二日酔いの翌日は、いつも頭がぼんやりしている。悠斗はなんとか起き上がり、顔を洗った。リビングから漂ってくる美味しそうな香りに誘われて行ってみると、明美がテーブルいっぱいに料理を並べていた。カレンダーをちらっと確認すると、特に何かの記念日でもない普通の日だった。悠斗は少し不思議に思って尋ねた。「どうしたんだ?急にこんなご馳走作ってさ」「ちょっとしたお祝いよ」明美は箸や皿を並べながら、小声でそう答えた。お祝い?悠斗に思いつくのは、自分の怪我がもうすぐ治りそうなくらいしかなかった。でも、テーブルに並んだ色鮮やかでスパイシーな料理を見ていると、医者から「食事は薄味にしてください」と言われた言葉が頭に浮かび、どこか腑に落ちない気がした。それでも深く考えず、椅子を引いて座ろうとした瞬間、スマホが鳴った。夢乃からだった。数秒迷った後、悠斗は手に持った箸を置いて電話に出た。数分後、通話を終えた彼はゆっくり立ち上がり、無意識に明美の方を見た。彼女はすでに席に座り、エビを手に持って殻を剥いていた。悠斗がこの食事を食べるかどうかなんて、気にもしていないような様子だった。でも、彼女が自分のために祝ってくれているのだと思うと、悠斗はなんだか申し訳ない気持ちになり、適当な理由をつけて言った。「明美、ごめん。ちょっと用事ができて出かけなきゃいけないんだ。一人で先に食べててくれ。夜戻ったら、改めて一緒に祝おう」「いいよ。気にせず行ってきて」明美は小さく首を振った。その視線は穏やかで、まるで全てを諦めたような静けさを湛えていた。なぜだろう。その視線に触れた瞬間、悠斗の心臓が理由もなく激しく鼓動し始めた。何か大事なことが起こりそうな予感がしてならなかった。でも、それが何なのか、はっきりとは掴めないままだった。テーブルを挟んで二人は長い間見つめ合ったが、結局、悠斗は背を向けてドアを出た。ドアが閉まるその瞬間、向かいの空いた席を見つめながら、明美はふっと自嘲するような笑みを浮かべた。彼女が祝いたかったのは、自分が自由を取り戻したこと、そして自分自身を愛せるようになったことだった。そこにもう誰かの存在は必要なかった。食事を終えた明美は、残った料理やゴミを片付け、最後の荷物をまとめて階下のゴミ捨て場に持って行った。
家を出たときから、悠斗はずっと落ち着かない気持ちだった。一日中、彼は騒がしい別荘に身を置いていたが、心はどこか別の場所をさまよっているようだった。親友たちは悠斗の顔色が優れないことに気づき、ビールを数本手に持って近づいてきて、それを彼の左手に押し付けた。「なあ兄貴、みんな、お前のケガが治ったお祝いにわざわざ集まったんだぞ?主役のお前がそんな気乗りしない顔じゃ、俺らの気持ちも報われないよ。もしかして、木村さんのサプライズしか目に入ってなくて、俺らの気遣いなんてどうでもいいって感じか?」親友たちがニヤニヤしながらからかう様子を見ているうちに、悠斗はふとあの電話のことを思い出した。そして、もう3時間も経過していることに気づいた。ポケットからスマホを取り出し、明美に連絡しようとしたが、いつの間にか電源が切れていることに気づいた。バッテリーが切れてしまったらしく、何度電源ボタンを押しても反応がない。仕方なく、彼はスマホを近くにいた親友に放り投げて充電を頼んだ。それから我慢して10分ほどその場に座っていたが、どうにも落ち着かず、とうとうバルコニーに出て風に当たることにした。3階からの眺めは抜群で、周囲数キロの景色をはっきりと見渡せた。優れた視力を持つ悠斗には、遠くからこちらへ向かって走ってくる一台のスポーツカーがよく見えた。青々とした山々と白い建物に囲まれた風景の中、その赤い車だけがひときわ目立っていた。近づいてくる車を眺めながら、彼は右手に巻いていた包帯をゆっくりと解き始めた。傷口はすでに黒くかさぶたになっていて、その縁を軽く掻いてみた。でも、包帯越しでは痒みが収まるどころか、むしろ広がるばかりだった。苛立ちが募った悠斗は包帯を巻き直そうとしたが、その瞬間、視界の端でその車がヴィラの前に停まるのが見えた。彼は手を止めて、下を見下ろした。運転席から20歳くらいの若い男が降りてきて、小走りで助手席のドアを開けた。数秒後、淡い黄色のワンピースを着た夢乃が姿を現した。彼女を見た瞬間、悠斗の目に驚きの色が浮かんだ。声をかけようとしたその時、次の光景に息を呑んだ。夢乃がその男の肩に自ら腕を回し、自分からキスをしたのだ。その瞬間、全身の血が頭に上り、残っていた理性がすべて吹き飛んだような感覚に襲われた。
