「そのことよ」 若子は静かに口を開いた。「あの日、私は泣きながらあなたを引き止めようとした。でも、あなたはどうしても桜井さんのところに行くって聞かなかった。彼女が病気だって言ってね」 彼女の声は淡々としていたが、その言葉の裏には深い痛みが滲んでいた。「私は車であなたを追いかけた。そして、あなたが彼女に約束するのを目の前で見たの」 若子は小さく息をつきながら続けた。 「その帰り道......雨がひどくてね。病院の前で気を失った。でも、そのことをあなたには一度も言わなかったわ。今も別に話すつもりはなかった。もし西也が言わなければ、私は永遠に黙っていたでしょうね。話しても意味がないと思ったから」修は呆然と若子を見つめた。その瞳には複雑な感情が渦巻いている。彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。本当にそのことだけなのか?いや、それだけではないはずだ。彼の胸には、もっと重大な何かが隠されている予感が押し寄せていた。一方、西也は胸の中で静かにため息をついた。結局、若子は修に真実を明かさなかった。けれど、それでも構わない、と西也は思った。修が今日ここに現れたのは偶然ではなく、確実に計画的なものだと彼にはわかっていた。彼らはすでに離婚している。それなのに、修はまだ若子に執着している―それが西也には心配だった。もしかして......彼は若子に対して、まだ特別な感情を抱いているのか?男というのは得てして手元にあるものを大切にせず、失ってから後悔するものだ。修も例外ではない。離婚して初めて若子の価値に気づき、彼女を取り戻そうとしているのかもしれない。だからこそ、若子の妊娠のことを修に知られるわけにはいかなかった。そんなことになれば、修はそれを理由に復縁を迫ってくるだろう。そして、若子の優しい性格を考えれば、修が子どもの父親であることに罪悪感を覚え、彼の提案を断り切れなくなるかもしれない。若子は言葉を終えると、そのまま足早に出口へと向かった。修は無意識のうちに彼女を追おうと一歩を踏み出した。若子は背後の気配に気づき、冷たい声で言った。「誰も私についてこないで。それが守れないなら......もう二度と会わないから」その言葉を残して、若子は拳をぎゅっと握りしめ、足早にその場を去った。修は彼女の背中を見送るしかなかった。彼女の姿が完全
「お前がろくでもない奴だ」修は一言ずつ噛み締めるように、歯ぎしりしながら吐き捨てた。その目には燃えるような怒りの炎が宿っている。二人は互いに一歩も引かず、至近距離で向かい合っていた。どちらも身長は180センチを超え、放たれる威圧感は尋常ではない。視線がぶつかるたび、周囲にはピリピリとした緊張感が張り詰め、まるで爆発寸前の火薬のようだ。その場の誰もが二人の怒りの矛先が自分に向かないよう、自然と距離を取った。矢野も例外ではなく、後ずさりしてさらに安全な場所へと退く。彼らを知る者ならば誰でも理解している―この二人は決して関わってはいけない男たちだ、と。西也は目を細め、冷たい光をその瞳に宿しながら静かに言った。「それで?藤沢、お前が言う『いい人間』ってなんだ?」彼は修に一歩近づき、低く嘲るように続ける。「自分の妻を守れない男が『いい人間』を名乗る資格なんてあるのか?そう思わないか?」修に「ろくでなし」呼ばわりされるとは―西也はその滑稽さに思わず鼻で笑いたくなった。確かに自分は決して「いい人間」ではないが、それを言う資格が修にあるとは思えない。二人の間に漂う怒りは、今にも爆発しそうなほど膨れ上がっていく。矢野は修に長年仕えてきた。彼の性格や癖も熟知しているし、どんな場面でも冷静でいる自信はあった。だが、今の状況はさすがに彼の心を乱した。目の前の二人―修と西也は、どちらも冷静さを完全に失っていた。理屈や道理が通じる状態ではない。こうなれば、二人が頼るのは言葉ではなく拳だ。感情のぶつかり合いが最高潮に達し、理性が吹き飛べば、戦いはただの力のぶつかり合いになる。修は突然、皮肉げな笑みを浮かべた。「まあ、俺は少なくとも彼女の夫だったよ。すべてを俺に捧げてくれた彼女のな」修の声には挑発が込められている。「俺が夫として一番得意だったのは、夜のことだったけどな。信じられないなら、若子に聞いてみたらどうだ?」「藤沢!」西也は怒りのあまり制御を失い、修の胸倉を掴んだ。「お前、本当に最低だ。そんなことを言って、若子をどういう立場に置くつもりだ!」「手を離してください!」矢野が西也と修の間に割って入ろうとする。だが修は、焦るそぶりも見せず、冷静な口調で矢野に言った。「下がれ」「でも......」矢野は何か言いかけたが、修の冷たい視
