景之は母親の悲しそうな顔を見て、思わず慌てた。彼は小さな手をそっと差し出して紗枝を抱き、背中を軽く叩いた。「ママ、僕も弟も、絶対にママのそばを離れないし、誰にも連れて行かせないよ」彼の優しい言葉に、紗枝は強く抱きしめ返した。「ありがとう、景ちゃん」普段は甘えるのが苦手な景之は、紗枝に抱きしめられることがあまりなかった。いつも抱き寄せようとすると、彼は照れくさそうに避けてしまうのだ。しかし、本当は母親に抱きしめられるのが大好きで、ただ恥ずかしいだけだった。今、彼の顔は真っ赤になっている。「それで、ママ、あいつを騙したほうがいいんじゃない?僕を逸ちゃんだと思い込ませたままにするってことで」紗枝はまだ幼い子どもがこんなにも気を回していることに驚いた。「そこまでする必要はない。実は彼、私が双子を産んだことを知ってる」紗枝は景之に嘘をつかせたくなかった。景之は少し考えたあと、提案した。「じゃあ、自分から彼に僕が景之だって教えないってことでいい?」「そうね、それでいい」母子は小さく約束を交わし、景之も安心した。自分が怒られなかったことが嬉しかったのだ。その時、部屋の外からノックの音が聞こえた。「紗枝」出雲おばさんだった。紗枝がドアを開けた。景之も出てきて、「おばあちゃん」と声をかけた。出雲おばさんは景之の姿を見ても特に驚くことはなく、少し前から部屋の中で外の話し声を聞いていたのだ。彼女は景之に微笑みかけ、「さあ、美味しいものを食べに行きましょう」と言って、子供を連れていった。その後、紗枝はリビングに降りていくと、啓司がソファで彼女を待っていた。「啓司」と彼女が言った。「もしあなたが今、後悔しているなら、まだ間に合うよ。離婚しましょう。私は何もいらないから」その言葉に、啓司は顔を上げ、彼女のほうをじっと見つめた。「紗枝ちゃん、君は、あの時お腹の子も僕の子どもじゃないと言ってたね」紗枝は一瞬言葉を失った。「ならば、もう一人増えても変わらない」少し間を置いて啓司は続けた。「牧野が言ってたんだ、君が産んだのは双子だって。もう一人の子も引き取っていいぞ、僕には養う余裕があるからな」紗枝は、これがかつてのあのツンデレな啓司だなんて信じられなかった。なぜ自分以外の子どもを養おう
この間、啓司の記憶は徐々に戻りつつあり、幼少期からプログラミングの知識を持っていたことも思い出し始めていた。そして、景之がプログラムを書き上げると、その内容に誤りがないことに驚かされた。景之はやはりまだ子供で、才能を隠すことを知らなかった。「僕があなたの年齢になったら、絶対にあなたを超えてやるからね!」啓司は気にせず答えた。「それなら、君が超える時を待っているさ」すると景之の頭に悪巧みが浮かび、「じゃあ、勝負しよう!あなたが負けたら、僕のママから離れて出て行ってくれる?」啓司は手を止め、軽く眉を上げて尋ねた。「じゃあ、僕が勝ったらどうする?」「そしたら、ここにいることを許してあげる」啓司は軽く笑って言った。「その賭け、僕にとって不公平だな。そもそも君と勝負しなくても、僕はここに居続けられるからね」景之は、親父が意外に頭の回転が速いことに驚いた。「じゃあ、あなたが欲しいのは何?」親父はもう目が見えないんだから、もしプログラミングで勝負するなら、自分が負けるはずがない。「僕が勝ったら、僕をパパって呼んでくれ」景之は一瞬固まった。彼がどうしてクズ親父をパパなんて呼べるんだ?彼がためらっていると、啓司が挑発するように言った。「どうした?パパって言うくらい、簡単だろう?もしかして、怖いのか?」「誰が怖がってるんだ!やってやるよ!」景之はぷっと頬を膨らませた。その時、紗枝は部屋の片付けを終えて出てくると、景之と啓司が揃ってリビングに座り、それぞれパソコンを叩いているのが目に入った。二人がどうして急にこんなに仲良くなったの?「け......逸ちゃん、お風呂の時間よ」危うく言い間違えそうになった。景之が提案した通りにして、啓司の誤解はそのままにしておこうと決めたのだ。どうせ彼が記憶を取り戻したら、自分は出ていくだけなのだから。「ママ、もう少しだけ待ってて。先に休んでてよ」景之は画面から目を離さずに答えた。「わかったわ」景之は三歳の頃から一人でお風呂に入るようになっていた。一時間後。啓司が景之のパソコンをハッキングした。ソファに倒れ込んだ景之は、まるで心が抜け落ちたかのように虚ろな目をしていた。「僕の勝ちだな」と、啓司が言った。完全には記憶を取り戻していなかったが、もし
