石田局長は園長に言った。「私は今、飛行機を降りたばかりで、空港から直接来ました。この問題を処理するために来たんです。もし彼女が辞任しなければ、桜井は今後の生徒募集どころか、現在の生徒すら維持できなくなるでしょう!」 園長は慌てて大奥様を見た。 橘大奥様は彼に目配せをした。「桐井、私たち橘家は桜井の最大のスポンサーよ……」 園長は困惑した表情を浮かべた。ひとつは、橘家の財力支援を失いたくないから、もうひとつは教育局を敵に回したくなかったからだ。 「母さん、もういい!」 橘冬真の声は周囲の空気を凍らせるかのようだった。「まだ自分がどれだけ恥をかいているか、分かっていないのか!」 彼は石田局長に向かって言った。「母の理事長の職は、私が引き継ぎます」 男性の気迫は強く、誰にも拒否させない。 石田局長は橘冬真と藤宮夕月の間を行き来するように視線を動かし、こう言った。「橘さんなら、あなたのお母さんよりも優れていると信じていますよ」 藤宮夕月は穏やかに美優に話しかけた。「行こう」 「藤宮夕月!」橘冬真の声が彼女の背後から響いたが、彼女は無視して歩き続けた。 「はぁ!冬真!」橘大奥様は声をひそめて言った。彼女は自分の息子が藤宮夕月を追ってホールを出て行くのを見ていた。 園長は石田局長がずっと橘冬真が去る方向を見つめているのを見て、「橘さんは私たち桜都の優秀な人材です。彼が理事長に就任すれば、桜井は彼の指導の下、新たな高みへと進むに違いありません」と言った。 「彼女もかつては、もっと優れた人物だったのに……」石田局長は感慨深く言った。 園長は少し驚き、局長の意図を理解できなかったが、質問することはできなかった。局長に「愚かだ」と思われるのが怖かったからだ。 橘冬真は幼稚園の駐車場に到着し、藤宮夕月が美優を車に乗せた後、車の後部ドアを閉めるのを見た。 彼女は車の前を回って運転席に向かおうとしていたが、そこに橘冬真が歩いてくるのを見かけた。 彼はスーツを着ており、足が長く、腰が細く、外見は一級品だった。しかし、彼はいつも無表情で、藤宮夕月に近づくとまるで借金を取り立てに来たかのように見えた。 藤宮夕月は足を止めずにそのまま歩き、運転席に座り込むと、車のドアを閉めようとしたが、何かの抵抗を感じた。 彼女が顔を上げる
藤宮夕月はギフトボックスを開け、中に入っていたサファイアのブレスレットを見つけた。 彼女は少し目を細めて、ブレスレットを手に取って尋ねた。「このブレスレットの手首のサイズは?」 「14.2」 橘冬真は即答した。 藤宮夕月は微笑みながらも、喉の奥に一抹の苦い感覚が広がった。 「これは楓の手首のサイズ」 彼女は手を窓の外に伸ばし、きらきらと輝くサファイアのブレスレットが彼女の掌から落ちていった。 橘冬真は眉をわずかにひそめ、暗い瞳に感情の波紋が広がった。「あなたは楓を気にして嫉妬しているから、必死に私に八つ当たりしているんだろう」 「楓とは20年以上の付き合いだ。私たちに何かがあったとしても、あなたに関係あるか?」 藤宮夕月は、橘冬真のその言葉に、何か遠い記憶を呼び起こされたようだった。 バックミラーに映る彼女の壊れた笑顔。 「覚えてる?三年前のある晩、あなたが急に藤宮楓に会いに行って、私を一人で病院に行かせたこと。あの時、私は39度の熱があって、家庭医は休み、家政婦も帰宅して、私はあなたに頼って病院に連れて行ってもらうつもりだった……」 藤宮夕月がその出来事を話すと、橘冬真は記憶を取り戻した。 「あなた、タクシーで病院に行ったんじゃないか?」 藤宮夕月はいつもそんな小さなことを気にしている。 「病院に行った後、何度も電話したけど、あなたは全然出なかった……」 「楓が酔っ払って海辺に行って、真っ暗で、私は彼女を探していたんだ」 ここまで言うと、橘冬真は鼻で笑った。藤宮夕月はどうしても藤宮楓と比較する。 女性が嫉妬すると、どうしてこうも魅力的でなくなるのか。 藤宮夕月は前方を見つめ、視線がぼやけてきた。 「橘冬真、私は病院で、妊娠中絶手術の同意書にサインしてくれるのを待ってたんだよ!」 男は一瞬驚き、明らかに予想外だった。 「お前、流産したのか?なんで私に言わなかった?」 藤宮夕月は長いまつげを下ろし、鏡に映る自分の表情を見たくなかった。 七年間、愛情はすっかり消え去り、ただ憎しみだけが残っていた。 「覚えてる?あの時、私が熱を出した理由を」 男は目を細め、その出来事を鮮明に思い出した。 悠斗は遊びすぎて、彼の机の上にあった願い瓶からガラスの玉を取り出し、弾丸のよう
