「お父さん、お母さん、私、実家に帰ってお見合いして結婚することにしたよ。今月末に帰るね」 早春の季節、まだ肌寒さが残る頃。佐藤明美はドアを開けながら電話をかけていた。彼女の柔らかな声は、しとしと降る雨の中に溶け込むように響いた。 彼女はコートの襟をぎゅっと寄せ、電話越しに両親がほっと息をつくのが聞こえた。 「明美、お父さんとお母さんはここ数年体の調子が良くなくてね。お前が早く家庭を築いてくれるのが一番の願いだったんだ。 よく決めてくれたな。帰ってきたら、梅子さんに頼んで、いい相手を何人か紹介してもらうよ」 両親がすでに準備を始めていると聞いて、明美の瞳がわずかに揺れた。少し世間話を交わした後、電話を切った。 そして、彼女はこの家をちらりと見回し、寝室に戻って荷物の整理を始めた。
View More明美と悠真の結婚式は、秋から冬へと移り変わる最初の日に決まった。なんでも縁起のいい大安吉日らしい。 悠斗は式の前日に飛行機で江城市へ飛び、一人でホテルの部屋にこもって夜を明かした。翌朝10時、彼は背広に着替え、一人で結婚式場へ向かった。 受付で祝儀を預かるのは明美側の親族で、彼のことを知らず、名前を尋ねてきた。悠斗は本名を明かさず、「同級生からの気持ちです」とだけ伝え、「高校の同級生」と記帳してほしいと頼んだ。その文字が書き終わるのを見届けると、彼はポケットからカードを取り出し、周囲の驚く視線の中、淡々と言った。 「暗証番号は……佐藤さんなら分かるはずです。彼女に必ず受け取るよう伝えてください。これは昔の仲間からのささやかな気持ちです。幸せになってほしいと願ってます」 結婚式は山の中腹にあるホテルで開かれ、会場はピンクのバラで埋め尽くされ、どこもかしこも笑い声に満ちていた。 悠斗は適当に空いている席を見つけて座り、式が始まるのを静かに待った。 昼12時、式は時間通りに始まった。明美は美しいウェディングドレスを着て、父の健一の腕に寄り添い、盛大な拍手の中で登場した。健一は明美の手を悠真に託した。 悠斗の目にも、明美の幸せに満ちた顔が映った。彼女は終始微笑みを浮かべ、少し緊張した様子で、時折隣の悠真をちらりと見ていた。悠真は彼女の気持ちを察し、彼女が振り向くたびに、優しい笑顔を向けていた。 二人はスポットライトの下、大切な家族や友人たちに囲まれ、厳かに一生を共にし、白髪になるまで寄り添う誓いを立てた。指輪の交換が終わり、会場中が「キスして!」と囃し立てた。 悠真がベールを上げるその瞬間、悠斗は立ち上がり、そっと会場を後にした。 誰も彼の退席には気づかず、みな新郎新婦を祝福に夢中だった。彼は一人でホテルを出て、曲がりくねった山道を登るよう運転手に頼んだ。 晩秋の山は、緑だった木々がオレンジや赤、黄色に色づき、すっかり装いを変えていた。 風が枝の枯れ葉を散らし、ひらひらと道端に舞い、最後には紅葉がワイパーの上に落ちた。その落ち葉を眺めながら、悠斗は車を路肩に停めるよう指示し、窓を開けた。 冷たい風が吹き込み、目にかかる髪を払うと、わずかに赤くなった目元が露わ
悠斗は誰の説得も聞かず、雨の中、明美が気持ちを変えるのを待ち続けていた。しかし、深夜12時を過ぎた頃、もう耐えきれず、その場で気を失ってしまった。 春樹は急いで彼を病院に連れて行ったが、医師は傷口が感染していると診断し、すぐに京阪第一病院へ搬送するよう指示した。 その知らせに春樹は慌てふためき、震える手で中島家に電話をかけ、状況を説明した。 深夜3時、高熱が下がらない悠斗は京阪行きの飛行機に乗せられた。 翌朝、まだ空が明るくなる前、彼は手術室に入った。ところが、手術が始まってわずか1時間後、医師が慌てて出てきて、衝撃的な知らせを告げた。「傷口の感染がひどく、日本の医療技術では命を救うために右手を切断するしかありません。しかし、今すぐヨーロッパの病院に運べるなら、右手を残せる可能性がまだあります」 その言葉を聞いた母親は、その場で気を失ってしまった。 