「紀美子!」後ろから男性のかすれた声が聞こえてきた。入江紀美子が振り返ると、森川晋太郎と田中晴が慌てて走ってくるのが見えた。「何であなた達がここにいるの?」晋太郎は焦っているようだった。「子供達はどうなってる?」紀美子はこれまでの経緯を忠実に教えた。「まさか狛村静恵がこれほどまで極悪な手を使ってくるとは」「佳世子は?」晴は周りを見渡したが、杉浦佳世子の姿が見当たらなかったため尋ねた。「彼女は子供達と一緒に検査室の所で待ってるわ」「分かった、ちょっと見てくる。後で一緒に飯でも食おう!」晴はそう言って病院に入っていった。晋太郎は、紀美子の腫れた目を見て胸が痛んだ。「こんなことが起きているのになぜ教えてくれなかったんだ?1人で全て受け止めようと思ってたのか?」「あの時は子供達のことで頭が一杯で、他のことに構っていられなかったの」紀美子は視線を垂らして答えた。晋太郎は手を伸ばし、紀美子の冷え切った手を握った。「行こう。コーヒーでも飲んでリフレッシュしよう」2人は病院近くの喫茶店に入って、アイスコーヒーを注文した。紀美子はコーヒーを一口飲むと、何だか気持ちがすっきりした。「晋太郎」紀美子は口開いた。「何だ」晋太郎は低い声で返事した。「今回のことの元凶が狛村静恵だったと分かった今でも、あなたは彼女を助けたいの?」「全体的な計画を考えると、今はまだそれを変更できない」晋太郎は冷静に答えた。「今彼女の罪を問うと、彼女はきっとオヤジに助けを求める。だが安心してほしい。これらを片付けたら、俺はこの手でヤツを仕留める」「あいつがこれだけの悪事をやらかしているのに、彼女に頼らなければならないなんて、皮肉だわ」紀美子は悔しくてコーヒーカップを握りしめた。「皮肉なんかじゃない」晋太郎は紀美子と一緒に病院に向かって歩きながら言った。「彼女を利用する為に助けるんだ。こう言ったら受け止め方が変わるだろ」紀美子はやや驚きながら、微笑んだ。「そう言われると、確かにそうね」紀美子の笑みを見て、晋太郎は思わず動揺した。彼女はようやく、自分の前でも素直に笑えるようになったのか?晋太郎も口元に笑みを浮かべ、彼女と一緒に子供達を迎えに行った。松沢楠子の事件はす
まさか、松沢楠子は何もしていなかったなんて。あんなクズを身の周りに残すなんて、とんだ失策だった!彼女が失敗した以上、加藤藍子に急いでもらうしかない。狛村静恵はベッドの裏に張り付けていた携帯を取った。藍子の番号を見つけ、電話をかけた。暫くすると、藍子は電話に出た。静恵は彼女の声を待たずに口を開いた。「ものは既に手に入ったはずよね?まだどう動くか思いつかないの?」「狛村さん、あんた思ったより随分とせっかちだね。ものは手に入れたけど、計画は一歩ずつ立てる必要があるじゃない?」「早く入江紀美子と杉浦佳世子の苦しむ顔が見たいのよ!」静恵は声を低くして叫んだ。目を大きく開き、髪の毛がばさばさと乱れている彼女は、まるで地獄から這い上がってきた悪魔のようだった。「落ち着いて、狛村さん」藍子は軽く笑って言った。「いいお芝居には段どりが必要だもの」静恵は歯を食いしばった。「そこまで言うなら、待ってあげる。もししくじったら、その時は、あんたも道ずれにしてあげるわ。覚悟しといて」藍子は眼底の笑みをしまい、嫌悪に溢れた表情で携帯をテーブルに置いた。静恵のやつは狂っている!「狛村さん、そんなキツいことを言われても仕方ないわ。ちょっと用事ができたから、切るわ」そう言って、藍子は電話を切った。彼女はテーブルに置いていたコービーカップを手に取り、窓越しに外を眺めながら、優雅に一口飲んだ。実は、彼女は静恵に言われなくても急いで計画を実施するつもりだった。田中晴の両親が、徐々にあのビッチを受け入れ始めている。そのため、急ぐ必要があった。これ以上対策を練らないと、自分と晴はもう終わってしまうかもしれない。晴は……必ず自分のモノにする!藍子の眼底には冷たさが浮かび、佳世子の携帯にメッセージを送った。「こんにちは、加藤藍子です。明日は空いてるかな?会って話したいことがあるわ」晴と一緒に家に戻る途中の佳世子がメッセージを受信した。メッセージを読み、彼女は眉を寄せた。「晴!あんた、最近も藍子と連絡を取ったりしてるの?」「藍子?何で?」晴は佳世子を見て戸惑った。「してねえよ!俺、ずっと君と一緒にいるじゃないか!」佳世子は目を細くして彼を疑った。「本当に連絡取ってない?」
