星城総合病院からそう遠くないホテルで、内海陸の両親は内海家の長男である兄の部屋のドアを叩いた。彼がドアを開けると、一番下の弟夫婦が焦った様子でそこに立っていて、彼は心配して尋ねた。「どうしたんだ?なんだか顔色が悪いけど」「兄さん、陸が昨日出かけてから帰って来てないんだ。何かあったんじゃないかって心配で」内海陸の父親は内海家の兄弟姉妹の中で一番年下だ。あの内海家のじいさんとばあさんが溺愛しているのが彼で、名前を瑛慈とつけた。慈しむという漢字を使い、一番愛される大切な子供だという気持ちを込めている。「陸はどこに何しに行くとか言ってなかった?」内海民雄は内海家の長男だ。一番年上だから冷静で落ち着いている。内海瑛慈は少しためらった後言った。「陸は内海唯花のところにケリつけに行くとか言って出てったんだ。あの女にばあちゃんの医療費出させるんだとかなんとか言ってた。昨日それっきり、今まで帰ってこないんだよ。携帯にかけても電源が切れてるし」内海陸は今勾留されている身だ。このことを家族はまだ知らない。彼の携帯はちょうど電池がなくなり自動的に切れてしまったのだ。内海民雄はそれを聞きすぐに顔を暗くし、弟夫妻を怒鳴りつけた。「お前らなんで陸を内海唯花のところに行かせたんだ。この間あいつらがあの女の所に行った時、あの女、一歩も譲らなかったろ。なのに、陸が一人で行ってあの女に頭下げさせられるとでも思うか?」姪っ子と話してみて、内海民雄は三番目の弟が残していった二人の姉妹はただ者ではないとそこではじめて知ったのだ。姉のほうは置いておいて、内海唯花とかいう姪っ子は本当に目の上のたん瘤だ。彼ら一族全員が大損したのだから。彼女から金を巻き上げられなかったのはいいとして、名声も底まで叩き落されてしまった。一族の子供たちはあのせいで停職処分にまでなり、商売にも影響が及んだ。元々、彼ら兄妹たち数人で内海唯花にもう一度直談判に行こうと思っていたが、二人の妹が時間がなく、日を改める必要があり、週末になってようやく皆時間が持てるから、それから一緒に内海唯花のところに話に行くことにした。どう言っても、彼らは全員内海唯花と比べて年長者だ。もしかしたら、彼女は彼らの面子を考慮してくれるかもしれない。「陸がどうしても唯花のところに行くって言うもんだから、止めたくて
「じゃあ、あいつらも呼ぼう」内海民雄も人数は多いほうが良いだろうと思っていて、弟が民雄の息子と甥を呼ぶのに賛成した。内海瑛慈が甥に電話をかけた時、内海智明に「おじさん、ちょうどおじさんに電話をしようと思ってたんです。陸が大変みたいですよ」と言われるとは思っていなかった。それを聞いて内海瑛慈の顔から血の気が引き、慌てて尋ねた。「陸はどうしたんだ?あの子、内海唯花のところに金を取りに行くとか言ってたから、もしかしてあの女に殴られたのか?あのクソ女めが、うちの陸に指一本でも触れてみろ、絶対に許さねえからな。故郷に帰って、あの女の母親の墓でも荒らしてやる!」内海唯花の父親は彼の兄だ。だから内海瑛慈はその兄の墓を荒らすことはない。兄嫁と彼は血縁関係にないからどうでもいいのだ。もし内海唯花が彼を怒らせようものなら、彼は本気で兄嫁の墓を荒らして平地にしてしまうつもりだ。「陸が不良数人引き連れて、夜中に唯花の車を妨害したらしいです。彼らが鉄の棒を持って、唯花の車を叩き壊そうとしたらしいですが、唯花がそれに抵抗したんだって。今彼はその不良たちと一緒に留置所にいます。俺もさっき知ったばかりなんですよ」「勾留されてるって?従姉弟同士の喧嘩に、警察に通報したのか?内海唯花、あのくそアマめが、本当に意地汚い女だ。警察呼んでうちの陸を捕まえるなんて!智明、あの子を留置所からどうにか出すことはできんか?あの子はまだ若いんだ、子供なんだよ。こんなことになって驚いているはずだ」内海瑛慈は姪が自分の息子を通報したと聞いて、まず、内海唯花が全く情けをかけなかったことに、すごく腹を立てていた。そして、息子が捕まって驚いているのではないかと心配し、どうにかして早く彼を留置所から出してあげたかったのだ。「この間、唯花のところに行った時、陸は感情的になって突っ走ってましたから。俺たちは今、分が悪いです。唯花とはやり合っちゃだめですよ。陸が唯花に迷惑かけに行って、あの女の後ろ盾も誰なのか俺たちはまだ把握していないですから、軽率な行動は避けるべきです」内海智明は叔父に言った。「おじさん、陸をしっかり説得するべきでした。俺たちはあの姉妹とは摩擦があるだけで、何の恩もありません。彼女は俺たち一族にはかなりの恨みがあります。親戚のよしみを語っても、無駄なんです」一族はみんな内海唯花
