稽古着であるお気に入りである芥子色の着物を来て帯を締める。建物内にある【お稽古室・桜】という稽古部屋に入ると荷物を置いた。
「……よし、やるか」 スマホの音楽アプリに登録してある曲【藤娘】をタップしてスピーカー機能のある機械にセットすれば、いつもと同じ三味線の音が聞こえ『津の国の――』と唄が始まり踊り始めた。 この長唄である藤娘は、日本舞踊といえば藤娘(これ)!と言われるくらい有名な曲であり藤の花の精が娘の姿で現れて女心を踊る作品のこれは私の大好きな曲だ。 部屋のドアが勢いよく開く。踊り始めたばかりだが、音楽を停止させる。 「百合乃、邪魔するよー」 「……慶翠(けいすい)さま、返事してないです。言ってください」 「どうせ言っても聞こえないだろ? それに慶翠とか他人行儀はやめろよ。お兄ちゃんだろ?」 私、千曲(ちくま)鳳翠(ほうすい)改め千曲百合乃(ゆりの)は千曲流日本舞踊家の家元の娘で私自身も師範代を持っている。日本舞踊家として門下生もいてキッズ教室と初心者教室も受け持っており指導も行っている。 そして急に現れた男性は千曲慶翠といい、同じ千曲流日本舞踊家で次期家元であり、実の兄だ。 「ここは家じゃありませんので、ケジメです。割り切ることは大切ですよ」 「堅いなぁ」 「堅くて結構です。それよりも何か用事があったのでは?」 「あ、そうそう。客だよ、客!」 お客様?私に? 私に尋ねて来るとは誰だろうと、入り口をみると男性が入ってきた。 「久しぶりだね、百合ちゃん」 「郁斗(ふみと)さん。お久しぶりです。今日は、どうしたんですか?」 「仕事の打ち合わせだよ。次の公演でいけばなを担当するからね」 郁斗さんは、月森流華道家であり現在の家元で雅名を月森(つきもり)耀壱(よういち)という。祖母同士が友人で小さい頃から月森流華道を一緒に稽古させてもらっていたので幼なじみのような存在だ。 彼は昨年朝ドラの華道監修をしてからイケメン華道家家元として一躍有名となり雑誌や特集番組に出演依頼もたくさん来ているらしいし、SNSでは『国宝級イケメン華道家』とも言われているくらいに顔が整っているし、声も甘い蜂蜜のようで目が合うだけで好きになっちゃうくらいに麗しく綺麗な青年だ。「それに妃菜乃(ひなの)のお墓参りをしてきたから」
「そうなんですね」 彼は懐かしむような、悲しそうな表情を見せる。彼が言う妃菜乃とは私の姉で、二人は婚約者同士で想いあっていた。とても仲良しで、二人を見るのが好きだった。 だけど、姉が病気になった。それから一年足らずで亡くなった。姉と婚約していたけど、会うことも話すことも減っていたのでお葬式で久しぶりだった。 以前と同じ、私に笑いかけてくれて嬉しかった。ちゃんと話したのは学生ぶりで、婚約前だったなぁと思い出す。
『久しぶりだね、百合ちゃんは妃菜乃に本当に……そっくりだ』 ……彼には似てるなんて言われたくなかった。 確かに私は姉にそっくりで瓜二つだと言われている。だけどそれだけだ、私は姉には敵わない。天才肌で努力しなくてもなんでもこなす姉とは違い、私は努力しなくては何もできない。大好きな日本舞踊だって姉が一日でマスターしていくのに私は茶道も華道もすぐにはできない。だから、学生の頃はよく言われていた。 『顔はそっくりでもね、家元の娘なのに習得するのに時間がかかるんじゃ』 『妃菜乃さんは優秀な家元の娘なのに百合乃さんの方は“優”にはなれても“秀”にはなれないわよね。家元の娘なのに凡人というか』 周りの人から言われていたのは慣れているし、もう秀になれないことは諦めもついている。姉にはなれないことも分かるし分かりきっている。 「――百合ちゃん?」 名前を呼ばれ、いつの間にか覗き込まれていたらしくハッとした。 「すみません、少し考えごとをしてました。……郁斗さんのいけばな楽しみにしてます」 「ありがとう。俺も百合ちゃんの公演楽しみにしてるよ」 そう言うと、次の仕事があるらしく郁斗さんは部屋から出て行った。 私は、一時停止していた音楽を再生にしてまた踊り出した。 *** それから一週間後、千曲流日本舞踊春季公演会の日を迎えた。公演会は午前の部と午後の部で分かれていて朝十時から始まる。午前の部の最初はキッズ教室の子たちと初心者教室の人だからまだまだ時間があるので私は案内係としてせっせと働いている。 「百合乃さん」 後ろから声を掛けられて、振り向くとそこには和服を着ている郁斗さんがいた。 「あっ、おはようございます。月森さん、本日は素敵ないけばなをありがとうございます」 「気に入ってもらえてよかったよ。こちらこそ自由にやらせてくれたから楽しかったよ」 このホールの入場口の手前にある華は郁斗さんの持参した織部焼きの深い緑の花瓶にコバンモチやスカシユリ、モンステラの花を使い華やかすぎず控えめすぎずの程よいコバンモチの葉が生き生きとした彼らしい生け花で素晴らしかった。 「あ、そうだ。百合ちゃんにこれ、いつもの」 「ありがとうございます。嬉しいです!」 彼にもらったのは、いけばなのスケッチだ。画家ではないのに綺麗な絵だから貰えるのは嬉しい。 「こんなスケッチなら、いくらでもあげるよ。……あと、これも皆さんで食べて」 「えっ、ありがとうございます。喜びます」 郁斗さんは、差し入れでお土産用の紙袋を私に渡す。その中は私の大好きな和菓子メーカーのえび煎餅だ。 「百合ちゃん、好きでしょ? そうだ、昼って時間ある?」 「昼ですか? 私、最後なので余裕があるので時間はたっぷりと」 「じゃあ、一緒に食べていいかな?」 「大丈夫です。ぜひ」 「良かった、じゃあ楽しみにしてるね」 入場開始のアナウンスが流れたため、郁斗さんは午前の部も見るらしくホールへ入って行った。 私は案内係をして席がほぼ埋まると、アルバイトスタッフさんに後はお願いして裏へと向かった。 裏には始まるのを今かと待つキッズ教室の子たちが緊張した表情をしていた。初めて舞台に立つ子が多いし、緊張するのは当たり前だ。 「おはようございます!」 緊張を和らげるためにみんなに挨拶をすれば「鳳翠先生、おはようございます!」と挨拶してくれた。全員の表情を見ると、さっきよりはほぐれたようで安心していると彼らの順番が来て舞台へと出て行った。 