冬真の表情が強張り、鋭い喉仏が震えた。「分かったなら『はい』と答えなさい」凌一の声は相変わらず穏やかだった。冬真は頭皮が痺れるような感覚に襲われながら、いつもの傲慢な頭を下げた。「……はい」敗北した将軍のように、広い肩に暗い影が落ちる。返事を確認した凌一は、満足げに部屋を後にした。夕月は車椅子に座る凌一の横を歩きながら、柔らかな声で言った。「橘博士、助けていただき、ありがとうございます」瑛優も母の後に続いて、キラキラした目で凌一を見上げた。「すごいです、橘博士!」小さな頭の中では、まだあの衝撃的な光景が残っていた。生まれて初めて、いつもの威厳に満ちた父が、まるで別人のように萎縮する姿を目の当たりにしたのだ。瑛優は憧れの眼差しで凌一を見つめた。彼女にとって、凌一は父をも超える存在に映っていた。「昔のように、先生と呼んでくれていい」凌一は眉を少し寄せた。夕月が"博士"と呼ぶたび、何か違和感を覚えるのだ。まるで二人の間にあった親しい関係など、なかったかのように。確かに夕月は昔、彼を深く信頼し、頼りにしていたのに……「昔は、お兄さんって呼んでいましたよね」夕月は目尻を下げて微笑んだ。どうしてお兄さんと呼ばせてくれないの?まるで神様みたいに、距離を置くような。車椅子に座った凌一は、漆黒の瞳を深く沈ませ、何かを思案しているようだった。「じゃあ、ママの先生のことは、なんて呼べばいいの?」瑛優の声が響いた。夕月は娘の肩に優しく手を置いた。「凌一おじさまでいいわ」凌一は長い睫毛を一瞬だけ揺らし、世代を一つ下げられたことを、意外と心地よく感じていた。「冬真の誘いを断ったということは、サミットへの参加機会も失ったことになりますね」サミットは主にビジネス界の人物を招待するもので、数学コンテストで賞を取った夕月とはいえ、まだビジネス界の人間とは言えない。もし大学からの誘いを受けてサミットに参加すれば、その大学と強く結びついてしまうことになる。凌一は車椅子の肘掛けを指先でそっと撫でながら「私から——」「実は、サミットからの招待状をいただいているんです!主催者から直接です!」夕月は嬉しそうに報告した。凌一は本当に自分のことを考えてくれている。冬真の誘いを断ることで生じる不利益まで、心配してくれてい
スタッフの報告を聞き、眉間に深いしわを寄せる。叔父と夕月は、そこまで親しい関係だったのか?記憶を辿っても、二人が言葉を交わす場面など見たことがない。だが冬真はすぐに納得した。叔父は才能を愛でる人物だ。夕月への配慮も、その才能ゆえなのだろう。それに、叔父は古風な人間だ。夕月とは離婚したとはいえ、瑛優の血には橘家の血が流れている。叔父は単に、橘家の孫娘の母親として、彼女に気を配っているに過ぎない。冬真は部下に電話をかけた。「叔父の車を尾行しろ。どこへ向かうのか確認したい」「冬真くん」一度は帰ろうとした盛樹が、センチュリー ノブレスが去っていくのを目撃し、妻と娘を連れて戻ってきた。「博士はなぜ?それに夕月は?まさか博士と一緒に?」盛樹は個室に冬真だけが残っているのを見て、不思議そうに尋ねた。「夕月姉さん、あなたの叔父様とそんなに親しかったの?さっきから夕月姉さんの味方ばかりして」楓の声には妙な響きが混じっていた。冬真は椅子に深く腰掛けたまま、整った顔に冷気を漂わせ、一度目を閉じて深く息を吸い込んだ。再び開いた瞳は、底なしの淵のように暗く沈んでいた。「まだ帰らないのか?」冬真の一喝に、盛樹の体が小さく震えた。「冬真くん、どうしてもサミットの入場券が必要なんです。オームテックが藤宮テックの買収に興味を示していますが、サミットで他の道を探りたくて……」冬真は盛樹の腹の内を見抜いていた。藤宮テックの業績は年々下降の一途を辿り、今年は国の新しい貿易規制で輸出収益が完全に断たれた。海外のオームテックが安値での買収を狙っている今、盛樹は名流が集うサミットで、買収価格を吊り上げてくれる企業を探そうとしているのだ。「来週のサミットのレセプションパーティー、楓と北斗も一緒に来い」冬真の言葉に、盛樹は目を丸くした。「もう、そういう付き合いって大嫌いなのに!」楓は喜びを抑えきれない様子で声を上げた。「先に言っておくけど、ドレスは絶対着ないからね!」「好きにしろ」楓がドレスを着ようが着まいが、どうでもいい。夕月との対立を意識した冬真の頭の中には、別の思惑が渦巻いていた。自分の好意を突っぱねた夕月への報復——手に入れられるはずもない招待状が、他の者にとっては朝飯前というところを見せつけてやる。藤宮家の
