「ママ」突然、横にいたゆみが口を開いた。「ママ、この靴履けないよ、手伝って」紀美子はゆみの声に注意を引かれた。彼女はしゃがんで、ゆみのスキーブーツを履かせてあげた。佳世子は仕方なく、自分で服を持って腕を擦った。全員の準備が整うと、紀美子は佳世子の腕を取り、ゆみを連れて更衣室を出た。外では、朔也と二人の小さな子供たちがすでに待っていた。念江は佳世子のお腹をしばらくじっと見て、「佳世子おばさん、俺、一緒に雪だるまを作らない?」と言った。佳世子の目が輝いた。「一緒にスキーはしないの?」念江は首を振った。「今は激しい運動ができないんだ。ちょうどいいから、一緒にいようよ」佳世子は念江のスキーブーツを見た。彼女は、この子が少し遊ぶくらいなら問題ないと知っていた。でも彼は彼女のために遊ばないことを選んだ。佳世子は感動で目が赤くなって言った。「ありがとう、念江。一緒に遊びましょう」念江と佳世子は一緒に雪だるまを作りに行き、紀美子と朔也は佑樹とゆみを連れてスキーをしに行った。最初は紀美子がゆみに教えていた。でも、ゆみはなかなか滑れず、紀美子の力では支えきれなかったので、朔也が代わりに紀美子の役を担った。紀美子と佑樹がすぐに上手に滑れる様子を見て、ゆみは悔しそうに口を尖らせた。彼女はしょんぼりして朔也に尋ねた。「朔也おじさん、ゆみってやっぱりバカなの?」朔也はポケットを探りながら言った。「どこがバカなんだい?ゆみ、君は頭いいんじゃなかった?」「だって、お兄ちゃんも初めてなのに、もうあんなに上手だよ。ゆみはまだできない!」ゆみは悔しくて雪の上に足をドンと踏みつけた。「いい方法があるよ!」朔也は言って、ポケットの中から何かを取り出した。ゆみは、朔也の手にあるゴムバンドを見ると、嫌な予感が小さな頭の中によぎった。佑樹と紀美子が一周して戻ってきた。足を止めると、佑樹はゆみと朔也の方に目を向けた。一目見ただけで、佑樹はもう少しで転びそうになった。なんと、朔也がゴムバンドをゆみのお腹に巻きつけ、バンドの両端でゆみを引っ張ってスキーをしていたのだ。まるでロバを引っ張っているような光景だった!紀美子は目を見開き、思わず笑い出してしまった。「ゆみの今の顔、絶
別の場所では。佳世子と念江は二人で手早く小さな雪だるまを二つ作ってた。楽しげに写真を撮ろうとしていたその時、遠くからゆみの叫び声が聞こえてきた。「ママ!ママ、急いで避けて!」佳世子と念江は反射的にゆみの方を見た。すると、まだ人影も見えないうちに、朔也に引っ張られたゆみが彼らの目の前を疾風のごとく駆け抜けていった。風に乗って朔也の「おっと!」という声だけが残された。念江と佳世子は顔を見合わせ、呆然とした。彼らが作ったばかりの雪だるまは、あっという間に飛ばされてしまい、形も残ってなかった。念江と佳世子は言葉を失った。「……」森川の旧邸では。なかなか執事が連絡してこないことに不安を募らせた貞則は、書斎をそわそわと歩き回っていた。本来なら翔太の問題はさほど時間がかからないはずだ。しかし、すでに半日以上が経過していた。貞則が携帯を取り出し、執事に電話をかけようとしたその時、外からノックの音が聞こえた。執事が戻ってきたと考えた貞則は、急いでドアを開けた。しかし、そこに立っていたのは黒いコートを着た冷ややかな表情の晋太郎だった。「何しに来たんだ!」貞則は苛立ちを隠せなかった。晋太郎は手に持った書類を軽く振り、「年次決算報告のことを忘れているようですね」と言った。貞則は不機嫌そうに鼻を鳴らし、「入れ!」と背を向けた。晋太郎は悠然と中に入り、何事もなかったかのように腰を下ろした。管家のことについては一言も触れずにいた。しばらく貞則を見つめた後、晋太郎は口を開いた。「次郎の件で上層部はかなり不満を抱いている。この問題をどう解決するつもりだ?」貞則は驚いて顔を上げ、机を激しく叩いた。