「まあまあ、そう興奮するなよ、赤ちゃんに悪いし。俺も晋太郎からそう聞いただけ。最近、彼はその件を処理しているようだ」そう言ってから、田中晴は慌てて杉浦佳世子を落ち着かせた。「処理?父親の罪を隠すの?!」佳世子は感情を制御しきれない様子で再び尋ねた。「違う、何を考えてんだよ!彼は父親に法の裁きを受けさせるつもりだ」晴は説明した。その話を聞き、佳世子はほっとした。「まさか、晋太郎が紀美子の為にそこまでするとは」佳世子は感服した。鈴木隆一は、チャンスが来たと見てすかさず口を開いた。「だから、晋太郎の身になって考えてあげるべきじゃないか?」佳世子は暫く考えてから答えた。「じゃあ、先に紀美子の意思を聞いてみる。これでいい?」「今聞いてくれてもいいかな?」紀美子は呆れた。どうやら今この場で隆一に回答しないとケリがつかないようだ。彼女はテーブルに置いていた携帯を取り、紀美子に電話をかけた。電話派すぐに繋がった。「佳世子、どうかしたの?」「紀美子、今何してるの?」「顔を洗ってるけど」電話の向こうから水が流れる音がした。「あのね、あなたのお父さんのことを晴から聞いたんだけど……」そう言って佳世子は相手の反応を伺った。紀美子は、暫く沈黙してから口を開いた。「うん、その件で晋太郎の所に行ってきたわ」「えっ?」佳世子は驚いたふりをした。「彼の所に行ってきたの?彼は何て?」「あれ、晴が言ってなかった?」紀美子は戸惑った。「いいえ、まだ晴からはその話は聞いていないけど、晋太郎は何か言った?」「彼は、私の為にも、彼の母の為にもこの件を解決しなければならない、と言ったわ」「彼は本当にそう言ったの?たとえ自分の実の父と絶縁することになっても?」「そう。私も彼のその断固とした姿勢に驚いたわ」佳世子は足で晴に、お湯が入ったコップを持ってくるように合図をした。晴は大人しくすぐ持ってきた。「フン、恐妻家め」それを目撃した隆一は、心の中で彼を蔑んだ。「それで、あなたは今晋太郎に対してどう思っているの?」佳世子はお湯を一口飲んでから聞いた。「彼がここまで考えてくれているから、私もこれ以上彼にこの件で拗らせるつもりはないわ。なにしろもう過ぎたこ
入江紀美子は森川晋太郎の名前の所が「入力中」と表示されているのに気づいた。しかしいくら待ってもチャットメッセージが受信されないので、晋太郎が何かをためらっているのだと分かった。「言いたいことがあれば素直に話して?」晋太郎は紀美子のメッセージを見つめながら、まだ黙っていた。隠さずに言った方がいいかもしれない。「今日、狛村静恵が訪ねてきた。助けてほしいとのことだった」晋太郎は紀美子にそう伝えた。「どういうこと?」助けてほしいとはどういう意味?「彼女は次郎の奴に虐待されているらしい。オヤジの状況を探ってくれる代わりに、助けてほしいと」「静恵は何が分かったというの?」晋太郎は眉間をつまんだ。携帯でのチャットという連絡手段が面倒く感じたのだ。彼は暫く考えてから、携帯をしまいコートを持って書斎を出た。そうも知らず紀美子は大分待ったが、晋太郎からの返信がなかった。もともと眠かった彼女だが、晋太郎との会話で完全に眠気が覚めた。彼女はベッドから降り、下から果物を取ってきて相手の返信を待つことにした。しかしスリッパを履いた途端に、下から車のエンジンの音が聞こえてきた。こんな遅い時間に、誰が訪ねてきたんだろう。窓越しに下の様子を見て紀美子は驚いた。来たのは晋太郎の車だった。なぜ彼が急に来たのだろう。晋太郎は車から降りてきて、紀美子は慌ててソファにかけていたブラジャーを見た。彼女の顔は赤く染まり、慌ててクローゼットにそれを隠した。そして適当に服を整理していると、ノック音が聞こえてきた。紀美子が慌ててドアを開けると、晋太郎が玄関の外に立っていた。「こんな寒い時に何でわざわざ来たの?」紀美子が心配してくれるのを聞いて、晋太郎は微笑んだ。「いつまで俺を外に立たせる気?」紀美子は横によけて、晋太郎を中に入れた。ドアを閉め、2人はソファに腰を掛けた。紀美子の部屋にはソファが1つしかなく、小さいものではないが、2人が座るには、もう殆どスペースが残されていなかった。晋太郎は彼女の部屋を見渡した。寝る時間だったのだろうか、小さな暖かい光の電気しか着いていなかった。部屋には暖房が入っていたので、コートを着たままの晋太郎は、背中に汗がにじんだ。紀美子が口を開こうとすると、