「あまり良い予感がしないわ」入江紀美子は不安そうに言った。「でしょ?」杉浦佳世子も疑っていた。「何だか、彼女と晴の間には、絶対何かあった気がするの!」「……そんなことはないと思うわ。だって晴が一緒に行くと言っているんでしょう?彼は肝が据わっているわ」「いや、違う!彼はきっと、私に何かを悟られるのを恐れていて、ついて行くと決めたはずよ!例えば、話がヤバくなったら、目で藍子に合図をして止めるとか」佳世子は意味深く分析した。「それだったら、彼が藍子に電話をすればいいじゃない?ところで、晴は今傍にいるの?」紀美子が尋ねた。「いるよ」佳世子は台所の方を眺めた。「彼は今夜食を作ってくれてるの」「へえ、かの遊び好きの貴公子様が、自らご飯を作るほど完全にあなたにハマってるのね」そう言われた佳世子は、幸せの笑みを浮かべた。「でしょ?彼はこう見えて、結構いい所あるのよ!」「はいはい。もう遅いし、私は子供達を寝かせなきゃ。そろそろ切るね」紀美子は時計を眺めながら言った。「分かった、明日戻って来たら連絡する!」「は~い」電話を切った後、紀美子は1階に降りて子供達を寝かせようとした。階段を降りると、松風舞桜が戸惑った顔で入ってきた。「どうしたの?」紀美子は尋ねた。「紀美子さん、隣の別荘って、売り出されたの?」「よく分からないわ」紀美子は答えた。「私は普段忙しくて、全て秘書に任せているの。家を見にきた人がいたの?」「はい、でも夜に見に来る人は初めて見たわ」紀美子は窓越しに外を眺め、携帯で竹内佳奈に電話をかけた。「もしもし、佳奈?最近誰か別荘を見にきたいって言ってきた人いる?」「はい、連絡がありました」佳奈は答えた。「今日不動産屋に、連れていってもらいたいと連絡がありましたが、今来たのですか?」「そう。相手はどんな人とか、知ってる?」「何かのビジネスをやっている夫婦だそうです」佳奈は答えた。「そう、分かったわ。ありがとう」「いいえ、それじゃ」電話を切り、紀美子は桜舞に、そちらの方をよく注意してと指示した。今までの経験上、夜部屋を見にくる人はどうも怪しかった。もし相手が怪しい人だったら、彼らに売るつもりはない。3人の子供達がここに住
杉浦佳世子は加藤藍子の話が気になった。「どうして晴が優しい男だと分かったの?」彼女は藍子の目を見て尋ねた。藍子は手を引き、自分にお茶を注いだ。「晴兄ちゃんと私は幼い頃から一緒に育ってきたじゃない。彼にはお世話になってきたし。こんな些細なこと、佳世子さんは気にしなくていいと思うわ」さすがトップクラスの清楚系ビッチだ!佳世子は心の中で罵った。田中晴が優しい男だとか、そんな些細なことを気にするなとか!いい加減あの口を無理やり塞いでやりたかった。何もったいぶってんのよ!「ねえ、晴。藍子さんって、本当に賢くて優しい方だね」佳世子は軽くあざ笑いをして、笑顔で晴を見た。佳世子に言われた晴は、思わずぞっとした。「ちょっ、デブ……藍子、何言ってんだよ」彼は佳世子が怒っているのを感じ、慌てて藍子を止めようとした。「あれって、もう随分昔の話だろ?」こんな状況では、「デブ子」のあだ名すらも口にすることができない。「ごめんなさい、つい……やはり晴兄ちゃんの言う通りだわ」は藍子が意味深な笑みを浮かべながら謝った。そして、彼女は用意しておいた二つのギフトバッグを出して、机の上に置いた。「これ、つまらないものだけど、間もなく生まれる赤ちゃん、そしてお二人への結婚祝いだよ」藍子は微笑んで言った。「無駄な金を使わなくていいのに。俺達は自分で買えるから」晴は戸惑いながらも受け取った。「晴、これは藍子さんの気持ちだから、受け取らないと失礼だわ。藍子さんは祝福の贈り物を渡したくて誘ってきたんだから、断られたら可哀想だし」佳世子は眼底に笑みを浮かべながら、晴を注意した。あんたが受け取らなかったら、絶対何かある!晴は佳世子に逆らえず、仕方なく藍子のものを受け取った。そして彼はそれを佳世子に渡した。「見てみる?」佳世子は藍子を見て、「今開けていいの?」と尋ねた。「はい、どうぞ」藍子は頷き、落ち着いた声で返事した。佳世子は贈り物を一つずつ開けた。赤ちゃんへの贈り物は金で作った首輪で、ボディには「平安健康」の文字と刻印されていた。佳世子と晴への贈り物は、唐物茶碗のセットだった。茶碗の高台が金色の釉薬が施されており、胴には墨絵がある。そのうちの一つが、寄り添う2羽の鳥、