アシスタントの膝上のノートパソコンには追跡車両の詳細が映し出されていた。スカイネットシステムで即座に車両を特定したのだ。夕月は思わず額に手を当てた。元夫ってば、本気で病んでるんじゃない?凌一の漆黒の瞳に、かすかな笑みのような感情が宿る。「君の元夫は、随分と執着が強いようだね」その言葉には妙な響きがあった。まるで冬真が甥ではなく、まったくの他人であるかのような。「本当に……病気としか思えません」夕月は凌一の前で、冬真への罵倒を必死に抑え込んだ。凌一は前を向いたまま、アシスタントに淡々と指示を出した。「好きにさせておけ」黒いセンチュリー ノブレスは凌一の邸宅へと向かう。敷地から半径五キロ圏内は、人工衛星による厳重な監視下に置かれていた。その範囲内には監視所が点在し、邸宅から一キロ圏内に入ると、十歩ごとに警備員が立っている。車窓の外では、巡回車両が絶え間なく行き交うのが見えた。地下駐車場へと滑り込むセンチュリー ノブレス。凌一が何か言う前に、夕月は期待に輝く目で尋ねた。「先生、ここに連れてきてくださったということは……日興研究センターへの採用が!?」夕月の頭の中では、凌一邸に掲げられた国旗の前で、守秘義務と忠誠を誓う自分の姿が浮かんでいた。「違う」凌一の一言で、夕月の夢想は一瞬で砕け散った。「でも、私、金賞を取りましたよ?」夕月は食い下がる。「たかがコンテストごときが、日興の門戸を開くわけではない」夕月は霜に打たれた茄子のように、すっかり意気消沈してしまった。上唇を軽く噛みながら、鼻筋に落ちた髪の毛を息で払う。薄暗い車内で、凌一はそんな彼女の仕草を興味深げに見つめていた。彼自身も気付いていなかったが、その眼差しには思わず優しさが滲んでいた。「これからは家で資料でも見ていけばいい」その言葉を聞いた途端、夕月の表情が見違えるように明るくなった。今にも凌一の足にすがりつきたい気持ちを必死に抑える。凌一の邸宅は、彼女にとって知識の宝庫そのものだった。車のドアが開き、夕月は瑛優の手を引いて急いで降りた。振り返ると、秘書が凌一を車から車椅子へと移すのが目に入った。動かない両足を見つめる夕月の瞳に、悲しみの色が浮かぶ。車椅子の凌一が彼女の前を通り過ぎながら、冷たく
しかし夕月の前に来ると、急に自制心が働いたように下唇を噛み、桜色の頬を上気させながら、無邪気な笑顔を見せた。「星来くん、久しぶり!抱っこしてもいい?」瑛優が両手を広げると、星来は少し緊張した様子で袖口をぎゅっと握りしめる。「うん!」小さく頷く星来。瑛優が星来を抱きしめると、次の瞬間、彼の足は地面から離れていた。「星来くん、前より重くなったね!ちゃんとご飯食べてるんだ!」瑛優は星来を抱き上げながら、何度か軽く揺らした。星来の顔が一気に真っ赤に染まる。その光景を背に、二列に並んだスタッフ全員が一斉に深々と頭を下げた。「橘様、藤宮様、お嬢様、こんばんは」「こんばんは」瑛優は星来を下ろすと、状況が飲み込めないまま、しかし骨身に染みついた礼儀正しさで、深々と頭を下げて挨拶を返した。夕月も同様に挨拶を交わしながら、心の中で感嘆していた。凌一の邸宅には、こんなにも大勢のメイドさんがいるのだろうか?まるでモデルの集まりのような美しさだ。「藤宮様、私どもはValenciaのVIPサービスチームでございます。こちらが首席デザイナーのイジーダです。本日は橘様のご依頼で、ドレスのお仕立てにまいりました」スタイリッシュなブロンドヘアのデザイナーが、メジャーを手に優雅な笑みを浮かべる。「お久しぶりです、藤宮様。早速、採寸を始めさせていただきましょうか?」14歳の頃、凌一に連れられて桜都にやってきた日を思い出す。サイズの合わない古い服を着て、高層ビルを不安げに見上げていた自分。そう、あの時もValenciaのVIP専用フロアで、イジーダが採寸してくれたのだ。「ここのお洋服、高いんですよね?花橋大に行くのに、こんな高価な服が必要なんでしょうか?」当時の自分は凌一にそう尋ねた。飛び級クラスにこれほどの出費が必要なら、諦めようと思った。実家にそんな余裕はなかったから。凌一の答えは今でも耳に残っている。「君には品位ある生活を送ってほしい。大学は純粋な象牙の塔ではない。凝縮された小さな社会だ。最初は戸惑うかもしれないが、それも成長に必要な過程だ。十分な物質的支援は、君が後顧の憂いなく、胸を張って学業に専念するためのものだ」あれ以来、Valenciaのドレスには特別な思い入れがある。この上質な生地に身を包むと、かつて凌一