父親も顔が真っ白になったが、冷静さを保ち、すぐに飛行機の手配を進め、ヨーロッパの病院に連絡を取った。その日の午後、悠斗は父親と共にヨーロッパへ向かった。 3日後、医師たちの懸命な治療のおかげで、悠斗の右手は切断を免れた。しかし、神経が完全に壊死してしまい、指を動かすことは二度とできない。つまり、見た目だけの飾りにしかならないということだ。中島家の人々にとって、これは決して良い知らせではなかった。雨に濡れたことで全身に感染が広がり、手術後も悠斗は集中治療室で昏睡状態のままだった。医師は「状況はかなり厳しい。目覚めても多くの合併症と向き合わなければならず、長く辛い治療が必要になる」と説明した。そして、事態は医師の予測通りになった。手術から3日後、悠斗は目を覚ましたが、体のあちこちに異常が現れ、毎日大量の検査を受け、薬を飲み続け、24時間監視される生活が続いた。こうして時間だけが過ぎていった。 短い春が過ぎ、長い夏がやってきた。 病院で5ヶ月以上も蝉の鳴き声を過ごし、肌寒くを感じる最初の日、悠斗はようやく退院をした。病院を出た彼は、帰国の飛行機に乗り込んだ。 道中、窓の外を漂う白い雲を眺めながら、彼は一睡もしなかった。 薬でやつれ、すっかり面変わりした顔には、何の表情も浮かんでいなかった。 この数ヶ月、
悠斗は明美の言葉の意味がはっきりと分かった。 だが、彼は分からないふりをしたかった。 彼女が自分のことを諦めたという事実を受け入れられず、必死に首を振り、必死に首を横に振り続け、顔には苦しみと絶望の色が浮かんでいた。 「わからないよ、明美。そんなこと言わないでくれよ、頼むから」 明美が彼の顔にこんな脆く無力な表情を見るのは、これで二度目だった。初めて見たのは、真実を知ったあの日。酔っ払った悠斗を朦朧としながら家まで送った時のことだ。 彼は彼女を抱きしめて、一晩中「夢乃ちゃん」と呼び続けていた。 朝が来て彼が眠りに落ちた時、彼女の心も完全に冷めてしまった。あれからまだ1ヶ月ちょっとしか経っていないのに、今思い返すとあまりにも遠く、まるで前世の出来事のように感じられた。時間は本当に傷を癒す最良の薬なんだと、彼女は実感していた。彼のまるで駄々をこねるような引き留めにも、明美の心は少しも揺れなかった。彼女は静かに目を伏せ、彼の右手の傷口を見つめながら、穏やかな声で話し始めた。「否定したって何も変わりませんよ。かつてあった傷を隠すこともできないし、私がもう中島さんを愛していない事実を覆すこともできません。私が8年間本気で中島さんを好きだった気持ちに免じて、もうこれ以上私に構わないでください」そう言い終えると、明美は言葉を失った悠斗を最後に一瞥した。 彼の少し赤くなった目には、涙がたまっていた。 でも、彼女はその涙が何のために流れたのかなんて、どうでもよかった。 空から小雨が降り始め、彼女はもう立ち止まらず、小走りで家へ入っていった。 彼女が遠ざかるにつれ、雨はますます強くなった。 冷たい雨粒が悠斗の顔に落ち、温かい涙と混じり合って服や傷口を濡らした。血がまたぽたぽたと滴り落ちていた。その雨は一晩中降りやむことはなかった。……翌朝、明美が目を覚ますと、今日は予定を諦めるしかないと思っていた空が、急に晴れ渡っていた。 スマホを手に取ると、悠真からのメッセージが届いていて、もうこちらに向かっていると書いてあった。彼女は慌てて起き上がり、急いで準備を済ませ、彼が車を停める頃にはマンションの外に出ていた。雨上がりの空気はすがすがしく、朝早くから体操をするお年
