夕月の直筆サインがある示談書を、必ず手に入れる。「示談書にサインすると思う?」夕月は皮肉な笑みを浮かべる。「いくらなら書くんだ」。男は苛立ちを隠さず、白紙の小切手を差し出した夕月はそれを受け取り、唇の端を歪めて「ペンを」せっかく来たお金を断る理由はない。冬真が弁護士に目配せすると、すぐにペンが差し出された。夕月は躊躇なく金額を書き込む。「先にサインして」と小切手を渡す。冬真は書かれた数字を見て、息を呑んだ。「20億円?」墨のように黒い瞳が冷たく光る。「これは恐喝だな」軽蔑を込めて吐き捨てた。夕月は即座に声を上げた。「警察の方、見てください!橘さんが白紙の小切手を渡して私に金額を書けと言い、書いたら恐喝だと言うんです。これって罠じゃありませんか?!」警官二人と弁護士が同時に咳払いをして目を伏せる。「橘さん、ご希望の金額をおっしゃってはどうですか?藤宮さんと話し合えるかもしれません」と警官が促す。弁護士も続く。「そうですね。わざわざ伺ったのは、誠意を持って示談をお願いするためですから」「2千万円」冬真が言い放つ。夕月は嘲るように笑う。「楓の価値がたった2千万円なの?」男の呼吸が乱れる。「お前が受け取れるのはその程度だ」夕月は柔らかな目元を細める。「和解する気がないようですね。どうぞお帰りください」ドアを閉めようとする夕月の動きを、冬真が大きな手でさえぎる。「6千万円だ!」「市場で値切り合いでもしてると思ってるの?」夕月は冬真の口調を真似る。「よく聞きなさい。チャンスは一度きりよ!」先程の彼の言葉を、そのまま投げ返す。「2億円。私に2億、星来くんにも2億。嫌なら出て行って!」さらに付け加える。「私への2億円は楓の口座からよ」冬真が口を開きかけたところを、夕月が先回りして言い切る。「口座に足りなければ、藤宮家が立て替えるでしょうね」冬真は女の白磁のような顔立ちを見つめる。まるで研ぎ澄まされた刃のように、直視できないほどの輝きを放っている。かつての夕月はそうではなかった。上品な翡翠のように、ただ静かに傍らに佇み、時には存在さえ感じさせないほどだった。冬真が盛樹に電話すると、盛樹は2億円の賠償金を娘に払うのは左手から右手に金を移すようなものだと考えた。どうせ最
夕月はスマートフォンのストップウォッチを起動し、画面を冬真に向ける。刻々と変わる数字が、まるで銃弾のように冬真の胸を貫く。かつて、彼がしてきたことだ。今や、傲慢な橘グループの社長が時限装置に縛り付けられている。警官が頷きながら言う。「藤宮さんの提案は素晴らしいですね。橘さん、楓さんを説得して謝罪動画を撮ってもらえませんか?999のいいねが集まれば、我々も報告書に添付できますし」初めて冬真は自分が炎上する薪の上に載せられたような感覚を味わっていた。この居心地の悪さに耐えかね、険しい顔で不本意にもスマートフォンを取り出す。夕月が掲げるタイマーを睨みつけながら、強いられるように電話をかける。まさか自分がこんな日を迎えるとは――夕月に追い詰められる立場になるなど。だが不思議なことに、彼女にそこまで圧倒されることで、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。楓は今、留置所にいて携帯は使えない。だが冬真は弁護士を彼女の傍に付けていた。弁護士が電話に出て、冬真の指示通りにスピーカーを入れる。鉄の椅子に手錠で繋がれた楓に、冬真の声が届く。「楓、今すぐ警察の指示に従って謝罪動画を撮影して。SNSに投稿して、999のいいねを集めるんだ」楓は呆然とする。「冬真!なんでそんなことしなきゃいけないの?」まるで裸で水車を回すように、みっともない真似を強いられるなんて。