若子の顎が男の大きな手に掴まれ、無理やり顔を上げさせられた。次の瞬間、男はスマートフォンを取り出し、それを若子の目の前に突きつけた。 「見えるかい?あの二人の男が君を助けに来たよ」 若子は画面の中に映る修と西也の姿を見て、一瞬怯えたように目を見開いた。「あなた、何をするつもりなの?」 「いい質問だね」男は楽しげに笑った。「僕が知りたいのは、あの二人のどちらが君にとって大事なのか、ってことさ」 「どっちも大事じゃないわ」若子は冷たく答えた。 「ほう、そうかい?」男はさらに口角を上げて笑った。「それなら、二人とも殺してしまおうかな。僕がここに仕掛けた罠を作動させれば、ボタン一つで二人の頭を打ち抜けるんだ」 「やめて!」若子は慌てて叫んだ。「私はもうあなたの手の中にいるでしょう?それ以上、何が必要なの?」 「ずいぶん取り乱してるじゃないか」男は揶揄するように言った。「君、さっき自分で言ったよね。『どっちも大事じゃない』って。重要じゃない人間を、どうしてそんなに気にするんだい?」 「お願いだから、何が目的なのか教えて。何がしたいの?」若子は声を震わせながら懇願した。 「言っただろう?」男はからかうような声で続けた。「僕が知りたいのは、君にとってどちらが大事か、ということ。片や君が深く愛した元夫、片や今の夫。君は今の夫を愛しているのかな?」 若子は目を閉じ、やるせなさそうに俯いた。「お願いだから、彼らを傷つけないで」 「本当に君は面倒な人だね」男は彼女の顎から手を離し、腰に手を当てながら大げさにため息をついた。「どちらが大事か一つも選べないなんて、君の決断力には問題があるね。 じゃあこうしよう」男はポケットから再びスマートフォンを取り出し、操作を始めた。「僕が代わりに選んであげるよ。二人とも死ぬ、ってね」 男はスマートフォンの画面を若子に向けて見せた。「ほら、ここにボタンが三つあるんだ。一番下のボタンを押せば、弾丸が二つ発射されるようになってる」 「やめて!」若子は震えながら叫んだ。「お願いだから、そんなことしないで!」 「でも君は選ぼうとしないじゃないか」男は肩をすくめて言った。 「どうやって選べっていうのよ!」若子は声を荒げた。 「簡単だよ。片方は元夫、もう片方は今の夫。そんなに難しいことかい?それとも、
「怪我をした方はどうなるの?」若子は震える声で尋ねた。 「怪我してる人間を、わざわざ殺す必要なんてないだろう?」男は軽い調子で言った。 再びスマートフォンを手に取った男は、若子に画面を向けて見せた。「ほら、左のボタンが藤沢修、右のボタンが遠藤西也、そして一番下のボタンは二人とも死ぬボタンだよ。さて、どれを押そうか。片方を怪我させるのか、それとも両方を殺すのか、君が決めな」 「お願い、選べないわ!」若子は泣きそうな声で懇願した。「二人とも怪我なんてしてほしくないし、死なせるなんて絶対嫌。だから、お願いだから、彼らを解放して。私がどんなゲームに付き合ってもいいから!」 「10秒だけやるよ」男の声に苛立ちが混ざり始めた。「それで選べなければ、二人とも死ぬ。それでいいね?」 男はカウントダウンを始めた。「10、9......」 若子は焦って尋ねた。「怪我をするって、どのくらいの怪我なの?」 「8、7、6......」 「答えて!答えてくれなきゃ選べないじゃない!」 「5、4......」 「お願い!やめて!」若子は涙声で叫んだ。 「3、2、1......」 「修!」若子は衝動的に叫んだ。「修を選ぶ!」 その言葉を聞いた男の口元に、意味深な笑みが浮かんだ。「藤沢を選ぶ、ね?つまり、遠藤が怪我をする方がいいってこと?」 そう言いながら、男は右のボタンに指を伸ばした。 「違う!違うの!」若子は震える唇をかみしめながら、涙を溜めた目で男を見つめた。「私が言いたかったのは、修が......怪我をするってこと」 若子の言葉が終わると同時に、男は無情にもスマートフォンのボタンを押した。 一方、修と西也は廃墟を隅々まで探していたが、若子の姿は見つからなかった。 「若子!どこにいるんだ!」西也は声を張り上げた。 「やめろ、無駄だ」修が冷静に言った。「ここにはいない。叫んでも意味がない」 「じゃあ、どうするって言うんだ!」西也は怒りに満ちた声で反論した。「役に立つことを言え!さもなくば黙っていろ!」 「はっ」修は冷たい笑みを浮かべた。「西也、覚えてるか?あの日、レストランで言ったことを。どうやら、あの時の俺の言葉が正しかったみたいだな。お前は若子に守られることでしか生きられない。だけど、お前自身は何の役にも立た