景之は実言のことを調べてみたが、彼のルックスは普通ではなく、しかもトップレベルの弁護士で、一般の男性と比較にならないほどの存在だった。唯は景之のために優れた幼稚園を選んでくれたが、そこにはお金持ちの子供が集まるものの、父親たちは皆既婚者で、候補にはならない。時間を前日に戻してみよう。景之は登園中、景之は明一に、有名なイケメンかつお金持ちの人を知っているか尋ねてみた。すると、明一が誇らしげに言った。「お金持ちでイケメンな人といったら、当然うちの黒木家だけだろ?」唯の甥、陽介も話に加わり、「景ちゃんのパパもイケメンだよね」と自信満々に言った。景之は首をかしげた。「僕のパパ?」「この前、園長先生と話してたあの人だよ」と陽介が当たり前のように答えた。その横で、明一が急いで訂正する。「違うよ、あれは和彦おじさんで、景ちゃんのパパじゃないよ。苗字が違うの、夏目と澤村が親子なんてありえないよ!」陽介は頭をかいて言った。「でもさ、僕のおじいちゃんは、和彦おじさんが唯おばさんと結婚するって言ってたよ」「景ちゃんは唯おばさんの私生児なんだから、和彦おじさんが彼の父親ってことになるだろ?」と陽介は当然のように言った。明一は、その言葉を聞いて納得するようにうなずいた。二人が話に夢中になっていると、景之が今度イケメンを探しに行こうと提案した。そのため、今日の授業中、二人はずっと景之が来るのを待っていた。二人は、「塾に行く」という理由で先生に休みをもらい、ただ景之を待っていた。「昨日はちょっと用事があったから、今日は遅れちゃったんだ。先生に一言伝えてから行くよ」と景之が言い、カバンを置いて先生のところへ向かった。彼は今日、数学オリンピックにエントリーした。数分後、三人はバッグを背負い、幼稚園から外へ出て行った。陽介は大きなあくびをして言った。「それでさ、どこでイケメンを探すんだ?」明一が胸を張って言った。「心配ないよ、僕に任せて!」「聖夜高級クラブっていうところだ。父さんがよく友達と行ってるし、父さんのゴールドカードも持ってきたんだ!」明一はバッグから金色のカードを取り出し、誇らしげに見せた。クラブか......景之は中に「ホスト」がいる可能性を思い浮かべて、それで納得した。「じゃ、行こう!」真
マネージャーは思わず唖然とした。まさか三人の子供がイケメンを求めてくるとは思わなかったのだ。しかも、美女ではなくイケメン?だが、目の前の三人の子供が一目で大物の子供だとわかるため、無下にするわけにはいかない。「わかりました、すぐに手配します」と彼は返事した。マネージャーは最初、子供たちの親に一報を入れようかと考えたが、景之が声を低くして警告を発した。「おじさん、僕の父さんが誰かなんて知りたくないよね」「もし彼に知らせたら、彼はまずあなたの店を潰してから僕たちを連れて帰るだろうから、あなたにとって損しかないよ」マネージャーは子供が放つ言葉に思わず驚かされた。彼の言い分にも一理あると考えた。「安心してください。お坊ちゃんたちが遊びに来たことは誰にも言いませんから」どうせ自分の子供じゃないし。子供たちのことを考え、マネージャーは彼らを豪華な個室に案内させ、すべての酒を片付け、甘い炭酸飲料に取り替えさせた。彼らが移動しているとき、偶然にもエレベーターから降りてきた和彦の目に留まった。昨夜ここで仲間と飲んでいた和彦は、目が覚めたところで子供たちを見かけた。マネージャーが戻ってきた時、彼は尋ねた。「あの三人の子供、ここで何をしてるんだ?」和彦がマネージャーに聞くと、マネージャーはすぐに景之たちが「イケメンを探しに来た」と報告した。「イケメン?」和彦はその言葉に興味をそそられ、立ち去る予定を変更した。「しっかり見ておけ。彼らが何を目的にイケメンを探しているのか確認するんだ」「かしこまりました」......豪華な個室にて。陽介と明一が入ってきてすぐにあちらこちらで遊び始めた。「ねえ、景ちゃん、なんだか君すごく詳しそうだけど、もしかしてここに何度も来てるの?」陽介が尋ねた。明一も期待の目で景を見つめていた。景之は真面目な表情でソファに座りながらも、内心少し焦っていた。こんな場所にママが自分を連れてくるはずもない。全部テレビで見て学んだ知識なのだ。「たまに、かな」二人は、すっかり彼を崇拝するような表情で見つめた。明一はここに来たことは一度もなかったが、父親が来るたびに母親が怒って父と口論になるのを耳にしていた。父親がこっそりと「本当の男になったら、君も来れるんだぞ
