二人の間には、目に見えない火花が激しく散り、まるで戦場のような緊迫感が漂っていた。その間に挟まれている若子は、一番辛い立場に置かれている。「もう十分よ!二人とも手を放して。お願いだから!」若子は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら叫ぶ。周囲の人々が二人の争いを面白がって見ているような視線が、彼女をさらに追い詰めた。自分がこんな状況にいることが、もうたまらなく情けない。若子が眉を寄せ、目元を赤く染めた様子を見て、西也は心を痛めた。彼は若子の手を離し、申し訳なさそうに言った。「若子......ごめん」本来なら、二人とも手を放すべき場面だった。だが、西也が手を離した瞬間、それを好機と見た修が若子を強く引き寄せた。彼の大きな手は若子の背中を掴み、そのまま彼の胸に押しつけるように抱きしめた。若子の額が修の肩にぶつかり、瞬間的な眩暈が彼女を襲った。妊娠中で体調が万全でないこともあり、この激しい動きは彼女の身体に負担をかけていた。動揺しながら顔を上げると、修の表情が目に入った。彼の顔には険しい疑念が刻まれ、目の奥には深い不安が渦巻いているのがわかる。若子は心底焦った。「藤沢、彼女を放せ!」西也は怒りに満ちた声を上げ、若子を取り戻そうと詰め寄った。だが、矢野がすぐに西也の前に立ちはだかった。「うちの総裁と松本さんは家族です。二人の話し合いですから、どうかご安心を」西也は矢野の言葉を一蹴するように叫ぶ。「家族だと?藤沢、お前いい加減にしろ!若子はもうお前と離婚してるんだ。どんな権利があって彼女に絡む?」「離婚していても、彼女はまだ藤沢家の一員だ!」修の声は鋭く響き渡り、その瞳には怒りの炎が燃えている。「俺と彼女は10年の付き合いだ。お前なんかに何がわかる!」「修、もういい!」若子は力強く修を押しのけた。「ここで騒ぎを起こさないで!」「俺が騒いでいるって?」修は皮肉げな笑みを浮かべる。「騒ぎっていうのか?俺はただ、飯を食いに来ただけだ。たまたま前妻を見かけて、何か隠し事があるようだから聞いているだけだろう」「それが『たまたま』だって?」西也は冷ややかに皮肉を返した。「ずいぶんタイミングのいい『偶然』だな」「誰が一人だって言った?」修は顎をしゃくり、矢野を指さした。「俺はちゃんと矢野と一緒にいる」矢野は背筋を伸ばし、ま
修の怒りはますます燃え上がった。「どうやら遠藤は全部知っているみたいだな。それで俺だけが知らないってことか?いったい何の話だ!お前が言わないなら、今日はどこにも行かせない!」修は、若子が自分に隠していることが多すぎると感じていた。まるで周囲の誰もが知っていて、自分だけが蚊帳の外に置かれているかのように。「何を隠しているんだ?早く言え!」怒りを抑えきれない修は荒い息をつきながら、若子を睨みつける。その心臓は緊張と怒りで激しく鼓動していた。若子は視線を下げ、伏せたまつげが微かに震える。目に浮かんだ動揺を隠すため、彼女は視線を落とし続けた。「若子、言ってやれ!」西也は怒りと悲しみが入り混じった声で言った。「あいつに思い知らせてやれ!どれだけ無責任な男で、お前をどれだけ追い詰めたかってことを!」「黙れ、遠藤!」修が西也に怒鳴りつけた。「これは俺と若子の問題だ!お前みたいな外野が口を挟むな!」「俺は外野じゃない。俺は若子の友人だ。むしろ外野なのはお前だろう!」西也は皮肉を込めて言い放つ。「お前らは離婚したんだ。もう友人ですらないだろう?ましてや、兄妹なんて笑えるほどおかしな関係だ」西也の声には、皮肉だけでなく怒りが混じっていた。「俺が余計な口を挟むだって?じゃあ聞くけど、お前は若子のために何をしたんだ?」彼は修を睨みつけ、言葉を続けた。「あの日、大雨の中で若子が病院の前で倒れていた時、お前はどこにいた?お前はその時、桜井と一緒にいただろう!」「西也、もうやめて!」若子は慌てて声を上げた。「なぜだ?言ってやれよ。あいつに自分がどれだけクズなのか教えてやれ!」西也は若子の言葉を無視して続けた。「お前は桜井のためには優しく気を配るくせに、若子が病気になった時、雨の中で倒れた時、お前はどこにいた?一度でも彼女の気持ちを考えたことがあるのか?」西也の声がさらに鋭く響く。「お前は若子を幸せにする資格なんてない!それどころか、あいつを娶った理由も、全部お前の身勝手さのせいだ!」彼は修を冷たい目で睨みつけ、最後に吐き捨てるように言った。「お前は、徹底的にどうしようもないクズだ!」もし若子のことを思わなければ、西也は今すぐ修に殴りかかっていただろう。結果など気にしない。たとえ警察沙汰になろうとも構わない。ただ、若子のためにこの怒りをぶつけてやりたかった。
