二人の間には、目に見えない火花が激しく散り、まるで戦場のような緊迫感が漂っていた。その間に挟まれている若子は、一番辛い立場に置かれている。「もう十分よ!二人とも手を放して。お願いだから!」若子は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら叫ぶ。周囲の人々が二人の争いを面白がって見ているような視線が、彼女をさらに追い詰めた。自分がこんな状況にいることが、もうたまらなく情けない。若子が眉を寄せ、目元を赤く染めた様子を見て、西也は心を痛めた。彼は若子の手を離し、申し訳なさそうに言った。「若子......ごめん」本来なら、二人とも手を放すべき場面だった。だが、西也が手を離した瞬間、それを好機と見た修が若子を強く引き寄せた。彼の大きな手は若子の背中を掴み、そのまま彼の胸に押しつけるように抱きしめた。若子の額が修の肩にぶつかり、瞬間的な眩暈が彼女を襲った。妊娠中で体調が万全でないこともあり、この激しい動きは彼女の身体に負担をかけていた。動揺しながら顔を上げると、修の表情が目に入った。彼の顔には険しい疑念が刻まれ、目の奥には深い不安が渦巻いているのがわかる。若子は心底焦った。「藤沢、彼女を放せ!」西也は怒りに満ちた声を上げ、若子を取り戻そうと詰め寄った。だが、矢野がすぐに西也の前に立ちはだかった。「うちの総裁と松本さんは家族です。二人の話し合いですから、どうかご安心を」西也は矢野の言葉を一蹴するように叫ぶ。「家族だと?藤沢、お前いい加減にしろ!若子はもうお前と離婚してるんだ。どんな権利があって彼女に絡む?」「離婚していても、彼女はまだ藤沢家の一員だ!」修の声は鋭く響き渡り、その瞳には怒りの炎が燃えている。「俺と彼女は10年の付き合いだ。お前なんかに何がわかる!」「修、もういい!」若子は力強く修を押しのけた。「ここで騒ぎを起こさないで!」「俺が騒いでいるって?」修は皮肉げな笑みを浮かべる。「騒ぎっていうのか?俺はただ、飯を食いに来ただけだ。たまたま前妻を見かけて、何か隠し事があるようだから聞いているだけだろう」「それが『たまたま』だって?」西也は冷ややかに皮肉を返した。「ずいぶんタイミングのいい『偶然』だな」「誰が一人だって言った?」修は顎をしゃくり、矢野を指さした。「俺はちゃんと矢野と一緒にいる」矢野は背筋を伸ばし、ま
修の怒りはますます燃え上がった。「どうやら遠藤は全部知っているみたいだな。それで俺だけが知らないってことか?いったい何の話だ!お前が言わないなら、今日はどこにも行かせない!」修は、若子が自分に隠していることが多すぎると感じていた。まるで周囲の誰もが知っていて、自分だけが蚊帳の外に置かれているかのように。「何を隠しているんだ?早く言え!」怒りを抑えきれない修は荒い息をつきながら、若子を睨みつける。その心臓は緊張と怒りで激しく鼓動していた。若子は視線を下げ、伏せたまつげが微かに震える。目に浮かんだ動揺を隠すため、彼女は視線を落とし続けた。「若子、言ってやれ!」西也は怒りと悲しみが入り混じった声で言った。「あいつに思い知らせてやれ!どれだけ無責任な男で、お前をどれだけ追い詰めたかってことを!」「黙れ、遠藤!」修が西也に怒鳴りつけた。「これは俺と若子の問題だ!お前みたいな外野が口を挟むな!」「俺は外野じゃない。俺は若子の友人だ。むしろ外野なのはお前だろう!」西也は皮肉を込めて言い放つ。「お前らは離婚したんだ。もう友人ですらないだろう?ましてや、兄妹なんて笑えるほどおかしな関係だ」西也の声には、皮肉だけでなく怒りが混じっていた。「俺が余計な口を挟むだって?じゃあ聞くけど、お前は若子のために何をしたんだ?」彼は修を睨みつけ、言葉を続けた。「あの日、大雨の中で若子が病院の前で倒れていた時、お前はどこにいた?お前はその時、桜井と一緒にいただろう!」「西也、もうやめて!」若子は慌てて声を上げた。「なぜだ?言ってやれよ。あいつに自分がどれだけクズなのか教えてやれ!」西也は若子の言葉を無視して続けた。「お前は桜井のためには優しく気を配るくせに、若子が病気になった時、雨の中で倒れた時、お前はどこにいた?一度でも彼女の気持ちを考えたことがあるのか?」西也の声がさらに鋭く響く。「お前は若子を幸せにする資格なんてない!それどころか、あいつを娶った理由も、全部お前の身勝手さのせいだ!」彼は修を冷たい目で睨みつけ、最後に吐き捨てるように言った。「お前は、徹底的にどうしようもないクズだ!」もし若子のことを思わなければ、西也は今すぐ修に殴りかかっていただろう。結果など気にしない。たとえ警察沙汰になろうとも構わない。ただ、若子のためにこの怒りをぶつけてやりたかった。
