私には、『鳳翠』として指導をしているので毎日ではないが稽古日がある。一週間の中で月曜水曜木曜がキッズ教室で、初心者向け教室は火曜金曜土曜とあり門下生は週何回とかは決まっていないが大体が金曜土曜日曜だ。だからほとんどが休みがないように見えるが、キッズも初心者も夕方からなので午前中は休むことができる。
稽古室があるのは千曲流日本舞踊会館の中に三つ棟があってその中の一つで行われる。師範室から移動して稽古室の一つの部屋に向かった。 「――では、お辞儀から始めましょう」 今日は、初心者向け教室の日。初心者教室はいくつかクラスがあり私が担当しているのは趣味としてやっている方々で十人ほどのクラスだ。着物の着付けもあるし礼儀作法も学べるため、人気がある教室で教室が始まってすぐは基本のお辞儀の復習からだ。 日本舞踊の稽古は“礼にはじまり礼に終わる”。基本中の基本であり、踊り中でもお辞儀をすることがあるため大切になる。 扇子を膝の前に置き、背筋を伸ばし肩甲骨をつけ肩を下ろし力を入れず顎を引く。ゆっくりと前に手をつき、一旦止めて挨拶をしながら頭を下げる。その時は肘をなるべくつけて、肘を張りすぎず膝を囲うような形でお辞儀をした。そして、ゆっくりと頭を上げ肘を伸ばした形で止まり一呼吸ついてからゆっくり手を伸ばして最初の形に戻るとお辞儀が終わる。 このお扇子をおくという行為は、“自分と師匠の間に一線を引く”“謙虚な姿勢で踊りを習う”という心の表れと意味がある。たかがお辞儀一回二回と言われるがこのお辞儀が難しいし、今後ステップアップをしていく中で踊りをするときにつまづいてしまうこともあるから私は力を入れている。 お辞儀がある程度できるようになると、次にお扇子の扱い方を学ぶ。扇子は紙と骨と要、なまりで出来ているため上に投げてもなまりが入っているため要から降りてくるようになっている。 扇子は、胸の高さで持ち親骨を一つ開き平らに奥へと広げていく。握り込みで持った扇子を右膝につけ、左手を手前に立てて手のひらで前に閉める――それが扇子の開き方だ。 それからすり足と呼ばれる基本の足の運びを説明をしながら実践してもらう。 「姿勢を正しくして腰を入れてから正面へ足を滑らすように足の裏が地面から離れないようにして重心がぶれないように気をつけてね」 すり足が上手くできるようになったら、夏の練習成果発表会の時に踊る課題曲で箏曲の『さくらさくら』のお稽古を始めるために私が一度踊る。どんな踊りかを見てもらい自分で踊るイメージを想像してもらうために必要なことなので丁寧に踊った。
一時間の稽古が終わり、お辞儀をして終わった。皆が出ていくのを見送りをして戸締りをすると稽古室から休憩室に向かった。
「お疲れ様です」 休憩室に入ると珍しく兄が一人コーヒーを飲んで寛いでいた。それになぜかスーツ姿だ。 「お、鳳翠先生。お疲れ、今終わり?」 「はい、今日は終わりなので」 会館の中だし誰もが来る休憩室だからか私を珍しく鳳翠と呼んで「コーヒー飲む? あ、煎茶の方がよかったっけ、水出しがあるよ?」と聞いて来る。 「私は煎茶にします」 そう言えば兄はグラスに淹れてくれてコースターの上にのせた。 「そういえば、今日母さんたちが早く帰ってきてって言ってたよ。百合はもう終わり?」 「えぇ。今日は終わりだよ、明日はみっちりと一日だけどね」 「あ、教室か。キッズと若葉ね、シフト見た」 兄の言う若葉は若葉マークを指している初心者教室のことだ。今日とは違う人たちだがやることは同じだし、キッズの場合は楽しく踊ることが主なのでとても楽だ。私も楽しみなクラスだったりする。 「そうだ、門下生そっちに増やせる? 師範変えてくれーって言われてさ」 「私はいいけど」 「よかった、百合にご指名だったから安心した」 「それって元から断れないやつじゃない。まぁいいや、プロフィールシート送っておいて」 「百合ならいいって言ってくれるでしょ、その子も鳳翠先生は優しくて教えるの上手だったーって言ってたし人気者だな」 そう言ってコーヒーを飲み干した。兄は自分のマグカップを洗うと仕事が残ってるらしくて事務室へと戻っていった。 私は師範室に戻り帰り支度をして更衣室で荷物を取って退勤した。***
会館から家までは歩いて十分ほどで到着する。 私の家は明治時代に建てられた日本家屋で庭師が管理する立派な庭がある。千曲家は旧大名家の血筋でこの家も登録有名文化財になっているすごい建物らしい。 「ただいま帰りました」 草履を脱いで玄関に上がり両親がいるだろう居間には行かないで和室に向かった。和室に行くと、まだ生けていないお花と花器が放置されていた。 「これは生けてってことだよね、荷物おいてきたらやろうかな」 荷物は二階にある自室に置いて下に降りると自分の花鋏を持ってきて和室に入った。花材は、コバンモチ、スカシユリ、モンステラで涼しそうなガラスの花瓶だ。葉物が綺麗で、スカシユリは立派な花を咲かせている。これは玄関用かなと思いながら、生けていく。 私は、日本舞踊家だが小さな頃月森流の先代家元の下で稽古をしていたので普通一級を持っているので生花は出来るし好きだ。水の中に茎を入れて斜めに切る。こうすることで花が水をよく吸水してくれて長持ちするのだ。 「百合ちゃん、おかえり」 「ただいま……え、郁斗さん! どうしてここに」 機嫌よく生けていれば声をかけられた。その人はここにいるはずがない郁斗さんだ。 「家元に話があってね、綺麗だな」 「はい、オレンジ色のスカシユリ大きくて立派で」 「スカシユリも綺麗だけど、百合ちゃんの生ける花が綺麗だなと思って」 「郁斗さんにそう言ってもらえるなんて嬉しいです」 家元である郁斗さんに言ってもらえるのはとても嬉しいし光栄なことだ。 「本当のことだよ。そうだ、天野屋のお菓子を持ってきたからみんなで食べて」 天野屋のお菓子とは、老舗和菓子屋である『御菓子司・天野屋』という人気の和菓子屋で雑誌にも特集で組まれるようなお店。一度、テレビで取材されてからいつ行ってもすごい行列だと聞いたことがある……門下生からの情報だけど。 「ありがとうございます、郁斗さん。天野屋って結構並ぶって聞きましたけど」 「うん、並んだよ。俺の友人が天野屋店主と知り合いでね、少しばかり融通してもらったんだ。餡子が絶品らしくて喜んでもらえるといいけど」 「そうなんですね! 