「お前のせいだということはわかっているぞ!お前を問い詰めるつもりだったのに、自分から現れるなんて!」晋太郎は落ち着いて反論した。「次郎が材料を不正に扱わなければ、私が彼のミスを見つけることはなかったでしょう?」「お前が密かに彼の材料をすり替えたんだろ!彼が購入した材料は私が直接確認した。私が見間違ったとでもいうのか!?」晋太郎は冷たく笑った。「それならば、彼が愚かだったということだ。そんな小細工にひっかかるようでは、MKの副社長という地位にいる資格はありませんね」「畜生!」貞
貞則は目を細め、次に晋太郎をどうやって抑え込むか考えた。ドアの方からノックの音が聞こえてきた。貞則は怒りを込めて叫んだ。「入ってこい!」扉が開き、ボディーガードが急いで近づいてきた。「貞則様、静恵さんが戻りました」貞則は眉をひそめた。「一人か?」「はい」「連れてこい!」「分かりました、貞則様」そう言うと、ボディーガードは去っていった。貞則は冷たい目で晋太郎を見やり、「出ていけ!」と命じた。晋太郎はゆっくりと立ち上がり、冷ややかな目で貞則を一瞥してから部屋を出た。リビングに向かう途中、ボディーガードの後ろに続いて戻ってくる静恵と鉢合わせした。二人は視線を交わし、静恵は晋太郎に助けを求めるような目を向けた。晋太郎は彼女を一瞥し、すれ違う際に小声で「出たいなら、やるべきことをやれ」と忠告した。静恵は拳を握りしめ、深く息を吸って冷静にボディーガードに従って書斎へと向かった。書斎に入ると、ボディーガードは退出した。静恵は貞則の冷酷で怒りに満ちた視線と向き合った。「どうして一人で戻ったんだ?執事はどこだ?」静恵は恐怖を装い、唇を噛んで下を向いて答えた。「道中で翔太側の人間に捕まってしまいました」「翔太側の人間だと?!」貞則は目を見開いた。「なぜ突然お前たちの車を襲撃したんだ?俺の計画を彼に漏らしたのか?」静恵は激しく首を振った。「違う!私の携帯は全部あなたが持ってるのに、どうやって漏らすっていうんですか?」貞則は明らかに疑っていたが、静恵の顔からは何も読み取れなかった。「執事はどこにいる?」「分からない。私も目隠しをされてて、場所が何度も変わった。目隠しが取られたときには、もうここに着いていた」貞則は鼻で笑った。「紀美子を何度も陥れたお前を、翔太が簡単に送り返すわけがないだろう?」静恵は反論した。「私にどう答えろっていうの?!どれだけここに閉じ込められているか、何も知らないんです!あなた方が渡辺家に何かしたから、彼らが執事を連れて行ったんじゃないんですか!」貞則は激怒して叫んだ。「何を言っているんだ!」「違うの?」静恵は感情をあらわにした。「じゃあ、なぜ彼らが執事を連れて行ったのか理由を言ってみてくださいよ!全部私のせいにし
ボディーガードは言った。「貞則さん、落ち着いてください。すぐに執事を探させますから」「とにかく急げ!」「かしこまりました!」貞則の言葉は全て音声データとして晋太郎と翔太の携帯に届いていた。証拠を手に入れた晋太郎はすぐに古い邸宅を離れ、翔太に連絡を取った。30分後、晋太郎はジャルダン・デ・ヴァグに到着し、翔太も急いでやってきた。二人はリビングに座ると、使用人がコーヒーを運んできた。翔太は言った。「晋太郎、やっぱり君のやり方は確実だ。証拠が揃ったから、あとは警察に通報するだけだな」「まだそれは無理だ」晋太郎はコーヒーを手に取りながら言った。「なんで無理なんだ?」翔太は不思議そうに聞き返した。「まさか後悔してんのか?彼が君のお父さんだからって?」晋太郎は彼を軽く見て、言った。「もし心が揺らいでるなら、こんなことに協力するわけがないだろう」「はっきり説明してくれ、どうして無理なんだ!」翔太は苛立ちながら問い詰めた。晋太郎はコーヒーを一口飲んだ。「貞則はMKの会長で、株式の45%を持ってる。