修は動けなくなったまま、ただ若子をじっと見つめていた。わずか数秒のことなのに、永遠のように長く感じられた。震える唇を微かに動かしながら、修は一歩を踏み出し、若子に近づこうとした。その瞬間、西也が動き、修を止めようとしたが、矢野が必死に彼を押さえ込んで阻んだ。西也は拳を握りしめ、矢野の襟元を掴んで押しのけようとする。だが、その時、若子の声が響いた。「二人とも、来ないで!」修はまるで命令を受けた兵士のように、足を止めた。その声に、本能的に従ってしまったのだ。若子はゆっくりと立ち上がった。少しふらつきながらも、それを必死に隠して、冷静を装った。彼女は目を上げ、西也に向かって言った。「西也、ごめんなさい。ちょっと疲れたから先に帰りたいの」「俺が送っていくよ」西也は一歩前に出ようとしたが、矢野が再び立ちはだかる。「どけ!」西也は拳を握りしめ、あと一歩で殴りかかりそうだった。矢野もその様子に怯えながら、どうにかして自分を抑え込む。彼は自分の仕事のために動いているだけだったが、心中は穏やかではなかった。「西也、大丈夫だから」若子が静かに制止した。「送ってもらわなくても平気。自分で運転して帰るわ。少し一人になりたいの、」そして、彼女は少し間を置いて付け加えた。「それに、高橋さんのことをちゃんと招待してあげてほしいの」「でも......」西也は彼女の状態が心配でたまらない様子だった。「俺は......」「いいの、西也」若子は軽く微笑みを浮かべながら、彼の言葉を遮った。「もう決めたことだから、私を困らせないで」若子は、西也が話せば分かる人間であることをよく知っていた。だからこそ、落ち着いて話をすればきっとわかってもらえると信じていた。そして、事実その通りだった。西也は特に若子に対してはいつも理性的で、彼女の言葉を何よりも尊重していた。「......わかった。だけど、家に着いたら、必ず電話をしてくれ。お前の声を聞いて、ちゃんと無事だって確かめたい」若子は小さくうなずいた。彼女は荷物も持たず、スマホだけをポケットに入れていたため、そのまま出る準備が整っていた。そのまま彼女は背を向け、修のそばを通り過ぎようとした。修は反射的に手を伸ばしかけたが、その手を止めた。若子を引き止める理由が、何一つ思い浮かばなかった
「そのことよ」 若子は静かに口を開いた。「あの日、私は泣きながらあなたを引き止めようとした。でも、あなたはどうしても桜井さんのところに行くって聞かなかった。彼女が病気だって言ってね」 彼女の声は淡々としていたが、その言葉の裏には深い痛みが滲んでいた。「私は車であなたを追いかけた。そして、あなたが彼女に約束するのを目の前で見たの」 若子は小さく息をつきながら続けた。 「その帰り道......雨がひどくてね。病院の前で気を失った。でも、そのことをあなたには一度も言わなかったわ。今も別に話すつもりはなかった。もし西也が言わなければ、私は永遠に黙っていたでしょうね。話しても意味がないと思ったから」修は呆然と若子を見つめた。その瞳には複雑な感情が渦巻いている。彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。本当にそのことだけなのか?いや、それだけではないはずだ。彼の胸には、もっと重大な何かが隠されている予感が押し寄せていた。一方、西也は胸の中で静かにため息をついた。結局、若子は修に真実を明かさなかった。けれど、それでも構わない、と西也は思った。修が今日ここに現れたのは偶然ではなく、確実に計画的なものだと彼にはわかっていた。彼らはすでに離婚している。それなのに、修はまだ若子に執着している―それが西也には心配だった。もしかして......彼は若子に対して、まだ特別な感情を抱いているのか?男というのは得てして手元にあるものを大切にせず、失ってから後悔するものだ。修も例外ではない。離婚して初めて若子の価値に気づき、彼女を取り戻そうとしているのかもしれない。だからこそ、若子の妊娠のことを修に知られるわけにはいかなかった。そんなことになれば、修はそれを理由に復縁を迫ってくるだろう。そして、若子の優しい性格を考えれば、修が子どもの父親であることに罪悪感を覚え、彼の提案を断り切れなくなるかもしれない。若子は言葉を終えると、そのまま足早に出口へと向かった。修は無意識のうちに彼女を追おうと一歩を踏み出した。若子は背後の気配に気づき、冷たい声で言った。「誰も私についてこないで。それが守れないなら......もう二度と会わないから」その言葉を残して、若子は拳をぎゅっと握りしめ、足早にその場を去った。修は彼女の背中を見送るしかなかった。彼女の姿が完全
