結城理仁はスーツを脱いで、彼女に渡した。「これも夢の世界に持って行ったら」今は車の中にいて海風に吹かれる心配もないから、内海唯花は遠慮せずに彼のスーツを受け取り、それを体に羽織って夢の中に入っていった。結城理仁は彼女の睡眠の妨げにならないように車の音楽を切った。彼は黙って車を運転し、彼女は静かに眠りにつき、何か夢でも見ているうちに、彼らはやがてトキワ・フラワーガーデンに到着した。ボディーガードたちはマンションの下を巡回していた。この日の夜はずっと彼らの視界から結城理仁は離れていた。清水がペットたちを連れて帰ってきた後、自分たちの主人が妻を連れてドライブに行ったとわかり、ボディーガードたちは少し焦っていた。しかし、その中の一人も主人に連絡しようとはしなかった。夫婦二人だけの時間を邪魔してはいけないと思ったからだ。そしてこの時、結城理仁の車が戻ってきたのを見て、ボディーガードたちは女主人に気づかれないように、それぞれ急いで四方に散らばっていった。特に七瀬に関しては、消えるスピードが相当速かった。焦りすぎて危うく緑地帯に突っ込んでしまうところだった。なぜなら、女主人は彼のことを知っているからだ。ボディーガードたちのその動作を結城理仁は見て見ぬふりをした。内海唯花はかなり大雑把で細かいことを気にしない性格だ。もしそうでなければ、彼らが毎日毎日マンションの下で徘徊していて、すぐに彼女はおかしいと気づくことだろう。車を駐車し、結城理仁はシートベルトを外しながら「内海さん、家に着いたよ」と彼女を起こした。内海唯花はぐっすり寝入っていて、彼が呼ぶ声が聞こえていないようだ。たぶんビールを二本飲んだせいだろう。結城理仁は彼女を二度揺さぶってみたが、それに合わせて彼女の体も左右に揺れるだけで、まったく起きる気配がなかった。「ビール二本でここまで熟睡できるとは。今後はやっぱりあまり酒を飲ませてはいけないな」結城理仁はこれも運命かとあきらめ、車を降りて助手席のほうへ行きドアを開けた。上半身車の中に入り、彼女のシートベルトを外してあげると、彼女の体を自分の懐まで持ってきて、抱き上げる形で車から降ろしてやった。四方に遠く散らばっていたボディーガードたちだったが、みんなこのシーンを目撃していた。それぞれ手で目をこすっていた
思い立ったが吉日。結城理仁は今まさに内海唯花の部屋にいる。簡単にこそこそと引き出しや棚の中を探すことができる。暫くの間、彼女が隠すであろう場所を探し回ったが、彼女の分の契約書は見つからなかった。彼女は一体どこになおしているんだ?結城理仁はドレッサーの前に立ち、ドレッサーを見つめ自分があと探していないのはどこだろうと考えていた。すべての引き出しは、もう開けて探してみた。最後に、彼はテーブルの上に置かれた髪飾りの絵が描かれた紙に視線を落とした。彼はその紙を手に取った。内海唯花のスケッチはとても綺麗だった。彼女は髪飾りの絵を描いてどうするつもりなのだろうか?結城理仁は内海唯花が髪飾りのスケッチをしてどうするつもりなのかわからなかった。彼がその紙を裏返してみると、その面はまさに彼が今探している契約書だった。彼女はなんと契約書の紙の裏面にスケッチをしていたのだ。だから彼が引き出しや棚を探しても、どうしても契約書が見つからないわけだ。結城理仁は内海唯花の契約書を折りたたみ、ポケットの中に押し込んだ。そして、ベッドのところまで歩き、端に腰かけて唯花の寝顔を暫くの間見つめ、手を伸ばし彼女の頬を軽くつねった。すると、口角を上げ不敵な笑みを浮かべた。「内海唯花、君は一生、この俺だけのものだ!」おばあさんがもしこの場にいたら、彼に一発お見舞いすることだろう。なにが自分から妻を好きにならないだ。今こっそり契約書を探しているのは一体どこのどいつだ?結城理仁は内海唯花の契約書を盗むのに成功した後、上機嫌で彼の部屋に戻っていった。そして、自分の分の契約書を取り出し、ライターを持ってトイレに身を潜めると、二人分の契約書に火をつけ燃やしてしまった。そしてその燃えカスをトイレにきれいさっぱり流してしまった。内海唯花が時間を巻き戻す能力がない限り、一生あの契約書を見つけることができなくなった。……佐々木唯月が目を覚ました時、すでに夜中の十二時だった。彼女はまだお風呂に入っていなかった。本当は息子をあやして寝かしつけてから、起き上がって風呂に入るつもりだったのだが、自分も一緒に寝てしまったのだ。目が覚めてようやく自分がまだお風呂に入っていないことを思い出した。彼女は起き上がり、まずは部屋を出て玄関を確認しに行き、まだ内