明美は悠斗にこれ以上しつこく絡まれるのを嫌がり、内心ではっきりと決着をつけようと決めた。 彼女は何とか理由をつけて両親を先に帰らせ、その熱っぽい視線を感じながら、自ら彼の前に歩み寄り、先に口を開いた。 「何か言いたいことがあるなら、今ここで全部言って。10分だけ時間をあげるから、言い終わったら帰ってください。そして、もう二度と私の前に現れないで」 その最初の言葉を聞いた瞬間、悠斗は一瞬希望を見出した気がした。 だが、最後まで聞き終えると、それが希望ではなく、頼りない一筋の藁でしかないことを悟った。それでも、それが何であれ、今はそれを掴んで絶対に手放したくなかった。だから彼は一秒も無駄にせず、ずっと考えていた言葉をすべて吐き出した。 「明美、誕生日に結婚したいって言ってたよね? あれは俺に言った言葉だろう?ただ俺には少し考える時間が欲しかっただけなんだ。今はちゃんと決めたよ。俺は君と結婚したい。もう一度チャンスをくれないか?一緒に家庭を築きたいんだ」 以前の明美なら、これは切望していた言葉だった。 真実を知るまで、彼女は何度も悠斗からのプロポーズを想像し、結婚式でどんなドレスを着るか、結婚後の生活がどうなるかを思い描いていた。でも、そんなのはもうずっと昔の話でしかない。 今では、たとえ彼の口から「結婚」という言葉を直接聞いても、明美の心は少しも揺れなかった。彼女は顔を上げて、6階の家に灯りがついたのを見て、穏やかな笑みを浮かべた。 これまで以上に、彼女ははっきりと分かっていた。自分の居場所は待ち続けても来ない明日にも、遠く離れた京阪市にもない。それは彼女の目の届く場所に、自分自身の手で掴めるところにあるということだ。 だから彼女は首を振って、心から真剣な口調で答えた。 「嫌です。あなたと結婚する気はありません。中島さんには好きな人がいるし、私には到底手の届かない家柄もあります。私たちは違う世界に生きてるんです。私はもう8年間の執着を完全に捨てました。ですから、どうか私を自由にしてください」 その一言一句が悠斗の耳に突き刺さり、揺れ動いていた彼の心を深い闇へと叩き落とした。 まさか明美が自分が夢乃を好きだったことを知っているとは思わず、彼は一瞬にして冷静さ
夜の8時、空は黒い雲に覆われ、空気中には埃っぽい匂いが漂い、雨が降りそうな気配だった。春樹は目の下に濃いクマを携え、天気予報をちらっと見て、疲れた声で言った。「なぁ、兄貴、昼間に医者が休めって言ってたよな? 今夜は雨も降るみたいだし、今日はホテルに戻ろうぜ。明日また佐藤さんに会いに来ればいいだろ?」悠斗の視線はずっと入口に釘付けで、かすれた声で答えた。「お前が疲れてるなら先に休め。俺のことは気にするな。自分の限界くらい分かってるよ」こんな無茶のことばかりして、「自分の限界はわかってる」って言えるのかよ?春樹は内心で苦笑いを浮かべつつ、彼を説得するのは無理だと悟り、仕方なく近くの店に向かった。食べ物と雨具を調達するためだ。彼が店に入った瞬間、悠斗の視界に見覚えのある車が入ってきた。昨日の男を思い出し、全身の神経がピンと張り詰めた。身体からは鋭い敵意が滲み出ていた。案の定、数分後、明美が車から降りてきた。彼女の口元には昨日より何倍も輝く笑顔が浮かんでいた。それを見た瞬間、悠斗の胸に何か重たいものが詰まったような感覚が広がり、息がうまく吸えなくなった。ここ数日抑え込んでいた痛みや苦しみが、一気に崩れ落ちそうになっていた。だが、追い打ちをかける出来事が次々とやってくる。ちょうど散歩から帰ってきた明美の両親が二人を見つけ、笑顔で近づいてきた。四人が集まって楽しそうに話し始めたその様子は、知らない人が見ればまるで仲睦まじい家族に見えるだろう。健一は悠真の肩を軽く叩き、感心した口調で言った。「お父さんから聞いたよ。森川くんは将棋が得意なんだってね。今度時間がある時にうちに来て、一局指してみないか?」「おじさんがお誘いくださるなら、明日の夜はいかがでしょう?昼間は佐藤さんと花き市場に行く約束があるんで、その後に彼女を送りがてら、おじさんと一局お願いします」二人が明日も会う予定だと聞いて、健一と美智子は顔をほころばせてうなずいた。「もうこんなに長い付き合いなんだから、『伊藤さん』なんてよそよそしい呼び方はやめてよ。皆は『明美』って呼んでるんだから、森川くんもそう呼んで!」悠真の目が一瞬光ったが、勝手に呼び方を変えることはせず、明美の方を見て、彼女の意見を待つような視線を送った。明美は両