内海智明はおばの罵声は聞かなかったことにして、おじとの電話を切った。そして電話を切ると、長い溜息をついた。彼は最近、疫病神に憑かれたのではないかと疑うほどついていないと思っていた。あれほどの人数がいて、内海唯花の髪の毛一本にも触れられないとは。内海唯花には確かに力を持った後ろ盾がいるようだが、それは一体誰なのか全く見当がつかなかった。テレビ番組制作に携わる誰もが手を出せない相手ということは、その後ろ盾は星城で大きな権力を持つ者に違いないが、内海姉妹を調べたところで、そういう大物は出てこなかった。内海唯花の夫はある大企業で部長だか何だかしているらしいが、ただのホワイトカラーに過ぎない。具体的に何をやっているのかも知らないが、村の人が言うには、彼は安いホンダ車を愛用しているらしい。内海家の若者の使っている車のどれも内海唯花の夫のよりいい車だというのに。相手は大した人物ではないらしい。本当に後ろ盾になれる者といえば、内海唯花の親友である牧野明凛しかいない。その牧野は星城で生まれ育ち、家もお金持ちで、彼女の伯母さんは玉の輿に乗っている。まさか、この牧野お嬢さんがずっと内海唯花を助けているのか?通報して警察に内海陸をつき出し、クズの親戚が必ず彼女のところに来ると内海唯花は予想してずっと待っていたのだが、昼になっても、そういう気配は全くなかった。結城おばあさんは内海唯花に結城理仁へ電話するようには言わず、自ら電話をかけた。祖母からの電話を受けた時、結城理仁は専用車に乗り、会社を出てスカイロイヤルホテルへ食事に行くところだった。一緒にご飯を食べると約束したから、九条悟の車が後ろについていた。「ばあちゃん」結城理仁は祖母の電話に出て、彼女の言葉を待たず、低い声で尋ねた。「ばあちゃんに頼んだこと、聞いてくれた?」「何だったかしら?頼まれたっけ?」おばあさんはすっかり忘れていたのだ。突然、車が急ブレーキをかけた。結城理仁は顔色も変えず、祖母との通話を続けていたが、暫く黙ってから口を開けた。「昨夜、何時に帰ったか聞いてくれって、ばあちゃんに頼んだだろう。もう昼だよ、返事をくれないのか」七瀬は振り向くと、主人が老夫人と電話をしているのを見て、隙を見て口を挟んだ。「若旦那様、また神崎さんです」神崎姫華は午前中結城
佐々木唯月はもう店に帰ってきていた。就職活動はまだうまくいっていなかった。結城理仁はますます顔色が悪くなった。おばあさんは一体何を考えているんだ。結構楽しんでいるじゃないか。「もう無駄話はしないわ、早く来なさい。来ないとあなたが一体誰なのか唯花さんに真実をばらしちゃうわよ。本当に、和解のチャンスを作ってあげたのに全く感謝してくれないんだから、バカな子だね。もう一つ教えてあげるよ。神崎のお嬢さんがあなたにあげようとしてるプレゼントは唯花さんから受け取ったのよ。それが何なのか、受け取ったらわかるわよ」結城理仁の顔色が一段と暗くなった。おばあさんは彼と内海唯花のことに干渉しないと約束したはずだ。そのくせに彼の正体をばらすと脅してくるのだ。彼にそのまま通話を切られても、おばあさんは全く気にしなかった。もともと切るつもりでいたからだ。「若旦那様、神崎さんが道を譲らないのですが」運転手は結城理仁に振り向いて言った。一分くらい黙っていて、結城理仁はドアを開けて車を降りた。彼が降りて来るのを見て、神崎姫華は嬉しそうに、二つの白鳥を入れた箱を持って近づいていった。綺麗で大きな瞳が結城理仁の整った顔に釘付けになった。こわばった顔に冷たさしか感じ取れなくても、そのカッコよさは相変わらずだった。イケメン!かっこいい!彼女は本当にこのような結城理仁が好きなのだ。「理仁、これあげる。今朝助けてくれてありがとう。貸し借りはなしにしたいし、一緒にご飯を食べに行かない?私が奢るから、これでその借りを返すわ」神崎姫華は両手で箱を結城理仁の前に出し、わくわくしながら彼を見つめた。心の中で、唯花のアドバイスが本当に役に立ったと思っていた。内海唯花のアドバイス通りにしたら、結城理仁が車を降りてくれて、目の前に立ってくれた。結城理仁はその箱を見つめた。それは内海唯花のところから来たものだとおばあさんは言った。きっと内海唯花のハンドメイドだろう。前に彼女が彼にプレゼントする予定の鶴を神崎姫華にあげた時、彼は怒ったから、彼女が鶴のおまけに亀も作ってくれると約束したが、今になってもまだもらえていない。また神崎姫華にあげたのか?その疑問に気を取られて、彼は神崎姫華が差し出した箱を受け取った。彼女の前でそのまま箱を開けて