佐々木唯月の頭の中は一瞬にして真っ白になった。まさか電話に成瀬莉奈が出るとは思っていなかったのだ。すぐに、彼女は携帯を耳から離し、通話の内容を録音し始めた。義弟が友人に頼んで佐々木俊介の不倫の証拠を集めてくれたのだが、彼女にそれは佐々木俊介が精神的な浮気をしている証明であるだけで、二人は実際には体の関係になってはいないと教えてくれていたのだ。この時、あのクズ男と女狐はきっと一緒にいるはずだから、佐々木唯月は録音しようと思い立ったのだ。「あなたは誰?」彼女のその沈黙は電話の向こうの成瀬莉奈をつけ上がらせるのに十分だった。唯月は台本にあるかのように話を進めることにした。佐々木俊介が浮気をしていると知った後、彼女が天地を揺るがすほど大騒ぎすれば、佐々木俊介はそれに嫌気をさして、息子のことなど、どうでもよくなり、彼女と離婚すると言うことだろう。もし彼女が泣きも喚きもしなければ、佐々木俊介たちは彼女が離婚を望んでいると思い、逆に彼女を引き留めて、時間稼ぎをするだろう。「私は俊介の秘書の成瀬莉奈ですけど、そういうあなたはどちら様?」成瀬莉奈はわかっていてわざとそう聞き返した。「私が誰かですって?私は彼の妻ですけど!俊介はどこ?あんた達今どこにいるの、何をしているのよ。俊介を電話に出させて!」佐々木唯月はそう言いながら喚きだした。聞いた人に彼女がとても怒っていると思わせるような様子だった。彼女のその怒りが成瀬莉奈を勝った気にさせた。成瀬莉奈は電話を切らず、ただこう言った。「言ったでしょ、俊介は今シャワーを浴びてるって。そんなに早く出てこないわよ。俊介はあなたに、今夜は接待があるって言わなかった?私は彼の秘書だもの、もちろん彼と一緒に接待に行ったのよ。私たち、お酒を飲んだから、車の運転ができなかったの。俊介がホテルの部屋をとってくれて、お酒が抜けたら帰る予定だったの。まさか奥さんがこんな夜更けに電話して探りを入れてくるなんてね」成瀬莉奈のその最後に放った言葉は、どうも嫌味が含まれている。「運転代行がたくさんあるでしょ。呼べばすぐ来て家まで送ってくれるんじゃないの?どうしてわざわざホテルに泊まる必要があるの。あんた達、私に隠して何かやったんじゃないでしょうね。成瀬とか言ったわね、あんた、言いなさい!正直にいいなさいよ
彼女が息子の世話をしなければならないと知っていて送ってきたのだ。この時間は確かに息子を一人で家に残し、ホテルまで行って浮気現場を押さえることなどできない。妹に電話しようか?佐々木唯月は悩んでいた。こんな時間に妹にお願いする?少し躊躇った後、唯月はこれは佐々木俊介の浮気現場を押さえるチャンスで彼女に有利になるのではないかと思った。それで、彼女は内海唯花に電話をかけた。内海唯花はビール二本飲んで熟睡してしまい、結城理仁に抱きかかえられて家まで連れて帰ってもらうほどで、電話に気づかなかった。佐々木唯月が電話をかけてきて、唯花の携帯が何度も鳴っていた。そして、ようやく彼女は夢の世界から現実世界へと戻ってきた。携帯を掴み、彼女は誰からの着信か確認することなく電話に出た。「もしもし、どなたですか」「唯花、私よ、お姉ちゃんよ」「お姉ちゃん、どうしたの?」ようやく我に返った内海唯花は姉が今日クズ夫に離婚を叩きつけると言っていたことを思い出した。それで夫婦が喧嘩したのだと勘違いし、眠気が一気に吹っ飛んだ。勢いよくベッドから起き上がると急いで尋ねた。「お姉ちゃん、どうしたの?まさか佐々木俊介の奴がまた暴力を振るってきた?」「あいつ家に帰ってきてないの。接待があるって言ってて、夜遅くにしか帰れないって。だけど、もうすぐ一時よ、それでもまだ帰ってきてないの。だから、私、あいつに電話をかけたのよ。それで電話に出たのは、あの成瀬莉奈って女だったわ。あの人たち今一緒にホテルに泊まってる」「お姉ちゃん、あいつらの浮気現場を押さえに行きたいのね?」やはり実の妹、内海唯花はすぐに姉の考えを見抜いた。「泥棒を捕まえるためには足跡を、浮気現場を押さえるには二人でいるところを確かめよって言うものね。どちらにせよ現場を取り押さえれば、私も胸を張って離婚を叩きつけられるわ」「お姉ちゃん、あいつらがどこにいるかわかる?」「わかるわ。成瀬って女、相当調子に乗ってるみたいよ。ホテルの住所を私に送ってきたの。唯花、私がホテルに行ってくる。あなたはうちに来て陽を見ていてくれないかしら。私が出かけてる間に陽が起きて私がいないと驚いて泣いちゃうから」「お姉ちゃん、私も一緒に行く」「大丈夫よ」「お姉ちゃん、あいつらは二人で、お姉ちゃんは一人で行