二回目の面接が終わり、ビルを出ても階下であの二人を見かけなかったことに、明美は胸をなでおろした。西に沈みかけた夕日を眺めながら、外で何か食べるか、それとも家に帰って済ませるか迷っていると、スマホが「ピンポン」と小さく鳴った。【面接終りました?どうでしたか?】悠真からからのメッセージだった。さっきの面接はなかなか楽しく話せたし、手応えも十分だと思った明美は、可愛い犬がOKサインを出しているスタンプを送った。すると、すぐに返事が来た。【うまくいったなら、お祝いしませんか?夕飯は僕がおごりますよ】明美は一瞬、断ろうかと迷った。だが、この二回目の面接は彼が紹介してくれたおかげだと考えると、断るのも気が引けた。すると、最初に打ちかけた「遠慮します」を消し、「私がおごるべきです」と書き直して送った。【じゃあ、お言葉に甘えます。今どこにいますか?迎えに行きますから、アドレスを共有してください。待ってる間に、夕飯何にするか考えておいてくださいね】現在地をラインで送った後、明美は食べログを開き、レストランを探し始めた。普段は正月やお盆に親戚と数軒訪れる程度で、江城市にはあまり詳しくない彼女は、どこがいいのかすぐには決められなかった。20分ほど悩んだ末、無難なところで洋食レストランを予約した。予約が完了したほぼ同時、悠真から「着きましたよ」と連絡が入る。明美は急いで車に乗り込んだ。シートベルトを締めながら、予約した店を伝えると、悠真はすぐには車を発進させず、後部座席から小さなケーキの箱を取り出して彼女に渡した。顔には優しい笑みが浮かんでいた。「前に、この店のケーキ好きだったって言ってましたよね?ちょうど通りかかったから買ってきました。昔と同じ味か試してみてください」自分が何気なく口にした言葉を覚えていてくれたことに、明美は驚きつつも嬉しくなり、何度も礼を言った。長時間何も食べていないため空腹だったが、悠真には潔癖症気味なところがあると知っていたため、その場では箱を開けず膝の上に置き、店についてから食べようと思った。彼女がケーキに手をつけないのを見て、悠真は少し意外そうな表情になる。穏やかな口調で言った。「面接二回も受けて、お昼も食べてないんでしょう?お腹空いてませんか?少しでも食べておいた方
明美は午前3時になってようやく眠気が訪れた。翌朝10時、予めセットしておいた目覚まし時計に起こされた。ぼんやりした頭でベッドから起き上がると、両親はすでに仕事に出かけており、キッチンには温かい朝食が用意されていた。洗顔を済ませながら、明美は午後の2つの面接予定を確認した。一つは午後2時、もう一つは4時半。どちらも自宅から30分ほどの場所だ。ルートを確認した後、部屋に戻って身だしなみを整え、準備に取りかかった。午後1時、バッグを持って階下に降りると、あの二人がまだ下で待っているのに気づいた。一晩中眠っていないような様子だった。明美の姿を見るなり、悠斗はすぐに立ち上がり、疲れ切った声で懇願した。「明美、少しだけ話せないか?」明美は時計をちらっと見て、淡々とした口調で答えた。「ごめん、用事があるから無理です」再び拒絶され、悠斗はその場に立ち尽くして動けなくなった。彼が道を譲らないので、明美はそれ以上何も言わず、左側の狭い隙間から強引に通り抜け、足早にマンションの出口へ向かった。その際に勢い余って悠斗の怪我した手にぶつかり、かさぶたになったばかりの傷口がまた開いてしまった。血がじわじわと包帯に染みていく。だが彼は痛みなど感じていないかのように、遠ざかる明美の背中を瞬きもせず見つめ続け、その瞳には深い悲しみが宿っていた。