「そんなはずはない......嘘だ!」修はかすれた声で必死に言葉を絞り出した。「若子が俺を傷つけるなんて、そんなことあるわけない。彼女がそんなことするわけがない!」 「嘘だと思う?それなら君に見せてあげよう」 突然、壁に投影が映し出された。 「修を選ぶ!」 映像の中で若子が苦しげに言ったその姿が、はっきりと映し出された。 続いて、誘拐犯の声が響いた。「藤沢を選ぶ、ね?つまり、遠藤が怪我をする方がいいってこと?」 映像の中で男は右側のボタンに手を伸ばす。若子がすぐに反論する。 「違う、違うの!」彼女は震えながら涙を浮かべて続けた。「私が言いたかったのは、修が......怪我をするってこと」 映像がそこで終わり、投影が消えた。壁には何も残らず、ぼんやりとした影だけが残っていた。 修はその場に仰向けに倒れ込み、呆然と天井を見つめた。目は虚ろで、全身から力が抜けていく。まるで魂が抜け落ちたかのように、彼はもう動くことすらできなかった。 そんなはずはない。若子がこんなことをするなんて、絶対にありえない。これはきっと偽の映像だ。彼女が自分を傷つけることなんて、あるはずがない...... 「ははははは!」突然、西也が笑い出した。彼は修の前に立ち、嘲笑を浮かべながら言った。「藤沢、お前もこんな日が来るとはな!」 修は胸から流れる血を必死に押さえていた。だが、それでも震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、助けを呼ぼうとした。 しかし、そのスマートフォンは次の瞬間、西也の靴に蹴り飛ばされ、さらに何度も踏みつけられた。 「西也、何をしているか分かっているのか?」修は苦しげに声を絞り出した。 「もちろん分かっているさ」西也は冷たい笑みを浮かべ、修の横にしゃがみ込んだ。「藤沢、今までずっと我慢してきたが、もう限界だ。ここでお前には死んでもらう。そうすれば、もう誰も俺と若子の間に割り込むことはできない」 「俺を殺せば、若子はお前を一生恨むだろう!」修は息を荒げながら必死に言った。「お前は本当にそれでいいのか?」 「ははは!」西也は声を上げて笑いながら続けた。「お前はまだ分かってないんだな。若子はお前を嫌っているんだよ。そうじゃなきゃ、どうして俺を選んだんだ?若子の心の中では、俺の方がずっと大事だってことだよ。お前は彼
西也は車を飛ばし、マスクの男が言っていた場所にたどり着いた。そこには確かに一軒の家があった。 車を降りると同時に、彼は家の中に駆け込み、柱に縛られた若子の姿を見つけた。彼女は震えながら涙を流していた。 若子は足音を聞き、反射的に顔を上げた。西也が彼女に向かって駆け寄る。 「若子!」彼は急いで彼女の頬を両手で包み込んだ。「やっと見つけた!怪我はないか?」 彼は彼女の前髪をそっとかき分け、額に擦り傷を見つけると、胸が締め付けられるような痛みと怒りが込み上げた。 しかし、若子の目はどこかぼんやりしていた。彼の背後を見つめると、すぐに尋ねた。「修は?修はどこにいるの?」 あのマスクの男に見せられた動画で、彼女は西也と修が一緒にここへ来たことを知っていたのだ。 若子が真っ先に修を心配する様子に、西也の心には不快感が押し寄せた。彼は無言で若子を縛っていたロープを解き始めた。 自由になった若子の体は疲労で力が抜け、足元が崩れるように倒れそうになる。 「危ない!」西也は彼女を慌てて支え、「若子、家に帰ろう。俺が守るから。もう二度と危険な目には遭わせない」 そう言いながら、彼女を横抱きにして立ち上がり、家を出ようとする。 しかし若子は問い詰めるように言った。「西也、修はどこにいるの?教えて!」 彼女はマスクの男に選ばされ、仕方なく一人を選ばざるを得なかった。その選択は彼女にとって苦痛でしかなかった。どちらも傷つけたくなかったのに...... 「修は無事だよ。もう帰った」西也は冷たい顔をして答えた。 自分だって命をかけて若子を救いに来たというのに、彼女が心配するのは修のことばかりだった。もしもあの矢が自分に向けられていたら、彼女はそれでも修のことを追い続けただろうか? 「本当に修は無事なの?」若子は疑いの目で問い詰めた。 「無事だよ」と、西也は短く答えた。「心配するな、俺が連れて帰る」 だが、若子は西也の視線がどこか泳いでいることに気づいた。彼女は彼の胸元を掴むと、必死な表情で言った。「西也、本当のことを言って!修はどうなったの?あの男に選ばされたとき、私はあなたを選んだ。だから修は傷ついているはずよ!どうして無事でいられるの?」 「修は無事だ。若子、もうこれ以上聞くな。とにかくここを出るんだ。この場所は危険だ」