森川晋太郎はゆっくりと手を伸ばし、彼女の髪をまとめた。「俺は、君が警戒せずに俺と落ち着いて会話してくれる姿が好きだ」入江紀美子は呆然と彼を見た。心は彼の言葉に合わせて強烈に鼓動していた。晋太郎に少し冷たい指で肌を触られた紀美子は、一瞬で全ての理性を失った。彼女は唇を動かし何かを言ってその気まずい空気を打破しようとした。しかしまるで喉が塞がれたかのように全く声が出なかった。もしかしたら、彼女自身がそれを望んでいなかったのか……晋太郎の視線は彼女の薄紅色の潤った唇に止まり、手も視線に合わせて彼女の顎まで動かした。体が近づいてくると同時に、彼は細長い指に力を入れ、彼女の顔を軽く持ち上げた。久しぶりに彼の息が彼女の鼻先にかかり、彼女の呼吸も合わせて早くなった。晋太郎にキスされた瞬間、2人の心の間にあった壁が一気に崩れ去った。絡み合う接吻は優しくて長かった。紀美子の意識が朦朧になりかけた瞬間、晋太郎は彼女の体を抱き上げ、自分の上にのせた。彼は首を傾げ、唇を紀美子の耳元に当て、かすれた声で囁いた。「紀美子、俺から離れるな」……翌日。竹内佳奈のいない日、家にいる皆が太陽が高く昇る頃まで寝ていた。子供達が顔を洗って下に降りると、書斎にもリビングにも紀美子の姿が見つからなかった。入江ゆみは減り切ったお腹を揉みながら、「お母さんはどこ?ゆみお腹空いたよ」と言った。入江佑樹はあくびをしながら、「多分まだ寝てるだろう、ちょっとみてこよう」と答えた。森川念江とゆみが頷き、佑樹と一緒にまた2階に上がった。紀美子の部屋の前に来て、佑樹はノックした。「お母さん、起きた?」しかし暫く経っても返事が一切なかった。佑樹は眉を寄せながら、ノブを回してドアを押し開いた。中を覗くと、電気が点けっぱなしの寝室のベッドの上に、布団を被った2つの人の形をした凹凸が見えた。彼はすぐに察して慌ててドアを閉めた。後ろで部屋の中の様子がよく見れなかった2人は呆然として佑樹を見た。「何でドアを閉め……」ゆみがまだ最後まで話さなかったうちに、口を兄に手で塞がれた。そして彼は念江に、まずは部屋に戻ってから話そうと目で合図をした。こうして、子供達は部屋に戻って、ドアを閉めた。佑樹は緊張した様子でツ
子供達が朝食を食べ終わる頃になっても、入江紀美子と森川晋太郎はまだ部屋から出てこなかった。先に起きたのは露間朔也だった。子供達だけがリビングで遊んでいるのを見て、朔也は戸惑いながら周りを見渡した。「君たちのお母さんは?」「晋太郎がお母さんを抱いて寝てるよ」「なに?!彼はここにいるのか?いつ来た?何で教えてくれなかった?!」質問攻めにされた入江佑樹は、どれも答えられなかった。「僕だって分からないよ」「佑樹くん、お父さんが来たことに怒ってるの?」森川念江が尋ねた。「当たり前だろ」佑樹は悶々とした様子で答えた。念江はため息をついた。一体どうやって佑樹に説明したらいいか分からなかった。ことの経緯を整理できた朔也は、子供達の後ろにきて、手を佑樹の肩に置いた。「あのな、佑樹くん、お母さんはただお父さんと恋をしているんだよ」朔也はにニヤニヤしながら説明した。佑樹は朔也の手を振り落として、「彼達が何をやってるか、僕は分かってるんだよ!」と言った。「おいおい、何でそんなことが分かるんだよ!」朔也は真顔で注意した。佑樹は「フン」と鼻を鳴らした。「こう考えるべきだ、お父さんがいなかったら君たちも生まれていない、そうだろ?何と言っても、彼は君たちの実の父だからね!」「実の父がどうしたの?」佑樹はあざ笑いをした。「彼は父親としての責任を果たしてくれた?」佑樹は、自分でもどうしてそんなことを口にしたか分からなかった。しかし、そのことが母の自発的な行動ではなかったことを思い出すと、心の中で怒りと苛立ちを感じた。「そうだったかもしれない。でも彼の心の中では君たちのお母さんが、とても重要な人に違いないんだ!」朔也は確信した。「あなたが確信してどうすんだよ」佑樹は反論した。「まあまあ、佑樹さんよ、もうそっとしてあげなよ。君のお母さんは晋太郎のことが好きなんだから!だってこの時間になっても起きてこないんだろ?」佑樹は口をすぼめながら、小さな顔を曇らせた。もともと備わっていた優雅さが、憂鬱な気分によって失われた。「佑樹さん、たとえばお母さんが晋太郎のことを受け入れたら、君はどうする?」朔也は尋ねた。「お母さんがいいなら、僕も同じだよ」佑樹は即答した。