彼に何かがあれば、その株は誰が相続すると思う?」翔太は眉間にしわを寄せた。「次郎だ」「その通りだ」晋太郎は言った。「そうなれば次郎がすべての株を相続し、僕にとっては何のメリットもない」「じゃあ、これからどうするつもりだ?」「この件はもう君が関わることはない」晋太郎は冷静な目をしながら言った。「俺が彼らを完全に打ち負かすつもりだ」これを聞いて、翔太も晋太郎の考えを理解した。彼はそれ以上何も言わず、少ししてからその場を離れた。夜、8時。紀美子が佳世子を家まで送った。晴はすでに下で待っていた。車が近づくと、彼は急いで迎えに来た。朔也は車を降りてドアを開け、晴に言った。「お前の佳世子は本当によく寝るな。行きの道中でも寝て、少し遊んでまた寝て、帰り道でもぐっすりだ」晴は淡々と彼を見て言った。「じゃあ、妊娠してみるか?佳世子は家でもよく寝るんだ。彼女がしっかり休めるように、一度も手を出したことはない」朔也は驚いた。「佳世子が妊娠してから一度も?」「そうだ」晴は言った。「娘と妻を大事にしないといけないからな」朔也は、「すごい、
朔也は車のドアを閉め、手を振りながら言った。「わかったわかった、早く上がれよ、寒いからさ」晴が佳世子を連れて上がっていくのを見送りながら、朔也は笑顔で感慨深く思った。「佳世子は本当にいい男を見つけたんだな!」車に戻ってから、30分で藤河別荘に到着した。門をくぐった時、紀美子はふと目を覚ました。朔也はあくびをしながら言った。「おい、三人の子供たちを起こしてくれ。一人じゃ三人は無理だよ」紀美子は目をこすりながら頷こうとした時、突然車のドアが開いた。朔也と紀美子が驚いて顔を上げると、晋太郎が車の外に立っていた。彼は黒い目で三人の子供たちを見て、声を低くして聞いた。「全員寝てるのか?」紀美子は驚いて彼を見た。「どうして私たちが戻ったのがわかったの?」晋太郎は寝ているゆみを抱えながら言った。「晴が教えてくれたんだ」紀美子は頷いた。「じゃあ、佑樹を降ろすわ」「いや、大丈夫」その時、佑樹がかすれた声で言いながら体を起こして言った。「目が覚めたから自分で歩けるよ」佑樹の声で念江も目を覚ました。彼はぼんやりと目を覚まし、周囲を見渡した後、佑樹と一緒に車を降りた。朔也は前に出て二人の子供の肩を抱いて言った。「外は寒いから早く中に入れ」そう言って、朔也は車を降りた紀美子と晋太郎を見やった。「もうこれ以上、ここで幸せな二人を見せつけられるのはごめんだ!」庭の暖かい色の灯りが紀美子のほのかに赤い頬に落ちた。晋太郎はゆみをしっかり抱き直し、彼女の頭を自分の肩に預けた。そして紀美子の手を引いて言った。「今日は外で楽しく遊んだみたいだな?」紀美子は微笑んで、彼の端正な横顔を見上げた。「まあまあね。夕飯は食べたの?」晋太郎は足を止め、横から紀美子を見て言った。「その質問、遅くないか?」紀美子は一瞬戸惑った。「そうかしら?」晋太郎が何か言おうとした時、隣の別荘から突然鈍い音が聞こえてきた。紀美子は眉をひそめて振り返った。「本当に変わった隣人ね。昼夜問わずずっと工事してる」晋太郎は聞いた。「音が大きいか?」「そうでもないけど」そう言ったものの、紀美子は思わずぼやいた。「あの別荘のオーナー、きっと何かおかしいわ」晋太郎は口元を引
紀美子はじっと晋太郎を見つめた。どうして彼は、一度に話を終わらせず自分が質問するたびに答えるのか?そして、どうして直接警察に通報しないのか?紀美子は森川家の人間関係について少し考え込んだ。やがて、彼女の澄んだ瞳は落ち着きを取り戻した。「あなたが警察に直接通報すれば、MKに取り返しのつかない損失を与えるわ。それに、貞則は株をあなたに渡らない。それは理解しているの」晋太郎はその言葉に目を輝かせた。彼は大きな手で紀美子の前髪を優しく撫でながら言った。「僕が一番好きな君のところ、わかる?」