修は動けなくなったまま、ただ若子をじっと見つめていた。わずか数秒のことなのに、永遠のように長く感じられた。震える唇を微かに動かしながら、修は一歩を踏み出し、若子に近づこうとした。その瞬間、西也が動き、修を止めようとしたが、矢野が必死に彼を押さえ込んで阻んだ。西也は拳を握りしめ、矢野の襟元を掴んで押しのけようとする。だが、その時、若子の声が響いた。「二人とも、来ないで!」修はまるで命令を受けた兵士のように、足を止めた。その声に、本能的に従ってしまったのだ。若子はゆっくりと立ち上がった。少しふらつきながらも、それを必死に隠して、冷静を装った。彼女は目を上げ、西也に向かって言った。「西也、ごめんなさい。ちょっと疲れたから先に帰りたいの」「俺が送っていくよ」西也は一歩前に出ようとしたが、矢野が再び立ちはだかる。「どけ!」西也は拳を握りしめ、あと一歩で殴りかかりそうだった。矢野もその様子に怯えながら、どうにかして自分を抑え込む。彼は自分の仕事のために動いているだけだったが、心中は穏やかではなかった。「西也、大丈夫だから」若子が静かに制止した。「送ってもらわなくても平気。自分で運転して帰るわ。少し一人になりたいの、」そして、彼女は少し間を置いて付け加えた。「それに、高橋さんのことをちゃんと招待してあげてほしいの」「でも......」西也は彼女の状態が心配でたまらない様子だった。「俺は......」「いいの、西也」若子は軽く微笑みを浮かべながら、彼の言葉を遮った。「もう決めたことだから、私を困らせないで」若子は、西也が話せば分かる人間であることをよく知っていた。だからこそ、落ち着いて話をすればきっとわかってもらえると信じていた。そして、事実その通りだった。西也は特に若子に対してはいつも理性的で、彼女の言葉を何よりも尊重していた。「......わかった。だけど、家に着いたら、必ず電話をしてくれ。お前の声を聞いて、ちゃんと無事だって確かめたい」若子は小さくうなずいた。彼女は荷物も持たず、スマホだけをポケットに入れていたため、そのまま出る準備が整っていた。そのまま彼女は背を向け、修のそばを通り過ぎようとした。修は反射的に手を伸ばしかけたが、その手を止めた。若子を引き止める理由が、何一つ思い浮かばなかった
「そのことよ」 若子は静かに口を開いた。「あの日、私は泣きながらあなたを引き止めようとした。でも、あなたはどうしても桜井さんのところに行くって聞かなかった。彼女が病気だって言ってね」 彼女の声は淡々としていたが、その言葉の裏には深い痛みが滲んでいた。「私は車であなたを追いかけた。そして、あなたが彼女に約束するのを目の前で見たの」 若子は小さく息をつきながら続けた。 「その帰り道......雨がひどくてね。病院の前で気を失った。でも、そのことをあなたには一度も言わなかったわ。今も別に話すつもりはなかった。もし西也が言わなければ、私は永遠に黙っていたでしょうね。話しても意味がないと思ったから」修は呆然と若子を見つめた。その瞳には複雑な感情が渦巻いている。彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。本当にそのことだけなのか?いや、それだけではないはずだ。彼の胸には、もっと重大な何かが隠されている予感が押し寄せていた。一方、西也は胸の中で静かにため息をついた。結局、若子は修に真実を明かさなかった。けれど、それでも構わない、と西也は思った。修が今日ここに現れたのは偶然ではなく、確実に計画的なものだと彼にはわかっていた。彼らはすでに離婚している。それなのに、修はまだ若子に執着している―それが西也には心配だった。もしかして......彼は若子に対して、まだ特別な感情を抱いているのか?男というのは得てして手元にあるものを大切にせず、失ってから後悔するものだ。修も例外ではない。離婚して初めて若子の価値に気づき、彼女を取り戻そうとしているのかもしれない。だからこそ、若子の妊娠のことを修に知られるわけにはいかなかった。そんなことになれば、修はそれを理由に復縁を迫ってくるだろう。そして、若子の優しい性格を考えれば、修が子どもの父親であることに罪悪感を覚え、彼の提案を断り切れなくなるかもしれない。若子は言葉を終えると、そのまま足早に出口へと向かった。修は無意識のうちに彼女を追おうと一歩を踏み出した。若子は背後の気配に気づき、冷たい声で言った。「誰も私についてこないで。それが守れないなら......もう二度と会わないから」その言葉を残して、若子は拳をぎゅっと握りしめ、足早にその場を去った。修は彼女の背中を見送るしかなかった。彼女の姿が完全