桑鈴町。啓司が新会社の仕事に集中していると、スマホに連続でメッセージが届いた。「12月12日10:24、〇〇カードの取引額:18,881,000円......」「12月12日10:26、〇〇カードの取引額:8,250,000円......」「12月12日11:00、〇〇カードの取引額:40,143,000円......」たった30分で数千万円が消費されていた。啓司はその金額には気に留めないが、子供がいったい何にこれほどの金額を使ったのか、また、この時間には学校にいるはずなのに、何をしているのか気になった。彼はスマホを手に取り電話をかけた。「逸之が幼稚園で何をしているのか確認してくれ」「かしこまりました」隣の部屋。紗枝と介護士が出雲おばさんの看病をしていた。今日は紗枝も、この前に雇っていた介護士が啓司により交代させられていたことを知った。出雲おばさんは、その介護士が啓司を激怒させた経緯や、彼女の無謀な行動について話した。紗枝はその話に驚き、半信半疑だった。「その場で動画でも撮って見せてくださればよかったのに」と彼女は微笑んだ。彼女は出雲おばさんとたくさん話すことで、少しでも出雲おばさんの痛みを和らげようとしていた。「その時は動画を撮るなんて思いつかなかったよ、惜しかったわ」出雲おばさんは介護士に「お水が飲みたい」と伝えた。介護士は急いで水を取りに行った。介護士が部屋を出ると、出雲おばさんは紗枝の手を握り、真剣な表情で聞いた。「紗枝、景ちゃんを連れ戻したことで問題は起きないかね?」紗枝にもわからなかった。「心配しないで、彼は今、目が見えず記憶も失っています。何か大事を起こす心配はありませんよ」出雲おばさんは深い息をつきながら不安そうに言った。「でも、最近どうも胸騒ぎがしてね......」啓司と二人きりで過ごしていると、出雲おばさんは彼がそれほど悪い人ではないことに気づいた。しかし、彼がずっと紗枝に優しくしてくれるかどうか、彼女は賭けることができなかった。紗枝は出雲おばさんをしっかりと慰め、「心配しないで」と言った。彼女が疲れて休んだ後、紗枝は部屋を出た。階下に降りると、啓司の部屋のドアが閉まっているのが見えたが、特に気にはしなかった。彼女は最近、妊娠の影響で時々吐
美希の本性を知らない者なら、彼女の今の偽善的な態度に気づくことはできないだろう。紗枝の深い瞳には冷ややかな嘲笑が浮かんでいた。「また私を誰かに売り飛ばすつもり?それとも、私を利用して何か利益を得たいだけ?」見透かされ、美希の顔から作り笑いが消えた。「何度も言ってるでしょう、そんな目で私を見ないで」美希は紗枝の目を見つめ、心の中でその目を引き裂いてしまいたいと思った。紗枝は冷静に返した。「分で帰る?それとも、私が帰らせようか?」美希は何の成果も得られずに引き下がった。帰る途中も、紗枝が彼女に向けたあの冷たい視線が頭から離れなかった。特に息子から聞いた、紗枝が夏目父の秘密の遺言を手にしているという事実が気にかかっていた。その遺言には、会社の継承者として息子ではなく娘である紗枝が指名されている。美希は今にも夏目父の墓を掘り返したい気持ちだった。「死んでまで私に安らぎを与えないなんて......」......人によっては、その人生の全てが幼少期の心の傷を癒す旅のようなものである。紗枝は美希の車が遠ざかるのを見届け、しばらくその場に立ち尽くしていた。ふとコートが肩にかけられ、紗枝は少し遅れて振り返った。すると、いつの間にか辰夫が彼女の後ろに立っていた。「辰夫、いつからここに?」「あいにくね、美希が去るのを見届ける前に来てしまったよ」と辰夫は静かに答えた。紗枝は視線を落とし、「見られて恥ずかしい限りよ」とつぶやいた。辰夫は彼女の髪に積もった雪を優しく払いながら言った。「何を言ってるんだ、僕たちは幼い頃からの親友だろ?」その言葉に、紗枝の瞳が潤み、そっとうなずいた。「それで、何か用があって来たの?」紗枝が尋ねた。辰夫は答えた。「出雲おばさんが来いって言うからね」紗枝は出雲おばさんの考えを察したようで、辰夫が家に向かおうとするのを見て、彼のコートの裾を掴んだ。「辰夫、出雲おばさんが言ったことを気にしないで。彼女はただ私を心配してるだけで、私の世話をしてくれる人を探しているだけなの」「でも、私はもう誰かの世話になるほど弱くない。他の人を支えるくらいには強くなっているよ」辰夫は彼女の言葉に喉が詰まるような苦い気持ちを覚えた。これは彼への遠回しな拒絶なのだろうか?しかし、彼は諦
睦月も、うっかり口が滑ってしまったと気づき、急いで電話をかけ直してきた。「兄貴、すまなかった!でも、今回は真面目な話だ」辰夫はようやく彼の話を聞く気になった。「前に、黒木グループのプロジェクトを全部横取りしろって言っただろ?最初はうまくいってたんだけど、最近の案件でバレて、啓司がうちの商売を邪魔する奴に本気で潰しにかかってきてるんだよ」辰夫は、今の黒木グループの社長が偽物であることを彼には伝えていなかった。話を聞き終えた辰夫は淡々と言った。「一旦手を引け」どうやら、あの偽物を少々甘く見ていたらしい。「了解」......その頃、啓司の元に桃洲市にいるボディーガードから電話が入っていた。内容は、景之がクラブに行っていたということだった。彼の名前が「池田逸之」ではなく、「夏目景之」だと判明したとの報告も受けた。