結城理仁の車は結城グループを離れた。七瀬は主人の車が離れていくのを見て、ようやく神崎姫華を解放した。解放された神崎姫華は振り向き、七瀬にビンタをお見舞いした。七瀬は素早く彼女の手首をつかみ「神崎さん、私は女性だからといって甘く見る人間ではありませんよ」と冷たい顔で警告した。「放して!私を殴ってみなさいよ!できるもんですか!」七瀬は彼女の手を振りほどいて、そのまま冷たい声で言った。「目には目を歯には歯を。神崎さんが私に暴力をふるまうなら、こちらも遠慮しないつもりです」彼は確かにただのボディーガードに違いないが、自分の身分に対して決して卑屈ではなかった。主人も彼らをきちんと尊重してくれている。神崎姫華がもし本当に身分を笠に着て彼に手を出したら、七瀬も黙ってはいない。「あんたね!」神崎姫華は七瀬の冷たい態度に怯えた。彼女は内海唯花のように腕が立つ人間ではなく、ただ自分の身分に頼り、星城で思うままにやってきただけなのだ。今まで、彼女より身分の高いお嬢様にも会ったことがない。七瀬はこれ以上神崎姫華に何かを言うつもりはなく、冷たい一言を残した。「これ以上若旦那様に付きまとわないでください。若旦那様は神崎さんを好きにならないと保証します」言い終わると、七瀬は大股で彼を待っていた車のほうへ歩いていった。彼にそう言われた神崎姫華は怒りで顔が赤くなってきた。暫くしてやっと我に返り、走っていった車に叫んだ。「何様のつもりなの!言葉を謹んでちょうだい!私を誰だと思ってるの?」警備室の中にいた当直の警備員達は、神崎姫華の怒りの罵声を聞き、心の中でぶつぶつと言った。「あなたが誰なのかを知っているからこそ、そのような行動を取ったんですよ」神崎姫華は神崎グループの社長の妹で、今まで家族にちやほや甘やかされてきたのだ。一般人から見ると、彼女の身分は結構高いが、結城グループの人から見ると、神崎グループはただのライバル会社でしかないので、わざわざ彼女の機嫌を取る必要がどこにあるのか。結城社長が神崎姫華を追いかけることなどありえないことだ。だから、結城グループの人は、誰一人として神崎姫華を恐れる人はいない。結城理仁の車はある信号の前で止まっていた。結城理仁は九条悟に電話をかけた。九条悟は前の車を見て、思わず笑みをこぼし電話に出て言
「理仁、来てくれたね」外の音を聞いて、おばあさんは店を出て孫の顔をみると、笑いながら近づいていった。孫が何の手土産も持たずに来たのに気づいた瞬間、不機嫌になり小声で諭した。「そのまま手ぶらで来たの?」「ばあちゃん、じゃ、どうやって来ればいい?」おばあさんは呆れてしまった。このバカ孫。全くロマンチックさの欠片もなくて、デリカシーもない!もしおばあさんが二、三ヶ月かけ、毎日耳にタコができるほど口うるさくこの孫に内海唯花を嫁にするように説得しなかったら、彼の性格から考えると、四十歳になっても独りぼっちのままだっただろう。「唯花さんに花とかプレゼントとか買ってあげるくらいはできないの?」「要らない。家のベランダには花がいっぱい植えられているから、朝から晩までいつでも観賞できるだろう」おばあさんは危うく彼に蹴りをお見舞いするところだった。が、それをなんとか我慢した。これは血のつながった実の内孫、蹴ったところで、後で後悔するのはおばあさん自身なのだ。「あ、結城さん、こんにちは」佐々木唯月は息子を抱いたまま出てきて、笑いながら義弟を店に連れて行った。結城理仁は義姉にきちんと挨拶してから、佐々木陽が彼に手を伸ばしたのを見て、自然に彼を義姉の腕から抱き上げると、彼は甘えた声でおいたんと呼んだ。「いい子だな」結城理仁は佐々木俊介と関わりたくないが、普通に佐々木陽がかわいくて、好きだった。佐々木唯月の丸くふっくらとした顔が視界に入り、結城理仁は不意にホテルの前で佐々木俊介を見たことを思い出した。ボディーガードの話によると、彼の隣に綺麗な女性がいて、親密そうに見えたそうだ。佐々木俊介は浮気してるのか?しかし、彼自身はそれを見ておらず、ボディーガードもただ佐々木俊介によく似ている人だったと言っていたので、不審に思ってはいたが、佐々木唯月には伝えなかった。もし佐々木唯月に教えた後、結局人違いだったら、彼は他人の夫婦の関係を壊す悪人になるじゃないか。牧野明凛は店の奥の部屋を片付け、空いたところにテーブルを置いておいた。結城理仁が入ってくるのを見ると、彼に挨拶しながら、テーブルをきれいに拭いた。そこに内海唯花の姿はなかった。結城理仁は彼女が多分キッチンにいると思った。彼女はそんなに多くの魚介類を買ったのか。
結城理仁は何も言わず彼女を見つめた。二日ぶりに彼女に会えた。結城理仁はふと彼女のこの顔が好きだなと思った。夫婦二人はしばらく無言で見つめ合った。先にこの沈黙を破ったのは内海唯花だった。「手を洗ってから料理を持って行ってくれる?もう全部作り終わったの」結城理仁は彼女の言うことに頷きも断りもしなかった。ためらいながら、低い声で尋ねた。「どうしてそんなにたくさんの海鮮を買ったんだ?」重要なのは、彼にその支払い請求の知らせが来ていないことだ。彼女は自分のお金でこれを買ったのか?夫婦二人が冷戦状態だったとしても、この家庭を支えて養うのは夫である彼の役目なのだ。「どのくらいかかった?後で送金するよ。生活費は俺が出すって約束したから」内海唯花は自分の作った海鮮料理に振り向いて、笑いながら説明した。「お金はかかってないよ。神崎さんが海へ旅行に行って、そこから持って来てくれたの。