「サミットでは、君の輝きを見せてもらおう」凌一の瞳には深い想いが宿っていた。「先生、お支払いは?」夕月は軽い調子で尋ねる。イジーダが優雅に微笑んだ。「藤宮様、どうぞご自由にお選びください。橘様のご指示で、アジア太平洋地域の既製服をすべてお持ちしました。予算の制限はございません」夕月の胸が高鳴る。これは、日興研究センター入りへの布石なのかもしれない。サミットで成果を上げられるよう、凌一は自分を磨き上げようとしているのだ。また一つの試練を与えられたのだと確信した。「先生、素敵な贈り物をありがとうございます。必ず何倍もの価値でお返しします。私の実力をお見せしますから」無垢な笑顔が夕月の麗しい顔に花開いた。凌一が自分に投資してくれるなら、必ずや何倍もの価値で恩返しをしてみせる。瑛優と共にドレスを選び、試着室に入った夕月が姿を現すと——「わぁっ!」ソファに座っていた瑛優が目を輝かせた。キラキラと光るビジューを纏った母の姿を見るのは初めてだった。夕月が優雅に歩を進めると、スカートが星屑のように揺らめく。「ママ、お姫様みたい!」瑛優は両手の親指を立てて見せた。「こちらへ」凌一の声に、夕月は彼の前にそっと膝をつく。「いかがでしょう?」スカートが波紋のように広がり、まるで凌一に最敬礼を捧げるかのような佇まい。凌一はアシスタントが捧げ持つ宝石箱から真珠のネックレスを取り出した。すっと手を伸ばし、夕月の首に直接留め具を掛ける。涼やかな指先が後頸の滑らかな肌に触れ、夕月は思わず息を呑んだ。かすかな接触に、胸の奥が微かに揺らぐ。見上げた瞳には、叙勲を受ける女将のような凛とした決意が宿っていた。瑛優はスマートウォッチでその瞬間を収めた。画面には桐嶋涼からのメッセージが届いていた。最近カピバラにハマっている瑛優のために、ぬいぐるみの写真を送ってきたのだ。瑛優は今撮った写真を即座に涼に送信する。「今日のママ、天使みたい!」法律事務所に戻った涼は、夕月の写真を見て思わず微笑んだ。まるで蓮の花が水面から顔を出したかのような、そんな自然な美しさだ。執務室に腰を下ろし、じっくりと写真を堪能しようとした矢先――視線が写真の端に映り込んだズボンの裾に釘付けになる。誰のズボンだ!?今すぐ切り取って
「落ち着け!」幸雄は制止しようとしたが、既に遅かった。「父さん、はっきり言っておくけど、俺は保守的な男だ。夕月がまた他の男と結ばれるなら、俺は間男になる」幸雄は震える指でキーボードを打った。「愛されない者に、横恋慕の資格があるのか?」涼の返信が途絶える。「息子よ、お前は確かに道徳も品性も怪しいが、横恋慕は思うほど簡単ではないぞ」幸雄は諭すように送信した。涼は完全に凍りついた。十年もの間、暗がりで見守り続けても叶わなかった想い。今更、可能性などあるのだろうか。ソファに力なく横たわり、凌一に眩しい笑顔を向ける夕月の写真を見つめる。「二人の幸せを祈ろう……いや、違う!諦められない!俺が加わって何が悪い?」目を腕で覆い、暗闇の中で苦悶する。奥歯を噛みしめ、独り言を呟く。「凌一の知能指数は200かもしれないが、俺には200分の体力がある!」高尚な魂も素晴らしいが、若く逞しい肉体だって、想像以上の悦びを与えられるはずだ。考えを整理すると、涼は意を決してソファから身を起こした。瑛優にメッセージを送る。「真珠のネックレスも、ママの美しさの前では光を失うね」「瑛優ちゃん、着替えてくるわね」メッセージを読んでいた瑛優の耳に、夕月の声が響く。「ママ!涼おじさんが、ママ綺麗すぎて真珠も霞んじゃうって!」夕月の頬が一気に紅潮する。「桐嶋さんが?どうして知ってるの……」瑛優は母親に、涼とのLINEのやり取りを見せた。「ママの美しい姿を記録したかったの!