「999のいいねが集まれば釈放されるんだ!」「イヤよ!恥ずかしすぎる!」楓は泣き出しそうになる。夕月は爪先で画面を軽くタップし、残り時間を示す。欠伸を漏らしながら、だらしない声で言う。「3分過ぎて動画が撮れてなかったら、示談書にはサインしないわよ」楓の耳に夕月の声が届いた途端、まるで導火線に火がついたように激高する。「藤宮夕月!またあんたの卑怯な策略なんでしょう!?」楓は胸を激しく上下させながら、鉄の椅子に体を打ちつけ、ガンガンと金属音を響かせる。「残り2分よ」夕月は静かに告げる。「原稿を用意して読ませろ」冬真は楓の隣にいる弁護士に命じる。「冬真……!あなたまで私をこんな目に!」楓の声が涙で震える。「エキシビションに出場したくないのか?」「出なければいいじゃない!」楓が不満げに呟く。冬真は心の中で罵詈雑言を吐く。この程度の覚
もし冬真が楓と向き合っていれば、彼女の様子がいつもと違うことに気付いたはずだった。「橘さん、謝罪文を作成しました」携帯から弁護士の声が響く。冬真は夕月のスマートフォンの時間表示をちらりと見る。「ビデオを撮影して、読み上げさせろ」楓側の弁護士に命じる。弁護士は三脚でスマートフォンを固定し、原稿を画面の横に置く。楓がカメラを見ながら読めるような位置だ。楓は舌を噛みしめ、血が滲みそうなほどだった。夕月のやり方は度を超えている!!だが楓はすぐに思い直した。国際エキシビションレースに出場さえできれば、冬真の目には汐の遺志を継ぐ者として映るはず。そうすれば、彼女は冬真にとって唯一無二の存在になれる!レースに出られさえすれば、今失った名誉も、かつての仲間たちも、きっと戻ってくる!鼻腔に血の匂いを感じながら、楓は弁護士の書いた謝罪文を一字一句、噛み締めるように読み上げた。「み、皆さん、こんにちは。藤宮楓です。雲上牧場での件で……」楓は舌を噛み、言葉を詰まらせた。腫れた目が引いた時、すぐにLINEグループ「桜都会」を開いてみると、そこには自分一人しか残っていなかった。真を筆頭に、全員が退会していた。そして、盛樹に竹刀で尻を叩かれながら謝罪する動画が冬真によって投稿され、グループのメンバーたちは一斉に楓を非難し始めていた。楓は急いで親友だと思っていた連中にメッセージを送ったが、どの御曹司たちからもブロックされていた。怒りと屈辱で血を吐きそうになる。夕月への殺意は頂点に達していた。仲間たちに電話をかけようとした矢先、警察に携帯を没収された。今また恥さらしの謝罪動画を撮って投稿しなければならない。そんなことがどうしてできるだろうか。「残り一分よ」夕月の澄んだ声が響く。冬真は目の前の夕月を見つめ、一瞬我を忘れたように立ち尽くした。電話越しに冬真の焦れた声が響く。「楓!きちんと謝れないなら、もう二度と私の前に現れるな!」「冬真!」楓は泣き崩れた。「わかったわ……全部言う通りにする……うぅ……!」哀れっぽい声で懇願する。楓はスマホのカメラを見据え、弁護士の用意した謝罪文を読み直し始めた。「……雲上牧場にて、藤宮夕月さんと橘星来くんを斜面から突き落とし、石を投げつけたため、警察に身柄を拘
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