たくさんもらったから、後でおばあちゃんが帰るとき、結城さんが送ってあげて。ついでにお義母さんとお義父さんにも持って行ってね。本当に新鮮だから」結城理仁の顔色が変わった。まさか神崎姫華が送ってきたものとは。この二人は元々恋のライバル関係になるはずだが、結城理仁が故意に身分を隠したため、まさかのまさか、二人が接点を持ち親友になる方向へと進んだのだ。「理由もなく一方的に頂くわけにはいかないだろう。神崎さんからこんなに多くの魚介類をもらったら、何かお返ししないとな。あとで送金するから、そのお金で何か買って彼女に贈るといい。それで今回のお返しにすればいいよ」どういっても、結城理仁は内海唯花にお金を送りたかった。二人はお互いをLINEの友だちから消してしまった。彼のその余計なプライドのせいで、先に頭を下げて内海唯花に友だち登録してくれないかお願いできないから、送金でその口実を作ろうとしていた。内海唯花がそのお金を受け取るためには、また彼のLINEを友だちに登録しなければならない。そうすると、彼も恥をかかなくて済むのだ。内海唯花はそこまで考えておらず、結城理仁の送金してくれるという好意は受け取らなかった。「私は神崎さんともう友達だから、そんな遠慮しなくてもいいの。ずっとお金ばかり気にしてると、神崎さんは私が彼女を馬鹿にしていると思って怒るかもしれないよ
隣に座った孫が黙々と食べてばかりいて、妻への気遣いもしないのを見て、おばあさんはテーブルの下で孫の足を突いた。結城理仁は状況がわからないというように黒い瞳でおばあさんを見つめて、全くおばあさんの行動の意味を理解していないようだった。おばあさんは頭を抱えたいほど困っていた。彼女は夫と愛をこめて初孫を育てていた。後継者になる孫の教育に尽力していたが、どうしてうまくいかなかったのだろう。仕事の能力なら、おばあさんは何の不満もなかった。結城グループは結城理仁のもとでさらに発展し、神崎グループをはるかに超えて、ビジネス界の大黒柱のようになってきたのだ。しかし、その能力と裏腹に、感情面ではマイナスになっているんじゃないかとおばあさんは疑っていた。「唯花さんにエビの殻を剥いてあげて」仕方なく、おばあさんは小声で孫に言った。良きチャンスは掴むべきだとこのバカ孫は知らないのか。結城理仁はその薄い唇をぎゅっと結んだ。内海唯花は手がないわけじゃないだろう。自分が育てた孫のことなのだ。おばあさんは彼のことをよく知っている。結城理仁が唇を引き結ぶと、何を考えているのかすぐわかる。おばあさんは孫を睨んだ。結城理仁はおばあさんに睨まれ、一言も出さず、黙ったまま箱の中から二つの使い捨て手袋をとり、それをはめてから手を伸ばしてエビの皿を目の前に持って置いた。彼は淡々と言った。「内海さん、君は食べて、俺が陽君に剥いてあげるよ」おばあさん「……」唯花に剥いてあげろと言ったのに、どうして陽ちゃんになったのか。本当に救いようのない馬鹿だ!このバカ孫!内海唯花は結城理仁のやりたいことは遮らず、うんと答えて、使い捨て手袋を手から外した。結城理仁の動きは素早く、間もなく佐々木陽の皿は剥いたエビで一杯になった。しかし、結城理仁のその動きは止まらなかった。彼は佐々木陽の皿にはエビを入れず、次は別の皿に置いた。全てのエビを剥き終わってから、相変わらず何も言わず、内海唯花に一瞥もせず、そのままその皿を内海唯花の前に置いた。全部やり終わったら、彼は黙ったまま使い捨て手袋を外した。そして、何食わぬ顔で自分の海鮮スープをひと口飲んだ。内海唯花の料理の腕前はなかなかのものだ。彼は好き嫌いが激しいが、目の前の料理はどれも美味しいと思
「君が行きたいなら、俺たちも週末は海で過ごしてもいいよ。海で獲った新鮮な魚介類が食べられるし」これは結城理仁が夫婦二人で週末プチ旅行をしようというはじめての誘いだった。「今って十一月よ」「星城の十一月は昼間太陽が出ればまだまだ暑い。海にバカンスに行くのにちょうどいいよ。寒くもないし暑すぎもしないから」内海唯花はお腹をさすりながら言った。「その話はまたにしましょう。今はまだ週末何か予定が入るかわからないし」結城理仁はうんと一言答えた。食器を片付けてキッチンに入り食器を洗った。そして、妻から注意の言葉を聞いた。「そんなにたくさん洗剤を使わないで、泡だらけになっちゃうわよ」結城理仁は顔をこわばらせ、何も言わなかった。十分ほどで結城理仁は食器をきれいに洗ってしまった。さっき冷蔵庫を見た時、その中にはフルーツが入っていた。彼は大きめのお皿を洗い、冷蔵庫に入っていたいくつかのフルーツを取り出して水洗いし、一口サイズに切って皿に盛りつけ、爪楊枝も添えてキッチンから出てきた。「食後のフルーツをどうぞ」彼はそのお皿をテーブルの上に置いた。内海唯花「……あなた、本気で私をお腹いっぱいで殺す気?」結城理仁は軽く彼女の額をつついた。