「藤沢、あんたは自己中心的な最低野郎だ。若子がお前と結婚したのは、まったくの不幸だった。だが、ようやく離婚できたんだ。もし少しでも良心が残っているなら、もう彼女の生活を邪魔するな。若子はお前なんか必要としてない!」西也の声は低く、だがその一言一言が修の骨の髄にまで突き刺さるようだった。その言葉は、修の心に容赦なく響き渡った。まるで彼の目の前で再生される映画のように、西也の言葉が過去の出来事を思い出させた。雨の中で倒れる若子。高熱を出して泣き続ける彼女の姿。 やつれた顔、白い頬、全身に刻まれた疲労と痛み。修は、若子がそんな目に遭っていたことを今の今まで知らなかった。もしその事実を早く知っていたなら―あの夜、彼は彼女の家に押しかけたりしなかっただろう。彼女を無理やり連れ戻すような真似もせず、離婚をちらつかせて脅すこともなかったはずだ。彼女が涙を流しているのを見ても、何一つ気遣わず、ただ自分の感情を押し付けただけだった。それもこれも、くだらない嫉妬と男のプライドに飲み込まれた結果だ。修は認めたくなかったが、自分の胸の奥ではっきりと分かっていた。―西也の言葉は、すべて正しい。自分は最低だ。この結婚は、若子に何を与えただろう?彼女にどんな幸せを届けただろうか?修は考えれば考えるほど、心が痛みに苛まれた。一方、矢野はこっそりと額の汗を拭った。「......今の話を聞いてると、確かに総裁、結構なクズだよな」と心の中で呟きつつも、もちろん口には出さなかった。心の痛みは深く、容赦なく、まるで胸を刃で切り裂かれているようだった。修の目はどんよりと曇り、力を失っていた。数歩進んだところで、彼は足を止め、後ろを振り返って低く呟いた。「西也......俺はクズだ。だが、お前は哀れな負け犬だ。ハッ......」修は自嘲気味に笑い、だがその笑みはどこか虚ろで悲しげだった。だが、修には分かっていた。同じ男だからこそ、西也が若子に抱く感情は一目瞭然だった。ただ、修が永遠に「クズ」であり続けるのに対し、西也がずっと「哀れな負け犬」のままでいるとは限らない―それだけは、彼も理解していた。修が去った後、西也は深く息を吸い込み、気持ちを立て直した。彼は冷静さを取り戻しながら部屋に戻り、ドアを開けると、花が美咲と話している
修は若子の住むマンションの前に立っていた。少し前に、ボディーガードから「彼女は無事に家に着きました」と報告を受けていた。その時、彼女の新しい住所も教えてもらい、気づけば一人でここまで来てしまっていた。ここが若子の新しい住まいか。見上げた建物は、どこにでもあるような普通のマンションだ。彼女はここに引っ越してきた。それなのに、自分の家には戻ろうとしない。あの家―かつて彼女と自分が一緒に暮らした場所―を、彼女はもういらないと言うのだ。それってつまり、彼女は「俺」に関わるすべてを捨て去りたいってことなのか?若子、お前は一体何がそんなに嫌なんだ?俺たちの結婚そのもの?それとも......俺という存在?もしお前が結婚という形を嫌っていたのなら、もうその呪縛は解けたはずだ。それなのに、お前はなぜまだこんなにも辛そうなんだ?もしかして......嫌っているのは、俺そのもの?俺なんて、お前の世界にいない方が良かった?だから、俺をブロックしたのか?―そうか。やっぱり俺が嫌いなんだな。修は苦笑しながらポケットからスマホを取り出した。若子の番号を開き、そこにメッセージを打ち込む。そのメッセージを作るのに、なんと十分以上もかけてしまった。何度も削っては書き直し、ようやくたどり着いたのは、たった数行のシンプルな言葉。送信ボタンを押す。もちろん、届かないと分かっている。彼女にブロックされているからだ。だからこそ送れたメッセージ。彼女に決して届かない、ただの独り言。送信が完了した画面を見て、ふぅ、と小さく息を吐く。それから顔を上げると、目の前のマンションの窓を見上げた。灯りがついている部屋が一つ。「若子、お前がそれほどまでに俺を嫌うなら......もうお前の邪魔はしない」若子はトイレの前にうずくまり、必死に嘔吐していた。普段のつわりはそこまでひどくない。だけど、プレッシャーを感じたり、修のことを考えてしまうと、どうしても胸の奥から激しい悲しみと怒りが込み上げてくる。その感情はあまりにも強烈で、身体まで反応してしまうのだ。今日の夕飯には手をつけていない。朝ごはんも昼ごはんも、すべて吐き尽くしてしまい、最後にはまるで苦い胆汁さえ吐き出すようだった。すべてを吐き終えた後、若子は抜け殻のようになった。トイレの水
