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第368話

作者: 夜月 アヤメ
若子の瞳に浮かぶ疑念を見て、西也は自分がさっき取り乱しすぎたことに気づいた。

「悪かった。さっきは......わざとあんなことを言ったわけじゃない」

謝る西也に、若子の表情は少し和らぐ。苦笑いを浮かべながら、彼女はぽつりと言った。「大丈夫よ。西也の言う通り......私、怖くて逃げ出そうとしたの」

「だけど、お前がこんなことをしても、自分を傷つけるだけだろう?そんなの、俺は見たくない」西也の声に、熱がこもる。「お前がなんで逃げなきゃならないんだ?全部、藤沢のせいだろ。あいつがなんであんな偉そうな顔してられるんだ!」

西也は時々、若子に本気で腹が立つことがある。 彼女の、その過剰な優しさにだ。何もかも自分で飲み込んで、周りには良い顔ばかり見せるその性格が、どうしようもなく許せなかった。

彼女が馬鹿ではないことを、西也はよく知っている。 彼女は何もわかっていないわけじゃない。でも、それでも彼女は手を引くことを選ぶのだ。

西也は認めざるを得ない。彼はそんな若子に惹かれた。こんなに優しい人間なんて、もうこの世界にはほとんど残っていないのだから。

彼はこれまで、数え切れないほどの駆け引きや裏切りを経験してきた。策略と陰謀が渦巻く、硝煙のない戦場のような毎日に疲れ果てていた。

そんな彼が若子に出会った瞬間、それはまるで光を見つけたような気がした。

彼女といる時だけ、彼は心の底から安心できる。疑うことも、警戒する必要もなくなる。

ただ、彼女の隣にいるだけで、世界が穏やかになるのを感じるのだ。

家族ですら、そんな感覚を与えてくれたことはなかった。

だが、その優しさゆえに、時折西也は苛立つこともある。彼女がもう少しだけ意地悪だったら、こんなに傷つくこともなかっただろうに、と。

修のせいで流した若子の涙の量を、あのクズは知りもしないのだ。

若子は小さくため息をつき、しばらくの沈黙の後、諦めたように口を開いた。「誰のせいだろうと、もう終わったことよ。修と私は離婚したわ。だから、あの人にはこのことを知る必要なんてないの」

若子は心の中で決めていた。たとえ一人でも子どもを立派に育ててみせる、と。誰にも頼らず、誰にも邪魔されることなく。

「俺が知る必要ないって?」突然、少し離れた場所から低い声が響いた。

その瞬間、若子は雷に打たれたように動きを止めた。

振り
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    「......隠してるわけじゃないよ。ちょっと顔を洗ってくる。すぐ戻るから」 そう言って、彼は洗面所へと向かった。 ―まるで、若子から逃げるかのように。 その時、病室のドアが開いた。 医師が入ってくる。 「遠藤夫人、体調はいかがですか?」 若子は静かに頷く。 「......大丈夫です。先生、私の赤ちゃんを助けてくれて、ありがとうございます」 医師は微笑んだ。 「それが私たちの仕事です。それに......すべては、あなたのご主人が下した決断ですよ」 「......私の夫?」 若子は、洗面所のドアをちらりと見る。 「西也が言っていました。手術に少し問題があって、長時間かかったと......何があったんですか?」 医師は、ゆっくりと説明を始めた。 ―そして、若子はその内容を聞き、息をのんだ。 つまり― 彼女が不用意に動き回ったせいで、赤ちゃんの状態が悪化し、手術が複雑になったということ。 ―そして、何よりも。 西也は、自分との約束を守った。 彼は、赤ちゃんを守る選択をした。 彼は、決して妊娠を諦めることなく、最後まで希望を捨てなかった。 若子は、安堵の息をつく。 彼を信じてよかった。 西也は、信頼に値する人だった。 「遠藤夫人......」 医師は、若子の表情を見て、穏やかに続けた。 「ご主人は、本当に辛そうでした。どうか彼を責めないであげてください」 若子は微笑んだ。 「責める?そんなわけないじゃないですか......むしろ、感謝しています。もし目が覚めて、赤ちゃんがいなかったら......私は生きていけなかったと思う」 彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。 医師はすぐにティッシュを取り出し、彼女に手渡す。 「泣かないでください。あなたの身体は、まだ休息が必要です。ご主人がきっと、あなたをしっかり支えてくれますよ。手術が成功したとき、彼はその場で崩れ落ちていました。まるで、何かが一気に吹き飛んだかのように......泣きながら、笑っていましたよ。 私も長年、医師をしていますが、ここまで愛情深い旦那さまを見たのは、初めてです」医師がその話をするとき、どこか嬉しそうな光が目に宿っていた。まるで、二人を応援しているように。 その言葉に、若子の心が