「お前がろくでもない奴だ」修は一言ずつ噛み締めるように、歯ぎしりしながら吐き捨てた。その目には燃えるような怒りの炎が宿っている。二人は互いに一歩も引かず、至近距離で向かい合っていた。どちらも身長は180センチを超え、放たれる威圧感は尋常ではない。視線がぶつかるたび、周囲にはピリピリとした緊張感が張り詰め、まるで爆発寸前の火薬のようだ。その場の誰もが二人の怒りの矛先が自分に向かないよう、自然と距離を取った。矢野も例外ではなく、後ずさりしてさらに安全な場所へと退く。彼らを知る者ならば誰でも理解している―この二人は決して関わってはいけない男たちだ、と。西也は目を細め、冷たい光をその瞳に宿しながら静かに言った。「それで?藤沢、お前が言う『いい人間』ってなんだ?」彼は修に一歩近づき、低く嘲るように続ける。「自分の妻を守れない男が『いい人間』を名乗る資格なんてあるのか?そう思わないか?」修に「ろくでなし」呼ばわりされるとは―西也はその滑稽さに思わず鼻で笑いたくなった。確かに自分は決して「いい人間」ではないが、それを言う資格が修にあるとは思えない。二人の間に漂う怒りは、今にも爆発しそうなほど膨れ上がっていく。矢野は修に長年仕えてきた。彼の性格や癖も熟知しているし、どんな場面でも冷静でいる自信はあった。だが、今の状況はさすがに彼の心を乱した。目の前の二人―修と西也は、どちらも冷静さを完全に失っていた。理屈や道理が通じる状態ではない。こうなれば、二人が頼るのは言葉ではなく拳だ。感情のぶつかり合いが最高潮に達し、理性が吹き飛べば、戦いはただの力のぶつかり合いになる。修は突然、皮肉げな笑みを浮かべた。「まあ、俺は少なくとも彼女の夫だったよ。すべてを俺に捧げてくれた彼女のな」修の声には挑発が込められている。「俺が夫として一番得意だったのは、夜のことだったけどな。信じられないなら、若子に聞いてみたらどうだ?」「藤沢!」西也は怒りのあまり制御を失い、修の胸倉を掴んだ。「お前、本当に最低だ。そんなことを言って、若子をどういう立場に置くつもりだ!」「手を離してください!」矢野が西也と修の間に割って入ろうとする。だが修は、焦るそぶりも見せず、冷静な口調で矢野に言った。「下がれ」「でも......」矢野は何か言いかけたが、修の冷たい視
「藤沢、あんたは自己中心的な最低野郎だ。若子がお前と結婚したのは、まったくの不幸だった。だが、ようやく離婚できたんだ。もし少しでも良心が残っているなら、もう彼女の生活を邪魔するな。若子はお前なんか必要としてない!」西也の声は低く、だがその一言一言が修の骨の髄にまで突き刺さるようだった。その言葉は、修の心に容赦なく響き渡った。まるで彼の目の前で再生される映画のように、西也の言葉が過去の出来事を思い出させた。雨の中で倒れる若子。高熱を出して泣き続ける彼女の姿。 やつれた顔、白い頬、全身に刻まれた疲労と痛み。修は、若子がそんな目に遭っていたことを今の今まで知らなかった。もしその事実を早く知っていたなら―あの夜、彼は彼女の家に押しかけたりしなかっただろう。彼女を無理やり連れ戻すような真似もせず、離婚をちらつかせて脅すこともなかったはずだ。彼女が涙を流しているのを見ても、何一つ気遣わず、ただ自分の感情を押し付けただけだった。それもこれも、くだらない嫉妬と男のプライドに飲み込まれた結果だ。修は認めたくなかったが、自分の胸の奥ではっきりと分かっていた。―西也の言葉は、すべて正しい。自分は最低だ。この結婚は、若子に何を与えただろう?彼女にどんな幸せを届けただろうか?修は考えれば考えるほど、心が痛みに苛まれた。一方、矢野はこっそりと額の汗を拭った。「......今の話を聞いてると、確かに総裁、結構なクズだよな」と心の中で呟きつつも、もちろん口には出さなかった。心の痛みは深く、容赦なく、まるで胸を刃で切り裂かれているようだった。修の目はどんよりと曇り、力を失っていた。数歩進んだところで、彼は足を止め、後ろを振り返って低く呟いた。「西也......俺はクズだ。だが、お前は哀れな負け犬だ。ハッ......」修は自嘲気味に笑い、だがその笑みはどこか虚ろで悲しげだった。だが、修には分かっていた。同じ男だからこそ、西也が若子に抱く感情は一目瞭然だった。ただ、修が永遠に「クズ」であり続けるのに対し、西也がずっと「哀れな負け犬」のままでいるとは限らない―それだけは、彼も理解していた。修が去った後、西也は深く息を吸い込み、気持ちを立て直した。彼は冷静さを取り戻しながら部屋に戻り、ドアを開けると、花が美咲と話している
