「コンコン」ドアの外で綾乃がノックを二回して、オフィスのドアを開けた。綾乃は純白のイブニングドレス姿で、気品と優雅さが際立っていた。腰まで届く黒髪が、しっとりとした雰囲気を醸し出していた。「涼様、オークションが始まるわ。行きましょう」綾乃を見た美香の表情が強張った。黒川家の奥様の座は、綾乃さえ邪魔をしなければとっくに奈津美のものだったはず。こんな大事なオークションに、黒川は滝川家の面子など全く考えず、綾乃を同伴するつもり。これは明らかな当てつけではないか。「美香さんですね。涼様からお話は伺っています。こちらは......」綾乃はやよいの、自分とよく似た装いを見て、軽く微笑んだ。滝川奈津美一人では足りず、もう一人用意したというわけか。でも何人来ても同じこと。所詮は代役に過ぎない。綾乃がやよいに注目するのを見て、美香は落ち着かない様子でやよいの手を引いた。「用件は済みましたので、これで失礼します」涼は綾乃を見て眉をひそめた。「まだ怪我が治っていないのに、どうして来たんだ?」「もちろんオークションに付き添うためですよ。今日がどれだけ大切な場だか分かっているもの。私が欠席するわけにはいかないでしょう?」綾乃は涼の傍らに寄り、言った。「もしかして......今日は他の人を誘ったのですか?」涼は黙った。確かに今日はドレスを奈津美に送らせた。だが、これは祖母の意向だった。自分の意志ではない。傍らで田中秘書が涼の耳元で囁いた。「社長、滝川さんは欠席だそうです......」欠席?滝川奈津美め、随分と図太くなったものだ。普段なら飛びつくような機会を、今になって意地を張るとは。綾乃は不機嫌そうに言った。「滝川さんを誘っていましたね。だから私に付き添いを頼んだのですか」涼は眉をひそめた。「奈津美が頼んだのか?」「滝川さんは本当に破談を望んでいるみたいですね。涼様、もう......彼女を無理に引き止めるのは止めましょう」以前なら、綾乃はこんなことを気にも留めなかった。でも最近、何となく不安を感じていた。奈津美が涼にとって、単なる代役以上の存在になりつつあるような気がした。もし涼が本当に奈津美を愛してしまったら、二度と奈津美を涼に近づけるわけにはいかな
「そうだよね、神崎市じゃ誰でも知ってるわ。滝川家と黒川家の婚約なんて、あの子が必死に取り入って漕ぎ着けたものでしょう。彼女、本当に自分を何様だと思ってるの?涼なら、婚約を破棄しても翌日には新しいお相手が見つかるでしょうけど、あの子はどうなるの?もう神崎市で誰も相手にしないんじゃないかしら」......会場の外で数人の令夫人たちが、遠くにいる奈津美を露骨に嘲笑していた。奈津美は到着してから7、8分が経過しており、涼と綾乃より少し早く会場に着いていた。本来ならもう会場に入る時間だったが、あの意地悪な礼二が外で待たせているのだ。まるで前世で何か悪いことをしたかのように、この厄介な男に絡まれてしまった。礼二と涼はどちらも厄介な存在だと理解した。だからこそ、この二人は前世でも今世でも死闘を繰り広げる運命なのだ。「滝川さん、もう涼を諦めたほうがいいよ。涼の側にはもう白石さんがいるんだから、ここまで追いかけてきても無駄じゃない?」「そうそう、数日前には偉そうに婚約破棄なんて言ってたくせに、今度は自ら追いかけてきた。残念ながら、代役は代役。涼には本命がいるから、もう振り向いてもらえないよ」「自業自得というしかないわ。やっと手に入れた黒川家の奥様の地位を手放すなんて、自分を鏡で見てみなさいよ。彼女が白石さんと比べられると思ってるの?」その時、一人の社交界の華やかな女性が奈津美の前に歩み寄り、皮肉な口調で言った。「滝川さん、この可愛い顔立ちを持っているんだから、若いうちに男性をどう扱うか学んだほうがいいわよ。さもないと、神崎市で誰もあなたを相手にしなくなるわ」その言葉に周囲から笑い声が上がった。結局は涼と婚約していた女性でありながら、大恥をかかせた奈津美。どんなに美しい容姿を持っていても、神崎市ではもう誰も彼女を求めない。その時、一台の黒いマイバッハが横に停まった。降りてきた人物は完璧なスーツ姿で、その冷たい表情を見た瞬間、人々の息が止まった。礼二は金縁の眼鏡を軽く押し上げながら、降りる際に先ほど噂話をしていた人々を一瞥し、そのまま奈津美を引き寄せた。「入口で待つように言ったはずだ」礼二の低く落ち着いた声には磁性があり、その何気ない一言で周囲の人々は驚きの目を見開いた。奈