若子はポケットからスマホを取り出す。画面に表示された名前は、西也だった。しまった。このこと、すっかり忘れてた。彼女は帰宅したら電話をして無事を知らせると、西也に約束していたのだ。若子は涙を拭い去り、深く息を吸い込む。喉を軽く鳴らして咳払いをし、なんとか声を落ち着けて通話ボタンを押した。「もしもし」「若子、家には着いたか?全然連絡がないから、心配になった」若子はわずかに微笑みながら答えた。「心配してくれてありがとう、もう家にいるわ。ごめんね、連絡するのを忘れちゃって」「いや、大丈夫。無事ならそれでいい。まだ夕飯を食べてないだろう?何か持って行こうか」「いいわよ、自分で作れるから。冷蔵庫にも食材はたくさんあるし」「なら早く作りなよ。忘れるなよ、君には赤ちゃんがいるんだから。赤ちゃんだってお腹が空くだろ?君も赤ちゃんも一人じゃない。俺もいる」西也の優しい声は、彼女の心を穏やかに包み込んでくる。若子は思わず口元を手で覆い、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。どうして、西也はこんなにも短い付き合いでここまで心を砕いてくれるの?私の気持ちを理解して、寄り添おうとしてくれる。一方で修は―あれだけ長い十年もの付き合いだったのに、彼は私に何一つ分かろうとしなかった。私の気持ちも、私の愛も、全部。きっと、彼が理解できたのは桜井だけだ。彼の心には、もう一人の女性が入る余地なんて最初からなかったのだろう。若子は泣き声を抑えようと必死だったが、わずかに漏れたすすり泣きが指の隙間から洩れる。電話の向こうでその音を聞き取った西也は、すぐに焦りの色を見せた。「若子、何があったって、君は決して一人じゃないから」若子は目を固く閉じ、涙がこぼれ落ちないよう必死にこらえていた。胸の中に押し寄せる悲しみを、何とかして抑え込む。こんな感情に溺れてはいけない。自分を取り戻さなければ。本来なら、自分を大切にしてくれる人たちや、幸せな気持ちにしてくれる出来事に目を向けるべきだと分かっている。けれど、人間とはどうしても苦しみの感情ばかりを深く心に刻みつけてしまい、楽しいことを見落としてしまうものだ。「ありがとう、西也。ちょっと一人になりたいの。心配しないで、大丈夫だから。ただ、少し落ち着きたいだけ。気持ちが整ったら、また連絡するわね」
若子は慌てふためきながら、数秒かけて深呼吸をした後、恐る恐るカーテンの隙間を少しだけ開け、下を覗いた。すると、修はまだそこに立っていて、まるで彼女を見つけたかのように顔を上げている。若子は驚きで体が固まり、怯えた小鹿のようにカーテンをすぐさま閉じた。彼、上がってくるつもり?胸がざわめく思いで考えを巡らせた若子は、意を決してスマホを手に取り、修の番号を押した。彼女は修の番号をブロックしているため、修からの電話はかかってこないが、こちらから発信することはできる。ただ、もし修が彼女の番号をブロックしていたら、それも叶わない。緊張しながら待つと、しばらくしてスマホから着信音が響く。修が彼女をブロックしていないことが分かり、若子は小さく息を吐いた。十数秒後、低く重い声が聞こえてきた。「もしもし」「修、あんたって本当にストーカーだね。なんで私の家までついてくるのよ!」「お前の家って、本当にここなのか?」修が静かに問いかけてくる。「どこに住むかは私が決めるの。私が住んでいる場所が私の家よ。それで十分でしょ?それなのに、なんであんたがついてくるの?」「別に理由なんてない。ただ、気がついたらここに来ていただけだ」修の声は淡々としていて、動揺の気配など微塵もなかった。「お前が嫌なら、すぐに帰る」「帰ってよ!さっさと帰って、二度と来ないで!私、あんたなんか見たくない!」「それが、お前が俺をブロックした理由なのか?」修の声には少し掠れた響きがあった。「お前はもう二度と俺を見たくないんだな。離婚しても解放される気はしない?俺が消えないと、お前は満足できないのか?」若子の心の奥底から湧き上がった強烈な悲しみが、脳内を駆け巡る。視界がどんどんぼやけていき、目の前の灯りすらも霞んで見えなくなった。「修......」若子は喉の奥から声を絞り出すように言った。「あなたが桜井さんのために離婚を切り出したその瞬間から、私たちはお互いの世界から消えるべきだったのよ。これからは、あなたはあなたの人生を、私は私の人生を生きていくべきだわ」「ただの他人として干渉せずに?」修の声にはどこか信じられないという響きがあった。彼女がこれまでにも何度も口にしてきた言葉であるにもかかわらず。若子は苦しそうに目を閉じた。「そうよ」「......ふっ」修が短
修は重く口を開いた。「そうだな。お前の言う通りだ。愛していないなら、愛していない。それが十年で変わらないなら、もう手放すしかない」「手放す」その二文字は、毒を塗られた刃のように、若子の心臓を深く突き刺した。胸にぽっかりと穴が開いたようで、痛みに意識が飛びそうになる。感情が抑えきれず、若子はスマホ越しに怒鳴りつけた。「私はもう桜井さんとのことを認めたわ!彼女と結婚すればいいでしょ!もう私に関わらないで。私はあんたが大嫌い!あんたなんて見たくもない!」叫ぶように言い切ると、彼女は電話を一方的に切り、力尽きたように床に崩れ落ちた。涙が止まらない。修、あんたは最低よ!分かってる、あなたが私を愛していないことなんて、もう分かってる。でも、私はもう手放したじゃない。