2人が顔を洗い、部屋から出ようとした時、森川晋太郎は急に口を開いた。「隣の別荘って、まだ売り出していないよな?」「うん、土地が高いから、なかなか見に来る人もいないのよ」入江紀美子は答えた。「そうか」晋太郎は淡々と返事して、部屋のドアを開けた。「行こう」紀美子はあまり彼の話を気にせず、一緒に階段を降りた。1階にて。足音に気づいた子供達は、一斉に晋太郎と紀美子の方を見た。階段の曲がる所まで降りてきた紀美子は、一瞬で複雑な感情を持つ視線を感じた。一方、前を歩いていた晋太郎は明らかなる敵意を感じた。その敵意は入江佑樹からのものだった。弱気になった紀美子は、子供達に目を合わせられなかった。自分が爆睡しただけではなく、晋太郎が来てここで寝泊まりしたことさえ、前もって彼らに教えていなかったからだ。晋太郎は何も無かったかのように、子供達の前に来た。「飯につれていってやる」「やったー!」入江ゆみは立ち上がってはしゃいだ。「アイチバーガーに行きたい!前連れていってくれたお店!」「だらしないよ!」佑樹は妹を睨んだ。ゆみは兄の言葉をの意味をしっかり受け取った。「お兄ちゃんったら、もう捻くれるのやめて!本当に子供みたい!」紀美子も彼らの傍に来ていた。ゆみの話を聞いて、彼女は顔色が暗くなった息子を見つめた。「佑樹くん?」紀美子は彼に声をかけた。佑樹はまっすぐと立ち上がり、紀美子の腕を横に引っ張った。「お母さん、ちょっと2人きりで話したいことがある!」紀美子は、晋太郎に「ちょっといってくる」と目で合図を送った。しかし晋太郎はそんなことも構わずに、手を伸ばして紀美子の腕を掴み、佑樹に言った。「要件があれば俺に言って」「何であなたに話さなきゃならないんだよ!」佑樹は晋太郎の方に振り向いて言った。「お前は男だろ?男なら男同士で語り合うべきだ!」晋太郎は冷たい声で言った。「晋太郎」隣で焦って紀美子が彼に注意した。「佑樹くんはまだ小さいから、そんなに厳しく言わなくても」「彼のハッキングの腕は、俺の会社のエンジニア達を完全に上回っている。そんな彼に俺の話が分からんとでも?」紀美子は驚いた。息子はそんなに凄かったのか。「さぁ、男同士で話
入江佑樹は唇をへの字にして視線を逸らした。「答えられないのか?それともこれじゃあ足りないと思っているのか?」森川晋太郎はさらに聞いた。「それはある程度の説得力はあるけど、お母さんを愛していると証明するにはまだ足りない!」佑樹は言い返した。「じゃあ、どうすれば認めてくれる?」「僕は男と女とのことが分からないけど、ただ、お母さんが楽しくて、あなたの為に泣いたりしなければ、それが愛だと思う!」「その通りだ。」晋太郎は佑樹の話を肯定した。「しかし、大人の間では、意見が分かれたり、お互いのやり方に不満があったりするのもよくあるということを、分かってもらいたい。俺と紀美子はこれまでたくさんの誤解があった。しかしその誤解を一つずつ解いていけば、もう喧嘩や食い違いは生じないはずだ」「つまり、あなたはもうお母さんと仲直りしたの?」佑樹は続けて聞いた。「大体な」晋太郎は答えた。「一つ約束してもいい」「約束?」「もし君のお母さんが俺と一緒になってくれれば、俺は彼女を世界で一番幸せな女にする」「それって、本当?」佑樹は晋太郎を見上げて聞いた。「そうだ」晋太郎は真顔で答えた。「じゃあ、拳を当てて誓って!」佑樹は立ち上がり、晋太郎の前に来た。「嘘をつく人は死んだら地獄に落ちる!」晋太郎の俊美な顔が厳しくなった。「誰からそんなことを教わった?」「誓えないのなら話は終わりだ!」「今回はそれでいいが、今度そのようなことを口にしたら、厳しく正してやるからな!」晋太郎は目を細くして言った。「分かった!」晋太郎は手を出して佑樹と拳を当て合った。晋太郎は、佑樹のような物知りの子供に対しては、約束さえしてあげれば、これ以上捻くれることはないと分かっていた。子供とは、それほど単純な生き物だ。それと同じく、晋太郎の誓いも本気だった。彼は約束通りに紀美子を幸せにし、すべての悔しさを償ってあげると決めた。そして、2階から降りてきた時、佑樹は既にいつもの顔に戻っていた。「佑樹くん?」紀美子は慌てて状況を確認しようとした。「まだ怒ってるの?」佑樹は優雅に笑みを浮かべた。「僕はそんな話の通らない人か?」「フンだ、さっきの捻くれてたヤツはだ~れだ?」ゆみが
森川念江は母の話の意味に気づいた。「お母さん、これから忙しくなるの?」入江紀美子は頷き、優しく微笑んで答えた。「そうなの。お母さんの会社はとっても大きなお仕事を引き受けたから、来週から出張に行かないといけないの」念江は少し落ち込んで表情を暗くした。「いつ戻ってくるの?」「二、三日後かな?まだ分からないの」「一人でいくの?」「そう」紀美子はため息をついた。「朔也おじさんはちょっとした用事で、工場に残らないといけないの。でも佳奈お姉さんももうすぐ戻ってくるし、彼らに君たちのことを頼んでおいたわ」この時、紀美子の携帯が急に鳴り出した。竹内佳奈からのメッセージだった。「紀美子さん、申し訳ないけど、暫くお休みを伸ばしてもらうことになるかも。翔太さんは悔しさで立ち直れないみたいなの……」紀美子は眉を寄せ、返事をした。