「後でちょっと散歩して消化させればいいだろう」星城高校の前は広々としていて、長く続く二車線に沿って大きな川が流れている。その道沿いを歩けば消化ができるというわけだ。内海唯花は彼が突然親しい態度を取ってきたのに驚き、反射的に彼の手を叩き払おうとしたが、それをする前に彼のほうがその手を引っ込めた。それで彼女の手は空を切った。「少ししたらちょっと散歩しよう」内海唯花は姿勢を正して座って彼に聞いた。「今夜は会社の接待はないの?」「本当はあったけど、ばあちゃんがここに来て君と一緒にご飯を食べるよう言ってきたから、その予定をキャンセルしたんだ」内海唯花は、ばつが悪そうに言った。「私がおばあちゃんにそうしてって言ったわけじゃないからね」彼女とおばあさんの関係は良好だ。彼と結婚したのもおばあさんが原因だ。おばあさんを利用してこうしていると彼がまた誤解するんじゃないかと心配して、内海唯花は一言説明して言ったのだ。結城理仁は瞳をキラキラと輝かせて彼女を見つめ、穏やかな声で言った。「それは
結城理仁はおかずは買ってくる必要はないと言っていたが、内海唯花はおかず二つとご飯を二つ買った。支払いを済ませた後、彼女はそれを持って店を出て、車に戻った。「プルプルプル……」携帯にまた電話がかかってきた。今度は結城理仁からだった。金城琉生が来て去って行き、結城理仁はまた色々余計なことを考えて、我慢できずに内海唯花に電話したのだった。「今すぐ戻るわ」結城理仁が何か言う前に内海唯花が一言そう言い、電話を切った。妻にさっさと電話を切られてしまった結城理仁は携帯を見つめ、暫くの間無言だった。彼は内海唯花が心の中ではまだ怒っているとわかった。夫婦二人はまだ和解していない。ただおばあさんが関わってきて、おばあさんの顔を立てるために今こうしているだけなのだ。内海唯花はその電話を切ってから本当にすぐに店へと戻ってきた。「温め終わってる?ご飯食べられるよ」内海唯花は買ってきたおかずを持って店へと入っていき、歩きながら座っていた結城理仁に尋ねた。「できているよ」結城理仁は彼女が戻ってきたのを見て、すぐに立ち上がりレジから出てくると店の奥へと入って行き、食器と温めなおしたおかずをテーブルに置いた。内海唯花も買ってきたおかずをテーブルの上に置いた。結城理仁はそれを見て言った。「おかずは買ってこなくてよかったのに」「昼の残りは嫌かなって思って、だからおかず二つ買ってきたの。この店の料理とっても美味しいのよ。普段デリバリーを頼む時には、よくこの店にお願いしているの」彼女が彼のためにわざわざおかずを二つ買って来たと聞いて、結城理仁が彼女を見つめる瞳は優しくなった。夫婦の関係というのはお互い様なのだ。彼が少しずつ自分を変えていくように、実は彼女も変わっていっているのだ。「そうだ、さっき誰か男の人が君に用があると言って店に来たよ。俺をお義兄さんと呼んできたけど」結城理仁は内海唯花を手伝って、ご飯とおかずを食器に盛っている時、何気ない様子を醸し出しながら言った。「君に用があるとかなんとか。彼に聞いたんだけど、何も言わなくて、二分くらいしてすぐ帰っていったよ。君に電話してこなかった?何か急用だったんじゃないかな?」それに対して内海唯花は包み隠さず本当のことを言った。「それは琉生君よ。そんな大した用があるわけじゃな
結城理仁はその足音が遠ざかっていくのを聞いてから、トイレから出てきた。おばあさんにここへ来るよう言われ、その理由がわかっていながら、思い切ってそのおばあさんの策略に乗っておいてよかった。でなければ、金城琉生に内海唯花と二人きりになるチャンスを与えてしまうところだった。金城琉生は店から出ると、車を運転して行ってしまった。しかし、少ししてから車道の端に車をとめ、内海唯花に電話をかけた。そして、内海唯花はすぐに彼の電話に出た。「琉生君、何か用?」「唯花さん、後でちょっと時間がありますか?だいたい七時半くらいなんですけど」「なんの用?」内海唯花は時間があるかどうかは答えず、彼が一体何の用なのかを直接尋ねた。金城琉生は少し言葉を詰まらせたが、やはり彼女に言った。「後でスカイロイヤルで開かれるビジネスパーティーに行くんですけど、女性のパートナーが必要なんです。唯花さん、俺ってまだ彼女がいないでしょう?だから、唯花姉さんに一緒に参加してもらえないか聞きたかったんです」内海唯花は少しも迷わず断った。「明凛にお願いしたらどう?私は時間がないの。夫がお店で一緒にご飯を食べるために待ってるのよ」彼女の金城琉生に対する感情は姉弟としてのそれでしかない。しかし、結城理仁は彼女が金城琉生を次に狙っていると誤解している。彼女にその意思があるかないかは置いておいて、彼女は今後、金城琉生と二人きりになることはできるだけ避けたかった。二人きりにならないのが一番だ。彼女がこの間、金城琉生にご馳走した時には牧野明凛も一緒にいて、決して彼と二人きりではなかったが、結城理仁はそれを見た後、彼女と金城琉生ができていると誤解してしまった。それで彼女はとても腹が立った。どうして結城理仁の目には、彼女が離婚を待てずに次の相手を探すような人物に映っているのだろうか?内海唯花が夫の話をしたので、金城琉生は心が苦しくなった。でも、それを表には出さず、引き下がらずにお願いした。「唯花姉さん、お二人は七時過ぎまで食事をするんですか?姉さん、お願いします、明凛姉さんは今日用事があるらしくて、来てくれないんです」「あなた達、パーティーに参加するのに絶対女性のパートナーを連れていく必要があるの?もちろん七時過ぎまでご飯を食べることはないわ。でもね、私は店番もしないといけない