舞台袖から見ながらお稽古の時のことを思い出して感極まって泣きそうになりながら舞台を見た。 午前の部は滞りなく終了して、お昼休憩のアナウンスが流れた。控え室に戻ればドアの前には郁斗さんがいた。 「お待たせしちゃってすみません、廊下で待たせちゃうなんて」 「いや、早く来ちゃっただけだし。気にしないで」 私は彼を中に招き入れると、椅子を用意した。 「飲み物は、お茶でいいですか? コーヒーもありますけど」 「お茶にしようかな」 「了解です。今日は、玉露があるので美味しいですよ」 そんな話をしながら、急須に茶葉を入れて湯呑みに入れていたお湯を入れて蒸す。三分蒸し終わると、湯呑みに淹れた。 「どうぞ、郁斗さん」 「ありがとう、綺麗な緑色だしいい香りだ。いただきます」 郁斗さんはお弁当の包み紙をとってお弁当を広げた。 「それって限定販売の高いやつじゃないですか? 予約がすぐに埋まったって聞きました」 「うん、打ち合わせの時に家元に教えてもらったからついでに頼んでもらったんだ」 「え、私には何も言ってくれなかったのに」 「そうなの? じゃあ、なんか食べる?」 そう言って郁斗さんは私に差し出した。なんだか申し訳ないと思ったけど限定品だし、次の機会はないだろうからと考えてだし巻き卵を一切れ頂いた。 私も自分のお茶をテーブルの隅に置いてから、さっきスタッフにもらったお弁当を広げる。 「私のもどうぞ。普通のお弁当ですけど、よかったら」 「いいの? じゃあ、このとり天を貰おうかな」 お弁当のおかずを交換したりして二人で食べる。食べ終われば、午後の部が始まるまで談笑をした。 「じゃあ、百合ちゃん。頑張ってね」 「ありがとうございます」 午後の部が始まるアナウンスが放送されると郁斗さんはホールの方へと帰って行った。 午後の部は午前の初心者の方たちなどの発表とは違い、名取以上の雅名がある人の発表になる。名取とは大学でいえば大学院生や助手のようなイメージで師範は大学教授や准教授みたいなイメージになる。一番最後は家元である父で、その前に次期家元である兄、その前が私だ。「失礼致します。もうすぐ時間が来るので衣装の準備をお願いします」
最初はメイクさんにメイクを施され、藤娘で使うかつらに赤角櫛をつけると衣装の着付けをしてもらった。衣装は、黒地に藤の縫模様振袖にとき色地に藤の縫模様の振り帯をつけパパッと完成する。小道具の塗りの妻折傘を目深に被って藤の枝を肩にして舞台のある場所へと向かう。舞台では大道具さんが舞台の藤の大房をつけたりして準備をしてくださっていた。
完成するとアナウンスで私の紹介され、私は藤の枝を肩に乗せ舞台に上がる。準備が整ったところで舞台の照明が消えて真っ暗になり閉じていた幕が上がった。長唄が始まり一節が切れたところで照明の光がついて明るくなる。明かりがついた瞬間、大きな松の木に絡んだ大きな藤の花が咲き誇り私が立っているという図となる。
傘を被ったまま一度舞い、松の影に姿を隠して今度は傘を手に持って藤の花をかき分けて姿を現す。 そしてまた松に隠れて今度は傘は持たず衣装を変えてから登場し藤音頭を披露する。音頭が終わり一旦松の影に隠れると両袖を脱いだ状態で踊り地を見せれば、やがて鐘の音が鳴り日が暮れが訪れて再び藤の枝を肩に乗せて惜しみながらも美しい立ち姿で終わり幕が閉じた。 二十分という長い時間だが踊っているとあっという間で終わり舞台から降りた。 降りてまっすぐ控え室に戻る。いつもそうだが脱力感が半端なくてこんなんじゃダメだよなと思いながら、衣装を脱ぎメイクも落としかつらも取った。 いつもの着物へと変えてダラダラと過ごしていると、時間は結構経っていて兄が迎えにきた。 「お疲れさん、百合乃。いつもの如くダラけてる」 「はぁ……兄様はとてもお元気ね。相変わらず体力バカ」 「はは、まぁな。車を呼んだから準備して、寝るのは後だよ」 車もう来てるのか……早いなぁと思いながら帰り支度をしてお兄様と待機しているという車に向かって乗ると揺れが心地よくて眠ってしまった。次に目が覚めた時には家に到着していて、なぜか自室にいて外はもうすでに真っ暗だった。
私には、『鳳翠』として指導をしているので毎日ではないが稽古日がある。一週間の中で月曜水曜木曜がキッズ教室で、初心者向け教室は火曜金曜土曜とあり門下生は週何回とかは決まっていないが大体が金曜土曜日曜だ。だからほとんどが休みがないように見えるが、キッズも初心者も夕方からなので午前中は休むことができる。 稽古室があるのは千曲流日本舞踊会館の中に三つ棟があってその中の一つで行われる。師範室から移動して稽古室の一つの部屋に向かった。 「――では、お辞儀から始めましょう」 今日は、初心者向け教室の日。初心者教室はいくつかクラスがあり私が担当しているのは趣味としてやっている方々で十人ほどのクラスだ。着物の着付けもあるし礼儀作法も学べるため、人気がある教室で教室が始まってすぐは基本のお辞儀の復習からだ。 日本舞踊の稽古は“礼にはじまり礼に終わる”。基本中の基本であり、踊り中でもお辞儀をすることがあるため大切になる。 扇子を膝の前に置き、背筋を伸ばし肩甲骨をつけ肩を下ろし力を入れず顎を引く。ゆっくりと前に手をつき、一旦止めて挨拶をしながら頭を下げる。その時は肘をなるべくつけて、肘を張りすぎず膝を囲うような形でお辞儀をした。そして、ゆっくりと頭を上げ肘を伸ばした形で止まり一呼吸ついてからゆっくり手を伸ばして最初の形に戻るとお辞儀が終わる。 このお扇子をおくという行為は、“自分と師匠の間に一線を引く”“謙虚な姿勢で踊りを習う”という心の表れと意味がある。たかがお辞儀一回二回と言われるがこのお辞儀が難しいし、今後ステップアップをしていく中で踊りをするときにつまづいてしまうこともあるから私は力を入れている。 お辞儀がある程度できるようになると、次にお扇子の扱い方を学ぶ。扇子は紙と骨と要、なまりで出来ているため上に投げてもなまりが入っているため要から降りてくるようになっている。 扇子は、胸の高さで持ち親骨を一つ開き平らに奥へと広げていく。握り込みで持った扇子を右膝につけ、左手を手前に立てて手のひらで前に閉める――それが扇子の開き方だ。 それからすり足と呼ばれる基本の足の運びを説明をしながら実践してもらう。「姿勢を正しくして腰を入れてから正面へ足を滑らすように足の裏が地面から離れないようにして重心がぶれないように気をつけてね」 すり足が上手くできるようになったら、夏の