なのに、なんでそんなにストレートに言うの?どうしてそんな言葉で私を傷つけるの?*一方、修は手をだらりと下げ、力なく車の窓にもたれかかった。ぼんやりと若子の窓を見上げながら、呆然と考える。十年で愛せなかった。だったら、どうしようもないだろう?若子、俺はこれで手放したはずだ。でも、なんでお前は俺を完全に追い出さないと気が済まない?俺がどれだけ近づこうと、どれだけ気にかけようと、それは全部お前にとってただの迷惑だったのか?そんなに嫌われているのか、俺は......なぜ......目が赤くなり、彼の瞳には説明しようのない悲しみが漂っていた。肩が大きく上下し、激しい呼吸音が闇夜に響く。空はすでに暗く、街灯がちらちらと明滅している。そのぼんやりとした黄色い光が、修の端正な横顔に影を落とし、儚く寂しい雰囲気をまとわせている。修はただ若子の窓をじっと見つめ続けた。十数分が経ち、ついに視線を落として車のドアを開ける。そして数分後、突然マンションの玄関が開き、若子が駆け出してきた。「修!修!」若子は修がいた場所まで駆け寄った。彼はすでに遠くへ去り、跡形もなかった。「修!」若子は名前を叫び続けた。声を張り上げ、必死に呼びかける。ついには力尽き、草地に膝をつき、そのまま座り込んでしまった。「修!」どうしてだろう。自分でも分からない。あんな残酷な言葉を投げつけた後、胸の中に押し寄せた強烈な後悔が彼女を突き動かしていた。だから、走り出してしま
若子は少し頭がくらくらしていて、確かに支えが必要だった。少年に感謝の笑みを向けると、そっと手を差し出した。少年は彼女を丁寧に地面から起こし、慎重かつ礼儀正しい動きで彼女を支えた。若子が立ち上がると、再び頭がふらつき、体が不安定になってしまう。少年はすぐに彼女の腕を掴み、体を支え直した。「お姉さん、向こうのベンチに座って少し休みましょうか」近くには人が休めるように設置されたベンチが見える。若子は自分の足がこれ以上動かないことを感じ、頷いて了承した。二人はベンチに腰掛けると、少年が彼女に水のボトルを差し出した。「お姉さん、水飲んでください」「いいえ、大丈夫です。ありがとう」見知らぬ人から渡される水に、若子は本能的に警戒して断った。たとえ本当に喉が渇いていても。「お姉さん、怖がらなくてもいいです。僕は悪い人じゃない。僕もここに住んでいます。この水はさっきコンビニで買ったばかりで、まだ封も開けてないんです。本当に飲んでくださいよ。だって、唇が乾いて割れてますよ」少年の瞳が、まるで子犬のように愛らしく、潤んだ星のような輝きを浮かべて彼女を見つめてくる。その視線に、悪意があると疑う余地はまったく感じられなかった。さらに、目の前の少年の容姿は驚くほど整っていて、白く滑らかな肌に澄み切った杏形の瞳が特徴的だった。高身長でスリムなスタイルは均整が取れており、全体から溢れる健康的なエネルギーと、自信に満ちた爽やかな雰囲気が際立っている。特に「お姉さん」と呼ぶ時の甘えたような声が耳に心地よく、思わず心が揺れてしまうほどだ。もし彼が「お姉さん、一万円貸してくれませんか」と頼んできたとしても、その声に負けて財布を開けてしまいそうな気がするほどだった。若子は不思議と彼を拒むことができない気持ちに襲われた。この子犬のような少年を拒めば、彼が悲しそうに泣き出してしまうような気がしてならない。彼女は軽く頷き、水を受け取ろうと手を伸ばした。ところが、少年はその瞬間、ボトルをさっと引っ込めた。若子は何が起きたのかと思ったが、少年はボトルのキャップを捻って開け直し、彼女に差し出した。「お姉さん、キャップが少し硬かったので、開けておきましたよ」なんて気配りが行き届いているのだろう。若子はこの少年がどこから現れたのか、全く見当がつ
若子は、これほどまでに狂気じみた修の姿を見たことがなかった。本当に、理性を失い、正気ではないように見えた。だが、彼の瞳に映る感情だけは、あまりにも真実味があった。「分からない。私には本当に分からない。どうしてこうなるの?あなたは私が愛していないと思っているけど、じゃあ聞くけど、あなたは10年間、私を愛していたの?たった一瞬でも......」「愛してる!」その言葉を、修はほとんど叫ぶように吐き出した。熱い涙が彼の瞳から溢れ出し、頬を伝って落ちていく。彼は若子を力強く抱きしめ、その体をまるで自分の中に埋め込むかのように押し付けた。「どうして愛していないなんてことがあるんだ?俺はお前をずっと愛してる。お前を妹だなんて思ったことは一度もない。あれは嘘だ。本心じゃないんだ。お前は俺の妻だ。どうして妻を愛さないなんてことがある?」修は目を閉じ、彼女の温もりを感じ、彼女の髪の香りを嗅いだ。その香りに、どれほど恋い焦がれていたことか。離婚してから、彼女をこうして抱きしめることも、近くに寄ることもなくなってしまった。ずっとこうして抱きしめていたい。