる方がまだマシだった。 ―この痛みは、私一人が抱えていればいい。 西也が憎んでいるのが「他人」だと思っている方が、「母親」を憎むよりもずっといいのだから― 西也は少し疑問を感じながら、試しに尋ねた。 「僕、てっきり若子はおばあさんの家に行かれるものだと思っていましたが......まさかこんなレストランでお会いするとは。それに、ご主人と息子さんは?」 光莉は静かに答えた。 「二人とも忙しくて、今は時間がないの。だから今日は、お義母さんを連れて外に出ようと思って」 「......そうですか?」 西也はますます興味を抱いた。 他のことはさておき、修がどれだけ忙しいかは知っている。 でも、若子にすら会わないほどだろうか? これはチャンスだ。 ......いや、もしかすると修自身が、今日若子に会える可能性があったことすら知らなかったのかもしれない。 光莉という女、やはりどこか妙だ。 「あなたが、僕に息子さんを憎まないよう言われるのは......まぁ、別に構いません」 西也は肩をすくめ、ふと目を細めた。 「ですが、もし彼が今後も若子にしつこく付きまとうなら、どうするおつもりですか?」 光莉は顔を上げ、まっすぐな目で答えた。 「止めるわ」 「......え?」 西也は思わず耳を疑った。 ―親子なのに?だったら普通、味方するもんじゃないか? 「修と若子はもう終わったの。だけど、修が彼女に与えた傷は決して癒えない。これ以上関われば、若子はますます苦しむだけ。だから、二人は離れた方がいい。 もし、あんたが現れなかったら、若子はもっと傷ついていたでしょう。彼女のそばにいてくれてありがとう」 西也がどんな人間であれ、少なくとも若子への気持ちは本物だ。 彼は決して、彼女を傷つけようとはしない。 光莉の誠実な言葉を聞いて、西也は半信半疑だった。 「....
光莉は、西也の沈んだ表情を見て、胸が締めつけられるような気持ちになった。 「......私から彼女に話してみるわ」 俯いていた西也の瞳が、一瞬だけ鋭く光った。 だが、その光はすぐに消え、彼は驚いたように顔を上げる。 「......今、何て?」 「私が彼女に話してみる。早くあんたと一緒に海外へ行くように、そして記憶の回復を手伝ってあげるように」 西也は思わず目を細める。 ―信用できない。 光莉が、まさかこんなふうに協力的になるなんて。 「......冗談ですよね?」 「冗談なんかじゃないわ。本気よ」 「......どうして僕を手伝うんですか?」 「修のためでもあり、若子のためでもある。そして......あんたたち三人がこれ以上もつれないようにするためよ」 「......でも、若子のおばあさんは?若子は絶対に彼女を見捨てないと思いますけど」 「だから、私が話してみるのよ」 光莉は静かに言い切る。 「うまくいくかは分からない。でも、全力を尽くしてみる」 その頃、若子は華を支えながら、レストランへと戻ってきた。 二人は席に着き、改めて談笑を始める。 ―さっきまでお母さんと西也が話していたけれど、大丈夫だったのだろうか? 若子は内心で少し気を揉んでいたが、二人の様子を見る限り、特に揉めた様子はないようだった。 その後、四人でしばらく話し込み、ようやく店を出る頃には、日はすっかり傾いていた。 若子は華の腕を取り、名残惜しそうに寄り添う。 ......本当は、もっと一緒にいたかった。 駐車場に着くと、光莉がふと口を開く。 「お義母さん、先に車に乗ってて。すぐ行くから」 「......分かったわ」 華も少し疲れたようで、小さく頷くと車に乗り込む。 光莉は丁寧に彼女を支え、ドアを閉めた。 そして、ゆっくりと振り返り、若子の前に立つ。 その視線はまっすぐ西也に向けられていた。 ―その目には、何か複雑な感情が浮かんでいるように見えた。 少しの沈黙の後、光莉は口を開く。 「若子と二人で話がしたいのだけど、いいかしら?」 西也は軽く頷く。 「......じゃあ、車で待ってる」 若子も頷き、「うん、すぐ行く」と答えた。 西也が車へ向かい、光莉と若子