内海唯花はそう言いながら自分のキーケースから一本の鍵を取り出して結城理仁に手渡した。「これはお姉ちゃんの家の鍵よ」結城理仁の黒い瞳が瞬いた。佐々木俊介が接待だったことを彼は知っていた。彼が九条悟に佐々木俊介の不倫の証拠を集めさせた時、噂好きの九条悟はその証拠を提出した後、どうもまだ百点満点とは思えず、納得がいかなかったので、裏でこっそりと佐々木俊介を監視していたのだ。それで、佐々木俊介が会社を出てからの一挙一動は、九条悟にすべて把握されていたのだった。夜、結城理仁が内海唯花に付き合って海辺に行っている時、隙を見て九条悟にメッセージを送り、チャンスを狙って裏で佐々木俊介と成瀬莉奈の関係がもっと進むように手を回していたのだ。佐々木俊介が完全に家庭と結婚生活を裏切っていることを実証するために。佐々木唯月が離婚を切り出す時、倫理的観点からも優位に立つことができる。今佐々木俊介と成瀬莉奈は一緒にいる。これは彼ら二人が自然の成り行きでそうなったことなのか、それとも結城理仁の裏工作による結果なのだろうか?結城理仁はすぐにはその答えを出せなかった。しかし、どちらにしても結果は同じだ。「君は彼らがどこのホテルにいるかわかる?」「お姉ちゃんが教えてくれないの。私には来るなって」内海唯花はどうしようもなかった。姉に彼女の助けが必要な時に、姉のほうは彼女を遠ざけ、自分でどうにかしようとしている。「俺のあの情報通な友人に連絡して、調べてもらうよ」「こんな夜中に……」「問題ない。いつかあいつにご馳走してやればいいから」それなら九条悟に一日休暇をあげれば済む話だ。「内海さん、出かけないで、ここでちょっと待ってて。それから、君の車の鍵を一緒に渡してくれ、清水さんに起きてもらって、義姉さんの家に行って陽君の面倒をお願いするから。俺は君と一緒に君の姉さんのところに行く」結城理仁はそう内海唯花に言うと、彼女が車の鍵を取り出すのを待って、それを受け取り家の中に入っていった。清水の部屋のドアをノックする時、彼は九条悟にも電話をかけた。九条悟は夜更かしをするのが好きなので、遅くに寝て朝も遅くに起きる。なにか面白いことがあれば、早めに会社に出勤してくるのだが、それがなければ、彼は結城理仁よりも遅く出勤してくる。結城理仁から電話がかか
結城理仁は玄関の鍵をかけた後、内海唯花の手を引き、歩きながら言った。「友達に調べてもらった。君の義兄はマニフィークホテルという神崎グループ傘下のホテルにいるらしい。俺は結城グループで働いていて、この二つの会社は犬猿の仲だから、神崎グループの社員に俺だとばれては困る。それで黒ペンで書いたんだよ。これなら、俺だって気づかれないだろう」内海唯花は彼の顔に描かれた先天母斑を何度も見た。切迫した状況の中で、彼はこのような細かいところにも考えが回るようだ。このように細かいところまで考えが及ぶ人だから、結城グループという大企業でエリートをやれるわけだ。内海唯花は今おばあさんが言っていたことを信じられた。おばあさんは当初、彼女の前で結城理仁のことをべた褒めする時に言っていた。結城理仁はとても細かいところに気がつく人間だと。当然、彼が心から優しくしようと思った時に、彼のその細かい気配りが至る所でお目見えするのだ。「後で帰ってきたら、水と石鹸でしっかり洗ってね」内海唯花は本屋兼文房具店を営んでいるから、皮膚についたペンのインクの落とし方をよくわかっているのだ。正直に言うと結城理仁は帰ってきたら、内海唯花に顔についているインクを落としてもらいたいと思った。その言葉が口元まで来て、彼はまたそれを吞み込んでしまった。そんなことを言う勇気がなくて、口に出せなかった。そんなことではおばあさんから「あんたその口はなんのために付いているのよ?言いたいことははっきり言いなさい!」と言われることだろう。九条悟なんかは「ボス、怖がらずに堂々と口にするんだ!」と言うはずだ。内海唯花夫婦と清水のほうは急いで行動を開始していた。一方、成瀬莉奈のほうはというと、佐々木唯月からの電話を切った後、浴室のドアをノックしに行った。佐々木俊介がドアを開けると、彼女はその中に入っていった。暫くしてから、二人は浴室から出てきた。彼女は佐々木俊介に抱きかかえられて出てきた。その美しい顔には恥じらいの色がにじみ出ていて、バカでも彼らが浴室の中で何をしたのか想像に難くない。キングサイズベッドに横になり、佐々木俊介の胸に抱かれた成瀬莉奈は突然口を開いた。「俊介、言うのを忘れてたけど、さっき奥さんから電話がかかってきて、さっさと家に戻って来いって怒鳴り散らしていたわよ。私が
成瀬莉奈は佐々木俊介の胸に寄りかかり、甘えた声で言った。「俊介、ごめんなさい。電話に出るべきじゃなかったわ。彼女が何かあなたに急用があるのかと思って、うっかり出ちゃったの」「いいんだ、どうせいつまでも隠し通せることじゃないし、遅かれ早かれあいつには教えることだったんだ。伝えるタイミングを見定めるより、成り行きに任せたっていいや。あいつが疑ってるってんなら、帰って直接、正直に話してくるよ」佐々木俊介が成瀬莉奈を悲しませるような真似をするはずがない。彼の心はだいぶ前から成瀬莉奈に寄っていて、唯月にはまったく愛情の欠片も残っていなかった。しかし、両親と息子のことを考えて、ずっと我慢していたのだ。そうでなければ、唯月のことなどとっくの昔に追い出していたところだ。「俊介、もしあなた達が離婚するなら、あの女があなたの財産を半分持って行くってことになるの?」