人だかりが散り散りになった後、夢乃は手にした萎れた花を投げ捨て、殴られて顔中あざだらけになった男、山田佳祐(やまだ けいすけ)を抱きしめた。彼女の顔には深い愛情と痛みがにじんでいた。「佳祐、大丈夫?何か言ってよ、黙ってて怖いから……」周りに集まっていた人々は彼女のその仕草を見て、一様に表情を変え、思わず悠斗の方に目をやった。彼は血が滴る手をぎゅっと握り締め、この光景を歯を食いしばりながら見つめていた。全身からは抑えきれぬほどの重苦しい空気が漂っていた。春樹は我慢ならず、その場で声を荒げて叫んだ。「木村、マジでなんなんだよ!兄貴はお前にずっと尽くしてきたのに。お前はそれを振り回すだけじゃなくて、今度は他の男とこんなことしてる。お前、兄貴を何だと思ってるの!?」夢乃の腕の中で、佳祐が弱々しく数回咳き込み、「大丈夫だよ」とか細い声で言った。 その言葉を聞いて、夢乃はやっと少しだけ安堵した様子を見せた。彼女は喉に詰まった涙をぐっと飲み込み、顔を上げて春樹を見た。その瞳には、これまで誰も見たことのない嫌悪と憎悪が宿っていた。「私が中島を振り回してる?違うでしょ。10年間ずっとしつこく絡んでくるのはあいつの方じゃない。まるでしつこい野良犬みたいに、何度追い払っても離れないの!何度も断ってるのに、それでも分からないの? 私はあいつが好きじゃない。誰と一緒にいるかは私の自由で、あんたたちに口出しされる筋合いなんてない!」その言葉に、周囲の親友たちは一気に怒りを爆発させた。もし悠斗が夢乃を好きだと知らなければ、その場で手を出していたかもしれない。「好きじゃない?好きじゃないなら、なんであんな高いプレゼント受け取ったの?なんで兄貴にあれこれやらせてたの? 好きじゃないなら、なんであんな約束なんかしたの? 木村、ほんと最低だ!」罵声を浴びせられても、夢乃は特に動じず、むしろ殴られて意識が朦朧としている佳祐の方が先に怒り出し、よろよろと立ち上がろうとした。 夢乃は慌てて彼を制し、優しく車に乗せた。そして振り返り、この10年間付き合ってきた親友たちを、冷たく突き放すような笑みを浮かべて見つめた。「私が中島を弄んでた、ってね。それがどうしたっていうの?あいつもまともな人間じゃないでしょ?自分の
病状が悪くなったし、悠斗は再び手術室へ運ばれた。仕事を終えたばかりの中島家の両親は知らせを聞いて病院に駆けつけたが、医師から悠斗の右手が完全に使い物にならなくなったと告げられ、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。二人にとって悠斗は一人息子であり、早く結婚して家庭を持ち、中島グループを継いでくれることをずっと願っていた。ところがここ数年、彼はグループで経験を積むどころか、まともな恋愛にも興味を示さず、パイロットになる夢を追い続け、一人の女性のために無茶ばかりしてきた。そして今、大事な右手まで駄目にしてしまい、唯一まともと言えた将来の道さえ自ら閉ざしてしまった。あまりのショックに両親は胸を締め付けられ、その場で倒れてしまい、そのまま救急室に運ばれてしまった。手術が終わり、悠斗は集中治療室に移された。麻酔が切れて目を覚ました彼は、ぼんやりした視界の中で、思わず名前を呟いた。「明美……」1秒、10秒、60秒が過ぎても返事はない。今は病室にいないだけだろうと思い直した彼は、ドアの外から足音が聞こえてきたときに、もう一度名前を呼んだ。だが、返ってきたのは見知らぬ声だった。「中島さん、右手の神経は完全に断裂しています。回復する見込みはありません。今後、重いものを持つことはできません」その言葉だけで、悠斗の心は底なしの闇に沈んでいった。包帯で巻かれた右手をゆっくりと持ち上げ、指を揃えようと力を込めてみるが、どうしても思うように動かない。その様子を見た看護師が慌てて止めに入り、もう一度丁寧に注意を繰り返した。その言葉ははっきりと耳に届くのに、まるで遠くの宇宙から響いてくるように現実感がなかった。乾いて色褪せた唇を開き、彼はぼんやりと尋ねた。「俺……まだ飛行機、操縦できる?」「飛行機?この状態じゃスマホ操作のも大変ですよ。早めに別の道を考えたほうがいいんじゃないですか」看護師は小声でつぶやきながら、新しい薬を取り替え始めた。悠斗の瞳に宿っていた光が少しずつ消え、そのまま静かに目を閉じた。一時忘れていた記憶が、潮のように押し寄せてくる。右手が駄目になる前に起きた出来事を思い出した。スポーツカー、キス、乱闘、バラの花、そして夢乃が心の底から吐き出した、耳に刺さるほど痛い本音の言葉。次々