その仕草に紀美子は耳まで赤くなった。「わからない」「思いやりがあるところだ」晋太郎は笑みを浮かべた。「本当なら、君のお父さんを殺した犯人を法で裁けるはずなのに、君は僕のために一歩引いてくれた」紀美子は少し驚いて言った。「引いたんじゃなくて、あなたが私のために色々やってくれるから、私も少し待とうと思ったの」紀美子の顔は赤くなり、少しばかりの気まずさを抱えて立ち上がった。「お風呂に入ってくるね!」彼女が回れ右しようとした時、晋太郎は突然彼女の手首を掴んで引き寄せた。鼻先には彼の馴染みのある杉の香りが漂い、紀美子の体は少し硬直した。「晋太郎、お風呂まだなんだけど……」晋太郎は少し彼女を解放し、その清純な顔を見下ろした。「僕たち、何もしてないわけじゃない」彼は紀美子の唇にゆっくりと近づきながら言った。「君が欲しい」言葉の後、彼は彼女の唇を優しく奪った。彼の熟練した熱いキスに、紀美子の体は次第に柔らかくなった。突然、ドアをノックする音が響いた。「入江さん、塚原先生がいらっしゃいました」ドアの外からはボディガードの声が聞こえた。紀美子と晋太郎はドアの方を見た。「悟?」紀美子は驚いた。「この時間にどうして来たの?」晋太郎は不機嫌そうに紀美子を放して言った。「ボディガードに言って、君はもう寝たって言わせて」紀美子は彼を押しのけて言った。「悟がこんな時間に来るのは何かあるはずだから、ちょっと聞いてくる」晋太郎は眉をひそめた。「前にもよくこの時間に来てたのか?」「ないわ」紀美子は立ち上がりながら服を整えて言った。「だからこそ、会う必要があるの」
「何でこんな時間に来たの?」紀美子が悟の前に来て尋ねた。「特に何もないけど、君はまだ寝てないと思って、今日買ったツバメの巣を届けにきた」「何でそんなものを買ったの?買わなくていいのに......」「これは華国から輸入してきた高級食材、体にいいらしい。君は最近顔色が悪いから、ちょっと栄養成分を補給すればいい」「お気遣いありがとう」紀美子は礼儀正しく礼を言った。「今度はもう買わないで」「私たちはこんなよそよそしい言い方をしなくてもいいじゃない」悟は優しい声で言った。紀美子は彼の横顔を眺めて、再び心の中に罪悪感が湧いてきた。2人の会話を聞いた晋太郎は、顔が曇ってきた。「私たち?」5年の間、彼らの関係はただの友人関係では終わらないはずだ。晋太郎は胸が塞がれたかのような気分になった。彼は手を伸ばして紀美子の肩に落とし、眉間に敵意が浮かんだ。「塚原先生は、自分の好意が俺の女にプレッシャーをかけることになると思っていないだろうな」紀美子は心の中で、「またか」と呆れた。悟の目線は晋太郎の手に落ち、そして穏やかな笑みを浮かべた。「森川社長、二人の関係をこんなに直接的に主張する必要はない」「私はあなたに負けないくらい紀美子との付き合いが長いから、友達としてお互いを気遣うのは当然のことだ」「お前の考えていることが全て顔に出ているから、俺が分からないわけがないだろ?」晋太郎はあざ笑いをしながら隠さずに言った。「まさか紀美子の人間関係まで干渉するつもりか?」悟は落ち着いた声で尋ねた。「彼女の人間関係には、俺は干渉しない」「だが彼女に何かを企むのなら、俺も黙って見るつもりはない」「森川社長、まさかたったツバメの巣くらいで紀美子の心を買収できるとでも?」悟の話には別の深い意味を秘めていた。彼は晋太郎に、紀美子が彼の中で、ちょっとしたプレゼントで動揺する人かと聞き返していた。晋太郎の手は明らかに力を加えていた。紀美子は横目で隣の男を見た。彼が口を開く前に、彼女は先行してこの気まずい雰囲気を打破しようとした。「悟さん、何か食べる?」紀美子は話題を変えた。「今日このツバメの巣を届けに来ただけ、お二人の休みの時間にお邪魔をして悪かった」「そんなことないわ、ちょうど私もお腹が空いたし