綾乃が奈津美を弁護しようと急いだが、その言葉がかえって涼の怒りを煽る結果となった。好きだと?あの女は、ただの出世欲の塊じゃないか。以前は俺に取り入り、今度は望月という獲物を狙っている。最近奈津美が俺に媚びなくなった理由も分かったものだ。涼の眼差しは一層冷たさを増した。よくも騙してくれたな。「行くぞ」涼は二人を一瞥もせず、綾乃の腕を引いてオークション会場へ入った。一方、礼二は自然な様子で奈津美を腕に添わせ、冷ややかに言った。「今夜は俺のパートナーだ。私の指示に従え。分かったな?」「望月さん、ビジネスの世界の人間同士ですもの。今夜のパートナーを務めさせていただく以上、経費は社長持ちということで?」「君は俺のパートナーだ。恋人じゃない」奈津美は困ったような表情を作って言った。「でも涼さんは私にお金を使ってくださいましたわ。カリスマ性で、望月さんが涼さんに負けるわけないですよね?」「これは挑発かな?」「まさか......」「見事に挑発されたよ」「......」会場内では既に参加者全員が着席していた。今回のオークションには主にアシスタントが参加し、涼と礼二という二人の大物だけが直接出席していた。何が起きているのか周りには分からなかったが、会場内は普段とは違う緊張感に包まれていた。涼と礼二の前で誰も値をつける勇気がなかった。「涼様、滝川さんと望月さんの関係、ただごとじゃないみたいね......」綾乃は涼の表情を窺った。主催者の意図的な配置なのか、礼二と奈津美は彼らの真向かいの席に座っていた。顔を上げれば互いの姿が見える位置関係だった。涼は向かいの二人が楽しそうに会話を交わすのを見て、さらに危険な口調で言った。「奈津美......よくやってくれる」最初は綾乃の真似をして俺に取り入り、次に祖母の前で良い子を演じ、破談を口にしながらも何度も祖母に取り入り、今度は礼二に取り入って、さらに継母に謝罪させる。俺を愚弄しているつもりか。奈津美は背筋に冷たい視線を感じていた。礼二が言った。「黒川が君と俺が一緒にいるのを見て、どんな気持ちだと思う?」「どんな気持ちもないでしょう」奈津美は無関心そうに答えた。「涼さんが愛していらっしゃるのは綾乃です
特に涼は冷ややかに嘲笑した。こんな手で自分の注意を引こうとするなんて、安っぽすぎる。「40億」涼は静かにその言葉を吐き出した。奈津美ごときが、自分に勝てるとでも?「50億」「60億!」値段が徐々に法外になり、綾乃は眉をひそめて言った。「涼様、この土地にそんな価値はないわ」涼も眉をひそめた。田中秘書が傍らで小声で言った。「社長、もう予定価格を超えています」それを聞いて、涼は冷笑した。奈津美には金などないはず。こんな値段をつけるのは、ただ自分に対抗したいだけだ。いい、少し損をしても今日は奈津美に教訓を与えてやる。涼は冷たい声で言った。「70億だ」礼二は涼の強気な態度に満足げだった。データによると、涼はすでに10億の赤字になっている。まさか奈津美がこんな手を使って涼を罠にはめるとは思わなかった。これまで奈津美を見くびっていたようだ。礼二が奈津美に引き下がるよう言おうとした時、隣の奈津美が突然パドルを上げた。「100億です!」100億という数字が飛び出した時、会場は騒然となった。何が100億なのか?どうして100億になったのか?奈津美の一言にオークショニアも呆気にとられた。オークショニアは自分の耳を疑った。南部郊外地区の3万平方メートルの土地は、価値は20億円程度のはず。さっきまで70億ぐらいだったのに、どうして突然100億になったのか?「奈津美は気が狂ったのか?」涼の表情が険しくなった。郊外の価値の低い土地に、100億などと言い出すとは。誰に後ろ盾でもついているのか。「社長、もう入札はできません。これ以上は損失が大きすぎます!」田中秘書も焦り始めた。奈津美のやり方は、明らかに無謀な入札だ。これまで郊外の土地でこの規模のものが100億円になったことなど一度もない。「奈津美、黙りなさい!」礼二は声を潜めて言った。「いくら損することになるか分かっているのか?」「損をするのは私じゃなくて、礼二ですよ。忘れないでください。これはあなたが私にくださると約束したものです。男の約束は守るべきでしょう?」「お前......」礼二は奈津美が10億程度の別荘を望むと思っていた。まさか100億もの土地を要求するとは。