悠斗の低くかすれた声を聞いて、親友たちは最初嬉しそうな顔をしたが、すぐに戸惑い、互いに顔を見合わせた。そうだ、兄貴がこんな大変な目に遭ってからもう何日も経つのに、なぜ明美の姿が見えないんだろう?彼女の性格なら、病院に駆けつけて昼夜問わずそばにいるはずじゃないか。春樹が頭をかきながら、どこか自信なさげに言った。「たぶん……まだこのことを知らないんじゃないかな」知らないのか?知らないなら、それでいい。点滴がぽたりぽたりと落ちるのを見ながら、悠斗は静かに息を吐いた。親友たちは彼の表情が少しずつ和らいできたのを見て、もう気持ちの整理がついたのだろうと思い込み、再びそばに集まって騒がしく話し始めた。「兄貴、調べがついたぞ。あの日、木村が連れてきた男は新しい彼氏で、山田家の三男なんだ。二人は留学中に知り合って、数日前に付き合い始めたばかりだ。木村が言ってた『サプライズ』っていうのは、その男を連れてきて兄貴に恥をかかせることだったんだ!」山田家か?なるほど、どうりで世界限定モデルのスポーツカーに買えたわけだ。悠斗は黙って考え込んで、返事をしなかった。親友たちは彼の表情が徐々に和らいでいくのを見て、もう気持ちの整理がついたと思い込み、また彼の周りに集まってきて口々にしゃべり始めた。「山田には手出しできないけど、木村には仕返しできるだろう!あいつ、兄貴を何年も騙しておいて、もっと金持ち見つけた途端恩知らずにも俺たちを裏切りやがった。自分の立場もわきまえず調子に乗りやがって」「そうだそうだ!兄貴がその気なら、俺たちでなんとかしてやる。男性を弄ぶのが好きなんだろ?これまであいつがやってきたことを全部バラしてやれば、もう誰も相手にしないさ!」親友たちが次々と復讐の案を口にする中、悠斗はずっと黙ったままだった。やがて皆も何かを感じ取ったようで、笑顔を引っ込め、恐る恐る様子をうかがった。「兄貴、まさか情けをかけるつもりじゃないよな?あいつ、もう本性丸出しなんだから、そんな必要ないだろう?」「そうだよ。あいつは顔がいいだけで、実際は腹黒いぶりっこなんだ。兄貴、馬鹿なこと考えるなよ。あんな女選ぶくらいなら、明美さんの方がずっとマシだろう」「マシどころか、明美さんは最高だよ!これまで兄貴の
なぜだろう? 実は悠斗自分でもはっきりとは分からなかった。ただその場の勢いで口に出してしまっただけだった。 だが、昔気質で頑固な両親を納得させ、この話を認めてもらうには、どうしても確かな理由が必要だった。 彼は目を伏せ、明美とのこれまでの時間を思い返した。初めて会ったのは大学の近くにあるバーだと思っていた。でも実はその4年前から、何度もすれ違っていたことに後から気づいたのだ。 彼女の気持ちは一目惚れか、見た目に惹かれただけだと思い込んでいたが、実際には彼女の愛はもっと前から芽生えていて、今では深く根付いていたのだ。 いつか彼女とは別れるだろうと考えていたのに、6年もの月日が流れ、今では彼女がそばにいる毎日にすっかり慣れてしまっていた。雪の中で、彼女がそっと差し出して握ってきた手。卒業式の日、背伸びして抱きしめてくれた温もり。大雪の中で、彼女がそっと差し出して握ってくれた手。卒業の日、背伸びしてぎゅっと抱きしめてくれた温かい感触。一緒に暮らし始めてからの、毎日の「おはよう」や「おやすみ」の挨拶…… そんな場面が次々と頭に浮かび、最後に止まったのは彼女の25歳の誕生日、願い事をした瞬間だった。彼女はこう言った。「今年中に無事結婚できますように」 今でも悠斗には、それが本気だったのか冗談だったのか分からない。 もし本心なら、結婚しよう。残りの人生を明美と一緒に過ごせるなら、心からそうしたいし、後悔なんてしない。もし冗談だったとしても、それを本物に変えてしまえばいい。どうせ自分はもう彼女しかいないと決めている。この先、ほかの誰かと結婚するなんて考えられない。だから彼は迷わず、心の底にある思いをすべて両親に打ち明けた。「お父さん、お母さん、俺の彼女は佐藤明美と言います。高校の同級生でした。でもちゃんと彼女の名前を覚えたのは大学2年の時で、それまではこんな子が近くにいることすら気づいてませんでしたし、ずっと俺のことを想っててくれたなんて考えもしませんでした。初めて話しかけたのも、ゲームで負けて罰ゲームで『俺の彼女になって』と軽い気持ちで言っただけでした。まさか彼女が本当にうなずくなんて思わず。そこから偶然にも付き合うことになったのです。一緒にいるうちに気づいたのですが、彼女は
満足のいく結果を得た悠斗は、それ以上両親を煩わせることなく、立ち上がって病室に戻った。彼は机の上に数日間放置されていたスマホを手に取り、電源ボタンを押した。 起動までの10数秒が、この瞬間、途方もなく長く感じられた。 悠斗は、明美にこの知らせを一刻も早く伝えたい気持ちが抑えきれず、パスコードを入力する左手がわずかに震えていた。 ネットワークがまだ接続中のまま、彼はまずダイヤル画面を開き、彼女の番号を入力して電話をかけた。 「プルルル、プルルル、プルルル」 呼び出し音が何度も鳴り響き、その長さが彼の心をじわじわと締め付けた。そして最後には、冷たい機械音声が耳に届いた。 「おかけになった電話番号への通話はお繋ぎできません。