「あなたはどこからここへ来たの?」若子は西也を見つめながら問い詰めた。「修と一緒に来たことは知ってる。彼は今どこにいるの?」 西也は眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな表情を浮かべた。だが、それは若子に対してではなく、彼女があまりにも修の安否を気にしていることに対する苛立ちだった。 「若子、ここは危険だ。まず家に帰ろう。話は家に戻ってからだ。それでいいだろう?」 彼は若子の手首をつかみ、促そうとした。 「嫌よ!」若子は力強く手を振り払い、反抗した。「もし今日、修に会えないなら、私はどこにも行かない!教えてくれないなら、自分で探しに行くわ!」 「なんであいつを探す必要があるんだ!」西也はついに堪え切れず、声を荒げた。「俺こそお前の夫だ!危険を顧みずお前を助けに来たのに、どうしてあいつのことばかり気にしている?ここがどれだけ危険か分かっているのか?俺たち二人ともいつ何があってもおかしくないんだぞ。お前はそれでもあいつのことばかり気にするのか?俺が危険にさらされるのは怖くないのか?」 「私はあなたを選んだわ!」若子は怒りを込めて叫んだ。「修かあなたか、どちらか一人を選ばなきゃいけなかった。私はあなたを選んだ。それなのに、修を少しでも気にかけることさえ許されないの?」 若子はそう言い放つと、目に涙を浮かべながら背を向けた。彼女の心には、西也への失望が深く刻まれていた。彼女はその場を立ち去ろうとした。 しかし、西也はすぐに若子の背後から彼女を抱きしめた。「やめてくれ!若子!」 「何をするの!放して!」若子は必死に抵抗しながら叫んだ。 それでも、西也は彼女を放さず、震える声で彼女の耳元に囁いた。「ごめん、若子......俺が間違ってた。俺が悪かった......」 彼の腕はわずかに震えていた。目を固く閉じた西也の全身は緊張で強張っていた。 「俺がこんなことを言ったのは、お前を心配するあまりだったんだ。お前が安全な場所に早く戻れるようにと焦って......それで、こんな酷いことを言ってしまったんだ......本当にごめん......」 西也の声には後悔と切実さが混ざり合っていた。その言葉に若子は動きを止め、わずかに体の力を抜いた。 若子は悲痛な表情を浮かべ、深く息を吸い込んで冷静になろうとした。そして、静かに言った。 「私はどう
地面には大量の血が広がり、周囲には息が詰まるような静けさが漂っていた。 若子はよろめきながらその血だまりの前までたどり着くと、膝から崩れるようにその場に倒れ込んだ。 「どこ......どこにいるの?」彼女は声を震わせながら叫んだ。「修はどこにいるの!?」 西也はその血だまりをじっと見つめ、眉をひそめた。彼の脳裏には、修が胸を貫かれ倒れ込んだ光景が浮かぶ。彼はその場に倒れたまま助けを呼ぶこともできなかったはずだ。それなのに、修がここにいないということは、誰かが彼を救出したのか? その考えに西也の胸には不安が広がった。もし修が生きていたら......それは西也にとって大きな問題になる。 若子は立ち上がり、震える体で西也の前まで歩み寄ると、彼の服を掴んで激しく問い詰めた。 「修はどこ?彼はどこにいるの!?」 「分からない」西也は冷静を装いながら答えた。「お前を助けに行ったとき、彼はまだここにいた」 若子はその言葉を聞いて愕然とし、再び血だまりを見つめた。そして、再び問いかけた。「つまり......修があんなに重傷を負っていたのに、あなたは彼をここに置き去りにしたってこと?助けもしないで?」 西也の心に一瞬の動揺が走った。「若子、俺を責めてるのか?俺はお前を助けるためにここに来たんだ。どうしてあいつのことまで面倒を見る余裕があったと思う?」 「違う!私じゃなくて、修を助けるべきだった!」若子は声を震わせながら訴えた。「彼は血を流して苦しんでたのよ!どうして助けなかったの?どうして!」 彼女は地面に崩れ落ちるように座り込み、血だまりに手を押し付けて泣き叫んだ。 その姿に西也は慌てて駆け寄り、彼女を抱き起こそうとする。 だが、若子は力いっぱい彼を振り払った。 「放して!あなたなんて見たくない!」 西也の拳が震える。堪えきれない怒りが爆発した。 「若子、いい加減にしろ!」 彼は強引に彼女を抱き上げた。 若子は必死にもがきながら叫ぶ。 「放して!嘘つき!修は大丈夫だって言ったじゃない!彼がどこにいるかも知らないくせに!」 彼女の手には血がべったりとつき、そのまま西也の顔や服に血痕を広げてしまった。 「放さない!」西也は彼女の手首をしっかりと掴み、声を震わせながら言い放った。「お前が誘拐されたと聞いて