内海唯花は車を運転して行った。結城理仁は彼女が遠ざかるのを目で送ってから店の中に戻り、まだ片付けられていないハンドメイドの材料を少し見つめた。そして、見てもよくわからないので見るのをやめて、キッチンへと入って行った。店には電子レンジがなかったので、鍋を取り出して水ですすいだ後、水を少し張り、昼食の残りが入った皿もその鍋の中に入れた。そして火をつけておかずを温めることにした。特にすることもなかったので、何気なく冷蔵庫の中を開けてみると、そこにいっぱい詰められた魚介類があった。それは神崎姫華が持って来たものだ。神崎姫華はとても気前よく、車いっぱいの大量の魚介類を持ってきた。内海唯花が神崎姫華に彼の落とし方を教えたので、神崎姫華がこんなに多くの魚介類を持って来たのだ。そして、それを彼が昼食にたくさんいただいたという謎の状況……「唯花さん、唯花姉さん」外から金城琉生が彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。結城理仁はすぐに火を弱火にし、すぐにトイレへと駆け込み、ドアを閉めた。特別な理由はなく、ただ金城琉生は彼に会ったことがあるだけだ。もし金城琉生が彼を見たら、その正体が内海唯花にばれてしまう。結城理仁は金城琉生から彼の正体を唯花にばらされたくなかった。金城琉生は店に入っても誰の姿も確認できず、再び何度か呼んだ。結城理仁は鼻をつまみ、トイレの中から声を高めにして言った。「誰ですか?内海さんは今店にいませんよ。何か用でしょうか?」金城琉生は知らない人の声を聞き、入って来る前に店の前にとまっている一台の車を見た。それは恐らく内海唯花の旦那の車だろう。彼は暫く黙ってから、結城理仁に返事をした。「あなたは唯花姉さんの旦那さんですか?姉さんはどこにいます?そんな大した用事じゃないんです。直接彼女に電話することにします」結城理仁はトイレの中から言った。「妻は今車の運転中だと思います。何か用があるなら私に言ってくれればいいですよ。彼女が戻って来たら伝えておきますから」金城琉生は結城理仁に正直に話せるわけがなかった。彼が今ここにやって来たのは、内海唯花にお願いして、スカイロイヤルホテルで行われるビジネスパーティーに一緒に参加してもらうためだったのだ。金城グループは星城のビジネス界において、一定の地位を得てはいるが、金城琉生は会社
「義姉さん、これは何ですか?」結城辰巳は魚介類の独特な匂いを嗅いだ。「魚介類よ。私の友達が海にバカンスに行って帰ってきた時にたくさん持って来てくれたの。ほとんど新鮮なものよ。私もあなたのお兄さんもそんなにたくさん食べられないから、あなた達におすそ分けしたくて」結城辰巳はおばあさんをちらりと見て、拒否しない様子だったので彼は「こんなにたくさんですか」と言った。彼の家では魚介類は普段よく食べているので他所からもらう必要はない。でも、義姉からもらったものだから、やはり大人しく受け取って家に持って帰ることにした。「おばあちゃん、家族のみなさんにもおすそ分けして食べてね」内海唯花はとても気が利いていて、それぞれの家庭用に袋を分けて入れていた。帰ってからその小分けされた袋をそのまま渡すだけでいい。中に入っている量はどれも同じだから。「わかったわ、みんなに分けるわね」おばあさんは結城辰巳が魚介類を車の上に乗せた後、自身も車に乗り、忘れずに内海唯花に言った。「唯花ちゃん、さっき理仁にメッセージ送ったの。後でここに来てあなたと一緒にご飯を食べるようにってね。その後また会社に戻って仕事しなさいって。今頃ここに来ている途中のはずよ。辰巳はあの子と同じ会社で働いてて、辰巳はもう来たでしょ。早く戻ってご飯を作って、見送りは不要よ」内海唯花「……おばあちゃん、そんなことならもっと早く言ってくれればいいのに。後で食べ残しを温めて食べようかと思ってたの、私一人分がちょうどあるから」おばあさんは言った。「今から作り始めれば間に合うわ。さあさあ、作りに行ってちょうだい。理仁はいつも遅くまで残業しているから、多めに料理を作ってたくさん食べさせてやってちょうだい」おばあさんの前だから、内海唯花も断りづらかった。おばあさんを見送った後、店には内海唯花一人になった。彼女は急いで携帯を取り出し、結城理仁にLINEを送って店に来ないように言おうと思った。彼のためにご飯を作るのが面倒だったのだ。しかし、彼女はLINEを開いてからすでに彼のLINEを消していたことを思い出した。いや、そうではなく、彼が先に彼女のを消したのだ。少し考えてから、内海唯花はブロックしていた結城理仁の電話番号を元に戻した。結城理仁は電話番号をこれまで誰からもブロックされたこと