「お前がろくでもない奴だ」修は一言ずつ噛み締めるように、歯ぎしりしながら吐き捨てた。その目には燃えるような怒りの炎が宿っている。二人は互いに一歩も引かず、至近距離で向かい合っていた。どちらも身長は180センチを超え、放たれる威圧感は尋常ではない。視線がぶつかるたび、周囲にはピリピリとした緊張感が張り詰め、まるで爆発寸前の火薬のようだ。その場の誰もが二人の怒りの矛先が自分に向かないよう、自然と距離を取った。矢野も例外ではなく、後ずさりしてさらに安全な場所へと退く。彼らを知る者ならば誰でも理解している―この二人は決して関わってはいけない男たちだ、と。西也は目を細め、冷たい光をその瞳に宿しながら静かに言った。「それで?藤沢、お前が言う『いい人間』ってなんだ?」彼は修に一歩近づき、低く嘲るように続ける。「自分の妻を守れない男が『いい人間』を名乗る資格なんてあるのか?そう思わないか?」修に「ろくでなし」呼ばわりされるとは―西也はその滑稽さに思わず鼻で笑いたくなった。確かに自分は決して「いい人間」ではないが、それを言う資格が修にあるとは思えない。二人の間に漂う怒りは、今にも爆発しそうなほど膨れ上がっていく。矢野は修に長年仕えてきた。彼の性格や癖も熟知しているし、どんな場面でも冷静でいる自信はあった。だが、今の状況はさすがに彼の心を乱した。目の前の二人―修と西也は、どちらも冷静さを完全に失っていた。理屈や道理が通じる状態ではない。こうなれば、二人が頼るのは言葉ではなく拳だ。感情のぶつかり合いが最高潮に達し、理性が吹き飛べば、戦いはただの力のぶつかり合いになる。修は突然、皮肉げな笑みを浮かべた。「まあ、俺は少なくとも彼女の夫だったよ。すべてを俺に捧げてくれた彼女のな」修の声には挑発が込められている。「俺が夫として一番得意だったのは、夜のことだったけどな。信じられないなら、若子に聞いてみたらどうだ?」「藤沢!」西也は怒りのあまり制御を失い、修の胸倉を掴んだ。「お前、本当に最低だ。そんなことを言って、若子をどういう立場に置くつもりだ!」「手を離してください!」矢野が西也と修の間に割って入ろうとする。だが修は、焦るそぶりも見せず、冷静な口調で矢野に言った。「下がれ」「でも......」矢野は何か言いかけたが、修の冷たい視
「藤沢、あんたは自己中心的な最低野郎だ。若子がお前と結婚したのは、まったくの不幸だった。だが、ようやく離婚できたんだ。もし少しでも良心が残っているなら、もう彼女の生活を邪魔するな。若子はお前なんか必要としてない!」西也の声は低く、だがその一言一言が修の骨の髄にまで突き刺さるようだった。その言葉は、修の心に容赦なく響き渡った。まるで彼の目の前で再生される映画のように、西也の言葉が過去の出来事を思い出させた。雨の中で倒れる若子。高熱を出して泣き続ける彼女の姿。 やつれた顔、白い頬、全身に刻まれた疲労と痛み。修は、若子がそんな目に遭っていたことを今の今まで知らなかった。もしその事実を早く知っていたなら―あの夜、彼は彼女の家に押しかけたりしなかっただろう。彼女を無理やり連れ戻すような真似もせず、離婚をちらつかせて脅すこともなかったはずだ。彼女が涙を流しているのを見ても、何一つ気遣わず、ただ自分の感情を押し付けただけだった。それもこれも、くだらない嫉妬と男のプライドに飲み込まれた結果だ。修は認めたくなかったが、自分の胸の奥ではっきりと分かっていた。―西也の言葉は、すべて正しい。自分は最低だ。この結婚は、若子に何を与えただろう?彼女にどんな幸せを届けただろうか?修は考えれば考えるほど、心が痛みに苛まれた。一方、矢野はこっそりと額の汗を拭った。「......今の話を聞いてると、確かに総裁、結構なクズだよな」と心の中で呟きつつも、もちろん口には出さなかった。心の痛みは深く、容赦なく、まるで胸を刃で切り裂かれているようだった。修の目はどんよりと曇り、力を失っていた。数歩進んだところで、彼は足を止め、後ろを振り返って低く呟いた。「西也......俺はクズだ。だが、お前は哀れな負け犬だ。ハッ......」修は自嘲気味に笑い、だがその笑みはどこか虚ろで悲しげだった。だが、修には分かっていた。同じ男だからこそ、西也が若子に抱く感情は一目瞭然だった。ただ、修が永遠に「クズ」であり続けるのに対し、西也がずっと「哀れな負け犬」のままでいるとは限らない―それだけは、彼も理解していた。修が去った後、西也は深く息を吸い込み、気持ちを立て直した。彼は冷静さを取り戻しながら部屋に戻り、ドアを開けると、花が美咲と話している