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    修が今こうなったのは、完全に自業自得だった。 「お前、心の中で『ざまぁ』って思ってるだろ?」 ここまで話が進んで、この雰囲気なら、允が何を考えているかなんて簡単に分かる。 允は頭を掻きながら、口を開く。 「......俺は、お前に同情してるんだよ」 「同情なんていらないさ。俺は、俺のせいでこうなったんだ。自業自得だよ」 允は深く息を吐いた。 「......それで、お前はまた立ち上がるのか?」 修は一瞬、目を伏せる。 しばらく沈黙したあと― 彼は、ゆっくりと頷いた。 「立ち上がるよ」 若子が無事なら、それでいいじゃないか。 ただ、彼女がもう俺を愛していないだけ。 ここでいつまでも落ち込んでいたって、何の意味もない― ...... 朝陽の中の目覚め。 朝の陽射しが、窓から差し込んでいた。 カーテンの隙間から、優しく部屋を照らす。 その光は、ベッドの上に横たわる人物を包み込み、彼女の顔に柔らかな光の輪を作っていた。 部屋全体が、朝の日差しに染まる。 その温もりが、世界そのものを優しく包み込んでいるようだった。 若子は、その温かさの中で、ゆっくりと目を開けた。 ―一瞬、頭が真っ白になる。 しかし、すぐに― 昨日の記憶が、一気に押し寄せた。 彼女の瞳に、不安が宿る。 すぐに、手を腹部へ伸ばした。 「......赤ちゃん......私の赤ちゃんは......!」 近くの椅子で、うつらうつらしていた西也が、その声でハッと目を覚ます。 「......若子、目が覚めたのか」 彼女はすぐに彼の手を掴んだ。 「......修、赤ちゃんは!?」 ―修。 その名前を聞いた瞬間、西也の眉がピクリと動く。 朝起きて最初に呼ぶ名前が「修」だなんて。 一晩中、ここでお前のそばにいたのは俺だろうが。 だが、西也はそれを顔には出さなかった。 ただ、静かに微笑みながら言う。 「心配するな。赤ちゃんは無事だ。母子ともに健康だよ」 その言葉に、若子はホッと息を吐く。 そして、ようやく、隣にいる西也の顔をまじまじと見た。 ―そして、息をのむ。 「西也......その顔......!」 西也の顔は青白く、目の下には深いクマができていた。

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第761話

    こうして、修は允のもとへ身を寄せた。 誰にも、行き先を告げることはなかった。 両親でさえも― 慰めも、説得も、もう聞き飽きた。 「允、お前覚えてるか?数ヶ月前、俺と若子がまだ離婚してなかった頃のこと。あの日、俺はここで酔い潰れて、お前が若子を呼んだんだよな」 「覚えてるに決まってるだろ!あの時、お前に殴られたんだからな!マジでムカついたわ。兄弟じゃなかったら、俺がどうやって仕返ししてやるか......!」 彼は歯ぎしりしながら、拳をギュッと握る。 「なあ、俺のこと、もっと大事にしろよ?俺の愛は本物だからな。 本物の愛がなかったら、もう絶交してるわ!」 允は大げさに言い放つ。 修は微かに笑いながら、静かに問いかけた。 「......俺がなんでお前を殴ったか、覚えてるか?」 「当然だろ?」 允は頭をかきながら答えた。 「松本がここに来たとき、お前は泥酔状態だった。で、俺と若子がちょっと言い合いになってさ。そしたら、お前がいきなり目を覚まして、俺に殴りかかってきた。 最初は、てっきり『妻を庇ってる』のかと思ったんだけど...... 違ったんだよな。 お前、完全に松本を『桜井雅子』と勘違いしてた」 修は苦笑した。 「ああ......覚えてる。 お前を殴ったあと、俺は彼女の肩を掴んで、『雅子』の名前を呼んでた......」 その瞬間、修の脳裏に、しばらく会っていない彼女の姿がよぎった。 ―雅子、今どうしてるんだろう。 あの日、結婚式をキャンセルしたあと、彼女はきっと怒り狂っただろう。 それ以上に、深く傷ついただろう。 「......最低すぎるだろ」 允がポツリと呟いた。 「俺な、あの時聞いてて、本気で『コイツ終わってんな』って思ったよ。 だって、お前さ......あれ、お前の妻だったんだぞ? なのに、庇った理由が『別の女と勘違いしてたから』って...... しかも手を握って、『雅子』って......マジで聞いてられなかったわ」 「......まあ、そうだな」 修は、自分の「クズっぷり」を否定しなかった。 「でさ、お前はそのクズっぷりのせいで、今こうなってるわけだ」 允は容赦なく続けた。 「お前が松本と離婚するって決めたとき、みんな止めただ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第760話