餡子好きだから楽しみです。あとでいただきます」 郁斗さんは、片付けも一緒にしてくれて玄関に飾る予定だったので玄関先まで運んでくれて飾ると帰って行った。 居間に行くと、母が夕食を並べていて父もお手伝いをしていた。 「百合乃お疲れ様」 「うん。お花もやっておいたよ。玄関に飾っておいた」 「ありがとう、でも重かったでしょ?」 「郁斗さんが運んでくれたから大丈夫だったよ」 私も手を洗ってきて配膳を手伝おうとするが、両親に座ってなさいといわれてしまい座って待つことにした。 座って両親を見るといつもながら仲良しでいいなぁと思う。 家元一族に生まれた父と宗派で生まれた母、許婚だったらしいが許婚とは知らずお互い一目惚れしたらしく珍しく恋愛結婚の二人。今も変わらぬ愛妻家っぷりは両親だけど羨ましいと感じる。素敵だ。 配膳されるのを待っていると兄が帰ってきた。 「蒼央もおかえり」 蒼央というのは、兄の本名だ。 「ただいま、母さん。今日も美味しそう」 「着替えて、手を洗ってきなさい」 「うん、行ってくる」 兄が出ていくと美味しそうなチキン南蛮とサラダに卵焼きにお味噌汁が並ぶ。美味しそう。 「今日は、八丁味噌よ〜」 全て配膳が終わったところで兄とお祖母様がやってきた。 「……じゃあ、頂こうか。いただきます」 箸を持ちサラダを食べてからチキン南蛮をパクッと食べる。肉汁がジュワッと出て肉汁と甘酢タレの相性バッチリでタルタルソースはまろやかでうちはヨーグルトを入れるから少し爽やかな味だ。 「この卵は……お父さんが作ったの?」 「そうよ。この人ね、ゆで卵作る前に二個卵割っちゃって急遽だし巻き卵追加になったの」 「へぇ、形は歪だけどとても美味しいよ」 ご飯を食べて家族団欒が終わるとすぐ兄は部屋に行ってしまった。お皿を洗って拭いて食器棚にしまい、私は自室へ戻ろうとしたが父に話しかけられた。 「百合乃、話があるんだ。座りなさい」 「え……? あ、うん。はい」 何かあったかなと思いながら座ると、お母さんが三人分のお茶を持ってきた。 「話って何?」 「あぁ、……百合乃は今付き合っている人いるのかい?」 「え? いないよ、忙しいし好きな人もいないし……それがどうしたの?」 お父さんはお茶を一口飲むと「うん」と言い、一呼吸おく。 「……百合乃に縁談が来た」 「え? 縁談?」 「そう。縁談だ。もう百合乃も二十八歳だし、そろそろ考えないとだよ。俺たちは二十五歳で結婚したから遅いくらいだよ。それに百合乃を望んでいるし、日本舞踊も続けてもいいと言っている」 ってことはこれは強制的で拒否権は私にはない。それに千曲家にも利がある縁談だろうと感じる。 由緒正しい名家で日本舞踊の名門の家だからいつかは政略結婚するだろうと思っていたし今までそういうう話がなかったのも不思議なくらいだし。 「わかりました。その縁談お受けいたします」 「そ、そうか。よかった! じゃあ先方に連絡しよう、また詳細が決まったら教えるから」 それだけ言ってお父さんは冷めてしまったお茶を飲み、片付けるとお母さんを連れて居間から出て行った。 「縁談、かぁ……」 呟いてお茶を一気に飲むと居間から自分の部屋に移動した。 部屋に入ると、ベッドにダイブをして「うー」と言いながら唸ってバタバタさせていれば兄がお風呂が空いたと呼びにきたのでお風呂に入った。 ***縁談を受けたはいいが、そのお見合い当日に何を着ていくのかわからないままだった。
「時間がないだろうし私の振袖を着ればいいわよ。手直しをしてもらいましょう」 数日経ち、お母さんの一声で呉服商がその日のうちにやってきた。 お母さんの振袖は、千曲家直系女子が受け継いでいる着物だった。お母さんもお祖母様から受け継いだ振袖らしい。 尾形光琳が手掛けた着物で白綾の絹地に菊や萩、桔梗、|芒《すすき》などの秋の草花を藍で描き、黄色や淡い紅色でぼかしを入れた華やかだが落ち着いている振袖だった。だけどこのまま着るとなると時代遅れになるからと呉服商には帯に帯締めや帯揚げ、重ね襟を持ってきてくれた。 金の菊と華紋で西陣織の袋帯に帯締めはヒワ色のグリーン系で帯揚げは藤色、重ね襟は今時っぽく白レースにオフホワイトのパールがついた物を選んだ。 「とてもお似合いです! あとは髪飾りも持ってきたのでいくつかご覧になりますか?」 「見ます、ありがとうございます」 「いえ、小ぶりな物をご用意しいました。お着物の色が黄色がメインだと聞いていたので同系色で揃えています」 呉服商は、十個ほどテーブルに並べ一つ一つ見せてくれた。髪型はシニヨンをする予定なのでつまみ飾りとドライフラワーのを選んだ。黄色のお花が可愛らしくて一目惚れだ。 「ありがとうございます。では、奥様のお着物は後日お届けいたしますので」 そう言って呉服商は帰って行った。お母さんもお父さんにおねだりしていて本当に仲がいいなと感心しながら準備はなんとか整い、美容師さんとも打ち合わせをしてあとはお見合い当日になるだけになった。お見合い当日はとても朝から温かくて気持ちが良く、快晴だった。 そして大安という吉日だから縁起がいい。きっとこの縁談を持ってきたのではないかと思われるお祖母様がこの日を指定したと思う。 「綺麗ね、百合乃ちゃん」 「ありがとう、お祖母様」 早起きした私はパパッと支度をして美容院に送られた。そこで振袖を着て髪をセットされる。編み込みがされている緩い感じのシニヨンは自分ではできない髪型だ。 「……可愛いわね」 そう呟いたお母さんは振袖を見て懐かしむような表情をする。 美容師さんはすごいなぁと思いながら鏡を見ていれば、お父さんがノックをしてピョコっと顔を出した。「百合乃、そろそろ大丈夫か?」「うん、大丈夫だよ」「似合ってるな、母さんの若いときにそっくりだ」「……ありがとう、お父さん」 私は立ち上がると、お父さんとお祖母様と一緒に美容院の前に停めてある車に向かう。運転手がドアを開けてくれて乗り込む。 今日はお留守番らしいお母さんにここで見送られて車は出発した。 美容院からお見合いする場所である【高級寿司・風花(ふうか)】までは三十分かかる。都内から外れた小高い丘にある。 【高級寿司・風花】は、江戸時代から続くお寿司屋で戦前は旧華族や皇族も通う老舗であり、今でも富裕層の方々に人気の高級寿司店だ。