「もし本当にそんなことをしたら、紀美子との関係がますます遠ざかっていくに違いない」悟が晋太郎に注意した。そう言われた晋太郎は、帯びていたオーラが一瞬で氷点下になった。「貴様をこっそり殺すなんて、俺にとって造作もない!紀美子が気づくことは一切ない!」「もし紀美子との関係が終わっても気にしないのなら、やってみるがいい」悟は軽く笑いながら言った。「貴様にとって、紀美子は自分の仕事よりも大事なのか?」晋太郎の目に冷たさが漂っていた。「そうだ」悟は躊躇わずに認めた。晋太郎はいきなり立ち上がり、悟の襟を掴んだ。彼は怒りを抑えながら悟を見つめた。「貴様、紀美子にちょっとでも変なマネをしてみろ、絶対にこの帝都から消し去ってやるから!」晋太郎の険しいオーラに覆われても、悟は依然として落ち着いていた。「ならばこれから、チャンスを与えないように、一歩も離さずに紀美子の傍にいることだな」と、悟が笑って挑発した。晋太郎の怒りが有頂天外になり、思わず拳を振るおうとした時、キッチンの方から大きなものが割れた音がした。晋太郎は慌ててキッチンの方を眺めた。彼は急に心が引き締まり、悟を離して急いでキッチンに向った。紀美子がしゃがんで茶碗の破片を拾っているのを見て、晋太郎はいきなり彼女を引っ張り上げた。「お前、指が切れてもいいのか?」怒りを発散できずにいた彼が、おもいきり紀美子に怒鳴った。いきなり怒られた紀美子が驚いた。「何でそんなに怒るの?ただ片付けているのに」「今後はこんなことは使用人たちに任せろ!」「桜舞は使用人なんかじゃないわ、もうその言い方をやめて」「ならば使用人を雇え!」紀美子は呆れてそれ以上彼と揉め事をしたくなかった。「でも今、この破片をどうにかしないとダメでしょ?」「まさか、明日使用人が来るまで放置するの?」「俺がやる!」晋太郎は周りを見渡し、入り口に置いていた箒を取りに行った。そして戻ってきた彼は、床の破片を片付け始めた。掃除下手な男を見て、紀美子は思わず笑った。「あんた、ひょっとして家事が久しぶりなの?」「あるいは、全くしたことがない?」「ただ鈍っていただけ!」晋太郎が意地を張った。「はいはい、ではお掃除を頼んだわ」「私は麺をゆでてくるから」
「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!
大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思
悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた
「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪
悟は唇を強く結んだ。「ほら、私が提案したって無駄でしょ?あんたの結末はもう決まってるわ」「それでも、紀美子を諦めない」悟は立ち上がった。「三日あれば、全てを整えて彼女を連れていける。たとえ手下はいなくとも、金さえあれば何とかなる!」その最後の言葉に、佳世子の背筋が凍った。悟は、三日もあれば莫大な資金で逃亡経路を確保できる!「目を覚ましてよ!あんたに紀美子を連れ出せるはずがない!」佳世子は叫んだ。「道は二つだけだろ?」悟は、そう言い残すとドアを開けて出て行った。佳世子は急いでベッドから飛び降り悟を追いかけようとしたが、屈強な男に阻まれた。力づくでは無理だと悟ると、彼女は不貞腐れてベッドに戻った。一方、別の部屋では——悟はまだ眠っている紀美子の寝室に入った。ベッドの縁に座り、悟は彼女の整った顔に見入った。彼は手を伸ばし、そっと頬に触れて髪をかきあげた。「紀美子」悟は嗄れた声で呼びかけ、目に優しい眼差しを浮かべた。「五年前と何も変わっていないな。もしもっと早くこの気持ちに気づいていたら、全てが違っていただろうか?