お見合い当日はとても朝から温かくて気持ちが良く、快晴だった。 そして大安という吉日だから縁起がいい。きっとこの縁談を持ってきたのではないかと思われるお祖母様がこの日を指定したと思う。 「綺麗ね、百合乃ちゃん」 「ありがとう、お祖母様」 早起きした私はパパッと支度をして美容院に送られた。そこで振袖を着て髪をセットされる。編み込みがされている緩い感じのシニヨンは自分ではできない髪型だ。 「……可愛いわね」 そう呟いたお母さんは振袖を見て懐かしむような表情をする。 美容師さんはすごいなぁと思いながら鏡を見ていれば、お父さんがノックをしてピョコっと顔を出した。「百合乃、そろそろ大丈夫か?」「うん、大丈夫だよ」「似合ってるな、母さんの若いときにそっくりだ」「……ありがとう、お父さん」 私は立ち上がると、お父さんとお祖母様と一緒に美容院の前に停めてある車に向かう。運転手がドアを開けてくれて乗り込む。 今日はお留守番らしいお母さんにここで見送られて車は出発した。 美容院からお見合いする場所である【高級寿司・風花(ふうか)】までは三十分かかる。都内から外れた小高い丘にある。 【高級寿司・風花】は、江戸時代から続くお寿司屋で戦前は旧華族や皇族も通う老舗であり、今でも富裕層の方々に人気の高級寿司店だ。それに、一度テレビで特集されたため予約も殺到していて三ヶ月待ちと聞いたことがあるけど……お金を注ぎ込んだのか、それともそれくらい前から話がでていたのか。 到着して車から降りると、そこには立派な門構えがあった。門を潜って玄関に到着すれば、高級旅館を思わせる都心の喧騒を感じさせないどこか神秘的な雰囲気が漂う。 玄関に入れば、仲居が綺麗なお辞儀で出迎えてくれた。「いらっしゃいませ、千曲様。お待ちしておりました」 ここは担当の仲居が付くらしく今日はこの人らしい。「私、ナガヤマと申します。よろしくお願いいたします。では、ご案内しますね」 お見合いをする場所は、奥らしいのでその途中骨董品らしきものが飾られていた。きっと父は価値とかが分かるんだろうなと思うが全くわからない。 個室の手前にあるお手洗いも教えてもらい奥へ進むと、そこには綺麗な華が飾られていた。 確かこれは木瓜とピンポンマムだった気がする。それに、郁斗さんの作風に似てる……?いつだったか、
郁斗さんとのお見合いから早いことで半年が経った。私はラグジュアリーホテルとして有名な唐橋リゾートグループの一つホテルKARAHASHlにある一室にいた。「とてもお似合いです、百合乃様」「ありがとうございます」 今日は私と郁斗さんの結婚式が行われる日だ。天気は快晴。いい天気だ。私たちの結婚式はチャペルではなく、お寺で行われる【仏前式】と呼ばれるものだ。 仏前式とは、仏様やご先祖様に結婚の挨拶をして二人巡り会えたご縁に感謝をする儀式であり一度結婚すると来世まで連れ添うという仏教の教えにのって新郎新婦が仏様の前で来世まで結びつきを誓う。そして、その中で【念珠授与】と呼ばれる儀式は結婚の祝いとして白房の数珠を新郎に赤房の数珠を新婦に僧侶が授けるといった特徴的なものがある。「郁斗様がいらっしゃいましたが、通してもよろしいでしょうか?」「はい。どうぞ」 そう言えばスタッフと共に黒紋付き羽織袴を着た郁斗さんが入ってきた。「百合ちゃん、綺麗だよ」「郁斗さん。ありがとうございます……郁斗さんもとても素敵です」 私の花嫁衣装は白無垢で錦織の正絹という天然の絹でできた高級感のある光沢を持ち手触りも滑らかな素材で色は完全の白ではなく少しクリーム色がかかった色味になっている。 柄には吉祥の象徴とされる“松竹梅”や長寿の象徴の“菊”に華やかな“牡丹”に“桜”、番になると一生添い遂げるという風習のある“鶴”や吉兆があるとされる“鳳凰”という金刺繍施されているものだ。 髪型は伝統的なヘアスタイルで頭の上の方で髷を結いいくつもの簪で飾る文金高島田というものだ。日本舞踊でもしたことのある髪型だが、やはり違う感じ……緊張しているからだろうか。化粧も昔ながらの|白粉《おしろい》を水で溶いたものを肌に乗せていく水化粧というものに赤い紅をさしたものだ。「何度も衣装でこんな感じのものを着ているのに、やっぱり違いますね。緊張もあるかもしれないですけど、とても気持ちが昂ってます」 「そうか。俺も和装は慣れていると思っていたのだが、なんだかくすぐったい。だけど、綺麗な百合ちゃんを見せたくはないな」 和装でも座りやすいソファに横並びで座ると、郁斗さんは私の手を握って「今はこれくらいしかできないからね」と指を絡ませた。 何を話すでもなく、そのままでいるとあっという間に時間になった
エレベーターで上に上がり、宿泊する部屋に到着する。さっきは気付かなかったけど、よく見たらとても豪華な部屋だった……というか、フロア貸切ってお金どれだけ使ってるんだろう。「百合ちゃん、座っていてお茶淹れるから」「え、それなら私がします」 この部屋は小さなキッチンがあってお湯が普通に沸かせる。「いいから、座ってて。あ、コーヒーとあるみたい。煎茶と紅茶とコーヒー何がいい?」「そうですね、郁斗さんは何飲みますか?」「俺は今日はコーヒーにしようかなって。少し暑いしアイスを作ろうかなって」「じゃあ、私もコーヒーがいいです」 郁斗さんは「了解」と言ってお湯を沸かし始めた。チラッとそちらを見ればインスタントだと思ったが、ドリッパーにフィルターをセットしていた。「郁斗さん、本格的ですね」「うん。コーヒーがあるの知ってて、ホテル側にドリッパーを準備してもらっていたんだよ」「え、そうなんですか?」 話をしているとお湯が沸いていて、それを止めると彼はドリップポットにお湯を注いだ。「いつもコーヒーはこうやって淹れてるんですか?」「いや、仕事が休みの時だけかな。あとは朝に余裕があれば」「そうなんですね」 コーヒーのドリップが終わり、マグカップにコーヒーが注がれる。