「うっ!」藤宮楓は橘冬真の背後で、痛々しい叫び声を上げた。 橘冬真は振り返り、藤宮楓が地面に倒れているのを見た。 彼女は髪が乱れ、顔を上げ、橘冬真をじっと見つめていた。 「冬真兄貴……」 脳裏には消え去らない映像が浮かび、目の前の光景と重なり合う。18歳の藤宮汐(ふじみやしお)が火災現場で、何度も彼を呼んでいたあの声。 橘冬真は藤宮楓のところへ歩み寄り、彼女を支えて立ち上がらせた。 藤宮楓は橘冬真の車に乗り込んだ。顔に浮かぶ喜びを必死に抑え込んでいる。 「この手首のアクセサリー、どうするつもり?」 藤宮楓は手のひらを開き、彼に問いかけた。 「捨てる」男性の声は冷たさが極限まで達していた。 「そうか!」藤宮楓はあっさりと答え、車の窓に向かって投げる真似をした。 手首をひとひねりして、手首のアクセサリーをこっそりとポケットに忍ばせた。 橘家、書斎: 容姿端麗な男性が、書桌の後ろに座り、藤宮夕月の病歴ファイルを見ていた。 彼の視線は「妊娠中絶」という文字に止まった。 橘冬真はまるで溺れそうな感覚を覚え、息ができないような気がした。 コンピュータの画面から、まるで胎児の急激で力強い心拍音が聞こえてくるかのようだった。 突然、その心拍音が途絶え、無形の刃物が橘冬真の胸に突き刺さり、彼は痛みで身体を曲げ、全身が痙攣した。 その時、彼の携帯電話が鳴った。 橘冬真が携帯を取ろうとした手が震え、危うく電話を取れそうになかった。 彼の顔は、まるで千年の氷のように冷たく、解けることがなかった。 「橘社長、奥様が離婚協議書に記載されている金額がいつ振り込まれるのか尋ねています」 「今すぐに振り込んで」橘冬真の声は、まるで現実感がないように聞こえた。 電話の向こうの秘書がためらった。「橘社長、契約書には、奥様に一度に十二億円支払うことが記載されていますが……」 「彼女に渡せ」橘冬真の声には反論の余地がなかった。 藤宮夕月は小さな家柄から出てきた人物だ。十二億円を一度に渡しても、彼女はそのお金を持ちきれない。 この十二億円は、彼女にとっては手に余る厄介なものだ。 橘冬真は確信していた。彼女がその金額を手にすれば、すぐにでも自分に頼ってくるだろうと。 藤宮夕月は車を路肩に停め、銀行口座
黒田弁護士は、桐嶋涼が現在ご機嫌だと気付いた。「大きなクライアントですか?」 「うん」 黒田弁護士はさらに興味津々で尋ねた。「どれくらいの規模のクライアントですか?こんなにご機嫌な桐嶋涼さんを見たのは初めてです」 桐嶋涼は言った。「この案件を勝てば、家に帰って結婚するんだ~」 会議室の中で、すべての弁護士が目を大きく見開いた。 桐嶋涼は桜都の業界で有名なシングル、女性アレルギーの持ち主、感情絶縁体として知られている。 彼の職業柄、男も女も彼に対して策略を使うことはできない。なぜなら、彼と策略を巡らせた者は、すぐに裁判所や警察署に送られるからだ。 会議室全体がざわつき始めた。一体どれだけすごいクライアントと案件が、桐嶋涼に人生の新しい章を開かせることにしたのか? 藤宮夕月は少しの間待つと、桜都証券の赤井さんから電話がかかってきた。 「私は十二億円の資金を株式市場に投資するつもりです」 マネージャーの赤井さんは驚いた。「十二億円ですか?それなら、藤宮さん、直接当社に来て、口座を開設しないといけませんね」 藤宮夕月は美優を連れて、桜都証券のビルに入った。美優は好奇心旺盛に周りを見回していた。 赤井さんは彼らをVIPルームに案内し、口座開設の手続きを進めてくれた。 美優は藤宮夕月と赤井さんが手数料の割合について議論するのを見ていた。これが今まで見たことのない藤宮夕月だった。彼女は母親がまるで雌鷹のように鋭く、輝いていることに驚いた。 最終的に、赤井さんは藤宮夕月に、彼のキャリアの中で最低の手数料率を提供した。 「藤宮さん、あなたはご自分の資金をどのように配分するつもりですか?」 藤宮夕月はメモ用紙を赤井さんに渡しながら言った。 「明日、この株を購入していただけますか?」 赤井さんはメモ用紙を受け取り、最初は無意識に一目見ただけだった。彼は毎日株と向き合っているため、これらの株のコードを見ただけで、頭の中にその株の最近のチャートが浮かんできた。 しかし、突然赤井さんの顔色が変わった。「藤宮さん、あなたはその十二億円を全部株式市場に投資するつもりですか?」 「はい」 「他に考えていませんか?」 「考えていません」 赤井さんは深く息を吸った。「言っておきますが、今の市場は厳しく、1週間後に