藤宮夕月(ふじみやゆづき)は娘を連れて、急いでホテルに向かった。すでに息子の5歳の誕生日パーティーは始まっていた。橘冬真(たちばなとうま)は息子のそばに寄り添い、ロウソクの暖かな光が子供の幼い顔を照らしていた。悠斗(ゆうと)は小さな手を合わせ、目を閉じて願い事をした。「僕のお願いはね、藤宮楓(いちのせかえで)お姉ちゃんが僕の新しいママになってくれること!」藤宮夕月(ふじみやゆづき)の体が一瞬震えた。外では激しい雨が降っていた。娘とバースデーケーキを濡らさないようにと傘を差し出したが、そのせいで自分の半身はずぶ濡れになっていた。服は冷たい氷のように張り付き、全身を包み込む。「何度言ったらわかるの?『お姉ちゃん』じゃなくて、『楓兄貴(かえであにき)』って呼びな!」藤宮楓は豪快に笑いながら言った。「だってさ、私とお前のパパは親友だぜ~?だからママにはなれないけど、二番目のパパならアリかもな!」彼女の笑い声は個室に響き渡り、周りの友人たちもつられて笑い出した。だが、この場で橘冬真をこんな風にからかえるのは、藤宮楓だけだった。悠斗はキラキラした瞳を瞬かせながら、藤宮楓に向かって愛嬌たっぷりの笑顔を見せた。「で、悠斗はどうして急に新しいママが欲しくなったんだ?」藤宮楓は悠斗の頬をむぎゅっとつまみながら尋ねた。悠斗は橘冬真をちらりと見て、素早く答えた。「だって、パパは楓兄貴のことが好きなんだもん!」藤宮楓は爆笑した。悠斗をひょいっと膝の上に乗せると、そのまま橘冬真の肩をぐいっと引き寄せて、誇らしげに言った。「悠斗の目はね、ちゃーんと真実を見抜いてるのさ~!」橘冬真は眉をひそめ、周囲の人々に向かって淡々と言った。「子供の言うことだから、気にするな」まるで冗談にすぎないと言わんばかりだった。だが、子供は嘘をつかない。誰もが知っていた。橘冬真と藤宮楓は、幼い頃からの幼馴染だったことを。藤宮楓は昔から男友達の中で育ち、豪快な性格ゆえに橘家の両親からはあまり気に入られていなかった。一方で、藤宮夕月は18歳のとき、藤宮家によって見つけ出され、家の期待を背負って、愛情を胸に抱きながら橘冬真と結婚した。そして、彼の子を産み、育ててきたのだった。個室の中では、みんなが面白がって煽り始
藤宮楓は振り返り、橘冬真にいたずらっぽく舌を出した。「夕月、また勘違いしてるわ、今すぐ説明してくるね!」「説明することなんてないさ。彼女が敏感すぎるだけだ」橘冬真は淡々とした表情で、藤宮夕月が置いていった半分の誕生日ケーキをちらっと見て、眉を少しひそめた。橘冬真の言葉で、周りの人々は皆、安心したように息をついた。藤宮夕月は腹を立てて出て行っただけで、何も大したことじゃない。他の人たちは口々に同調した。「夕月はただ気が立っていただけ、冬真が帰ったらすぐに宥めればいいさ」「そうだよ、夕月が本当に冬真と離婚するなんて、あり得ない。誰でも知ってるよ、夕月は冬真のために命がけで子供を産んだんだから」「もしかしたら、外に出た瞬間に後悔して戻ってくるかもね!」「さあさあ、ケーキを食べよう!冬真が帰ったら、夕月はすぐに家の前で待っているだろうね!」橘冬真は眉を緩め、藤宮夕月が怯えて、何も言わずに自分を気遣って立つ姿を想像できた。悠斗は美味しそうに、藤宮楓が持ってきたケーキを食べている。クリームが口の中に広がり、舌がしびれるような感覚がするが、彼は気にしなかった。ママはもう自分のことを気にしない。なんて素晴らしいことだろう。誕生日の宴が終わり、橘冬真は車の中で目を閉じて休んでいた。窓から差し込む光と影が、彼の顔を明滅させていた。「パパ!体がかゆい!」悠斗は小さな猫のように低い声で訴えた。橘冬真は目を開け、頭上のライトを点けた。そこには悠斗の赤くなった顔があり、彼は体を掻きながら呼吸が荒くなっていた。「悠斗!」橘冬真はすぐに悠斗の手を押さえ、彼の首に赤い発疹が広がっているのを見た。悠斗はアレルギー反応を起こしている。橘冬真の表情は相変わらず冷徹だったが、すぐにスマートフォンを取り出して、藤宮夕月に電話をかけた。電話がつながった瞬間、彼が話そうとしたその時、電話越しに聞こえてきたのは、「おかけになった電話は現在使われておりません」橘冬真の細長い瞳に冷たい怒りが湧き上がった。子供がアレルギーを起こしているのに、藤宮夕月は無視しているのか?「運転手、速くしろ。藤宮家へ戻れ!」彼は悠斗を抱えて家に戻った。玄関を見やると、そこはいつも通りではなく、藤宮夕月が待っているはずの場所に誰もいなかった。佐