修は若子の住むマンションの前に立っていた。少し前に、ボディーガードから「彼女は無事に家に着きました」と報告を受けていた。その時、彼女の新しい住所も教えてもらい、気づけば一人でここまで来てしまっていた。ここが若子の新しい住まいか。見上げた建物は、どこにでもあるような普通のマンションだ。彼女はここに引っ越してきた。それなのに、自分の家には戻ろうとしない。あの家―かつて彼女と自分が一緒に暮らした場所―を、彼女はもういらないと言うのだ。それってつまり、彼女は「俺」に関わるすべてを捨て去りたいってことなのか?若子、お前は一体何がそんなに嫌なんだ?俺たちの結婚そのもの?それとも......俺という存在?もしお前が結婚という形を嫌っていたのなら、もうその呪縛は解けたはずだ。それなのに、お前はなぜまだこんなにも辛そうなんだ?もしかして......嫌っているのは、俺そのもの?俺なんて、お前の世界にいない方が良かった?だから、俺をブロックしたのか?―そうか。やっぱり俺が嫌いなんだな。修は苦笑しながらポケットからスマホを取り出した。若子の番号を開き、そこにメッセージを打ち込む。そのメッセージを作るのに、なんと十分以上もかけてしまった。何度も削っては書き直し、ようやくたどり着いたのは、たった数行のシンプルな言葉。送信ボタンを押す。もちろん、届かないと分かっている。彼女にブロックされているからだ。だからこそ送れたメッセージ。彼女に決して届かない、ただの独り言。送信が完了した画面を見て、ふぅ、と小さく息を吐く。それから顔を上げると、目の前のマンションの窓を見上げた。灯りがついている部屋が一つ。「若子、お前がそれほどまでに俺を嫌うなら......もうお前の邪魔はしない」若子はトイレの前にうずくまり、必死に嘔吐していた。普段のつわりはそこまでひどくない。だけど、プレッシャーを感じたり、修のことを考えてしまうと、どうしても胸の奥から激しい悲しみと怒りが込み上げてくる。その感情はあまりにも強烈で、身体まで反応してしまうのだ。今日の夕飯には手をつけていない。朝ごはんも昼ごはんも、すべて吐き尽くしてしまい、最後にはまるで苦い胆汁さえ吐き出すようだった。すべてを吐き終えた後、若子は抜け殻のようになった。トイレの水
若子はポケットからスマホを取り出す。画面に表示された名前は、西也だった。しまった。このこと、すっかり忘れてた。彼女は帰宅したら電話をして無事を知らせると、西也に約束していたのだ。若子は涙を拭い去り、深く息を吸い込む。喉を軽く鳴らして咳払いをし、なんとか声を落ち着けて通話ボタンを押した。「もしもし」「若子、家には着いたか?全然連絡がないから、心配になった」若子はわずかに微笑みながら答えた。「心配してくれてありがとう、もう家にいるわ。ごめんね、連絡するのを忘れちゃって」「いや、大丈夫。無事ならそれでいい。まだ夕飯を食べてないだろう?何か持って行こうか」「いいわよ、自分で作れるから。冷蔵庫にも食材はたくさんあるし」「なら早く作りなよ。忘れるなよ、君には赤ちゃんがいるんだから。赤ちゃんだってお腹が空くだろ?君も赤ちゃんも一人じゃない。俺もいる」西也の優しい声は、彼女の心を穏やかに包み込んでくる。若子は思わず口元を手で覆い、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。どうして、西也はこんなにも短い付き合いでここまで心を砕いてくれるの?私の気持ちを理解して、寄り添おうとしてくれる。一方で修は―あれだけ長い十年もの付き合いだったのに、彼は私に何一つ分かろうとしなかった。私の気持ちも、私の愛も、全部。きっと、彼が理解できたのは桜井だけだ。彼の心には、もう一人の女性が入る余地なんて最初からなかったのだろう。若子は泣き声を抑えようと必死だったが、わずかに漏れたすすり泣きが指の隙間から洩れる。電話の向こうでその音を聞き取った西也は、すぐに焦りの色を見せた。「若子、何があったって、君は決して一人じゃないから」若子は目を固く閉じ、涙がこぼれ落ちないよう必死にこらえていた。胸の中に押し寄せる悲しみを、何とかして抑え込む。こんな感情に溺れてはいけない。自分を取り戻さなければ。本来なら、自分を大切にしてくれる人たちや、幸せな気持ちにしてくれる出来事に目を向けるべきだと分かっている。けれど、人間とはどうしても苦しみの感情ばかりを深く心に刻みつけてしまい、楽しいことを見落としてしまうものだ。「ありがとう、西也。ちょっと一人になりたいの。心配しないで、大丈夫だから。ただ、少し落ち着きたいだけ。気持ちが整ったら、また連絡するわね」
西也が口を開いた。 「食事はお口に合ったか?」 美咲はうなずきながら答えた。 「とても美味しいです。ごちそうさまでした」 「お前は若子の友人だ。つまり俺の友人でもあるからな。もちろん、ちゃんと招待するのが筋だ。ただ......」 西也が「ただ」と言いながら言葉を切った。 美咲は少し首を傾げて尋ねる。 「ただ、何ですか?」 西也は箸を置き、真剣な表情で続けた。 「高橋さん、率直に言うけど、どうもお前がここに来た時から、若子が俺たちを二人きりにしようとしている気がするんだ。まるで、俺たちが以前から親しい間柄だったみたいに......俺たちって、以前会ったことがあるのか?」 その言葉に戸惑った美咲は、一瞬、本当のことを伝えるべきか迷った。けれども、若子のことを考えると、どうにも言葉が出なかった。 西也は、記憶を失っていながらも持ち前の鋭さで何かを感じ取ったのか、さらに問いかけた。 