それをソファのあるテーブルへと運んでくれた。「……ありがとうございます、いただきます」 「どうぞ、召し上がれ」 湯気が立つマグカップに口をつけ一口飲む。コーヒーの香りと共にフルーティーで爽やかな味が口いっぱいに広がる。「……美味しい、郁斗さん、美味しいです」「良かった。誰かに淹れるのは初めてだったから喜んでもらえてよかったよ」「こんなに美味しいのに……なんだか特別って感じがして嬉しいです」「俺の奥さんなんだから特別だよ」 郁斗さんはそう言いながらコーヒーを飲んでそろそろディナーの予約時間が迫っているからと私に告げる。 私もコーヒーを飲み終わると、ディナーに行くために彼が用意していたレースのバックリボンが可愛いらしい背中開きのワンピースに着替えをした。 準備が終わった郁斗さんと一緒に部屋を出ると、エスコートをされながら最上階の都内が見渡せる夜景の綺麗なレストランへ向かった。ウェイターさんに案内されて個室に入った。 個室は二人の空間になっており、ラグジュアリーな雰囲気もあり緊張し
すやすやと寝息を立てて眠っている彼女はいつもの綺麗で凛々しい表情ではなく、可愛らしい寝顔をしている。思わず髪に触れて撫でてみると、くすぐったかったのか体を歪ませた。その姿が小動物のようで可愛らしい。 ――やっとだ。やっと、彼女が俺の手の中に出来た。 彼女と出会ったのは、俺が高校生で彼女は中学生の頃。 場所は、月森(うち)の家元が使うことが許される稽古室だった。俺は、いつもの日課のように当時の家元である祖母と稽古をしていた。 「郁斗、今日はね千曲家のお嬢様方が来るわよ」 「……千曲家? お祖母様のお友達の?」 「そうよ。妃菜ちゃんと百合ちゃんって言ってね、ずっと頼(らい)の元で稽古していたのだけど私のとこでお稽古してもらうことになったのよ」 頼というのは、お祖母様が1番信頼している師範だ。なのに頼から祖母に来るなんてよっぽど優秀なんだろう。それに、その二人のどちらかと婚約するんだろうと軽く思っていた。 「初めまして。千曲妃菜乃です」 「……はじめまして、千曲百合乃です。よろしくお願いします」 二人はとても似ており、とても瓜二つ。まるで双子のような顔をしていたが、性格は正反対だった。 妃菜乃ちゃんは、俺と同い年で明るく年相応の女の子。昔からかっこいいと持て囃されていたこの顔を見てうっとりとしてその辺の女のような反応を見せた。だが、百合乃ちゃんは大人しくお淑やかな箱入り娘という感じでとても可愛らしかった。 この日はあまり話せずに終わってしまったのだが、その後も稽古で一緒になることがあったが話は出来ずにいた。そんなある時、祖母に誘われて千曲流日本舞踊発表会へと見にいくことになった。 日本舞踊をみるのは初めてだったけど、あの姉妹が出るのだと聞いてとてもワクワクしていた。 二人は家元の娘ということで演目の最後の方だった。 最初に出てきたのは姉の妃菜乃ちゃんの方だ。歌とかはよく分からないのだが、彼女はとても完璧だった。周りの観客もさすがだとか家元の娘だものねだとか言っていて完璧の踊りなのだと理解する。 妃菜乃ちゃんが踊り終われば、舞台は真っ暗になりアナウンスがかかり唄が聞こえだす。そして、一気に舞台が明るくなった。 そこには、美しい天女がいた。 確か妃菜乃と同じ演目だったはずなのに全く違う。全ての動きが洗礼されていて、覚
朝、温かい朝の空気を感じ目が覚める。ふと時計を見ると、もう九時だった。いつもより一時間以上遅い朝だ。 「あ、百合ちゃん。おはよう、起こしちゃった?」 「いえ、そんなことはないです。起きるの遅くてすみません」 郁斗さんは、もう服を着ていて朝から完璧に出来上がっていた。だから私も準備をしなくてはと思い、起き上がろうとすると少し身体がだるさを感じる。 「百合ちゃん、体は大丈夫?」 「は、はい……少しだるいですけど、大丈夫です」 彼と目線を合わせるのが恥ずかしくて目を逸らす。昨夜のことを思い出してしまいそうで、顔が熱くなる。 「モーニングはルームサービスを頼んでいるんだけど、いつがいいかな?」 「私はいつでも大丈夫です。あ、でも着替えはしたいです」 「じゃあ、十時くらいがいいかな。俺は朝食を頼むから、百合ちゃんは着替えておいで」 私は頷いて彼がここから離れるのを見送り、ベッドの近くに置いてある下着の回収をするために足を床に付けて立ちあがろうとした時、ふらっとバランスを崩しそうになる。すると爽やかなフローラルで甘い上品な香りに包まれる。これは……ネロリの香りかな。 「……っと、大丈夫?」 「ありがとうございますっ、ご迷惑を」 体力はある方だと思っていたのに、こんな腰が抜けちゃうみたいになるなんて。世の夫婦ってすごい。 「昨日は少し浮かれてやりすぎてしまったと反省してるんだ……着替えはカバンにあるんじゃないかと思ってもってきたよ」 「えっ、ありがとうございます。すみません」 私はお礼を言い、カバンを受け取ると鞄の中の上の方に入れていたワンピースを取り出した。 下着を付けてワンピースを着た。パッと着られるワンピースにしておいてよかったと心の底から思いながら着替えをした。 「百合ちゃん、ルームサービスは頼んだからそれまでゆっくりしよう」 そう言って郁斗さんがテレビの電源をつけると、そこに映っていたのはまさかの私たちだ。 昨日の会見と共に私たちの紹介がされている。 こんなに詳しくやらなくても……と思うが、有名な郁斗さんが結婚だもの特集するよね。相手が私で世間が私に対してがっかりしてないといいんだけど。 「どこもかしこも俺たちだね、今日は日曜日だから特集組まれる覚悟はしていたけど」 そう、今日は