橘冬真はスコットランドエッグを食べたいと言ったが、実際は佐藤さんに藤宮夕月に連絡を取らせるためだった。彼はすでに藤宮夕月に逃げ道を作っている。「奥様は、もう帰らないと言ってます」「くっ…くっ…!」橘冬真はコーヒーをむせて、咳き込んだ。抑えきれずに咳が止まらない。佐藤さんは何かを察した。「橘様と奥様、喧嘩でもされたんですか?」「余計なことを言うな!」男は低い声で一喝し、レストランの中の温度が急激に下がった。佐藤さんは首をすくめて、それ以上何も言えなかった。橘冬真は手にしたマグカップをぎゅっと握りしめた。藤宮夕月が帰らないなんてあり得ない。今頃、彼女は会社に送る愛情たっぷりのお弁当を準備しているはずだ。以前は、藤宮夕月が彼を怒らせると、昼食を自分で会社に届けに来て、和解を求めてきたものだ。美優は食卓の前に座り、朝食を見て目を輝かせた。「わぁ!ピータンチキン粥だ!」美優はピータンチキン粥が大好きだが、悠斗はピータンを見ると吐き気を催す。藤宮家では、藤宮夕月が粥を作ることはほとんどない。橘冬真と悠斗は粥が嫌いだからだ。藤宮大奥様も言っていた、それは貧しい人たちが食べるものだと。貧しい家では米が足りないから粥を作るのだ。藤宮家では、三食きちんとした栄養バランスを取ることが重要だ。藤宮夕月が、たとえ彼女が作る粥に栄養があって、子どもたちに食べさせれば消化を助けると思っても、それでもピータン、鶏肉、青菜を入れると、藤宮家の人々からは「ゴミみたいだ」と笑われ、気持ち悪いと言われてしまう。特に悠斗のためにピータンを入れずに鶏肉と青菜だけで粥を作った時、悠斗はそれをゴミ箱に捨て、藤宮夕月は二度と粥を作ることはなくなった。彼女は悠斗に、食べ物を無駄にしてはいけないと教えていた。悠斗は怒って彼女に訴えた。「これは豚に食べさせるものだ!どうして僕に食べさせるの!ママはやっぱり田舎から来たんだな!」藤宮夕月は胸が詰まる思いがし、ふと我に返ると、美優はすでにチキン粥を食べ終えていた。美優は満腹でげっぷをし、きれいに舐めたお椀を見つめながら、まだ少し食べ足りないような表情を浮かべた。「祖母の家に来ると、ピータンチキン粥が食べられるんだね?」藤宮夕月は彼女に言った。「これからは、食べたいものを食べよう。他の人
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN
もし冬真が楓と向き合っていれば、彼女の様子がいつもと違うことに気付いたはずだった。「橘さん、謝罪文を作成しました」携帯から弁護士の声が響く。冬真は夕月のスマートフォンの時間表示をちらりと見る。「ビデオを撮影して、読み上げさせろ」楓側の弁護士に命じる。弁護士は三脚でスマートフォンを固定し、原稿を画面の横に置く。楓がカメラを見ながら読めるような位置だ。楓は舌を噛みしめ、血が滲みそうなほどだった。夕月のやり方は度を超えている!!だが楓はすぐに思い直した。国際エキシビションレースに出場さえできれば、冬真の目には汐の遺志を継ぐ者として映るはず。そうすれば、彼女は冬真にとって唯一無二の存在になれる!レースに出られさえすれば、今失った名誉も、かつての仲間たちも、きっと戻ってくる!鼻腔に血の匂いを感じながら、楓は弁護士の書いた謝罪文を一字一句、噛み締めるように読み上げた。「み、皆さん、こんにちは。