「奈津美!そこで待て!」休憩時間に奈津美がトイレに向かおうとした時、背後から涼の声が響いた。「涼?何かご用でしょうか?」奈津美は振り返り、まるで他人のような口調で言った。「よくやったな。うちが目をつけた土地を、損を出してまで買うとはな。どういうつもりだ?俺に対抗するつもりか?それとも俺の注意を引きたいのか?」「誤解なさっているようです。私はただあの土地が気に入っただけです。涼とは何の関係もありません」奈津美は真摯な様子で言ったが、涼は一言も信じなかった。その時、綾乃が涼の後を追ってきた。「滝川さん、今日は本当に軽率でしたわ。あの土地で大損することになりますよ」綾乃は隣の涼を見やりながら続けた。「今日、涼様が私を連れてきたことで、奈津美さんの気分を害してしまったのは分かります。涼に対抗なさりたい気持ちも分かりますけど、こんな無謀なことをなさっては......結局、損失は涼が滝川家のために埋め合わせることになるでしょう。それではお互いのためになりませんわ」それを聞いて、涼は冷笑した。「自分で入れた値段は、自分で払え」「冗談でしょう。私が入れた値段は当然私が払います。もう婚約も解消したのですから、私の支払いと涼は無関係です」「お前......」涼の表情が険しくなった時、礼二が会場から出てきた。奈津美は礼二を見るなり、わざと声を大きくして笑顔で呼びかけた。「礼二くん!」この親しげな呼び方に、涼の表情は更に暗くなった。奈津美は礼二の腕に自然に手を添えながら言った。「休憩時間ももう終わりですね。私たち戻りましょう。金海湾の土地、私ずっと狙っていたんです。涼、綾乃さん、失礼します」奈津美は涼と綾乃に丁寧に会釈をした。綾乃は隣の涼から漂う冷たい殺気を感じた。「涼様......」綾乃は思わず涼を見た。まさか奈津美が涼の目の前で礼二とあんなに親しげにするとは。礼二は涼の宿敵なのに。「滝川奈津美か......今まで見くびっていたようだな」涼は拳を握りしめた。こんなに軽んじられたのは初めてだった。特に先ほど奈津美が礼二の腕に手を添えて去っていく様子は、まるで自分への挑戦のようだった。奈津美は本気で、自分が彼女なしでは済まないと思っているのか。
「奈津美は婚約者のことをよく心得ているようですね」よく知っている程度ではない。前世での惨めな3年間、彼女は涼に対して犬のように忠実だった。涼が一瞥をくれただけで、自分への態度が変わったと思い込み、一言かけられただけで、ようやく涼の心が溶けたと信じ込んでいた。会社への出資者集めから、黒川会長の介護、涼のための手作り薬膳スープまで作った。好みを知るだけではなく、シャワーの時間や、トイレの回数、使用するトイレットペーパーの枚数まで把握しようとしていた。「望月さん、今夜はきっと大勝利になりますよ」奈津美はそう言いながら、テーブルのシャンパンを一気に煽った。オークションが再開し、ついに金海湾の土地の番になった。「金海湾の土地、市郊外6平米、開始価格60億円!」60億円という開始価格を聞いて、礼二は眉をひそめた。これは奈津美が先ほど言っていた通りだった。このオークションは会場での価格提示が原則で、事前に価格が漏れることはありえない。奈津美がどうして開始価格を知っていたのか。もしかして...今回の金海湾のオークションは、本当に涼の仕掛けた罠なのか?「100億!」「160億!」「200億!」開始早々、会場は盛り上がってきた。この土地は最近、将来1000億円の価値になるという噂が広まっていたからだ。礼二が様子見をしているのを見て、奈津美は礼二のパドルを勝手に上げながら声を上げた。「400億です!」礼二は横目で奈津美を見て言った。「人の金だと気楽に言えるものだな」「そうですとも」案の定、向かいの涼がパドルを上げた。「600億」一気に200億も跳ね上がり、周りは値をつける気力を失った。その時、涼は近くの買い手に目配せし、すぐさま声が上がった。「700億!」「800億」礼二の声に、会場が騒然となった。この価格は危険水域だ。噂の将来価値でさえ1000億円だというのに。その時、涼が満場の注目を集めながらパドルを上げた。「900億」一瞬、空気が凍りついたかのようだった。全員が礼二の出方を見守っている。礼二と涼がこの土地を争っていることは周知の事実だった。この土地は1000億という天井価格まで跳ね上がるかもしれない。だが結果的には、間違いなく大
「涼様、おめでとう。金海湾の土地を手に入れたわね。今回は黒川財閥も大儲けできるわ」綾乃は笑顔で言ったが、涼の表情が徐々に険しくなっていることに気付かなかった。向かい側では、奈津美が勝ち誇ったような笑みを浮かべ、礼二とシャンパンで乾杯していた。その光景が涼の目には針のように突き刺さった。「社長、どうすれば......」田中秘書は礼二が入札を続けなかったことに困惑していた。数日前まで、礼二はこの土地に並々ならぬ執着を見せていたのに。なぜ突然手を引いたのか。「どうもこうもない。この損失は飲むしかないだろう」涼は立ち上がった。表情から笑みは消え、代わりに暗雲が立ち込めたような影が差していた。この件は明らかに不自然だ。必ずあの奈津美という女が糸を引いているはずだ。「涼様!」綾乃は涼を追おうとして、咄嗟に彼の腕を掴んだ。次の瞬間、涼は反射的に腕を振り払い、彼女に言った。