「若子、修と離婚した後、すぐに行くつもりだったんじゃないの?なのにずっと残ってて、今はもういろんなことがぐちゃぐちゃになってるよ。ちょっと気分転換に海外へ行ったほうがいいんじゃない?」 「お母さん、こんな時に出て行くなんてできません」 「なんでできないの?もしおばあさんのことが心配なら、安心しなさい。私とお父さんがちゃんと面倒を見るから。それに、修だって今はおばあさんの前に出ることすらできないわ。おばあさんはもう彼のことを覚えていないんだから」 「でも、お母さん......」 「若子」光莉は再び言葉を遮る。「おばあさんのことは、いつでも私が報告するわ。もし何かあれば、すぐに呼び戻す。だけど、ここはもう安全じゃない。あんたを誘拐した犯人はまだ捕まってないのよ?また襲われたらどうするの?それに......今はあんた一人じゃないでしょ。お腹の子のこと、ちゃんと考えなさい」 「でも......私、約束したんです。生まれたら一番におばあさんに見せるって」 「おばあさんは、もうその約束のことなんて覚えていないわ。突然赤ん坊を見せたところで、誰の子かもわからないでしょう?若子、もう意地を張るのはやめなさい。気持ちを整理するためにも、少し外の世界を見てきたら?国内のことは全部私が片付ける。それに......お母さんは、あんたに海外で勉強してほしいの」 「勉強......ですか?」 「そうよ。あんたの専攻は金融でしょ?だったら、海外でしっかり学んできなさい。もっと自分を高めるべきよ、若子。外に出て、世界を広げなさい。おばあさんのことは心配しなくて大丈夫だから」 ― 西也は車の中でじっと待っていた。だが、時間が経つにつれ、その忍耐も薄れていく。 どうも気がかりだ。 あいつ、若子に何を話している?まさか、俺の悪口でも言っているんじゃないだろうな? 口では綺麗事を言っていても、裏で何を企んでいるかわかったもんじゃない。 藤沢家の人間なんて、信用できるわけがない。 そう思いながら車を降りようとしたその時、若子がようやくこちらに向かって歩いてきた。 西也はすぐにドアを開ける。「若子、話は終わったのか?」 若子の目は赤くなっていた。 「泣いたのか?」 「......なんでもない。帰りましょう」 そう言って、若子は助手
深夜、若子は眠れなかった。 一人で庭に出て、ブランコに腰掛ける。夜風が頬を撫で、少しひんやりとした感触が心地いい。 その時、ふわりと温もりが肩にかかる。 振り返ると、西也が優しく毛布をかけてくれていた。 若子は口元をわずかにほころばせる。「西也、まだ寝てなかったの?」 「お前もな」 そう言って、西也は隣に座る。「どうした?話してみろよ」 「......おばあさんが心配で」 「気持ちはわかる。だけど、この病気は治るものじゃない。ただ、誰かがそばにいてやれば、それでいい」 「......私が面倒を見たいの。もし妊娠してなかったら......」 そう言いながら、胸が痛んだ。 あんなに待ち望んでいた子なのに、どんなことがあっても産むと決めたのに。 なのに今、「この子がいなければ」と思ってしまう自分がいる。 人の気持ちって、こんなにも変わるものなのか。 西也はそっと彼女の手を握る。「若子、そんなこと言うなよ。まずは無事に産もう。それからゆっくり考えればいい」 「......」 西也の言葉を聞いた瞬間、若子の頭にあることが浮かぶ。 ―私は、西也に絶対に離婚しないと約束した。 だけど、それは彼が記憶を失っている今だから。 もし記憶を取り戻したら?