こんなに素敵で優秀なママがいるって、みんなに知ってもらいたくて!」娘の無邪気な賛辞に、素顔の頬が桜色に染まる。夕月は膝をついて、顎に手を当てながら、慎重に言葉を選んだ。「桐嶋さんに写真を送ってくれた気持ちは嬉しいわ。でも、ママはね……大人の男性の携帯の中で、鑑賞される存在になりたくないの」瑛優は母の言葉の意味を完全には理解できなかったものの、素直に頷いた。「分かった!今の写真、取り消すね。これからは、どのおじさんにもママの写真は送らないよ!」そう言うと、送信してから2分も経っていない写真を即座に取り消した。突然の取り消しに、桐嶋は目を見開いて画面を見つめ、胸に疑問符が渦巻いた。すぐに瑛優からメッセージが届く。「ごめんなさい、涼おじさ
「瑛優」リビングで凌一が静かに呼びかけた。近寄ってきた瑛優に、凌一は尋ねる。「涼おじさんのこと、好き?」先ほどの母娘の会話が耳に残っていた。「うん、大好き!」瑛優は屈託なく答えた。「涼おじさんはすっごくいい人!ママが桐嶋家で授業してる時、私が寝てると、お耳元で天使様が『涼おじさんは素敵な人』って囁いてくれるの!」天使?その一言で、凌一は涼の策略を見抜いた。ふん、狐が自分のバラを咥えて逃げようとしているわけか。「次は寝たふりをして、天使様が話しかけてくるか試してみるといい。声が聞こえたら目を開けろ。そうすれば、天使様に会えるはずだ」瑛優は凌一の提案に大きく頷いた。いつも耳元で囁いてくる天使様の姿を、この目で見てみたい!ドアが開き、夕月が手で扇ぎながら顔を冷やしつつ出てきた。最終的に二着のドレスを選び、現在のサイズに合わせて調整してもらうことになった。瑛優にも可愛いドレスを一着、幼稚園での勇気ある行動への褒美として選んでやった。一週間後——ドレス姿の夕月が車に乗り込んだ時、桐嶋涼から送られてきたリンクに目を通す。開いた画面には桜都大学の掲示板が表示され、学生たちの白熱した議論が繰り広げられていた。ストリートダンス部の部長・平田安人が寮で倒立回転しながら排泄行為に及んだという。部屋のドアは閉まっていたものの、悪臭が漏れ出していたらしい。事情を知らない学生たちは、実験室から違法に持ち出された薬品かと疑ったという。過去に似たような事例があったためだ。寮母に「1206号室から異臭が漂い、複数の嘔吐する声が聞こえる」と報告が入った。ドアを開けた寮母の目に飛び込んできたのは、均一に汚物を浴びた数学科の学生たちと、下半身を露わにした安人の姿だった。寮母は昼食を即座に吐き出してしまったという。「現場の動画も送られてきたけど、見せるのは遠慮しておくよ」と涼。「文字を読むだけでスマホを消毒したくなる」夕月は安人の動画には一切興味を示さなかった。するとまた涼から、新たな写真が届く。夕月は胸をドキドキさせながら画面を見つめた。まさか、また過激な写真ではないだろうか。意を決して目を凝らす。違った!安堵のため息が漏れる。どこかで密かに期待していた自分に気付き、少し恥ずかしくな
それは橘冬真と同じく、サミットのレセプションに参加する来賓だと察せられた。最初に降り立ったのは、藤宮家の御曹司、藤宮北斗だった。真っ白なスーツに身を包んだ北斗は、サイドを刈り上げ、トップの髪をバックに流したスタイリッシュな髪型をしていた。色白の肌に、世捨て人のような不機嫌そうな表情を浮かべ、目の下にはクマが目立つ。上まぶたは薄く開いているだけで、まるで寝起きのような様子だった。黒いピアスと口元のリップピアスが、その反骨精神を主張するかのようだ。北斗が姿を現すと、すぐさまメディアが彼を認識した。「あれは藤宮家の養子の北斗さんですね。実の娘が見つかった後も、実子同然に扱われているとか」北斗が18歳の時の事故で入院した際、特殊な血液型であることが判明し、検査の結果、藤宮盛樹と唐沢心音の実子ではないことが明らかになった。藤宮家が真相を追及したところ、心音の出産後、何者かによって赤ちゃんが取り替えられていたことが発覚した。警察も総力を挙げて18年前に行方不明になった子供を捜索。幸いにも夕月が行方不明児童のDNAデータベースに登録していたことから、突破口が開かれた。DNA鑑定の結果、藤宮家は失われた我が子が息子ではなく、娘だったという衝撃的な事実に直面することとなった。