「綾乃、先に帰っていてくれ」綾乃は一瞬凍りついた。我に返った時には涼の姿はもう見えなかった。涼が彼女を置いて行くなんて......今までに一度もなかったのに。会場の外で、涼は鬼気迫る表情で命じた。「三浦美香を引っ張って来い!」「かしこまりました」一時間後、黒川財閥のオフィスで。美香は警備員に両脇を抱えられて部屋に入れられ、涼の形相を見て血の気が引いた。「社、社長......何かございましたか?奈津美が何か失礼なことでも?」「とぼけるな!」涼は氷のような冷たい声で言った。「奈津美と望月、どういう関係だ?」「え?」奈津美と礼二?そんな筈がない!美香は慌てふためいて言った。「黒川様、奈津美の不埒な振る舞い、私がきちんとお仕置きいたします。どうかお怒りを鎮めていただきたく......滝川家の黒川家に対する忠誠の念は、決して偽りではございません」「無駄話は結構だ。金海湾の件は罠だった。奈津美に情報を流させたのはお前か?」「わ、私は......私は本当に存じません!金海湾のことなど何も!本当です!社長、これは誤解でございます!」「誤解だと?」涼は冷笑を浮かべた。「奈津美はお前に謝罪させておきながら、その裏で望月に近づいていた。これも誤解なのか?」「社長、あの子
「違います。このカードの金は滝川家の資金ではありません」礼二は眉をひそめた。「滝川家の資金じゃない?」「父が私に残してくれた持参金です」前世では、美香がこの持参金に目をつけ、自分を黒川家に押し付けたのも、この100億円を横取りするためだった。美香は黒川会長が自分を気に入っていることを知っていたから、密かに会長と相談し、持参金を取り消させた。さらに会社の危機を乗り切るためと嘘をつき、全額を出させた。結局、会社の危機は解決されず、美香は金を持ち逃げした。今世では、逆転の一手を打つ。持参金どころか、滝川家の財産は一銭たりとも美香には渡さない。「望月さん、この数日間の資金の件は、しばらくお手を出さないでいただけませんか」「滝川家はもう風前の灯火だぞ。今投資しなければ、潰れることになる」奈津美は意味ありげに微笑んだ。美香は息子に会社を任せたがっているのだから、この数日間の負債は全て健一のような役立たずに任せればいい。利益が崩壊する寸前に、株主たちがまだ美香親子を庇うかどうか、見物だった。夕暮れ時、礼二が奈津美を自宅まで送り届けた。滝川邸で。玄関を開けると、応接間の明かりが点いているのが目に入った。突然、強い力で室内に引きずり込まれ、悲鳴を上げかけた瞬間、首を押さえつけられ壁に叩きつけられた。「滝川奈津美、連絡を取るのが随分と手間取ったようだな」涼の声は底冷えのする響きを帯びていた。首を締め付けられ、息苦しさを感じながら奈津美は必死に言った。「離せ!」力加減を悟ったのか、涼は手を放した。奈津美は壁に寄りかかって激しく咳き込んだ。それを見て涼は眉をひそめ、すぐさま冷笑を浮かべた。「さすがは奈津美お嬢様だな。黒川家の嫁になりたがりながら、望月とも駆け引きか。どうだ?誰が得かと天秤にかけているのか?」「社長は御冗談を。望月さんとは普通のお付き合いです。それより社長こそ、こんな夜更けに私の家に来られて、望月さんとの関係を詰問なさるおつもりですか?」「望月さんだと?さっきまでのオークションでは『礼二くん』『礼二くん』と随分と親しげだったじゃないか」涼は奈津美の手首を強く握り締めた。「滝川家を助けて欲しいなら、わざわざ望月に頼る必要はない。俺に頭を下げれば済む話だ」
「落ちるまでに、南区郊外と関係ないと君が言えば、信じてやる」「もう!」奈津美の顔が青ざめた。まるで拷問じゃないか。ヘッドライトが崩落した橋を照らし出した。奈津美は覚悟を決めて目を閉じ、「何と言われても構わない。私は南区郊外とは一切関係ない!」って言った。奈津美が諦めた様子を見て、冬馬は落ちる寸前でブレーキを踏んだ。橋の端まで、あと数センチというところだった。奈津美が覚悟していた衝撃は来なかった。彼女が目をを開けると、そこは橋の反対側だった。「おい!そこの二人!」遠くから、パトカーの赤色灯が点滅しながら近づいてきた。パトカーから二人の警官が降りてきた。一人が懐中電灯を持って近づいてきた。懐中電灯の光が車の窓に当たり、奈津美は眩しくて目を細めた。「そこの二人!車を降りろ!」警官の態度は横柄だった。奈津美は冬馬を見たが、彼はドアを開ける様子はなく、警官の目の前でバックし始めた。「降りろ!聞こえないのか!早く降りろ!」警官は、相手が自分たちの指示を無視してバックしたことに驚いた。「お前たちは法律違反をしているんだぞ!今すぐ降りろ!」警官の顔色が悪くなった。奈津美は冬馬を説得しようとしたが、彼はハンドルを切ってUターンし、猛スピードで走り去った。