修は若子の住むマンションの前に立っていた。少し前に、ボディーガードから「彼女は無事に家に着きました」と報告を受けていた。その時、彼女の新しい住所も教えてもらい、気づけば一人でここまで来てしまっていた。ここが若子の新しい住まいか。見上げた建物は、どこにでもあるような普通のマンションだ。彼女はここに引っ越してきた。それなのに、自分の家には戻ろうとしない。あの家―かつて彼女と自分が一緒に暮らした場所―を、彼女はもういらないと言うのだ。それってつまり、彼女は「俺」に関わるすべてを捨て去りたいってことなのか?若子、お前は一体何がそんなに嫌なんだ?俺たちの結婚そのもの?それとも......俺という存在?もしお前が結婚という形を嫌っていたのなら、もうその呪縛は解けたはずだ。それなのに、お前はなぜまだこんなにも辛そうなんだ?もしかして......嫌っているのは、俺そのもの?俺なんて、お前の世界にいない方が良かった?だから、俺をブロックしたのか?―そうか。やっぱり俺が嫌いなんだな。修は苦笑しながらポケットからスマホを取り出した。若子の番号を開き、そこにメッセージを打ち込む。そのメッセージを作るのに、なんと十分以上もかけてしまった。何度も削っては書き直し、ようやくたどり着いたのは、たった数行のシンプルな言葉。送信ボタンを押す。もちろん、届かないと分かっている。彼女にブロックされているからだ。だからこそ送れたメッセージ。彼女に決して届かない、ただの独り言。送信が完了した画面を見て、ふぅ、と小さく息を吐く。それから顔を上げると、目の前のマンションの窓を見上げた。灯りがついている部屋が一つ。「若子、お前がそれほどまでに俺を嫌うなら......もうお前の邪魔はしない」若子はトイレの前にうずくまり、必死に嘔吐していた。普段のつわりはそこまでひどくない。だけど、プレッシャーを感じたり、修のことを考えてしまうと、どうしても胸の奥から激しい悲しみと怒りが込み上げてくる。その感情はあまりにも強烈で、身体まで反応してしまうのだ。今日の夕飯には手をつけていない。朝ごはんも昼ごはんも、すべて吐き尽くしてしまい、最後にはまるで苦い胆汁さえ吐き出すようだった。すべてを吐き終えた後、若子は抜け殻のようになった。トイレの水
若子はポケットからスマホを取り出す。画面に表示された名前は、西也だった。しまった。このこと、すっかり忘れてた。彼女は帰宅したら電話をして無事を知らせると、西也に約束していたのだ。若子は涙を拭い去り、深く息を吸い込む。喉を軽く鳴らして咳払いをし、なんとか声を落ち着けて通話ボタンを押した。「もしもし」「若子、家には着いたか?全然連絡がないから、心配になった」若子はわずかに微笑みながら答えた。「心配してくれてありがとう、もう家にいるわ。ごめんね、連絡するのを忘れちゃって」「いや、大丈夫。無事ならそれでいい。まだ夕飯を食べてないだろう?何か持って行こうか」「いいわよ、自分で作れるから。冷蔵庫にも食材はたくさんあるし」「なら早く作りなよ。忘れるなよ、君には赤ちゃんがいるんだから。赤ちゃんだってお腹が空くだろ?君も赤ちゃんも一人じゃない。俺もいる」西也の優しい声は、彼女の心を穏やかに包み込んでくる。若子は思わず口元を手で覆い、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。どうして、西也はこんなにも短い付き合いでここまで心を砕いてくれるの?私の気持ちを理解して、寄り添おうとしてくれる。一方で修は―あれだけ長い十年もの付き合いだったのに、彼は私に何一つ分かろうとしなかった。私の気持ちも、私の愛も、全部。きっと、彼が理解できたのは桜井だけだ。彼の心には、もう一人の女性が入る余地なんて最初からなかったのだろう。若子は泣き声を抑えようと必死だったが、わずかに漏れたすすり泣きが指の隙間から洩れる。電話の向こうでその音を聞き取った西也は、すぐに焦りの色を見せた。「若子、何があったって、君は決して一人じゃないから」若子は目を固く閉じ、涙がこぼれ落ちないよう必死にこらえていた。胸の中に押し寄せる悲しみを、何とかして抑え込む。こんな感情に溺れてはいけない。自分を取り戻さなければ。本来なら、自分を大切にしてくれる人たちや、幸せな気持ちにしてくれる出来事に目を向けるべきだと分かっている。けれど、人間とはどうしても苦しみの感情ばかりを深く心に刻みつけてしまい、楽しいことを見落としてしまうものだ。「ありがとう、西也。ちょっと一人になりたいの。心配しないで、大丈夫だから。ただ、少し落ち着きたいだけ。気持ちが整ったら、また連絡するわね」