恐れ入りますが、しばらく経ってからおかけ直しください」 繋がらない?エレベーター内で電波が届かないのだろうか? いや、そんなはずはない。 悠斗の頭の中を、無数の考えが駆け巡った。 彼はスマホを机に置き、ラインを開いて彼女に連絡を取ろうとした。アプリを開いた瞬間、画面いっぱいに広がる赤い通知バッジが目に飛び込んできた。それは、彼が怪我をしたと知った友人たちからの心配のメッセージで、一つ一つ見ているだけで頭がクラクラした。 スクロールして10数件確認しても明美からのものは見当たらず、彼は諦めて連絡先リストから直接彼女の名前を検索した。 数秒後、画面の中央に「佐藤明美」の名前が現れた。悠斗はその名前をタップし、テキストで送るか音声メッセージにするか迷いながら画面を見つめた。その時、画面下部に表示された数文字が目に入った。【悠斗、別れましょう】日付は3月29日、午後3時47分。 5日前だった。 その瞬間、それまでフル回転していた悠斗の頭が、突然フリーズした。彼はそのメッセージをじっと見つめ、続けて日付を確認し、最後に画面上部の名前と「通知オフ」マークに視線を移した。確かに自分が登録した「明美」という名前であり、間違いなく明美のアカウントだった。 それでも、彼にはどこか腑に落ちない感覚が残っていた。もし本当に明美なら、何の前触れもなく別れを切り出すなんてありえないはずだ。怒っているのか?それともただの悪ふざけか?心が激しく揺れ動きな
悠斗は医者の指示に従わず、すぐに病院を出て自宅へ戻った。 かつては温もりに満ちていたマンションが、今ではがらんとした寂しい場所に変わっている。その光景を目にすると、心の奥に渦巻いていた不安がじわじわと全身に広がっていった。 リビング、寝室、書斎……明美に関わるものは何1つ残っていなかった。 彼女はまるで最初から存在しなかったかのように、悠斗の生活から完全に消え去っていた。 悠斗は完全に途方に暮れ、どうしていいかわからなくなっていた。 彼は友人たちに頼んで明美の行方を探してもらおうとしたが、彼女は悠斗とつながりのある人々をすべて連絡先から削除しており、一人も残していなかった。 彼女は完全に縁を切るつもりだったのだ。その決然とした態度に、悠斗は完全に取り乱してしまった。 もはや理性を保てなくなった彼は、まだ完治していない手を引きずりながら、京阪市中を駆けずり回った。二人で訪れたことのある公園、彼女が「素敵だね」と褒めた細い路地、彼女が通い詰めていたヨガスタジオ…… どこにも明美の姿はなかった。 丸一日、悠斗は一瞬たりとも休まずに探し続けた。そしてまた朝を迎えたとき、最後の望みを胸に、彼女がかつて勤めていた会社へ向かった。ようやく元同僚の口から、彼女の行き先を聞き出すことができた。 「佐藤さん、たぶん実家に帰ったみたいですよ」 実家……江城市か? 悠斗は考える間もなく、すぐさま江城市行きの最も早い便のチケットを手配した。 春樹はそんな彼の慌てぶりを見て、思わず諫めた。 「兄貴、怪我がまだ治ってないじゃないか。今すぐ追いかける必要はないだろ?行き先がわかったんだから、傷が癒えてから行っても同じじゃないか」 悠斗には春樹が自分を心配していることがわかっていた。でも、彼には一刻の猶予もなかった。人が完全に心を閉ざし、過去を捨て去る前には、数えきれないほどの失望が積み重なるものだ。そのことを、悠斗は誰よりもよく理解していた。すでに5日も経ってしまっていた。これ以上遅れれば、やり直せる可能性はほぼゼロになってしまうだろう。 だから皆の制止を振り切り、飛行機に乗り込んだ。 江城市に到着すると、秘書から調べた住所が送られてきた。 悠斗は春樹とその場所へ急ぎ、
明美と悠真の結婚式は、秋から冬へと移り変わる最初の日に決まった。なんでも縁起のいい大安吉日らしい。 悠斗は式の前日に飛行機で江城市へ飛び、一人でホテルの部屋にこもって夜を明かした。翌朝10時、彼は背広に着替え、一人で結婚式場へ向かった。 受付で祝儀を預かるのは明美側の親族で、彼のことを知らず、名前を尋ねてきた。悠斗は本名を明かさず、「同級生からの気持ちです」とだけ伝え、「高校の同級生」と記帳してほしいと頼んだ。その文字が書き終わるのを見届けると、彼はポケットからカードを取り出し、周囲の驚く視線の中、淡々と言った。 「暗証番号は……佐藤さんなら分かるはずです。彼女に必ず受け取るよう伝えてください。これは昔の仲間からのささやかな気持ちです。幸せになってほしいと願ってます」 結婚式は山の中腹にあるホテルで開かれ、会場はピンクのバラで埋め尽くされ、どこもかしこも笑い声に満ちていた。 悠斗は適当に空いている席を見つけて座り、式が始まるのを静かに待った。 昼12時、式は時間通りに始まった。