MK社にて。杉本肇は一人の中年男性を連れて森川晋太郎の事務所に入ってきた。「晋様、冴島さんが昨晩、藤河別荘の家を見に来てくれました。写真も撮ってきてくれましたが、どこか直す必要があるところはありますか?」肇がそう言うと、冴島拓郎はカバンから何枚かの写真を取り出して晋太郎の前に置いた。「森川社長、どこの設計を直しましょうか?」晋太郎は写真を受け取り、確認した。「2階に子供の部屋を3つ作って、うち二つは色をグレーにして。あまり大きくなくていい。真ん中の寝室は、両側の子供の部屋の面積を使ってもいいが、できるだけ広くして。その寝室の天井を星空の絵にして、部屋の中に豪華な着替え室を設けること。そして、3階の壁を全部取り、プレイルームにする」そう言ってから晋太郎は肇に指示した。「最高級のスペックのパソコンを2台用意して、二つの小さめの寝室に置いてくれ」「……」晋様は思い切りゆみさんを贔屓しているな!ゆみさんには一番大きな寝室と、丸ごと一フロアのプレイルームも用意するのに、他の二人のぼっちゃまにはパソコン室をケチるのか?「あの……晋様、こうすると二人のぼっちゃまのお部屋が残り100平米しかないのですが……」「その二人には寝るところさえあればいい。もっと広い部屋が欲しければ、自分で稼いで買うのだ」「森川社長、その家ですが、今日中に買われるのでしょうか?」デザイナーの冴島が尋ねた。「いつまでモタモタするつもりだ?」晋太郎は軽く眉を寄せて彼を問い詰めた。「2週間以内に完成してくれ」「かしこまりました、森川社長。今日中に買取の手続きを済ませておきます!」「肇、小切手を」晋太郎が頷いて肇に命令した。デザイナーが帰った後。「晋様、これはぼっちゃま達とゆみさんを自立させるためなのでしょうか」肇はもう一度晋太郎に確かめた。「時には、子供がお荷物でしかなくなることもある」晋太郎は肇を見て淡々と述べた。「えっ?」「お前はまだ独身だから分からないんだ。」「はい?」なんだか、すごく馬鹿にされた気がする!午後。竹内佳奈が入江紀美子の事務所に入ってきた。「社長、隣の別荘ですが、買取手が出ました。手続きは午後に進めるのですが、お時間はありますか?」紀美子は
入江紀美子はてっきり露間朔也が帰ってきたと思ったが、来たのはまさかの塚原悟だった。悟は果物を持ったままディナールームの方を眺めた。紀美子を見て、彼は手に持っている袋を振ってみせた。「果物しかもってきていないけど、タダ飯を食べていいかな?」紀美子はいきなり訪ねてくる悟を見て驚いた。「来るなら言ってくれればいいのに」「君と子供達がきっと家にいると思って、ちょっと寄り道をしてきたのさ」悟はスリッパを履き替えながら説明した。紀美子は頷き、悟と一緒にディナールームに入った。子供達は一斉に悟を見つめた。「念江くん、随分と顔色がよくなってきたな。ちゃんと薬を飲んでるか?」悟は森川念江に言った。「悟おじさん、こんにちは」入江ゆみは悟が持ってきたチェリーを見ると、嬉しくてはしゃいだ。「悟お父さん、やっぱりゆみの大好物がわかってるね!」悟は微笑んでゆみの頭を撫でた。「後でご飯を食べたら、悟お父さんと一緒にリビングで食べよう、ね?」「うん!悟お父さん、こちらへ!」ゆみは頷いて、紀美子の隣の席を指さした。「やっぱり、悟お父さんはゆみのことしか心にないんだ?」悟が座ってから、入江佑樹が冗談を飛ばしてきた。「ごめん。みんなで一緒に果物を食べるつもりだったんだ」悟は少し驚いて、慌てて説明した。松風桜舞が悟に茶碗とお箸を渡した。「佑樹くんは最近ますますませてきたわね。気にしないで、悟さん」紀美子が言った。悟はリビングを見渡して、「朔也はまだ帰ってきていないのか?」と尋ねた。「最近工場の方が忙しくて、いつも食堂で食べてるのよ。彼が帰ってくると大体食事の時間は過ぎているから」紀美子は説明した。悟はただ頷いて、何も言わなかった。食事の後、子供達は悟が買ってきたチェリーを持ってはしゃぎながらリビングに走って行った。紀美子と悟は隣で子供達を見守った。「今日、単にご飯だけを食べにきたわけじゃないよね?何かあったの?」紀美子が尋ねた。「いいえ」悟は素直に答えた。「暫く来ていなかったし、主任になって少し時間的に余裕ができたから、寄り道をしただけさ」「病院はこの藤河別荘に近いし、もし食堂の飯が飽きたらいつでも桜舞の手料理を食べに来て」「それじゃお言葉に甘えて」悟