永遠に、この瞬間が続けばいいのに。彼は本当に彼女が恋しかった。狂おしいほどに、会いたかった。だから、もう我慢できなかった。こうして彼女を探しに来たのだ。若子の涙は、堰を切ったように溢れ出した。ついに抑えきれなくなり、激しく泣き崩れた。彼女は拳を握りしめ、力いっぱい修の肩や背中を叩き続けた。「修!あんたなんて最低よ!本当に最低の男!」彼女が10年間愛し続けた男。彼女を深く傷つけたその男が、今になって愛していると言う。そして、離婚は彼女のためだったなどと言い出す。なんて滑稽なんだろう。「俺は最低だ。そうだ、俺は最低だ!」修は目を閉じたまま、苦しそうに声を震わせた。「俺はただの最低な男で、それにバカだ。お前を手放すなんて。若子......俺のところに戻ってきてくれないか?頼むから、俺のそばに戻ってきてくれ!」「いや、いやだ!」若子は泣きながら叫んだ。「あんたなんて大嫌い!どうしてこんなことができるの?私がどれだけ時間をかけて、あなたに傷つけられた痛みを乗り越えようとしたと思ってるの?それなのに、今さら突然愛してるだなんて言い出すなんて、本当に馬鹿げてる!私はあなたが嫌い、大嫌い!」「
若子は鼻で冷たく笑った。「それなら、どうして私のところに来たの?そんなことして誰が幸せになるの?彼女が目を閉じるとき、後悔のない人生だったなんて思えるとでも?」彼たちの間には、常に雅子の影が立ちはだかっていた。修の瞳には深い痛みが宿り、じっと若子を見つめていた。長い沈黙の後、その目には複雑で濃い感情が溢れ出していた。「お前が選べと言ったんだろ?」修は彼女の顔を強く掴みながら言った。「今ここで選ぶよ。俺はお前を選ぶ。雅子のことは気にするな。後のことは全部俺が背負う!俺のせいで起きたことなんだから」若子は目を閉じ、悲しみに満ちた声で答えた。「修、もう遅いの。今さら選んでも、もう遅いのよ!」込み上げてくる悲しみが彼女を覆い、堪えきれず泣き崩れた。「泣かないでくれ」彼女の涙を見た修は、ひどく動揺し、慌ててその涙を拭おうとした。だが、涙は次から次へと溢れ出て、拭いても拭いても止まらなかった。「どうして遅いって言うんだ?あの日俺が言った言葉のことをまだ怒ってるのか?あれは本心じゃない。雅子が死にそうだったから、他に選択肢がなかったんだ。だから俺はクズのフリをして、お前に恨まれた方が、俺のために涙を流されるよりずっとマシだと思ったんだ」「じゃあ、今は選択肢があるの?」若子は涙声で問い詰めた。「どうしてあの時は選べなかったのに、今になって私を選ぶと言うの?それなら私がもう悲しまないとでも思ってるの?修、あなたは変わりすぎる!今日私を選んだとしても、明日また桜井雅子を選ぶんじゃないの?それとも、山田雅子でも佐藤雅子でもいいわけ?」彼の言葉があまりにも信用できなくて、彼女は恐怖すら感じていた。「そんなことはしない!」修は力強く言った。「お前が俺と復縁してくれるなら、絶対にそんなことはしない。お前が少しでも俺を愛してるって感じさせてくれるなら、俺は変わらないって誓う!」「修、あなたは本当におかしい!完全に狂ってる!」若子は彼の言葉に圧倒され、声を失いかけながら叫んだ。「あなたは本当にどうかしてる!」「そうだ、俺は狂ってるんだ!」修は今にも壊れそうな目をしていた。「俺は雅子と結婚して、彼女の最後の願いを叶えようと思っていた。でも、今日、お前を見てしまったんだ。遠藤と一緒にリングを選んでいるところを見てしまった!あいつと結婚するつもりか?俺
若子は修の言葉に完全に圧倒された。彼女の目は大きく見開かれ、驚きの表情を浮かべたまま、まるで時間が止まったかのように固まってしまった。しかし、その呆然とした瞬間は一瞬だけだった。すぐにそれは消え去り、代わりに強烈な皮肉が心に湧き上がってきた。「修、それじゃつまり、こういうこと?この全部があなたと桜井さんの関係とは全く無関係で、ただ私があなたを愛していなかったから、あなたは寛大な心を持って私を解放し、私を幸せにしようとしたってこと?」そう言いながらも、若子はその考えがどれほど滑稽であるかに自分でも呆れた。だが、修の言葉から察するに、彼の言い分はまさにそういうことのようだった。修は突然彼女にさらに近づき、かすれた声で問いかけた。その声には沈んだ悲しみが滲んでいた。 「もしそうだと言ったら、お前は俺に教えてくれるか?お前が俺を愛したことがあるか、ないかを」「修、結局またこの話に戻るのね。あなたが私を愛したかどうかを問うけど、それが分かったところで何になるの?もし私が愛していなかったと言えば、あなたはすべてを私のせいにできるわけ?もし愛していたと言ったら、あなたは桜井さんとの関係を断ち切るって言うの?」「断ち切る!」修の声は強く響き渡り、その決意には一片の迷いもなかった。若子の世界はその瞬間、音もなく静止した。まるで周囲すべてが止まったように感じた。