若子は魂が抜けたような状態で、西也に連れられて家に戻った。 帰宅するなり、若子はすぐに電話を手に取り、修に電話をかけようとした。 彼の番号は、数字の一つ一つまで、彼女の頭に深く刻まれている。 西也は、若子が修の番号を手慣れた様子で押すのを見て、目に一瞬の不快感を浮かべた。 しかし、彼は若子が修に連絡できないことを知っていた。 案の定、若子は電話を耳に当てたまま、長い間待っても繋がらない。もう一度かけ直しても、やはり通じない。 修の携帯は、ずっと繋がらない状態だった。 「若子」西也は前に進み出て、「お前が彼のことを心配しているのはわかる。でも、今は自分の体を大事にしなきゃ。お前は妊娠しているんだ。医者を呼んで診てもらおう。お前と子供のことが一番大事なんだ、いいか?」 「子供......」若子は下を向き、自分のお腹をそっと撫でながら、涙を止められずにこぼした。「子供......これは私と修の子供なの。彼に妊娠したことを伝えなきゃ。伝えたい......」 西也は彼女の背後に立ち、その目には冷たい光が宿っていた。 彼はそっと若子の手を握り、「若子......」と声をかけた。 突然、若子は自分の手を引き抜き、お腹を抱えるようにして、彼の触れ合いを避けるかのように身を引いた。 西也は一瞬驚き、手の中の空虚さに、心も同じように空っぽになった。 若子は魂が抜けたように、頭の中は修のことでいっぱいで、耳元にはあの仮面の男の声が響き、選択を迫るカウントダウンが聞こえるかのようだった。 激しい痛みが胸に押し寄せ、彼女は心臓を押さえ、もう立っていられず、そのまま後ろに倒れ込んだ。 「若子!」西也は後ろから彼女を受け止め、しっかりと抱きしめた。「若子、どうしたんだ?」 「修......修......」若子は彼の名前を呼び続け、次第に視界が暗くなり、意識を失った。 ...... 一時間後。 リビングでは、成之がソファに座り、すでに何本もの煙草を吸っていた。 彼はずっと焦燥感に駆られ、待ち続けていた。 やがて足音が聞こえ、振り向くと、西也がこちらに歩いてくるのが見えた。 「おじさん」西也は彼の近くのソファに腰を下ろした。 「若子の具合は?」成之はその目に深い心配を隠しつつ、わずかながらも関心を示した。
成之は西也の話を聞き終え、眉間のしわをさらに深めた。 「つまり、肝心な時に若子はお前を選んだってわけだな」 「はい、そうです」 若子が自分を選んだ―その事実に最初は喜びを感じたはずだった。だが今、西也の顔には苛立ちが色濃く浮かんでいた。 その様子を見た成之は問いかける。 「若子がお前を選んだってことは、心の中でお前の方が藤沢より大事だってことだろう。それなのに、何をそんなに不満そうにしてるんだ?」 その瞬間、パチンと音を立てて、西也は茶杯を力強く茶卓に置いた。 「若子が泣いて藤沢を探したがっているんです。どうして喜べるんですか?彼女が俺を選んでくれたのは事実です。でも、こんな様子を見せられるくらいなら、いっそ俺が傷ついた方が良かったと思います。そうすれば、彼女は少なくとも俺のことを心配してくれたかもしれないのに......今の彼女の頭の中には藤沢のことしかないんです」 成之は眉をひそめた。 「子どもじみたことを言うなよ。お前の安全が最優先だった。それがどれだけ重要なことかわかってるのか?お前が傷ついてたら、下手すれば死んでたかもしれないだろ」 その言葉に、西也は不満げに反論した。 「どうして俺が傷ついたら死ぬことになるんですか?藤沢だったら矢を受けても死なないけど、俺だったら必ず死ぬっておじさんは思ってるんですか?」 「そんなことを言いたいんじゃない。お前は自分の命を少しも大事に思わないのか?若子が今、藤沢のことを心配しているのは当然のことだ。もし逆にお前があの場で傷ついていたら、若子だって同じようにお前を心配していただろう。あの状況で、彼女がそんな選択をしたのは、心の中でどれだけ苦しんでいたか考えてみろ。お前は若子が自分を選んだことを感謝すべきだ。たとえ彼女が藤沢のことを気にしていたとしても、それを理解してやるのが筋じゃないのか」 「もし相手が誰であっても、俺は理解できたかもしれません」西也は苛立ちを隠せずに言った。「でも、相手が藤沢なら絶対に無理です。俺は若子があいつをそこまで気にかけるのに、もう耐えられません。あいつの何がいいんですか?ずっと彼女を傷つけ続けてきたくせに、今さら誠実なふりをして彼女を取り戻そうとするなんて。 どうして、俺はこんなに努力して若子のために尽くしてきたのに、こんなにも......