新居から走ること三十分ほどの所に月森家の本家がある。 月森家のお屋敷は、何回か改築されているが築132年ほどで明治十年ごろに建てられた日本家屋だ。本邸と別邸が存在しており、お稽古したりする和室や初生け式などの行事を行う大広間があるのが本邸で、別邸が家元一族が暮らしている家だ。今から向かうのは、別邸である。 「さぁ、百合ちゃん。行こうか」 郁斗さんにエスコートされながら、私は結婚して初めて月森家の門を潜った。玄関を彼が開けると、見覚えのある家政婦さんが出迎えてくださった。 「おかえりなさいませ。郁斗様、百合乃様」 「ただいま帰りました」 確か、名前はアキさんだ。 「アキさん、ありがとうございます。これから末長くよろしくお願いします」 「名前覚えていてくださったんですね、光栄です。これからは、一家政婦としてよろしくお願いします。大奥様方は居間でお待ちしています」 玄関で履き物を脱ぐと、玄関を上がりリビングのような場所に案内される。 ずっとこのお屋敷には出入りしていたがこの居間には、初めて入るのでなんだか緊張する。 「緊張しなくても大丈夫だよ。百合ちゃんは元から両親とも祖母とも仲がいいんだから」 「そうなんですけど……違うというか」 アキさんに案内され、居間の襖を開けるとそこは和室と洋室がいい感じに合わさったお部屋だった。 「いらっしゃい、百合乃さん。結婚式ぶりだね」 「はい。サクラお祖母様、式ではありがとうございました」 入ってすぐ近くにサクラお祖母様がいたので挨拶をすると、奥からひょこっとお義母様とお義父様、義弟の(綾斗《あやと)さんがいた。 「いらっしゃい、百合乃さん。式にはいけなくてごめんね」 綾斗さんは月森家の次男だけれど、華道はしていない。小さい頃はお稽古もやっていたらしいが、自分は仕事にできそうにないとバッサリと大学生の頃にやめた彼は今は普通に会社員をしていると聞いている。 「いえ、お祝いの品もくださって嬉しかったです」 「良かった。たってないで座って。兄さんもこっちに座ってよ」 「ありがとう、百合ちゃんも座ろうか」 綾斗さんと郁斗さんに促されて皆が座る場所に一緒に座れば、アキさんがお茶と和菓子を出してくださった。 「ありがとうございます、アキさん」 「……いえ。ごゆっくり
「んー? 本当にこれでいいのか……」 私は今、レシピノートと鍋に入っているじゃがいもとお肉を睨めっこをしている。 「これを煮込むと、本当にできるんだろうか……肉じゃが。蓋をしたほうがいいのかな?」 レシピ本を見てこれなら料理初心者でもできるのではないかと思った私は、今日は午前中のみの仕事だったのでスーパーで材料を買ってきていた。 野菜たちを学校の家庭科で習ったのを思い出しながら切っていき、糸蒟蒻も茹でてみる。 下準備は万端にして現在夕方。この『サッと炒める』ってどういう意味だろう?これ、じゃがいもに火が通っているのか、どうなっているのか全くわからない。 「……どうしたんだ?」 「ちょっとよくわからなくて――って、え!? ふ、郁斗さん! いつ、お帰りに……っ」「もう十分くらい前かな。一生懸命作っている様子だったし、声を掛けなかったんだけど困ってるようだったからさ」 「全く気づきませんでした。ごめんなさい、少しはお役に立ちたくて夕食を作ろうとしたんですけど全然で」 郁斗さんが帰ってきたことも気づかなかったなんて、ダメダメじゃないか。 「それは肉じゃが、かな。うん、ちょっと任せてもらってもいい?」 「え、はい。大丈夫です」 私はポジションを変わると、郁斗さんは慣れた手つきで鍋に入れていたじゃがいもとにんじんに玉ねぎを違うお皿に分けて一つ一つ取り出した。そして、順番に電子レンジに入れてスタートを押す。 「まだ、出汁とか入れてない?」 「はい。まだ調味料も入れてないです」 「わかった。まず、野菜このまま煮ると柔らかくなるまでに時間がかかるから電子レンジである程度熱通しておいたほうがいい。大体、二分か多くて三分」「そうなんですね……」「あとで煮込むから、じゃがいもは煮崩れしない程度で竹串が少し入る方がいい」 慣れた手つきで、電子レンジと同時進行でまだ加熱していなかった牛肉をさっきの鍋で炒めると違うお皿に移す。 そのまま、鍋にお酒とだし汁を入れて火が通った野菜たちを鍋に入れた。 「とても慣れてるんですね、料理……プロみたい」 「まぁ、一人暮らしも長かったからね。ツアー中は外食じゃなくて小さなキッチンがついた部屋で作ったりしていたから。何度か作れば出来るようになるし、料理は好きなんだ」 「そうなんで
「んー? 本当にこれでいいのか……」 私は今、レシピノートと鍋に入っているじゃがいもとお肉を睨めっこをしている。 「これを煮込むと、本当にできるんだろうか……肉じゃが。蓋をしたほうがいいのかな?」 レシピ本を見てこれなら料理初心者でもできるのではないかと思った私は、今日は午前中のみの仕事だったのでスーパーで材料を買ってきていた。 野菜たちを学校の家庭科で習ったのを思い出しながら切っていき、糸蒟蒻も茹でてみる。 下準備は万端にして現在夕方。この『サッと炒める』ってどういう意味だろう?これ、じゃがいもに火が通っているのか、どうなっているのか全くわからない。 「……どうしたんだ?」 「ちょっとよくわからなくて――って、え!? ふ、郁斗さん! いつ、お帰りに……っ」「もう十分くらい前かな。一生懸命作っている様子だったし、声を掛けなかったんだけど困ってるようだったからさ」 「全く気づきませんでした。ごめんなさい、少しはお役に立ちたくて夕食を作ろうとしたんですけど全然で」 郁斗さんが帰ってきたことも気づかなかったなんて、ダメダメじゃないか。 「それは肉じゃが、かな。うん、ちょっと任せてもらってもいい?」 「え、はい。大丈夫です」 私はポジションを変わると、郁斗さんは慣れた手つきで鍋に入れていたじゃがいもとにんじんに玉ねぎを違うお皿に分けて一つ一つ取り出した。そして、順番に電子レンジに入れてスタートを押す。 「まだ、出汁とか入れてない?」 「はい。まだ調味料も入れてないです」 「わかった。まず、野菜このまま煮ると柔らかくなるまでに時間がかかるから電子レンジである程度熱通しておいたほうがいい。大体、二分か多くて三分」「そうなんですね……」「あとで煮込むから、じゃがいもは煮崩れしない程度で竹串が少し入る方がいい」 慣れた手つきで、電子レンジと同時進行でまだ加熱していなかった牛肉をさっきの鍋で炒めると違うお皿に移す。 そのまま、鍋にお酒とだし汁を入れて火が通った野菜たちを鍋に入れた。 「とても慣れてるんですね、料理……プロみたい」 「まぁ、一人暮らしも長かったからね。ツアー中は外食じゃなくて小さなキッチンがついた部屋で作ったりしていたから。何度か作れば出来るようになるし、料理は好きなんだ」 「そうなんで