ただ、景之がこんな幼い年齢でクラブに行くなんて、一体何をしに行ったのか見当もつかない。しかも、まさかの散財までして......啓司が電話を切った直後、家の外で足音が聞こえ、男性の話し声もしてきた。彼は眉をひそめ、部屋を出た。紗枝と辰夫がちょうどスーパーでの買い物を終え、帰ってきたところだった。外から冷たい風が吹き込むなか、啓司がゆっくりと口を開いた。「紗枝ちゃん、客人が来ているのか?」紗枝が返事をする前に、辰夫が少し笑みを浮かべて答えた。「黒木さん、僕ですよ、池田辰夫です」啓司の表情がわずかに険しくなった。紗枝はその場で軽く頷き、「私は料理を作るわ。あなたたちは話していて」と言いた。辰夫と話をつけた後、彼女は二の二人の間に漂う緊張に気づかなかった。「手伝うよ」「僕が手伝おう」二人の声が重なった。紗枝はちょうどキッチンの入口まで来ていて、二人を断ろうとしたその時、辰夫がすかさず、「黒木さんは目が不自由だから、僕が手伝った方がいいよ、紗枝」と言った。啓司の表情が一層険しくなった。紗枝はその様子を見て、啓司がここに居座って離れないことを思い出した。彼が本当に視力を失っていることや、料理を学ぶと言いつつ、今のところ白米を炊けるだけで他には何もできず、自分の手助けにもならないことも頭に浮かんだため、彼女は流れに身を任せることにした。「わかった」辰夫は満足そうに啓司を
啓司はそのつもりではなかった。景之を連れて帰ったのは、本来、紗枝を喜ばせるためだったが、今では紗枝がほとんど自分と話さなくなってしまった。景之は彼が何も言わないのを見て、自分が彼を手玉に取ったと思った。昨日負けたことの悔しさを晴らすため、さらに啓司を挑発した。「もしあんたがいなかったら、ママとパパはとっくに結婚してたのに、もう早く引き下がった方がいいよ」「誰かが言ってたよ、愛されていない人が愛人、つまり浮気相手だって」その言葉が終わると、啓司は景之の頭を軽く叩いた。啓司は真顔で言った。「そんな言葉、二度と聞きたくない。これからは、ネットでそんな無駄なことを見ないようにしなさい」景之は自分の言葉が間違っていることを分かっていた。ただ、彼を試すつもりで言ったのだ。どうやらクズ親父はまだ救いようがあるようで、その言葉が間違っていることを分かっているらしい。彼は頭を揉みながら言った。「その言葉を言った人が誰だか、聞かないの?」「誰だ?」「柳沢葵だよ。君にとっては、忘れられない初恋の人だ」景之はどこで「初恋の人」という言葉を覚えたのかか全く分からなかった。それは、以前彼が葵の個人情報をこっそり調べていたときに、彼女のサブアカウントで見つけたものだった。そのとき、彼はとても母親を気の毒に思った。明らかに、母親と啓司は法的には夫婦なのに、葵の口ではなぜか「愛人」と呼ばれている。景之はとても腹が立っていたが、啓司はただ困惑した顔をしていた。彼の記憶には葵という人物は全く存在していない。だが、子供の言葉を聞く限り、嘘をついている様子はない。「つまり、彼女は私と紗枝の間に割り込んだということか?」「自分で考えてみてよ。今言っても無駄だし、君は覚えていないんだろ?」景之は何かを思いついて続けた。「もし僕が教えてあげるなら、パパって呼んでくれる?」啓司は顔をしかめたが、すぐに表情を戻した。「本当に僕に呼んでほしいの?」「うん」景之は真っ直ぐに啓司を見つめた。啓司はすぐにスマートフォンを取り出し、メッセージ画面を景之に見せた。「君がクラブでお金を使ったこと、僕は紗枝に伝えた方がいいと思っている」その一言で、景之は完全に動揺した。彼は説明することはできたが、結局子供である自分がそ
本家での夕食と聞いて、紗枝は首を傾げた。「急なのね」「食事ついでに、面白い芝居でも見られそうだ」啓司はそれ以上の説明はしなかった。紗枝もそれ以上は詮索せず、逸之の服を着替えさせると、三人で車に乗り込み黒木本家へと向かった。本家の黒木おお爺さんの居間では、おお爺さんが上座に座り、ただならぬ不機嫌な表情を浮かべていた。曾孫の明一が傍にいなければ、とっくに昂司を殴っていただろう。広間には、昂司の義父母が両脇に座り、昂司夫婦が立ったまま叱責を受けている。「お爺様、あのIMという会社が私の足を引っ張ってきたんです。あれさえなければ、とっくに桃洲市の市場の大半を掌握できていたはずです」昂司は相変わらず大言壮語を並べ立てる。黒木おお爺さんは抜け目のない人物だ。数百億円の損失と負債を知るや否や、すぐに調査を命じた。新しい共同購入事業だと?革新的なビジネスモデルと謳っているが、保証も何もない。ただ金を注ぎ込むだけの愚策だった。「啓司が黒木グループを率いていた時も、桃洲市の企業は総出で足を引っ張ろうとした。それでも破産申請なんてしなかっただろう。結局、お前に器量がないということだ」黒木おお爺さんは昂司に容赦ない言葉を浴びせた。