成瀬莉奈は佐々木俊介の財産の半分を佐々木唯月に持って行かれるのは嫌だったのだ。彼女は唯月には何一つ渡すことなく、裸同然で去って行かせたかった。佐々木唯月が仕事を辞めてから数年、子供もまだ小さく、2歳過ぎだ。彼女がまた職場復帰したくても、恐らくそれは難しいだろう。離婚して何もかも失った後、成瀬莉奈は唯月のどん底に落ちぶれた様子を拝むことができるのだ。もしかしたら、唯月は子供を背中におぶって、街中で乞食になっているかも。佐々木俊介は冷たく笑って言った。「あいつがよこせと言っても、俺が大人しく渡すと思うか?結婚してから、あいつはこの家のために一円だって稼いでないんだ。家は俺が結婚前に買った財産だし、結婚してからも俺がローンを返してきた。だから、あいつにこの家を分けてやることなんかないよ。あいつは家のリフォーム代をちょっと出しただけだ。どのみち俺はそのリフォーム代もあいつに払ってやる気はない。もし欲しいんだったら、内装の壁紙でも剥がして持ってけばいいんじゃね?俺の貯金は……」彼が部長になったのも、ここ二年のことだった。収入は以前と比べて何倍にもなってはいたが、普段の出費も増えている。それによく成瀬莉奈に高価な物を買ってプレゼントしているので、彼は稼いだ分からそんなに貯金していなかった。ただ三百万前後といったところだろう。しかし、彼の副収入のほうは多かった。その副業で稼いだお金は、会社
佐々木俊介は成瀬莉奈の耳元で低い声で何かを囁き、彼女は瞬時に満面の笑みになった。彼が機転が利く人間でよかった。この時、成瀬莉奈は安心した。彼女が彼と結婚したら、絶対に幸せな生活を満喫できる。もちろん彼女は自分を守る必要がある。彼と結婚した後、彼の給与が振り込まれる銀行カードを管理しなければ。彼は結婚後は家の不動産権利書に彼女の名前も加えると約束していた。自分の望みは全て実現させてもらう。とりあえず、彼女は絶対に佐々木唯月のような惨めな境地にはなりたくないのだった。「唯月に財産を渡さずに追い出すことは、実はとても簡単なんだ」「どうするの?」佐々木俊介の貯金は大した金額ではないが、できれば一円たりとも唯月に分けたくなかった。唯月に渡さなければ、そのお金は全部成瀬莉奈のものになるのだ。「彼女に財産の分与か陽の親権か、どちらかを選択させれば、あいつは必ず陽のほうを選ぶから、一円も渡さず追い出せるさ」成瀬莉奈はそれをきいてとてもがっかりして彼に言った。「あなた、息子の親権を放棄できるの?あの子は佐々木家で唯一の内孫でしょう。あなたがそうでも、昔の考え方であるご両親は納得しないと思うわよ」佐々木俊介「……陽は俺の子だ。もちろんあきらめたりしないさ」成瀬莉奈は甘えた声で言った。「だったら、なんでさっきみたいなこと言ったのよ」佐々木俊介は彼女にキスをして言った。「俺たちさ、早く……君が妊娠して男の子だったら、俺の父さんも母さんも喜んであいつに陽を渡すよ」この時、彼と成瀬莉奈はまだ体の関係を持ったばかりだった。成瀬莉奈はその後、ピルを買いに行って飲んでいて、そんなに早く子供を作る気がないのははっきりとしていた。今のところ彼には陽という息子だけで、佐々木俊介は一昔前の男尊女卑的な考え方を持っていた。だから、どうであれ、彼も陽を唯月に手渡す気などなかった。陽は生まれつき容姿もよく、聡明で可愛い。彼と成瀬莉奈が結婚して産んだ子供がどんな子供なのかは誰にもわからない。佐々木俊介もそんな危険を冒そうなどと考えてはいなかった。もし、成瀬莉奈が産んだ子供が女の子だったらどうする?だから、陽は絶対に彼のもとにいなければならない!「私が女の子を産んだら嫌だって言うの?」「そんなんじゃないさ。君が産んだ子なら俺は大好きだよ。でも、うちの
暫く彼に見つめられて、内海唯花はようやく何かを悟り、彼に探るように尋ねた。「結城さん、あなた、もしかして私に顔を洗ってもらいたいとか考えてるんじゃないよね?」「俺は君を助けるために、こうやって顔を黒く塗ったんだけどな」それはつまり、これを洗い流すのは彼女の役目だということだ。内海唯花は口をぽかんと開けて、何も言えなくなった。彼女はなんだかこの男が少し恥もなく、だだをこねるようになってきたと思った。「わかった、私が洗ってあげるわよ。まったく何が私を助けるために顔を黒く塗ったよ。むしろもうその顔全部黒に塗りたくって、まっくろくろすけにでもなってしまえばいいのよ」内海唯花はそう言いながら、彼を引っ張ってキッチンのほうへ向かっていった。結城理仁は彼女に合わせて二歩進むと、足を止め、眉間にしわを寄せて唯花に尋ねた。「なんでキッチンに行くの?」「キッチンに水道があるじゃないの。あなたの部屋は立ち入り禁止区域だし、私に入るなって言ってたじゃない。キッチンで洗わないなら、一体どこでその顔を洗ってあげればいいの?それか、ここで待ってて。タオルを濡らしてきて拭いてあげる。