「高橋さん、何か言いたいことがあるなら、隠さずに教えてほしい。お前も分かるだろ、今の俺の状況を。俺は本当にすべてを知りたいんだ」 「松本さんは全部教えてないんですか?」美咲は驚いたように聞き返した。 西也は苦笑いを浮かべながら答える。 「少しは話してくれたけど、完全じゃない。きっと俺を気遣ってくれてるんだろうけど、それが逆に俺を過保護にしてる気がするんだ。正直、過保護にされるのは好きじゃないんだ。だから、高橋さん、もし知ってることがあれば教えてくれないか?」 美咲はちらりとドアの方を見やった。若子がまだ近くにいるかもしれないと思ったからだ。 美咲のためらいに気づいた西也は立ち上がり、 「ちょっと待って」と言うと、ダイニングを出ていった。 わずか一分も経たないうちに戻ってきた西也は、笑いながら言った。 「高橋さん、確認したけど、若子は裏庭に行ったよ。お前も分かるだろ、彼女はまた俺たちを二人きりにしようとしてるんだ。俺には本当に分からない。俺の妻である彼女が、どうしてこんなにも俺たちを安心して放っておけるのか......」 西也は苦笑いを浮かべたが、その胸中では自分が何を知っているのかを確信していた。若子との結婚が偽物だということ―あの日、彼女と成之の会話を盗み聞きしてしまったのだ。それは西也にとって晴天の霹靂だった
若子の言葉を聞いた西也は、ふと胸に罪悪感のようなものを覚えた。そして修が言っていたことを思い出す。 もしかして自分は今、若子に守られているだけの存在になってしまったのか? それに今日やったこと―修をちょっと懲らしめて、彼の鼻っ柱を折りたかっただけのつもりだったけど、かえって逆効果になったんじゃないか? 修は自分の行動のせいで、若子を奪い返したい気持ちをさらに強めてしまったのだろうか......? 西也はあの時、ただ修に一発お見舞いして、大人しくさせたかっただけだ。彼のあの傲慢な態度をどうにかしたくて。けど、もし今回の件が裏目に出てしまったら、自分にとっても何一つ良いことはない。 若子は西也がぼんやりしているのを見て、慌てて声をかけた。 「西也、どこか他に痛むところがあるの?何でもいいから言って」 「いや、そうじゃない」西也は首を振った。「ただ、あいつが俺の想像と違っただけだ」 「どういうふうに違うの?」若子が尋ねると、西也はこう答えた。 「俺にとって、あいつはただの他人だ。これまでのことは何も覚えていないし、今日が初対面みたいなものだ。でも、俺の中ではあいつは最低な男だと思ってたんだ。実際に会うまではね。だけど、あいつを見た時、全然違ってた。認めたくないけど、あいつは優秀な男だ。スーツ姿も様になるし、女が寄ってくるのも分かる」 「西也、そんなこと言わないで。どんなに見た目が良くても意味がないでしょ?私はもう離婚してるの」 「違う、俺が言いたいのはそれじゃない」西也は少し焦ったように続ける。 「俺が思ってたのは、あいつはただのクズで、浮気を繰り返してお前を裏切ったような奴だってこと。でも、今日会ってみて、あいつがお前に対して特別な感情を持ってるように感じたんだ。俺の想像してたみたいに、お前を軽く見てるわけじゃない。むしろ、お前を取り戻そうとしてるように見えた......それが愛情なのか、それともただの所有欲なのかは分からないけど」 西也の目に不安の色が浮かんでいるのを見て、若子は急いで言った。 「西也、そんなことないわ。気にしないで。彼が私を取り戻すなんて絶対にあり得ない。それに私も彼のところには戻らない」 「本当に?お前、本当に心が揺れたりしないのか?たとえ、あいつが頭を下げて頼んでも」 「実際に頼まれ
若子は急いで西也のそばに駆け寄り、その手首を掴んで連れて行った。 西也は歩きながら振り返り、修を一瞥すると、口元に得意げな笑みを浮かべた。そして若子の腰に手を回し、親密に寄り添う。 「若子!」修は追いかけようと数歩進んだが、途中で急に立ち止まった。 ダメだ。このまま衝動的に追いかけても、また言い争いになるだけだ。前のように無駄に揉め続けるだけで、問題は一つも解決しない。むしろ、状況はどんどん悪くなるばかりだ。 若子は今、自分が西也を傷つけたと信じ込んでいる。しかも、今の状況では西也の方が完全に優勢だ。それは修も認めざるを得なかった。 このまま追いかけても、何も得るものはない。むしろ若子の自分への嫌悪感をさらに煽るだけだ。 どうする?どうすればいい? そうだ、一人、頼れる相手がいる。彼なら― 修は思い切ったように玄関の方へ向かって歩き出した。 「修、どこに行くの?」 雅子が追いかける。 修は振り返りもせずに言った。 「ここで待ってろ。迎えを呼ぶから。俺は用事がある」 「修、修!」 修の歩みは速く、雅子はどうしても止めることができない。その場で悔しそうに足を踏み鳴らした。 「松本のせいよ......!全部彼女が悪いんだから!」 その様子を少し離れた場所から見つめる一人の男性。