明美は美しいウェディングドレスを着て、父の健一の腕に寄り添い、盛大な拍手の中で登場した。健一は明美の手を悠真に託した。 悠斗の目にも、明美の幸せに満ちた顔が映った。彼女は終始微笑みを浮かべ、少し緊張した様子で、時折隣の悠真をちらりと見ていた。悠真は彼女の気持ちを察し、彼女が振り向くたびに、優しい笑顔を向けていた。 二人はスポットライトの下、大切な家族や友人たちに囲まれ、厳かに一生を共にし、白髪になるまで寄り添う誓いを立てた。指輪の交換が終わり、会場中が「キスして!」と囃し立てた。 悠真がベールを上げるその瞬間、悠斗は立ち上がり、そっと会場を後にした。 誰も彼の退席には気づかず、みな新郎新婦を祝福に夢中だった。彼は一人でホテルを出て、曲がりくねった山道を登るよう運転手に頼んだ。 晩秋の山は、緑だった木々がオレンジや赤、黄色に色づき、すっかり装いを変えていた。 風が枝の枯れ葉を散らし、ひらひらと道端に舞い、最後には紅葉がワイパーの上に落ちた。その落ち葉を眺めながら、悠斗は車を路肩に停めるよう指示し、窓を開けた。 冷たい風が吹き込み、目にかかる髪を払うと、わずかに赤くなった目元が露わ
悠斗は誰の説得も聞かず、雨の中、明美が気持ちを変えるのを待ち続けていた。しかし、深夜12時を過ぎた頃、もう耐えきれず、その場で気を失ってしまった。 春樹は急いで彼を病院に連れて行ったが、医師は傷口が感染していると診断し、すぐに京阪第一病院へ搬送するよう指示した。 その知らせに春樹は慌てふためき、震える手で中島家に電話をかけ、状況を説明した。 深夜3時、高熱が下がらない悠斗は京阪行きの飛行機に乗せられた。 翌朝、まだ空が明るくなる前、彼は手術室に入った。ところが、手術が始まってわずか1時間後、医師が慌てて出てきて、衝撃的な知らせを告げた。「傷口の感染がひどく、日本の医療技術では命を救うために右手を切断するしかありません。しかし、今すぐヨーロッパの病院に運べるなら、右手を残せる可能性がまだあります」 その言葉を聞いた母親は、その場で気を失ってしまった。 父親も顔が真っ白になったが、冷静さを保ち、すぐに飛行機の手配を進め、ヨーロッパの病院に連絡を取った。その日の午後、悠斗は父親と共にヨーロッパへ向かった。 3日後、医師たちの懸命な治療のおかげで、悠斗の右手は切断を免れた。しかし、神経が完全に壊死してしまい、指を動かすことは二度とできない。つまり、見た目だけの飾りにしかならないということだ。中島家の人々にとって、これは決して良い知らせではなかった。雨に濡れたことで全身に感染が広がり、手術後も悠斗は集中治療室で昏睡状態のままだった。医師は「状況はかなり厳しい。目覚めても多くの合併症と向き合わなければならず、長く辛い治療が必要になる」と説明した。そして、事態は医師の予測通りになった。手術から3日後、悠斗は目を覚ましたが、体のあちこちに異常が現れ、毎日大量の検査を受け、薬を飲み続け、24時間監視される生活が続いた。こうして時間だけが過ぎていった。 短い春が過ぎ、長い夏がやってきた。 病院で5ヶ月以上も蝉の鳴き声を過ごし、肌寒くを感じる最初の日、悠斗はようやく退院をした。病院を出た彼は、帰国の飛行機に乗り込んだ。 道中、窓の外を漂う白い雲を眺めながら、彼は一睡もしなかった。 薬でやつれ、すっかり面変わりした顔には、何の表情も浮かんでいなかった。 この数ヶ月、
悠斗は明美の言葉の意味がはっきりと分かった。 だが、彼は分からないふりをしたかった。 彼女が自分のことを諦めたという事実を受け入れられず、必死に首を振り、必死に首を横に振り続け、顔には苦しみと絶望の色が浮かんでいた。 「わからないよ、明美。そんなこと言わないでくれよ、頼むから」 明美が彼の顔にこんな脆く無力な表情を見るのは、これで二度目だった。初めて見たのは、真実を知ったあの日。酔っ払った悠斗を朦朧としながら家まで送った時のことだ。 彼は彼女を抱きしめて、一晩中「夢乃ちゃん」と呼び続けていた。 朝が来て彼が眠りに落ちた時、彼女の心も完全に冷めてしまった。あれからまだ1ヶ月ちょっとしか経っていないのに、今思い返すとあまりにも遠く、まるで前世の出来事のように感じられた。時間は本当に傷を癒す最良の薬なんだと、彼女は実感していた。彼のまるで駄々をこねるような引き留めにも、明美の心は少しも揺れなかった。彼女は静かに目を伏せ、彼の右手の傷口を見つめながら、穏やかな声で話し始めた。「否定したって何も変わりませんよ。かつてあった傷を隠すこともできないし、私がもう中島さんを愛していない事実を覆すこともできません。私が8年間本気で中島さんを好きだった気持ちに免じて、もうこれ以上私に構わないでください」そう言い終えると、明美は言葉を失った悠斗を最後に一瞥した。 彼の少し赤くなった目には、涙がたまっていた。 