「はい、了解しました」 橘冬真は電話を切ろうとしたとき、ふと思い出して尋ねた。「藤宮夕月はどうやってあなたに連絡を取ったんだ?」 赤井さんは、丁寧に答えた。「桐嶋さんが、藤宮さんと私を繋いでくれました」 橘冬真はまぶたを上げ、鋭い目つきが一層冷たい雰囲気を帯びた。「桐嶋涼か?」 赤井さんはうなずいた。「はい、そうです」 橘冬真は言葉を発さなかったが、その顔には冷徹な気配が広がり、周囲にまでその冷気が漏れ出していた。 藤宮家に帰宅した藤宮夕月は、家の使用人がすでに夕食の準備をしているのを見た。 離婚したばかりで、このことを両親ときちんと話さなければならないと思った。 藤宮夕月は先に美優を連れて二階へ上がり、服を着替えさせた。美優が手を洗い終わると、藤宮夕月は美優を連れて下に降りてきた。そのとき、父親と母親に出会った。 「お帰りなさい、夕月ちゃん~」母親の唐沢心音(からさわここね)は、藤宮盛樹(ふじみやせいじゅ)の胸に抱きかかえられたまま、嬉しそうに言った。 唐沢心音は、可愛らしい子供のような顔立ちをしており、見た目は30歳くらいに見えるが、実際には46歳だった。 藤宮夕月が藤宮家に戻って以来、母親が外出することはほとんどなかった。 母親はいつも真っ白な長いドレスを着て、まるで赤ちゃんのように藤宮盛樹の胸に丸くなっていることが多かった。 藤宮盛樹は50歳を過ぎており、背が高く、しっかりとした体格をしている。彼の容姿は、風霜を経てさらに成熟した魅力を放っていた。 「お父さん、お母さん」 藤宮夕月は、少し距離を置いて二人に挨拶をした。 「よくも戻ってこれたな!」藤宮盛樹は顔をしかめて叱責した。 唐沢心音は肩をすぼめて、猫のように藤宮盛樹の胸に顔を擦り寄せた。「うう、盛樹、びっくりしたじゃない」 藤宮盛樹は視線を外し、唐沢心音に集中した。 彼は唐沢心音を優しく抱きかかえて階下へ降り、壊れ物を扱うようにそっと彼女を「ベビーチェア」に座らせた。 藤宮夕月は食堂に入り、自分の視線を強引に外した。美優を連れて、二人の対面に座った。 唐沢心音の前にはベビー用の食器が置かれ、彼女はスプーンを口にくわえながら、美優の方を見ていた。 「美優はベビー用の食器を使わないの?」 美優は箸を取ると、「私、これ
藤宮夕月は笑いながら言った。「私が捨てたゴミ、たくさんあるから、ゆっくり拾ってね」 藤宮楓がもし裸で、橘冬真のベッドに横たわっても、藤宮夕月は一切怒りを感じることはなかった。彼女はただ、藤宮楓が名声を失うのを見て笑っているだけだった。 藤宮楓のブレスレットが橘冬真から贈られたものだと聞いて、藤宮盛樹は逆に安心した。それによって、藤宮楓がまだ橘冬真の心をしっかりと掴んでいることが分かったからだ。 食卓の上で、藤宮盛樹は藤宮夕月に矛先を向けた。 「橘さんがあなたと離婚したのは、間違いなくあなたが何かをして彼を怒らせたからだ!言っとくけど、さっさと結婚をやり直しなさい!うちの藤宮家に離婚した女性なんていない!本当に、恥ずかしくないのか?三十過ぎて子供までいる既婚女性なんて、今後誰があなたを欲しがるんだ!」 藤宮夕月はゆっくりと食事をしながら、時々美優の食事の様子に気を配っていた。 「お父さん、私がどうして橘冬真と離婚したのか、聞かないの?」 「何が聞くことだ?あなたは男すら手に入れられない!知らないのか、橘家との結婚は俺が必死に頭を下げて頼んだことだ!あなた、日々楽しく過ごしてるから、調子に乗ってわがままになったんだな!」 「お父さん」藤宮夕月の顔が少し冷たくなった。彼女が口を開こうとしたその時、唐沢心音も発言した。 「夕月ちゃん、さっさと冬真くんに謝って、今回だけは許してもらいなさい。あなた、もう彼と離婚したんだから、彼より良い人なんて今後見つからないわよ!」 