一歩踏み出していれば、今頃君は私のものになっていただろうか?」悟は声が震え出した。「負けを認めたくないが、これが現実だ。私は全てを失ってもいい。ただ……側にいてくれないか?」涙が紀美子の手の甲に落ちたのを見て、悟は慌てて拭いた。彼女には、まだ目覚めてほしくなかった。ただ静かに傍にいてくれればいい。冷たい言葉を浴びせなければいい。そう考えると胸がさらに締め付けられ、悟は涙を堪えれなかった。彼は手を引くと、シーツを強く握りしめた。その時突然、ドアがノックされた。悟は急いで涙を拭い、深く息を吸って顔を上げた。「入れ」「社長、我々のIDが特定されました!ここは時期に探知されます!」大河が慌てた様子でタブレットを持って入ってきた。「静かに」悟は唇に指を立て、紀美子の方を見た。「起こすな」大河は眠っている紀美子、そして悟の赤い目に気づいた。「社長、なぜこんな女のために危険を冒すのですか?馬鹿げています!」「お前も愛する女ができたら、きっとこの気持ちがわかるだろう」悟は静かに言った。大河には、今逃げなければ終わりだという
「馬鹿な真似はよしてよ!」佳世子は再び激怒した。「晋太郎が逃がしてくれると思う?寝言は寝てから言って」「不可能だと分かっているからこそ、君に頼んでいるんだ」悟は静かに答えた。「何で私が親友を裏切り、あんたのような悪者を助けなきゃいけないの?私の両親の命でもかけて脅すつもりなの?バカバカしい。あんたに手を貸す人なんて、もう誰もいないわ!」佳世子の言葉に、悟は無力感を感じた。「ああ、今の私には、もう紀美子しか残っていない」声を落として彼は言った。「そんな情に訴えても無駄よ。あんたは紀美子を撃ったのよ。忘れたの?彼女は、あんたの卑劣な手口のせいで飛び降り自殺しそうにもなったよね?」「嫌だ、死んでも絶対に協力しないわ!」「こうなることは分かっていた」悟は前かがみになり、肘を膝につけてうつむいた。「私は完全に敗北した。しかしまだ生きたいんだ」「生き延びてどうすんの?あんたのような悪魔は早く地獄に落ちてくれればいいのに」佳世子は罵った。「今の私が生きる唯一の希望は、紀美子の人生を見届けることだ」悟は言った。「何それ?」佳世子は問い詰めた。「好きな人を利用して、自分の人生の心残りを埋めようとしてるの?」悟は黙り込んだ。複雑な感情が佳世子の胸をよぎった。悟は確かに悪だが、その境遇は憐れでもあった。だが、そんな感情で人を傷つける権利などない!「もしあんたにまだ良心が残ってるなら、私と紀美子を帰しなさい。あんたはもう昔の力を完全に失ったのよ。それに、紀美子の子供たちがどれほど優秀かも知ってるでしょ?ここもいつか必ず晋太郎に見つかるし、その時のあんたの末路は言うまでもないわ」「一度始めたことはもう引き返せない」悟は目を上げて断言した。「死ぬか、紀美子を連れて行くかだ」「どうしてそんな極端な考え方しかできないの?」佳世子は眉をひそめた。「私に他に道があると思うか?」悟は自嘲的に笑った。「捕まれば獄死、見つかれば殺される。そうだろう?」それを聞いて、佳世子の胸は苦しくなった。昔仲が良かった頃のことを思えば思うほど、言葉は重くのしかかった。「悟、本当のことを教えて」佳世子は真剣な眼差しで悟を見つめた。「後悔しているかどうか聞きたいんだろう」