藤宮楓です。雲上牧場での件で……」楓は舌を噛み、言葉を詰まらせた。腫れた目が引いた時、すぐにLINEグループ「桜都会」を開いてみると、そこには自分一人しか残っていなかった。真を筆頭に、全員が退会していた。そして、盛樹に竹刀で尻を叩かれながら謝罪する動画が冬真によって投稿され、グループのメンバーたちは一斉に楓を非難し始めていた。楓は急いで親友だと思っていた連中にメッセージを送ったが、どの御曹司たちからもブロックされていた。怒りと屈辱で血を吐きそうになる。夕月への殺意は頂点に達していた。仲間たちに電話をかけようとした矢先、警察に携帯を没収された。今また恥さらしの謝罪動画を撮って投稿しなければならない。そんなことがどうしてできるだろうか。「残り一分よ」夕月の澄んだ声が響く。冬真は目の前の夕月を見つめ、一瞬我を忘れたように立ち尽くした。電話越しに冬真の焦れた声が響く。「楓!きちんと謝れないなら、もう二度と私の前に現れるな!」「冬真!」楓は泣き崩れた。「わかったわ……全部言う通りにする……うぅ……!」哀れっぽい声で懇願する。楓はスマホのカメラを見据え、弁護士の用意した謝罪文を読み直し始めた。「……雲上牧場にて、藤宮夕月さんと橘星来くんを斜面から突き落とし、石を投げつけたため、警察に身柄を拘
夕月はスマートフォンのストップウォッチを起動し、画面を冬真に向ける。刻々と変わる数字が、まるで銃弾のように冬真の胸を貫く。かつて、彼がしてきたことだ。今や、傲慢な橘グループの社長が時限装置に縛り付けられている。警官が頷きながら言う。「藤宮さんの提案は素晴らしいですね。橘さん、楓さんを説得して謝罪動画を撮ってもらえませんか?999のいいねが集まれば、我々も報告書に添付できますし」初めて冬真は自分が炎上する薪の上に載せられたような感覚を味わっていた。この居心地の悪さに耐えかね、険しい顔で不本意にもスマートフォンを取り出す。夕月が掲げるタイマーを睨みつけながら、強いられるように電話をかける。まさか自分がこんな日を迎えるとは――夕月に追い詰められる立場になるなど。だが不思議なことに、彼女にそこまで圧倒されることで、心臓が激しく鼓動を打ち始めた。楓は今、留置所にいて携帯は使えない。だが冬真は弁護士を彼女の傍に付けていた。弁護士が電話に出て、冬真の指示通りにスピーカーを入れる。鉄の椅子に手錠で繋がれた楓に、冬真の声が届く。「楓、今すぐ警察の指示に従って謝罪動画を撮影して。SNSに投稿して、999のいいねを集めるんだ」楓は呆然とする。「冬真!なんでそんなことしなきゃいけないの?」まるで裸で水車を回すように、みっともない真似を強いられるなんて。「999のいいねが集まれば釈放されるんだ!」「イヤよ!恥ずかしすぎる!」楓は泣き出しそうになる。夕月は爪先で画面を軽くタップし、残り時間を示す。欠伸を漏らしながら、だらしない声で言う。「3分過ぎて動画が撮れてなかったら、示談書にはサインしないわよ」楓の耳に夕月の声が届いた途端、まるで導火線に火がついたように激高する。「藤宮夕月!またあんたの卑怯な策略なんでしょう!?」楓は胸を激しく上下させながら、鉄の椅子に体を打ちつけ、ガンガンと金属音を響かせる。「残り2分よ」夕月は静かに告げる。「原稿を用意して読ませろ」冬真は楓の隣にいる弁護士に命じる。「冬真……!あなたまで私をこんな目に!」楓の声が涙で震える。「エキシビションに出場したくないのか?」「出なければいいじゃない!」楓が不満げに呟く。冬真は心の中で罵詈雑言を吐く。この程度の覚