それに、一度テレビで特集されたため予約も殺到していて三ヶ月待ちと聞いたことがあるけど……お金を注ぎ込んだのか、それともそれくらい前から話がでていたのか。 到着して車から降りると、そこには立派な門構えがあった。門を潜って玄関に到着すれば、高級旅館を思わせる都心の喧騒を感じさせないどこか神秘的な雰囲気が漂う。 玄関に入れば、仲居が綺麗なお辞儀で出迎えてくれた。「いらっしゃいませ、千曲様。お待ちしておりました」 ここは担当の仲居が付くらしく今日はこの人らしい。「私、ナガヤマと申します。よろしくお願いいたします。では、ご案内しますね」 お見合いをする場所は、奥らしいのでその途中骨董品らしきものが飾られていた。きっと父は価値とかが分かるんだろうなと思うが全くわからない。 個室の手前にあるお手洗いも教えてもらい奥へ進むと、そこには綺麗な華が飾られていた。 確かこれは木瓜とピンポンマムだった気がする。それに、郁斗さんの作風に似てる……?いつだったか、
郁斗さんとのお見合いから早いことで半年が経った。私はラグジュアリーホテルとして有名な唐橋リゾートグループの一つホテルKARAHASHlにある一室にいた。「とてもお似合いです、百合乃様」「ありがとうございます」 今日は私と郁斗さんの結婚式が行われる日だ。天気は快晴。いい天気だ。私たちの結婚式はチャペルではなく、お寺で行われる【仏前式】と呼ばれるものだ。 仏前式とは、仏様やご先祖様に結婚の挨拶をして二人巡り会えたご縁に感謝をする儀式であり一度結婚すると来世まで連れ添うという仏教の教えにのって新郎新婦が仏様の前で来世まで結びつきを誓う。そして、その中で【念珠授与】と呼ばれる儀式は結婚の祝いとして白房の数珠を新郎に赤房の数珠を新婦に僧侶が授けるといった特徴的なものがある。「郁斗様がいらっしゃいましたが、通してもよろしいでしょうか?」「はい。どうぞ」 そう言えばスタッフと共に黒紋付き羽織袴を着た郁斗さんが入ってきた。「百合ちゃん、綺麗だよ」「郁斗さん。ありがとうございます……郁斗さんもとても素敵です」 私の花嫁衣装は白無垢で錦織の正絹という天然の絹でできた高級感のある光沢を持ち手触りも滑らかな素材で色は完全の白ではなく少しクリーム色がかかった色味になっている。 柄には吉祥の象徴とされる“松竹梅”や長寿の象徴の“菊”に華やかな“牡丹”に“桜”、番になると一生添い遂げるという風習のある“鶴”や吉兆があるとされる“鳳凰”という金刺繍施されているものだ。 髪型は伝統的なヘアスタイルで頭の上の方で髷を結いいくつもの簪で飾る文金高島田というものだ。日本舞踊でもしたことのある髪型だが、やはり違う感じ……緊張しているからだろうか。化粧も昔ながらの|白粉《おしろい》を水で溶いたものを肌に乗せていく水化粧というものに赤い紅をさしたものだ。「何度も衣装でこんな感じのものを着ているのに、やっぱり違いますね。緊張もあるかもしれないですけど、とても気持ちが昂ってます」 「そうか。俺も和装は慣れていると思っていたのだが、なんだかくすぐったい。だけど、綺麗な百合ちゃんを見せたくはないな」 和装でも座りやすいソファに横並びで座ると、郁斗さんは私の手を握って「今はこれくらいしかできないからね」と指を絡ませた。 何を話すでもなく、そのままでいるとあっという間に時間になった
エレベーターで上に上がり、宿泊する部屋に到着する。さっきは気付かなかったけど、よく見たらとても豪華な部屋だった……というか、フロア貸切ってお金どれだけ使ってるんだろう。「百合ちゃん、座っていてお茶淹れるから」「え、それなら私がします」 この部屋は小さなキッチンがあってお湯が普通に沸かせる。「いいから、座ってて。あ、コーヒーとあるみたい。煎茶と紅茶とコーヒー何がいい?」「そうですね、郁斗さんは何飲みますか?」「俺は今日はコーヒーにしようかなって。少し暑いしアイスを作ろうかなって」「じゃあ、私もコーヒーがいいです」 郁斗さんは「了解」と言ってお湯を沸かし始めた。チラッとそちらを見ればインスタントだと思ったが、ドリッパーにフィルターをセットしていた。「郁斗さん、本格的ですね」「うん。コーヒーがあるの知ってて、ホテル側にドリッパーを準備してもらっていたんだよ」「え、そうなんですか?」 話をしているとお湯が沸いていて、それを止めると彼はドリップポットにお湯を注いだ。「いつもコーヒーはこうやって淹れてるんですか?」「いや、仕事が休みの時だけかな。あとは朝に余裕があれば」「そうなんですね」 コーヒーのドリップが終わり、マグカップにコーヒーが注がれる。それをソファのあるテーブルへと運んでくれた。「……ありがとうございます、いただきます」 「どうぞ、召し上がれ」 湯気が立つマグカップに口をつけ一口飲む。コーヒーの香りと共にフルーティーで爽やかな味が口いっぱいに広がる。「……美味しい、郁斗さん、美味しいです」「良かった。誰かに淹れるのは初めてだったから喜んでもらえてよかったよ」「こんなに美味しいのに……なんだか特別って感じがして嬉しいです」「俺の奥さんなんだから特別だよ」 郁斗さんはそう言いながらコーヒーを飲んでそろそろディナーの予約時間が迫っているからと私に告げる。 私もコーヒーを飲み終わると、ディナーに行くために彼が用意していたレースのバックリボンが可愛いらしい背中開きのワンピースに着替えをした。 準備が終わった郁斗さんと一緒に部屋を出ると、エスコートをされながら最上階の都内が見渡せる夜景の綺麗なレストランへ向かった。ウェイターさんに案内されて個室に入った。 個室は二人の空間になっており、ラグジュアリーな雰囲気もあり緊張し