きっと、離婚できるはず。 離婚すれば自由の身になれる。そしたら、おばあさんのそばで暮らし、ずっと面倒を見られる。 でも今は―お腹の子を産むまでは、何もできない。 それに、お母さんの言うことも一理ある。 卒業してから妊娠のせいで勉強を続けられなかったし、仕事もしていない。この機会に、もう一度学び直すのも悪くない。 「......西也、海外へ行かないか?」 西也の顔が一瞬で驚きに染まる。 光莉に言われた時は信じなかった。まさか本当に若子がその気になるなんて。 西也の驚いた顔を見て、若子は微笑んだ。 「もともと行く予定だったでしょ?ただ、いろいろあって伸びちゃっただけ。それに、私も約束したし、ちゃんと一緒に行くよ。それに......西也には、一日でも早く記憶を戻してほしいから」 西也は、ふっと優しく微笑んだ。「......わかった。じゃあ、いつ行く?」 「いつでも」 「じゃあ、少し時間をくれ。会社のことを片付けてからにする
こうして、西也と若子は、ついに海外へ行く日を決めた。 それまでに、西也は常遠の買収を完全に終わらせなければならなかった。 常遠側は当然、買収を拒んだ。しかし、西也はあらゆる手を使い、容赦なく攻め続けた。 結果、常遠はついに耐えきれず、買収契約にサインをすることになる。 次のステップは、企業の譲渡。 ここで、西也はあることに気づく。 ―あの誘拐犯を、甘く見すぎていた。 西也は、譲渡を追跡することで、犯人の正体を突き止めるつもりだった。 だが、相手はそれすらも計算済みだった。 譲渡の受け手は、代理会社。さらに、その代理会社の裏には別の法人が絡んでおり、本当の所有者の素性は完全に隠されていた。 どんな手を使っても、買い手の正体を掴むことができない。 時間と労力をかけて追跡することは可能かもしれない。 だが、その間にも犯人は余裕の態度で西也を見下ろしている。 まるで、彼が必死に調べても何も掴めないと確信しているかのように。 そのことを悟った西也は、調査を中止することにした。 今、最優先すべきは、犯人を突き止めることではない。 ―奴の正体がわかったところで、動画がまだ手元にある限り、どうすることもできない。 ならば、無駄な足掻きはやめるべきだ。 今は、若子と一緒に海外へ行くことが先決。 俺には、もう時間がない。 海外へ行けば―全て、変わるかもしれない。 準備は順調に進んだ。 渡航手続きは全て完了し、アメリカ側の医療機関も受け入れ態勢を整えた。 そして、予定通り、二人は飛行機に乗り込む。 アメリカへ。 ...... 西也と若子が出国した後、表面上は何事もなく、平穏な日々が続いた。 それからの一週間、若子はずっと光莉と連絡を取り合っていた。 彼女の近況を知るたびに、光莉はほっとする。 二人とも、無事に新しい生活を始められたようだった。 西也も、治療を受けている。 若子は、体を大事にしながら、同時に勉強を始めた。 すべてが順調に進んでいるように見えた。 光莉は、今回の判断が正しかったことを実感する。 ―やっぱり、二人を行かせてよかった。 国内にいれば、修がいる。 どれだけ西也が若子を大切にしようと、二人の間にはどうしても「溝」ができてしまう
修は足を止め、振り返る。 母の顔には、明らかに言いづらそうな表情が浮かんでいた。 「一体何だ......何か隠してんか?」 「......あんた、本当に若子とは終わったの?」 その言葉に、修は目を閉じる。 握りしめた拳が、わずかに震えた。 「......若子が終わらせたがったんだ。俺に何ができる?」 「じゃあ、あんたはまだ彼女と一緒にいたいのね?」 修は苦笑する。「母さん、俺がどうして怪我をしたか知ってるか?俺が若子を助けに行った時、何があったのか......知ってるか?」 光莉は静かに問い返した。「......