それで綺麗に落ちないかやってみてもいいわ」結城理仁「……」彼はどうやら自分で運んできた石が、うっかり自分の足に落ちて痛がっているようだ。足の骨まで見事にポキッと折れてしまった。自業自得だ、身から出た錆。少し黙った後、彼は淡々と言った。「俺の部屋の洗面所には普段使っているメンズ用の洗顔フォームがあるから、それでもインクは落とせるだろう」そう言って、彼は自分の部屋のほうに向かっていった。部屋のドアを開けた後、彼は唯花に顔を向けて指示を出した。「早く来て顔を洗うのを手伝って!」内海唯花は「あら」と一言漏らし、部屋のほうへ向かいながら言った。「結城さん、あなたが入れって言ったんだからね。私が勝手に入っていったんじゃないんだから。今後喧嘩した時に、今日のことを持ち出して私を責めたりしないでよ。私はずっと契約に書かれている通りに、約束を守ってやってるんだからね」結城理仁は顔を曇らせ、彼女の前まで近づくと、堪らず彼女の額にデコピンをお見舞いした。「俺と喧嘩するのを望んでいるのか?」「付き合いが長くなれば、どうしたって喧嘩くらいするでしょ。喧嘩をしない夫婦なんてこの世にい
姉が妹より結城理仁のことを信じているのは、それはまあいいのだ。しかし、彼女が小さい頃にこっそりと荒神様に捧げたお神酒を飲むという醜態を話してしまったのだ。結城理仁は内海唯花を見つめていた。その目線に唯花は穴があったら入りたいくらいだった。「お姉ちゃん、それって何年前のことよ。今それを持ち出して話すなんて」しかもそれを結城理仁の目の前で話された。唯月は笑って言った。「あの日あなたはご飯を食べ終わった後、ベッドに横になって一日中寝ていたわ。お酒に弱いのははっきりしているのに、飲むのが好きなんてね。飲んだらまったく起きやしないんだから。結城さん、覚えておいてね。何かお祝い事のある日以外は、この子にお酒を飲ませちゃだめよ」結城理仁は口を閉じてにやりと笑ってそれに返事した。「義姉さん、しっかり覚えておきますよ」唯月が昔の思い出を話し、三人は笑い合った後、この日に起こった辛いことが一気に流されていった。離婚するなら離婚するまでだ。別に大したことではない。地球は別に誰か一人がいなくなっても、止まらずに周り続ける。佐々木俊介と別れても、唯月は今までどおりしっかりと生きていけるのだから。ホテルを出て、唯月は上を仰ぎ暗い夜空を眺めた。そして後ろを振り返り、妹夫婦に呼びかけた。「行きましょう。今日は私が夜食をおごるわ。いえ、朝食ね。私の独身回帰祝いをフライングでしちゃうわよ」この時すでに明け方の五時をまわっていた。内海唯花と結城理仁はお互いに目を合わせ、姉の誘いを受け入れた。三人は朝食を食べに行き、結城理仁が車で義姉を久光崎のマンションまで送った後、妻を連れて帰宅した。家に着いた頃には、太陽がもう昇っていた。「結城さん」結城理仁が彼女を見た時、内海唯花はとても嬉しそうに言った。「結城さん、今日はどうもありがとう」結城理仁は一歩踏み出し内海唯花の前にやって来ると、手を伸ばし彼女の肩に手を置いた。彼女が彼を見上げた時、彼の懐の中に引き込まれ、ぎゅっと抱きしめられた。手を緩め自分から彼女を少し離すと、彼女のほうへ目線を下に向け、優しい声で言った。「俺たちは夫婦だろ。当然のことをしたまでだよ」内海唯花は暫く彼と見つめ合ってから、突然彼の首に手を回し、自分から彼にキスをした。その時の結城理仁は以前のような俺様的な態度で
この夜以降、彼女はもう二度と佐々木俊介のせいで傷つき、涙を流すことはなくなるだろう。「陽ちゃん」唯月は息子のことを思い出した。そしてその瞬間、緊張が走った。「お姉ちゃん、ベビーシッターの清水さんにお願いして陽ちゃんを見てもらってるわ。陽ちゃんなら朝までぐっすり眠ってるわよ、きっと」佐々木陽はやんちゃな時は本当にやんちゃで、遊び始めると床が彼のおもちゃで埋め尽くされてしまう。しかし、おとなしい時は本当におとなしい。特に夜寝ている時だ。どこか気持ちが悪いところがない限りは夜が明けるまでぐっすりと眠って目を覚ますことはないのだ。唯月はそれを聞いてようやく安心した。「唯花、結城さん、あなた達はどうやってここがわかったの?」息子の心配をする必要がなくなり、唯月は心に余裕ができて思いつきこう尋ねた。内海唯花は少し姉をとがめるように言った。「お姉ちゃん、私たち姉妹でしょ。お父さんとお母さんがいなくなってから、私たちは十五年も助け合って生きてきたじゃない。何か困ったことがあったら相談してた。でも今日は、私を遠ざけようとするなんて、私が安心できると思う?理仁さんの友達があいつの不倫の証拠を集めてくれたでしょ。彼の情報網はとてもすごくて、彼に聞いたらあっという間に佐々木俊介のいる場所がわかったの。それで、私は理仁さんと一緒に急いでここまで来たのよ。お姉ちゃん、これからはどんなことでも、絶対に私に教えてよ、わかった?