「兄がどうしたの?」「どうやら彼は、お父さんの件であなたに晋太郎さんに頼ませたことを、とても悔しくてしかたないようなの」「……気にしなくていいのに。兄は今傍にいるの?」佳奈はまだソファで寝ている翔太を見た。彼女は差し入れで持ってきた果物をテーブルの上に置いてから、紀美子に返信した。「ソファで寝ていて、周りに資料の紙が散らかっている。ここ数日はずっとこんな感じだわ」佳奈は部屋の様子の写真を添付した。渡辺翔太の目元にはくまができており、あごの髭も伸びていた。「佳奈、ごめんね、兄の世話をしてもらっちゃって」「ううん、全然大丈夫だよ。将来、私が翔太さんと結婚したらよろしくね!」「うん!」携帯をしまい、紀美子は夜になったらじっくり兄と話をしようと決めた。兄に頼まれて森川晋太郎にお願いをした件に関しては、彼女は特に気にしていなかった。まさか彼がここまで気にしているとも思わなかった。午後。紀美子は念江と一緒に佑樹とゆみを迎えに行った。佑樹はリュックを背負っておらず、ゆみの方が重そうなリュックを背負っていた。2人が車に乗り込んだ途端に、ゆみは母に文句をこぼした。「お母さん、ゆみはもうだめ!」念江はゆみのリュックを外し、妹の肩を揉んだ。しかしゆみは死んだ目で佑樹を睨みつけた。3人の子供達の様子を見て、紀美子は苦笑いをした。念江は妹
夕食を終えた後。紀美子は書斎に行き、翔太に電話をかけた。着信音が鳴ったと同時に、翔太が電話を取った。「兄さん?」紀美子が呼びかけた。「今どこ?」「少し疲れたから、午後にちょっと昼寝して、今起きたところだ。どうした?」翔太は少し咳払いをしてから言った。「兄さん、正直に教えて。いったいどうしたの?」紀美子は尋ねた。「考えすぎだよ。兄さんに何かあるわけないだろう?」翔太はわざと軽く笑いながら言った。「私が見抜けないとでも思ってるの?」紀美子は言った。「……舞桜が何か言ったのか?」「何かあったら一緒に話せばいいじゃない。どうして一人で抱え込むの?それに、このことは私も気にしてないから、自分を責めることないよ」紀美子は言った。「自分が無力なだけならまだしも、君まで巻き込んでしまうなんて」「もしあなたがそんな状態なら、私は本当にがっかりよ。これは大したことじゃないし、そもそも晋太郎に私がお願いする必要はなかったわ」紀美子は言った。「彼に会ったのか?」翔太は驚いた。「そう」紀美子はうなずいて答えた。「彼の答えは意外だったわ……」紀美子は晋太郎が言ったことを大まかに伝えた。「彼が承諾するのは想像できたけど、こんなにすんなりいくとは思わなかったな」翔太は言った。「だから、この件に関してはあまり気にしないで。それより、会社には戻ったの?」「準備中だ」翔太は言った。「そう」紀美子は微笑んで言った。「これ以上考えすぎないでね」「わかった」一週間後、月曜日。朔也は紀美子を空港まで送っていった。待合室で、朔也は携帯で紀美子にリストを送った。「どうしてこんなにたくさんの薬の名前を送ってくるの?帝都でも買えるじゃない?」紀美子は呆れて彼に尋ねた。「薬を頼んでるわけじゃなくて、飛行機を降りたら自分で買いなさいって言ってるんだ。環境に慣れないかもしれないから」朔也は言った。「……でも、こんなにたくさん必要ないでしょ」「いやいや、薬名の後に効用もちゃんと書いてあるでしょ?これは昨晩、悟に頼んでリストアップしてもらったんだよ」朔也は言った。「わかった、もういいわ。じゃあ帰りなさい。私はそろそろ行かないと」紀美子は仕方なく言っ
紀美子は体を無理やりに起こそうとした。悟は手を差し伸べたが、触れる前に紀美子に冷たく払いのけられた。「触らないで!」紀美子は憎悪に満ちた目で悟を睨んだ。悟は手を引っ込め、紀美子が自力で体を起こしてベッドにもたれかかるのをただ見守った。「何度も言ったはずでしょう?馬鹿でもわかるくらいに!」「ああ、わかっている」悟は目を伏せた。「わかってるなら、なぜ何度も私を連れ去ろうとするの?」紀美子の声は次第に激しくなっていった。「あんたほど意地の悪い人間は見たことないわ!」悟は唇を噛み、深く息を吸ってから顔を上げた。「紀美子、私と一緒に来てくれないか?」「行く?」紀美子は冷笑した。「どこへ?あんたの頑固さと身勝手さで、どれだけの無実な命が奪われたか知ってる?自首して、あの世で彼らに悔い改めるべきよ!あんたが生きていると思うと、呼吸すら苦しくなってくるの!」「彼らが無実だというが、私はどうなんだ?」悟の目には苦痛が溢れていた。「私には少しの情さえないのか?他人ならともかく、私の全てを知っている君まで……少しも分かってくれないのか?」悟の言葉に、紀美子は心の底から嫌悪を感じた。