眠気でフラフラだった春樹は、その傷口を見て一気に目が覚めた。慌ててポケットから薬を取り出し、声を上げた。「兄貴、傷口がまた開いちまったじゃないか。早く病院行こうよ」だが悠斗は聞こえていないかのように春樹の手を払い除け、足早に明美を追いかけ始めた。その様子を見て、春樹は空を仰いで「全く、困ったもんだ」とため息をつき、仕方なく後を追った。一つ目の面接が終わったのは午後3時半だった。明美は建物から出てタクシーを拾おうとしたところで、いつの間にか追ってきていた悠斗の姿が目に入った。彼は花壇の脇に立ち、じっとこちらを見つめていた。その瞳には頑なな決意が浮かんでいるようだった。そばでオロオロしていた春樹は、明美が降りてくるのを見ると、慌てて駆け寄って道を塞いだ。「ねえ、やっと終わっただろ? 今なら時間あるよね? ほら、兄貴の手がこんなボロボロなんだよ。頼むからさ、ちょっと情
食事が終わったのはちょうど6時だった。美智子はソファでお茶を飲んでいて、父娘二人はキッチンで後片付けをしていた。健一はカウンターの油汚れを拭きながら、ちらりと娘のほうを見て、少し迷った末に口を開いた。「明美、森川おじさんがお前に聞いてほしいって言ってたんだけど……森川くんのこと、どう思う?」皿を洗っていた明美の手が一瞬止まり、目を細めて考え込んだ。森川悠真か……4日前に初めて会った時のぎこちなく丁寧なやりとりを思い出し、この2日間で昔話までできるほど打ち解けたことを考えると、かなり進展が早いのかもしれない。彼女はゆっくりうなずき、少し自信なさげな口調で答えた。「いい人だと思うよ。でもおじさん、なんでそんなこと聞くの?」「なんでって、お前が気に入ったからさ。森川くんをお嫁さんにもらってほしいんだよ。お前がまだ京阪市にいる頃から帰ってくるのを楽しみにしてたし、俺たちがお見合いを考えてるって聞いたら、すぐ森川くんを連れてきて『まずうちの息子を見てくれ』ってね。俺とお母さんも会ってみたら、見た目もいいし、話し上手で礼儀正しいし、年齢もちょうどいいから、悪くないと思ったんだ。別に今年中に結婚しろってわけじゃない。ただまずは知り合ってもらって、話が合うかどうか見てみたいだけだ」両親が自分のために気を遣ってくれているのは分かるし、心配をかけたくなかったので、明美は素直に気持ちを伝えた。「うん、分かってる。彼は本当に素敵な人だし、一緒にいて楽で落ち着くよ。でも恋愛感情って急にどうにかなるものじゃないから……私も彼ももう少し時間をかけて、お互い合うかどうか確認したいと思ってる。だからお父さんたちはそんなに心配しないで、お茶飲んだり将棋したり、お母さんと散歩でも楽しんでてよ」言いたいことは言った。健一も娘が昔からしっかり自分の考えを持っていると知っているので、それ以上は言わず、肩を軽く叩いて美智子と一緒に散歩に出かけた。皿を食器棚に片付けた後、明美は寝室に戻り、スマホを手に取ると、新しい友達申請が届いているのに気づいた。悠斗からだった。彼女は無視して窓を閉めようと外を見ると、マンションの下にまだ二人が立っているのが目に入った。遠すぎて表情までは分からない。でも、帰宅時の出来事を思い出すと、せっかくの
春樹はその言葉を耳にして、我慢できずに勢いよく立ち上がった。顔には信じられない表情が浮かんでいた。「兄貴と別れてまだ数日しか経ってないのに、もうお見合いしているの?お前……」 明美は後ろに二歩下がり、悠斗と距離を取った後、春樹をちらりと見て、淡々とした声で言った。「もう別れたんですから、私がお見合いしようがしまいが、あなたたちには関係ないですよね」悠斗は空を切った手を呆然と見つめ、喉仏が何度か上下した。彼は振り返って彼女を見つめ、目に悲しみがこみ上げてきた。「結婚したいなら、その相手って俺じゃダメなのか?」 明美はかすかに笑みを浮かべ、軽い口調で答えた。「ごめんなさい。