一人で突っ込んでいくようなことはしないで。私はもう大人よ、あの頃みたいにお姉ちゃんの陰に隠れて守ってもらうような小さな女の子じゃないんだからね」唯月は暫く沈黙した後、言った。「さっきあなたを止めたのは、あいつらがわざと傷害罪だとか主張して、あなたに医療費を賠償金として渡せって言ってくるのが怖かったからよ。いくらあいつらが私にひどいことをしたとしても、あなたまでその中に入って殴ったりしたら、法的にも言い訳ができなくなってしまうかもしれないわ。私があいつらに手を出すのとは意味が違うの。あいつら二人が私にしてはいけないことをしたんだから、あの二人はきっと後ろめたい気持ちになるはずでしょ。私に殴られようが罵られようが、おとなしく黙ってそれを受け入れるしかないわよ。それで私にお金を請求するなんてことできないでしょう。唯花、お姉ちゃんの
唯月は妹に向けて首を横に振って、その行動を制止させた。唯月と佐々木俊介がどう殴り合いをしても、それは夫婦同士の喧嘩で家庭内でのことだ。佐々木家の人間がこの間と同じように彼を家で静養させるだけの話になる。唯月が成瀬莉奈を殴るのは、妻が浮気相手を懲らしめただけで、世間からは唯月はよくやったと思われるだけだろう。成瀬莉奈のほうは心穏やかでなくても、唯月にどうこうすることはない。しかし、妹が手を出すとなるとまた話は違ってくる。妹が佐々木俊介と成瀬莉奈をボコボコにして姉の仕返しをしようとしたら、あの佐々木家のことだから、妹を訴えて医療費を請求してくるはずだ。成瀬莉奈も同じようにすることだろう。唯月は妹が弱みにつけこまれて脅される姿など見たくなかったのだ。唯月は妹をしっかりと引き留め、小さい声で言った。「お姉ちゃんを信じて、自分で解決できるから」妹夫妻が彼女のために、今の状況を録画しておいてくれるだけで十分なのだ。「俊介」唯月は涙を拭い彼に尋ねた。「あんた、本当に私と離婚するつもり?」俊介は強い口調で言った。「そうだよ、俺はお前と離婚する!」「陽はまだ小さいのに、無情にも私と息子を捨てるってこと?」佐々木俊介の瞳には少しのためらいの色もなく、冷たい声で言った。「唯月、先に帰ってろ。俺たち少し落ち着いて、二日後の土曜日になったら、また離婚について話し合おうじゃないか」唯月は悔しそうに歯を食いしばって、成瀬莉奈を睨みつけていた。そこへ佐々木俊介がまた成瀬莉奈の前に立ちはだかった。唯月がまた発狂して彼女に襲いかかるのを警戒してのことだ。「お姉ちゃん、ここは私が……」「唯花、行きましょう!」佐々木唯月は妹を引き留め、あのクズ人間二人をぎろりと睨みつけて言った。「俊介、土曜日の離婚話、忘れるなよ!」言い終わると、彼女は妹を連れて部屋を出ていった。部屋を出てから結城理仁を見ると彼女は小さな声で「全部録画できた?」と尋ねた。彼女がクズ男とアバズレ女に喧嘩を売っている最中、妹の夫が撮影しているのに気がついていた。結城理仁は頷いた。「行きましょう」佐々木唯月は妹の手を引っ張り先頭に立って歩き出し、結城理仁も黙ってそれに続いた。そして、三人はエレベーターに乗った。すると、唯月のさっきの勇猛な様子は消え去
内海唯花はすぐに部屋の中へ突入した。佐々木俊介はすでに我に返り、矢の如く部屋の中へと飛び込んでいった。そして成瀬莉奈の上に馬乗りになっていた唯月を蹴り飛ばした。部屋の中に突入した内海唯花は相当に怒りを爆発させて、彼女も一発蹴りをお見舞いした。空手を習っていた内海唯花は、あの内海陸の不良たちとやり合った時も優勢に立っていた。そんな彼女が唯月を蹴飛ばした佐々木俊介に力いっぱい蹴りを食らわせたのだから、彼も床に倒れ込んでしまった。「お姉ちゃん」内海唯花は姉のところまで行き、彼女を抱き起した。佐々木俊介も素早く床から起き上がり、急いで成瀬莉奈を支えて起き上がらせ、唯月姉妹二人に怒声を浴びせた。「唯月、てめえら何やってんだ?」唯月は成瀬莉奈に殴りかかって息を切らせながら、夫の怒声を聞いていた。そして彼女の怒りはまたふつふつと沸き上がり、彼女も怒鳴り散らした。「俊介、こんなことして許されるとでも思ってんの?私はあんたのために仕事を辞めて、家庭を守り、子供を産み育ててきたのよ。それなのにあんたは私を裏切って、こんなアバズレの泥棒猫なんかと一緒にいたくせに、私に何をしてるか聞くわけ?私は今最低な人間を懲らしめているのよ!」そう言って、彼女はまた突進していった。佐々木俊介は成瀬莉奈の前に立ちはだかり、成瀬莉奈にもう暴力を振るわせないというばかりに、唯月と揉み合った。そして口で罵った。「唯月、もうやめろ!言っておくがな、俺はかなり前からお前のことなんて愛していなかったんだよ。お前に嫌悪感を抱くようになってかなり経つ。今の自分の姿を見てみろよ。醜い所帯染みたババアになりやがって。大学まで出たってのに教養はねえのか、羞恥心はどこへやった!」唯月は怒りで笑いが込み上げてきた。彼女は成瀬莉奈を殴ることができないので、重たい一発を佐々木俊介の顔面に食らわせた。「私のこのおばさんの姿はあんたのせいでしょ。あんたこそ、大学まで行ったのに、恥も知らないわけ?その女も大学まで行って、倫理観や道徳心は学ばなかったの?なんでもかんでも学があるだのなんだのの責任にしてんじゃないわよ。世界中の教養ある人たちを汚すのはやめな」佐々木俊介はビンタを食らって、そのままお返しの一発を繰り出そうとしたが、内海唯花が急いで姉を引っ張り、彼のその手は虚空を切った。「あんた