昂司は顔を歪めた。啓司がどれほど優秀だったところで、今は目が見えない身だ。盲目の人間に何ができる?誰が目の見えない者に企業グループの運営を任せるというのか?「お爺様、損失を出したのは私だけじゃありません。拓司だって、グループを継いでからは表向き順調に見えても、IMに押され気味なはずです」昂司は道連れを作るつもりで言い放った。十年以上も経営から退いている黒木おお爺さんは、この言葉に眉を寄せた。「拓司は就任してまだ半年も経っていない。これまでの社員たちを纏められているだけでも十分だ。お前とは立場が違う。何年も現場で揉まれてきたんだろう?」昂司は再び言い返す言葉を失った。「今後はグループ内の一部長として働け。分社化などという無駄な真似は二度とするな。恥さらしだ」黒木おお爺さんの言葉は厳しかった。部長とは名ばかりの平社員同然。昂司夫婦がこれで納得するはずもない。夢美は明一に目配せした。明一は黒木おお爺さんの手を握りながら、「ひいおじいちゃん、怒らないで。明一が大きくなったら、き
牧野は、エイリーの人気がさらに上昇している状況を説明した。「最近の女は目が腐ってるのか」啓司は舌打ちした。彼にとって、芸能人なんて所詮は色気を売る連中と何ら変わりがなかった。牧野は思わず苦笑した。実は自分の婚約者もエイリーの大ファンだった。「ハーフだし、イケメンだし、歌も上手いし、性格も良くて、優しくて、可愛らしいの!」と目を輝かせて話す婚約者の言葉を思い出す。先日、思い切って婚約者に「もし僕とエイリーが溺れていたら、どっちを助ける?」なんて質問を投げかけてみたのだった。「社長、こういう人気者も、すぐに廃れますよ」牧野は慎重に言葉を選んだ。「もしお気に召さないなら、スキャンダルでも仕掛けましょうか」今となっては牧野自身も、このイケメン歌手が目障りになっていた。だが啓司は首を振った。紗枝にばれでもしたら、また謝罪させられる羽目になる。得策ではない。「焦るな。じっくりやれ」「はい」「それと、昂司さんが破産申請を出したそうです。今頃は、きっとお爺様に頭を下げているのではないでしょうか」啓司は牧野の報告を聞いても、表情一つ変えなかった。今回ばかりは、黒木おお爺さんどころか父親が戻って来ても、昂司を救うことはできまい。土下座して謝罪するのが嫌だったんじゃないのか?「木村氏の方は?」啓司の声が車内に響いた。「同じく財政難のようです」牧野は慎重に答えた。「内通者によると、今夜、木村家の者たちが本家に行き、援助を求めるそうです」啓司の唇が僅かに曲がった。「面白い芝居だ。見逃すわけにはいかないな」啓司は決意を固めた。夜には逸之が帰ってくる。逸之と紗枝を連れて実家に戻り、あの二人が受けた仕打ちを、きっちり返してやるつもりだった。......幼稚園に通い始めてから、逸之は心身ともに生き生きとしていた。今日も帰宅時は元気いっぱいだった。「ママ、見て見て!お友達の女の子たちがくれたの!」小さなリュックを開けると、普段は空っぽだったはずの中が、プレゼントでいっぱいになっていた。可愛いヘアピンやヘアゴム、チョコレートに棒付きキャンディーなど、次々と出てくる。紗枝は逸之と一緒にプレゼントの整理をしながら、息子がこんなにもクラスメートに人気者だったことに驚きを隠せなかった。逸之の生き生きとした
エイリーに電話をかけようとした紗枝のスマートフォンが、相手からの着信を告げた。「紗枝ちゃん!新曲聴いてくれた?」興奮した声が響く。紗枝は彼の高揚した気分を壊すまいと、CMの話は避けた。「まだよ。新曲が出たの?」「うん!今すぐ聴いてみて!どう?」エイリーは友達にお気に入りのお菓子を分けたがる子供のように、期待に満ちた声を弾ませていた。「うん、分かった」紗枝は電話を切り、音楽を聴いてみることにした。音楽アプリを開くと、検索するまでもなく、エイリーの新曲が目に飛び込んできた。ランキング第二位、しかもトップとの差を急速に縮めている。再生ボタンを押すと、透明感のある歌声が響き始めた。チャリティーソングとは思えないほど、感情が込められている。心に染み入るような優しさに満ちていた。MVも公開されているようだ。アフリカで撮影された映像が次々と流れる。家族の絆を描いた一つ一つのシーンが、心を揺さぶった。曲とMVを最後まで見終えた紗枝は、あのCMのことを気にする必要などないと悟った。そしてネット上では、貧困地域支援のためにイメージを気にせずCMに出演したエイリーの話題が、トレンド一位に躍り出ていた。ファンたちのコメントが次々と流れる。「やっぱり推しは間違ってなかった!小さな犠牲を払って大きな善行を成す、素敵すぎ♥」「歌も素晴らしいけど、人としても最高」「顔も歌も天使」「いやいや、イケメンでしょ!(笑)」ファンは減るどころか、むしろ増えていた。