新居から走ること三十分ほどの所に月森家の本家がある。 月森家のお屋敷は、何回か改築されているが築132年ほどで明治十年ごろに建てられた日本家屋だ。本邸と別邸が存在しており、お稽古したりする和室や初生け式などの行事を行う大広間があるのが本邸で、別邸が家元一族が暮らしている家だ。今から向かうのは、別邸である。 「さぁ、百合ちゃん。行こうか」 郁斗さんにエスコートされながら、私は結婚して初めて月森家の門を潜った。玄関を彼が開けると、見覚えのある家政婦さんが出迎えてくださった。 「おかえりなさいませ。郁斗様、百合乃様」 「ただいま帰りました」 確か、名前はアキさんだ。 「アキさん、ありがとうございます。これから末長くよろしくお願いします」 「名前覚えていてくださったんですね、光栄です。これからは、一家政婦としてよろしくお願いします。大奥様方は居間でお待ちしています」 玄関で履き物を脱ぐと、玄関を上がりリビングのような場所に案内される。 ずっとこのお屋敷には出入りしていたがこの居間には、初めて入るのでなんだか緊張する。 「緊張しなくても大丈夫だよ。百合ちゃんは元から両親とも祖母とも仲がいいんだから」 「そうなんですけど……違うというか」 アキさんに案内され、居間の襖を開けるとそこは和室と洋室がいい感じに合わさったお部屋だった。 「いらっしゃい、百合乃さん。結婚式ぶりだね」 「はい。サクラお祖母様、式ではありがとうございました」 入ってすぐ近くにサクラお祖母様がいたので挨拶をすると、奥からひょこっとお義母様とお義父様、義弟の(綾斗《あやと)さんがいた。 「いらっしゃい、百合乃さん。式にはいけなくてごめんね」 綾斗さんは月森家の次男だけれど、華道はしていない。小さい頃はお稽古もやっていたらしいが、自分は仕事にできそうにないとバッサリと大学生の頃にやめた彼は今は普通に会社員をしていると聞いている。 「いえ、お祝いの品もくださって嬉しかったです」 「良かった。たってないで座って。兄さんもこっちに座ってよ」 「ありがとう、百合ちゃんも座ろうか」 綾斗さんと郁斗さんに促されて皆が座る場所に一緒に座れば、アキさんがお茶と和菓子を出してくださった。 「ありがとうございます、アキさん」 「……いえ。ごゆっくり
朝、温かい朝の空気を感じ目が覚める。ふと時計を見ると、もう九時だった。いつもより一時間以上遅い朝だ。 「あ、百合ちゃん。おはよう、起こしちゃった?」 「いえ、そんなことはないです。起きるの遅くてすみません」 郁斗さんは、もう服を着ていて朝から完璧に出来上がっていた。だから私も準備をしなくてはと思い、起き上がろうとすると少し身体がだるさを感じる。 「百合ちゃん、体は大丈夫?」 「は、はい……少しだるいですけど、大丈夫です」 彼と目線を合わせるのが恥ずかしくて目を逸らす。昨夜のことを思い出してしまいそうで、顔が熱くなる。 「モーニングはルームサービスを頼んでいるんだけど、いつがいいかな?」 「私はいつでも大丈夫です。あ、でも着替えはしたいです」 「じゃあ、十時くらいがいいかな。俺は朝食を頼むから、百合ちゃんは着替えておいで」 私は頷いて彼がここから離れるのを見送り、ベッドの近くに置いてある下着の回収をするために足を床に付けて立ちあがろうとした時、ふらっとバランスを崩しそうになる。すると爽やかなフローラルで甘い上品な香りに包まれる。これは……ネロリの香りかな。 「……っと、大丈夫?」 「ありがとうございますっ、ご迷惑を」 体力はある方だと思っていたのに、こんな腰が抜けちゃうみたいになるなんて。世の夫婦ってすごい。 「昨日は少し浮かれてやりすぎてしまったと反省してるんだ……着替えはカバンにあるんじゃないかと思ってもってきたよ」 「えっ、ありがとうございます。すみません」 私はお礼を言い、カバンを受け取ると鞄の中の上の方に入れていたワンピースを取り出した。 下着を付けてワンピースを着た。パッと着られるワンピースにしておいてよかったと心の底から思いながら着替えをした。 「百合ちゃん、ルームサービスは頼んだからそれまでゆっくりしよう」 そう言って郁斗さんがテレビの電源をつけると、そこに映っていたのはまさかの私たちだ。 昨日の会見と共に私たちの紹介がされている。 こんなに詳しくやらなくても……と思うが、有名な郁斗さんが結婚だもの特集するよね。相手が私で世間が私に対してがっかりしてないといいんだけど。 「どこもかしこも俺たちだね、今日は日曜日だから特集組まれる覚悟はしていたけど」 そう、今日は
すやすやと寝息を立てて眠っている彼女はいつもの綺麗で凛々しい表情ではなく、可愛らしい寝顔をしている。思わず髪に触れて撫でてみると、くすぐったかったのか体を歪ませた。その姿が小動物のようで可愛らしい。 ――やっとだ。やっと、彼女が俺の手の中に出来た。 彼女と出会ったのは、俺が高校生で彼女は中学生の頃。 場所は、月森(うち)の家元が使うことが許される稽古室だった。俺は、いつもの日課のように当時の家元である祖母と稽古をしていた。 「郁斗、今日はね千曲家のお嬢様方が来るわよ」 「……千曲家? お祖母様のお友達の?」 「そうよ。妃菜ちゃんと百合ちゃんって言ってね、ずっと頼(らい)の元で稽古していたのだけど私のとこでお稽古してもらうことになったのよ」 頼というのは、お祖母様が1番信頼している師範だ。なのに頼から祖母に来るなんてよっぽど優秀なんだろう。それに、その二人のどちらかと婚約するんだろうと軽く思っていた。 「初めまして。千曲妃菜乃です」 「……はじめまして、千曲百合乃です。よろしくお願いします」 二人はとても似ており、とても瓜二つ。まるで双子のような顔をしていたが、性格は正反対だった。 妃菜乃ちゃんは、俺と同い年で明るく年相応の女の子。昔からかっこいいと持て囃されていたこの顔を見てうっとりとしてその辺の女のような反応を見せた。だが、百合乃ちゃんは大人しくお淑やかな箱入り娘という感じでとても可愛らしかった。 この日はあまり話せずに終わってしまったのだが、その後も稽古で一緒になることがあったが話は出来ずにいた。そんなある時、祖母に誘われて千曲流日本舞踊発表会へと見にいくことになった。 日本舞踊をみるのは初めてだったけど、あの姉妹が出るのだと聞いてとてもワクワクしていた。 二人は家元の娘ということで演目の最後の方だった。 最初に出てきたのは姉の妃菜乃ちゃんの方だ。歌とかはよく分からないのだが、彼女はとても完璧だった。周りの観客もさすがだとか家元の娘だものねだとか言っていて完璧の踊りなのだと理解する。 妃菜乃ちゃんが踊り終われば、舞台は真っ暗になりアナウンスがかかり唄が聞こえだす。そして、一気に舞台が明るくなった。 そこには、美しい天女がいた。 確か妃菜乃と同じ演目だったはずなのに全く違う。全ての動きが洗礼されていて、覚