そうして夕月が藤宮家の実子として迎え入れられた。一方、北斗の実の両親は今なお行方が分からないままだ。養子と分かった後も、藤宮家唯一の男子として、夫妻は変わらず実子同然に北斗を愛し続けている。メディアの注目を浴びることを殊更楽しむように、北斗はメルセデスの車内へと視線を向けた。報道陣のカメラが一斉に車のドアに照準を合わせる。まだ誰かが中にいるようだ。桜都第一病院に勤務する北斗が、なぜ冬真と共にテクノロジーサミットに姿を見せるのか。そして、彼と同乗していた人物は誰なのか。衆人環視の中、レディースのチャンキーヒールが地面を踏みしめた。ロリポップを咥え、片手をスラックスのポケットに突っ込んだ藤宮楓が、クールな面持ちで降り立つ。一見ラフに見える長い髪は、実は計算された束感を持たせたスタイリング。前髪は空気を含んだようなボリュームで、80年代の映画のヒロインを彷彿とさせる。薄いブルーのメンズシャツに、グレーのストライプタイを緩く首に巻き、
冬真がドアに手をかけ、夕月を引きずり出そうとした瞬間。スタッフ数人が駆け寄り、彼とコロナの間に割って入った。「橘社長!レースが始まります!」「橘社長、Lunaの集中の妨げになります」「あれは藤宮夕月だ!」冬真は声を荒らげた。「彼女がLunaのはずがない!」その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。コロナのドアが閉まり、夕月はコースへと向かった。「邪魔するな!」冬真の身のこなしは素早かった。スタッフを押しのけ、コースの端まで走り寄った。ウォームアップを終えても、夕月はコロナから降りる気配を見せなかった。コロナがみんなの視界に入った瞬間、観客席から歓声が沸き起がった。「Luna!Luna!」ファンたちは最も忠実な信者のように、コロナがスタートラインに向かう姿を見つめ、思わず涙を流す者も数多くいた。なぜまだ夕月はコロナから降りてこない?冬真は周囲を見回した。本物のLunaはどこにいる?レース開始が迫っているのに、なぜLunaは姿を現さない?一方、マシンの中の楓は、コース脇に立つ冬真の姿を見つけ、思わずウィンドウを下ろそうとした。VIPルームで観戦できるはずなのに、わざわざコースまで来てくれた。これは自分に関心を持ってくれている証拠だわ。楓は内心で得意げに思った。窓を下ろし、楓は興奮した様子で冬真に手を振った。「冬真!」ヘルメット越しの声は籠もって聞こえた。だが冬真は、楓のマシンには一瞥もくれなかった。「何してるんだ藤宮楓!窓を開けるな!レースが始まるぞ!」管制台に立つヴィンセントは、楓が突然窓を開けるのを見て、血圧が急上昇した。無線を握りしめ、M国語で罵声を浴びせかける。M国語の分からない楓は、逆に不満気な声を上げた。「何よ、そんな怒鳴って!」通訳が慌てて無線を取り、息を切らしながら叫んだ。「窓を閉めてください!集中してください!」楓の通訳を担当している若い男性も、酸素マスクが必要なほどの疲労感を覚えていた。エキシビションとはいえ、楓のこの態度は到底理解できなかった。そのとき、レース開始を告げるホーンが鳴り響いた。三度目のホーンと共に、スタートラインに並ぶマシンたちが、弦を放たれた矢のように飛び出した。最も出遅れた楓の姿を見て、
小さな丸みを帯びた顎に、整った卵型の顔立ち。その唇は誘うような桜色を湛え、筋の通った鼻筋と柔らかな目元が印象的だった。漆黒の髪を後ろで纏め上げ、耳元には繊細な毛束が風に揺れていた。冬真にとって、あまりにも見覚えのある顔立ちだった。その場に凍りついたように、冬真は目を見開いたまま夕月を凝視していた。頭の中が真っ白になった。なぜLunaが夕月の顔を持っているのか?これは笑い話としか思えない。まるで、あの荒唐無稽な夢の中にいるかのようだった。観客席からの歓声が押し寄せる波のように、冬真を包み込んだ。彼は震えながら我に返った。夕月は彼の存在など無いかのように、そのまま横を通り過ぎようとした。冬真は咄嗟に振り返り、夕月の腕を掴んだ。「なぜここにいる?」男の眼差しには疑惑と困惑が入り混じっていた。「なぜそんな格好を?」彼は夕月の手にしたヘルメットを見下ろした。確かにそれはLuna専用のものだ。