「こんな遅くに、一体誰だよ?」佐々木俊介はぶつくさと言いながら、機嫌の悪そうな顔をしてドアを開けに行った。彼がドアを開けると、ドアの前に太った人影が見え、彼は驚いてしまった。少し信じられないといった様子だった。唯月が本当にここまで来た!彼女はどうして彼がここにいると知っているのだ?夫婦二人は目を合わせた。佐々木唯月は上半身裸の彼を見て、頭の中で彼らの過去十数年に渡る付き合いを考えていた。なるほど、男が女性を裏切るのはあっという間で、すごく簡単なことなのだな。佐々木俊介は我に返ると、すぐに顔を暗く曇らせ、唯月に詰問を始めた。「なんでここにいる?陽は?こんな夜遅くに家で陽の面倒も見ずに、こんなとこまでやって来て……」「俊介、誰なの?あんなに力強くドアをノックしちゃって」佐々木俊介が唯月を責めている途中に、成瀬莉奈がゆったりと現れた。彼女はパジャマ姿で、髪は適当におろしていた。二人がさっきまで激しく愛し合っていたのか、彼女は見た感じ艶っぽい色気を出していて、首にはその痕がくっきりと残っていた。この状況を見れば、馬鹿でも何があったのかわかるだろう。「この泥棒猫!」佐々木唯月は彼女のふくよかな体で、ドアを塞いで立っていた佐々木俊介を押しのけ、電光石火の如く部屋の中へ押し入ると、瞬く間に成瀬莉奈の前に立ちはだかった。そして、成瀬莉奈のロングヘアを掴んで引っ張った。手を挙げ――パンパンパンッ立て続けに成瀬莉奈の顔に四回ビンタを食らわせた。その動作は速く、本当に一瞬の出来事だった。その行動には少しの躊躇いもなかった。「きゃあぁぁぁぁ――」成瀬莉奈は大声で叫んだ。「夫の世話をすると言っておきながら、この卑しい女、あなたの言ったお世話ってこういう意味のお世話だったのね。夫には私という妻がいるのよ。あんたなんかの世話がいると思う?このアバズレ、殺してやる!」佐々木唯月は怒鳴り声を上げながら、成瀬莉奈を引っ掻き殴った。成瀬莉奈はそれに抵抗しようとしてみたが、佐々木唯月に先手を取られて、彼女のその抵抗など唯月にとっては微々たるものだった。佐々木唯月の力は強い。彼女は成瀬莉奈を床へ押し倒すと、彼女の上に馬乗りになって、また何度もビンタを繰り返した。その音はまるで爆竹を鳴らすかのように、パンパンパンッ
佐々木俊介は成瀬莉奈の耳元で低い声で何かを囁き、彼女は瞬時に満面の笑みになった。彼が機転が利く人間でよかった。この時、成瀬莉奈は安心した。彼女が彼と結婚したら、絶対に幸せな生活を満喫できる。もちろん彼女は自分を守る必要がある。彼と結婚した後、彼の給与が振り込まれる銀行カードを管理しなければ。彼は結婚後は家の不動産権利書に彼女の名前も加えると約束していた。自分の望みは全て実現させてもらう。とりあえず、彼女は絶対に佐々木唯月のような惨めな境地にはなりたくないのだった。「唯月に財産を渡さずに追い出すことは、実はとても簡単なんだ」「どうするの?」佐々木俊介の貯金は大した金額ではないが、できれば一円たりとも唯月に分けたくなかった。唯月に渡さなければ、そのお金は全部成瀬莉奈のものになるのだ。「彼女に財産の分与か陽の親権か、どちらかを選択させれば、あいつは必ず陽のほうを選ぶから、一円も渡さず追い出せるさ」成瀬莉奈はそれをきいてとてもがっかりして彼に言った。「あなた、息子の親権を放棄できるの?あの子は佐々木家で唯一の内孫でしょう。あなたがそうでも、昔の考え方であるご両親は納得しないと思うわよ」佐々木俊介「……陽は俺の子だ。もちろんあきらめたりしないさ」成瀬莉奈は甘えた声で言った。「だったら、なんでさっきみたいなこと言ったのよ」佐々木俊介は彼女にキスをして言った。「俺たちさ、早く……君が妊娠して男の子だったら、俺の父さんも母さんも喜んであいつに陽を渡すよ」この時、彼と成瀬莉奈はまだ体の関係を持ったばかりだった。成瀬莉奈はその後、ピルを買いに行って飲んでいて、そんなに早く子供を作る気がないのははっきりとしていた。今のところ彼には陽という息子だけで、佐々木俊介は一昔前の男尊女卑的な考え方を持っていた。だから、どうであれ、彼も陽を唯月に手渡す気などなかった。陽は生まれつき容姿もよく、聡明で可愛い。彼と成瀬莉奈が結婚して産んだ子供がどんな子供なのかは誰にもわからない。佐々木俊介もそんな危険を冒そうなどと考えてはいなかった。もし、成瀬莉奈が産んだ子供が女の子だったらどうする?だから、陽は絶対に彼のもとにいなければならない!「私が女の子を産んだら嫌だって言うの?」「そんなんじゃないさ。君が産んだ子なら俺は大好きだよ。でも、うちの