夕月の直筆サインがある示談書を、必ず手に入れる。「示談書にサインすると思う?」夕月は皮肉な笑みを浮かべる。「いくらなら書くんだ」。男は苛立ちを隠さず、白紙の小切手を差し出した夕月はそれを受け取り、唇の端を歪めて「ペンを」せっかく来たお金を断る理由はない。冬真が弁護士に目配せすると、すぐにペンが差し出された。夕月は躊躇なく金額を書き込む。「先にサインして」と小切手を渡す。冬真は書かれた数字を見て、息を呑んだ。「20億円?」墨のように黒い瞳が冷たく光る。「これは恐喝だな」軽蔑を込めて吐き捨てた。夕月は即座に声を上げた。「警察の方、見てください!橘さんが白紙の小切手を渡して私に金額を書けと言い、書いたら恐喝だと言うんです。これって罠じゃありませんか?!」警官二人と弁護士が同時に咳払いをして目を伏せる。「橘さん、ご希望の金額をおっしゃってはどうですか?藤宮さんと話し合えるかもしれません」と警官が促す。弁護士も続く。「そうですね。わざわざ伺ったのは、誠意を持って示談をお願いするためですから」「2千万円」冬真が言い放つ。夕月は嘲るように笑う。「楓の価値がたった2千万円なの?」男の呼吸が乱れる。「お前が受け取れるのはその程度だ」夕月は柔らかな目元を細める。「和解する気がないようですね。どうぞお帰りください」ドアを閉めようとする夕月の動きを、冬真が大きな手でさえぎる。「6千万円だ!」「市場で値切り合いでもしてると思ってるの?」夕月は冬真の口調を真似る。「よく聞きなさい。チャンスは一度きりよ!」先程の彼の言葉を、そのまま投げ返す。「2億円。私に2億、星来くんにも2億。嫌なら出て行って!」さらに付け加える。「私への2億円は楓の口座からよ」冬真が口を開きかけたところを、夕月が先回りして言い切る。「口座に足りなければ、藤宮家が立て替えるでしょうね」冬真は女の白磁のような顔立ちを見つめる。まるで研ぎ澄まされた刃のように、直視できないほどの輝きを放っている。かつての夕月はそうではなかった。上品な翡翠のように、ただ静かに傍らに佇み、時には存在さえ感じさせないほどだった。冬真が盛樹に電話すると、盛樹は2億円の賠償金を娘に払うのは左手から右手に金を移すようなものだと考えた。どうせ最
その言葉に、冬真の顔から嘲笑の表情が凍りついた。シャワーを浴びたばかりの夕月は、髪も乾かさないまま飛び出してきていた。濡れた黒髪が肩の布地を湿らせ、数本の髪が白く長い首筋に張り付いている。肌は湯気で桜色に染まり、襟元から鎖骨のラインが鮮やかに浮かび上がっていた。そんな姿に見入る冬真の喉仏が揺れ、呼吸が自然と乱れる。警官たちは意味ありげな視線を冬真に向ける。「はっ」冬真は苦々しく笑う。「わざと私を怒らせてるのか?楓との関係と同じだと言うのか?」「橘さん、まずは手を離してください」警官の一人が促す。「このままでは不法侵入になりますよ」夕月がモップを下ろすと、冬真も鹿谷の襟を手放した。夕月は即座に鹿谷の手を掴み、背後に庇うように立つ。鹿谷の顔から血の気が引いていた。襟を掴まれた衝撃で、埋もれていたはずの過去の記憶が一気に押し寄せてきていた。夕月が鹿谷を必死に庇う姿を見て、冬真は鼻で笑うように冷たい音を立てた。「私と伶は幼い頃からの付き合いよ。ずっと親密な関係だった。でも純粋な友情以外の何物でもない。もし私たちが本当にそういう関係になりたかったなら、7年前、あなたに出番なんてなかったはずでしょう?」嫌味な言い方に、冬真の表情が強張る。『楓とは20年以上の付き合いだ。私たちに何かがあったとしても、お前に関係あるか?』「橘冬真、あなたは結婚期間中も楓と兄弟のように親しくしていた。でも私は結婚している間、一度も親友と連絡を取らなかった。私はあなたに対して誠実だった。じゃあ、あなたはどう?私に対して誠実だったの?」冬真の顔が石のように硬くなり、引き締まった顎に力が入る。