すやすやと寝息を立てて眠っている彼女はいつもの綺麗で凛々しい表情ではなく、可愛らしい寝顔をしている。思わず髪に触れて撫でてみると、くすぐったかったのか体を歪ませた。その姿が小動物のようで可愛らしい。 ――やっとだ。やっと、彼女が俺の手の中に出来た。 彼女と出会ったのは、俺が高校生で彼女は中学生の頃。 場所は、月森(うち)の家元が使うことが許される稽古室だった。俺は、いつもの日課のように当時の家元である祖母と稽古をしていた。 「郁斗、今日はね千曲家のお嬢様方が来るわよ」 「……千曲家? お祖母様のお友達の?」 「そうよ。妃菜ちゃんと百合ちゃんって言ってね、ずっと頼(らい)の元で稽古していたのだけど私のとこでお稽古してもらうことになったのよ」 頼というのは、お祖母様が1番信頼している師範だ。なのに頼から祖母に来るなんてよっぽど優秀なんだろう。それに、その二人のどちらかと婚約するんだろうと軽く思っていた。 「初めまして。千曲妃菜乃です」 「……はじめまして、千曲百合乃です。よろしくお願いします」 二人はとても似ており、とても瓜二つ。まるで双子のような顔をしていたが、性格は正反対だった。 妃菜乃ちゃんは、俺と同い年で明るく年相応の女の子。昔からかっこいいと持て囃されていたこの顔を見てうっとりとしてその辺の女のような反応を見せた。だが、百合乃ちゃんは大人しくお淑やかな箱入り娘という感じでとても可愛らしかった。 この日はあまり話せずに終わってしまったのだが、その後も稽古で一緒になることがあったが話は出来ずにいた。そんなある時、祖母に誘われて千曲流日本舞踊発表会へと見にいくことになった。 日本舞踊をみるのは初めてだったけど、あの姉妹が出るのだと聞いてとてもワクワクしていた。 二人は家元の娘ということで演目の最後の方だった。 最初に出てきたのは姉の妃菜乃ちゃんの方だ。歌とかはよく分からないのだが、彼女はとても完璧だった。周りの観客もさすがだとか家元の娘だものねだとか言っていて完璧の踊りなのだと理解する。 妃菜乃ちゃんが踊り終われば、舞台は真っ暗になりアナウンスがかかり唄が聞こえだす。そして、一気に舞台が明るくなった。 そこには、美しい天女がいた。 確か妃菜乃と同じ演目だったはずなのに全く違う。全ての動きが洗礼されていて、覚
朝、温かい朝の空気を感じ目が覚める。ふと時計を見ると、もう九時だった。いつもより一時間以上遅い朝だ。 「あ、百合ちゃん。おはよう、起こしちゃった?」 「いえ、そんなことはないです。起きるの遅くてすみません」 郁斗さんは、もう服を着ていて朝から完璧に出来上がっていた。だから私も準備をしなくてはと思い、起き上がろうとすると少し身体がだるさを感じる。 「百合ちゃん、体は大丈夫?」 「は、はい……少しだるいですけど、大丈夫です」 彼と目線を合わせるのが恥ずかしくて目を逸らす。昨夜のことを思い出してしまいそうで、顔が熱くなる。 「モーニングはルームサービスを頼んでいるんだけど、いつがいいかな?」 「私はいつでも大丈夫です。あ、でも着替えはしたいです」 「じゃあ、十時くらいがいいかな。俺は朝食を頼むから、百合ちゃんは着替えておいで」 私は頷いて彼がここから離れるのを見送り、ベッドの近くに置いてある下着の回収をするために足を床に付けて立ちあがろうとした時、ふらっとバランスを崩しそうになる。すると爽やかなフローラルで甘い上品な香りに包まれる。これは……ネロリの香りかな。 「……っと、大丈夫?」 「ありがとうございますっ、ご迷惑を」 体力はある方だと思っていたのに、こんな腰が抜けちゃうみたいになるなんて。世の夫婦ってすごい。 「昨日は少し浮かれてやりすぎてしまったと反省してるんだ……着替えはカバンにあるんじゃないかと思ってもってきたよ」 「えっ、ありがとうございます。すみません」 私はお礼を言い、カバンを受け取ると鞄の中の上の方に入れていたワンピースを取り出した。 下着を付けてワンピースを着た。パッと着られるワンピースにしておいてよかったと心の底から思いながら着替えをした。 「百合ちゃん、ルームサービスは頼んだからそれまでゆっくりしよう」 そう言って郁斗さんがテレビの電源をつけると、そこに映っていたのはまさかの私たちだ。 昨日の会見と共に私たちの紹介がされている。 こんなに詳しくやらなくても……と思うが、有名な郁斗さんが結婚だもの特集するよね。相手が私で世間が私に対してがっかりしてないといいんだけど。 「どこもかしこも俺たちだね、今日は日曜日だから特集組まれる覚悟はしていたけど」 そう、今日は
新居から走ること三十分ほどの所に月森家の本家がある。 月森家のお屋敷は、何回か改築されているが築132年ほどで明治十年ごろに建てられた日本家屋だ。本邸と別邸が存在しており、お稽古したりする和室や初生け式などの行事を行う大広間があるのが本邸で、別邸が家元一族が暮らしている家だ。今から向かうのは、別邸である。 「さぁ、百合ちゃん。行こうか」 郁斗さんにエスコートされながら、私は結婚して初めて月森家の門を潜った。玄関を彼が開けると、見覚えのある家政婦さんが出迎えてくださった。 「おかえりなさいませ。郁斗様、百合乃様」 「ただいま帰りました」 確か、名前はアキさんだ。 「アキさん、ありがとうございます。これから末長くよろしくお願いします」 「名前覚えていてくださったんですね、光栄です。これからは、一家政婦としてよろしくお願いします。大奥様方は居間でお待ちしています」 玄関で履き物を脱ぐと、玄関を上がりリビングのような場所に案内される。 ずっとこのお屋敷には出入りしていたがこの居間には、初めて入るのでなんだか緊張する。 「緊張しなくても大丈夫だよ。百合ちゃんは元から両親とも祖母とも仲がいいんだから」 「そうなんですけど……違うというか」 アキさんに案内され、居間の襖を開けるとそこは和室と洋室がいい感じに合わさったお部屋だった。 「いらっしゃい、百合乃さん。結婚式ぶりだね」 「はい。サクラお祖母様、式ではありがとうございました」 入ってすぐ近くにサクラお祖母様がいたので挨拶をすると、奥からひょこっとお義母様とお義父様、義弟の(綾斗《あやと)さんがいた。 「いらっしゃい、百合乃さん。式にはいけなくてごめんね」 綾斗さんは月森家の次男だけれど、華道はしていない。小さい頃はお稽古もやっていたらしいが、自分は仕事にできそうにないとバッサリと大学生の頃にやめた彼は今は普通に会社員をしていると聞いている。 「いえ、お祝いの品もくださって嬉しかったです」 「良かった。たってないで座って。兄さんもこっちに座ってよ」 「ありがとう、百合ちゃんも座ろうか」 綾斗さんと郁斗さんに促されて皆が座る場所に一緒に座れば、アキさんがお茶と和菓子を出してくださった。 「ありがとうございます、アキさん」 「……いえ。ごゆっくり