若子が生きていると確認して、修はようやく安堵の息を吐いた。 これまで幾度となく、彼女を探し続けるなかで何度も遺体を見つけ、そのたびに胸が潰れそうな絶望を味わった。 けれど、若子だけは見つからなかった。 代わりに、他の行方不明者ばかりが見つかった。 そして今ようやく、彼女を見つけた。 彼女は―生きていた。 だが彼女がどんな目に遭っていたのか、想像するだけで胸が痛んだ。 「修......なんであなたが......?」 若子は信じられないような目で彼を見つめた。 「どうしてここに?」 まさか来たのが修だったなんて、夢にも思わなかった。 ヴィンセントは目を細めて振り返った。 「この男......テレビに出てたやつじゃないのか?君の前夫だろ?」 若子はうなずいた。 「うん。彼は......私の前夫よ」 修が来たと分かって、若子は少しだけ安心した。 「若子、こっちに来い!」 修は焦った様子で手を伸ばした。 「修、どうしてここに......?」 「お前を助けに来たに決まってるだろ!お前がいなくなって、俺は気が狂いそうだった!」 「わざわざ......私のために......?」 若子は、てっきりヴィンセントの敵が来たのだと思っていた。 「若子、早く来い!そいつから離れて!」 「修、違うの!誤解してる!彼は......ヴィンセントって言って、彼は......」 若子が話し終える前に、修は彼女を後ろへ引っ張り、銃を構えてヴィンセントに発砲した。 ヴィンセントはまるで豹のような動きで避けたが、すぐに更なる銃弾が飛んできた。 すべての男たちが一斉にヴィンセントへ発砲を始めた。 彼はテーブルの陰に飛び込んで避けたが、ついに銃弾を受けてしまった。 「やめて!」 若子は絶叫した。 銃声が激しく響き、彼女の声はかき消されていった。 「修、やめて!」 彼女は必死に彼を掴んで叫んだ。 「撃たせないで、やめて!」 「若子、お前は何をしてるんだ!?あいつは犯罪者だぞ!お前を傷つけたんだ、正気か!?」 修には、なぜ若子がヴィンセントを庇うのか理解できなかった。 「彼は違う、彼はそんな人じゃない......!」 「違わない!」 修は彼女の言葉を遮った。 「
彼女に違いない、絶対に若子だ! あの男は誰だ?一体若子に何をした? 修の目には、あの男が若子をここに連れてきたようにしか見えなかった。 若子がどれほどの苦しみを受けたのかも分からない。 修は考えれば考えるほど、動揺と焦りで頭がいっぱいになった。 部下が周囲を確認していた。 この家は簡単に入れない。どこも厳重に警備されていて、爆破しないと入れない状態だった。 突然、監視カメラの映像に映った。 男が女をソファに押し倒したのだ。 その瞬間、修の怒りが爆発した。 若子が襲われていると誤解し、理性を失った彼は即座に命令を出した。 「扉を爆破しろ、早く!」 ...... ソファの上で、ヴィンセントは若子の上から身体を起こした。 「悪い」 「大丈夫、気をつけて」 さっきはヴィンセントがバランスを崩してソファに倒れ、その勢いで若子も倒れたのだった。 ヴィンセントが姿勢を整えると、若子は言った。 「傷、見せて。確認させて」 彼女はそっと彼の服をめくり、包帯を外そうとした。 ―そのとき。 ヴィンセントの眉がぴくりと動いた。 鋭い危機感が背中を駆け抜けた次の瞬間、彼は若子を抱き寄せ、ソファに倒れ込ませた。 「きゃっ!」 若子は驚き、思わず声を上げた。 何が起きたのか分からず、反射的に彼を押し返そうとしたが― その瞬間、「ドンッ!」という轟音が響き、爆発が扉を吹き飛ばした。 煙と埃が宙に舞い、破片が飛び散る。 ヴィンセントは若子をしっかりと抱きかかえ、その身体で彼女を庇った。 その眼差しは鋭く、まるで刃のようだった。 若子は呆然としながら言った。 「何が起きたの?あなたの敵?」 もし本当にそうだったら― この状況は最悪だった。 ヴィンセントはまだ傷が癒えていない、今の彼に戦える力があるか分からない。 「怖がらなくていい。俺が守る」 その声は強く、闇を貫くように響いた。 彼はもうマツを守れなかった。 今度こそ、若子だけは―何があっても守り抜く。 扉が吹き飛んだあと、黒服の男たちが銃を持って突入してきた。 「動くな!両手を挙げろ!」 ヴィンセントはそっとソファの上にあった車のキーを手に取り、若子の手に握らせた。 そして、彼女の耳
ヴィンセントは「なぜだ、なぜなんだ!」と叫び続け、頭を抱えて自分の髪を乱暴に引っ張った。 その姿は絶望そのものだった。 若子は彼の背中をそっと撫でた。 何を言えば慰めになるのか、彼女には分からなかった。 ―すべての苦しみが、言葉で癒せるわけじゃない。 最愛の人を、あんな形で失った彼の痛み。 誰にだって耐えられることじゃない。 もしそれが自分だったら―きっと、同じように壊れていた。 突然、ヴィンセントは手を伸ばし、若子を抱きしめた。 若子は驚いて、思わず彼の肩に手を当て、押し返そうとした。 だが、彼はその耳元でかすれた声を漏らした。 「動かないで......少しだけ、抱かせて......お願いだ」 「......」 若子は心の中でそっとため息をついた。 彼の背中を軽く叩きながら言った。 「これはあなたのせいじゃないよ。全部、あいつらみたいな悪人のせい。 マツさんも、きっとあなたを責めたりしない。 きっと、あなたにこう言うよ。『今を大切にして、毎日をちゃんと生きて』って」 「松本さん......ごめん......