そのことを考えた末、西也はすぐに口を開いた。 「藤沢に会いに行くのは構わない。俺が連れて行くよ」 若子は首を横に振った。 「それはダメよ。一人で行くわ。あなたは修のことが嫌いでしょう?一緒に行ったら、きっと気分が悪くなる」 「そんなことは気にしなくていい」西也は微笑んで言った。 「俺はただお前が心配なんだ。一人で行くのは危険だ。もし俺が邪魔になるのが嫌なら、遠くで見守ってるだけにする。彼とが何を話そうと、絶対に干渉しない。ただお前を安全に送り届けて、また安全に連れ帰りたいだけだ」 若子は小さくため息をつきながら問いかけた。 「西也......本当に、そこまでする価値があると思う?」 「もちろんだ。お前のためなら何だってするさ。俺を心配させないでくれ」 最終的に、若子は頷いた。 「......わかった。でも西也、私は修に赤ちゃんのことを直接話すつもりよ。それが嫌なら......」 「大丈夫だ」西也は彼女の言葉を遮り、きっぱりと言った。 「心の準備はできている。俺の目的はシンプルだ。お前を無事に連れて行って、無事に戻ってきてもらう。それだけでいい。その他のことは一切干渉しない。お前に自由を与えるつもりだ」 そこまで言われてしまえば、若子も断る理由がなかった。 彼女は既に西也に対して大きな負い目を感じていた。 「若子、まずは病室に戻って休もう。もう遅いし、話の続きは明日でいいだろう?」 若子は小さく頷いた。「......うん」 西也は彼女をそっと支え、病室に戻った。 修が生きていると知ったことで、若子はようやく安心することができ、その夜は久しぶりに深く眠ることができた。そして朝を迎えた。 翌朝。 若子は悪夢から目を覚ました。夢の中で修が死んでしまう場面を見てしまったのだ。 目を開けると、頬には涙が伝っていた。 「若子、起きたのか」 西也はベッドのそばの椅子に座り、彼女の顔を心配そうに見つめていた。 「今、何時?」若子は急いで尋ねた。 「7時半だよ。もう少し寝てもいいんじゃないか?」 若子は布団を跳ね除けて起き上がり、言った。 「いや、修に会いに行かなきゃ」 彼女はベッドから降りようとしたが、腕を西也に掴まれた。 「ちょっと待って」 「邪魔しないで。もう朝
「若子、誘拐されたことは知ってる。みんな心配してたんだよ。修が『若子は助け出されて無事だ』って言ってたけど、修自身はあなたに会いたくないって言うんだ。理由を聞いても、何も話そうとしない」 若子は涙を拭き、声を震わせながら言った。 「お母さん、お願いです。修がどこにいるか教えてください。彼に会いたいんです。手術を受ける前に、どうしても一度話をしなきゃいけないんです。お願いです......彼に会えないと、手術に集中できません」 光莉は一瞬黙り込んだ後、ゆっくりと言葉を紡いだ。 「でも......もし修がそれでも会いたくないと言ったら、どうするの?」 「それでもいいんです。でも、まず私は彼を探しに行かなきゃ。お願いです、お母さん。お腹の中の赤ちゃんのためだと思って......」 その時、不意に廊下から声が響いた。 「若子、どこにいるんだ?」 若子はその声に驚き、振り返った。西也が起きて、彼女を探している声だった。 若子は急いで電話に向かって囁くように言った。 「お母さん、修の居場所をメッセージで送ってください。私が直接そこに行きます」 「迎えに行こうか?」光莉が提案した。 「いえ、大丈夫です。場所だけ送ってくれればいいです」 「わかったわ」 電話を切った若子は、深呼吸をして気持ちを落ち着け、病室のドアを開けた。 廊下には焦った様子の西也が立っており、彼女を見つけるとすぐに駆け寄り、強く抱きしめた。 「どこに行ってたんだ?目が覚めたらお前がいなくて、俺は心臓が止まるかと思った」 「ちょっと......空気を吸いに行ってたの」若子は小さく答えた。 「空気を吸いに?」西也は一瞬不審そうな表情を浮かべ、近くの空の病室を見て言った。 「どうして空っぽの病室に入ったんだ?俺と同じ部屋にいたくなかったのか?」 「違うの、そんなことじゃなくて......」 若子はどう説明すればいいかわからず、視線を落とした。 その時、西也の目が彼女の手にあるスマホに向けられた。そしてすぐに気づいたように言った。 「電話をしてたのか?」 若子は小さく頷いた。 「ええ。修のことを探していたの」 その名前を聞いた瞬間、西也の表情が一瞬固まった。しかし、以前のように激しく動揺することはなく、今は冷静を保ってい
「若子、赤ちゃんはどうしたの?何があったの?」 光莉の声には心配が滲んでいた。 「お母さん、先生に言われたの。私、子宮頸管が緩んでいて、子宮頸管縫縮術をしないと赤ちゃんが危険なんです」 光莉は少し苛立ったように声を上げた。 「そんな大事なこと、どうしてもっと早く言わなかったの?」 「今日になって初めてわかったんです。それに、電話をしてもお母さんが出てくれなくて......」 光莉は少し間を置いてため息をついた。 「そうね。明後日、手術を受けるんでしょ?」 「はい。明後日手術をすることになっています。だからお願いです。修が今どこにいるか教えてくれませんか?」 若子は言葉を詰まらせながらも懸命に続けた。 電話越しの沈黙が痛いほどに重く感じられた。そして、光莉が低い声で答えた。 