「んー? 本当にこれでいいのか……」 私は今、レシピノートと鍋に入っているじゃがいもとお肉を睨めっこをしている。 「これを煮込むと、本当にできるんだろうか……肉じゃが。蓋をしたほうがいいのかな?」 レシピ本を見てこれなら料理初心者でもできるのではないかと思った私は、今日は午前中のみの仕事だったのでスーパーで材料を買ってきていた。 野菜たちを学校の家庭科で習ったのを思い出しながら切っていき、糸蒟蒻も茹でてみる。 下準備は万端にして現在夕方。この『サッと炒める』ってどういう意味だろう?これ、じゃがいもに火が通っているのか、どうなっているのか全くわからない。 「……どうしたんだ?」 「ちょっとよくわからなくて――って、え!? ふ、郁斗さん! いつ、お帰りに……っ」「もう十分くらい前かな。一生懸命作っている様子だったし、声を掛けなかったんだけど困ってるようだったからさ」 「全く気づきませんでした。ごめんなさい、少しはお役に立ちたくて夕食を作ろうとしたんですけど全然で」 郁斗さんが帰ってきたことも気づかなかったなんて、ダメダメじゃないか。 「それは肉じゃが、かな。うん、ちょっと任せてもらってもいい?」 「え、はい。大丈夫です」 私はポジションを変わると、郁斗さんは慣れた手つきで鍋に入れていたじゃがいもとにんじんに玉ねぎを違うお皿に分けて一つ一つ取り出した。そして、順番に電子レンジに入れてスタートを押す。 「まだ、出汁とか入れてない?」 「はい。まだ調味料も入れてないです」 「わかった。まず、野菜このまま煮ると柔らかくなるまでに時間がかかるから電子レンジである程度熱通しておいたほうがいい。大体、二分か多くて三分」「そうなんですね……」「あとで煮込むから、じゃがいもは煮崩れしない程度で竹串が少し入る方がいい」 慣れた手つきで、電子レンジと同時進行でまだ加熱していなかった牛肉をさっきの鍋で炒めると違うお皿に移す。 そのまま、鍋にお酒とだし汁を入れて火が通った野菜たちを鍋に入れた。 「とても慣れてるんですね、料理……プロみたい」 「まぁ、一人暮らしも長かったからね。ツアー中は外食じゃなくて小さなキッチンがついた部屋で作ったりしていたから。何度か作れば出来るようになるし、料理は好きなんだ」 「そうなんで
稽古着であるお気に入りである芥子色の着物を来て帯を締める。建物内にある【お稽古室・桜】という稽古部屋に入ると荷物を置いた。「……よし、やるか」 スマホの音楽アプリに登録してある曲【藤娘】をタップしてスピーカー機能のある機械にセットすれば、いつもと同じ三味線の音が聞こえ『津の国の――』と唄が始まり踊り始めた。 この長唄である藤娘は、日本舞踊といえば藤娘(これ)!と言われるくらい有名な曲であり藤の花の精が娘の姿で現れて女心を踊る作品のこれは私の大好きな曲だ。 部屋のドアが勢いよく開く。踊り始めたばかりだが、音楽を停止させる。「百合乃、邪魔するよー」「……慶翠(けいすい)さま、返事してないです。言ってください」「どうせ言っても聞こえないだろ? それに慶翠とか他人行儀はやめろよ。お兄ちゃんだろ?」 私、千曲(ちくま)鳳翠(ほうすい)改め千曲百合乃(ゆりの)は千曲流日本舞踊家の家元の娘で私自身も師範代を持っている。日本舞踊家として門下生もいてキッズ教室と初心者教室も受け持っており指導も行っている。 そして急に現れた男性は千曲慶翠といい、同じ千曲流日本舞踊家で次期家元であり、実の兄だ。「ここは家じゃありませんので、ケジメです。割り切ることは大切ですよ」「堅いなぁ」「堅くて結構です。それよりも何か用事があったのでは?」「あ、そうそう。客だよ、客!」 お客様?私に? 私に尋ねて来るとは誰だろうと、入り口をみると男性が入ってきた。「久しぶりだね、百合ちゃん」「郁斗(ふみと)さん。お久しぶりです。今日は、どうしたんですか?」「仕事の打ち合わせだよ。次の公演でいけばなを担当するからね」 郁斗さんは、月森流華道家であり現在の家元で雅名を月森(つきもり)耀壱(よういち)という。祖母同士が友人で小さい頃から月森流華道を一緒に稽古させてもらっていたので幼なじみのような存在だ。 彼は昨年朝ドラの華道監修をしてからイケメン華道家家元として一躍有名となり雑誌や特集番組に出演依頼もたくさん来ているらしいし、SNSでは『国宝級イケメン華道家』とも言われているくらいに顔が整っているし、声も甘い蜂蜜のようで目が合うだけで好きになっちゃうくらいに麗しく綺麗な青年だ。「それに妃菜乃(ひなの)のお墓参りをしてきたから」「そうなんですね」 彼は懐かしむような、悲しそう
「んー? 本当にこれでいいのか……」 私は今、レシピノートと鍋に入っているじゃがいもとお肉を睨めっこをしている。 「これを煮込むと、本当にできるんだろうか……肉じゃが。蓋をしたほうがいいのかな?」 レシピ本を見てこれなら料理初心者でもできるのではないかと思った私は、今日は午前中のみの仕事だったのでスーパーで材料を買ってきていた。 野菜たちを学校の家庭科で習ったのを思い出しながら切っていき、糸蒟蒻も茹でてみる。 下準備は万端にして現在夕方。この『サッと炒める』ってどういう意味だろう?これ、じゃがいもに火が通っているのか、どうなっているのか全くわからない。 「……どうしたんだ?」 「ちょっとよくわからなくて――って、え!? ふ、郁斗さん! いつ、お帰りに……っ」「もう十分くらい前かな。一生懸命作っている様子だったし、声を掛けなかったんだけど困ってるようだったからさ」 「全く気づきませんでした。ごめんなさい、少しはお役に立ちたくて夕食を作ろうとしたんですけど全然で」 郁斗さんが帰ってきたことも気づかなかったなんて、ダメダメじゃないか。 「それは肉じゃが、かな。うん、ちょっと任せてもらってもいい?」 「え、はい。大丈夫です」 私はポジションを変わると、郁斗さんは慣れた手つきで鍋に入れていたじゃがいもとにんじんに玉ねぎを違うお皿に分けて一つ一つ取り出した。そして、順番に電子レンジに入れてスタートを押す。 「まだ、出汁とか入れてない?」 「はい。まだ調味料も入れてないです」 「わかった。まず、野菜このまま煮ると柔らかくなるまでに時間がかかるから電子レンジである程度熱通しておいたほうがいい。大体、二分か多くて三分」「そうなんですね……」「あとで煮込むから、じゃがいもは煮崩れしない程度で竹串が少し入る方がいい」 慣れた手つきで、電子レンジと同時進行でまだ加熱していなかった牛肉をさっきの鍋で炒めると違うお皿に移す。 そのまま、鍋にお酒とだし汁を入れて火が通った野菜たちを鍋に入れた。 「とても慣れてるんですね、料理……プロみたい」 「まぁ、一人暮らしも長かったからね。ツアー中は外食じゃなくて小さなキッチンがついた部屋で作ったりしていたから。何度か作れば出来るようになるし、料理は好きなんだ」 「そうなんで