あの一風変わったCMを見て、貧困児童支援のために自分を投げ出す彼の姿に、共感が集まったのかもしれない。この慈善ソングも、親子の情を切々と歌い上げ、その旋律は涙を誘う。わが子を救うために命を捧げる母の愛を描いた歌詞が、心に響く。紗枝は再びエイリーに電話をかけた。「おめでとう。スーパースターまでもう一歩ね」「紗枝ちゃんの曲のおかげだよ。これほど話題になれるなんて」エイリーの声は弾んでいた。「アフリカから帰ったら、ディナーでも行かない?」「ええ、いいわよ」紗枝は快諾した。ネット上では楽曲の素晴らしさを称える声が溢れ、自然と「時先生」の名前も再び注目を集めていた。「あのバレエダンサーの鈴木昭子に楽曲を提供したのも時先生だよね?」「今更?時先生の曲
朝、スマホの画面に映る夢美のメッセージを見て、紗枝は舌打ちをせずにはいられなかった。よくもまあ、あんなに堂々と責任転嫁できるものだ。でも、間違ったことは言っていない。大人なのだから、誰かの後ろについて安易に儲けようなんて、そう甘くはないはずだ。グループは一瞬の静寂に包まれた後、誰も夢美に反論する者はいなかった。子どもたちは明一と同じクラス。桃洲市に住む以上、夢美を敵に回すわけにはいかない。でも、この損失を諦めきれるはずもない。この不甘の思いを、どこにぶつければいい?そして彼女たちは、ようやく紗枝のことを思い出した。謝罪と懇願のメッセージが、次々と紗枝のスマホに届き始めた。来年の会長選では必ず紗枝に投票すると。紗枝は次々と届く謝罪の言葉を無言で眺めていた。「景之くんのお母さん」幸平ママからもメッセージが届いた。「グループの様子、ご覧になりました?裏切った人たち、さぞかし後悔していることでしょう」紗枝は幸平ママの誠実さを信頼していた。どれだけの人が自分に助けを求めているのか、スクリーンショットを送ってみせた。「すごーい!」幸平ママは驚きの顔文字スタンプを返してきた。紗枝はスマートフォンを横に置いた。ママたちへの返信は、今はするつもりはなかった。階下に降りると、啓司がソファに座り、普段は決してつけない テレビを見ていた。画面にはCMが流れている。紗枝は目を凝らした。そこに映るのは、紛れもなくエイリーだった。アフリカの大地に立つエイリーの周りには、現地の美しい女性たちが並ぶ。なのに彼は妙に疲れた様子で、ナレーションが流れる。「元気がない……そんな時は……」紗枝は愕然とした。まさか、男性用の精力剤のCMだったとは……スター俳優にとってイメージがどれほど大切か、芸能界と無縁な紗枝でさえ分かっていた。若手のトップアイドルが、こんなCMに出演すれば、女性ファンは離れ、世間の笑い者になるに違いない。「どうしてこんなCMを……」紗枝は思わず呟いた。「所詮、役者だ」啓司は薄い唇を開いた。「金のためなら何でもする」そう言って、リモコンでチャンネルを変えた。このCMを何度も見返していたことを、紗枝に気付かれないように。「エイリーさんは違うわよ」紗枝は反論した。「稼いだお金のほとんどを慈善事業に使ってて、自
明一は相手の皮肉な態度に気付き、カッとなって手を上げかけた。だが景之の鋭い視線に遭うと、たちまち手を下ろし、悔しそうに立ち去った。殴っても勝てない、言い負かすこともできない。明一は深い挫折感を味わっていた。以前はそれなりに仲が良かったのに、こんなぎくしくしした関係になってしまって、少し後悔の念が湧いてきた。放課後、帰宅した明一はソファにぐったりと身を投げ出した。「どうしたの?」夢美は心配そうに息子を見つめた。「ママ……景之くんに謝りたいな」明一は逸之のことは嫌いだったが、その兄の景之は別だった。「何ですって!?」夢美の声が鋭く響いた。「なぜあんな私生児に謝る必要があるの!?あなたは私の息子でしょう!」明一は母の怒りに気圧され、謝罪の話題を即座に引っ込めた。「明一」夢美は諭すように続けた。「あの私生児たちと、友達になんてなれないのよ」「同じ黒木家の世代なのに、お父さんは啓司さんや拓司さんに頭が上がらないでしょう?大きくなった時、あなたまで同じように下に見られるの?」「いやだよ!」明一は強く首を振った。「僕が黒木グループのトップになるんだ!」「そうよ」夢美は満足げに微笑んだ。「私の息子なんだから、お父さんみたいに人の下で働くような真似はしちゃダメ」「うん!」明一は何度も頷いた。「頑張る!」「じゃあ、夕食が済んだら勉強よ」夢美は明一の成績を景之以上にしようと、家庭教師まで雇っていた。夜の十時まで勉強させるのが日課だった。どんな面でも、我が子を人より劣らせたくなかった。明一が食事に向かう頃、昂司が青ざめた顔で帰宅してきた。「あなた、今日は早いのね?」夢美は不審そうに尋ねた。昂司はソファに崩れ落ちるように座り、頭を抱えて呟いた。「夢美……終わった……」「何が終わったの?」「全部……投資した金が……全部パーになった」昂司は一語一語、重たく言葉を紡いだ。「えっ!」夢美の頭の中で轟音が鳴り響いた。「追加資金を入れれば大丈夫だって言ったじゃない!」「商売なんて、損なしなんてありえないだろう!」昂司は苛立たしげに言った。「IMが先回りして俺の取引先を買収するなんて……もう在庫の供給も止められ、借金の返済を迫られている」深いため息をつきながら、昂司は続けた。「新会社を破産させるしかない。そ