何があったの?」 修は一瞬だけ迷い、そして小さくため息をついた。 「......いや、もういい」 言わなくてもいいことだった。 誰にも言いたくない。 ただ、若子は西也を選んだ―それだけだ。 それが、すべての答えだった。 ―若子は、もう俺を愛していない。 修が去ろうとするのを、光莉が慌てて引き止めた。 「待って!一体どうしたの?ちゃんと話して」 その表情には、明らかな不安が滲んでいる。 「......話すことなんてない」 修は冷めた声で答えた。 今さら、両親と何を話せばいい? 誰も、自分の味方にはならない。 いや、そもそも自分に味方する権利なんてない。 自分が間違えたのだから、誰かに寄りかかろうなんて甘えたことを考える資格はない。 「修......お願いだから、話してくれない?」 光莉の声が、少し震えていた。 彼女は、このところ修の気持ちがひどく沈んでいることを知っていた。 それが単なる落ち込みなのか、本当にうつ病なのかは分からない。 でも、こんな時こそ、一番必要なのは家族の支えと寄り添いだ。 「......話して何になる」 「何にもならないかもしれない。でも、心に溜め込むのはよくないわ。どんなことでも、一人で抱え込まないで」 修は、ふっと鼻で笑う。 「抱え込むな?母さんが俺の話を聞いたところで、どうせ俺を責めるんだろ?」 「そんなことない。私はあんたの母親よ。あんたを傷つけるわけがないじゃない」 光莉の声には、強い意志が込められていた。 修は、しばらく彼女を見つめ―そして、ふっと笑った。 「......若子は
母さんが若子を庇うのは、本来なら嬉しいはずなのに。 ―だけど、どうしてこんなにも虚しいんだ? 修はいつも、「選ばれる側」ではなかった。 「排除される側」だった。 「母さん、俺は誤解なんかしてない。若子が遠藤を選んだことが、間違いだなんて思わない。どんな状況であれ、彼女には彼女なりの理由があったんだろう。だけど―俺の立場からすれば、それは『正しい選択』なんかじゃない......俺にとっては、破滅だった」 そう言いながら、修はそっと胸の傷跡に手を当てる。 深く刻まれた傷痕は、今もなお、うずくように痛む。 ―あの日のことを思い出すたび、あの痛みが蘇る。 決して、癒えることのない傷。 「修......」 光莉の目に、深い悲しみが宿る。 その手が、修の手をぎゅっと握りしめた。 「......あんたがどれほど苦しんだか、私にはわかるわ。でも、もう若子とは関わらないと決めたのなら、それでいいじゃない。あんたには、まだ未来がある。たくさんの素敵な人に出会えるわ。だから、過去に囚われないで」 その言葉とともに、光莉の瞳から、涙がこぼれ落ちる。 ―どんなに強くあろうとしても、母親には息子の痛みが伝わる。 修がどれだけ傷つき、どれだけ絶望したのか― 彼が何も語らなくても、痛いほど伝わってくる。 若子が西也を選んだ。 本来なら、彼女を責めるつもりだった。 怒りをぶつけ、罵倒するつもりだった。 だけど...... ―西也もまた、自分の息子だった。 修も西也も、どちらも光莉にとってはかけがえのない子供。 若子の選択が、どれほど苦しいものだったか、今ならわかる。 彼女は、どちらを選んでも苦しんでいただろう。 もし自分が彼女の立場だったとして、正しい選択ができるのか? ―おそらく、できないだろう。 だから、彼女がその瞬間に何を思っていたのかなんて、誰にもわからない。 感情のままに、勢いで言葉を発したのかもしれない。 深く考える余裕すらなかったのかもしれない。 だって― 彼女にとって、二人とも「大切な存在」だったのだから。 ......ただ、そのうちの一人は、彼女を傷つけたことがある男だった。 彼女の選択は、きっと間違っていなかった。 修は静かにため息をついた。「.