    「山田侑子」 彼女は静かに答えた。 「『侑』はすすめる、『子』は子供の子」 「俺は藤沢修だ......山田さん、よろしく」 修の声には、先ほどまでの冷たさが幾分か和らいでいた。 侑子は軽く頷く。 「あなたのことは知ってるよ。助けたときに、どこかで見た顔だと思ったの。テレビで見たことがある。SKグループの総裁よね」 修は苦笑し、わずかに唇を歪めた。 「SKグループの総裁だと、何だっていうんだ?」 修の声には、失望が滲んでいた。 それを聞いた瞬間、侑子の脳裏に、彼が窓辺に立っていた光景がよぎる。 彼女はすぐに言った。 「あんたに何があったのかは知らない。でも、どんなことでも解決できるはずでしょ?あんたは優秀なんだから、そんな必要―」 ―そんな必要、ないじゃない。 そう言いかけて、侑子は言葉を飲み込んだ。 修自身がそれを認めないのなら、無理に言ったところでただのお節介になってしまうだけだ。 何より、二人はそこまで親しいわけではない。 命を救ったからといって、偉そうに説教する権利なんてない。 「......優秀だからって、全部解決できるわけじゃない」 修はベッドに戻り、虚ろな瞳で床を見つめる。 「それに、俺は優秀なんかじゃない。 俺はクズだ。俺の大切な女すら、守れなかった」 「大切な......女?」 侑子の胸が、ふっと締めつけられた。 修のプライベートについて、彼女はほとんど何も知らない。 彼がどんな恋をしてきたのか―どんな女性を愛してきたのか― 知らなくてもいいはずなのに、妙に気になった。 こんな男が、どんな女を愛するんだろう? 女王様みたいな人?プリンセス?それとも、まるで天女みたいな存在? そんな完璧な女じゃないと、この男をここまで絶望させることなんてできない気がした。 「藤沢さん......そんなこと言わないで」 さっきまではムカついてたが、今は気持ちが和らいでいた。 「何があったのかは分かんない。でも、人には波があるんだよ。落ちる時もあれば、浮かび上がる時もある。 だから、もうちょっと自分に優しくして」 修はゆっくりと顔を上げ、かすかに笑った。 「ありがとう、慰めてくれて。でもな......これは「谷」じゃない。「崖」なんだ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第759話

    侑子は一瞬、耳を疑った。 彼の言葉の意味を理解できず、戸惑いの表情を浮かべる。 「......謝礼?」 彼が連絡先を求めたのは、単純に連絡を取りたかったからではないのか? 「お前は俺を助けた。その礼として、金を渡す。それだけだ......もう帰っていい」 修の声には、微塵の温もりもなかった。 淡々とした口調で、ただの事務処理のように言い放つ。 確かに、彼は「ありがとう」と言った。 だが、それすらも冷酷な響きしかなかった。 まるで、感謝の気持ちさえ金で済ませようとしているかのように― まるで、彼女の存在そのものを軽んじているかのように― 侑子は、心の奥がひどく痛むのを感じた。 彼の瞳には、自分への敬意など、微塵も映っていなかった。 修は、まだ彼女が立ち去らないことに気づき、ゆっくりと顔を向ける。 その視線は、冷ややかだった。 「まだ何か用か?」 「......藤沢さん」 侑子は必死に涙をこらえた。 胸が苦しくなる。 彼女は平静を装いながら、静かに口を開いた。 「......私をばかにしてるの?」 修は、さほど興味もなさそうに、淡々と答える。 「侮辱したつもりはない。言葉が足りなかったか?正確には......感謝の気持ちだ。これは『謝礼』だ」 彼の言葉は真実だった。 彼にとって、これはただの「お礼」。 侑子を見下しているつもりはなかった。 「あっそ」 侑子は、かすかに笑った。 「でも、私には侮辱にしか聞こえない。 私がここに来たのは、お金のためだと?あんたにとって、人はみんなそんなもの?それとも、あんたみたいな男は、女は全員金目当てだと思ってるの?」 修は黙ったまま、何も言わなかった。 侑子はゆっくりとベッドサイドに歩み寄る。 そして、机の上に置かれたメモを手に取った。 ―そこには、彼女が先ほど書いたばかりの電話番号が記されていた。 侑子は、それを指でつまみ― ビリッ。 小さく息を吸いながら、勢いよく破り捨てる。 そして、細かくなった紙片を、ゴミ箱へと落とした。 「......やっぱり、番号なんて残さなくてよかった」 彼女は静かに言う。 「まさか、あんたがこんな人だったなんて......思わなかった。 私は、

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