夢美の言葉に、ママたちは安堵の表情を浮かべ、紗枝の警告など耳を貸す様子もなかった。投票結果は予想通り、夢美の圧勝に終わった。だが意外なことに、紗枝にも全体の四分の一ほどの票が集まっていた。紗枝が不思議に思っていると、ママたちの中に、上品な装いの女性が目に留まった。その女性は紗枝に優しく微笑みかけていた。会議が終わると、その女性は紗枝の元へ歩み寄ってきた。「景之くんのお母さん、ありがとうございました」「お礼を?」紗枝は首を傾げた。「成彦くんの母親のことは覚えていらっしゃいますか?」成彦の名前を聞いた途端、紗枝の記憶が先日の出来事へと遡った。景之が暴力事件を起こし、呼び出しを受けた時のことだ。成彦はその時の被害者の一人で、その母親は抜群のスタイルで注目を集めていたものの、既婚者の家庭を破壊した女性だった。そんな事情を知ったのは、多田さんが提供してくれた情報のおかげだった。新聞でも報じられていたが、この女性モデルは横暴極まりなく、SNSで正妻を執拗に中傷し続け、ついには正妻を精神的に追い詰めて入院させたという。「ええ、覚えています」紗枝が答えると、「私が、その元妻です」女性は落ち着いた様子で告げた。紗枝は思わず息を呑んだ。目の前の女性は、成彦の母より体型は控えめだったが、その表情と品格は比べものにならなかった。「私は本村錦子と申します」紗枝が彼女を知らなかったのは、夢美の主催するパーティーに一度も姿を見せなかったからだ。多田さんからも特に情報は得ていなかった。「ご恩に感謝します」錦子は静かに告げた。「あなたのおかげで、やっと平穏な日々を取り戻し、こうして皆の前に姿を見せることもできました」「今は成彦の母として、投票に参加させていただいています」「そうだったんですね」紗枝は微笑んで返した。「こちらこそ感謝です。あまり惨めな負け方にならずに済みました」紗枝は数票程度を覚悟していたので、四分の一もの得票は予想以上の結果だった。「感謝なんて」錦子は首を振った。「私も夢美さんは好きになれません。あの方の自己中心的な振る舞いは、多くの子どもたちにとって不公平ですから」「皆、心の中では紗枝さんに会長になってほしいと願っているはずです」二人は校門まで様々な話に花を咲かせ、そこで別れを告げた
紗枝は壇上に立ち、ママたちの無礼な態度にも一切動じる様子を見せなかった。「皆様、景之の母の紗枝です。先ほど園長先生からご紹介いただきましたので、改めての自己紹介は省かせていただきます」客席のママたちは相変わらず、紗枝の言葉など耳に入れないかのように、好き勝手な態度を続けていた。幸平ママは不安げな眼差しで紗枝を見つめていた。あんなに止めようとしたのに——今となっては後悔の念しかなかった。このまま壇上で嘲笑の的になってしまうに違いない。しかし紗枝は相変わらず冷静そのもの。もはや遠回りな言い方はやめ、USBメモリを取り出した。「園長先生、スクリーンに映していただけますか?」園長は即座に協力し、プロジェクターの準備を始めた。ママたちの視線が半ば興味本位でスクリーンに集まる。「まあ、プレゼンまで用意してるのね。気合い入ってるじゃない」「どんなに立派な資料作っても、会長になれるわけないのに」「あんなにお金持ちなら、さっさと転校させれば?」周囲からの嘲笑に、夢美の唇が勝ち誇ったように持ち上がった。なんて馬鹿なことを——普通の学校なら、確かに会長には様々なスキルが求められる。でも、ここは違う。夢美が会長になれたのは、仕事の能力なんて関係なく、ただその権力を享受するためだけだった。皆が紗枝の失態を期待して見守る中、スクリーンに映し出されたのは、予想外の財務諸表だった。「これは……?」法人印の隣に記された署名に、誰かが気付いた。「これって……黒木昂司さんの会社の決算報告書では?」低い声が会場に響いた。夢美の顔から血の気が引いていった。紗枝は落ち着き払って画面を拡大し、赤字で強調された損失の数字を、誰の目にも分かるように示していった。昂司の会社の経営状態の悪さが、一目瞭然だった。「紗枝さん!それは何!」夢美が我に返ったように叫び、震える指を紗枝に向けた。紗枝は夢美の声など耳に入れないかのように、淡々と説明を続けた。「この財務諸表をお見せしたのは、投資には細心の注意が必要だということをお伝えするためです。もし資金面でお困りの方がいらっしゃいましたら、私にご相談ください」夢美の投資話に乗ったママたちの顔から、血の気が引いていくのが見て取れた。甘い言葉で誘われた「確実に儲かる」という話は、結