藤宮盛樹は冷ややかな目で言った。「田舎者は見識がない!」 彼は藤宮夕月を指さして、唐沢心音に言った。「彼女は結局、俺たちが育てたわけじゃないから、離婚することも私たちに事前に伝えなかった」 藤宮夕月は言った。「事前に伝えたら、離婚できなかったでしょ」 藤宮盛樹は冷やかに鼻を鳴らした。彼は藤宮楓にちらりと目をやり、藤宮夕月に聞いた。「聞いたぞ、あなた、橘さんと離婚協議書を結んで、彼の財産を分け取ったんだって?」 彼の言葉は強くなり、彼の声が鋭くなった。「そんな大金、まさか定期預金に全部入れてるわけじゃないだろ?それなら、藤宮家の会社の口座に振り込んでくれれば、毎年分け前を渡せるんだ」 「お金、私はもう株に投資しちゃったわ」 「何を言っているんだ!」藤宮
「うわあああ!!」唐沢心音は恐怖に震えて悲鳴を上げた。 円卓がひっくり返る瞬間、藤宮盛樹は唐沢心音を抱きかかえ、慌てて後ろに数歩下がった。 藤宮夕月はその様子を見て、駆け寄って美優を抱き上げ、二人の最寄りのキッチンに走った。 「うう!盛樹、怖いよ!」唐沢心音は両腕で藤宮盛樹の首をしっかりと抱きしめた。 藤宮盛樹は唐沢心音の肩を軽くさすりながら言った。「心音ちゃん、怖がらないで。二人に一発お見舞いしてやるから、すぐにおとなしくなるさ!」 唐沢心音は一瞬震えた。 藤宮楓の顔には、満面の笑みが浮かんでいた。 藤宮夕月が藤宮家に戻って以来、藤宮盛樹に一度も手を上げられたことはないだろう。 藤宮盛樹が娘や孫娘を叩くシーン、この光景は本当に面白い! 「藤宮夕月!出てこい!」藤宮盛樹はキッチンに向かって歩きながら、ズボンのベルトを外し始めた。 彼はベルトを取り出し、まるで訓練された獄卒のように振り回した。 その時、藤宮夕月の姿がキッチンのドアに現れた。 彼女は鋭い包丁を手に持っていた。 藤宮夕月は美優をキッチンに隠し、ドアの前に立って、一人で立ち向かう構えを見せた。 藤宮夕月の瞳には血走った赤い血管が浮かび、藤宮盛樹が手に持っているベルトを見て、母性が湧き起こり、戦う意志が満ちていった。 彼女はかつて、18年間も会わなかった実の両親から、少しでも親子の情を感じられることを願っていた。 しかし、今、彼女は理解した。美優と一緒にうまく生きていくためには、この本来薄い親子の情を完全に断ち切らなければならないことを。 「お父さん、勝負しようか?あなたのベルトが早いか、私の包丁が早いか、どっちが速いか試してみる?」 藤宮盛樹は身長が高く、体力もあり、日頃からトレーニングしているが、藤宮夕月はただの家計を支える主婦で、日々の疲れが体に出ている。 彼は彼女の包丁を恐れるのか? だが、藤宮夕月からは命を賭けた覚悟が感じられ、まるでジャングルで子を守る母ライオンに遭遇したハンターのような気配が漂っていた。 母ライオンは、子どもを守るために命をかけて戦うのだ! 藤宮盛樹の体は、無意識に寒気を感じて毛が逆立った。 「俺に刃物を向けるつもりか?」 藤宮盛樹は怒鳴ったが、立ち止まって一歩も前に進もうとしなかった
「ママ、私、さっき間違えちゃったかな?テーブルをひっくり返しちゃいけなかったよね」 美優はまだ小さいので、自分がテーブルをひっくり返したせいで、藤宮夕月と一緒に藤宮家を追い出されたと感じている。 藤宮夕月は彼女に尋ねた。「もしもう一度チャンスがあったら、テーブルをひっくり返す?」 美優は迷わず頷いた。「ママを守りたかった」 藤宮夕月は穏やかな笑顔で答えた。「美優は自分にできることをしたんだよ。あなたはママのヒーローだよ」 「ママこそ、美優のヒーロー!」美優は藤宮夕月の腕に寄り添った。 藤宮夕月の賛辞を受けて、美優の目は輝き、少し恥ずかしそうに言った。「でも、すごく力を使っちゃった。こんなふうにするのって、女の子っぽくないよね」 「あなたは生まれた時から女の子だけど、女の子は色々な形があって、誰も女の子がどうあるべきかを決めることはできないのよ」 藤宮夕月は美優を優しく抱きしめた。「美優、あなたは生まれつき強い力を持っていて、自分を守ることができる。ママはそれが嬉しいし、誇りに思っているわ。もし女の子があまりに弱いと、誰かに頼るしかなくなるけど、ママはあなたが女性らしさを捨てないことを望んでいる。