九条悟は佐々木俊介が浮気をしていることを全く意外に思っていなかった。彼は言った。「君の奥さんのお姉さんは結婚してからかなり大きく変わっただろう。一方、佐々木俊介のほうは昇進して、彼の周りにいる女性たちは彼女よりもきれいだったんだろうな。時間が経っていくうちに、彼は自然と自分の妻に嫌悪感を抱くようになったんだ」結城理仁は冷ややかな目つきと声で言った。「彼女はどうしてあんなに変わってしまったんだ?それは、彼女が彼を愛しているからだろ。自分のスタイルがどうなろうが構わず、彼のために子供を産み育て、子供がいても旦那に安心して仕事をさせるために、一人で子供の世話と家庭のこともしっかりこなしていた。そのために自分の青春も美しさも捨てて家族のために尽くしたんだ」彼も義姉は結婚前と後での変化が大きく、少しはダイエットをしたほうがいいとはわかっていた。しかし、これは佐々木俊介が不倫をしていいという言い訳には決してならない。このような節操の無さは彼のDNAに刻まれていることで、以前はそれを表に出していなかっただけだ。今の彼は会社でも一定の地位に就き、仕事で成功を収め、おごり高ぶっている。それで自分の妻を見下し、嫌っているのだ。佐々木俊介がもし今の唯月を醜いと思っているなら、彼女にダイエットするように言えばいい話なのだ。佐々木唯月は彼に対して今でも情がある。彼が彼女にダイエットするように言えば、彼女は絶対に努力して痩せるはずだ。しかし、佐々木俊介は彼らの結婚生活におして、至る所で唯月を抑圧し、彼女が何をしてもダメ出しばかりで、家庭の出費までも半分ずつ負担するようにと言い出した。佐々木俊介は唯月が今仕事がなく、収入源がないということを知らないのか?「それもそうだな。良識のある男だったら、自分の奥さんが100キロ太ったとしても、心変わりなんかしないだろう」誠実な男というのは、ただ妻が醜くなったとか、太ったとかいう理由だけで浮気したりしない。つまり佐々木俊介は唯月に飽きてしまっただけなのだ。それに、彼がわざと佐々木唯月が豚のようにぶくぶく太るように差し向け、それを理由にして彼女に愛想を尽かし浮気したんだという言い訳にしようとしているのかもしれない。「佐々木俊介にばれないようにしろよ」九条悟ははっきりとこう言った。「安心しろよ、俺がやるっていう
「一緒に飲むか?」結城理仁が住む所にはどこであろうと美酒が用意されている。「遠慮しとくよ。酔うと困るしな。君は酔っ払っても奥さんが世話してくれるだろうけど、俺は独り身なもんだから、酒に酔いつぶれても誰も世話してくれないからさ」「そんな可哀そうな奴みたいに自分で言うな。見合いでもしてさっさと結婚決めて、奥さんに面倒見てもらえ」九条悟はへへへと笑って言った。「君を反面教師として、俺はゆっくりと縁が来るまで待つことにするよ」「俺のどこを反面教師にするって?俺の結婚生活はうまくいってる!」「ああ、ああ、そうだな、うまくいってるよ。ここ数日、君ときたら顔はずっとこわばりっぱなして、仕事の効率もめっちゃ上がってるしな。ただ部下はきつそうだぞ。ここ数日は、会社で自主的に残業する社員と深夜まで残業する奴がどんどん増えてるんだ」結城グループは強制的に従業員を残業させることはしない。ただ自分の仕事をきちんと終らせれば残業をしなくていいだけでなく、退勤時間前でも帰っていいのだった。しかし、自分の仕事は必ず終わらせなければならない。終わらなければ残業は必須だ。その日の仕事を次の日に持ち越してはいけない。結城理仁は今妻と冷戦状態であるから最悪な気分で、その鬱憤を仕事で晴らしている。彼は本来仕事のスピードが速い。それが今、全神経を集中させて仕事に専念しているのだから、仕事の効率は本来のものよりもかなり上がっていて、三日でやる仕事を彼はたった一日で完成させられる。ただ部下たちはそのせいで苦労しているわけだが。「アシスタントの木村さんはあまりの忙しさで水一杯飲む時間すらないんだぞ」結城理仁はサインペンを置いた。「彼らは君に辛いと言ってきたのか?」結城グループ内で、結城家の当主で社長である彼をみんなは敬い恐れている。みんな辛いと思った時には、九条悟に訴えるしかない。九条悟のほうは結城理仁と違って冷たい雰囲気はなく、かなり温和だから言いやすい。しかも結城理仁は九条悟に並々ならぬ信頼を寄せていて、彼をかなり頼りにしている。二人はまた親友でもある。だから、九条悟に訴えておけば、自然と結城理仁の耳に入るというわけだ。「別に訴えられてはないけど、俺が自分で見てそう思っただけだよ。理仁、俺の言うことをよく聞いて、今夜は何かプレゼントを買って帰っ