塚原悟はチェリーを一個取り、入江紀美子に渡した。「この話はあまりにも現実的すぎだ。そうだろう?」紀美子はじっと悟を見つめた。通常であれば、彼女と森川晋太郎がこれからやろうとしていることを、悟が分かるわけがなかった。なぜ悟はいきなりそんなことを聞いてきたのだろう。「そうよ」紀美子は彼の話に合わせることにした。「だから」悟は続けて聞いた。「もし彼の父親がいなくなったら、君は彼と元通りになるのか?」「わからないわ。それまでに自分と晋太郎との間に何かが起こるかもしれないし、今ははっきりとした答えを出せないの」「分かった、もうこんな煩わしいことを話すのは辞めよう」そう言って、悟は立ち上がった。「もう遅いから、そろそろ帰るよ、明日朝早いし」「まだ19時半だけど?」紀美子は時計を眺めた。「君は、俺に帰ってほしくないのか?」悟はコートを着ながら冗談を言った。「い、いいえ、私はそんな意味じゃ……」紀美子は恥ずかしくて顔を赤く染めた。「大丈夫だ」悟は腰を下ろして紀美子の耳元で囁いた。「本気で受け止めてなんかいないさ」その挙動は、紀美子の顔を更に赤く染まらせた。彼女は急に立ち上がり、悟の後ろに回った。「送ってあげる!」二人は玄関まで行って、悟は隣の別荘を眺めた。「さっき来たときに気づいたんだけど、隣の別荘はもう売りに出したのか?」「うん、今日の午後手続きを終わらせたけど、なんだか買主が随分と急いでるみたい」悟は暫く隣の別荘を眺めていた。うす暗い街灯の光が、彼の瞳に映りこんで揺れていた。紀美子が気になって聞こうとすると、悟は視線を戻して車の鍵を出した。「もう帰るね、外は冷えてるから、君は部屋に戻って」紀美子は玄関で悟に手を振り見送った。夜。夜9時半頃。森川晋太郎は田中晴、そして鈴木隆一と一緒に外で酒を飲んでいた。「佳世子はもうお前を手放したのか?なんだか随分と自由だけど。晋太郎が憂鬱な目で晴を見て聞いた。「俺が遊びに出てきたとでも思ってんのか?俺はあいつに、あんたと紀美子の幸福のための対策検討会に出ると言って来たんたぞ!」晋太郎はテーブルに並んでいる酒のボトルを眺め、あざ笑いをした。「酒の場で俺の幸せを検討する?」「いや、俺
紀美子は反射的に電話を取った。「もしもし?」「紀美子!」晴からの声は焦りに満ちていた。「今、時間ある?すぐ晋太郎を迎えに来てくれ!今から位置情報を送る。とにかく早く来てくれ!大変なことになったんだ!!」それを聞いて、紀美子の胸は不安で締め付けられた。彼女が何かを聞く間もなく、晴は電話を切ってしまった。晴が言った、「大変なことになった」という言葉を思い出すと、紀美子は不安で鼓動が早くなった。そして布団を投げ、慌てて服を着た。丁度その時、晴から位置情報が送られてきた。彼女は携帯を開き、地図上に表示された「サキュバスクラブ」という名前を目にすると、冷静さを取り戻した。今は隆一も戻っているし、晴もいる。おそらく彼ら二人に連れ出されて飲みに行ったのだろう。これまで彼らに呼び出されて晋太郎を迎えに行ったことは何度もあった。「大変」などと言われても……紀美子が少し腹を立てながら携帯を手に取り、拒絶のメッセージを送ろうとしたその時、晴から一枚の写真が送られてきた。写真には、頬を赤らめて目を閉じ、ソファにもたれかかる晋太郎の姿が映っていた。普段、彼が友達にここまで振り回されることはない。この写真を見た彼女は、彼がどれほど酒を飲まされたのかを悟った。彼女はため息をつき、メッセージを送った。「分かったわ。今すぐ行く」そしてコートを羽織り、車のキーを手に取った。今回はボディーガードを呼ぶことなく、彼女は自分で車を運転してバーへ向かった。到着すると、紀美子は直接個室に向かった。ドアを開けると、そこには晋太郎一人しかおらず、晴と隆一はどこかに行ってしまっていた。紀美子はまるでからかわれているような気がして、少し腹が立った。彼女は息を呑み、晋太郎の前に歩み寄った。彼の腕を肩に乗せようと身をかがめた瞬間、晋太郎が突然目を開けた。紀美子だと認識すると、晋太郎は彼女を一気に引き寄せ、抱きしめながら後頭部に手を回し、熱いキスをした。酒の匂いと共に感じた熱い息遣いに、紀美子は反射的に押しのけようとした。「晋太郎……んっ……噛まないでよ……痛い……」晋太郎は片手を放し、紀美子の手首をしっかりと掴んだ。彼は紀美子の唇を離したが、暗い個室の中でも紀美子は晋太郎の瞳に映る欲望を感じ取った