サービススタッフのような装いをしているが、その目には冷笑が浮かんでいた。 男はポケットからスマホを取り出し、雅子に電話をかける。 スマホの着信音に気づいた雅子はバッグから取り出し、耳に当てた。 「もしもし」 「雅子、やっぱり君は役に立たないな。藤沢を繋ぎ止めることもできないなんて」 「あんた......!」雅子はすぐに問い詰めるように言った。 「今どこにいるの?お願いだから助けて。松本を殺してくれない?彼女さえいなくなれば......あなたの望むこと、何だってするから!」 「今まで君のためにいろいろしてきたけど、君は何一つ結果を出してないよ。それなのに情敵を始末しろなんて。俺は君の道具じゃない」 「じゃあ、どうすればいいの?交換条件が必要なら教えて。私たちは仲間でしょう?」 「本当は君に頼みたいことがいくつかあったんだが、時間が経つにつれて、君はどんどん使えないと分かってきた。修だってもう君を気にして
西也は心配そうな顔をしながら、若子の手をしっかりと握りしめた。 「若子、怒らないで。大丈夫だから。俺は平気だよ。彼もきっとわざとじゃなかったんだ」 彼の言葉には勝利の確信があった。どんな状況でも、若子は自分の味方だった。自分こそが若子の夫であり、修はどこまで行っても若子に捨てられた過去の男にすぎない。 西也は心の中で強く決意していた。この男が再び若子を奪うことは決して許さない。どんな代償を払ってでも、若子を離さないと誓っていた。 一方、修はそんな西也を見つめ、眉間に深いしわを刻んだ。表情を次々と変える西也―陰険な一面と、哀れみを誘う弱々しい一面―そのどちらも修には到底信じられなかった。 若子がこんな男と暮らしているなんて......どうなるんだ? 修は心の中で考えた。西也が本当に記憶喪失でこうなったのか、それともこれが彼の本性なのかはわからない。だが、一つだけ確かなことがあった―この男は危険だ。 「西也、行きましょう。病院に行って診てもらったほうがいいわ」 若子は心配そうに言った。西也の状態はもともと良くないのに、頭を打ったことでさらに悪化する可能性があると考えていた。 修は拳を強く握りしめ、その骨が鳴る音が聞こえるほどだった。そして突如として若子の腕を掴み、彼女を自分の方へ振り向かせた。 「若子!彼はお前を騙してるんだ!見てわからないのか?あれは自分でわざと倒れて、お前を騙そうとしてるんだ!」 「放して!」若子は必死で腕を振りほどこうとした。 その様子を見るやいなや、西也が声を荒げて叫んだ。 「放せ!」 だが、修は若子を抱き寄せると、そのまま数歩後退して西也の手の届かないところへ避けた。 「お前みたいな男、本当に見苦しいな」修は冷たく嘲笑した。 「そんな卑劣な手段を使うなんて、呆れたよ。俺は若子が幸せならそれでいいと思ってた。少なくともお前が彼女を傷つけないならな。でも今は違う。若子をお前のような男の手に渡すわけにはいかない。お前には彼女を守る資格なんてない!」 「修、あなた、正気じゃないの?」若子は怒りを露わにしながら言った。 「放して!桜井さんもここにいるのよ!彼女を怒らせるつもり?」 「どうでもいい!」修は一切の迷いもなく叫んだ。その言葉に、雅子は心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を覚
修の瞳に浮かぶ怨みと哀しみを見て、若子は一瞬動揺した。 その表情は、彼女の心に一抹の迷いを呼び起こした。もしかして、本当に修を誤解しているのだろうか? 彼の姿はどこか無実で、絶望的に見える。まるでかつて修が若子を誤解した時のようだった。若子がどれだけ真実を訴えても、修は耳を貸さず、雅子の言葉だけを信じた。雅子がいつも哀れなふりをしていたからだ。 しかし、その考えが頭をよぎると同時に、若子は自分に怒りを覚えた。なぜそんなことを考えたのか。修はこれまでに何度も彼女を騙してきたのだ。しかも相手は雅子。彼女のような人と西也を比べるのは馬鹿げている。 「信じるわ」若子は静かに言った。 その言葉を聞いて、修は一瞬呆然とし、信じられないような表情を浮かべた。彼は若子の瞳に、ほんの少しでも信頼の光を探そうとした。しかし、耳に届いたのは錯覚のような言葉だけだった。 若子の目に映っていたのは、冷たさと皮肉だけだった。「信じる」という言葉が、修には皮肉にしか聞こえなかった。むしろ、彼女が「信じない」と言うよりも、心に突き刺さった。 西也の眉がかすかに動き、不安げな光がその瞳をよぎった。 若子は本当に修を信じたのか? 場の空気が凍りつく中、修だけが若子の言葉の裏に隠された刺々しさを感じ取っていた。 若子は続けた。 「修、あなたは何も間違ってない。すべて他人が悪いのよね。あなたはいつだって正しい。この世界の誰もがあなたを信じるべきなんでしょう?」 そう言いながら、若子は西也の腕をそっと取り、柔らかく言った。 