でも、彼女はその涙が何のために流れたのかなんて、どうでもよかった。 空から小雨が降り始め、彼女はもう立ち止まらず、小走りで家へ入っていった。 彼女が遠ざかるにつれ、雨はますます強くなった。 冷たい雨粒が悠斗の顔に落ち、温かい涙と混じり合って服や傷口を濡らした。血がまたぽたぽたと滴り落ちていた。その雨は一晩中降りやむことはなかった。……翌朝、明美が目を覚ますと、今日は予定を諦めるしかないと思っていた空が、急に晴れ渡っていた。 スマホを手に取ると、悠真からのメッセージが届いていて、もうこちらに向かっていると書いてあった。彼女は慌てて起き上がり、急いで準備を済ませ、彼が車を停める頃にはマンションの外に出ていた。雨上がりの空気はすがすがしく、朝早くから体操をするお年
明美は悠斗にこれ以上しつこく絡まれるのを嫌がり、内心ではっきりと決着をつけようと決めた。 彼女は何とか理由をつけて両親を先に帰らせ、その熱っぽい視線を感じながら、自ら彼の前に歩み寄り、先に口を開いた。 「何か言いたいことがあるなら、今ここで全部言って。10分だけ時間をあげるから、言い終わったら帰ってください。そして、もう二度と私の前に現れないで」 その最初の言葉を聞いた瞬間、悠斗は一瞬希望を見出した気がした。 だが、最後まで聞き終えると、それが希望ではなく、頼りない一筋の藁でしかないことを悟った。それでも、それが何であれ、今はそれを掴んで絶対に手放したくなかった。だから彼は一秒も無駄にせず、ずっと考えていた言葉をすべて吐き出した。 「明美、誕生日に結婚したいって言ってたよね? あれは俺に言った言葉だろう?ただ俺には少し考える時間が欲しかっただけなんだ。今はちゃんと決めたよ。俺は君と結婚したい。もう一度チャンスをくれないか?一緒に家庭を築きたいんだ」 以前の明美なら、これは切望していた言葉だった。 真実を知るまで、彼女は何度も悠斗からのプロポーズを想像し、結婚式でどんなドレスを着るか、結婚後の生活がどうなるかを思い描いていた。でも、そんなのはもうずっと昔の話でしかない。 今では、たとえ彼の口から「結婚」という言葉を直接聞いても、明美の心は少しも揺れなかった。彼女は顔を上げて、6階の家に灯りがついたのを見て、穏やかな笑みを浮かべた。 これまで以上に、彼女ははっきりと分かっていた。自分の居場所は待ち続けても来ない明日にも、遠く離れた京阪市にもない。それは彼女の目の届く場所に、自分自身の手で掴めるところにあるということだ。 だから彼女は首を振って、心から真剣な口調で答えた。 「嫌です。あなたと結婚する気はありません。中島さんには好きな人がいるし、私には到底手の届かない家柄もあります。私たちは違う世界に生きてるんです。私はもう8年間の執着を完全に捨てました。ですから、どうか私を自由にしてください」 その一言一句が悠斗の耳に突き刺さり、揺れ動いていた彼の心を深い闇へと叩き落とした。 まさか明美が自分が夢乃を好きだったことを知っているとは思わず、彼は一瞬にして冷静さ
夜の8時、空は黒い雲に覆われ、空気中には埃っぽい匂いが漂い、雨が降りそうな気配だった。春樹は目の下に濃いクマを携え、天気予報をちらっと見て、疲れた声で言った。「なぁ、兄貴、昼間に医者が休めって言ってたよな? 今夜は雨も降るみたいだし、今日はホテルに戻ろうぜ。明日また佐藤さんに会いに来ればいいだろ?」悠斗の視線はずっと入口に釘付けで、かすれた声で答えた。「お前が疲れてるなら先に休め。俺のことは気にするな。自分の限界くらい分かってるよ」こんな無茶のことばかりして、「自分の限界はわかってる」って言えるのかよ?春樹は内心で苦笑いを浮かべつつ、彼を説得するのは無理だと悟り、仕方なく近くの店に向かった。食べ物と雨具を調達するためだ。彼が店に入った瞬間、悠斗の視界に見覚えのある車が入ってきた。昨日の男を思い出し、全身の神経がピンと張り詰めた。身体からは鋭い敵意が滲み出ていた。案の定、数分後、明美が車から降りてきた。彼女の口元には昨日より何倍も輝く笑顔が浮かんでいた。それを見た瞬間、悠斗の胸に何か重たいものが詰まったような感覚が広がり、息がうまく吸えなくなった。ここ数日抑え込んでいた痛みや苦しみが、一気に崩れ落ちそうになっていた。だが、追い打ちをかける出来事が次々とやってくる。ちょうど散歩から帰ってきた明美の両親が二人を見つけ、笑顔で近づいてきた。四人が集まって楽しそうに話し始めたその様子は、知らない人が見ればまるで仲睦まじい家族に見えるだろう。健一は悠真の肩を軽く叩き、感心した口調で言った。「お父さんから聞いたよ。森川くんは将棋が得意なんだってね。今度時間がある時にうちに来て、一局指してみないか?」「おじさんがお誘いくださるなら、明日の夜はいかがでしょう?昼間は佐藤さんと花き市場に行く約束があるんで、その後に彼女を送りがてら、おじさんと一局お願いします」二人が明日も会う予定だと聞いて、健一と美智子は顔をほころばせてうなずいた。「もうこんなに長い付き合いなんだから、『伊藤さん』なんてよそよそしい呼び方はやめてよ。皆は『明美』って呼んでるんだから、森川くんもそう呼んで!」悠真の目が一瞬光ったが、勝手に呼び方を変えることはせず、明美の方を見て、彼女の意見を待つような視線を送った。明美は両