悟は紀美子をじっと見つめた。まだ語り尽くせない思いは山ほどあったが、全ては言葉にできなかった。長い沈黙の後、悟は紀美子の手を離し、立ち上がってドアに向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、彼は再びベッドに横たわる彼女を振り返った。淡い褐色の瞳には純粋で、ただ未練と後悔だけが満ちていた。ゆっくりと視線を戻すと、悟は決然とドアを開けた。ドアの外で、ボディガードは悟が出てくるのを見て一瞬たじろいだ。「お前は私の部下ではない。何もしなくていい。私が自分で行く」悟は彼を見て言った。「悟が降りてきます!」悟の背中を見送りながら、ボディガードは美月に報告した。報告を受け、美月は晋太郎を見た。悟が紀美子にかけた言葉をはっきりと聞いていた晋太郎は、端正な顔を険しくした。次に……彼は唇を強く結び、ドアを開けて車から出た。美月も続いて降りてきた。晋太郎たちがホテルの入り口で立ち止まると、悟が中から出てきた。「あんたと俺は同じ汚れた血が流れている。たとえあんたが認めたくなくても、これが事実だ」悟は平静な笑みを浮かべた。「上で紀美子に何をした?」晋太郎は怒りを抑え、冷たい声で詰め寄った。「私が彼女に本当に何かしたとして、あんたの出番などないだろう」悟は反問した。「だが心配するな。彼女はただ眠っているだけだ」「お前は自分で自首するか、俺がお前をムショに送るか選べ」「刑務所だと?」悟は嘲笑った。「私があの男と同じ場所に行くと思うか?」「それはお前が決めることじゃない!」「降りてきたのは、ただ一つ聞きたいことがあったからだ」悟は一歩踏み出し、ゆっくりと晋太郎に近づいた。二人の距離が縮まるのを見て、美月は慌てて止めに入ろうとした。「来るな」背後からの気配に、晋太郎は軽く振り返って言った。美月は焦りながらもその場で止まった。社長は目の前の悟がどれほど危険か分かっているのか?本当に傲慢で思い上がりも甚だしい!!「最後のチャンスだ。聞きたいことは一度で済ませろ」晋太郎は視線を戻し、悟の目を見据えた。「貞則があんたの母親にあんなことをしたのを知って、彼を殺そうと思ったことはあるか?」「お前があの老害を始末してくれたおかげで、俺は手を汚さずに済んだ。礼を言
「俺は何も言わない!」ボディガードが運転手の口に貼られたテープを剥がすと、運転手は晋太郎を見上げて言った。晋太郎は冷たく笑った。「美月」運転手は晋太郎の側に来た女性を見て、次に何が起こるかをよく理解していた。「暴力で自白させようとしても無駄だ。俺は塚原社長を裏切るつもりはない。殺すならさっさとやってくれ!」運転手は歯を食いしばって言った。「誰が暴力を振るつもりだと言った?」「どういう意味だ?」運転手は一瞬呆然とした。「この世には特殊メイクがあるじゃない」美月が笑いながら言った。運転手は一瞬固まったが、すぐに気づいた。自分は、捕まってからただ口を塞がれ連れて来られたが、暴力を振るわれることはなかった。その間の動きは非常に静かで、部屋の中からは何の音もしなかっただろう。「社長がそう簡単に騙されると思うのか?」そう言い終わると、運転手は内心不安になり上階に向かって叫ぼうともがいたが、傍らのボディガードに素早く再び口を塞がれた。すぐに美月は道具を取り出し、彼とよく似た体型のボディガードの変装を始めた。30分後、美月はそのボディガードを完全に運転手に化けさせた。自分とそっくりに変装したボディガードを見て、運転手の瞳は恐怖に満ちた。美月は変声器を取り出してボディガードにつけた。「ほら、何か喋ってみて」ボディガードが声を出すと、運転手はひどく衝撃を受けた。もう終わりだ、完全に終わりだ!「上に行ったら、悟に夕食が要るかどうかと尋ねるだけ。もし『要る』と言われたら、食事を届けながら部屋の様子を窺う。もし『要らない』と言われたら、この盗聴器を中に入れ、ドアの前で待機して。中の状況を常に把握したいの」運転手の表情を見て、美月はボディガードに言った。「分かりました、美月さん」そう言うと、ボディガードはホテルに入り、美月の指示通りに三階に上がった。「社長、夕食はいかがですか?」悟の部屋の前で、彼はドアをノックして尋ねた。「いい」部下の声を聞いて、悟は疑うことなく答えた。「入江さんの分もいいのですか」ボディガードはゆっくりしゃがみ込み、盗聴器を入れた。「ああ、彼女は寝ている」美月と晋太郎の耳には悟の声がはっきりと届いた。晋太郎は眉をひそめた。悟はま