「若子、電話に出なかったのは、あなたを避けていたからよ。どうせ修のことを聞かれると思ってね。でも......私も嘘はつけない」 「お母さん......じゃあ、修が今どこにいるか知っているんですね?彼は生きているんですか?それとも......?」 若子の声は震え、言葉にならない涙が込み上げた。 光莉は長い沈黙の後、ため息交じりに言葉を絞り出した。 「修は生きてる。でも、重傷を負って命を繋ぎ止めるのがやっとだった。病院に運ばれたとき、胸に矢が刺さっていて、前と後ろを貫通してたんだよ」 その言葉に、若子は口元を押さえ、悲痛な嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。 彼女の頭には、修が胸を矢に貫かれ血を流している光景が浮かんだ。夢で見たあの場面が、現実だったのだ― 若子の体は崩れ落ちそうになり、壁に手をついてなんとか立っていた。震える息を整えながら涙を拭った彼女は、掠れた声で尋ねた。 「私......あの時修を探しに行きました。でも、修はいなかった。血だまりだけが残っていて......あのとき彼を助けたのは、お母さんたちなんですか?」 光莉は静かに答えた。 「私たちが病院から連絡を受けて駆けつけたときには、もう修は病院に運ばれてた。誰が彼を助けたのかはわからない」 若子はその答えに驚き、混乱した。 修を助けたのは、いったい誰なのか?彼の家族がその場にいなかったとすれば、あの場にいたのは― あの犯人?でも、犯人が彼
若子は顔の涙をぬぐい、西也の胸から身を起こした。そして静かに言った。 「西也......私たちがこのまま結婚生活を続けることで、あなたが苦しむことになっても後悔しない?」 西也は彼女の手を取り、指をそっとなぞりながら答えた。 「後悔なんてしない。お前と一緒にいることが、俺にとって何よりの幸せだから。俺はお前を大事にする。お前の赤ちゃんも、同じくらい大事にする」 若子は痛みを噛みしめるように目を閉じ、小さく頷いた。 「......わかった。西也、離婚はしない」 そう言ったあと、若子は目を開けて彼を見つめた。 「でも、西也。もしいつかあなたが記憶を取り戻して、離婚したいと思ったら、言ってね。そのときは、あなたの気持ちを尊重するから」 その言葉は西也の耳にとても刺々しく響いた。 この女はなんて冷酷なんだ。いつだって彼と離婚することばかり考えている。彼は彼女のためにこれほどまでに尽くしてきたのに、彼女はその愛を少しも返してくれない。たとえほんの少しの愛でもいい、一瞬だけでも、彼女が彼を本当の夫として見てくれればそれでいいのに。夫婦生活を拒むのは仕方ないとしても、せめて一つのキスくらいなら、そんなに難しいことだろうか?でも、彼女はそのたった一つのキスすらも与えてくれなかった。 「......わかった。若子。もし俺がいつか離婚したいと思ったら、その時はちゃんと言う。でもそれまでは、二度と離婚の話をしないでくれ。お前は、永遠に俺の妻だ」 若子は小さく頷いた。 「......わかった。西也、約束するわ」 その瞬間、西也は彼女を強く抱きしめた。彼の腕は彼女を逃さないようにしっかりと絡められ、まるで自分の一部にしようとするかのようだった。 「若子......これからは、俺の命は全部お前のものだ。お前が望むなら何でもする」 若子は彼の胸に黙ったまま身を預けた。 彼女は心の中で呟いた。 「......ここまで来てしまったのだから、もう後戻りはできない」 彼女は修とやり直すことなんて、もうできなかった。たとえ修がまだ生きていても、彼は自分を憎んでいるだろう。それに、自分が修の元に戻る資格はどこにもなかった。 西也は彼女のために、あまりにも多くの犠牲を払ってくれた。彼を裏切り、離婚すれば、彼を深く傷つけてし
彼女は自分の体を差し出すことはできても、それ以外の何も西也に与えることはできなかった。 若子にとって西也には感謝も感動も、そして深い罪悪感もある。 しかし、彼女の愛はもうとうの昔に死んでしまっていたのだ。 西也は痛みを堪えるように目を閉じた。若子の沈黙は答えそのものだった。それがどんなに彼を傷つけるものであっても、彼女の答えは変わらない。それは西也も薄々感じ取っていた。だが、それでもその痛みに耐えることは難しかった。 彼は深く息を吐き出し、胸を締め付けられるような感情を押し殺しながら口を開いた。 「わかった、若子。無理に答えなくていい。俺はお前に答えを強要したりしない。でも、どうかこれだけは約束してほしい。離婚だけはしないでくれ。それだけでいい。お前が離婚しない限り、俺はお前の望むことは何でもする。お前が言う通りにする」 「西也......」若子の声はかすれていた。 「それって取引なの?私がその約束をすれば、あなたも約束してくれるのね。もし何かあったとき、私の赤ちゃんを守るって」 「そうだ。もしお前がそう考えるなら、これは取引だ」 「私に、結婚生活を取引の材料にしろって言うの?」 「若子、お前が俺を憎んでもいい。嫌ってもいい。でも俺はどうしようもないんだ......」 西也は声を詰まらせ、嗚咽を堪えるように続けた。 「俺はお前を失うことが怖くて仕方ない。お前がいなくなったら、俺は生きていけない。離婚なんてされたら、俺は本当に......死んでしまうかもしれない」 その言葉を口にする頃には、西也の瞳は涙で赤く染まり、彼の表情は痛みと愛情に満ちていた。 「西也、こんなことをして、本当にそれだけの価値があると思う?あなたがこんなに苦しむ必要はないのよ。あなたにはもっといい女性がいる。あなたを愛してくれる人が......」 「言うな!」 西也は彼女の言葉を遮り、彼女の唇を手で覆った。 「言わないでくれ。俺は聞きたくない。ただ俺に答えてくれ。お前はその約束をするか、しないか、それだけだ」 若子は彼の手をそっと押し戻し、首を振りながら答えた。 「わからない。本当にわからないの、西也。お願いだから、そんなに私を追い詰めないで」 「お前も俺を追い詰めていることに気づかないのか?」西也の声には怒りが混じっ