新居から走ること三十分ほどの所に月森家の本家がある。 月森家のお屋敷は、何回か改築されているが築132年ほどで明治十年ごろに建てられた日本家屋だ。本邸と別邸が存在しており、お稽古したりする和室や初生け式などの行事を行う大広間があるのが本邸で、別邸が家元一族が暮らしている家だ。今から向かうのは、別邸である。 「さぁ、百合ちゃん。行こうか」 郁斗さんにエスコートされながら、私は結婚して初めて月森家の門を潜った。玄関を彼が開けると、見覚えのある家政婦さんが出迎えてくださった。 「おかえりなさいませ。郁斗様、百合乃様」 「ただいま帰りました」 確か、名前はアキさんだ。 「アキさん、ありがとうございます。これから末長くよろしくお願いします」 「名前覚えていてくださったんですね、光栄です。これからは、一家政婦としてよろしくお願いします。大奥様方は居間でお待ちしています」 玄関で履き物を脱ぐと、玄関を上がりリビングのような場所に案内される。 ずっとこのお屋敷には出入りしていたがこの居間には、初めて入るのでなんだか緊張する。 「緊張しなくても大丈夫だよ。百合ちゃんは元から両親とも祖母とも仲がいいんだから」 「そうなんですけど……違うというか」 アキさんに案内され、居間の襖を開けるとそこは和室と洋室がいい感じに合わさったお部屋だった。 「いらっしゃい、百合乃さん。結婚式ぶりだね」 「はい。サクラお祖母様、式ではありがとうございました」 入ってすぐ近くにサクラお祖母様がいたので挨拶をすると、奥からひょこっとお義母様とお義父様、義弟の(綾斗《あやと)さんがいた。 「いらっしゃい、百合乃さん。式にはいけなくてごめんね」 綾斗さんは月森家の次男だけれど、華道はしていない。小さい頃はお稽古もやっていたらしいが、自分は仕事にできそうにないとバッサリと大学生の頃にやめた彼は今は普通に会社員をしていると聞いている。 「いえ、お祝いの品もくださって嬉しかったです」 「良かった。たってないで座って。兄さんもこっちに座ってよ」 「ありがとう、百合ちゃんも座ろうか」 綾斗さんと郁斗さんに促されて皆が座る場所に一緒に座れば、アキさんがお茶と和菓子を出してくださった。 「ありがとうございます、アキさん」 「……いえ。ごゆっくり
朝、温かい朝の空気を感じ目が覚める。ふと時計を見ると、もう九時だった。いつもより一時間以上遅い朝だ。 「あ、百合ちゃん。おはよう、起こしちゃった?」 「いえ、そんなことはないです。起きるの遅くてすみません」 郁斗さんは、もう服を着ていて朝から完璧に出来上がっていた。だから私も準備をしなくてはと思い、起き上がろうとすると少し身体がだるさを感じる。 「百合ちゃん、体は大丈夫?」 「は、はい……少しだるいですけど、大丈夫です」 彼と目線を合わせるのが恥ずかしくて目を逸らす。昨夜のことを思い出してしまいそうで、顔が熱くなる。 「モーニングはルームサービスを頼んでいるんだけど、いつがいいかな?」 「私はいつでも大丈夫です。あ、でも着替えはしたいです」 「じゃあ、十時くらいがいいかな。俺は朝食を頼むから、百合ちゃんは着替えておいで」 私は頷いて彼がここから離れるのを見送り、ベッドの近くに置いてある下着の回収をするために足を床に付けて立ちあがろうとした時、ふらっとバランスを崩しそうになる。すると爽やかなフローラルで甘い上品な香りに包まれる。これは……ネロリの香りかな。 「……っと、大丈夫?」 「ありがとうございますっ、ご迷惑を」 体力はある方だと思っていたのに、こんな腰が抜けちゃうみたいになるなんて。世の夫婦ってすごい。 「昨日は少し浮かれてやりすぎてしまったと反省してるんだ……着替えはカバンにあるんじゃないかと思ってもってきたよ」 「えっ、ありがとうございます。すみません」 私はお礼を言い、カバンを受け取ると鞄の中の上の方に入れていたワンピースを取り出した。 下着を付けてワンピースを着た。パッと着られるワンピースにしておいてよかったと心の底から思いながら着替えをした。 「百合ちゃん、ルームサービスは頼んだからそれまでゆっくりしよう」 そう言って郁斗さんがテレビの電源をつけると、そこに映っていたのはまさかの私たちだ。 昨日の会見と共に私たちの紹介がされている。 こんなに詳しくやらなくても……と思うが、有名な郁斗さんが結婚だもの特集するよね。相手が私で世間が私に対してがっかりしてないといいんだけど。 「どこもかしこも俺たちだね、今日は日曜日だから特集組まれる覚悟はしていたけど」 そう、今日は
すやすやと寝息を立てて眠っている彼女はいつもの綺麗で凛々しい表情ではなく、可愛らしい寝顔をしている。思わず髪に触れて撫でてみると、くすぐったかったのか体を歪ませた。その姿が小動物のようで可愛らしい。 ――やっとだ。やっと、彼女が俺の手の中に出来た。 彼女と出会ったのは、俺が高校生で彼女は中学生の頃。 場所は、月森(うち)の家元が使うことが許される稽古室だった。俺は、いつもの日課のように当時の家元である祖母と稽古をしていた。 「郁斗、今日はね千曲家のお嬢様方が来るわよ」 「……千曲家? お祖母様のお友達の?」 「そうよ。妃菜ちゃんと百合ちゃんって言ってね、ずっと頼(らい)の元で稽古していたのだけど私のとこでお稽古してもらうことになったのよ」 頼というのは、お祖母様が1番信頼している師範だ。なのに頼から祖母に来るなんてよっぽど優秀なんだろう。それに、その二人のどちらかと婚約するんだろうと軽く思っていた。 「初めまして。千曲妃菜乃です」 「……はじめまして、千曲百合乃です。よろしくお願いします」 二人はとても似ており、とても瓜二つ。まるで双子のような顔をしていたが、性格は正反対だった。 妃菜乃ちゃんは、俺と同い年で明るく年相応の女の子。昔からかっこいいと持て囃されていたこの顔を見てうっとりとしてその辺の女のような反応を見せた。