修は、西也と若子の間に何があったのかを知っている。 あいつは、少なくとも若子に誠実だった。 彼女が最も苦しい時、そばにいて、支え続けた。 だからこそ、彼女が西也を選んだことに、修はもう何も言うつもりはない。 ―でも、母さんは? 西也のために、母さんは何をした? 他の母親なら、自分の息子を守るはずだ。 なのに、どうして俺の母親は違う? ―いや、そもそも、俺は母さんに守ってもらったことなんて、一度もなかった。 子供の頃から、どんなことも自分一人で乗り越えてきた。 何かあったとき、親に助けを求めるという発想すらなかった。 だから、今さら期待なんてしていない。 でも― それでも、こんなにも露骨に態度を変えられるのは、さすがにキツい。 「西也」って―まるで、ずっと息子として可愛がってきたかのような呼び方じゃないか。 若子を守るためなら、母さんがあいつを庇うのも仕方ない。 それはわかる。 だけど、納得できないのは― あいつが何もしていないのに、母さんがそんなに優しく名前を呼ぶことだ。 ―俺がこんなに苦しんできても、そんなふうに呼ばれたことなんて、一度もなかったのに。 修は、自嘲するように目を伏せた。 ......これは、ただの嫉妬なのか? それとも、世の中が理不尽すぎるだけなのか? どうして、誰もがあいつの味方をする? ―母さんまで。 たった一言。 「西也」という呼び方だけで、心が真っ二つに引き裂かれた気がした。 光莉は、呆然と修を見つめる。 その瞳には、隠しきれない罪悪感がにじんでいた。 ―いや、罪悪感だけじゃない。 焦りと、動揺。 光莉は、ゆっくりと視線を落とした。 言葉が、出てこなかった。 今さら、何を言えばいい? ―西也は、自分の「本当の息子」だ。 ―自分は二十年以上もの間、彼の存在を知らずに生きてきた。 ずっと死んだと思っていた我が子が、突然目の前に現れた。 しかも、その子に、自分は何をしてきた? 罵倒し、傷つけ、突き放し、侮辱した。 それは全部、修を守るためだった。 そう、あの時の自分は―「修を守るため」に、そうしていたのだ。 ―どちらも、私の息子なのに。 どちらかを選ぶなんて、できるわけがない。
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった
「それで......あんたと山田さんは、うまくやっているの?」 光莉の問いかけには、どこか探るような調子が混ざっていた。 「......」 修は黙ったまま、答えなかった。 少しして、光莉がもう一度静かに尋ねた。 「修?どうかしたの?」 「......母さんは、俺が侑子とうまくやってほしいって、思ってるんだろ?本音を聞かせてくれ」 数秒の沈黙のあと、光莉は正直に口を開いた。 「ええ。私は、彼女があんたに合ってると思ってるの。若子との関係が終わったのなら、新しい恋に踏み出してもいいじゃない」 新しい恋―その言葉に、修はかすかに笑った。 それは皮肉と哀しみが入り混じった笑みだった。 「母さんさ、俺が雅子と付き合ってたとき、そんなふうに勧めたことあった?一度でも応援してくれた?」 「山田さんは桜井さんとは違うわ。それに......あの頃は、まだ若子との関係に望みがあると思っていたの。でも今は違う。若子はもう西也と結婚したのよ。あんたには......もう彼女を選ぶ理由がないわ」 ―また、西也か。 その名前を聞くだけで、修の心は抉られるように痛んだ。 「なあ、ひとつだけ聞かせてくれ」 修の声は低く、抑えていた怒りがにじんでいた。 「......母さんは、若子が妊娠してたこと、知ってたんじゃないか?」 その瞬間、光莉の心臓が跳ね上がった。 「修......それ......知ってしまったのね?