成瀬莉奈は佐々木俊介の胸に寄りかかり、甘えた声で言った。「俊介、ごめんなさい。電話に出るべきじゃなかったわ。彼女が何かあなたに急用があるのかと思って、うっかり出ちゃったの」「いいんだ、どうせいつまでも隠し通せることじゃないし、遅かれ早かれあいつには教えることだったんだ。伝えるタイミングを見定めるより、成り行きに任せたっていいや。あいつが疑ってるってんなら、帰って直接、正直に話してくるよ」佐々木俊介が成瀬莉奈を悲しませるような真似をするはずがない。彼の心はだいぶ前から成瀬莉奈に寄っていて、唯月にはまったく愛情の欠片も残っていなかった。しかし、両親と息子のことを考えて、ずっと我慢していたのだ。そうでなければ、唯月のことなどとっくの昔に追い出していたところだ。「俊介、もしあなた達が離婚するなら、あの女があなたの財産を半分持って行くってことになるの?」成瀬莉奈は佐々木俊介の財産の半分を佐々木唯月に持って行かれるのは嫌だったのだ。彼女は唯月には何一つ渡すことなく、裸同然で去って行かせたかった。佐々木唯月が仕事を辞めてから数年、子供もまだ小さく、2歳過ぎだ。彼女がまた職場復帰したくても、恐らくそれは難しいだろう。離婚して何もかも失った後、成瀬莉奈は唯月のどん底に落ちぶれた様子を拝むことができるのだ。もしかしたら、唯月は子供を背中におぶって、街中で乞食になっているかも。佐々木俊介は冷たく笑って言った。「あいつがよこせと言っても、俺が大人しく渡すと思うか?結婚してから、あいつはこの家のために一円だって稼いでないんだ。家は俺が結婚前に買った財産だし、結婚してからも俺がローンを返してきた。だから、あいつにこの家を分けてやることなんかないよ。あいつは家のリフォーム代をちょっと出しただけだ。どのみち俺はそのリフォーム代もあいつに払ってやる気はない。もし欲しいんだったら、内装の壁紙でも剥がして持ってけばいいんじゃね?俺の貯金は……」彼が部長になったのも、ここ二年のことだった。収入は以前と比べて何倍にもなってはいたが、普段の出費も増えている。それによく成瀬莉奈に高価な物を買ってプレゼントしているので、彼は稼いだ分からそんなに貯金していなかった。ただ三百万前後といったところだろう。しかし、彼の副収入のほうは多かった。その副業で稼いだお金は、会社
結城理仁は玄関の鍵をかけた後、内海唯花の手を引き、歩きながら言った。「友達に調べてもらった。君の義兄はマニフィークホテルという神崎グループ傘下のホテルにいるらしい。俺は結城グループで働いていて、この二つの会社は犬猿の仲だから、神崎グループの社員に俺だとばれては困る。それで黒ペンで書いたんだよ。これなら、俺だって気づかれないだろう」内海唯花は彼の顔に描かれた先天母斑を何度も見た。切迫した状況の中で、彼はこのような細かいところにも考えが回るようだ。このように細かいところまで考えが及ぶ人だから、結城グループという大企業でエリートをやれるわけだ。内海唯花は今おばあさんが言っていたことを信じられた。おばあさんは当初、彼女の前で結城理仁のことをべた褒めする時に言っていた。結城理仁はとても細かいところに気がつく人間だと。当然、彼が心から優しくしようと思った時に、彼のその細かい気配りが至る所でお目見えするのだ。「後で帰ってきたら、水と石鹸でしっかり洗ってね」内海唯花は本屋兼文房具店を営んでいるから、皮膚についたペンのインクの落とし方をよくわかっているのだ。正直に言うと結城理仁は帰ってきたら、内海唯花に顔についているインクを落としてもらいたいと思った。その言葉が口元まで来て、彼はまたそれを吞み込んでしまった。そんなことを言う勇気がなくて、口に出せなかった。そんなことではおばあさんから「あんたその口はなんのために付いているのよ?言いたいことははっきり言いなさい!」と言われることだろう。九条悟なんかは「ボス、怖がらずに堂々と口にするんだ!」と言うはずだ。内海唯花夫婦と清水のほうは急いで行動を開始していた。一方、成瀬莉奈のほうはというと、佐々木唯月からの電話を切った後、浴室のドアをノックしに行った。佐々木俊介がドアを開けると、彼女はその中に入っていった。暫くしてから、二人は浴室から出てきた。彼女は佐々木俊介に抱きかかえられて出てきた。その美しい顔には恥じらいの色がにじみ出ていて、バカでも彼らが浴室の中で何をしたのか想像に難くない。キングサイズベッドに横になり、佐々木俊介の胸に抱かれた成瀬莉奈は突然口を開いた。「俊介、言うのを忘れてたけど、さっき奥さんから電話がかかってきて、さっさと家に戻って来いって怒鳴り散らしていたわよ。私が