「情?」紀美子は冷ややかに嘲った。「野良犬の方が同情できるわ。ましてやついてこいなんて!もし無理やり連れ去ろうとするなら、警察に通報される覚悟でいてね!」悟は体が鉛のように重くなり、突然ひどく疲弊感を感じた。「じゃあ、私にどうしてほしいんだ?」悟は力なく尋ねた。「死んでほしい!」紀美子の声は冷たく、なんの感情も見えなかった。「天国に行けないような死に方を!」「そうすれば、君は私を許してくれるのか?」悟は苦笑した。「それで許せると思う?」「君が許してくれるなら、私は何でもする!」「そう?」紀美子は嘲るように笑った。「じゃあ、私の母と初江さん、それに朔也の命を返してよ。できたら許してあげる。どうなの?」「……つまり、君の許しは得られないのか」悟の表情は完全に暗くなった。「わかってるでしょう?悟、みっともない死に方をしたくなければ、今すぐ私を帰らせなさい!」「できない」悟の声は次第に弱くなっていった。「君だけは、死ぬまで手放す気になれない」「往生際が悪
悟は唇を強く結んだ。「ほら、私が提案したって無駄でしょ?あんたの結末はもう決まってるわ」「それでも、紀美子を諦めない」悟は立ち上がった。「三日あれば、全てを整えて彼女を連れていける。たとえ手下はいなくとも、金さえあれば何とかなる!」その最後の言葉に、佳世子の背筋が凍った。悟は、三日もあれば莫大な資金で逃亡経路を確保できる!「目を覚ましてよ!あんたに紀美子を連れ出せるはずがない!」佳世子は叫んだ。「道は二つだけだろ?」悟は、そう言い残すとドアを開けて出て行った。佳世子は急いでベッドから飛び降り悟を追いかけようとしたが、屈強な男に阻まれた。力づくでは無理だと悟ると、彼女は不貞腐れてベッドに戻った。一方、別の部屋では——悟はまだ眠っている紀美子の寝室に入った。ベッドの縁に座り、悟は彼女の整った顔に見入った。彼は手を伸ばし、そっと頬に触れて髪をかきあげた。「紀美子」悟は嗄れた声で呼びかけ、目に優しい眼差しを浮かべた。「五年前と何も変わっていないな。もしもっと早くこの気持ちに気づいていたら、全てが違っていただろうか?一歩踏み出していれば、今頃君は私のものになっていただろうか?」悟は声が震え出した。「負けを認めたくないが、これが現実だ。私は全てを失ってもいい。ただ……側にいてくれないか?」涙が紀美子の手の甲に落ちたのを見て、悟は慌てて拭いた。彼女には、まだ目覚めてほしくなかった。ただ静かに傍にいてくれればいい。冷たい言葉を浴びせなければいい。そう考えると胸がさらに締め付けられ、悟は涙を堪えれなかった。彼は手を引くと、シーツを強く握りしめた。その時突然、ドアがノックされた。悟は急いで涙を拭い、深く息を吸って顔を上げた。「入れ」「社長、我々のIDが特定されました!ここは時期に探知されます!」大河が慌てた様子でタブレットを持って入ってきた。「静かに」悟は唇に指を立て、紀美子の方を見た。「起こすな」大河は眠っている紀美子、そして悟の赤い目に気づいた。「社長、なぜこんな女のために危険を冒すのですか?馬鹿げています!」「お前も愛する女ができたら、きっとこの気持ちがわかるだろう」悟は静かに言った。大河には、今逃げなければ終わりだという
「馬鹿な真似はよしてよ!」佳世子は再び激怒した。「晋太郎が逃がしてくれると思う?寝言は寝てから言って」「不可能だと分かっているからこそ、君に頼んでいるんだ」悟は静かに答えた。「何で私が親友を裏切り、あんたのような悪者を助けなきゃいけないの?私の両親の命でもかけて脅すつもりなの?バカバカしい。あんたに手を貸す人なんて、もう誰もいないわ!」佳世子の言葉に、悟は無力感を感じた。「ああ、今の私には、もう紀美子しか残っていない」声を落として彼は言った。「そんな情に訴えても無駄よ。あんたは紀美子を撃ったのよ。忘れたの?彼女は、あんたの卑劣な手口のせいで飛び降り自殺しそうにもなったよね?」「嫌だ、死んでも絶対に協力しないわ!」「こうなることは分かっていた」悟は前かがみになり、肘を膝につけてうつむいた。「私は完全に敗北した。しかしまだ生きたいんだ」「生き延びてどうすんの?あんたのような悪魔は早く地獄に落ちてくれればいいのに」佳世子は罵った。「今の私が生きる唯一の希望は、紀美子の人生を見届けることだ」悟は言った。「何それ?」佳世子は問い詰めた。「好きな人を利用して、自分の人生の心残りを埋めようとしてるの?」悟は黙り込んだ。複雑な感情が佳世子の胸をよぎった。悟は確かに悪だが、その境遇は憐れでもあった。だが、そんな感情で人を傷つける権利などない!「もしあんたにまだ良心が残ってるなら、私と紀美子を帰しなさい。