何か言おうとして言葉に詰まり、喉に紙を詰め込まれたような感覚に襲われた。「Lunaのボランティアスタッフか?」自分でも信じられないような声が漏れた。きっとそうに違いない!彼はその考えに必死にしがみついた。Lunaの出場が発表された途端、国際レースのボランティア募集は熱狂的なファンで埋め尽くされた。仕事を投げ出し、給料カットも厭わず、ボランティアに志願する者も少なくなかった。ただLunaのレースを間近で見たい一心で。憧れの女神の素顔を一目見られる機会を求めて。冬真の問いに、夕月は笑みを浮かべた。「こんな馬鹿げた質問をするなんて、どれだけ頭が悪いの?」レーシングスーツを着て、ヘルメットを手に持って目の前に立っているのに、この男は未だに彼女をLunaと結びつけようとしない。バカなの?心の底から彼女を見下しているのね。若く血気盛んだった頃、夕月は純粋に冬真を愛していた。なのに結局、この男には「本当の藤宮夕月」と向き合う勇気すらないというわけ。「Lunaの車のウォームアップでもするつもりか?そもそもレースライセンスは持ってるのか?」高圧的な目線で夕月を見下ろしながら冷たく言い放った。「コロナを壊すなよ」もし壊したら、Lunaへの弁償なんて絶対にしてやらないと言わんばかり
足音を聞いて振り返った冬真の目に、レーシングスーツ姿の女性が歩み寄る姿が映った。冬真の背後から差し込む澄んだ日差しが、その肩の輪郭を縫うように流れていく。彼女が手にしているヘルメットは見覚えがあった。濃紺の地に金色の月が星々に囲まれた模様が描かれた、あのLuna専用のものだ。女性の上半身は、深い影に覆われていた。彼女が暗がりから一歩踏み出した瞬間、冬真は思わず息を呑んだ。Lunaはヘルメットを被っていない――つまり、ついに素顔のLunaと向き合うことになる。夕月も意外だった。冬真がわざわざ自分を待っていたとは。彼女は影の中で足を止めた。男は彼女に向き直り、スラックスのポケットに片手を入れたまま立っていた。オーダーメイドのスーツに包まれた背筋の伸びた佇まい、幅の広い肩から腰にかけての優美なラインは、まるで彫刻のように完璧だった。「Lunaともあろう人が約束を破るとは思わなかったぞ。指定の時間にガレージに来なかったから、お前が気に入っていたスポーツカーたちは、もう新しいオーナーの手に渡ってしまった」二度目の対面だというのに、冬真は自分の中に湧き上がる悪意に気付いていた。彼女を壊してしまいたい衝動。からかって、恥じらわせて、赤面させて、自分の前で膝を屈させたい――そんな欲望が抑えきれなかった。男はさりげない立ち姿ながらも、その佇まいから放たれるオーラは鋭く冷たかった。その冷徹な眼差しは矢のように彼女に向けられ、Lunaを包む影を打ち払おうとするかのようだった。「最後のチャンスだ。年俸2億円で藤宮楓のコーチを引き受けてもらいたい。正直、彼女の実力は並以下だ。トップに立つ必要もない。ただ三年以内に国内で名の知れた選手になってくれれば、それでいい」これは橘汐が叶えられなかった夢。冬真は楓にその夢を託そうとしていた。「引退して五年、突然復帰を決めたのは金のためだろう」嘲笑うように冬真は言った。「だが、もうお前は全盛期を過ぎている。月光レーシングのように高額な契約を結んでくれるクラブはもうない。これは今のLunaが市場で得られる最高の条件だぞ」言葉が途切れぬうちに、夕月は影から一歩前に出た。まるで映画のスローモーションのように。影が彼女の首筋から肩へと、ゆっくりと剥がれていく。冬真の瞳が大き
夕月は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ憂いの色が浮かんだ。この五年間、必死に悠斗の性格を正そうとしてきた。でも橘家の面々は、長男で跡取りである悠斗の言動は全て正しいと言い聞かせ続けてきた。一度母親への偏見が芽生えてしまえば、二人の間には越えられない壁が築かれてしまう。夕月は棚に向かい、ヘルメットを手に取ると、「スマホのライトを点けてくれる?」と鹿谷に声をかけた。「どうしたの?」鹿谷はライトを点けながら近寄った。夕月が鹿谷のスマホの光をヘルメットの中に当てると、砂粒よりも小さな虫が数匹、パッと飛び出した。