「若子、お願いだ。俺と離婚しないって約束してくれないか?」 「西也、それはあなたに不公平よ。このお腹の子はあなたの子じゃない。それに、私たちの結婚には別の理由があった。今、あなたは記憶を失っているけれど、記憶が戻ればきっとわかるはず。もしかしたら、自分から離婚を望むかもしれないわ」 「それなら......それならすべて記憶が戻ったあとに話そう。でも、それまでは頼むから離婚なんて言わないでくれ。俺に、お前の夫でいさせてくれないか?」 「でも、西也、こんなことはあなたにとって本当に不公平なの。今のあなたは過去を覚えていないけど、もしかしたら本当は私なんか愛していないのかもしれない」 「愛している!」 西也はほとんど叫ぶように言った。 「若子、俺はお前を愛しているんだ。だからもうそんなこと言うな!」 「......」 「西也、違うの。あなたは私を愛しているわけじゃない。あなたが愛しているのは別の女性で、彼女のことを......」 「どうでもいい!」西也は興奮したように言葉を遮った。 「他の女なんてどうでもいい!俺が欲しいのはお前だけだ。だから、他の女の話はしないでくれ」 「でも、他に女性がいるのよ。前にそう言ってたじゃない」 「それは前の話だろう?」西也は力強く続けた。 「若子、俺は今、お前を愛している。他の女なんて俺の心に何の意味も持たない。俺の目にはお前しか映っていないんだ」 「違う、西也。あなたは間違えてる。あなたが愛しているのは......」 「お前は馬鹿か?」西也は彼女を真っ直ぐに見つめた。 「俺がこんなにもお前を気にかけて、こんなにも大事にしているのが見えないのか?それとも、お前はわざと俺を避けているのか?」 「......」 その言葉に若子は何も返せなかった。 彼の言う通りだった。若子は、彼が自分を本当に愛しているのかどうか、ずっと迷っていた。西也は以前、「高橋美咲のことが好きだ」と言っていた。しかし、彼の言葉とは裏腹に、行動では彼女を大切にし、守ろうとしていた。 若子はそれを認めるのが怖かった。そして、美咲との仲を応援することで自分自身を逃避させてきた。しかし、西也が今、愛をはっきりと告白したことで、逃げ場はなくなった。 二人の間に存在していた薄い壁。それが今、完全に取り払
「もしそんなことが起きたら、私はこの子と一緒に死ぬ」 若子はそっと西也の頬を拭いながら涙をぬぐった。その仕草は優しかったが、声は冷徹で残酷だった。 「西也、忘れないで。この子がいる限り、私もいる。この子がいなくなったら、私もいなくなる。私は修を諦めた。だから、この子だけは絶対に諦められないの」 若子の瞳に宿る強い意志を見て、西也はすでに説得の余地がないことを悟った。 彼の心は苦しみと怒り、そして悲しみでぐちゃぐちゃだった。 ついに西也は感情を抑えきれず、若子を力強く抱きしめた。 「若子、お前はなんて残酷な女だ。俺はお前が憎い!」 若子は痛みに耐えるように目を閉じ、涙が止めどなく頬を伝った。 自分の言葉が西也を深く傷つけることはわかっていた。それでも、お腹の中の赤ちゃんを守るため、彼女にはそうするしかなかった。一切の妥協も許されなかった。 この世に完全無欠な人間なんていない。人間には必ず弱さや迷いがある― それが現実だからこそ、若子は一切の油断を許せなかった。 「西也、ごめんなさい。私が悪かったの。本当にごめんなさい。もし私のことが嫌いになったなら、私たちは離婚しましょう。何もいらない。全部あなたに渡す」 「嫌だ!」西也は彼女の言葉を遮り、声を荒げた。 「若子、どうしてこんな時に離婚なんて言い出すんだ?どうして今なんだ!」 若子は真っ赤に充血した目で西也を見つめた。これまで離婚について話せなかったのは、彼が記憶を失っていたせいだった。刺激を与えたくなかった。しかし、今の状況ではもう隠し続けることはできなかった。 「西也、ごめんなさい。隠してたことがあるの。実は私たちの関係は―」 「言うな」西也は彼女の口を手で覆い、懇願するように言った。 「若子、お願いだから何も言わないでくれ。俺はもう十分苦しいんだ。お前がそんなことを言ったら、俺は本当に死ぬしかなくなる。頼むから、黙っていてくれ」 若子は西也の手をそっと握り、少し押し戻してから頷いた。 「だったら、私のお願いを聞いてくれる?何があっても、この子を守ってほしいの」 西也は彼女の手を握り直し、低く静かな声で答えた。 「若子、お前のお願いを聞く代わりに、俺のお願いも聞いてくれないか」 若子は少し戸惑いながら尋ねた。 「どんなお願い?