だが、百合乃ちゃんは大人しくお淑やかな箱入り娘という感じでとても可愛らしかった。 この日はあまり話せずに終わってしまったのだが、その後も稽古で一緒になることがあったが話は出来ずにいた。そんなある時、祖母に誘われて千曲流日本舞踊発表会へと見にいくことになった。 日本舞踊をみるのは初めてだったけど、あの姉妹が出るのだと聞いてとてもワクワクしていた。 二人は家元の娘ということで演目の最後の方だった。 最初に出てきたのは姉の妃菜乃ちゃんの方だ。歌とかはよく分からないのだが、彼女はとても完璧だった。周りの観客もさすがだとか家元の娘だものねだとか言っていて完璧の踊りなのだと理解する。 妃菜乃ちゃんが踊り終われば、舞台は真っ暗になりアナウンスがかかり唄が聞こえだす。そして、一気に舞台が明るくなった。 そこには、美しい天女がいた。 確か妃菜乃と同じ演目だったはずなのに全く違う。全ての動きが洗礼されていて、覚
エレベーターで上に上がり、宿泊する部屋に到着する。さっきは気付かなかったけど、よく見たらとても豪華な部屋だった……というか、フロア貸切ってお金どれだけ使ってるんだろう。「百合ちゃん、座っていてお茶淹れるから」「え、それなら私がします」 この部屋は小さなキッチンがあってお湯が普通に沸かせる。「いいから、座ってて。あ、コーヒーとあるみたい。煎茶と紅茶とコーヒー何がいい?」「そうですね、郁斗さんは何飲みますか?」「俺は今日はコーヒーにしようかなって。少し暑いしアイスを作ろうかなって」「じゃあ、私もコーヒーがいいです」 郁斗さんは「了解」と言ってお湯を沸かし始めた。チラッとそちらを見ればインスタントだと思ったが、ドリッパーにフィルターをセットしていた。「郁斗さん、本格的ですね」「うん。コーヒーがあるの知ってて、ホテル側にドリッパーを準備してもらっていたんだよ」「え、そうなんですか?」 話をしているとお湯が沸いていて、それを止めると彼はドリップポットにお湯を注いだ。「いつもコーヒーはこうやって淹れてるんですか?」「いや、仕事が休みの時だけかな。あとは朝に余裕があれば」「そうなんですね」 コーヒーのドリップが終わり、マグカップにコーヒーが注がれる。それをソファのあるテーブルへと運んでくれた。「……ありがとうございます、いただきます」 「どうぞ、召し上がれ」 湯気が立つマグカップに口をつけ一口飲む。コーヒーの香りと共にフルーティーで爽やかな味が口いっぱいに広がる。「……美味しい、郁斗さん、美味しいです」「良かった。誰かに淹れるのは初めてだったから喜んでもらえてよかったよ」「こんなに美味しいのに……なんだか特別って感じがして嬉しいです」「俺の奥さんなんだから特別だよ」 郁斗さんはそう言いながらコーヒーを飲んでそろそろディナーの予約時間が迫っているからと私に告げる。 私もコーヒーを飲み終わると、ディナーに行くために彼が用意していたレースのバックリボンが可愛いらしい背中開きのワンピースに着替えをした。 準備が終わった郁斗さんと一緒に部屋を出ると、エスコートをされながら最上階の都内が見渡せる夜景の綺麗なレストランへ向かった。ウェイターさんに案内されて個室に入った。 個室は二人の空間になっており、ラグジュアリーな雰囲気もあり緊張し
郁斗さんとのお見合いから早いことで半年が経った。私はラグジュアリーホテルとして有名な唐橋リゾートグループの一つホテルKARAHASHlにある一室にいた。「とてもお似合いです、百合乃様」「ありがとうございます」 今日は私と郁斗さんの結婚式が行われる日だ。天気は快晴。いい天気だ。私たちの結婚式はチャペルではなく、お寺で行われる【仏前式】と呼ばれるものだ。 仏前式とは、仏様やご先祖様に結婚の挨拶をして二人巡り会えたご縁に感謝をする儀式であり一度結婚すると来世まで連れ添うという仏教の教えにのって新郎新婦が仏様の前で来世まで結びつきを誓う。そして、その中で【念珠授与】と呼ばれる儀式は結婚の祝いとして白房の数珠を新郎に赤房の数珠を新婦に僧侶が授けるといった特徴的なものがある。「郁斗様がいらっしゃいましたが、通してもよろしいでしょうか?」「はい。どうぞ」 そう言えばスタッフと共に黒紋付き羽織袴を着た郁斗さんが入ってきた。「百合ちゃん、綺麗だよ」「郁斗さん。ありがとうございます……郁斗さんもとても素敵です」 私の花嫁衣装は白無垢で錦織の正絹という天然の絹でできた高級感のある光沢を持ち手触りも滑らかな素材で色は完全の白ではなく少しクリーム色がかかった色味になっている。 柄には吉祥の象徴とされる“松竹梅”や長寿の象徴の“菊”に華やかな“牡丹”に“桜”、番になると一生添い遂げるという風習のある“鶴”や吉兆があるとされる“鳳凰”という金刺繍施されているものだ。 髪型は伝統的なヘアスタイルで頭の上の方で髷を結いいくつもの簪で飾る文金高島田というものだ。日本舞踊でもしたことのある髪型だが、やはり違う感じ……緊張しているからだろうか。化粧も昔ながらの|白粉《おしろい》を水で溶いたものを肌に乗せていく水化粧というものに赤い紅をさしたものだ。「何度も衣装でこんな感じのものを着ているのに、やっぱり違いますね。緊張もあるかもしれないですけど、とても気持ちが昂ってます」 「そうか。俺も和装は慣れていると思っていたのだが、なんだかくすぐったい。だけど、綺麗な百合ちゃんを見せたくはないな」 和装でも座りやすいソファに横並びで座ると、郁斗さんは私の手を握って「今はこれくらいしかできないからね」と指を絡ませた。 何を話すでもなく、そのままでいるとあっという間に時間になった