エレベーターで上に上がり、宿泊する部屋に到着する。さっきは気付かなかったけど、よく見たらとても豪華な部屋だった……というか、フロア貸切ってお金どれだけ使ってるんだろう。「百合ちゃん、座っていてお茶淹れるから」「え、それなら私がします」 この部屋は小さなキッチンがあってお湯が普通に沸かせる。「いいから、座ってて。あ、コーヒーとあるみたい。煎茶と紅茶とコーヒー何がいい?」「そうですね、郁斗さんは何飲みますか?」「俺は今日はコーヒーにしようかなって。少し暑いしアイスを作ろうかなって」「じゃあ、私もコーヒーがいいです」 郁斗さんは「了解」と言ってお湯を沸かし始めた。チラッとそちらを見ればインスタントだと思ったが、ドリッパーにフィルターをセットしていた。「郁斗さん、本格的ですね」「うん。コーヒーがあるの知ってて、ホテル側にドリッパーを準備してもらっていたんだよ」「え、そうなんですか?」 話をしているとお湯が沸いていて、それを止めると彼はドリップポットにお湯を注いだ。「いつもコーヒーはこうやって淹れてるんですか?」「いや、仕事が休みの時だけかな。あとは朝に余裕があれば」「そうなんですね」 コーヒーのドリップが終わり、マグカップにコーヒーが注がれる。それをソファのあるテーブルへと運んでくれた。「……ありがとうございます、いただきます」 「どうぞ、召し上がれ」 湯気が立つマグカップに口をつけ一口飲む。コーヒーの香りと共にフルーティーで爽やかな味が口いっぱいに広がる。「……美味しい、郁斗さん、美味しいです」「良かった。誰かに淹れるのは初めてだったから喜んでもらえてよかったよ」「こんなに美味しいのに……なんだか特別って感じがして嬉しいです」「俺の奥さんなんだから特別だよ」 郁斗さんはそう言いながらコーヒーを飲んでそろそろディナーの予約時間が迫っているからと私に告げる。 私もコーヒーを飲み終わると、ディナーに行くために彼が用意していたレースのバックリボンが可愛いらしい背中開きのワンピースに着替えをした。 準備が終わった郁斗さんと一緒に部屋を出ると、エスコートをされながら最上階の都内が見渡せる夜景の綺麗なレストランへ向かった。ウェイターさんに案内されて個室に入った。 個室は二人の空間になっており、ラグジュアリーな雰囲気もあり緊張し
郁斗さんとのお見合いから早いことで半年が経った。私はラグジュアリーホテルとして有名な唐橋リゾートグループの一つホテルKARAHASHlにある一室にいた。「とてもお似合いです、百合乃様」「ありがとうございます」 今日は私と郁斗さんの結婚式が行われる日だ。天気は快晴。いい天気だ。私たちの結婚式はチャペルではなく、お寺で行われる【仏前式】と呼ばれるものだ。 仏前式とは、仏様やご先祖様に結婚の挨拶をして二人巡り会えたご縁に感謝をする儀式であり一度結婚すると来世まで連れ添うという仏教の教えにのって新郎新婦が仏様の前で来世まで結びつきを誓う。そして、その中で【念珠授与】と呼ばれる儀式は結婚の祝いとして白房の数珠を新郎に赤房の数珠を新婦に僧侶が授けるといった特徴的なものがある。「郁斗様がいらっしゃいましたが、通してもよろしいでしょうか?」「はい。どうぞ」 そう言えばスタッフと共に黒紋付き羽織袴を着た郁斗さんが入ってきた。「百合ちゃん、綺麗だよ」「郁斗さん。ありがとうございます……郁斗さんもとても素敵です」 私の花嫁衣装は白無垢で錦織の正絹という天然の絹でできた高級感のある光沢を持ち手触りも滑らかな素材で色は完全の白ではなく少しクリーム色がかかった色味になっている。 柄には吉祥の象徴とされる“松竹梅”や長寿の象徴の“菊”に華やかな“牡丹”に“桜”、番になると一生添い遂げるという風習のある“鶴”や吉兆があるとされる“鳳凰”という金刺繍施されているものだ。 髪型は伝統的なヘアスタイルで頭の上の方で髷を結いいくつもの簪で飾る文金高島田というものだ。日本舞踊でもしたことのある髪型だが、やはり違う感じ……緊張しているからだろうか。化粧も昔ながらの|白粉《おしろい》を水で溶いたものを肌に乗せていく水化粧というものに赤い紅をさしたものだ。「何度も衣装でこんな感じのものを着ているのに、やっぱり違いますね。緊張もあるかもしれないですけど、とても気持ちが昂ってます」 「そうか。俺も和装は慣れていると思っていたのだが、なんだかくすぐったい。だけど、綺麗な百合ちゃんを見せたくはないな」 和装でも座りやすいソファに横並びで座ると、郁斗さんは私の手を握って「今はこれくらいしかできないからね」と指を絡ませた。 何を話すでもなく、そのままでいるとあっという間に時間になった