君をここに閉じ込めて、マツとして扱って...... ただ、昔の記憶にすがりたかっただけなんだ...... 君を初めて見たとき、マツが帰ってきたのかと思った...... 君があいつらに傷つけられるって思ったら......もう耐えられなかった」 ヴィンセントの表情には、後悔と悲しみが滲んでいた。 その瞳は、内面の葛藤と苦しみに囚われ、涙が滲むような声で語った。 彼は若子に謝っていた。 そして、自分の弱さを―心の奥にある痛みを告白していた。 「それでも、助けてくれてありがとう。私をマツだと思ってたとしても、松本若子だと思ってたとしても......あなたは私を、助けてくれた」 「たとえマツじゃなくても、俺はきっと君を助けてたよ」 ヴィンセントは彼女をそっと離し、その肩に両手を置いた。 真剣な眼差しで言った。 「俺、女が傷つけられるのを見るのが耐えられないんだ」 ふたりの視線が交わる。 その間に流れる空気は、言葉では表せない感情に満ちていた。 若子は、彼の心の痛みを少しでも理解しようとした。 ―もしかしたら、自分が人の痛みに敏感だからかも
若子はほんの少し眉をひそめた。 しばらく考え込んだあと、こう言った。 「私には、あなたの代わりに決めることはできない。あなたが復讐したのは、間違ってないと思う。でも......もしも、まだ彼を苦しめるつもりなら......私は先に上に行ってもいい?見ていられないの」 あまりにも残酷な光景に、若子は夜に悪夢を見るかもしれないと思った。 ヴィンセントは彼女の顔を見て振り返った。 若子の表情は、少し青ざめていた。 彼女は確かに、怖がっていた。 そうだ。 彼女はまともな人間だ。 自分のように、何もかも見てきたような人間じゃない。 怖がって当然だ。 若子は、真っ白なクチナシの花。 自分は、血と泥にまみれた人間。 「......行っていい。すぐに俺も行く」 若子は「うん」と頷き、地下室を出て行った。 扉を閉めると、地下室から音が漏れてきた。 声の出ないその男は、うめくことも叫ぶこともできない。 聞こえてくるのは、ヴィンセントの行動音だけだった。 ナイフが肉を刺す音、物が倒れる音― 若子は耳を塞ぎ、背中を壁に押しつけた。 この世界では、日々さまざまな出来事が起こっている。 善と悪は、簡単に区別できない。 人を殺すことが、必ずしも「悪」ではなく、 人を救うことが、必ずしも「善」とは限らない。 たとえば、殺されたのが凶悪な犯罪者だったなら、それは正義かもしれない。 逆に、そんな人間を救えば、また誰かが被害に遭うかもしれない。 世の中は、白と黒で割り切れない。 極端な善悪の二元論では、何も見えてこない。 しばらくして、扉が開いた。 ヴィンセントが出てきた。手にはまだ血のついたナイフを持っていた。 彼はそのまま、近くのゴミ箱にナイフを投げ捨てた。 「殺した......地獄に落ちて、マツに詫びてもらう」 若子は彼をまっすぐに見つめた。 そこにいたのは、復讐を果たして満足している男ではなかった。 魂を失ったような、抜け殻のような男だった。 突然、ヴィンセントが「ドサッ」とその場に倒れ込んだ。 「ヴィンセント!」 若子は駆け寄って、彼を支えようとしゃがみ込む。 だが、彼は起き上がろうとせず、地面に崩れたまま笑い出した。 「なあ......天
男の体は血だらけで、すでに人間の姿とは思えないほどに痛めつけられていた。 全身からはひどい悪臭が漂っている。 若子は吐き気をこらえながら、口を押さえて顔を背け、えずいた。 「この人......誰?どうして......あなたの地下室に......?」 「こいつが、マツの彼氏だ」 若子は驚愕した。 「えっ?彼女の彼氏が、どうしてここに......?」 ヴィンセントは語った。 妹を殺したのはギャングたちだ― だから、彼はそのすべての者たちを殺して復讐を果たした、と。 だが、その中に彼氏の話は一切出てこなかった。 ―もしかして、妹を失ったショックで、理性を失ってるの......? 「こいつがマツを死なせた張本人だ」 「どういうこと......?ギャングがマツを襲ったって......それならこの人は......?」 「こいつがチクったんだ。マツが俺の妹だって、やつらに教えた」 ヴィンセントは男の前に立ち、声を荒げた。 「こいつが共犯だ!」 その目には殺意が宿っていた。 この男を殺したところで、気が済むわけではない。 それでも―殺さずにはいられないほど、憎しみは深かった。 男は顔も腫れ上がり、誰だか分からない。 身体中を鎖で縛られ、長い間、暗く湿った地下に閉じ込められていた。 声も出せず、体を動かすことすらできず、助けも呼べず― ただ、毎日苦しみ続けていた。 ヴィンセントは彼を殺さず、生かしたまま、マツが受けた苦しみを何倍にもして返していたのだ。 「......そういうことだったのか」 若子は心の中で思った。 マツは―愛してはいけない男を愛してしまったのだ。 女が間違った男を選べば、軽ければ心が傷つくだけで済む。 だが、重ければ命すら奪われる。 修なんて、この男に比べれば、まだマシだ。 少なくとも、彼は命までは奪わない。 ......でも、そういう問題じゃない。 傷つけられたことには変わりない。 「ヴィンセントさん......これからどうするの?ずっとここに閉じ込めて、苦しませ続けるつもり?」 若子には、彼の行動を否定することもできなかった。 非難する資格が自分にはないと分かっていた。 でも、心のどこかで―怖さもあった。 だが、