パトカーのことなど気にしている様子はなかった。「冬馬!これは犯罪よ!」奈津美は思わず叫んだ。「俺が法律を恐れる人間に見えるか?」冬馬は片手でハンドルを握り、パトカーの追跡を気にする様子もなかった。しばらくすると、後ろからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。そして、警官が拡声器を使って彼らの車に向かって叫んだ。「前の車、止まりなさい!違法行為です!前の車、止まりなさい!違法行為です!このまま逃げることは許されません!」「冬馬!」奈津美は、冬馬が神崎市で好き放題できる人間だとは思っていなかった。確かに、彼は海外ではすごい人物なのかもしれない。しかし、国内に帰国したら、法律を守るのは国民の義務だ。冬馬は法律を守るつもりはなかった。海外でも、神崎市でも。あっという間に、冬馬の車は四方八方から駆けつけたパトカーに囲まれてしまった。通行禁止の道路に侵入しただけでも危険なのに、冬馬は警官の指示を無視して逃走した。
奈津美は落ち着いて食事を続けた。そして、冬馬は視線を外し、「結果は......何も出ていない」と言った。奈津美はホッとした。冬馬はハッタリをかましていただけだった。初は苦笑しながら、「つまらない冗談だな。冬馬はこういう冗談が好きなんだ。滝川さん、気にしないでくれ」と言った。「いえ、全然」奈津美は箸を置き、「そろそろ失礼するわ」と言った。初は慌てて立ち上がり、「もう帰るのか?もう少しゆっくりしていけばいいのに」と言った。「いえ、明日は試験だから、早く帰って休みたいの。佐々木先生、薬ありがとう。それじゃ、失礼するわ」奈津美はコートを着て立ち去ろうとした。その時、冬馬も箸を置き、「送って行く」と言った。「結構よ」「一人で歩いて帰るのか?」奈津美は車で来ていないので、冬馬に案内してもらわなければ、ここから出られない。「......それでは、お願い」奈津美は遠慮しなかった。冬馬に連れて来てもらったのだから、送ってもらうのは当然だ。入江邸の外に出ると、冬馬は奈津美のために車のドアを開けた。意外と紳士的ね。奈津美は車に乗り込んだ。冬馬は車を運転していたが、車内は静まり返っていた。奈津美は、なぜ冬馬が自分を送ってくれるのか分からなかった。まさか、自分がWグループのスーザンだと疑っているのだろうか?そんなはずはない。礼二が完璧に身分を偽造しているので、すぐに見破られるはずがない。涼にさえできないことが、冬馬にできるはずがない。岐路に差し掛かった時、冬馬は突然、「もう一度、正直に話す機会を与えよう」と言った。「え?」奈津美が返事をする前に、冬馬はアクセルを踏み込んだ。奈津美は、急加速の衝撃で背もたれに押し付けられた。冬馬は時速200キロで車を走らせ、ガードレールに接触しそうになった。「冬馬!あなた、正気なの?!ここは通行禁止よ!」奈津美は冬馬に車を止めるように言った。夜は更け、外は真っ暗だった。この道路は街灯が壊れているので通行止めになっている。ヘッドライトがなければ、事故を起こしやすい。冬馬はゆっくりと、「1キロ先に、崩落した橋がある。もし正直に話さないなら、一緒にあの世行きだ」と言った。「何ですって?」奈津美は驚き、「本気なの?」と尋ねた。「俺は泳
「誰がアイスティーを買ったんだ?」冬馬は突然口を開き、尋ねた。初は当然のように言った。「私だ。女性と食事をする時に、酒を飲むわけにはいかないだろ?男三人で飲んで、余計なことを口走ったらどうするんだ?」「......」「私は女性の安全を守るプロだ。滝川さん、安心してくれ。ここでなら絶対に安全だ。食事の後、ゆっくり休んでいくといい。誰も邪魔しないからな」奈津美は冬馬を見て、「それは......ちょっと遠慮しておくよ」って言った。「滝川さん、心配する必要はありません。そもそも、あなたのための部屋は用意していませんから」牙の唐突な一言で、場の空気が凍りついた。牙は何を間違えたのか分からず、初に睨まれていることに気づいた。「......」まさか、自分が間違ったことを言ったのだろうか?牙は冬馬を見た。社長の指示通りなのに。奈津美は言った。「そういえば、入江社長、今日は何の用で私を呼んだの?この薬のためだけ?」薬のためだけなら、大げさすぎる。「そうだ、冬馬、早く滝川さんに用件を伝えろ」初は冬馬にウィンクをした。しかし、冬馬は聞こえないふりをし、静かに言った。「南区郊外の土地と、君には何か関係があるのか?」唐突な質問に、初は顔を覆った。どうしてこんな話をするんだ?「何も関係ない。あれは望月グループの事業よ。私に関係があるはずがない」奈津美は、この嘘をつくことに慣れていた。「だが、あの土地は君が競売で落札したと聞いたが?」