あんたはもう昔の力を完全に失ったのよ。それに、紀美子の子供たちがどれほど優秀かも知ってるでしょ?ここもいつか必ず晋太郎に見つかるし、その時のあんたの末路は言うまでもないわ」「一度始めたことはもう引き返せない」悟は目を上げて断言した。「死ぬか、紀美子を連れて行くかだ」「どうしてそんな極端な考え方しかできないの?」佳世子は眉をひそめた。「私に他に道があると思うか?」悟は自嘲的に笑った。「捕まれば獄死、見つかれば殺される。そうだろう?」それを聞いて、佳世子の胸は苦しくなった。昔仲が良かった頃のことを思えば思うほど、言葉は重くのしかかった。「悟、本当のことを教えて」佳世子は真剣な眼差しで悟を見つめた。「後悔しているかどうか聞きたいんだろう」
「念江がファイアウォールを突破したIDを特定してからでないと追跡できない」佑樹は小さな眉をひそめて説明した。「30分くれ。長くても30分で特定できる!」念江は言った。30分は長くないが、今は一分一秒が耐えがたいほど長く感じた。十数分経った頃、念江は極度の緊張で鼻血を出してしまった。周りの者は皆、念江の様子に胸を締め付けられた。だが念江は気に留めずに手で鼻血を拭うと、再びハッキングに集中した。「心配しないで。お医者さんに、回復期に時々鼻血が出るのは正常だと言われてるんだ。お母さんが見つかったら少し休めばいい」念江の説明を聞いて、皆はやや安心した。ちょうど29分経った時、念江はエンターキーを叩いた。「よし、IDを特定した。佑樹、後は任せた」「君は休んでおいて。残りは僕がやる」念江は青白い顔でうなずき、椅子にもたれかかった。晋太郎は彼の小さな体を抱き上げた。「父さん、大丈夫…」念江は疲れた目を開いた。「暫く休め。何かあればすぐ知らせる」晋太郎は息子をベッドに運びながら言った。「うん…」わずか数時間で、晴の顔には疲労の色が濃く出ていた。「何だか最近、自分が子供たちにすら及ばないのではないかと不安になるんだ」晋太郎が寝室から出てくると、晴は自嘲気味に笑った。「お前が役に立ったことなどあったか?」晋太郎は冷たく見下ろした。「まあ……そうだな」晴は言葉に詰まった。「唯一の長所は一途なことだな」晋太郎は軽く一言を付け加えた。「確かにその通りだ。俺の心には佳世子しかいない」晴は頭をかいた。一方、別の場所では——悟は、意識を失っている紀美子を以前滞在していた民宿に連れ込んだ。そこのボディガードは既に全員が撤収しており、最も安全な場所だった。佳世子は紀美子とは別の部屋に閉じ込められていた。悟は紀美子の布団を整えてから、佳世子の部屋に向かった。佳世子のベッドの横に座ると、悟は彼女の手を掴み、特定のツボを強く押した。すると、佳世子はパッと目を開いて、そして反射的に手を引っ込めた。見慣れない景色を見て彼女は慌てて起き上がり、ようやく隣に人が座っていることに気付いた。悟と目が合うと、佳世子は眉をひそめた。「悟!やはりあんただったのね!」
その時、晋太郎もボディガードからの連絡を受け取った。隅々まで探したが、結局紀美子と佳世子の姿は見つからなかった。警察もすぐに到着し、ホテル全体を捜索し始めた。それでも、二人が見つかることはなかった。その報告を聞いた晋太郎は、怒りで窓ガラスに拳を叩きつけた!ガラスの割れる大きな音に、佑樹と念江は体を震わせた。二人はそのまま、手から血を流しながら震える父を驚いた表情で見つめた。父に何を言っても無駄だということも分かっていたため、ただ歯を食いしばった。「悟の仕業だ」晋太郎は険しい表情で窓際に立った。ここまで完璧に痕跡を消せるのは、奴しかいない!今、彼を悩ませているのは、悟が紀美子たちをどこに隠したかということだ。奴の勢力はもう完全に潰したはずだが、今最も恐れているのは、奴が紀美子を連れて完全に姿を消すことだった。そうなると、大海原で針を探すようなもので、手がかりすらつかめないだろう。晴が事情聴取を終え警察署から戻ってきても、子供たちはまだパソコンを操作していた。晴はソファに崩れ落ち、頭を抱えてうなだれた。「くそっ!!!絶対に悟だ!!あいつに違いない!!晋太郎、何とかして二人を助けてくれ!悟は紀美子を傷つけないかもしれないが、佳世子は殺されるかもしれない!」晴は晋太郎に助けを求めた。「分かってる!既にあの辺りに配置していたボディガードを引き上げさせた。これからは山と町内を徹底的に調べさせる!美月も動き出している!」晋太郎は歯を食いしばりながら言った。「お父さん、相手の車のナンバーは分かる?正確な情報があれば、もっと早く調べられる!」突然、佑樹が振り返って言った。晋太郎は直ちに美月に電話をかけた。通話が繋がると、美月が話す前に佑樹が切り出した。「美月さん、悟たちの車のナンバーって分かる?」「分かるわ」美月は答えた。「9000だけど、あっちの技術者が、通った場所の監視カメラの録画データを全て消してるわ」佑樹は念江を見た。「念江、ダメなら先生に頼ろう!できるだけ早く母さんと佳世子さんを見つけないと」「わかった、今電話する!」念江は言った。隆久はすぐ電話に出た。念江が状況を説明しようとした時、電話の向こう側からマウスボタンのクリック音が聞こえてきた。