若子に会ったの?」 修の手が、ぎゅっとシーツを握りしめる。 その手の甲には、浮き上がった血管が脈打っていた。 「やっぱり......知ってたんだな。どうして俺に黙ってた?なぜ、何も教えてくれなかったんだ!」 「ごめんなさい......修。私だって伝えたかった。でもあの時、若子が......もう言う必要ないって。彼女がそう言ったの」 ついに、その瞬間が来た。 修は真実を知った。若子が自分の子を産んでいたという、残酷な事実を。 光莉の心は重く沈んだ。 修が今どれほど苦しんでいるか、想像に難くない。 母として、彼女の胸には後悔があった。 だが、ここまで来たら、もう「運命」としか言いようがなかった。 「......そうか、言う必要がなかったんだな」 「若子はあいつの子どもを妊娠し
「暁―忘れるなよ。『藤沢修』、その名前を覚えておけ。あいつは、おまえの仇だ」 ...... 夜が降りた。 病院は静まり返り、あたり一面が闇に包まれていた。 窓の外には星が点々と浮かび、真珠のように建物の屋根を彩っていた。 やわらかな月光が屋上からゆっくりと差し込み、建物の輪郭を静かに浮かび上がらせる。 白い病室。 修は、真っ白なシーツに身を包まれてベッドに横たわっていた。 消毒液の匂いが、空気を支配している。 ベッドの脇には点滴が吊るされ、透明な液体が少しずつ彼の身体へと流れ込んでいた。 穏やかな灯りが、彼の青ざめた顔に落ちる。 その表情には、深い疲労と痛みがにじんでいた。 修は、目を開いた。 視線をさまよわせ、室内を確認する。 ゆっくりと身を起こし、点滴に目をやると、まだ半分ほど残っていた。 そのとき―病室のドアが開いた。 ひとりの外国人の男が入ってくる。 「藤沢さん、目が覚めたか」 「......見つかったか?」 修の声には焦りがにじんでいた。 男は首を振った。 「いや、まだだ。他の場所も順番に探してる」 修の瞳から、いつもの鋭さは失われ、暗く沈んでいた。 眉間には深い皺が刻まれ、重たい悔恨が彼の表情を支配していた。 彼は視線を落とし、口元に力なく笑みを浮かべる。 ―なぜあのとき、追いかけなかったのか。 若子を、あんなふうにひとりで行かせるべきじゃなかった。 夜の道を、彼女ひとりで運転させるなんて、自分はなんて馬鹿なんだろう。 どんな理由があろうと、あのとき引き止めて、一緒に行くべきだった。 侑子が怪我をしたからって、あそこで立ち止まるべきじゃなかったんだ。 すぐに追いかければ、若子に何か起きることもなかったかもしれない。 彼は、若子を恨んでいた。 あの瞬間、彼女が選んだのは自分ではなく、西也だったから。 でも今― 彼が選んだのは、侑子だった。そして、その選択が若子を傷つけた。 あのとき、彼にとっては難しい決断ではなかった。 もしすぐに若子を追いかけていれば、侑子に危険は及ばなかったはずなのに。 修は、自分が彼女を追わなかったことを、心の底から憎んだ。 その瞳には、痛みの波が渦を巻いていた。 まるで深い夜の湖
西也の心は―まるでとろけるようだった。 「暁、今の......パパに笑ったのか?もう一回、笑ってくれるか?」 声が震えていた。 嬉しくて、感動して、涙が出そうだった。 暁が笑ったのは、これが初めてだった。 しかも、それが自分に向けられた笑顔。 初めて、「父親としての喜び」を、はっきりと実感した瞬間だった。 これまでどれだけこの子を大切にしてきたとしても― 心のどこかで、わずかに隔たりがあったのは事実だった。 この子は、自分の子ではない。 修の血を引いている子だ。 若子への愛ゆえに、この子にも愛情を注いできた。 そうすれば、彼女にもっと愛されると思っていた。 けれど、今― 暁のその笑顔を見た瞬間、彼は心から思った。 ―愛してる。 たとえ血の繋がりがなくても。 たとえこの子が修の子でも。 そんなことは、どうでもよくなった。 ただ、この子が笑ってくれれば―それだけで十分だった。 暁は再び笑った。 その澄みきった瞳が、きらきらと輝いていた。 笑顔はまるで小さな花が咲くようで、甘く香って心を満たしてくれる。 その笑い声は鈴のように澄んでいて、胸の奥まで響いた。 その無垢な笑顔は、生きることの美しさと希望を映し出していて、誰もが幸福に満たされるような魔法を持っていた。 「暁......俺の可愛い息子」 西也はそっと指先を伸ばし、彼のほっぺたを撫でる。 まるで壊れてしまいそうなほど繊細な肌に、細心の注意を払いながら。 「おまえは本当にいい子だ。パパの気持ち、ちゃんとわかってくれるんだよな...... ママは、わかってくれなかった......あんなに尽くしたのに」 暁は小さな腕をぱたぱたと動かし、雪のように白い手が宙を舞う。 まるで幸せのリズムを刻むように。 「......パパの顔、触りたいのか?」 西也は優しく微笑んで、顔を近づけた。 暁の小さな手が、ふわりと西也の頬に触れる。 その目には喜びと好奇心に満ちていて、純粋な視線でじっと彼を見つめていた。 まるで、この広い世界を初めて覗き込んでいるかのように。 恐れも、警戒もなく、ただまっすぐな瞳で西也を見つめる。 その瞳は、一点の曇りもない。あるのはただ、「知りたい」という気持ちだけ
もしかすると―驚かせてしまったのかもしれない。 暁は、さらに激しく泣き始めた。 口を大きく開けて、嗚咽のように大声で泣いている。 「泣かないでくれよ、な?暁、パパが抱っこしてるじゃないか。 いつもはママが抱っこすると泣くくせに、パパが抱いたら泣き止んでたじゃないか。これまでずっとパパが面倒見てたんだぞ?そんなに悪かったか?なんで泣くんだよ...... ......まさか、藤沢のこと考えてるのか?」 その瞬間、西也の目が、獣のように鋭くなった。 「教えてくれ、そうなのか?あいつのことを想ってるのか?奴が......おまえの本当の父親だから? 違う......違うんだ、暁。俺が、おまえの父親だ。ずっと、ずっとおまえとママのそばにいたのは、この俺なんだ。あいつは、おまえの存在すら知らなかったくせに......女たちと好き勝手してたんだ。 暁、おまえが大きくなったら、絶対に俺だけを父親だと思うよな? 藤沢なんて、父親の資格ないんだ......そんなやつが、おまえの父親であってたまるか。 父親は俺だ!俺しかいないんだ! 暁、目を開けて、よく見ろ......この俺が、おまえの父親なんだよ! 泣くなよ......な?頼むから、泣かないで」 けれど、どれだけあやしても―暁の涙は止まらなかった。 「やめろって言ってんだろ!!」 西也はついに怒鳴りつけた。 「これ以上泣いたら......おまえを、生き埋めにしてやるからな!」 狂気をはらんだ眼差しで睨みつけた。 その瞬間― 暁の泣き声が、ぴたりと止まった。 黒く潤んだ瞳が、大きく見開かれたまま、まるで魂が抜けたように無表情になる。 動かない。 光が消えたようなその瞳を見て、西也ははっとした。 「......暁、どうした?パパだよ、わかる?」 西也はその小さな頬に手を添え、そっと撫でた。 「ごめんな、怖がらせたよな。パパ、怒ってたんじゃないんだ。ちょっと......ほんの少し、気が立ってただけなんだ」 西也は涙混じりに頬へ口づける。 「ごめん、本当にごめん。パパ、もう怒らないから。だから、お願いだから......怒らせるようなこと、しないでくれよな?」 子どもは、もう泣いていなかった。 ぐずりもせず、ただ黙っていた。