明るいLEDの光に照らされて、やっとその姿が確認できる。「なんで中に虫が?」鹿谷は困惑気味に呟いた。桜都の乾燥した寒い気候では、虫なんて発生しないはず。しかも、このスペアヘルメットは新品で、たった30分前に出してきたばかり。どうして虫が入り込むことができたのか?「唯一ヘルメットに触れたのは、あの照明スタッフね」夕月は静かに言った。「まさか、細工でもしたのか!?」鹿谷は思わず声を上げた。そして、急に閃いたように、「楓の差し金に決まってる!」と断定的な口調で告げた。夕月は冷静な面持ちで携帯を取り出し、涼に電話をかけた。「桐嶋さん、申し訳ないけど、全出場者のヘルメットに細工がされていないか、至急確認していただけない?」続けて付け加えた。「できるだけ人目を避けてお願いします」今回の国際レースで、高い権限を持つのは涼だった。月光レーシングクラブは解散したものの、彼は依然として国際レースの主催者側のオーナーだった。「分かった、すぐに調べさせる」低く渋い声が受話器から響いた。なぜそんな調査が必要なのか、彼は問わなかった。夕月の判断を完全に信頼していた。「お願いします」夕月が電話を切ろうとした時、彼の声が再び聞こえた。「ちょうどいい。面白い映像が見つかったんだ。共有したいことがある」すぐに監視カメラの映像が送られてきた。鹿谷は夕月の隣に寄り、二人で映像を見つめた。整備室で撮影された映像だった。メカニックの一人が、コロナのボンネット内側で何かをいじっている。明らかに人目を避けようとしている様子で、ボンネットの留め具をいじりながら、周囲を警戒するように目を光らせていた。映像は3分前に撮
「私が誰だか分かってるの?」楓は参加者証を作業員たちに突きつけた。よく見るようにと迫るその態度に、作業員たちは参加者証を確認すると、何とも言えない表情を浮かべた。今大会で楓の名前は、確かに話題を呼んでいた。「ええ、存じ上げてますとも。レーシングライセンスすら持っていないアマチュアドライバーの藤宮楓様。初めての国際レース参加とのことで、基本的なマナーをご説明させていただきましょうか」作業員は言葉に力を込める。「他のレーサーの控室に無断で入るのは厳禁です!」周囲を見回してから、「誰の許可で入室したんです?」照明スタッフやカメラマンたちは、思わず楓の顔を見た。「私の部下よ!」楓は威勢よく叫んだ。「レース開始直前にこれだけの人数を連れて来るなんて、Lunaの邪魔をする気でしょう!」作業員は怒りを含んだ声で言い放った。その瞬間、「ガチャン!」という音と共に、棚に置かれていたヘルメットが床に転がり落ちた。照明スタッフの一人が真っ赤な顔で慌ててヘルメットを拾い上げ、元の位置に戻す。夕月の目が、そのスタッフの手にある細い管状の物に釘付けになる。パッと見は撮影用の道具にも見えるが。スタッフは慌てて、その細い管をズボンのポケットに押し込んだ。もし本当に撮影用の道具なら、なぜ急いで隠す必要があったのか。楓のスタッフがヘルメットを落としたことで、作業員の怒りは頂点に達した。「これはLunaのヘルメットですよ!さあ、全員出て行ってください!さもないと警察を呼びますからね!」作業員たちは鳥を追い払うように手を振りながら、楓たちを外へ追い出そうとする。「僕、Lunaを待つんだ!」悠斗が抵抗すると、作業員は彼の腕を掴んで小さな体を持ち上げた。悠斗は必死に足をバタつかせ、作業員の太腿を蹴ろうとする。「僕は橘グループの御曹司だぞ!」悠斗は怒りに任せて叫び、ムチムチした頬を膨らませた。「たとえ橘社長でも、Lunaの控室に無断で入って、試合前の邪魔をする権利はありません!」「離せよ!下ろせ!!」作業員は悠斗を控室の外まで運び出してから、やっと地面に降ろした。暴れる間に帽子とサングラスが床に落ちる。悠斗は不機嫌な顔で、わざとサングラスを踏みつけた。「フン!パパに全員クビにしてもらうからな!」