晴の言葉には耳を貸さず、晋太郎はドアを勢いよく開け、再び佳世子の携帯に電話をかけた。晴が後を追うと、廊下のどこかから佳世子の着信音が聞こえてきた。晋太郎の張り詰めた雰囲気に飲み込まれていた晴だったが、この音を聞いた途端、緊張が一気に和らいだ。彼は晋太郎の腕を軽く小突きながら、冗談めかして言った。「ほら!着信音が聞こえるじゃないか!二人はここにいるに決まってる!まったく、悪戯に引っかかるところだったぜ!見つけたらこっぴどく叱ってやるからな!」しかし、晋太郎の表情は微動だにしなかった。むしろ、その冷たさが次第に険しさへと変わりつつあった。彼は着信音の方向を追い、エレベーターの前で静かに地面に落ちている携帯を見つけた。派手な黄色いケース、それは、佳世子がずっと使っていたものだった。晋太郎が大股でエレベーター前に進むと、まだ状況を把握していない晴もついてきた。着信音が近づくにつれ、晋太郎が身をかがめて携帯を拾い上げると、晴は雷に打たれたように固まった。「佳世子の……携帯!?」晴は慌ててそれを掴んだ。「なぜここに!?」晋太郎は危険な光を宿した目を細めた。「お前はフロントに行け、紀美子と佳世子を見た者がいないか確認しろ。俺は子供たちの元へ行く」晴は事態の深刻さを悟り、すぐにエレベーターのボタンを押して下に向かった。ロビー階に着くと、晴は真っ先にフロントに駆け込み、カウンターに立つ二人のスタッフに尋ねた。「さっき、ポニテールと黒髪カールの女二人が来なかった?二人とも一六八センチくらいで……20分以内のことだよ!それとも誰かが彼女達を連れ出しているの見なかったか!?」スタッフは顔を見合わせた。「お客様、落ち着いてください。何が起こったので……」「時間がないんだ!!」晴は叫んだ。「監視カメラを確認しろ!人が消えたんだ!何が起こったかわかるだろ!?」スタッフは急いで監視カメラの映像を調べ始めた。だが、画面が真っ黒になっているのを見た瞬間、スタッフは硬直し、ゆっくりと立ち上がった。「……監視カメラが、全部ブラックアウトしています……」「クソッ!」晴は怒りに任せてカウンターを拳で叩きつけた。「今すぐ早く通報しろ!」「お客様!」もう一人の男性スタッフが割って入った。
紀美子は思わず額に手を当てた。佳世子のこの仕草は、もうメールを送ったと認めるようなものだった……「送ってようが送ってまいが、今日は二人とも我々について来てもらう」二人は恐怖で目を見開いた。「あんたたち何者!?」紀美子は素早く佳世子を背後に引き寄せた。「ここは監視カメラがあるわ。賢いなら手出しはよしなさい!」「監視カメラって、これかい?」細身の男が不意に携帯を掲げた。その画面には、ちょうどエレベーター内にいる四人の姿が映し出されていた。すぐに、画面が一瞬フラッシュして、監視映像は真っ暗になった。佳世子の足は震えが止まらなかった。「お二人さん、誘拐なんて考えないで!お金ならいくらでも出すわ!倍でも!3倍でもいいから!」「金はいらん」細身の男が言った。「ただ命令に従っているだけだ」「命令……」紀美子の脳裏にある人物が浮かび、慌てた表情が徐々に冷静さを取り戻した。「悟なのね?」細身の男は薄笑いを浮かべた。「誰かは、入江さんが眠った後でゆっくり考えてくださいな」ちょうどその時、エレベーターが「チーン」と音を立てて到着した。ドアが開くやいなや、紀美子は佳世子の手首を強く握り、外へ飛び出そうとした。しかし、がっしりとした男は一瞬で腕を伸ばし、紀美子の襟首を掴んだ。紀美子は必死でもがき、廊下に向かって叫んだ。「晋太郎!助けてっ!んっ……」佳世子もすでに細身の男に掴まれ、口を塞がれて全く声を出せなかった。顔にかけられたハンカチが、二人の意識を徐々に曖昧にし、身体も次第に力を失っていった。その頃、客室の中で。晴が晋太郎の部屋のソファーにだらしなく寝転がり、あくびをしながらぼやいていた。「佳世子たち、まだ戻ってこないのかよ……女ってどうしてこんなに元気なんだ……」晋太郎は腕時計をちらりと見て、顔を引き締めた。「もう一度電話してみろ」「お前がかけろよ……」「俺がお前の妻に電話するのが妥当だと思うか?」晋太郎が眉をひそめた。晴は慌てて起き上がった。「俺はかけないぞ!佳世子が買い物中に電話すると、帰ってきてから延々説教されるんだ。特に紀美子と一緒の時は!」晋太郎が不満げに睨みつけた。「俺がどれだけメール送ったかわかってるのか?」「だから