二回目の面接が終わり、ビルを出ても階下であの二人を見かけなかったことに、明美は胸をなでおろした。西に沈みかけた夕日を眺めながら、外で何か食べるか、それとも家に帰って済ませるか迷っていると、スマホが「ピンポン」と小さく鳴った。【面接終りました?どうでしたか?】悠真からからのメッセージだった。さっきの面接はなかなか楽しく話せたし、手応えも十分だと思った明美は、可愛い犬がOKサインを出しているスタンプを送った。すると、すぐに返事が来た。【うまくいったなら、お祝いしませんか?夕飯は僕がおごりますよ】明美は一瞬、断ろうかと迷った。だが、この二回目の面接は彼が紹介してくれたおかげだと考えると、断るのも気が引けた。すると、最初に打ちかけた「遠慮します」を消し、「私がおごるべきです」と書き直して送った。【じゃあ、お言葉に甘えます。今どこにいますか?迎えに行きますから、アドレスを共有してください。待ってる間に、夕飯何にするか考えておいてくださいね】現在地をラインで送った後、明美は食べログを開き、レストランを探し始めた。普段は正月やお盆に親戚と数軒訪れる程度で、江城市にはあまり詳しくない彼女は、どこがいいのかすぐには決められなかった。20分ほど悩んだ末、無難なところで洋食レストランを予約した。予約が完了したほぼ同時、悠真から「着きましたよ」と連絡が入る。明美は急いで車に乗り込んだ。シートベルトを締めながら、予約した店を伝えると、悠真はすぐには車を発進させず、後部座席から小さなケーキの箱を取り出して彼女に渡した。顔には優しい笑みが浮かんでいた。「前に、この店のケーキ好きだったって言ってましたよね?ちょうど通りかかったから買ってきました。昔と同じ味か試してみてください」自分が何気なく口にした言葉を覚えていてくれたことに、明美は驚きつつも嬉しくなり、何度も礼を言った。長時間何も食べていないため空腹だったが、悠真には潔癖症気味なところがあると知っていたため、その場では箱を開けず膝の上に置き、店についてから食べようと思った。彼女がケーキに手をつけないのを見て、悠真は少し意外そうな表情になる。穏やかな口調で言った。「面接二回も受けて、お昼も食べてないんでしょう?お腹空いてませんか?少しでも食べておいた方
明美は午前3時になってようやく眠気が訪れた。翌朝10時、予めセットしておいた目覚まし時計に起こされた。ぼんやりした頭でベッドから起き上がると、両親はすでに仕事に出かけており、キッチンには温かい朝食が用意されていた。洗顔を済ませながら、明美は午後の2つの面接予定を確認した。一つは午後2時、もう一つは4時半。どちらも自宅から30分ほどの場所だ。ルートを確認した後、部屋に戻って身だしなみを整え、準備に取りかかった。午後1時、バッグを持って階下に降りると、あの二人がまだ下で待っているのに気づいた。一晩中眠っていないような様子だった。明美の姿を見るなり、悠斗はすぐに立ち上がり、疲れ切った声で懇願した。「明美、少しだけ話せないか?」明美は時計をちらっと見て、淡々とした口調で答えた。「ごめん、用事があるから無理です」再び拒絶され、悠斗はその場に立ち尽くして動けなくなった。彼が道を譲らないので、明美はそれ以上何も言わず、左側の狭い隙間から強引に通り抜け、足早にマンションの出口へ向かった。その際に勢い余って悠斗の怪我した手にぶつかり、かさぶたになったばかりの傷口がまた開いてしまった。血がじわじわと包帯に染みていく。だが彼は痛みなど感じていないかのように、遠ざかる明美の背中を瞬きもせず見つめ続け、その瞳には深い悲しみが宿っていた。眠気でフラフラだった春樹は、その傷口を見て一気に目が覚めた。慌ててポケットから薬を取り出し、声を上げた。「兄貴、傷口がまた開いちまったじゃないか。早く病院行こうよ」だが悠斗は聞こえていないかのように春樹の手を払い除け、足早に明美を追いかけ始めた。その様子を見て、春樹は空を仰いで「全く、困ったもんだ」とため息をつき、仕方なく後を追った。一つ目の面接が終わったのは午後3時半だった。明美は建物から出てタクシーを拾おうとしたところで、いつの間にか追ってきていた悠斗の姿が目に入った。彼は花壇の脇に立ち、じっとこちらを見つめていた。その瞳には頑なな決意が浮かんでいるようだった。そばでオロオロしていた春樹は、明美が降りてくるのを見ると、慌てて駆け寄って道を塞いだ。「ねえ、やっと終わっただろ? 今なら時間あるよね? ほら、兄貴の手がこんなボロボロなんだよ。頼むからさ、ちょっと情