「西也、ごめんなさい」若子は悲しげに言った。 「私、一時の感情に流されてしまったの。お腹の子が大切すぎて、無神経なことを言ってしまった。あなたを傷つけるつもりなんてなかったの」 西也は顔を伝う涙を拭き取り、振り返った。 「若子、俺にはわかってる。この子がどれほどお前にとって大切なのか。俺なんて、この子よりも大切な存在にはなれないことくらい、十分わかってる。でも......お願いだ、俺の気持ちも少しだけ考えてくれないか?俺の真心を疑わないでほしい。俺はお前のためなら、どんなことでもするし、命だって惜しくない。だから、俺を誤解しないでほしいんだ」 彼の声は切実だった。 「確かに、この子が藤沢の子だということに心の中で引っかかる部分はある。でも、それ以上にお前が大事だから、俺はこの子を大切に育てるよ。傷つけるようなことは絶対にしない。この子が幸せに育つよう、責任を持って守り、教育する。絶対に不自由な思いはさせない」 西也の言葉は真実だった。彼は若子を深く愛していた。だからこそ、彼女の大切なものも守る覚悟があった。 それでも、若子の冷たい言葉は鋭く彼を傷つけ、その痛みは彼の胸を締めつけていた。 若子は涙を堪えきれず、ポロポロとこぼしながら謝った。 「西也、本当にごめんなさい。私が悪かった。あなたを誤解して、ひどいことを言った。もうこんなことは言わないから、どうか悲しまないで」 西也は溢れる涙を拭いながら、若子の手をそっと握り、自分の頬に当てた。 「そう言ってくれるなら、それだけで俺は安心だ。お前のためなら、俺は何でもする」 若子は少しだけ微笑んでから、真剣な表情になり、西也に伝えた。 「西也、この子は私にとって命そのものなの。この子がいなくなったら、私はもう生きていられない。絶対に、この子を守らなきゃいけない」 「若子、俺は......」 「西也」若子は西也の手を力強く握り締めた。 「もし私が意識を失うようなことがあったら、絶対にこの子を最優先に守って。私の命はどうなっても構わない。この子が無事に生まれるためなら、私はどんな犠牲も惜しまない。もし私が管に繋がれて生きているだけの状態でも、この子が安全に生まれるまで絶対に手を止めないで」 西也は驚き、そして苦しそうに顔を歪めた。 「若子、そんなこと言うな。
若子の態度は非常に強硬で、冷徹にすら見えた。 「松本さん、そんなに急がなくても大丈夫です。もちろん、あなたが手術に同意することは可能です。すぐに手配します」 医者は落ち着いた声で答えた。 法律では若子の言う通りだったが、通常、病院側は医療トラブルを避けるために家族の同意を求めることが多い。それでも、若子の強い決意と「弁護士」という言葉に、病院としてもそれ以上拒むことはできなかった。 若子は婦人科のVIP病室に入院することになり、西也はずっと彼女のそばに付き添っていた。 彼は若子の肩に布団を掛け、優しく整えた。 「西也、もう帰って」若子は冷たい口調で言った。 その言葉に、西也は驚き、動揺を隠せなかった。 「どうしたんだ?」 若子は振り返り、冷たい視線で彼を見つめた。 「あなたは私に手術を受けさせたくないんでしょう?この子を望んでいないんでしょう?」 もし自分があの場で強く主張しなかったら、彼は手術に反対していただろう。そうすれば、自分の赤ちゃんは危険な状態のままだった。 「若子、そんなわけないだろう。この子は俺にとっても大切だ。俺がどうして無関心でいられる?」 「違うわ、この子はあなたの子じゃない」若子の声は冷たかった。「西也、あなたが私を大切にしてくれているのはわかってる。でも、この子は修の子なの。修が怪我をして、私は彼を心配している。それに、あなたがこんなに気にするのなら、どうやってあなたが修の子を実の子のように扱ってくれると信じられるの?」 かつてなら、若子はこんな言葉を口にすることはなかった。しかし今の彼女は心が限界を迎え、何もかも気にする余裕がなくなっていた。 西也はその言葉にショックを受け、信じられないというような目で彼女を見つめた。 「若子、俺を疑うのか?俺がこの子に何かするとでも思ってるのか?」 若子は視線をそらしながら答えた。 「わからないわ。あなたは手術に賛成しなかった。赤ちゃんにとって最善の手術なのに、あなたがそれを止めようとした理由がわからない」 「理由を知りたいのか?」西也の声は傷つき、怒りが滲んでいた。「俺が考えていたのは、お前のことだけだ。医者が手術にはリスクがあるって言ったとき、俺はお前が傷つくんじゃないかって怖かった。それで他の医者にも相談して、より良い方法が