紀美子は驚いた表情で彼女を見つめて尋ねた。「何を見たの?そんなに驚いて?」佳世子は携帯を紀美子に向けた。「森川社長、あなたが見つからないから私にメッセージを大量に送ってきていたわ。20通以上も送ってきて、私から返信が来ないから、最後に電話してきたのよ」紀美子は画面をじっと見つめ、やがて「ぷっ」と笑いだした。「我慢できなくなって電話してきたってこと?」佳世子は眉を跳ね上げた。「あら、二人仲良くやってるみたいね」「ええ!」紀美子は率直に認めた。「彼、記憶を取り戻したの」「彼が言ったの!?」佳世子は驚きの声を上げた。「いつのことよ?」紀美子は微笑みながら首を振った。「言わなかったけど、きっと気付かずに口を滑らせたのよ。昨日のことだったわ」「まさか……」佳世子は手で口を覆いながら驚いた。「もしかして私たちの昨日の会話を聞かれて、男の本性に火がついたとか?」紀美子は耳元がほんのりピンクになった。「多分……そうかもね……」「よかったわ、紀美子!」佳世子は本当に嬉しそうに言った。「でも彼は自分からはまだ言ってないから、あなたも黙ってて。どれだけ我慢できるか見てみましょう!」「わかってる」紀美子はふと、晋太郎が時々本当に子供っぽいと感じた。1時間後。紀美子と佳世子が再び山頂に到着すると、車が停まる前にまたもや紀美子のまぶたが痙攣し始めた。彼女はドアを開ける手を止め、左目を押さえた。佳世子が身を乗り出した。「どうしたの?どこか具合悪いの?」紀美子は指でまぶたを押さえながら言った。「大丈夫、またまぶたがピクピクしてるだけ」「左目……」佳世子は考え込み、舌打ちした。「それ、不吉よ!」紀美子は呆れたように彼女を見て言った。「佳世子、そんなこと言わないで、余計に怖くなるから」「きっと寝不足なのよ。早く部屋に上がって寝ましょう」「ええ」二人は車を降り、ロビーへ向かって歩き出した。車内から紀美子と佳世子の姿を目撃していた悟の視線は、紀美子の後ろ姿に釘付けになっていた。あの優しげな眼差しは、今や紀美子に対してだけに注がれていた。大河が振り向いて尋ねた。「悟様、あちらです。どういたしましょうか?」「周辺の地形は確認済みか?
車はくねくねとした山道を下っていた。佳世子は真っ暗な周囲を見回しながら言った。「紀美子、この山道街灯ひとつないわよ。怖くない?」紀美子は軽く笑った。「大丈夫よ。ボディーガードも同乗してるんだから、何か出てくるわけないでしょ?」佳世子は自分の腕をさすった。「こういう環境苦手なの。空気は確かに美味しいけど、わざわざこんな高い所まで来て休暇を過ごそうなんて思わないわ」紀美子はカバンから子供たちのために準備していたプリンを取り出し、佳世子に手渡した。「このホテル、評判が結構いいし、有名人もたくさん来る場所だよ。嫌だと思ってるのは多分あなただけ。甘いものでも食べて気分を落ち着けて。生理のせいで気分が悪いんじゃない?」佳世子がそれを受け取り、包装を開けて食べようとした瞬間、目の前に白いヘッドライトが飛び込んできた。次の瞬間、対向車が彼らの車の横を疾走し過ぎ去っていった。佳世子はその車を見送りながら呟いた。「こんな夜中の三時とかに、誰が山に上がるのよ……」紀美子は何気なく言った。「日の出を見に来たんでしょう。ここは撮影スポットとしても有名だし」「私なら睡眠時間削ってまで日の出なんて見ないわ。仕事でクタクタなのに」紀美子が笑いかけたその時、まぶたがぴくっと痙攣した。胸の奥を一瞬、不安がかすめた。儚く消え去ったが、それでもどこか気味の悪さを感じずにはいられなかった。紀美子は他のことを考えることなく、運転手に向かって言った。「少しスピードを落として、カーブが多いし、道も暗いから、安全第一で」「わかりました」速度が緩むと、紀美子はようやく少し落ち着いた。20分後、紀美子と佳世子は山のふもとに到着した。佳世子と一緒に生理用ナプキンを買い終わった後、紀美子は急いで山に戻るつもりはなかった。町の携帯電話店が開店するのを待って、そこで携帯を買ってから戻るつもりだった。そして、せっかくの機会なので、地元の朝食を試してみることにした。朝の6時半。紀美子と佳世子は小さな町をひと回りして、ようやく気に入った朝食店を見つけ、腰を下ろした。食事を終え、紀美子は店主に尋ねた。「すみません、この辺りに早く開く携帯電話店ってありますか?」「携帯を買うのか?」店主はお好み焼きを焼きながら言