言葉のない慰め。 それが、今の若子にできる唯一のことだった。 人と人との共感。 他人の悲しみを知ったときに生まれる感情。 それは、冷淡や無関心、ましてや嘲笑とは違う。 ―それが、人間と獣の違いなのかもしれない。 ヴィンセントが幻覚を見続け、マツの名前を呼び続け、「ごめん」と繰り返していた理由が、ようやくわかった。 「それで......それであなたは、マツを傷つけたやつらに復讐したの?全部......殺したの?」 若子は声を震わせながら尋ねた。 「その通りだ」 ヴィンセントの瞳に、凶暴な光が宿った。 「奴ら全員殺した。去勢して、自分のモノを食わせた。内臓をくり抜いて、犬に食わせて、一人残らず消した」 溢れ出す怒りが、今も彼の心の中で燃え続けていた。 奴らはもう死んだ。 けれど、この憎しみは消えない。 一生、忘れることなんてできない。 「この街では、あいつらは神みたいな存在だったらしい。すべてを支配する者たち。 ......でもな、地べたに這いつくばって命乞いして、腐って、臭って、ただの肉塊になった。ははっ、ざまあみろってんだ!」 ヴィンセントは狂ったように笑った。 けれど、笑いながら、大粒の涙が頬を伝って落ちた。 若子はそっとティッシュを取り出し、彼の涙をぬぐおうとした。 その瞬間―「パシッ」 ヴィンセントが彼女の手首を掴んだ。 「......地下室の音。君が聞いたのは、幻覚じゃない。知りたいか?」 若子は唇を噛みしめながら、黙ってうなずいた。 「来い。案内する」 ヴィンセントは若子の手を取って立ち上がり、地下室へと向かった。 ふたりで地下室の前まで来ると、古びた扉が目の前に現れた。 ドアノブは錆びていて、古さを感じさせる。 夕食を作る前、若子はここで音を聞いた。 扉を開けようとして、恐怖で逃げ出した― そして今、ヴィンセントがその話を終え、彼女をここへ連れてきた。 胸の奥にある不安が、ふくらんでいく。 「下にあるものは......見て気分が悪くなるかもしれない。覚悟しておけ」 若子は振り返って答えた。 「覚悟はできてる。あなたが一緒なら、私は怖くない」 一人だったら、絶対に降りられない。 でも今は、ヴィンセントがそばにい
「それで、マツって結局どんな人だったの?」 若子はそう思ったが、口には出さなかった。 彼が話し始めるのを、ただ真剣に聞いていた。 ヴィンセントは、きっと自分から語ってくれると思ったから。 「マツがあの男のことを好きなのは知ってた。だから、そんなに強くは殴ってない。でも、あいつが浮気したって聞いて......腹が立った。マツみたいにきれいな子がいるのに、なんで浮気なんかするんだってな。 でも、その後であいつも自分の過ちに気づいて、マツに謝ったんだ。マツも許して、ふたりはまた付き合い始めた。楽しそうに一緒に遊んで、勉強して...... でも俺は、あいつがまたマツを傷つけるんじゃないかと怖くて、陰で忠告してやった。『次またマツを泣かせたら、お前を終わらせる』ってな。 それでもふたりの関係はどんどん良くなっていって、大学を卒業した後、結婚の話まで出てた。 うちの親は早くに死んだから、マツとはふたりで支え合って生きてきた。『兄は父の代わり』って言うだろ。だから俺は、父親にも母親にもなった。でも、マツも俺を支えてくれた。 でも、マツは大人になって、愛する男ができた。いつまでも兄とだけ一緒にいるわけにはいかない」 若子はようやく、マツが彼の妹だということを理解した。 ふたりは子どもの頃から一緒に育ち、互いに支え合ってきた。 彼が幻覚に陥ったときに叫んでいたその名前― 深い痛みと共に繰り返していた「ごめん」は、すべて彼女に向けたものだったのだ。 若子はどうしても聞きたくなった。 「......マツは今、どこにいるの?その男の人と、まだ一緒なの?」 「マツに食わせるために、学費を貯めるために......俺は命がけの仕事をしてた。あいつは何も知らなかった。 俺のこと、真っ当な人間だって信じてた。自動車整備工場で働いてるって。 でも、ある日―マツは血まみれでベッドに倒れてる俺を見てしまった。 あいつ、びっくりしてた。『兄ちゃんは、そんな人間だったの......?』って」 ヴィンセントの目は虚ろで、焦点を失っていた。 ここまで話すと、彼はしばらく黙り込んだ。 若子は何も言わず、静かに待った。 数分後― ヴィンセントが再び口を開いた。 「マツは俺がひどくケガしてるのを見て、夜中に薬を買いに行っ