目の前の修さえも、彼女の視界では動きを失っていた。彼が言った「断ち切る」という言葉が、彼女の心の奥深くに黒い渦を巻き起こし、全てを吸い込んでいった。その渦は暗闇の中で果てしなく広がり、無音の恐怖と衝撃だけを残していた。現実感を失う一瞬、若子はこれが夢であると思い込もうとした。だが、不安定に鼓動する心臓、乱れた呼吸、そして目の前にいる修の燃えるような視線。それらすべてが、彼女にこれが現実であることを告げていた。 修の目は、まるで燃え盛る炎を宿したかのようだった。それは彼女を燃やし尽くそうとするような強さで、彼女に近づいていた。その目はとても激しく、それでいて熱かった。若子の唇が微かに震えた。喉はまるで泥水で満たされたかのように重く、やっとの思いでいくつかの言葉を絞り出した。 「何を言ってるの......?」修は右手を肩から離し、そっと若子の顎を掴むと、顔を上げさせた。深い瞳で
修は冷たい表情のまま、若子の許可を待たずに部屋に踏み込み、バタンと扉を閉めた。「何してるの?」若子は眉をひそめた。「まだ中に入るなんて言ってないでしょ」「でも入った」修は投げやりな態度で答え、まるで道理を無視するかのようだった。若子はなんとか怒りを抑えようとしながら、「それで、何の用なの?」と尋ねた。「お前、俺のことをクズだって何人に言いふらしたんだ?」若子は眉をひそめ、「何の話か分からないけど」と答えた。彼女には身に覚えがなかった。「本当に知らない? じゃあ、なんで遠藤の妹が俺をクズ呼ばわりするんだ?お前が吹き込んだんだろ?」若子は呆れて、「そんなこと知るわけないでしょ。とにかく、私じゃない。それより、出て行って。あなたなんか見たくないわ」と突き放した。修はその言葉にさらに苛立ちを覚えた。若子が自分を追い出そうとするのを見て、彼はここに来た理由が、ただ若子に会う口実を探していただけだと心の奥では気づいていた。それでも、彼女を責めずにはいられなかった。「そんなに急いで俺を追い出したいのか。遠藤に知られるのが怖いのか?お前ら、どこまで進展してるんだ?ジュエリーショップなんて行って、随分楽しそうだったな」その言葉に、若子の眉はさらに深く寄せられた。「それがあなたに何の関係があるの?私たちはもう離婚したのよ。どうして家まで来て詰問するの?」彼の態度に、彼女は心の底から嫌気がさしていた。「離婚したらお互い干渉するべきじゃないってことか?」「その通り。だから前にも言ったでしょ。あなたはあなたの道を行けばいいし、私は私の道を行くの」修は冷たい笑いを浮かべ、「お前が俺と関係を断ちたいって言うなら、どうして俺を助けるんだ?」「助ける?何の話?」若子は困惑した表情で尋ねた。「お前、瑞震の資料を夜通し調べてただろ?俺には全部分かってるんだ。関係を切りたいんだったら、なんでそんなことをする?」その言葉に、若子はようやく修の言っていることが何なのか理解した。彼女は以前、修が送ってきた不可解なメッセージの意味を悟った。修は彼女が夜更かしして瑞震の資料を見ていたのは自分のためだと思い込んでいたのだ。「はは」若子は突然笑い出した。「何がおかしい?」修は苛立ちを隠せない様子で言った。彼の怒りに反して、若子は笑っ
修は静かにリングを選んでからさっさと帰るつもりだったが、こんなにあからさまな挑発を受けるとは思っていなかった。彼はリングをガラスのカウンターに叩きつけた。「なるほど、遠藤様ですか。偶然ですね」「ええ、偶然ですね」西也は不機嫌そうに言った。「藤沢様こそ、誰とリングを選んでいるんだ?」考えるまでもなく、あの雅子と関係があるに違いない。修は冷たい声で言った。「関係ないだろ」若子は不快な気持ちが全身に広がり、そっと西也の袖を引っ張った。「ちょっとトイレ行ってくる」西也は心配そうに言った。「俺も一緒に行く」二人は一緒に離れて行った。花はその場に立ち尽くして、手に持ったリングを見ながら困惑していた。一体、これはどういう状況なんだ?花は修の方に歩み寄り、言った。「ねぇ、あなた、うちの兄ちゃんと知り合い?」「お前の兄ちゃん?」修が尋ねた。「あいつが君の兄か?」花は頷いた。「うん、そうだよ。あなた、うちの兄ちゃんと何か関係あるの?」「君の兄が俺のことを教えなかったのか?」花は首を振った。「教えてくれなかった。初めて見るけど、なんだか顔が見覚えあるな。もしかして、ニュースに出たことある?」修は冷たく言った。「君と若子はどういう関係だ?」「若子とは友達だよ。なんで急に若子を言い出すの?」突然、花は何かに気づいたようで、目を見開き、驚きの表情を浮かべて修を見つめた。「まさか、あなたって若子のあのクズ前夫じゃないよね?」「クズ前夫」と聞いて、修の眉がぴくっと動いた。「若子が、俺のことをクズだって言ったのか?」彼女は背後で自分の悪口を言っていたのか?「言わなくても分かるよ」花は最初、修のイケメンな外見に目を輝かせていたが、若子の前夫だと知ると、すぐに態度を変えた。若子の前夫がクズなら、当然、彼女に良い顔をするわけがない。「若子、あんなに傷ついていたのに、あなたは平気でいるんだね。あなた、顔はイケメンでも、結局、クズ男なんでしょ」修の冷徹な目に一瞬鋭い光が走った。まるで冷たい風が吹き抜けたようだ。花はその目を見て震え上がり、思わず後退した。修の周りには、何か得体の知れない威圧感があって、花は無意識に怖さを感じていた。だが、若子のために勇気を振り絞り、花は言った。「でも、よかったね。若子はもうあ