あなたがどうあるかで、女の子のあり方も決まるのよ!」 美優は藤宮夕月の言葉に勇気をもらい、「ママ、私、ボクシングを習いたい!もっと強くなりたい!」と言った。 橘家では、美優は悠斗と一緒にサッカーの授業や格闘技の授業を受けたが、橘大奥様に止められた。大奥様は「女の子は外で走り回ったり、叫んだりしてはいけない」と言ったのだ。 「それならちょうどいいわ。おじさんがジムを開いているから、ボクシングの先生を紹介してもらおうか?」 「ママが一番!」美優は藤宮夕月に寄りかかり、頭を上げて、好奇心から尋ねた。「私たち、今どこに行くの?」 藤宮夕月は彼女の黒い髪を撫でながら答えた。「私たちはブルー・オーシャンに行くの」 藤宮夕月は橘冬真と離婚協議書を結んでいた。自分のために現金での補償を得るだけでなく、家や店舗も手に入れた。これは彼女が当然得るべきものだ。 もちろん、今は新しい家を探していて、株でお金を稼いだら、美優と一緒に引っ越す予定だ。 今は橘冬真名義の家があるから、まずはそこに住むことにした。 ブルー・オーシャンは桜都の
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN
もし冬真が楓と向き合っていれば、彼女の様子がいつもと違うことに気付いたはずだった。「橘さん、謝罪文を作成しました」携帯から弁護士の声が響く。冬真は夕月のスマートフォンの時間表示をちらりと見る。「ビデオを撮影して、読み上げさせろ」楓側の弁護士に命じる。弁護士は三脚でスマートフォンを固定し、原稿を画面の横に置く。楓がカメラを見ながら読めるような位置だ。楓は舌を噛みしめ、血が滲みそうなほどだった。夕月のやり方は度を超えている!!だが楓はすぐに思い直した。国際エキシビションレースに出場さえできれば、冬真の目には汐の遺志を継ぐ者として映るはず。そうすれば、彼女は冬真にとって唯一無二の存在になれる!レースに出られさえすれば、今失った名誉も、かつての仲間たちも、きっと戻ってくる!鼻腔に血の匂いを感じながら、楓は弁護士の書いた謝罪文を一字一句、噛み締めるように読み上げた。「み、皆さん、こんにちは。藤宮楓です。雲上牧場での件で……」楓は舌を噛み、言葉を詰まらせた。腫れた目が引いた時、すぐにLINEグループ「桜都会」を開いてみると、そこには自分一人しか残っていなかった。真を筆頭に、全員が退会していた。そして、盛樹に竹刀で尻を叩かれながら謝罪する動画が冬真によって投稿され、グループのメンバーたちは一斉に楓を非難し始めていた。楓は急いで親友だと思っていた連中にメッセージを送ったが、どの御曹司たちからもブロックされていた。怒りと屈辱で血を吐きそうになる。夕月への殺意は頂点に達していた。仲間たちに電話をかけようとした矢先、警察に携帯を没収された。今また恥さらしの謝罪動画を撮って投稿しなければならない。そんなことがどうしてできるだろうか。「残り一分よ」夕月の澄んだ声が響く。冬真は目の前の夕月を見つめ、一瞬我を忘れたように立ち尽くした。電話越しに冬真の焦れた声が響く。「楓!きちんと謝れないなら、もう二度と私の前に現れるな!」「冬真!」楓は泣き崩れた。「わかったわ……全部言う通りにする……うぅ……!」哀れっぽい声で懇願する。楓はスマホのカメラを見据え、弁護士の用意した謝罪文を読み直し始めた。「……雲上牧場にて、藤宮夕月さんと橘星来くんを斜面から突き落とし、石を投げつけたため、警察に身柄を拘
夕月はスマートフォンのストップウォッチを起動し、画面を冬真に向ける。刻々と変わる数字が、まるで銃弾のように冬真の胸を貫く。かつて、彼がしてきたことだ。今や、傲慢な橘グループの社長が時限装置に縛り付けられている。警官が頷きながら言う。「藤宮さんの提案は素晴らしいですね。橘さん、楓さんを説得して謝罪動画を撮ってもらえませんか?999のいいねが集まれば、我々も報告書に添付できますし」初めて冬真は自分が炎上する薪の上に載せられたような感覚を味わっていた。この居心地の悪さに耐えかね、険しい顔で不本意にもスマートフォンを取り出す。夕月が掲げるタイマーを睨みつけながら、強いられるように電話をかける。まさか自分がこんな日を迎えるとは――夕月に追い詰められる立場になるなど。