「元妻の家に泊まることのどこが悪いの?あなただって楓と同じホテルの部屋で一晩過ごしたじゃない」「私と楓は何もない!」冬真の眉間に深い皺が刻まれる。夕月は嘲るように笑い、鹿谷の腕に自分の腕を絡ませる。「そう、あなたと楓が一番潔白なのよね。だったら、その汚れた考えで、私と伶の絆を侮辱しないで!」冬真の胸の中は、まるで子猫に毛糸玉を引き裂かれたように乱れていた。夕月が自分と楓の親密さを気にしていたことは分かっていた。だが、妻の気持ちなど考えたこともなかった。楓が友情以上の感情を抱いているのは知っていた。自分が一線を越えなければいい、
橘冬真は目を上げ、表札を確認する。間違いない。確かに夕月が瑛優と借りているマンションだ。鹿谷はグレーのチェック柄パジャマに、ゆったりとしたルームガウンを羽織っている。どちらもジェンダーレスな雰囲気だ。スキンケアを始めようとしていたところで、スポーツヘアバンドで前髪を上げていた。そんな姿は、あどけなさの残る爽やかな少年にしか見えない。「橘冬真!」鹿谷は一瞬で表情を引き締めた。直接の面識はない。5年前、数回ほど偶然出くわした時も、遠くから一瞥しただけだった。だが、冬真の情報は徹底的に集めていた。夕月との離婚を知ってからは、冬真の写真をダーツの的にしていたくらいだ。冬真の険しい視線が鹿谷の顔を這う。威圧的なオーラが爆発するように放たれる。「鹿谷伶だな?」帝王のように高みから命じる。「死にたくなければ、消えろ」後ろの警官二人が同時に咳払いをする。「橘さん、落ち着いてください!」警察をまるで眼中にないかのような態度だった。「伶」バスルームのすりガラス越しに夕月の声が響く。「ボディクリーム、持って来るの忘れちゃった」鹿谷は即座に応える。「今持って行くよ!」さっきまでのシャワーの音で、チャイムが聞こえなかったのだろう。夕月は少し考えて、「いいわ、後で出るから。塗るの手伝ってくれる?」「夕月、まだ出てこないで!」鹿谷は慌てて叫ぶ。バスルームの中で、夕月は首を傾げて立ち止まった。鹿谷はドアノブに手をかけたまま、仇敵を見るような目で冬真を睨みつける。「出て行くべきなのはお前の方だ!!」7年分の憎しみが、この瞬間に爆発する!仇同士の対面は、互いの目を血走らせる。清水秘書が空港で夕月が見知らぬ男性と腕を組んで歩く写真を送ってきた時から、冬真の心は煮えくり返っていた。そして今、パジャマ姿の見知らぬ男が夕月の家にいるのを目の当たりにする。しかも夕月は、こいつにボディクリームを塗らせようとしている!理性が溶岩のような怒りに飲み込まれていく。こんな小鶏のような体つきの男と夕月が関係を持っているなど、自分への侮辱以外の何物でもない!冬真は手を伸ばし、鹿谷の襟首を掴む!引き上げようとする腕に力が込められる。警官二人が慌てて冬真の腕を押さえつける。「橘さん!冷静
二度ほど部屋を行ったり来たりした後、天野に電話をかけた。「はい」不機嫌そうな天野の声。そこへ涼の切迫した声が飛び込む。「義兄さん!すぐに瑛優を迎えに行ってくれ!やっと再会できた昔の恋人と二人きりにしてやれよ!来週エキシビション出場なんだ。夕月の体のことだけは気にかけてる。今夜だけは好きにさせてやって、明日からは節制だ!」その言葉を吐き出しながら、涼は自分の心臓が締め付けられるような痛みを感じていた。電話の向こうで、スポーツジムにいる天野の深いブルーのドライシャツは、汗で濃い色に染まっていた。短く刈り込んだ髪も汗で湿り、ハリネズミの針のように一本一本が立っている。薄い唇を引き締め、胸が大きく上下する。濡れたシャツが胸板にぴったりと張り付き、逞しい胸筋の起伏が浮き彫りになっていた。