食事が終わったのはちょうど6時だった。美智子はソファでお茶を飲んでいて、父娘二人はキッチンで後片付けをしていた。健一はカウンターの油汚れを拭きながら、ちらりと娘のほうを見て、少し迷った末に口を開いた。「明美、森川おじさんがお前に聞いてほしいって言ってたんだけど……森川くんのこと、どう思う?」皿を洗っていた明美の手が一瞬止まり、目を細めて考え込んだ。森川悠真か……4日前に初めて会った時のぎこちなく丁寧なやりとりを思い出し、この2日間で昔話までできるほど打ち解けたことを考えると、かなり進展が早いのかもしれない。彼女はゆっくりうなずき、少し自信なさげな口調で答えた。「いい人だと思うよ。でもおじさん、なんでそんなこと聞くの?」「なんでって、お前が気に入ったからさ。お嫁さんにしたいってことだよ。お前がまだ京阪市にいる頃から帰ってくるのを楽しみにしてたし、俺たちがお見合いを考えてるって聞いたら、すぐ森川くんを連れてきて『まずうちの息子を見てくれ』ってね。俺とお母さんも会ってみたら、見た目もいいし、話し上手で礼儀正しいし、年齢もちょうどいいから、悪くないと思ったんだ。別に今年中に結婚しろってわけじゃない。ただまずは知り合ってもらって、話が合うかどうか見てみたいだけだ」両親が自分のために気を遣ってくれているのは分かるし、心配をかけたくなかったので、明美は素直に気持ちを伝えた。「うん、分かってる。彼は本当に素敵な人だし、一緒にいて楽で落ち着くよ。でも恋愛感情って急にどうにかなるものじゃないから……私も彼ももう少し時間をかけて、お互い合うかどうか確認したいと思ってる。だからお父さんたちはそんなに心配しないで、お茶飲んだり将棋したり、お母さんと散歩でも楽しんでてよ」言いたいことは言った。健一も娘が昔からしっかり自分の考えを持っていると知っているので、それ以上は言わず、肩を軽く叩いて美智子と一緒に散歩に出かけた。皿を食器棚に片付けた後、明美は寝室に戻り、スマホを手に取ると、新しい友達申請が届いているのに気づいた。悠斗からだった。彼女は無視して窓を閉めようと外を見ると、マンションの下にまだ二人が立っているのが目に入った。遠すぎて表情までは分からない。でも、帰宅時の出来事を思い出すと、せっかくのいい気分が少し曇ってしまった。そして、彼女はカーテンを
春樹はその言葉を耳にして、我慢できずに勢いよく立ち上がった。顔には信じられない表情が浮かんでいた。「兄貴と別れてまだ数日しか経ってないのに、もうお見合いしているの?お前……」 明美は後ろに二歩下がり、悠斗と距離を取った後、春樹をちらりと見て、淡々とした声で言った。「もう別れたんですから、私がお見合いしようがしまいが、あなたたちには関係ないですよね」悠斗は空を切った手を呆然と見つめ、喉仏が何度か上下した。彼は振り返って彼女を見つめ、目に悲しみがこみ上げてきた。「結婚したいなら、その相手って俺じゃダメなのか?」 明美はかすかに笑みを浮かべ、軽い口調で答えた。「ごめんなさい。私、過去にこだわるタイプではありません」その一言で悠斗の表情が一変した。春樹も彼女からそんな言葉が出てくるとは思わず、すぐに友人のために不満をぶつけた。「兄貴は何も悪いことしてないじゃないか。なのにどうして急に別れを切り出したの?それに今度はすぐお見合いだなんて……兄貴のこと何年も好きだったよね?どうしてこんなバカなことするんだ?」急にとか、すぐ次だとか、バカなこととか?なんて自分勝手な言い方なんだろう。明美は彼らと正しいか間違っているかを議論するつもりはなかった。そんなことをしても意味がないからだ。だからただ一言だけ返した。「もう好きじゃなくなったから別れました。それじゃダメですか?」そう言い終えると、二人の反応を見もせずに、マンションの方へ歩き出した。その冷たい態度に我慢できなくなった春樹は、3メートルほどほど離れた場所から大声で叫んだ。「佐藤!兄貴の右手がもう使えなくなったって知ってるのか?それでも少しも気にならないのか?」道徳的な説得がうまくいかないから、今度は同情を引こうってわけ?でも明美はその手に乗る気はなかった。彼女は振り返らず、声を張り上げて答えた。「それは彼が自分で選んだことでしょう。元カノには関係ないですよね」春の夕陽が明美の体を照らし、暖かさが心地よく感じられた。彼女は枝先に芽吹いた緑の新芽を見つめ、腰のあたりに残る少しずつ癒えてきた傷跡を思い出し、目に喜びが溢れてきた。寒い冬はもう終わり。彼女が長い間待ち望んでいた春が、こうしてやってきたのだ。ドアを開ける