「あんたはもう逃げられないわ。いつ私を解放してくれるの?」紀美子が尋ねた。「紀美子、私に二つだけ約束してくれないか?」悟は俯いて、掠れた声で言った。「私のできる範囲なら、約束するよ」早くそこを離れるために、紀美子は悟の話に合わせた。「ありがとう」悟は笑みを浮かべた。紀美子は彼の要求を待ったが、しばらく経っても悟は何も言わなかった。「約束って何?」紀美子が怪訝そうに尋ねた。「一つは後で教える」悟は再び立ち上がった。 そして、彼は彼女に向かって一歩ずつ近づいた。紀美子は緊張して椅子の肘掛けを握りしめた。「もう一つは、今夜だけ、私と一緒にいてくれないか、紀美子」悟は彼女の前で止まり、跪いて耳元で囁いた。「悟、変なことを言わないで」紀美子は目を見開いて彼を見た。悟は首を振った。「心配するな。ただ静かに眠って、そばにいてほしいだけだ」そう言うと、悟はそっと一本の針を取り出し、紀美子が気づかないうちに彼女の手のツボに素早く刺した。 「痛っ!」紀美子は手を引っ込め、恐怖に満ちた目で悟を見た。「何をしたの?」 「言っただろう。ただ一晩眠って、一緒にいてほしいだけだって」悟は冷静に答えた。その言葉と同時に、紀美子は急激な疲弊感に襲われた。彼女はまだ何か言おうとしたが、猛烈な睡魔に脳を支配され、次第に視界がぼやけていった。やがて紀美子はゆっくりと目を閉じ、横に倒れこんだ。悟は彼女の体を受け止め、腰をかがめてベッドに運んだ。階下。晋太郎が民宿に着くと、美月は車から飛び出して彼の元へ駆け寄った。 晋太郎が質問する前に、晴が先に詰め寄った。「彼女たちはどこにいるんだ?」 「佳世子さんは無事ですが、紀美子さんはまた部屋に連れ戻されました」美月は答えた。「森川社長、無闇に上るのは控えた方がいいでしょう。悟が部屋に爆発物を仕掛けている可能性がありますので、不用意に動けません」美月は晋太郎に向き直って忠告した。「偵察班を出せ」晋太郎は険しい表情で言った。「もう手配済みです」美月は答えた。「既に悟の部下の一人を排除しました」晋太郎はホテルの窓を見上げた。「奴はどの階にいるか特定できたか?」「3階です。廊下には悟の
「美月さん、山田大河という技術者が紀美子さんを人質に取っています。奴らは銃を持っていますが、どうしますか?」少し離れた場所に立っていた二人の男は、彼らの会話を聞きながら、通信機を通じて美月に低い声で報告した。「騒ぎ立てる必要はないが、その場を離れるな。とりあえずは威圧感を与えるだけでいいわ。紀美子さんは私が何とかする」美月は周囲を見回して、指示を出した。 「了解です、美月さん」 二人のボディガードが座るのを見て、大河の緊張はさらに高まった。 彼らは晋太郎の部下に違いない。 一般人であれば、銃を持っている奴を見た途端に逃げるはずだ。悟はゆっくりと大河に近づいた。「大河、言うことを聞け、銃を下ろせ」 目が充血した大河は首を振った。「できません、社長……もう逃げられません。奴らがここにいるということは、外も囲まれているはずです」 「分かっているさ。だから、銃を下ろせと言っているんだ」 「社長……」大河は涙を浮かべた。「どうか生き延びてください。こんな女に惑わされて命を投げ出さないで!彼女は災いのもとです。俺が彼女を始末します!社長、生きて……」そう言い終わると、大河は銃の安全装置を外し、再び紀美子の額に銃口を向けようとした。その瞬間、彼の視覚には悟が銃を抜く姿が映った。「社長……」大河は動きを止め、驚愕して目を見開いた。「バン——」突然、ガラスが砕ける音が響いた。紀美子が慌てて振り向くと、顔に温かく湿った感触と強烈な血の匂いがした。背後からの拘束が弱まり、紀美子は大河が目を見開いたまま倒れるのを見た。銃弾は彼のこめかみを貫通し、傷口から血が止めどなく噴き出してきた。顔が青ざめた彼女の目を覆い、悟は最速で彼女を連れてエレベーターに乗り込んだ。ロビーに座っていた二人のボディガードはすぐに追いかけようとしたが、エレベーターの扉はすぐに閉まってしまった。「美月さん、奴らは上の階へ逃げました!」ボディガードの一人が報告した。「大河が手を出さなければ、こっちも動くつもりはなかったのに。困ったわ。部屋のカーテンを閉められたら、こちらの狙いは定まらない」「強行突破しましょうか、美月さん!」 「ダメだ!部屋に爆弾を仕掛けられたかもしれない。悟が危険