この幼稚園の保護者会会長は、年少・年中・年長クラス全体を統括する立場だった。そのため、他クラスの保護者会メンバーも集まっていた。前回の集まりで紗枝も何人かとは面識があったが、全員というわけではなかった。しかし、これらの保護者たちの中で、ある程度の資産がある者は皆、夢美から個別に事業への参加を持ちかけられていた。幸平ママが他の保護者たちの寝返りを知らなかったのも、そのためだった。破産寸前の彼女の家庭に投資の余裕はなく、夢美も一票や二票の価値しかない貧困家庭には目もくれなかった。新会長選出が始まる直前、夢美は紗枝の前に立ちはだかった。皆の前で挑発するように言う。「紗枝さん、障害のある人が会長を務めるなんて、できると思う?」紗枝の補聴器に指を向けながら、さらに続けた。「もし誰かが発言してる時に、その補聴器が故障したら?まさか、新しいのに替えるまで、私たちに待てって言うつもり?」紗枝は挑発に動じる様子も見せず、静かな表情を保ったまま答えた。「私は思うんですが、体が不自由な人より、心に闇を抱えた人の方が会長には相応しくないんじゃないでしょうか。保護者会は子どものためにある。闇を抱えた人は、他人の子どもを傷つけることしか考えないでしょうから」「何を言い出すの!」夢美の声が裂けんばかりに響いた。「あなたの息子が先に私の子を——」「誰が誰を傷つけようとしたのか」紗枝は冷ややかな眼差しを向けた。「あなたが一番よくご存知でしょう」わずか数人の子分を引き連れて逸之に制裁を加えに来るなんて——明一のような子どもが考えそうもない行動を、夢美は止めるどころか、むしろ後押ししていた。常軌を逸した行為に、紗枝は心底呆れていた。夢美がさらに反論しようとした矢先、園長先生と担任が姿を見せた。周囲に制され、夢美は渋々口を閉ざした。園長は出席者に向かって、昨年度の園児たちの成長ぶりについて簡単な報告を述べた後、会長選挙の開始を宣言した。夢美が保護者会に加入して以来、黒木家の影響力の前に誰も会長職に名乗りを上げる者はいなかった。ところが今日、スクリーンには紗枝の名前が映し出されていた。「夏目さんは、昨年、景之くんを海外から本園に転入させた保護者様です」園長が説明を始めた。「お時間にも余裕があり、保護者会会長として皆様のお役に立ちたいとの
多田さんは一瞬たじろいだ。紗枝が近づいてくるのを見て、明らかに落ち着かない様子を見せる。「あら、景之くんのお母さん、早いのね」声が僅かに震えている。「ええ、今日は会長選でしょう?早めに来なきゃ。多田さんも私に一票入れてくださるって約束してくれましたものね」「ええ、もちろんよ」多田さんは作り笑いを浮かべた。無記名投票なのだから、心配することはない。幼稚園の会議室に入ると、既に多くのママたちが集まって、盛り上がった会話を交わしていた。紗枝が入室すると、皆が一斉に視線を逸らし、まるで彼女がいないかのように振る舞い始めた。紗枝はそんな様子も気にせず、これから始まる展開を静かに待った。意外にも、先日駐車許可証を譲った幸平くんのママが、自ら話しかけてきた。「景之くんのお母さん、いらっしゃい」「ええ」紗枝は礼儀正しく微笑み返した。多田さんと同類かもしれないと警戒し、それ以上の親しみは示さなかった。すると幸平ママは紗枝を隅に連れて行き、声を潜めた。「景之くんのお母さん、今日は立候補を取り下げた方がいいと思います」紗枝は首を傾げた。「どうしてですか?」「私、早めに来たんですけど……」幸平ママは勇気を振り絞るように続けた。「何人かのママが話してるのを聞いちゃって。みんな夢美さんに投票するって」「どうやら示し合わせたみたいで、寝返るつもりのようです。選挙に出られると……」後は言葉を濁した。「私への推薦者が少なくて、面目を失うってことですね?」紗枝が問いかけると、幸平ママは小さく頷いた。この人は本当に自分のことを考えてくれている。恩を忘れていない――紗枝はそう確信した。「ご心配なく」紗枝は微笑んで答えた。「面目なんてどうでもいいんです。むしろ、立候補を諦めた方が、私の面目が潰れる」「息子のためにも、最後まで戦わせていただきます」昨夜、紗枝は景之に聞いていた。先生やクラスメイトとの関係はどうかと。「先生は替わって、少しマシになったよ」と景之は答えた。でも、クラスメイトは相変わらず自分から話しかけてはこないという。「別に気にしてないよ」そう言う息子の言葉に、紗枝の胸が痛んだ。ママを心配させまいとする四歳の幼い心。こんな小さな子が、本当に気にしていないはずがない。紗枝の決意を受け止めた幸平