「ただ、代わりに札を上げただけだよ。金を払ったのは私じゃないわ。入江社長が調べれば分かるはず。私は嘘をついていない」奈津美は平然と料理を口に運んだ。自分がスーザンだということを、冬馬に知られるわけにはいかない。「ご飯を食べよう!何、堅苦しい雰囲気にしてるんだ?今は仕事の時間じゃないんだぞ。つまらない話はやめろ」初は冬馬に話を止めるように合図した。彼は冬馬に、奈津美に字の練習を教えるという口実で、彼女と親密になるチャンスを作ってあげようとしていたのだ。それなのに、冬馬は場の雰囲気を壊すような話を始めた。南区郊外の土地の件は、すでに調査済みだ。奈津美には全く関係ない。冬馬が余計なことを聞いたのだ。「奈津美、俺は正直な話が聞きたい」その一
奈津美は冬馬が自分の腰にエプロンを結んでくれるのを見て、一瞬、ぼーっとした。奈津美が我に返った時には、冬馬はすでに野菜を切り始めていた。キッチンの外では、牙と初が何事もなかったかのようにリビングで話をしていた。奈津美は冬馬をじっと見つめていた。彼は真剣な表情で野菜を切っていた。冬馬の横顔はとても完璧だった。普段は無愛想だが、料理をしている時は真剣な表情をしていた。いや、キッチンにいる時だけではない。普段から、何をするにも真剣だ。ただ......何もしないでいる時は、近寄りがたいオーラを放っている。「見飽きたか?」突然、冬馬に声をかけられ、奈津美は我に返った。奈津美は咳払いをして、「あの、顔に何か付いてるよ」って言った。冬馬は何も言わなかった。その隙に、奈津美は冬馬の頬を軽く叩いた。一瞬だったが、冬馬は動きを止めた。奈津美の手に付いていた小麦粉が、冬馬の頬に付いた。キッチンの外でそれを見ていた牙は、冬馬に教えようとしたが、初に止められた。初は言った。「二人はイチャイチャしてるんだ。邪魔するな!戻って来い!」「イチャイチャ?」牙には、二人が親密だようには見えなかった。今のは明らかに奈津美がわざとやったことだ。「とにかく、お前は行くな。私の言うことを聞けば間違いない」初は自信満々に胸を叩いた。牙は仕方なく足を止めた。社長は極度の綺麗好きだ。もし、自分の顔半分が小麦まみれになっていることに気がづいたら、一体どんな顔をするだろうか。「こっちこっち」奈津美と冬馬は言葉を交わし、キッチンは穏やかな雰囲気に包まれていた。野菜を切ったり洗ったりするのは簡単な作業なので、冬馬はすぐにキッチンから出てきた。初は冬馬の顔を見て、ニヤリとした。しかし、冬馬は自分の顔に何かが付いていることに気づいていたようで、ティッシュで小麦粉をきれいに拭き取った。初は自分の見立てが正しかったことを確信した。ついにこの男も、恋に落ちたか。しばらくして、夕暮れ時になった。奈津美はキッチンから、次々と料理を運んできた。初は気を利かせて、奈津美から料理を受け取った。熱々のエビフライ、豚の角煮、香ばしい焼き牡蠣、そして立派な鯛の塩焼き。初は思わず唾を飲み込んだ。さらに、後から運ばれてきた
「手が怪我をしているのに、料理ができるのか?」初は言った。「医者として言わせてもらうが、誰かに代わりに切ってもらう方がいい。手が滑って指を切ったら大変だぞ」奈津美は料理をする前に、そのことについて全く考えていなかった。初に言われて、確かに誰かに野菜を切ってもらった方がいいことに気づいた。そして、彼女は当然のように初を見た。奈津美に狙われているのを見て、初はすぐに言った。「私の包丁さばきは冬馬には及ばない。彼に頼んだ方がいい」そう言って、初は二階へ上がっていった。一秒たりともキッチンにいたくなかった。二階で、初は冬馬の部屋のドアをノックした。何度ノックしても返事がないので、彼は「冬馬、出て来い!滝川さんのために野菜を切ってやれ!」と叫んだ。そして、ドアの前で小声で、「これはチャンスだぞ!私がわざわざ作ってやったんだ。早くドアを開けろ!」と呟いた。向かいの部屋から牙が出てきて、ドアにしがみついている初を見て、「佐々木先生、何をしているんですか?」と言った。「社長を呼んでるんだ」初は言った。「せっかく滝川さんの前で男らしさをアピールできるチャンスなのに。滝川さんは手が怪我しているから、包丁を握れないんだろ?冬馬の包丁さばきは素晴らしいから、彼にやらせたらちょうどいい......」初が言葉を言い終わらないうちに、階下から包丁が床に落ちる音が聞こえてきた。カチャッという音が、耳障りだった。冬馬はすぐにドアを開け、階下へ降りて行った。初も何かを感じ、「まずい!」と言った。数人が階下へ降りてきた。奈津美は床に落ちた包丁を拾おうとしていた。奈津美は慌てて降りてきた数人を見て、そのままの姿勢で固まった。数人の慌てた様子を見て、奈津美は「ちょっと手が滑って......」と説明した。「......」初は言葉を失った。本当に手を切ったのかと思ったからだ!冬馬は前に出て、包丁を拾い上げた。まなまな板の横に行き、奈津美が洗ってくれた野菜を見て、メニューを一瞥すると、何も言わずに野菜や肉を切り始めた。奈津美はいつも一人で料理をしていたので、誰かに手伝ってもらうのは初めてだった。きっと慌ててしまうだろうと思っていたが、冬馬は手際よく、メニューを一目見ただけで奈津美の料理の順番を理解していた。初はキッチンの外