お見合い当日はとても朝から温かくて気持ちが良く、快晴だった。 そして大安という吉日だから縁起がいい。きっとこの縁談を持ってきたのではないかと思われるお祖母様がこの日を指定したと思う。 「綺麗ね、百合乃ちゃん」 「ありがとう、お祖母様」 早起きした私はパパッと支度をして美容院に送られた。そこで振袖を着て髪をセットされる。編み込みがされている緩い感じのシニヨンは自分ではできない髪型だ。 「……可愛いわね」 そう呟いたお母さんは振袖を見て懐かしむような表情をする。 美容師さんはすごいなぁと思いながら鏡を見ていれば、お父さんがノックをしてピョコっと顔を出した。「百合乃、そろそろ大丈夫か?」「うん、大丈夫だよ」「似合ってるな、母さんの若いときにそっくりだ」「……ありがとう、お父さん」 私は立ち上がると、お父さんとお祖母様と一緒に美容院の前に停めてある車に向かう。運転手がドアを開けてくれて乗り込む。 今日はお留守番らしいお母さんにここで見送られて車は出発した。 美容院からお見合いする場所である【高級寿司・風花(ふうか)】までは三十分かかる。都内から外れた小高い丘にある。 【高級寿司・風花】は、江戸時代から続くお寿司屋で戦前は旧華族や皇族も通う老舗であり、今でも富裕層の方々に人気の高級寿司店だ。それに、一度テレビで特集されたため予約も殺到していて三ヶ月待ちと聞いたことがあるけど……お金を注ぎ込んだのか、それともそれくらい前から話がでていたのか。 到着して車から降りると、そこには立派な門構えがあった。門を潜って玄関に到着すれば、高級旅館を思わせる都心の喧騒を感じさせないどこか神秘的な雰囲気が漂う。 玄関に入れば、仲居が綺麗なお辞儀で出迎えてくれた。「いらっしゃいませ、千曲様。お待ちしておりました」 ここは担当の仲居が付くらしく今日はこの人らしい。「私、ナガヤマと申します。よろしくお願いいたします。では、ご案内しますね」 お見合いをする場所は、奥らしいのでその途中骨董品らしきものが飾られていた。きっと父は価値とかが分かるんだろうなと思うが全くわからない。 個室の手前にあるお手洗いも教えてもらい奥へ進むと、そこには綺麗な華が飾られていた。 確かこれは木瓜とピンポンマムだった気がする。それに、郁斗さんの作風に似てる……?いつだったか、
私には、『鳳翠』として指導をしているので毎日ではないが稽古日がある。一週間の中で月曜水曜木曜がキッズ教室で、初心者向け教室は火曜金曜土曜とあり門下生は週何回とかは決まっていないが大体が金曜土曜日曜だ。だからほとんどが休みがないように見えるが、キッズも初心者も夕方からなので午前中は休むことができる。 稽古室があるのは千曲流日本舞踊会館の中に三つ棟があってその中の一つで行われる。師範室から移動して稽古室の一つの部屋に向かった。 「――では、お辞儀から始めましょう」 今日は、初心者向け教室の日。初心者教室はいくつかクラスがあり私が担当しているのは趣味としてやっている方々で十人ほどのクラスだ。着物の着付けもあるし礼儀作法も学べるため、人気がある教室で教室が始まってすぐは基本のお辞儀の復習からだ。 日本舞踊の稽古は“礼にはじまり礼に終わる”。基本中の基本であり、踊り中でもお辞儀をすることがあるため大切になる。 扇子を膝の前に置き、背筋を伸ばし肩甲骨をつけ肩を下ろし力を入れず顎を引く。ゆっくりと前に手をつき、一旦止めて挨拶をしながら頭を下げる。その時は肘をなるべくつけて、肘を張りすぎず膝を囲うような形でお辞儀をした。そして、ゆっくりと頭を上げ肘を伸ばした形で止まり一呼吸ついてからゆっくり手を伸ばして最初の形に戻るとお辞儀が終わる。 このお扇子をおくという行為は、“自分と師匠の間に一線を引く”“謙虚な姿勢で踊りを習う”という心の表れと意味がある。たかがお辞儀一回二回と言われるがこのお辞儀が難しいし、今後ステップアップをしていく中で踊りをするときにつまづいてしまうこともあるから私は力を入れている。 お辞儀がある程度できるようになると、次にお扇子の扱い方を学ぶ。扇子は紙と骨と要、なまりで出来ているため上に投げてもなまりが入っているため要から降りてくるようになっている。 扇子は、胸の高さで持ち親骨を一つ開き平らに奥へと広げていく。握り込みで持った扇子を右膝につけ、左手を手前に立てて手のひらで前に閉める――それが扇子の開き方だ。 それからすり足と呼ばれる基本の足の運びを説明をしながら実践してもらう。「姿勢を正しくして腰を入れてから正面へ足を滑らすように足の裏が地面から離れないようにして重心がぶれないように気をつけてね」 すり足が上手くできるようになったら、夏の
稽古着であるお気に入りである芥子色の着物を来て帯を締める。建物内にある【お稽古室・桜】という稽古部屋に入ると荷物を置いた。「……よし、やるか」 スマホの音楽アプリに登録してある曲【藤娘】をタップしてスピーカー機能のある機械にセットすれば、いつもと同じ三味線の音が聞こえ『津の国の――』と唄が始まり踊り始めた。 この長唄である藤娘は、日本舞踊といえば藤娘(これ)!と言われるくらい有名な曲であり藤の花の精が娘の姿で現れて女心を踊る作品のこれは私の大好きな曲だ。 部屋のドアが勢いよく開く。踊り始めたばかりだが、音楽を停止させる。「百合乃、邪魔するよー」「……慶翠(けいすい)さま、返事してないです。言ってください」「どうせ言っても聞こえないだろ? それに慶翠とか他人行儀はやめろよ。お兄ちゃんだろ?」 私、千曲(ちくま)鳳翠(ほうすい)改め千曲百合乃(ゆりの)は千曲流日本舞踊家の家元の娘で私自身も師範代を持っている。日本舞踊家として門下生もいてキッズ教室と初心者教室も受け持っており指導も行っている。 そして急に現れた男性は千曲慶翠といい、同じ千曲流日本舞踊家で次期家元であり、実の兄だ。「ここは家じゃありませんので、ケジメです。割り切ることは大切ですよ」「堅いなぁ」「堅くて結構です。それよりも何か用事があったのでは?」「あ、そうそう。客だよ、客!」 お客様?私に? 私に尋ねて来るとは誰だろうと、入り口をみると男性が入ってきた。「久しぶりだね、百合ちゃん」「郁斗(ふみと)さん。お久しぶりです。今日は、どうしたんですか?」「仕事の打ち合わせだよ。次の公演でいけばなを担当するからね」 郁斗さんは、月森流華道家であり現在の家元で雅名を月森(つきもり)耀壱(よういち)という。祖母同士が友人で小さい頃から月森流華道を一緒に稽古させてもらっていたので幼なじみのような存在だ。 彼は昨年朝ドラの華道監修をしてからイケメン華道家家元として一躍有名となり雑誌や特集番組に出演依頼もたくさん来ているらしいし、SNSでは『国宝級イケメン華道家』とも言われているくらいに顔が整っているし、声も甘い蜂蜜のようで目が合うだけで好きになっちゃうくらいに麗しく綺麗な青年だ。「それに妃菜乃(ひなの)のお墓参りをしてきたから」「そうなんですね」 彼は懐かしむような、悲しそう