その言葉が夕月の心を刺すことを、悠斗は分かっていた。その棘で、夕月を傷つけてやりたかったのだ。悠斗は勝ち誇ったような目で夕月を見つめ、彼女が苦痛に歪む表情を見せるのを待った。最も近しい存在だからこそ、最も深い傷を与えることができる。田舎育ちで、レースのことなんて何も分からないような女が、橘家の御曹司のママなんて務まるはずがない!「悠斗くん、もし私が一位を取ったらどうする?」楓は目を細め、冷たい笑みを隠しきれない。悠斗の言葉が明らかに楓の癇に障った。これまで悠斗に尽くしてきた心遣いが、全て無駄になったような気がした。Lunaの名前を聞いた途端、楓を新しいママにすると約束したことなど、すっかり忘れてしまったようだ。雲上牧場の斜面での一件以来、悠斗の目には、楓の強くて何でもできるイメージは完全に崩れ去っていた。強い人が親に尻を叩かれるなんてありえない!自分だって手のひらを十回叩かれただけなのに。楓があんなに泣き叫んで、よだれを垂らしながら謝る姿なんて、見ているのも辛かった。しかも翌朝、楓は気を失ってしまった。蚊に刺されて豚のような顔になり、提灯のように目が腫れ上がった楓が、冬真の部下に斜面から引きずり上げられる姿を見て、悠斗は楓との知り合いだということすら認めたくなくなった。早く、強くて凄いママを見つけなければ。楓の視線を避けながら、悠斗の声は小さくなっていく。「楓兄貴が一位取れたら……考えないこともない……」最後の言葉は、はっきりとしない呟きになっていった。楓の表情が途端に得意げになる。「夕月姉さん、早く出てった方がいいわよ。関係者以外がLunaの控室に入ってたって知れたら、追い出されるわ。みっともないことになるんじゃない?」夕月の視線が楓の太腿に注がれる。「感心するわ。厚顔無恥な人間は、皮も分厚いのね」その言葉に、楓の太腿と尻がズキズキと疼きだす。厚く塗ったファンデーションの下には、蚊に刺された跡がまだ赤く残っている。スモーキーなアイメイクも、まだ腫れぼったい目を隠すためのものだった。先週、夕月の通報で警察に連行され、拘留時間を減らすため、冬真を通じて夕月に連絡を取った。ところが夕月は警察に意地の悪い提案をし、SNSで謝罪動画を投稿して999いいねを集めなけ
「Luna!会えて嬉しい!」悠斗の澄んだ声が響いたが、控室に座る人物を見た途端、その場に凍りついた。更衣室に向かおうとしていた夕月と悠斗の視線が絡む。悠斗の弾けるような表情が一瞬にして固まり、眉を寄せたまま夕月を見つめていた。「なんでここにいるの!?」楓と悠斗の後ろには黒山のような人だかりができていた。カメラマンのレンズが夕月と鹿谷に向けられる。ドア前に群がる人々を見て、鹿谷は思わず身を縮めた。夕月の傍らにそっと寄り添う。「夕月、なぜLunaの控室に!?」楓の声が驚きのあまり裏返った。悠斗は目を丸くして鹿谷を見つめ、「君がLunaなの?」そう言って首を傾げる。ガンメタルのルーズなジャージ姿の鹿谷は、すらりとした体格に凛とした顔立ち、さらにベリーショートの髪型で、誰もが一目で性別を見誤るほどだった。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。鹿谷は夕月の袖をつかみながら、首を振った。「僕はLunaじゃないよ」楓は夕月にぴったりと寄り添う鹿谷を眦を吊り上げながら観察した。どこかで見た顔だと思ったら、七年前のあの「男」だった!夕月が実の姉だと分かってから、楓は何度も尾行し、私立探偵まで雇って調べ上げた。その時、夕月には幼馴染がいて、その「男」は間もなくLunaのコ・ドライバーという大役を掴んだのだ。鹿谷が有名になるや否や、夕月を置き去りにして海外に飛び立った。楓はその事実を内心で喜んでいた。後に冬真から鹿谷を自分の教官として迎えると聞いた時も、夕月のこの身分の低い「幼馴染」に対して、軽蔑と好奇心が入り混じった感情を抱いていた。腕を組んで、夕月と鹿谷の間を意地の悪い視線で行き来させる。「夕月姉さん、酷くない?ここはLunaの控室よ!Lunaのコ・ドライバーと密会なんて、レースの邪魔になるでしょう?」その言葉に、後ろのカメラクルーは名家の醜聞の匂いを嗅ぎ取った。橘家の奥様で、つい先日社長と離婚騒動を起こした夕月が、レーサーの控室でコ・ドライバーと密会。しかも実の息子に見つかるとは!楓の後ろに控える男たちの顔に、冷ややかな笑みが浮かんだ。悠斗は部屋を見回し、Lunaの姿が見当たらないことに気づくと、夕月の存在がますます目障りにな
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN