「慎さん?! 慎さん!」軽い方だろうなとは思うけど、意識のない人間に全体重でのしかかってこられると、流石に重い。上半身を抱えたまま膝を突いてしゃがみ込み、声をかけながら顔を覗くと。さっきの扉が開いた一瞬に思った通り、顔色は真っ白だった。血色が全くない。「とりあえず寝かした方がいいんじゃないかな?」いけしゃあしゃあとそんなセリフを吐きながら声が近づいてくるものだから、「近寄んな!」と威嚇して下から睨むと、梶はひょいっと肩を竦めてその場に留まった。「お前、何やった?!」「いやいやいや、まだ何もしてない。未遂だよ」まだってなんだ、未遂ってなんだ!なんかする気満々だったんだろうが!腕の中を見下ろすと、額にはすこし汗のようなものが滲んでいて少し眉根を寄せている。とりあえずソファに寝かせようと背中から脇へと右手を回し、左腕を膝の裏に通して抱え上げた。それにしてもなんでこんな男を店に入れることになったのか、慎さんはいつも慎重な印象だったのに。出入り口辺りの雑然とした様相を思い出して、やはり強引に押し入られたのだろうか。男は流石にもうこれ以上は何もしてくる様子はなく、ただ何かもの言いたげに此方をじっと見ている。その目が余りにも不躾で、まるで観察でもされているみたいで。俺は、腕の中でさっきも感じた違和感がさらに確実なものになっていくことに激しく混乱して、それを顔に出さないことに必死だった。「早く出てけ」「わかったわかった、もう帰るよ」こくこくと頷く男の横を、慎さんを抱えたまま通り抜けてテーブル席のソファに横たえる。慎さんに何か持病があるのだろうかとふと考えた。だとしたら救急車を呼ん
電車の中で初めて間近に見た時に驚かされた華奢な肩や首筋も、今なら当然だと思う。……なんで、今までわかんなかったんだ。一度女だと気づいてしまえば、もうどこをどう見たって男になんか見えなくなった。俯いたままの姿が、今もまだ酷く怯えて見えてまだ小刻みに震えている小さな拳に、つい手が伸びてしまった。指先が手に触れた瞬間。「……っ!」と息を飲む音と同時に、びくんと身体を震わせた慎さんが慌てて手を引っ込める。怯えた目が、俺に対しても向けられていてそのことに愕然とした。番犬としてだが近頃では佑さんを除けば一番近いところにいるんじゃないかと、多少の自負があっただけにショックだった。いや、だけど。と、佑さんの言葉を思い出して、気を取り直し笑顔を取り繕う。「えっと……大丈夫、ですか」「え?」「手が、震えてるから……怖かったんだろうな、と思っただけで」自分の手を眺めて、「はは……なさけない」と力ない声を落とす彼……いや彼女から、少し距離を置くようにしゃがんだまま後ずさる。「いや怖くて当たり前っすよ! 俺のことも、もし怖かったらこれ以上、近寄りません」そうだ、最初からずっと言われていたじゃないか。”蚤の心臓なんだよ””怖がらせるな、傷つけるな”あれは全部、決して嘘ではなかったんだ。性別を伏せなければいけなかったから敢えて「彼女が恐怖を覚える何か」を言わなかっただけで。慎さんが女だと気
どうして、男のフリをしているのか。何がそんなに怖くて、何が貴女をそうさせているのか。だけど、それを今聞いてはいけない気がした。さっきと同じだ。彼女がゆるゆると自分から手を伸ばしてくれたように待つしかない。慎さんから話してくれるのを、待つしかないのだ。結局問いかけることはせずただやっぱりもう少しだけ、近づいてみたかった。「俺は、怖くないですか」「……はい」その答えが余りに嬉しくて、触れることに許されたわけではないのについ気持ちばかりが先走る。握った手の中にある、壊れ物みたいに繊細な指先にゆっくりと顔を寄せ。小さな爪の、少し横に唇で触れた。逃げなかったから、つい二回。キスなんて初めてってわけでもないのにましてや唇でもなくたかが指先なのに初めてだと感じるくらいに、鼓動がうるさい。顔を上げると驚いたように此方を見下ろしていたけれど、嫌がってるようには少しも見えなくてつい笑ってしまえば。ぼんっと音がしそうなくらいに、真っ赤になった慎さんを見ることができた。「なっ……」ぱくぱく、と口を開けてそれ以上を音が発することができなくなってしまったらしい。その様子に、俺の方が少し驚かされる。いや、期待を持たされる。「慎さん?」嫌がるどころか……これ、もしかして。結構、脈ありなんじゃないだろうか。耳まで真っ赤に染め上げた様子に、ついまた一つ、欲求が生まれる。やばい、まずい。抱きしめたい。
【神崎慎】「おーい。慎!」だんだんだん!といつもより強めのノックと佑さんの声がする。ノックというかこれはもう、扉をどついているレベルだ。「ちょっと出てこいって」「はあ? なんでだよ僕はもうひと眠りする!」なんで出てかなきゃいけないんだ。まだあの変態が店に居るに決まってるのに!あの野郎、男の指にキスするとか本気で変態になるつもりか。しかも、あんな、嬉しそうな顔しやがって。思い出しただけで気分が悪くなるくらいに心臓がばくばくする。なんだかそれが居たたまれなくて落ち着かなくて、本当にいっそ眠ってしまおうと布団を被ろうとしたら。「いいから早く出てこい」だん!と最後に一際強いノックが一つ、有無を言わさず鳴った。◇◆◇「で……なんでこうなるんだよ」佑さんの問答無用なノックの後、観念して身支度を整えて部屋を出た僕は、その三十分後には寒空の中外出させられ、街を歩く羽目になった。くそ、出るんじゃなかった!やっぱり閉じこもってれば良かった。隣には、此方がいくら早歩きしても悠々と追いついてくる陽介さんがいる。「良かったですね、お休みもらえて」「全然良くないです。たかが貧血で……もう大丈夫だと言ったのに」「あ、あんまり急いで歩かない方が……どっかで休みますか」「もう鉄剤も飲んだから大丈夫なんですって」まるで腫れものに触るような気の遣い方につい苛ついてしまう。心
小さく肩を竦めて俯く。此処までの会話で、なんと乗りの悪いことだろうと自覚はあるが。事実、あまり外に出たことがないのでどこで何をすればいいのかわからないのだ。こんな相手と出掛けてもつまらないだろうに、と心底そう思う。だけど、陽介さんは少し思案した後。「わかりました。とりあえず、行きましょう」と、いきなり僕の手を掴んだ。「ちょっ! 手! やめてください!」「いいじゃないですかデートなんだし」「違います!」ってか、男同士で手を繋いで歩いたらどんだけ好奇の目に晒されると思ってんだ。しかしどれだけ抗議しても「騒いだら余計目立ちますよ」と言われ結局店に入る直前まで、その手は離してもらえなかった。◇◆◇カキン!と小気味よい音がするときもあれば、大きく空を切るだけの時もある。バットに当たるのは、二分の一くらいの確率だろうか?多分余り上手くない……んじゃないだろうか。「よく来るんですか?」「いや、全然。かなり久しぶりで」「でしょうね……」ブランチの後に彼が連れて来てくれたのは、住宅街の少し辺鄙な場所にある、古びたバッティングセンターだった。「ひでー。下手くそって言いたいんですか」僕は少し離れた場所にある丸椅子で、大人しく彼のバッティングを見ていたのだが、つい口を挟んでしまった。「上手くはないですよね。意外でした」「何がですか」彼がバットを振るのを休んだので、ボールがバスッとネットにあてがってあるクッシ
漸く息が整って、顔を上げて改めて周囲を見渡した。 祝日だというのに、客が殆どいない。 出入り口付近にあったゲームセンターのようなスペースにも、かなり古臭く感じるものばかりだったから、余り人寄せなども気にしていないそういった店なのだろう。……僕が、人の多い所は嫌だと言ったから。恐らく、そうなんだろう。 同じバッティングセンターでも、繁華街の方に行けばもっと設備の整ったところはきっとある。 そう思うと、隣に座る存在がやけにくすぐったかった。「そろそろ行きますか」立ち上がって此方を見下ろす陽介さんを、つい見つめてしまう。 反応しない僕を不思議に思ったのか、首を傾げて手を差し伸べてくる。「どうかしましたか?」「……いえ」それが余りに自然だったから、僕も自然に自分の手を重ねた。その後、目当てのパン屋に行くと早すぎたのか先頭で並ぶことができ、五時ちょうどには購入して店を出た。 すぐ近くの噴水のある公園まで行き、ベンチに座ると陽介さんが近くの自動販売機で紅茶を二つ買ってきた。「ミルクティとストレート、どっちがいいですか」「陽介さんは?」「俺はどっちでも」と言うので、お言葉に甘えてミルクティの方を彼の手から取らせてもらう。「ありがとうございます」「いいえ。俺、緑色のメロンパンなんて初めて見ました」僕の膝にある紙袋の中には、お目当ての限定メロンパンが二つ入っていて、そのひとつを隣に座った彼に差し出した。「そうでしょう。本当にメロン果汁がたっぷり練り込んであって、コストが高くつくので限定数しか置いてないそうです」
「なんで? 佑さんは休んでいいって……」「だからといって祝日に休むとかできません」「晩飯は?」「今食べたじゃないですか」「ええええ! メロンパンだけで済ませる気っすか、だから貧血起こすんですよ」そう言われると、実際に貧血で倒れてしまった身からすると耳が痛い。だが、もうメロンパンを食べてしまってからでは今から暫くは腹も空きそうにないのも本音だ。「……ちゃんと、後で何か食べ直します」「佑さんに、肉食わして来いって言われてるのに」「昼もいつもよりしっかり食べましたし、充分気分転換も出来ました」実際、佑さんが出かけて来いと言ったのは気分転換という意味が多分にあっただろうと思う。佑さんは少しでも、僕が外に出る機会を作ろうとしている。そして陽介さんのおかげで、案外その時間を楽しめたのは、確かだ。「……ありがとうございます」「え? 何がっすか」「えっと……だから」何が、とか聞き返すな。説明させるな。きょとんとした表情に、察しの悪いやつだと思わず舌打ちした。「ちっ」「え、なんで舌打ち?!」「苛つくからです」「えええ……俺何かしました?!」眉を八の字にして、情けない顔をする。やはりきちんと言わなければ伝わらない様子に、仕方なく口を開く。最初は散々ぶつくさと文句を言いながら出てきたものだから、素直には言い難いというのに。「……結構、楽しかったので。 良い気分転換になりました。ありがとうございます」ベンチに座ったまま身体を斜めに彼の方へ向け、ぺこりとお辞儀をした。頭を下げても、数秒無言で何の反応も返って来ない。不思議に思い顔を上げれば、少し顔を赤くした彼と目が合う。「……陽介さん?」「良かったです。つまらんとか言われたらどうしようかと、結構びくびくしてたんで」「そんな風には、ちっとも見えませんでしたが……」「人が少なくて退屈しないとこって、思いつくのがあそこしかなくて」「寂れたバッティングセンター?」「そう。俺はああいう雰囲気、結構好きなんすけど……」言いながらくしゃりと笑って、頭を掻いた。顔が赤いのは、照れていたらしいとその表情で気付く。お調子者だが、こういう風に素直に表情に出るところは、可愛いげがある。僕なんかより、余程。「僕も、嫌いじゃありません」「じゃっ……じゃあ、またっ」「手を握るな、手を!
「ちょっと一緒に食事に出ただけです」と慌てて言い繕って浩平さんに目を向ける。やはり、返ってくる目はどこか冷やかだった。「わかってますよ、当たり前でしょう。ノリの軽い男ですみません」「……いえ」口元は笑っている。だから、陽介さんは気付かないだろう。だが、明らかに僕に対する悪意か嫌悪か侮蔑……どれかわからないがマイナスの感情がダダ漏れだった。「それより、陽介。昨日の晩、お前どうだったんだよ」そして僕からまた視線を外し、陽介さんに話しかける。その瞬間、なぜだかその空間から僕がはじき出されたような感覚を覚えた。気のせいじゃない。この、微妙な空気の理由がよくわからないが、仕方ない。このまま二人が話をするようなら、僕は立ち去るべきだろう。「昨日? ってなんだよ」「とぼけんなよ」僕にはわからない会話を続ける二人に声をかけようと、陽介さんの肩を叩こうとした。その手が、止まる。「昨日、合コンの途中でアカリちゃんと抜けただろ。上手くやったのかと思ってさあ」それはもう、面白いくらいに。びくん、と自分の手が震えたのが、目に見えた。「は? 何言ってんだよお前……別に抜けたわけじゃ」「抜けただろ、あの後俺らはダーツバーに行くっつったのに」「確かにそうだけど別にアカリちゃんと二人で抜けたわけじゃ……」訝しい声で会話を続けていた陽介さんが、はっと何かに気付いたように振り向いて僕を見る。それがまるで「マズい」と言ってるような気がして、その瞬間胸が焼け付くような、抑えきれない不快感が湧いて出た。「アカリちゃん、家まで送ったんだろうが。どうだったんだよ」「ちょっ、浩平、ちょっと黙れ」聞きたくもないのに、耳に流れてくる会話。慌てた陽介さんの様子が、余計に苛立ちを募らせる。胸を掻きむしりたくなるような、衝動をどうすればいいのかわからない。「あの子、一人暮らしだしなー。上手いことやりやがって」「家まで送れって言ったのお前だろうが!」「でも送ったんだろ?」「……へえ」二人の会話に割り込んだ僕の声は、それはそれは低かった。「ちょっ、慎さん、違いますからね?!」「何がです? 昨日は合コン行かれてたんですね。お疲れなのに、付き合わせてしまって申し訳ない」「それは数合わせで仕方なく……それに帰りが一緒になった子を送ったのは確かだけど、別に何も
【神崎慎】「ほんと、何か変っすよ」陽介さんが、心配そうに僕に向かって手を伸ばす。その手に過剰反応して、思わずびくんと身体が跳ねた。「すみません、つい」驚いて手を引っ込めた陽介さんは、それでも尚、僕の心配をしてくれているのはひしひしと伝わってくる。確かに、僕は今、おかしい。原因の大半は、陽介さんが店に戻ってくるまでの間、佑さんと二人の時に起きた出来事にある。陽介さんたちが店を出てから、暫くして他のお客も居なくなり、普段より早めに店じまいをすることになった。有線で流れていた音楽を止めると、佑さんが何かにやにやと唇を歪ませながら僕を見た。「お前さ、なんか間違ってねえ?」「は? なにが」「気になって仕方ないからって、何女の方を悩殺しようとしてんだよ」くつくつと可笑しそうに肩を揺らす。佑さんに指摘されたことは十分に身に覚えがあって、僕はいっそわかりやすいくらいに狼狽えた。「そ……そんなことない。いつも通りだ」「まあ、お前にしかできない妨害かもしんないけどさー、妨害にしちゃ消極的だ。どうせやるなら結婚詐欺くらいの勢いで落としにかかんねえと」「別にそんなんじゃないってしつこいな!」確かにいつもより若干、女の子が喜びそうな接客をしたかもしれないが。それは、アカリちゃんが僕から見ても可愛らしかったからで。僕は、元々可愛い女の子を見るのは好きだし、ほら、言わばマリちゃんに対して見せるのと同じような。と、脳内で勝手に慌てて誰に対してかわからない言い訳を並べ立てていた。だけど本当は自覚している。合コンという名目で、浩平さんが陽介さんにあてがおうとしているアカリちゃんを見た時、僕は軽くないショックを受けた。陽介さんの隣に並んで店に入って来たのは、小柄で華奢で、清楚な長い黒髪をハーフアップにした、可愛らしい女の子だった。僕とは全く、正反対の。男というのは、一般的にああいう子が好みだろうなと見ていて思った。だけど陽介さんは、僕を好きだと言う。信じてくれと、真摯な言葉で訴えてくれたことを忘れたわけじゃない。その言葉に、僕はまだ一度も応えていないというのに、ショックを受けた自分も嫌だ。独占欲ばかり一人前に成長して、僕は一体何がしたいんだろう。テーブル席とカウンターテーブルをダスターで綺麗に拭いて、カウンターに戻ってくると、流し台に汚れた
緊張で固くなった唇は、何度も重ねて舐めるたびに柔らかく熱を持った。抵抗しないのをいいことに、唇を貪ることに夢中になって、苦しそうな彼女の息遣いも扇情的なものにしか感じられなかった。「……ん、も……やめっ……」「もう少し……すんません」最初は片手で支えていただけだったのに、いつのまにか両手でがっちり彼女の首筋を捕まえていて、よくもまあ、あの慎さんが大人しくしていてくれたものだと、気付くのは後になってからだが。「……くるしっ……」「もう、ちょい」止まんないんだよ、仕方ない。声を遮るように角度を変えて深く口づけると、咄嗟に閉じようとした歯の間に舌をねじ込んで絡みつく。唾液にまみれて滑りのよくなった唇がこすれ合って、心地よさに恍惚とする。柔かくてあたたかくて、気持ちよい。舌を絡めることに慣れてない様子に、益々身体が熱くなった。無理だ。止めろって言われても、無理。ほんとに嫌なら、噛みつくなりなんなりしてくださ……。「いっ!!」突如、口の中でガリッという音がして同時に鉄のような味が広がり、陶酔しきっていた意識が現実に引き戻される。舌先に走った激痛に、慌てて彼女の唇と首筋を解放した。いってぇえええええ!噛まれた!おもっきし噛まれた!口を片手で押さえて前屈みになる。声も出せないくらいの痛みを地団駄を踏んで逃がしていると、息も絶え絶えといった様子の慎さんの声が聞こえた。「くっ、苦しいって、言ってるだろう、いいかげんにしろ!」見上げると、涙目で顔も真っ赤な慎さんが般若のような表情を浮かべて肩で息をしていた。やべえ。調子に乗りすぎた。「す、すんませ……気持ちよくてつい」「き、きもちよいって……」かああ、と一層赤く染めながら、慎さんが一度言葉に詰まる。照れてるのか恥ずかしがってるのか、でも間違いなく怒ってもいる。やばい、嫌われてたらどうしよう、と、散々貪っておきながら今更不安になってきた。「いくらなんでも、苦しい! 息継ぎくらいさせろ!」「い、息継ぎ?」そんなん……どうやったっけ?無意識にやってるから、あんまり考えたことがない。キスの最中のことを思い出しながら、ふと、気が付いたことを言ってみた。「……鼻、息止めてました? 合間に口でするのもありますけど……苦しかったら多分、鼻?」「鼻……」恐らく今、慎さんの中で
中途半端な位置で留まったままの拳と俺の顔とを、綺麗な榛色の瞳が行き来して、少し肩の力を抜いたのがわかった。スツールが極々小さな、「キィ」という音をさせる。慎さんが椅子ごと俺の方を向いたからだ。すぐ間近からまっすぐに見つめられて、ますます手と目のやり場に困ってしまう。見つめてくる目はやっぱりどこか不安げに揺れていて、そのくせ潤んで艶っぽく……思わず生唾を、飲みこんでしまった。やばい。もうちょい、いつもみたくガード固くしてくれないと、今の俺はホントにヤバイ。「ちょ……っと、」トイレ、と言ってその場を逃げ出そうとしたのに。「……なんで、止めたんですか」慎さんが俺の手を見ながら、呟いた。何を尋ねているのかは明白だった。「……すんません、その……ちょっと」「僕が、怖がったから?」「俺が悪いんす。ちょっとだけ、のつもりで……あ、頭! 頭、撫でようとしただけで!」いや、ほんとは。頬に手は向かってたけど、怒られそうな気がしてつい控えめに言ってしまった。「……」「……すんません」そんな、まっすぐ見つめられたら。些細な嘘だけど、なんかめっちゃ悪いことをした気になってしまうからほんとに止めて、ごめんなさい。これは、なんだ。拷問か、それとも試練か。俺の忍耐力の限界を誰かが測っているのだろうか。やっぱりトイレに逃げよう、と立ち上がろうとしたら。「……いいよ」と、慎さんの声がして、一瞬何がいいのかぴんと来なかった。「え……」「いいよ、触れば。……別に、陽介さんが怖かったわけじゃない」ぶっきら棒で、ちょっと早口なのは照れ隠しなのだとすぐにわかった。視線が斜め下に逃げて、眉間に皺を寄せてはいるものの頬は触れたら熱そうなくらいに赤い。触っていいよ、というよりも、触って欲しい、と表情はそう言ってるように見えるのは、俺が調子に乗ってるからか?「い、いいんすか、ほんとに」「嫌ならい」「触ります!」……触ります、って宣言はどうなんだ。と自分でも思いつつ、じゃあ……と右手をゆっくり髪に触れさせた。緩くウェーブのかかった髪は、思っていたより艶やかで、想像するよりずっと柔らかく指に絡む。……細。絹糸みたいな細い髪を、最初は手のひらで撫でる。慎さんは恥ずかしそうに目線は背けたままだけれど逃げる様子もなかったから……髪の中に指を差しいれ
「……あの?」「何か?」余りない、距離間だった。いや、慎さんを空手道場に送る時だとか、食事に連れ出す時だとか、俺から近寄っていくことはあっても、慎さんの方からここまで近づくことは余りない。ましてや、店内で。「いや……そうだ。佑さんは?」「今夜はもう帰ってもらいました。後片付けもそれほど残ってなかったし」「あ、そう……っすか」しかも、二人きり。何がどうしてこうなった、と理解ができないままに自然と鼓動は早くなる。男としては、大変美味しいシチュエーションだ。だからといって、簡単に手が出せる相手ではないのだが。スツール同士はあまり離れていないから、すぐ隣だと肩が触れそうなくらいに近くなる。手を伸ばせば触れられるくらいに、抱き寄せられるくらいに、近い。かといって全力で近づいてくるわけでもなくて……なんだろう。この感覚、どこかで覚えがあるぞと思いめぐらすと、すぐに思い当たった。実家で飼ってる猫だ。不愛想でこちらから構ってやろうとすれば、つんと澄まして見向きもしないくせに、たまにソファでテレビを見ているとそろっと近づいてきて隣に座る。それと、似ている。慎さんは例えるならシャム猫みたいで、実家の雑種猫とはずいぶんと雰囲気は違うけど。「あ。えっと、あの子なら、ちゃんと家まで送って来ましたから」「ああ、アカリちゃん。小さくて可愛らしい子ですね」「……送っただけで、何もないっすよ?」「そうですか」いつもと違う空気のわけを、思い当たる節から確かめようと敢えてアカリちゃんのことを口に出してみたが、手ごたえがない……ような、あるような。「……てっきり告白でもされたかと思いました」はは、と笑った顔が平静を装っているだけのようにも見えた。「……されました」「えっ」「俺は会うつもりないんすけど……ここに多分、ちょくちょく来ると思います」こんな雰囲気で、何か不安そうな慎さんに言いたくはなかったけれど、アカリちゃんが本当に来るなら話しておいた方がややこしくならない、気がした。俺が居ない間に来られてアカリちゃんの口から喋られるよりは、ずっといい。『だから―――また、会いたいな。あの店に行けば会えるよね?』最後に言われた言葉を思い出して、溜息を付く。アカリちゃんに毎度毎度来られたら、慎さんと話す機会が絶対に減る。ましてや、その度送れとか
―――――――――――――――――――――――――急いで駅まで走ったものの、やっぱり終電には間に合わなくて慌ててタクシー乗り場を探す。ところが、俺と同じように終電を逃した連中か、とっくに営業を終えてるバスの利用者かで長蛇の列となっていた。しかも見ていると回転率が悪い。中々タクシーが戻ってこないのだ。「……くそ」どうしようか。携帯から連絡しようかと思ったけれど、タクシーに乗るくらいなら家に帰れと言われそうで、結局止めた。この駅から店までは、線路上で言えば三駅分。でも、直線距離で結べば三駅もない……はず。走るか。いや、それならタクシー待つ方が早いか。悩んでいても答えはでないと、結局じっとしていられないのが性格ってやつで。店の方角を確かめながら、適当な道を選んで車も人通りも少ない暗がりを行く。走る必要もないのに走るのは、一分一秒でも早く会いたいからで。案外ヤキモチ妬きのあのひとを、不安にさせたくないからで。あ、いや。不安に思ってくれるならちょっとは嬉しいけど、不安にさせたいわけじゃない。応えてくれない人を好きで居続けるという恋愛を、今までしたことがなかったから、俺にとっては複雑で初めての心境だった。「くっそ、あつ……」半分くらい走ったところで、一度足を止めて呼吸を整える。バスケ現役で走っていた頃なら、もうちょい走ることができたのに。再び走り出してすぐ、流しのタクシーを捕まえることができて、それからは店まではものの数分だった。タクシーを店の前で降りると、ぶるりと寒さが身体に堪えた。散々走ったおかげでシャツが汗で濡れていて、今度はそれが逆に身体を冷やしている。当然だ、来週には十二月だ。慎さんに出会ったのは、まだ秋のはじめの頃だった。ふと、風の温度に季節の移り変わりを感じて、あれからまだ二か月ほどしか経っていないのだと気が付いた。随分長い間、この店に通っているような気がしていたけれど……それほどの回数、ここに訪れているということだろう。「……はあ」階段を降り切った踊り場、店の扉にかけられたプレートの「close」の文字に溜息をつく。今夜は最後の客が早く帰ってしまったのかもしれない。場合によっては、週末は特に明け方近くまで開けていることが多いのに、今夜に限って早々に閉めてしまったようだった。素っ気ないけど律儀な
「……何言ってるんですか。もう終電もなくなりますよ」「大丈夫です、走れば間に合うし。それに週末はあのオッサンまた来るかもしれないじゃないですか」「梶さんなら、最近は来ても別に僕に絡まないし、佑さんがお相手してるから特に困ってませんよ」呆れたと言わんばかりの顔で慎さんは言うけれど。確かに、近頃来店してもそれほどしつこく絡んでいる様子はないし、佑さんと話していることが多い。だが、それを認めてしまうともう番犬は必要ないから来なくていいと言われてしまいそうだ。っていうか、ちょっと……今。イヤなものを想像して、寒気が。「……あのオッサン、まさか佑さんに鞍替えっすか?」「は? いや、まさか……そんな」ぽかん、とした表情の慎さんと顔を見合わせる。恐らくは今、脳内で似たような絡みを想像しているのではないだろうか。次の瞬間、血の気が引いた青い顔色で思いっきり口と鼻を歪ませた。「……んなわけないでしょう。変なもの想像させないでください」「すんません……俺も鳥肌立った……」おえっ。オッサン二人の絡みなんか。当然美しいわけがない。当の佑さんは流し台で洗い物をしていて、こちらの話は全く聞こえていないようだが、もしも聞いていたら面白がって悪ふざけを考えたに違いない。「…っと、とにかく。戻ってきますから。閉店までには」「そんな、無理をしなくても」「無理じゃなくて、俺がそうしたいだけですから!」そうと決まれば、早く行かなければ。出来れば終電があるうちに戻って来たいところだ。急いで背を向けた一瞬、複雑な表情を浮かべながらもほんの少し、嬉しそうに見えたのは……希望的観測が過ぎるだろうか。三人の元に戻れば、まだ二回目だというのにまるで決まり事の如く俺がアカリちゃんを送る形で解散した。そこからの俺は気もそぞろで、電車の中でアカリちゃんと話はしたものの内容はさっぱり覚えていない。彼女の家の最寄り駅で降りてからも、つい早足になる歩調に気付いては、後ろを振り向いて慌てて緩める、の繰り返し。しまった。大した距離じゃないんだし、電車を降りたらすぐにタクシーに乗れば良かったのだ。一生懸命俺の後ろを着いてくる彼女に、罪悪感が沸いて少し気を落ち着かせようと深呼吸をする。「なんか、ごめんな」「ううん、こっちこそごめんね。またこんなとこまで送らせちゃって……」
浩平は、とにかく俺とアカリちゃんをどうにかしたいらしい。っつか、馬鹿め。この店に来た時点でそんな目論見は破綻している。慎さんがバーテンダーをしているこの店で、彼(彼女)以上に女を引き付けられるわけがないのだ。自分で言っててかなり虚しいが、俺の好きな人は俺なんか足元にも及ばないくらい女にもモテモテなのだから仕方ない。「ヤバイ、あのひとなに?! モデルとかじゃないの?!」「めちゃくちゃ綺麗だったね、男の人にしとくの勿体ない……」慎さんがカウンターの方へと下がっても、視線で後を追うように身体ごと振り向かせ、ほう、とピンクの溜息をつく。彼女たちの前には、慎さんが作った色合いの可愛らしいカクテルが並んでいる。赤い液体に、ミントの葉と白いパウダー状のものが雪みたいに散っているイチゴマティーニと、薄いピンク色のピンキーサワーはどうやらマンゴーらしい。『お二人のアクセサリーの色に合わせてみたんです。こういう楽しみ方もいいでしょう?』そう言って微笑んだ慎さんは、確かに誰よりもかっこよく麗しい、バーテンダーだった。「……馬鹿だろ浩平。ここに来たらこうなるに決まってんだろ」「いや、確かにちょっとは思ったけど……なんかあのひと、今日は特に接客気合入ってねえ?」そうだろうか?いつだって慎さんは女の人にはめちゃくちゃ優しいし、飛び切りの王子様スマイルだけど。「あああ、どうしよう。本気で暫く通っちゃおうかな」「やめとけやめとけ。お前なんか相手にされるわけないだろ」「うっさいわね、そんなのわかんないじゃないの!」浩平とミキちゃんが、喧嘩腰の軽口を叩き合う。大学時代から、これが二人の雰囲気らしい。付き合っている、というわけではないそうだが。「男だって見た目は大事よ! アカリもそう思うよねー」「あはは。そうねえ……すごく綺麗だから、目の保養にはなりそうだけど、緊張しそう」「そう?」「うん、私はもうちょっと、身近な感じの人の方がいいかな」そう言って、アカリちゃんがちらりとこちらを見て視線が合った。同意して欲しいのだろうか。確かに、慎さんが綺麗な人だということには何の異論もないが。「話してみると、結構面白い人だよ。人間味あるし」緊張する、という言葉が、なんとなく「自分たちとは違う人」と一線を引いたものに聞こえて、ついそんなことを言ってしまった。
別に、ほんのちょっと妬いてくれたくらいでそれがイコール「好き」という感情に直結するとは思ってない。だけど、そのほんのちょっとの嫉妬と同じくらいに、希望があるって思っていいんだよな?胸の奥が苦しいくらいにきゅんきゅんと鳴っている。この人は、良くも悪くも俺の心拍数を上げてくれるから、そこんとこをもうちょっと自覚してほしい。すみませんでした、と小さく頭を下げた彼女に首を傾げると、少しもじもじとしながらもう一度謝罪の言葉が聞こえた。「……陽介さんの気持ちを、疑ったことです。すみませんでした」「ま、慎さん……!」と、またしてもカウンターを乗り越えたい衝動に襲われて、カウンターに阻まれる。いらないだろ。邪魔でしかないだろカウンター。しかし、遮られてなかったら本気で抱き着いて殴られてたに違いない。「受け入れたわけじゃないですよ! し、信じただけですから!」俺の気持ちを信じると言ってくれた。それだけで十分だった。俺はすっかり舞い上がって、その後俺の居ないところで、浩平と慎さんが話をしていたなんて、随分後になるまで全く知らなかった。―――――――――――――――――――――あれから、半月程。今夜のbarプレジスは賑やかだ。カウンターが俺の特等席だが、今は一番奥のテーブル席にいる。なぜなら今夜は、ものすごく不本意ながら……一人ではないからだ。「こんな素敵なバーがあるなんて、浩平ったら全然教えてくれなくて」「本当、こんなお洒落なバー、初めて来ました……なんかそわそわしちゃう」浩平の大学の頃の女友達、ミキちゃんと、その隣で、ほんのり頬を染めて小さな身体をさらに縮こませてモジモジしているアカリちゃん。そして俺の隣で若干白けた表情の浩平の四人という、俺としては何とも複雑な面子での来店だった。「ありがとうございます。ここは女性のお客様も良くいらっしゃいますよ。気楽に楽しんでくださいね」こんな状況にも拘らず、慎さんは今日も変わらず妖艶な微笑を浮かべ、ピンと伸びた綺麗な姿勢で立っている。ミキちゃんとアカリちゃんは、すっかり慎さんの王子様スマイルの虜のようで、ハートがキラキラ飛び散ってる幻影まで見えそうだ。慎さんがオーダーを聞こうとしているのに、何かと脱線してさっきから無駄話しかしていない。それでも、慎さんは嫌な顔一つ見せないのだから……やっぱ
どくどくどくと早鐘を打つ鼓動に焦燥感も煽られる。「アカリちゃんって子が明らかに陽介狙いだったんで、送ってやれって二人きりにさせてみたんすけどね」「だから俺は」焦って説明しようとする俺の言葉に被せるようにして、慎さんが言った。「恥ずかしがることないじゃないですか。陽介さんにも春が来たんですね」「……」ぷつん。と何かが切れた音が頭の中でした気がする。目の前には、慎さんがいれてくれたシャンディガフ。薄黄色の透明な液体で埋められたグラスの中、きらきらと小さな粒のような泡がくるくる昇るのを見乍ら、苛立ちを抑えようとしたけれど。我慢できずに、グラスを掴みひと息に飲み干した。冷えた液体が身体の中心を通ったけれど、頭は冷えてくれなかった。春が来た、って何。俺はずっと春だけど。慎さんと出会ってから、頭ン中ずっと春爛漫だけど?!なんで今更他の女と春を迎えなきゃならないんだ。好きだって言ったのに、なんで信じてくれてないんだ。だん!と勢いよくグラスを置いた衝撃で、会話を続けていた二人の声がぴたりと止まった。「陽介さん?」「俺は!」椅子から立ち上がり張り上げた声に、慎さんが目を見張る。今漸く、ずっと逸らされたままだった視線が合った。「俺は、慎さんが好きだって言いました!」信じてもらえない苛立ちそのまま言葉をぶつけてしまったけど、それでいいやと抑止は全く働かない。驚いた慎さんの手から、ダスターがぽとりと落ちた。「ちょっ、陽介さん……」「拒否されててもわかってはくれてるものと思ってました! もっと口に出した方がいいっすか、もっと態度で示さないとわからないですか」「ちょ、ちょっ……馬鹿かお前!」「どうせ俺は馬鹿ですよ!」嘘つきだとか節操無しだとか思われるより、馬鹿の方がなんぼかましだ。完全に頭に血が上った俺に、慎さんが動揺したのか目線がちらちらと他所を向く。なんだよ、俺に集中しろよ!子供染みた独占欲みたいなものが沸いてでて。その視線の先に、慎さんの動揺の理由に気付いた。「浩平ならもう知ってます。俺、言ったから」「は?」ぽかん、と口が開いたままおかしなものでも見つけたような、表情だった。「ば……馬鹿じゃないか、本当に」「なんとでも。男も女も関係なく、慎さんが好きです。何回でも言いますし誰に知られても、俺はいいです」そう