「西也、行きましょう」 修は拳を強く握りしめ、静かに言った。 「若子、俺が約束したことは絶対に守る。俺は彼をいじめたりなんてしてない」 「ええ、そうね。あなたはいじめたりなんてしてないわよね」若子の声は怒りに満ちていた。 あなたみたいな偉大な藤沢総裁が誰かをいじめるなんてあるわけがないもの。争いなんて一度もしたことがないし、手なんて絶対に出さないわよね」 若子は皮肉げに笑いながら続けた。 「本当に滑稽だわ、修。少なくとも昔のあなたは、自分がやったことを認める勇気があった。でも今はその勇気さえない。ただの臆病者よ!」 「そうだ、俺は臆病者だ!」修は叫ぶように言った。 「もし俺が臆病者じゃなかったら、どんなこ
若子はそっと手を伸ばし、西也の額に触れながら優しく尋ねた。 「痛くない?」 西也の額には赤みが残っていたが、彼は小さく首を振り答えた。 「大丈夫だよ、若子。俺が悪いんだ。しっかり立てなかった俺のせいだ」 「そんなことないよ。全部見てたから」 若子はそう言いながら修の方を振り返り、怒りを露わにした目で睨みつけた。 「藤沢修!西也の今の状態がわかってて、なんで手を出すの?わざとやったんでしょ?もし西也に何かあったら、私、あなたを許さない!」 最後の言葉はほとんど叫び声だった。その一言一言が鋭い刃となり、修の心を切り刻み、深い傷を残した。 修は呆然と若子を見つめていた。西也をかばう若子の姿を目にした瞬間、彼の魂は抜け落ちたかのように感じた。残ったのはただの空っぽな殻だった。 「若子、お前......」 雅子が何かを言おうとしたが、修は彼女の腕を掴んで強く押しのけた。 「お前には関係ない。どけ」 「でも、修、彼女が......」 「どけって言ってるだろう!」 修が怒りの目で睨みつけると、雅子は怖気づいて口を閉じた。 この男、本当に狂ってる......! 心の中で毒づきながらも、雅子はそれ以上何も言えなかった。 一方で、若子は西也を支えながらゆっくり立たせた。 「西也、大丈夫?体はどう?」 西也は首を横に振り、小さな声で答えた。 「平気だよ。若子、怒らないで。俺が体調悪くてちゃんと立てなかっただけだ。それに、藤沢もそんなに強く押したわけじゃない。多分、彼も少しカッとなってただけだよ」 彼の言葉は一見自分を責めていないように聞こえるが、その内容は明らかに修が彼を押したことをほのめかしていた。 それを聞いた若子の怒りはさらに燃え上がった。 「修!何で西也に手を出したの?彼があなたに何をしたっていうの?もし私が原因なら、私に怒ればいい。私を責めて、私を殴ればいい!桜井さんと結婚するために私と離婚したのに、それでも私が許さなかったから?あなたが『愛してる』なんて言ったときに、私が復縁しなかったから?その上、私が西也と結婚したから?全部私が悪いんでしょ?じゃあ、私を殴ればいい。なんで西也をいじめるのよ! いつも私の言葉を聞き流して、私のお願いを一切無視して。いつだって自分勝手で、自分が正しい
西也は拳を強く握りしめ、吐き捨てるように言った。 「お前、何を得意になってるんだ?たかが一通のメッセージだろ。それがどうした?むしろこれで、若子が俺のことをお前より気にかけてる証拠だ」 「そりゃそうだろうな」修は笑いながら答えた。 「お前、今はすっかり弱っちいからな。毎日若子に世話を焼いてもらわなきゃ生きていけない。大の男が情けない話だな。自分の身すら守れず、ボロボロになって死にかけたくせに、記憶喪失までして、今じゃ女に守られてるなんてな。前に立たれて風よけになってもらってるお前、滑稽だよ」 「藤沢!」 西也は勢いよく修に詰め寄り、その胸元を掴んだ。 「お前、何を偉そうに!若子が俺に言ったんだ。お前が他の女のために彼女と離婚したってな!お前なんてただのクズ野郎だろうが。今さら手に入らないからって、俺を怒らせようとしても無駄だ。若子は俺の女だ。永遠にな。毎晩彼女は俺の腕の中で眠る。彼女を抱ける男は俺だけだ。お前じゃない。この先もずっと、お前には無理だ!」 修の瞳には怒りの炎が燃え上がり、今にも西也に拳を振り下ろしそうだった。だが、若子が懇願するように見せたあの表情を思い出し、その怒りを必死で押し殺した。 修は強く握りしめていた拳をゆっくりと解き、西也の手首をがっしりと掴むと冷たく言った。 「遠藤、俺は若子に約束したんだ。お前をいじめないってな。でも今のお前はこのざまだ。俺の相手になるわけがない。俺は弱者をいじめる趣味はない。けどな、回復したら喜んで相手してやるよ」 そう言って、西也の手を乱暴に振り払うと、修は一歩後ろに下がった。 西也はまるで怒り狂った獅子のように胸の中に炎を抱え、次の瞬間には修を殴り飛ばそうと動き出したが、そのとき、遠くから人影が近づいてくるのが目に入った。 西也の目が一瞬狡猾に輝き、修に近づくと突然手を振り上げた。 修はその動きを見逃さず、西也の手を素早く掴むと低い声で言った。 「やる気か?」 「どうした、怖じ気づいたのか?」 西也は挑発するように笑った。 修は目を細めながら冷たく言った。 「若子との約束だ。お前には手を出さない」 そう言って、西也の手を放し、その場を離れようとしたその瞬間だった。 西也は急に後ろへ数歩下がり、派手な音を立てて壁に頭をぶつけながら倒れ込ん