「大河さんからいろいろ聞いた」紀美子は優しい口調で、悟のそばに座った。「全ての恨みを捨てて、どこかでまたやり直そう」悟は大河を一瞥し、明らかに不満げな視線を向けた。「君もついて来てくれるか?」紀美子は悟の浅褐色の、澄み切った瞳を見つめた。これほどの苦難を乗り越えたとは信じ難いほどの、純粋な眼差しであった。彼には彼の事情があるが、彼女にも許せないことがあった。悟を去るように説得することは、彼女の最大の譲歩だった。「それができないのは分かっているでしょう?晋太郎は私を探すのを諦めないわ。一生ビクビクしながら生きていきたいの?」紀美子は言った。「君がそばにいてくれれば、私はどうなっても構わない」悟はそう言いながら、紀美子の手に触れようとした。しかし、紀美子はとっさに手を引っ込めた。悟の手は空中で止まり、数秒間硬直した後、静かに下ろされた。「紀美子、もうこれ以上言わなくていい。君がここに少しでも長くいてくれるだけで十分だ」悟は紀美子に言った。「そして大河、お前の気持ちは分かるが、彼女を脅す必要はない」大河は一瞬呆然とした。「しかし、社長……」「もうこれ以上言うな」悟は言った。「もう十分に話したはずだ。これ以上説明しても無駄だ。お前は大海と行け」大河は納得いかず、まだどう説得しようか考えていたその時、民宿の入り口から二人の男が入ってきた。大河はその二人の体格から、彼らは訓練を受けた者たちだとすぐに分かった。彼らは普段着を着ていたが、明らかに危険なオーラを帯びていた。大河は視線を紀美子に移し、いきなり彼女を掴んだ。その急な挙動に、紀美子も悟も反応できなかった。次の瞬間、大河は悟の目の前で、再び銃を紀美子のこめかみに突きつけた。「大河、紀美子を放せ!」悟の表情は一気に冷たくなった。「嫌です!」二人の男は足を止め、険しい表情で大河を見つめた。「社長、奴らが来ました。この女を人質にして逃げましょうよ!社長もこの女を連れていきたいでしょう?俺が無理やり連れていきます!」「大河!」悟は怒声を上げた。「お前、そんなことをして何の得がある?そう簡単に彼女を連れ去れるとでも思うのか?私は強要ではなく、彼女自身の意思でついて来てほしいんだ!」「社長!
大河は一歩ずつ紀美子に迫ってきた。「社長があいつらに手を出したのは仕方がなかったんだ!本当は社長だってそうしたくなかった!あの忌まわしい父親さえいなかったら、社長だって子供の頃からお前たちと同じように過ごせた!あいつに脅迫されなかったら、彼は一生消えない傷を負わされずに済んだんだ!」「社長が最も惨めだった頃のこと、お前は知らないだろうけど、俺はよく知っている!俺は社長の資料を調べ、昔の監視カメラの録画映像も観たからな。社長は毎日のように殴られ、ドブ川の汚水をぶっかけられるどころか豚や犬の餌を食わされそうになっていた。いかがわしい女を呼び寄せ、社長の体をボロボロになるまで弄んだこともあった!社長は一人でその時期を耐え抜いたんだ!あんなことをされたら、誰でもあいつらを恨むのは当然だ。」「確かに社長の手によって多くの人の命が失われた。だが彼は、正当な理由がなければ絶対に命を奪ったりしない!社長が、自分の医療技術でどれだけの人を救い、どれだけの家庭を助けてきたかわかってるのか?俺と外にいる運転手の大海も、社長の助けがあってここまで来られたんだ!社長は資金援助だけでなく、生きる希望を与え、病気を治し、薬を提供してくれた!あんな素晴らしい人間に、なぜ世界はこんなにも不公平なんだ?」大河が怒りに震えながら吐き出した言葉を聞いて、紀美子は完全に呆然とした。彼の話からすると、悟に関してまだまだ知らないことがたくさんあるらしい。いや、知らなかったわけではない!聞いていたとしても、自分の同情を引くための嘘だと思い込んでいたのだろう。本人が話すのと、他人から聞かされるのとでは全く印象が違う。「悟に話がしたいと伝えてくれる?できるだけ早く、彼を説得してみるから」「お前のような女、何を考えてるかわかったもんじゃない!」大河は紀美子の話を遮り、いきなり彼女の襟首をつかんだ。彼は紀美子を拘束しながら、拳銃を彼女のこめかみに突きつけた。紀美子は全身が硬直したが、それでも冷静さを保ち、交渉を続けようとした。「私を殺したら、悟があんたを許すと思う?」落ち着いて話すのは通じない。紀美子は強気に出るしかなかった。「怒られるのはわかってる。俺は殺されても構わない。社長の命さえ救えればそれでいい!」「私が死んで、彼は一人で生きようとすると思