だが不思議なことに、彼女にそこまで圧倒されることで、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。楓は今、留置所にいて携帯は使えない。だが冬真は弁護士を彼女の傍に付けていた。弁護士が電話に出て、冬真の指示通りにスピーカーを入れる。鉄の椅子に手錠で繋がれた楓に、冬真の声が届く。「楓、今すぐ警察の指示に従って謝罪動画を撮影して。SNSに投稿して、999のいいねを集めるんだ」楓は呆然とする。「冬真!なんでそんなことしなきゃいけないの?」まるで裸で水車を回すように、みっともない真似を強いられるなんて。「999のいいねが集まれば釈放されるんだ!」「イヤよ!恥ずかしすぎる!」楓は泣き出しそうになる。夕月は爪先で画面を軽くタップし、残り時間を示す。欠伸を漏らしながら、だらしない声で言う。「3分過ぎて動画が撮れてなかったら、示談書にはサインしないわよ」楓の耳に夕月の声が届いた途端、まるで導火線に火がついたように激高する。「藤宮夕月!またあんたの卑怯な策略なんでしょう!?」楓は胸を激しく上下させながら、鉄の椅子に体を打ちつけ、ガンガンと金属音を響かせる。「残り2分よ」夕月は静かに告げる。「原稿を用意して読ませろ」冬真は楓の隣にいる弁護士に命じる。「冬真……!あなたまで私をこんな目に!」楓の声が涙で震える。「エキシビションに出場したくないのか?」「出なければいいじゃない!」楓が不満げに呟く。冬真は心の中で罵詈雑言を吐く。この程度の覚
夕月の直筆サインがある示談書を、必ず手に入れる。「示談書にサインすると思う?」夕月は皮肉な笑みを浮かべる。「いくらなら書くんだ」。男は苛立ちを隠さず、白紙の小切手を差し出した夕月はそれを受け取り、唇の端を歪めて「ペンを」せっかく来たお金を断る理由はない。冬真が弁護士に目配せすると、すぐにペンが差し出された。夕月は躊躇なく金額を書き込む。「先にサインして」と小切手を渡す。冬真は書かれた数字を見て、息を呑んだ。「20億円?」墨のように黒い瞳が冷たく光る。「これは恐喝だな」軽蔑を込めて吐き捨てた。夕月は即座に声を上げた。「警察の方、見てください!橘さんが白紙の小切手を渡して私に金額を書けと言い、書いたら恐喝だと言うんです。これって罠じゃありませんか?!」警官二人と弁護士が同時に咳払いをして目を伏せる。「橘さん、ご希望の金額をおっしゃってはどうですか?藤宮さんと話し合えるかもしれません」と警官が促す。弁護士も続く。「そうですね。わざわざ伺ったのは、誠意を持って示談をお願いするためですから」「2千万円」冬真が言い放つ。夕月は嘲るように笑う。「楓の価値がたった2千万円なの?」男の呼吸が乱れる。「お前が受け取れるのはその程度だ」夕月は柔らかな目元を細める。「和解する気がないようですね。どうぞお帰りください」ドアを閉めようとする夕月の動きを、冬真が大きな手でさえぎる。「6千万円だ!」「市場で値切り合いでもしてると思ってるの?」夕月は冬真の口調を真似る。「よく聞きなさい。チャンスは一度きりよ!」先程の彼の言葉を、そのまま投げ返す。「2億円。私に2億、星来くんにも2億。嫌なら出て行って!」さらに付け加える。「私への2億円は楓の口座からよ」冬真が口を開きかけたところを、夕月が先回りして言い切る。「口座に足りなければ、藤宮家が立て替えるでしょうね」冬真は女の白磁のような顔立ちを見つめる。まるで研ぎ澄まされた刃のように、直視できないほどの輝きを放っている。かつての夕月はそうではなかった。上品な翡翠のように、ただ静かに傍らに佇み、時には存在さえ感じさせないほどだった。冬真が盛樹に電話すると、盛樹は2億円の賠償金を娘に払うのは左手から右手に金を移すようなものだと考えた。どうせ最
その言葉に、冬真の顔から嘲笑の表情が凍りついた。シャワーを浴びたばかりの夕月は、髪も乾かさないまま飛び出してきていた。濡れた黒髪が肩の布地を湿らせ、数本の髪が白く長い首筋に張り付いている。肌は湯気で桜色に染まり、襟元から鎖骨のラインが鮮やかに浮かび上がっていた。そんな姿に見入る冬真の喉仏が揺れ、呼吸が自然と乱れる。警官たちは意味ありげな視線を冬真に向ける。「はっ」冬真は苦々しく笑う。「わざと私を怒らせてるのか?楓との関係と同じだと言うのか?」「橘さん、まずは手を離してください」警官の一人が促す。「このままでは不法侵入になりますよ」夕月がモップを下ろすと、冬真も鹿谷の襟を手放した。夕月は即座に鹿谷の手を掴み、背後に庇うように立つ。鹿谷の顔から血の気が引いていた。襟を掴まれた衝撃で、埋もれていたはずの過去の記憶が一気に押し寄せてきていた。夕月が鹿谷を必死に庇う姿を見て、冬真は鼻で笑うように冷たい音を立てた。「私と伶は幼い頃からの付き合いよ。ずっと親密な関係だった。でも純粋な友情以外の何物でもない。もし私たちが本当にそういう関係になりたかったなら、7年前、あなたに出番なんてなかったはずでしょう?」嫌味な言い方に、冬真の表情が強張る。『楓とは20年以上の付き合いだ。私たちに何かがあったとしても、お前に関係あるか?』「橘冬真、あなたは結婚期間中も楓と兄弟のように親しくしていた。でも私は結婚している間、一度も親友と連絡を取らなかった。私はあなたに対して誠実だった。じゃあ、あなたはどう?私に対して誠実だったの?」冬真の顔が石のように硬くなり、引き締まった顎に力が入る。「元妻の家に泊まることのどこが悪いの?あなただって楓と同じホテルの部屋で一晩過ごしたじゃない」「私と楓は何もない!」冬真の眉間に深い皺が刻まれる。夕月は嘲るように笑い、鹿谷の腕に自分の腕を絡ませる。「そう、あなたと楓が一番潔白なのよね。だったら、その汚れた考えで、私と伶の絆を侮辱しないで!」冬真の胸の中は、まるで子猫に毛糸玉を引き裂かれたように乱れていた。夕月が自分と楓の親密さを気にしていたことは分かっていた。だが、妻の気持ちなど考えたこともなかった。楓が友情以上の感情を抱いているのは知っていた。自分が一線を越えなければいい、
橘冬真は目を上げ、表札を確認する。間違いない。確かに夕月が瑛優と借りているマンションだ。鹿谷はグレーのチェック柄パジャマに、ゆったりとしたルームガウンを羽織っている。どちらもジェンダーレスな雰囲気だ。スキンケアを始めようとしていたところで、スポーツヘアバンドで前髪を上げていた。そんな姿は、あどけなさの残る爽やかな少年にしか見えない。「橘冬真!」鹿谷は一瞬で表情を引き締めた。直接の面識はない。5年前、数回ほど偶然出くわした時も、遠くから一瞥しただけだった。だが、冬真の情報は徹底的に集めていた。夕月との離婚を知ってからは、冬真の写真をダーツの的にしていたくらいだ。冬真の険しい視線が鹿谷の顔を這う。威圧的なオーラが爆発するように放たれる。「鹿谷伶だな?」帝王のように高みから命じる。「死にたくなければ、消えろ」後ろの警官二人が同時に咳払いをする。「橘さん、落ち着いてください!」警察をまるで眼中にないかのような態度だった。「伶」バスルームのすりガラス越しに夕月の声が響く。「ボディクリーム、持って来るの忘れちゃった」鹿谷は即座に応える。「今持って行くよ!」さっきまでのシャワーの音で、チャイムが聞こえなかったのだろう。夕月は少し考えて、「いいわ、後で出るから。塗るの手伝ってくれる?」「夕月、まだ出てこないで!」鹿谷は慌てて叫ぶ。バスルームの中で、夕月は首を傾げて立ち止まった。鹿谷はドアノブに手をかけたまま、仇敵を見るような目で冬真を睨みつける。「出て行くべきなのはお前の方だ!!」7年分の憎しみが、この瞬間に爆発する!仇同士の対面は、互いの目を血走らせる。清水秘書が空港で夕月が見知らぬ男性と腕を組んで歩く写真を送ってきた時から、冬真の心は煮えくり返っていた。そして今、パジャマ姿の見知らぬ男が夕月の家にいるのを目の当たりにする。しかも夕月は、こいつにボディクリームを塗らせようとしている!理性が溶岩のような怒りに飲み込まれていく。こんな小鶏のような体つきの男と夕月が関係を持っているなど、自分への侮辱以外の何物でもない!冬真は手を伸ばし、鹿谷の襟首を掴む!引き上げようとする腕に力が込められる。警官二人が慌てて冬真の腕を押さえつける。「橘さん!冷静
二度ほど部屋を行ったり来たりした後、天野に電話をかけた。「はい」不機嫌そうな天野の声。そこへ涼の切迫した声が飛び込む。「義兄さん!すぐに瑛優を迎えに行ってくれ!やっと再会できた昔の恋人と二人きりにしてやれよ!来週エキシビション出場なんだ。夕月の体のことだけは気にかけてる。今夜だけは好きにさせてやって、明日からは節制だ!」その言葉を吐き出しながら、涼は自分の心臓が締め付けられるような痛みを感じていた。電話の向こうで、スポーツジムにいる天野の深いブルーのドライシャツは、汗で濃い色に染まっていた。短く刈り込んだ髪も汗で湿り、ハリネズミの針のように一本一本が立っている。薄い唇を引き締め、胸が大きく上下する。濡れたシャツが胸板にぴったりと張り付き、逞しい胸筋の起伏が浮き彫りになっていた。片手に携帯、もう片方の手には20キロのダンベルを握っている。今、涼が目の前にいたら、躊躇なくこのダンベルを頭に叩き込んでやるところだった。「誰が義兄さんだ、このっ!」天野は罵声を飲み込んだ。「今は違和感があるだろうけど」涼は真面目な声で言う。「何度も呼んでたら慣れてくるさ」「命が惜しくないのか?」天野は冷たく言い放つ。涼は話を戻した。「瑛優を連れに行かないなら、俺が行くぞ。でも拳が止まらなくなるかもしれない。鹿谷のヤツを刑務所送りにしてぇとこだが……夕月が悲しむからな。そんなことはできない」涼の切ない独白を聞きながら、天野はこめかみが痛くなってきた。もう我慢の限界だ。思い切って打ち明けることにした。「鹿谷は女だ。夕月の親友なんだよ、バカ野郎!お前の名義のレーシングクラブに所属してた時も、ちゃんと確認し――」天野の荒々しい声に、涼の長い睫毛が跳ね上がった。脳が二秒ほど停止する。我に返って、震える声で尋ねる。「鹿谷は……女?」天野の「ああ」という返事を待つ間もなく、「今から性転換手術、間に合うかな?」「……」天野の口角が上がり、鋭い光が目に宿る。冷ややかに言い放つ。「言った通りにしろよ」一瞬にして死にかけていた涼に生気が戻る。「夕月の心の中のナンバー2の座は、絶対にお前には渡さないからな!」電話が切れ、天野の頭上に疑問符が浮かぶ。携帯を置き、バーベルを持ち上げて激しいトレーニングを再開する。桐
夕月が手を差し伸べ、桜都へ連れて来てくれた。夕月と比べれば、自分の才能なんて取るに足らない。桜都での最初の一年、夕月は自分の奨学金で鹿谷の生活を支えてくれた。月光レーシングクラブにスカウトされた夕月は、マネージャーに鹿谷をコ・ドライバーとして推薦してくれた。ヴィンセントたちは高給で雇われた海外エンジニアで、最初は全く意思疎通ができなかったのに。夕月はずっと手を繋いで、共に走り続けてくれた。二人が別々の道を選んだとき、夕月は貯金のほとんどを鹿谷の留学費用に注ぎ込んでくれた。「14歳の時、橘凌一先生が桜都に連れて来てくれた時のこと。一番高価な服を着せられて、輸入文具を使わせてもらって。専用車に、高級マンション。でも先生は私を甘やかすためじゃなく、余計な労働や社交から解放して、勉強に集中させるためにそうしてくれたの。今20歳の私も、あなたにそんな生活をさせてあげたかった。M国の中心都市、メトロ・ベイの高級住宅街のマンションで、最高の学校に通わせて、衣食住全てを最高のものに。伶、もっと高く、もっと遠くまで羽ばたいてほしかったの」夕月の言葉を、鹿谷は今でも鮮明に覚えていた。夕月の肩に頭を預けながら、「君の言う通り、いろんな分野を学んだよ。でも研究者には向いてないって分かって、芸術とデザイン、鑑定の道に進んだんだ。君が学費という重荷を支えてくれたから、僕は自信を持って夢に向かえた。夕月、僕のブランドがメゾン・コレクションに出られて、桜国風ジュエリーがM国の映画界で引っ張りだこになった。君の支えがなければ、頂点には立てなかった。僕をより良い自分に導いてくれたんだ。今度は僕が、君をより輝かせる番だよ!」耳まで真っ赤になりながら、長年心に秘めていた言葉を、やっと口にすることができた。夕月の胸の中で熱い何かが溢れ出す。両手で鹿谷のほんのり桜色に染まった頬を包み込むように触れながら、「ええ、今度は私が、あなたの期待に応える番ね」と静かに答えた。「瑛優ちゃん、鹿谷が家にいて迷惑じゃない?」寝室で瑛優がスマートウォッチに届いた涼からのボイスメッセージを再生する。録音ボタンを押して、甘い声で返信する。「涼おじさん、私は全然平気だよ。鹿谷さんもくつろいでるの。さっきなんてママの料理食べて、感動して泣き