「念江がファイアウォールを突破したIDを特定してからでないと追跡できない」佑樹は小さな眉をひそめて説明した。「30分くれ。長くても30分で特定できる!」念江は言った。30分は長くないが、今は一分一秒が耐えがたいほど長く感じた。十数分経った頃、念江は極度の緊張で鼻血を出してしまった。周りの者は皆、念江の様子に胸を締め付けられた。だが念江は気に留めずに手で鼻血を拭うと、再びハッキングに集中した。「心配しないで。お医者さんに、回復期に時々鼻血が出るのは正常だと言われてるんだ。お母さんが見つかったら少し休めばいい」念江の説明を聞いて、皆はやや安心した。ちょうど29分経った時、念江はエンターキーを叩いた。「よし、IDを特定した。佑樹、後は任せた」「君は休んでおいて。残りは僕がやる」念江は青白い顔でうなずき、椅子にもたれかかった。晋太郎は彼の小さな体を抱き上げた。「父さん、大丈夫…」念江は疲れた目を開いた。「暫く休め。何かあればすぐ知らせる」晋太郎は息子をベッドに運びながら言った。「うん…」わずか数時間で、晴の顔には疲労の色が濃く出ていた。「何だか最近、自分が子供たちにすら及ばないのではないかと不安になるんだ」晋太郎が寝室から出てくると、晴は自嘲気味に笑った。「お前が役に立ったことなどあったか?」晋太郎は冷たく見下ろした。「まあ……そうだな」晴は言葉に詰まった。「唯一の長所は一途なことだな」晋太郎は軽く一言を付け加えた。「確かにその通りだ。俺の心には佳世子しかいない」晴は頭をかいた。一方、別の場所では——悟は、意識を失っている紀美子を以前滞在していた民宿に連れ込んだ。そこのボディガードは既に全員が撤収しており、最も安全な場所だった。佳世子は紀美子とは別の部屋に閉じ込められていた。悟は紀美子の布団を整えてから、佳世子の部屋に向かった。佳世子のベッドの横に座ると、悟は彼女の手を掴み、特定のツボを強く押した。すると、佳世子はパッと目を開いて、そして反射的に手を引っ込めた。見慣れない景色を見て彼女は慌てて起き上がり、ようやく隣に人が座っていることに気付いた。悟と目が合うと、佳世子は眉をひそめた。「悟!やはりあんただったのね!」
その時、晋太郎もボディガードからの連絡を受け取った。隅々まで探したが、結局紀美子と佳世子の姿は見つからなかった。警察もすぐに到着し、ホテル全体を捜索し始めた。それでも、二人が見つかることはなかった。その報告を聞いた晋太郎は、怒りで窓ガラスに拳を叩きつけた!ガラスの割れる大きな音に、佑樹と念江は体を震わせた。二人はそのまま、手から血を流しながら震える父を驚いた表情で見つめた。父に何を言っても無駄だということも分かっていたため、ただ歯を食いしばった。「悟の仕業だ」晋太郎は険しい表情で窓際に立った。ここまで完璧に痕跡を消せるのは、奴しかいない!今、彼を悩ませているのは、悟が紀美子たちをどこに隠したかということだ。奴の勢力はもう完全に潰したはずだが、今最も恐れているのは、奴が紀美子を連れて完全に姿を消すことだった。そうなると、大海原で針を探すようなもので、手がかりすらつかめないだろう。晴が事情聴取を終え警察署から戻ってきても、子供たちはまだパソコンを操作していた。晴はソファに崩れ落ち、頭を抱えてうなだれた。「くそっ!!!絶対に悟だ!!あいつに違いない!!晋太郎、何とかして二人を助けてくれ!悟は紀美子を傷つけないかもしれないが、佳世子は殺されるかもしれない!」晴は晋太郎に助けを求めた。「分かってる!既にあの辺りに配置していたボディガードを引き上げさせた。これからは山と町内を徹底的に調べさせる!美月も動き出している!」晋太郎は歯を食いしばりながら言った。「お父さん、相手の車のナンバーは分かる?正確な情報があれば、もっと早く調べられる!」突然、佑樹が振り返って言った。晋太郎は直ちに美月に電話をかけた。通話が繋がると、美月が話す前に佑樹が切り出した。「美月さん、悟たちの車のナンバーって分かる?」「分かるわ」美月は答えた。「9000だけど、あっちの技術者が、通った場所の監視カメラの録画データを全て消してるわ」佑樹は念江を見た。「念江、ダメなら先生に頼ろう!できるだけ早く母さんと佳世子さんを見つけないと」「わかった、今電話する!」念江は言った。隆久はすぐ電話に出た。念江が状況を説明しようとした時、電話の向こう側からマウスボタンのクリック音が聞こえてきた。