片手に携帯、もう片方の手には20キロのダンベルを握っている。今、涼が目の前にいたら、躊躇なくこのダンベルを頭に叩き込んでやるところだった。「誰が義兄さんだ、このっ!」天野は罵声を飲み込んだ。「今は違和感があるだろうけど」涼は真面目な声で言う。「何度も呼んでたら慣れてくるさ」「命が惜しくないのか?」天野は冷たく言い放つ。涼は話を戻した。「瑛優を連れに行かないなら、俺が行くぞ。でも拳が止まらなくなるかもしれない。鹿谷のヤツを刑務所送りにしてぇとこだが……夕月が悲しむからな。そんなことはできない」涼の切ない独白を聞きながら、天野はこめかみが痛くなってきた。もう我慢の限界だ。思い切って打ち明けることにした。「鹿谷は女だ。夕月の親友なんだよ、バカ野郎!お前の名義のレーシングクラブに所属してた時も、ちゃんと確認し――」天野の荒々しい声に、涼の長い睫毛が跳ね上がった。脳が二秒ほど停止する。我に返って、震える声で尋ねる。「鹿谷は……女?」天野の「ああ」という返事を待つ間もなく、「今から性転換手術、間に合うかな?」「……」天野の口角が上がり、鋭い光が目に宿る。冷ややかに言い放つ。「言った通りにしろよ」一瞬にして死にかけていた涼に生気が戻る。「夕月の心の中のナンバー2の座は、絶対にお前には渡さないからな!」電話が切れ、天野の頭上に疑問符が浮かぶ。携帯を置き、バーベルを持ち上げて激しいトレーニングを再開する。桐
夕月が手を差し伸べ、桜都へ連れて来てくれた。夕月と比べれば、自分の才能なんて取るに足らない。桜都での最初の一年、夕月は自分の奨学金で鹿谷の生活を支えてくれた。月光レーシングクラブにスカウトされた夕月は、マネージャーに鹿谷をコ・ドライバーとして推薦してくれた。ヴィンセントたちは高給で雇われた海外エンジニアで、最初は全く意思疎通ができなかったのに。夕月はずっと手を繋いで、共に走り続けてくれた。二人が別々の道を選んだとき、夕月は貯金のほとんどを鹿谷の留学費用に注ぎ込んでくれた。「14歳の時、橘凌一先生が桜都に連れて来てくれた時のこと。一番高価な服を着せられて、輸入文具を使わせてもらって。専用車に、高級マンション。でも先生は私を甘やかすためじゃなく、余計な労働や社交から解放して、勉強に集中させるためにそうしてくれたの。今20歳の私も、あなたにそんな生活をさせてあげたかった。M国の中心都市、メトロ・ベイの高級住宅街のマンションで、最高の学校に通わせて、衣食住全てを最高のものに。伶、もっと高く、もっと遠くまで羽ばたいてほしかったの」夕月の言葉を、鹿谷は今でも鮮明に覚えていた。夕月の肩に頭を預けながら、「君の言う通り、いろんな分野を学んだよ。でも研究者には向いてないって分かって、芸術とデザイン、鑑定の道に進んだんだ。君が学費という重荷を支えてくれたから、僕は自信を持って夢に向かえた。夕月、僕のブランドがメゾン・コレクションに出られて、桜国風ジュエリーがM国の映画界で引っ張りだこになった。君の支えがなければ、頂点には立てなかった。僕をより良い自分に導いてくれたんだ。今度は僕が、君をより輝かせる番だよ!」耳まで真っ赤になりながら、長年心に秘めていた言葉を、やっと口にすることができた。夕月の胸の中で熱い何かが溢れ出す。両手で鹿谷のほんのり桜色に染まった頬を包み込むように触れながら、「ええ、今度は私が、あなたの期待に応える番ね」と静かに答えた。「瑛優ちゃん、鹿谷が家にいて迷惑じゃない?」寝室で瑛優がスマートウォッチに届いた涼からのボイスメッセージを再生する。録音ボタンを押して、甘い声で返信する。「涼おじさん、私は全然平気だよ。鹿谷さんもくつろいでるの。さっきなんてママの料理食べて、感動して泣き