修は左思右考しながら、ついに口を開いた。 「若子をちゃんと検査に連れて行ったのか?」 どうしても心配だった。もし西也が若子を病院に連れて行ってくれるなら、それでも構わない。 西也は少し眉をひそめながら答えた。 「普通に元気じゃないか。それをなんで聞く?」 修は静かに言った。 「若子とは離婚したけど、何年も一緒に過ごした仲だ。兄妹みたいなものだろう?心配するのは普通だ」 その言葉に、西也は冷たく鼻で笑った。 「お前が彼女を妹だと思ってても、若子はお前を兄だと思ってるか?ただのクズな元夫のくせに」 修の表情が険しくなった。 「遠藤西也、お前、そんなに得意げな顔してられるか?若子がお前と結婚したのは、愛してるからじゃないだろう」 西也は膝の上に置いていた拳をゆっくりと握り締めた。 「じゃあ、彼女はお前を愛してるのか?愛してたなら、なんでとっくに復縁してないんだよ?どうして俺と結婚してるんだ?俺が得意げになるべきじゃないのはわかってる。でもな、いい加減自覚しろよ。兄妹みたいな顔してるお前を、若子は気にもかけてない」 修は口元を引きつらせながら言い返した。 「お前、若子の顔を立ててやってるだけだ。俺が本気を出せば、とっくにお前なんか消してる」 西也は静かに立ち上がり、スーツを整えると、窓の外を眺めながら冷笑した。 「じゃあ、俺が襲撃されて、死にかけたのは全部お前の仕業ってことか?」 西也の堂々たる非難の言葉に、修はテーブルを勢いよく叩き、立ち上がった。 「証拠でもあるのか?証拠もなしに俺を貶めるな」 「じゃあ、お前は無実ってことか?」 西也は冷笑を浮かべた。 「無実なら、なんでそんなに怒る?心当たりがあるからだろう?」 修は大股で西也の背後に立つと、肩を掴んで強引に振り向かせた。 「わざと俺を怒らせてるのか?」 「怒らせるつもりなんてない。ただ、お前が怒っただけだろう」 西也の声は冷え冷えとしていた。 「藤沢、俺は多くのことを忘れた。お前のことも忘れた。でもな、お前って本当に哀れだよな」 修は目を細め、その瞳に鋭い光を宿らせた。 「遠藤、知ってるか?若子はずっと俺にお前を傷つけるなって頼んでたんだ」 そう言うと、修はスマートフォンを取り出し、若子から送られてきた
雅子は辺りを一巡し、角から若子がサービススタッフと一緒に歩いてくるのを目にした。 慌てて近くの柱の陰に身を隠し、二人の様子を伺う。どうやら何か話しているようだが、会話はすでに終わったところだった。 若子はそのまま別の方向へ歩き去り、代わりに美咲がこちらに向かってくる。 雅子はその場を動かず、直接美咲に声をかけた。 「ちょっと、あなたたち二人で何をこそこそ話してたの?」 美咲は冷静に答えた。 「何かご用ですか?」 雅子は美咲を上から下まで値踏みするように見た。 「あんたと松本ってどういう知り合いなの?」 美咲は落ち着いた声で答える。 「失礼ですが、あなたは......?」 「私、桜井雅子。あと二日でSKグループの総裁夫人になる予定のね」 雅子は得意げに自分の肩書きを宣言した。 美咲は丁寧に微笑みながら言った。 「桜井さん、松本さんとは以前食事をご一緒したことがあるだけで、それほど親しいわけではありません」 「本当に?それで、どうして彼女の夫を『遠藤総裁』なんて呼ぶの?あの人、ただのサービススタッフでしょう」 「遠藤総裁」という言葉に、雅子は嫌悪感を露わにした。 美咲は軽く首を傾げて答えた。 「サービススタッフ?桜井さん、それは誤解されていますよ。彼は雲天グループの総裁です」 「雲天グループの総裁?」 雅子の頭にまるで雷が落ちたようだった。 「それって、あの国際的なグループのこと?」 雅子は震える声で聞いた。 美咲は静かに頷いた。 「ええ、そうです」 雅子の心臓は激しく高鳴り、パニック寸前だった。 そんな馬鹿な!若子が雲天グループの総裁と結婚しているなんて、ありえない! いや、絶対に間違いだ。だって以前、山荘で西也を見かけた時、彼は確かにサービススタッフの制服を着ていた。それが総裁だなんて、信じられるわけがない。 でも......もし本当に彼が雲天グループの総裁だとしたら?つまり、若子は修と別れた後、すぐにまた巨額の資産家を捕まえたということ? 「桜井さん、大丈夫ですか?」 美咲は雅子の顔が真っ青になっているのを見て、少し愉快な気分になっていた。 「あんた、本当に松本と親しくないの?」 雅子は疑いの目で問い詰めた。 「桜井さん、それはあなた