夕方の退勤時間近くになって、九条悟がたくさんの書類を持って社長オフィスのドアをノックし入ってきた。結城理仁は彼をちらりと見て、すぐ自分の仕事を続けた。彼が座ってから理仁は言った。「お前のアシスタントは何をしているんだ?」「アシスタントは妊娠中だからな。俺って優しいから、彼女に苦労させたくないんだよ。疲れさせちゃったら、旦那さんが怒って俺のとこに来るかもしれないだろ。だから、俺自ら来たってわけ」九条悟はその書類の山を親友の目の前に置いた。「これには全部目を通しておいたよ。問題ないから、君は書類にサインしてくれるだけでいい」九条悟は書類を置いた後、立ち上がりコップにお茶を入れ、また座ってそれを飲みながら目の前にいるその男を見た。結城理仁はかなりのイケメンだ。彼が毎日毎日厳しい顔つきで、冷たい雰囲気を醸し出していても、その整った容姿を隠すことはできなかった。今のように見た目を重視する時代において、彼に何度か会ったことのある若い女性なら、彼をそう簡単には忘れることができないはずだ。とある女性は例外だが。例えば彼らの社長夫人である内海唯花だ。九条悟は本当に内海唯花には感心していた。たった一か月ちょっとの短期間で、彼ら結城グループで最も奥手である男の心の殻を破り、もうすぐその心を完全に開いてしまおうとしているのだから。ただ問題は内海唯花が結城理仁に対して全く恋愛感情を持っていないということだ。彼女はどうしてこうも心を動かされないのだ?結城理仁は彼女に対してとても良くしてあげているじゃないか。彼を慕っている女たちは結城理仁をちょっと見ただけで何年も忘れられないのに。神崎姫華のように何年も諦めずに彼をひたすら追いかけようとしている人もいる。結城理仁は内海唯花のために前例を破るほど、彼女に良くしてあげているというのに、彼女は全くといっていいほど心を動かさない。これこそ九条悟が彼女に感心している点なのだった。「何を見ている」結城理仁は顔を上げてはいないが、親友が自分を見つめているのがわかっていた。「君はカッコイイなぁと思ってさ。理仁、本当にイケメンだよな。その厳しく冷たい性格のおかげだ。もし優しい奴だったら、みんな君のことを女の子だと勘違いしちまうぞ。もし君が女なら、君より綺麗な女性は絶対いないだろうから、他の女性は恥ずか
佐々木俊介はそう言うと、仕事を一旦放っておいて、成瀬莉奈を連れて会社を出た。彼は部長で、成瀬莉奈は彼の秘書だ。普段、佐々木俊介が商談をしに行くときには、成瀬莉奈をよく連れて行くから、二人が一緒に会社を出ていくのを見ても、誰も何も言わなかった。ただ清掃員のおばさんは会社のゲートで佐々木俊介が車で成瀬莉奈を連れて出て行ったのを見て、年配の警備員に言った。「佐々木部長は毎日成瀬秘書と一緒にいて、唯月ちゃんはこの二人が浮気していると心配じゃないのかしらね」佐々木唯月がこの会社に勤めていたから、昔からここで仕事をしていた従業員たちはみんな彼女のことをまだ覚えているのだ。警備員は清掃員のおばさんを一瞥して「いまさら?」という顔をした。彼は周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、声を潜めておばさんに言った。「毎日会社の隅から隅まで掃除しているってのに、何も知らないのか?佐々木部長は成瀬秘書ととっくにできているんだぞ」清掃員のおばさんは意外そうに声を上げ、興味深々に尋ねた。「あなたはどうやって知ったんだい?」「目のある人ならわかるだろうよ。仕事が終わった後、成瀬秘書はいつもブランド品を身につけ、綺麗に着飾ってるんだぞ。彼女が持っているバッグは5、60万円もかかるルイヴィトンのものだ。成瀬秘書の収入で、あんな生活はきっとできない。彼女は一般家庭の出だろう。ブランドの服、バッグ、それとネックレス、それは絶対佐々木部長が買ってあげたもんに決まってるさ。仕事が終わったあと、あの二人が仲良さそうに夜食を食べているのを見た人もいるんだぞ。あの二人の間に何もないなんて、誰が信じる?」おばさんは言った。「唯月ちゃんはまだ知らないでしょうね。彼女は佐々木部長と結婚した時、会社の全員をパーティーに招待したでしょ。あの時の唯月ちゃんがどれほど幸せそうに見えたか、いまだに覚えているよ。花嫁の唯月ちゃんは本当に誰の目も奪うほどきれいだったわ。あれからまだそんなに経ってないのに、佐々木部長はもう浮気してるなんて。男はね、やっぱりお金があると豹変するもんね」彼女は佐々木唯月がかわいそうだと思っていた。「唯月さんはこの二年間あまり会社へ佐々木部長に会いに来なくなったな。きっと主人が浮気しているのをまだ知らないんだろう。成瀬秘書もそんなに大人しい性格じゃないから、待