「この間、ベッドに投げた時、腰は......」「大丈夫!全然!」奈津美は目を丸くした。彼女は心の中で思わず叫んだ。ちょっと、それはセクハラでしょ!まさか、腰にも薬を塗ろうなんてしないでしょうね!?奈津美の抵抗するような視線を見て、冬馬は眉をひそめた。彼は、彼女の気持ちが理解できなかった。冬馬にとって、薬を塗ることは薬を塗ることだ。男も女も関係ない。しかし、奈津美にとっては、明らかに違う。薬を塗ることは薬を塗ることだが、男は男、女は女だ。「社長、先ほど佐々木先生から電話があり、野菜も必要かどうか尋ねられました。今夜は肉料理が多いので」「いや、滝川さんが作ったメニューのままでいい」「かしこまりました」奈津美は、初が「冬馬も君と同じで、肉料理があまり好きではない」と言っていたのを覚えていた。以前、冬馬がホテルで暮らしていた時の様子や、家で質素な食事をしていた時のことを思い出した。奈津美は思わず、「入江社長、もしかして、M気質なの?」と尋ねた。冬馬は奈津美を見上げた。奈津美は言い過ぎたと思ったのか、「海外で活躍する大物社長なら、豪華な食事が好きだと思うけど......入江社長は、ここで質素な生活を送ってるんだね」と付け加えた。「質素」という言葉は、奈津美にとっては控えめな表現だった。他の人が見たら、「貧乏」だと思うだろう。金持ちの住む家とは思えないほど質素だった。家具はほとんどなく、冷蔵庫の中にはインスタント食品やカップ麺しか入っていない。寝室にはベッドしかない。別荘はそれほど大きくはないが、家具が少ないため、広く感じた。奈津美は、この別荘は売れ残っていたので、冬馬に格安で売られたのだろうと思った。奈津美は、冬馬がこの別荘を買ったのは、隠れ家として使えるだけでなく、安いからだろうと思った。2000億円もする土地を買った冬馬にとって、数億円の別荘を買うのは簡単なはずだ。彼好みの別荘は、他にもたくさんあるだろう。わざわざこんな古い別荘を選ぶ必要はない。「俺は物欲がないんだ。滝川さんをがっかりさせてすまない」冬馬は明らかに奈津美の言葉を誤解していた。彼は立ち上がり、奈津美と話すのをやめた。奈津美は弁解しようとしたが、冬馬は二階へ上がっていった。「本当に気難しい人ね...
初は冬馬を見て、仕方なく「分かった分かった、買い物に行くから、二人で話してな」と言った。そう言って、初は車の鍵を持って玄関へ向かった。「どうしてそんなに急いでるの?」奈津美が首を伸ばして初の後姿を見ていると、冬馬は彼女の視界を遮り、「さっき渡した薬はどこだ?」と尋ねた。「ずっとポケットに入れているわ」そう言って、奈津美は薬を取り出した。冬馬は奈津美の手から薬を受け取り、「こっちへ来い」と言った。奈津美は訳が分からなかったが、冬馬についてリビングへ行った。冬馬は奈津美をソファに座らせ、薬を奈津美の手の甲に塗り始めた。「痛っ......」冬馬が強く塗りすぎたので、奈津美は痛みで息を呑んだ。冬馬は奈津美を見上げ、無意識に力を弱めた。彼は人に薬を塗った経験がなかったので、力の加減が分からなかったのだ。女性の肌は綿のように柔らかく、少し触れただけでも傷つけてしまいそうだ。「今はどうだ?」冬馬の質問に、奈津美は「痛くはないけど、少し痒いかも」と答えた。そう言って、奈津美は手を引っ込めようとした。「自分で塗るわ」しかし、冬馬は奈津美の手首を放さず、冷淡に「片手で塗れるのか?」と言った。「そんなに......難しくないわ」以前、奈津美は一人でマンションに住んでいた時は、自分で薬を塗っていた。それほど難しくはない。ただ、瓶の蓋を開けるのが少し大変だっただけだ。奈津美は、薬を塗ってくれている冬馬の横顔を見つめていた。非の打ち所がないほど完璧な横顔だ。冬馬は普段、無口で冷たい男だが、いざ優しくなると、本当に理想の彼氏のようだ。奈津美がそう考えていると、冬馬は手を止め、「他に怪我をしているところはないのか?」と尋ねた。「見えるところ、ほとんど怪我だらけだよ」奈津美は冗談半分で言ったのだが、実際、彼女の体にはあざがたくさんできていた。警察署にいた時に、他の女囚たちに暴行されたのだ。彼女たちは奈津美を容赦なく殴りつけた。奈津美の腕、太もも、顔にはあざができていた。口元にもうっすらと青あざが見えた。「ズボンをまくり上げろ」「......」奈津美は少し戸惑ったが、冬馬は「自分でやらないなら、俺がやるぞ」と言った。「いえ、自分でやるよ」奈津美は素直にズボンの裾をまくり上げた。足の傷