私、過去にこだわるタイプではありません」その一言で悠斗の表情が一変した。春樹も彼女からそんな言葉が出てくるとは思わず、すぐに友人のために不満をぶつけた。「兄貴は何も悪いことしてないじゃないか。なのにどうして急に別れを切り出したの?それに今度はすぐお見合いだなんて……兄貴のこと何年も好きだったよね?どうしてこんなバカなことするんだ?」急にとか、すぐ次だとか、バカなこととか?なんて自分勝手な言い方なんだろう。明美は彼らと正しいか間違っているかを議論するつもりはなかった。そんなことをしても意味がないからだ。だからただ一言だけ返した。「もう好きじゃなくなったから別れました。それじゃダメですか?」そう言い終えると、二人の反応を見もせずに、マンションの方へ歩き出した。その冷たい態度に我慢できなくなった春樹は、3メートルほどほど離れた場所から大声で叫んだ。「佐藤!兄貴の右手がもう使えなくなったって知ってるのか?それでも少しも気にならないのか?」道徳的な説得がうまくいかないから、今度は同情を引こうってわけ?でも明美はその手に乗る気はなかった。彼女は振り返らず、声を張り上げて答えた。「それは彼が自分で選んだことでしょう。元カノには関係ないですよね」春の夕陽が明美の体を照らし、暖かさが心地よく感じられた。彼女は枝先に芽吹いた緑の新芽を見つめ、腰のあたりに残る少しずつ癒えてきた傷跡を思い出し、目に喜びが溢れてきた。寒い冬はもう終わり。彼女が長い間待ち望んでいた春が、こうしてやってきたのだ。ドアを開ける
「お父さん、お母さん、私、実家に帰ってお見合いして結婚することにしたよ。今月末に帰るね」早春の季節、まだ肌寒さが残る頃。佐藤明美(さとう あけみ)はドアを開けながら電話をかけていた。彼女の柔らかな声は、しとしと降る雨の中に溶け込むように響いた。彼女はコートの襟をぎゅっと寄せ、電話越しに両親がほっと息をつくのが聞こえた。「明美、お父さんとお母さんはここ数年体の調子が良くなくてね。お前が早く家庭を築いてくれるのが一番の願いだったんだ。今回決心がついて本当に良かった。帰ってきたら、梅子さんに頼んで、いい相手を何人か紹介してもらうよ」両親がすでにお見合いの準備を始めていると聞いて、明美の瞳がわずかに揺れた。少し世間話を交わした後、電話を切った。そして、この家をちらりと見回し、寝室に戻って荷物の整理を始めた。引き出しにしまわれていた分厚いラブレターの束、タンスの奥に隠していた数冊の写真アルバム、そして本棚に並ぶ何年分もの日記。それらはすべて自分の片思いの記録であり、すべて……中島悠斗(なかじま ゆうと)という男にまつわるものだった。今、彼女はそれらを箱に詰め込み、迷うことなく下に運び出し、火をつけて全て燃やした。オレンジ色の炎がゆらめく中、背後から足音が聞こえてきた。振り返ると、そこにはパイロットの制服をきちんと着た、悠斗の姿があった。背が高く、すらりとした姿だった。彼はフライトから戻ったばかりのようで、明美が下にいるのを見つけると、口元を緩めた。「何を燃やしてるんだ?」彼は身をかがめて、まだ完全に燃えていないピンクの手紙を拾い上げ、眉を少し動かした。「ラブレター?君、ラブレターなんて書いたことあったのか?誰宛て?」明美は彼をじっと見つめ、何か言おうとした瞬間、彼は笑いながらその手紙を火の中に投げ入れ、彼女の頭を軽く撫でた。「冗談だよ、そんな真剣な顔するな。過去なんて気にしないし、詮索するつもりもない。燃やし終わったら早く戻ってこい、寒いからな」そう言い残して、彼はそれ以上立ち止まることなくエレベーターに乗り込んでいった。彼の姿が完全に消えるのを見届けると、明美は視線を戻し、かすかに苦い笑みを浮かべた。気にしないのか、それとも最初から関心がないのか。手紙の封筒には彼の名前がはっきり書かれて...
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