三人は高級ブランドを取り扱うショッピングモールに到着した。西也は普段、あまりショッピングに出かけることはない。彼が普段使う腕時計はブランドから直接家に送られてきて、それを自分で選ぶことが多いし、スーツも彼の家に来てフィッティングをしてくれる。でも、花は買い物に出かけるのが好きだ。自分で店を回って、手に取って選ぶのが楽しいし、賑やかな雰囲気も好きだった。宅配で届くよりも、店を歩き回る方が気分が良い。「西也、後で買うときは、私のカード使ってよ。あなたが買わなくていいから」若子はそう言いながら、ちょっと気を使っていた。ここに置いてあるものはすべて高価だし、西也が彼女に何か買ってしまうとかなりの金額になるだろう。結局、二人は偽の結婚なんだから、無駄にお金を使わせたくないと思った。西也は苦笑いを浮かべて、「そんなこと言うなよ。偽の結婚だとしても、感謝の気持ちも込めて買わせてもらうよ」「でも、ここは本当に高いんだよ。あなたにこんなにお金を使わせるのは申し訳ない」「俺にとっては大したことないさ。それに、何も買わないと、父さんが怪しむからな」「それなら......わかった。でも、高すぎるのは避けてね」その時、花が横から口を挟んだ。「あー、若子、無駄に遠慮しないで。うちの兄ちゃん、金がありすぎて使いきれないんだから」若子は右手に何も着けていなかった。「そうだな、まだ指輪を買ってなかった。好きなのを選んで、買ってあげるよ。きっと役に立つから」結婚指輪は必須のものだ。偽の結婚でも、若子はつけていなければならない。だから、彼女は頷いた。三人はジュエリーショップに入り、店員が笑顔で近づいてきて、いろいろな種類のリングを紹介してくれた。実は若子は、自分が本当に好きなリングを選ぶ気分ではなかった。ただ適当に一つ指さしただけだ。しかし、花がその横で口を挟み、これはダメ、あれはダメと言い続けた。若子は数回指を差しながらも、花に却下されてしまい、結局、だいぶ時間がかかってしまった。その時、どこからか声が聞こえてきた。「藤沢様、この指輪はいかがですか?サイズを自由に調整できるので、指の太さに合わせて使いやすいですよ」「藤沢様」という名前を聞いた瞬間、若子は少し驚いた。彼女は思わず振り返って一瞬見ただけで、特に深い意味はなかった。ただ「藤沢」
「お前らには言ってもわからんだろうけど、まぁ、だいたい半月から一ヶ月くらいの間だ。そん時は、遠藤家のこと、お前ら夫婦二人でしっかり見ておけよ」父母がしばらく家を空けることは、西也にとっても悪いことではなかった。「わかった、会社や家のことは俺がしっかりやる」高峯は軽く頷き、「うん、俺と紀子は少し休んでくる。家に誰もいなくなるから、お前と若子はその間、ここに住んでていい」と言った。西也は、若子が両親の家で不安に感じるのではないかと心配していた。「父さん、俺と若子は結婚したばかりだから、新しい家を買うつもりだし、だから......」「買うこと自体はかまわん」高峯はすぐに言った。「ただ、俺と紀子がいない間、ここに住んでてくれ。お前が家を買ったら、俺たちが戻った後に引っ越せばいい。お前が親と一緒に住むのが嫌だってのは分かってるから」「それは......」西也は少し迷ったが、若子が高峯の目つきが少し険しくなったことに気づいた。どうやら、高峯は譲歩しているようだった。無理に同居しなくてもいい、という意図が伝わってきた。若子は静かに西也の服の裾を引っ張り、そして高峯に向かって言った。「わかりました、遠藤さん。西也と私は、遠藤さんがいない間、ここにお世話になります」高峯はにっこりと笑い、少し優しさが増したように見えた。「まだ遠藤さんって呼んでるのか?お前はもう、俺たちの娘だ。「お父さん」、「お母さん」って呼べ」若子は軽く笑って、少し緊張しながら言った。「お、お父さん、お母さん」高峯は満足げに頷いた。「お前、賢いな。西也の傍にいて、しっかり支えてやれ。それが一番大事だ。あとは、お前と一緒にいることで、息子は本当に幸せそうだし、俺が厳しくしても文句言わんだろう」若子はうなずきながら、「はい、できるだけ西也を支えます」と答えた。高峯はふと妻の方に目をやり、「紀子、これはお前の息子の嫁だぞ。何か言いたいことはないのか?」と聞いた。紀子は自分の存在がまるで空気のように感じたが、急に話を振られて微笑んだ。「若子、あなたのことはあまり知らないけれど、西也があなたを選んだ理由があるのだろうから、幸せを祈っているわ」「ありがとうございます、お母さん」若子は「西也があなたを好き」と聞いて、胸がドキドキと早鐘のように鳴り出した。だが、幸いなことに、彼