「何の御馳走だ?」初は訳が分からなかった。冬馬や牙のような倹約家がいる家で、どうして御馳走が出るんだ?ここ数日、入江の家にいる間、まともな食事は一度もしていない!初は心の中でそう思い、危うく口に出すところだった。結局、彼は牙に「何の御馳走だ?どこからご馳走が出てくるんだ?」と尋ねた。「滝川さんが、佐々木先生に感謝の気持ちを込めて、ご馳走を作るそうです」「俺に感謝?何に?」「塗り薬のお礼です」牙の答えを聞いて、初はさらに驚いた。「それなら、冬馬に感謝すべきだろ。私に何の用だ?金を出したのは彼なのに」あの薬の開発にはそれなりの費用がかかる。しかし、その資金を出したのは冬馬なのだ。冬馬は自分のことにはケチで、衣食住は何でもいいと思っている。しかし、他のことには惜しみなく金を使う。今回の奈津美のための薬の開発も、冬馬は2億円もの大金を出した。研究所は大喜びだった。「社長のことは気にしないでください、佐々木先生。先生に感謝の気持ちを表すためだと思ってください」「名前を隠して善行をつむなんて、まるで聖人にでもなったつもりか?」初は思わず冬馬に拍手を送りそうになった。キッチンでスマホをいじっている奈津美を見て、初は近づいて「滝川さん、何をしてるんだ?」と尋ねた。「出前を注文しているの」「出前?」「この辺りにはスーパーがないみたいだから、ネットスーパーで材料を注文して、自分で料理するしかないわ」奈津美の言葉に、初の顔が曇った。「滝川さん、ここの住所を知っているのか?」「いいえ。変だわ、GPSが機能しないの」「ここは冬馬の家だ......GPSが使えるわけがない」冬馬には敵が多すぎる。彼の命を狙っている人間が多すぎるのだ。だから、冬馬が住む場所には、必ず電波妨害装置が設置されている。しかし、GPSは使えなくても、インターネットは使える。「何の材料が欲しいか教えてくれ。私が買ってきてあげる。どうせすぐ近くだ」「そうしてくれる?ありがとう!」奈津美は遠慮なく、先ほど作ったメニューを初に送った。「佐々木先生が何が好きか分からないから、もし足りなかったら、もっと追加するわ」初はメニューを見て、目を輝かせた。こんなに豪華な料理を食べるのは久しぶりだ!「十分だ!
車内。奈津美は歯を食いしばりながら、車のドアを開けた。奈津美の今にでも人を殺しそうな険しい表情を見ながら、冬馬は悠然と口を開いた。「滝川さんは恩知らずだな。この間までは入江先生と呼んでいたのに、今日はもう知らん顔か」「入江社長、確かにあなたの車は高級で高価なのは認めるけど、大学の門の前に車を停めないで。印象が悪いわ」「何が悪いんだ?」「私の評判に傷がつく」奈津美は付け加えた。冬馬は平然と、「俺は自分の都合のいいようにしか行動しない。他人の評判など、どうでもいい」と言った。「あなた......」さすがは前世で涼と激しく争っていた男だ。奈津美は我慢した。我慢しなかったらどうなる?彼に手を出したら?きっと自分が殺される。奈津美は、自分が死ぬ100通りのパターンを想像した。そして、結局、我慢することにした。冬馬は静かに、「試験はどうだった?」と尋ねた。「おかげさまで、完璧だったわ」「そうか」「左手を出しなさい」「何?」奈津美はそう言いながらも、左手を差し出した。冬馬は奈津美の手に、小さな瓶に入った塗り薬を置いた。奈津美はどこかで見たことがあるような気がした。そしてすぐに、これは涼が特注で作らせた薬だと気づいた。「これはどこで手に入れたの?」この薬は市販されていない。涼が奈津美の傷に合わせて特別に作らせたものなので、お金を出しても手に入らないはずだ。冬馬は静かに、「初からだ」と言った。「そう」やはり、冬馬のような冷たい人間が、自分から何かをくれるはずがない。「一日三回、一ヶ月塗り続ければ、かなり良くなるだろう」「そんなに?涼がくれた薬よりも効くの?」奈津美は小さな薬瓶を手に取って、じっくりと眺めた。冬馬は奈津美を一瞥し、「俺が贈ったものを、彼のものと比べるな」と言った。奈津美は驚き、冬馬の方を見た。冬馬はもう彼女を見ていなかった。涼がくれたものと比べてはいけない?まあ、宿敵だし。まさに宿敵らしいセリフだ。奈津美は薬をポケットに入れ、「佐々木先生って、本当にいい人ね。今度、感謝しないと」と言った。「機会は今日ある」「え?」奈津美は冬馬を見て、「佐々木先生は今、あなたの家にいるの?」と尋ねた。「ああ」「じゃあ、今夜