悟の部屋を出て、大河はしばらく躊躇ってからエレベーターに乗り込んだ。三階に着くと、彼は紀美子の部屋の前へと歩み寄った。「お前一人で来たのか?社長は?」佳世子を見張っていた大海は不審そうに尋ねた。「社長に内緒で来た」そう言って、大河は殺意に満ちた視線を紀美子の部屋のドアに向けた。「お前、何をする気だ?」大河の視線に気づいた大海は尋ねた。「この女さえいなければ、社長はきっと俺たちと一緒に逃げてくれる!」大河は歯を食いしばって言った。「大海、お前は社長が命を落とすのをただ見てるつもりか?こんな女のせいでよ!」「どういう意味だ?」大河は今の状況を説明した。「どんな事情があろうと、社長の命令なしでは彼女に手を出してはならん!彼女はお前に何の恨みもないだろ!」「恨みがないだと?」大河は問い詰めた。「もし社長が本当に行かなかったら、社長の言う通りに俺達だけで逃げるのか?」大海は黙り込んだ。「いや……社長は俺の家族を六年も面倒見てくれた。この恩は命をかけても返しきれない」「だから社長を連れて逃げないと、俺たち全員がこの女のせいで殺されるんだ!」大河は警告した。「たとえそうだとしても、彼女を殺しちゃいけない。彼女は社長が最も愛した女だ。もし殺したら、社長はどうなる?」大海は依然として反対した。「時間が全てを癒やしてくれるはずだ!」大河は言い放った。「俺は、たとえ社長に恨まれ、殺されても構わない!」そう言い残すと、大河はドアを押し開け紀美子の部屋に入った。その時、背後からドアが開く音がした。二人の会話を聞いていた佳世子が、我慢できずに部屋から出てきたのだ。「部屋に戻れ!」大海は慌てて振り返り、彼女を遮った。「紀美子に手を出すなんて、許さないわよ!」佳世子は焦って横を見ながら叫んだ。「紀美子!早く逃げて!この二人があんたを殺そうとしてるわ!!紀美子!!」佳世子は身を乗り出しながら叫び続けた。部屋の中では、紀美子が驚いた様子で入ってきた男を見つめた。そして外から聞こえる佳世子の叫び声に耳を澄ませた。大河が速足で近づいてくるのを見て、紀美子はすぐに布団を蹴り飛ばし、ベッドの反対側に立った。「何をする気?」彼女は警戒しながら大河に問いかけた
「お父さん、悟の車の位置がわかった!前僕たちが泊まってたホテルだ!」晋太郎は早急に電話を切り上げ、立ち上がって佑樹の元へ駆け寄り、パソコンの画面を見た。確かに、以前宿泊していたホテルだ。「悟ってやつは本当に計算高い。父さんが監視役を引き上げた途端、そこを選んぶだなんて。父さんをバカにしてるの?それとも、父さんがそこを狙わないと踏んだのか?」「今はそんなことを言っている場合じゃない。すぐに人を送って状況を確認させる」晋太郎は美月の携帯に電話をかけた。「森川社長、何かご指示ですか?」美月はすぐに応答した。「前の民宿だ。佑樹が悟の車の場所を突き止めた」美月は佑樹がこんなに早く手がかりを見つけ出したことに驚いた。彼女は携帯を持ちながら、隣でまだコードを打ち続ける技術者たちに目をやった。こいつら、子供二人にも及ばないのね!口元を少し歪ませながら、美月は心の中でそう思った。「わかりました、すぐ偵察班を向かわせます」電話を切ると、晋太郎もテーブルの上の車の鍵を手に取った。「父さんも行くの?」佑樹が声をかけた。「母さんが悟の手中にいるんだ。ここに座っていられない」晋太郎は頷いた。「俺も行く!」晴は慌てて立ち上がり、晋太郎の側へ歩み寄った。「佳世子は抑えられてるし、俺もじっとしていられない」「分かった」晋太郎は佑樹を見た。「お前と念江はここで大人しく待っていろ。何かあったらすぐに電話しろ。ボディガードも外で待機させておく」「わかった。父さん、必ず母さんと佳世子おばさんを助けてきて!」今回の民宿への移動では、晋太郎は多数のボディガードを分散させて配置した。しかし、どれだけ慎重に行動しても、大河の監視網から逃れることはできなかった。ホテル。大河は再び悟のもとへ駆けつけた。「社長、もうここはバレています!晋太郎の手下がすでに向かってきています!」しかし、座って茶を飲んでいた悟は、大河の言葉にも大して動揺を見せなかった。「彼女が行きたがらない」声は淡々としていたが、悟の心は万本の針で刺されるように痛み苦しくなっていた。「社長!命あっての復讐です!女なんかより、自分の命の方が大事じゃないんですか!」「大河、行くならお前と大海だけで行け。もう私のことを構うな
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