二人は市役所に到着した。高峯の秘書はすでに待っていて、手続きは順調に進み、無事に結婚証明書を受け取った。若子は手に持った結婚証明書をじっと見つめていた。心臓が激しく鼓動しているのを感じ、突然、重いプレッシャーを感じる。偽装結婚だと頭ではわかっている。友達を助けるためだけにしたことだと理解しているのに、結婚証明書を目の前にすると、どうしても修と一緒に証明書を受け取った時のことを思い出してしまう。それはたった一年ちょっと前の出来事だったが、まるで何年も前のことのように感じられた。「若様、若奥様。お二人の結婚証明書が無事に発行されましたので、社長様からの指示で、すぐにお帰りになり、みんなで食事をするようにとのことです」西也は頷いた。「わかった、若子を連れて帰る」秘書はその後、離れた。彼は任務を終え、二人が結婚証明書を手に入れるのを直接目にしただけで、偽りではなかった。秘書が去った後、二人は結婚証明書を手にしたまま、しばらく見つめ合う。少し気まずい空気が流れる。若子は結婚証明書をバッグにしまい、少しの間黙った後、彼にプレッシャーをかけないようにと、ふっと笑顔を見せた。「ほら、これで問題は解決したわね?あなたはもう、政略結婚なんてしなくて済むんだから」「でも、こんな形でお前に負担をかけることになって、すまん」西也は低い声で言った。若子は首を振る。「そんなことないわ。全然苦しくないわよ。心配しないで。結婚した後、あなたは自由よ。家族にバレなければ、何をしてもいいんだから」西也は少し考えた後、「うん」とだけ答えた。「さ、行こう。帰って家族と一緒に食事して、ちゃんと演技しきろう」若子は軽く笑いながら、車に向かって歩き出した。二人は車に乗り込み、西也の家、遠藤家へ向かう。食卓には遠藤家の人々だけが集まっており、他の人は誰もいなかった。紀子はいつも静かな人で、昨晩もほとんど言葉を交わさなかった。高峯が少し言わせたが、その後はほとんど彼が喋り続けていた。今日もまた、紀子は何も言わず、まるで自分のことではないかのように静かだった。若子は少し不安な気持ちでいた。あまりにも静かすぎて、皆が何かを考えているような気がしてならなかった。「若子、このお肉、美味しいわよ」花が若子の皿に肉を乗せながら言った。「花」高峯が冷ややかな声
「たとえ偽装結婚でも、結婚して夫婦関係ができた以上、俺も外で浮気したりはしないよ」西也の心はすっかり若子に占められていた。愛情の中に第三者が入る余地はない、あまりにも狭すぎるから。若子は西也をじっと見つめる。瞳の奥に一瞬、疑念が浮かんだ。その様子に気づいた西也が、少し不安そうに聞いた。「どうした? 俺の顔に何かついてる?」運転に集中しつつも、視界の隅で若子が疑いの目を向けているのを感じ、少し焦りを覚えた。まさか、何か気づかれたのか?若子は少し笑ってから答える。「何でもないわ。ただ、あなたがちょっと......」彼女は少し戸惑い、急に西也をどんな言葉で表すべきか分からなくなった。「ちょっと?」西也は興味深げに聞き返した。若子は少し考えた後、言葉を絞り出すように言った。「あなた、ちょっと素直すぎる」「素直?」西也はその言葉に驚いた。「俺が素直だって?」そんな形容をされたのは初めてだった。若子は肩をすくめて言う。「私たちは偽装結婚なんだから、あなたが私に忠実である必要なんてないのよ。結婚しても、私があなたに何かを要求するわけじゃないし、自由にすればいい。結婚後だって、私があなたのことを束縛するつもりなんてない。いつでも離婚できるわ」若子はあくまで冷静だった。結婚はあくまで西也を助けるためのもの、それ以上でもそれ以下でもない。西也の手がハンドルをぎゅっと握りしめる。彼の黒い瞳には、薄く氷が張ったように冷たい光が宿っていた。彼は口元を引きつらせ、冷笑を浮かべた。 「じゃあ、お前はどうなんだ?」少し皮肉を込めて、続ける。「お前も真実の愛を追い求めるのか?」若子の言葉を受けて、西也は思わず沈黙した。まさか、若子が修と会うつもりなのか? 彼は若子が心の中で修を手放せないことを知っている。何年も愛してきた相手を、簡単に忘れられるわけがない。だから、若子が本当に愛を見つけるのは、簡単なことではないだろう。「そんなことはないよ」 若子は頭を少し後ろに傾け、窓の外を流れていく景色をじっと見つめた。「もう真実の愛なんて追い求めない。今はただ、子どもを産んで、ちゃんと育てることだけを考えているの」「若子、前に子どもを産んだら、どこかに行くって言ってなかったか?でも今は結婚したから、もう行けなくなったんじゃないか?」「うん、