「監禁じゃないっていうの?」若子は問い返した。 ヴィンセントは鍵を彼女の手元に置いた。 「俺としては、それを『取引』と呼びたい」 若子は車の鍵を手に取り、ぎゅっと握った。 「どうして、予定より早く帰してくれるの?」 ヴィンセントは缶のビールを飲み干し、さらに若子が一口だけ飲んだビールまで手に取り、それも全部飲み干した。 二缶を一気に飲み干した彼の目は虚ろだった。 「夢から覚める時が来たんだ。君はマツじゃない。俺はただ、偽物の記憶にすがってただけだ」 このままでは、自分はどんどん抜け出せなくなる。 この女をずっとここに閉じ込め、マツとして扱ってしまう― でも、それは不可能だ。 若子は黙って彼を見つめた。何か聞きたかったが、ヴィンセントは何度も「マツのことは口にするな」と言っていた。 結局、口をつぐみ、ただ黙って見守った。 彼の目には悲しみが浮かんでいたが、笑顔でそれを隠していた。 「首を傷つけちまって、悪かったな。普段から誰かに命を狙われるから、寝てても常に警戒してる。何か動きがあると、自動的に危険だと判断するんだ」 「なんでそんなに多くの人に命を狙われるの?よかったら教えてくれない?私、誰にも言わないから」 若子はヴィンセントに対して、さらに好奇心を抱いた。 彼には、何か大きな物語がある気がしてならなかった。 普通の人とは明らかに違う。 「俺は大勢の人間を殺した。家族ごと全員だ。犬一匹すら残さなかった」 その言葉を発したとき、ヴィンセントの拳は握り締められ、眉間は寄り、目には鋭い殺気が宿っていた。 若子は背筋に寒気が走った。 「誰の家族を......全部、殺したの?」 「たくさんの人間だ」 ヴィンセントは顔を向け、静かに彼女を見つめた。 「数えきれない。血の川をつくるほど殺してきた」 若子は緊張し、両手を握りしめた。 手のひらは冷や汗で濡れていた。 「どうして......?」 「どうしてだと?」 ヴィンセントは笑った。 「人を殺すのに理由がいるか?俺はただの殺人鬼ってことでいい」 「でも、あなたは違う。どうして殺したのか、それが知りたいの」 この世には理由もなく人を殺す者がいる。 単なる異常者もいる。 でも、若子はヴィンセントは
「子ども」この言葉を聞いた瞬間、若子は眉をひそめた。 「......どうして知ってるの?」 ヴィンセントは立ち上がり、冷蔵庫を開けてビールを一本取り出し、のんびりと答えた。 「妊娠してから他の男と結婚して、子どもが生まれてまだ三か月ちょっと。ってことは、離婚を切り出された時点で、すでに妊娠してたわけだ。でも、子どもは今の旦那の元にいる。ってことは、可能性は二つしかない。 ひとつは、元旦那が子どもの存在を知ってて、それでもいらなかった。 もうひとつは、そもそも子どもの存在を知らない。君が教えたくなかったんだろう。俺は後者だと思うね。だって、あいつはクズだ。そんな奴に父親なんて務まらない」 若子は鼻の奥がツンとして、喉に痛みを感じながらかすれた声を出した。 「......彼はそんなに悪い人じゃない。あなたが思ってるような人じゃないの」 「どんなやつかなんて関係ない。ただ、浮気者のクズって一面があるのは否定できないだろ」 「ヴィンセントさん、人間は完璧じゃないの。もう彼の話はやめて。私たちは幼い頃から一緒に育ったの。だから......どうしても憎めないの」 「わかったよ」ヴィンセントはソファに戻って腰を下ろした。 「そいつがここまでクズになったのは、君が甘やかしたせいだな」 「やめてってば」若子は少し苛立ったように言った。 「いい加減にして」 そして、ソファの上のクッションを手に取り、彼に向かって投げつけた。 ヴィンセントはその様子を見て、少し嬉しそうにしていた。 彼はクッションを横に置きながら言った。 「わかった、もう言わないよ」 そして、新しいビール缶を開けて、若子に差し出した。 若子は気分もモヤモヤしていたので、それを受け取り一口飲んだ。 普段あまりお酒は飲まないが、ビールならまだ飲める。 けれど、彼に締められた首がまだ痛くて、その一口で喉が強く痛んだ。 すぐにビールを置き、喉に手をやる。 顔をしかめるほどの痛みだった。 それを見たヴィンセントはすぐに彼女のそばに来て、体を向けさせ、あごを軽く持ち上げた。 「見せて」 若子の首は腫れていた。 もう少しで折ってしまうところだった。 「腫れ止めの薬を取ってくる」 立ち上がろうとしたヴィンセントを、若子は腕を