お見合い当日はとても朝から温かくて気持ちが良く、快晴だった。 そして大安という吉日だから縁起がいい。きっとこの縁談を持ってきたのではないかと思われるお祖母様がこの日を指定したと思う。 「綺麗ね、百合乃ちゃん」 「ありがとう、お祖母様」 早起きした私はパパッと支度をして美容院に送られた。そこで振袖を着て髪をセットされる。編み込みがされている緩い感じのシニヨンは自分ではできない髪型だ。 「……可愛いわね」 そう呟いたお母さんは振袖を見て懐かしむような表情をする。 美容師さんはすごいなぁと思いながら鏡を見ていれば、お父さんがノックをしてピョコっと顔を出した。「百合乃、そろそろ大丈夫か?」「うん、大丈夫だよ」「似合ってるな、母さんの若いときにそっくりだ」「……ありがとう、お父さん」 私は立ち上がると、お父さんとお祖母様と一緒に美容院の前に停めてある車に向かう。運転手がドアを開けてくれて乗り込む。 今日はお留守番らしいお母さんにここで見送られて車は出発した。 美容院からお見合いする場所である【高級寿司・風花(ふうか)】までは三十分かかる。都内から外れた小高い丘にある。 【高級寿司・風花】は、江戸時代から続くお寿司屋で戦前は旧華族や皇族も通う老舗であり、今でも富裕層の方々に人気の高級寿司店だ。それに、一度テレビで特集されたため予約も殺到していて三ヶ月待ちと聞いたことがあるけど……お金を注ぎ込んだのか、それともそれくらい前から話がでていたのか。 到着して車から降りると、そこには立派な門構えがあった。門を潜って玄関に到着すれば、高級旅館を思わせる都心の喧騒を感じさせないどこか神秘的な雰囲気が漂う。 玄関に入れば、仲居が綺麗なお辞儀で出迎えてくれた。「いらっしゃいませ、千曲様。お待ちしておりました」 ここは担当の仲居が付くらしく今日はこの人らしい。「私、ナガヤマと申します。よろしくお願いいたします。では、ご案内しますね」 お見合いをする場所は、奥らしいのでその途中骨董品らしきものが飾られていた。きっと父は価値とかが分かるんだろうなと思うが全くわからない。 個室の手前にあるお手洗いも教えてもらい奥へ進むと、そこには綺麗な華が飾られていた。 確かこれは木瓜とピンポンマムだった気がする。それに、郁斗さんの作風に似てる……?いつだったか、
私には、『鳳翠』として指導をしているので毎日ではないが稽古日がある。一週間の中で月曜水曜木曜がキッズ教室で、初心者向け教室は火曜金曜土曜とあり門下生は週何回とかは決まっていないが大体が金曜土曜日曜だ。だからほとんどが休みがないように見えるが、キッズも初心者も夕方からなので午前中は休むことができる。 稽古室があるのは千曲流日本舞踊会館の中に三つ棟があってその中の一つで行われる。師範室から移動して稽古室の一つの部屋に向かった。 「――では、お辞儀から始めましょう」 今日は、初心者向け教室の日。初心者教室はいくつかクラスがあり私が担当しているのは趣味としてやっている方々で十人ほどのクラスだ。着物の着付けもあるし礼儀作法も学べるため、人気がある教室で教室が始まってすぐは基本のお辞儀の復習からだ。 日本舞踊の稽古は“礼にはじまり礼に終わる”。基本中の基本であり、踊り中でもお辞儀をすることがあるため大切になる。 扇子を膝の前に置き、背筋を伸ばし肩甲骨をつけ肩を下ろし力を入れず顎を引く。ゆっくりと前に手をつき、一旦止めて挨拶をしながら頭を下げる。その時は肘をなるべくつけて、肘を張りすぎず膝を囲うような形でお辞儀をした。そして、ゆっくりと頭を上げ肘を伸ばした形で止まり一呼吸ついてからゆっくり手を伸ばして最初の形に戻るとお辞儀が終わる。 このお扇子をおくという行為は、“自分と師匠の間に一線を引く”“謙虚な姿勢で踊りを習う”という心の表れと意味がある。たかがお辞儀一回二回と言われるがこのお辞儀が難しいし、今後ステップアップをしていく中で踊りをするときにつまづいてしまうこともあるから私は力を入れている。 お辞儀がある程度できるようになると、次にお扇子の扱い方を学ぶ。扇子は紙と骨と要、なまりで出来ているため上に投げてもなまりが入っているため要から降りてくるようになっている。 扇子は、胸の高さで持ち親骨を一つ開き平らに奥へと広げていく。握り込みで持った扇子を右膝につけ、左手を手前に立てて手のひらで前に閉める――それが扇子の開き方だ。 それからすり足と呼ばれる基本の足の運びを説明をしながら実践してもらう。「姿勢を正しくして腰を入れてから正面へ足を滑らすように足の裏が地面から離れないようにして重心がぶれないように気をつけてね」 すり足が上手くできるようになったら、夏の
稽古着であるお気に入りである芥子色の着物を来て帯を締める。建物内にある【お稽古室・桜】という稽古部屋に入ると荷物を置いた。「……よし、やるか」 スマホの音楽アプリに登録してある曲【藤娘】をタップしてスピーカー機能のある機械にセットすれば、いつもと同じ三味線の音が聞こえ『津の国の――』と唄が始まり踊り始めた。 この長唄である藤娘は、日本舞踊といえば藤娘(これ)!と言われるくらい有名な曲であり藤の花の精が娘の姿で現れて女心を踊る作品のこれは私の大好きな曲だ。 部屋のドアが勢いよく開く。踊り始めたばかりだが、音楽を停止させる。「百合乃、邪魔するよー」「……慶翠(けいすい)さま、返事してないです。言ってください」「どうせ言っても聞こえないだろ? それに慶翠とか他人行儀はやめろよ。お兄ちゃんだろ?」 私、千曲(ちくま)鳳翠(ほうすい)改め千曲百合乃(ゆりの)は千曲流日本舞踊家の家元の娘で私自身も師範代を持っている。日本舞踊家として門下生もいてキッズ教室と初心者教室も受け持っており指導も行っている。 そして急に現れた男性は千曲慶翠といい、同じ千曲流日本舞踊家で次期家元であり、実の兄だ。「ここは家じゃありませんので、ケジメです。割り切ることは大切ですよ」「堅いなぁ」「堅くて結構です。それよりも何か用事があったのでは?」「あ、そうそう。客だよ、客!」 お客様?私に? 私に尋ねて来るとは誰だろうと、入り口をみると男性が入ってきた。「久しぶりだね、百合ちゃん」「郁斗(ふみと)さん。お久しぶりです。今日は、どうしたんですか?」「仕事の打ち合わせだよ。次の公演でいけばなを担当するからね」 郁斗さんは、月森流華道家であり現在の家元で雅名を月森(つきもり)耀壱(よういち)という。祖母同士が友人で小さい頃から月森流華道を一緒に稽古させてもらっていたので幼なじみのような存在だ。 彼は昨年朝ドラの華道監修をしてからイケメン華道家家元として一躍有名となり雑誌や特集番組に出演依頼もたくさん来ているらしいし、SNSでは『国宝級イケメン華道家』とも言われているくらいに顔が整っているし、声も甘い蜂蜜のようで目が合うだけで好きになっちゃうくらいに麗しく綺麗な青年だ。「それに妃菜乃(ひなの)のお墓参りをしてきたから」「そうなんですね」 彼は懐かしむような、悲しそう