「行こう」結城理仁は心の中で内海唯花に小言を呟いたが、直接彼女に何か言ったりしたりはしなかった。内海唯花は彼の妻だが、名義上だけだ。お互いに見知らぬ人と変わらなかった。運転手は何も言えず、また車を出した。一方、内海唯花は夫の高級車にぶつかりそうになったことを全く知らず、電動バイクに乗ってまっすぐ店に戻った。牧野明凛の家は近くにあるので、彼女はいつも内海唯花より先に店に着いていた。「唯花」牧野明凛は店の準備が終わってから、買ってきた朝食を食べていた。親友が来たのを見て、微笑んで尋ねた。「朝もう食べたの」「食べたよ」牧野明凛は頷き、また自分の朝食を食べ始めた。「そういえば、おいしいお菓子を持ってきたよ、食べてみてね」牧野明凛は袋をレジの上に置き、親友に言った。電動バイクの鍵もレジに置くと、内海唯花は椅子に腰をかけ、遠慮なくその袋を取りながら言った。「デザートなら何でも美味しいと思うよ。あのね、明凛、聞いて。ここに来る途中で、ロールスロイスを見かけたよ」 牧野明凛はまた頷いた。「そう?東京でロールスロイスを見かけるのは別に大したことじゃないけど、珍しいね。乗っている人を見た?小説によくあるでしょ、イケメンの社長様、しかも未婚なんだ。そのような人じゃない?」内海唯花はただ黙って彼女を見つめた。にやにやと牧野明凛が笑った。「ただの好奇心だよ。小説の中には若くてハンサムなお金持ち社長ばかりなのに、どうして私たちは出会えないわけ?」「小説ってそもそも皆の嗜好に合わせて作られたものでしょ。どこにでもいるフリーターの生活を書いたら誰が読むのよ、まったく。社長じゃなくても、せめてさまざまな分野のエリートの物語じゃないとね」それを聞いた牧野明凛はまた笑いだした。「そうだ。唯花、今晩あいてる?」「私は毎日店から家まで行ったり来たりする生活をしてるだけだから暇だよ、何?」内海唯花の生活はいたってシンプルだった。店のこと以外は、姉の子供の世話だけだった。「今晩パーティーがあるんだ。つまり上流階級の宴会ってやつなんだけど、一応席を取ったから、一緒に見に行きましょ!」内海唯花は本能的に拒絶した。「私のいる世界と全く違うから、あんまり行きたくない」 確かに月収は悪くないのだが、上流階級の世界とは次元が違うので、全
パーティーが開かれた場所はスカイロイヤルホテル東京だった。普段なら内海唯花とは縁のない所だった。スカイロイヤルホテル東京は市内の最高級ホテルの一つとして、七つ星ホテルと言われているが、果たして本当にそうなのかどうか、内海唯花は知らなかったし、個人的に興味もなかった。内海唯花たちより先にホテルに着いた牧野のおばさんは知り合いの奥さんたちと挨拶を交わした後、息子と娘を先にホテルに入らせて、玄関で姪っ子が来るのを待っていた。姪っ子を迎えに行かせた車が他の車の後ろについてゆっくり到着したのを見て、彼女の顔に笑みが浮かんだ。すると、牧野明凛は海内唯花を連れておばさんの前にやってきた。「おばさん」「おばさん、こんばんは」海内唯花は親友と一緒に挨拶をした。 姪っ子が内海唯花を連れて来ることを知った牧野のおばさんは、少し気になっていた。実際に彼女に会ったことがあるからこそ、この両親を失った娘が自分の姪っ子より美人であることを認めなければならなかった。いたって普通の家庭出身なのに、顔立ちと仕草にはどこかお嬢様の気品が漂っていた。彼女と一緒だと、姪っ子の美しさが霞んでしまうのではないかと心配していたが、もう結婚していると義姉から聞いて、一安心した。目の前の内海唯花をよく見ると、彼女はドレスすら着ていなかった。普段着に薄化粧しているだけで、高いアクセサリーもつけていなかった。彼女のその生まれつきの美しさもおしゃれした姪っ子の前では覆い隠されてしまい、牧野のおばさんはやっと安心して頷いた。内海唯花は本当によく気の利く、物分りがいい娘だと思った。「よく来たね。私が連れて行ってあげるわ。明凛、招待状を出しておいてね。中に入るのに必要なんだ。チェックしないと」牧野明凛は慌てて自分の招待状を出した。「中に入ったら言葉には気をつけるのよ。ちゃんと見てちゃんと聞くの。頃合いを見計らって紹介してあげるわ。唯花ちゃん、あなたは明凛より大人だから、彼女が何かやらかさないように見張ってちょうだいね。お願いするわよ。スカイロイヤルホテル東京はここの社長が管理しているホテルの中の一つなの。その家のお坊ちゃんたちも今夜のパーティーに顔を出すかもしれないわ」牧野のおばさんはこっそりと姪っ子に言った。「明凛、もしあなたがここの御曹司のご機嫌を取ることができたら、牧
結城理仁は大勢の人に囲まれて入ってきて、隅っこに隠れていた新妻がいることに全く気付かなかった。内海唯花も同様、人垣をかき分けて自分の夫を見るすべもなかった。 暫く背伸びして眺めていたが、当事者の姿が全然見えないと、すっかり興味を失ったように椅子に座り直して、親友を引っ張りながら言った。「どうせ見えないから、見なくてもいいよ。食べましょ」彼女にとって、今晩ここに来た一番重要な課題は食べることだから。「唯花、ここでちょっと待ってて、さっき誰が来たのか、ちょっとおばさんに聞いてくる。こんなに大勢が集まるって、まるで皇帝のご帰還じゃないの」内海唯花は適当に「うん」と相槌した。牧野明凛は一人でその場を離れた。 取ってきたものを全部食べ終わった内海唯花は空になった皿を持って立ち上がった。みんなが偉い人の所へ行っているうちに、自分は簡単に食べ物が取れて、他人の異様な視線も気にしなくてよかったのだ。結城理仁は入ってくると、まず今夜のパーティーを主催した社長と世間話をしていた。周りのボディーガード達はしっかり周囲の動きに注意を払っていた。なぜなら、この若旦那は女が近づいてくるのを好まなかったからだ。毎回こういう場面で彼らがいつも付いていくのは、不埒なことを考える人から若旦那を守るためだった。名高いボディーガードの身長も高いので、視線も他人より高く、遠くまで見える。本能的に会場を見回していると、女主人の姿を見たような気がした。結城理仁は正体を隠して海内唯花と結婚したのだが、周りのボディーガードは彼女のことを知っていた。そのため、最も内海唯花を知るのは結城おばあさんを除けば、このボディーガード達だった。内海唯花を見たボディーガードは最初、自分の見間違いだと思って、目を凝らしていたが、やっぱりその人は女主人様じゃないか。彼女は自分の夫が来てもかまわず、二つの皿を持ちながら、自分の好きなものを楽しく選んでいた。やがて、お皿が二つともいっぱいになると、その二皿分の料理を持ち、人に気づかれにくい隅っこのテーブルへ行った。 そして、何事もなかったかのように、食事を楽しんでいた。 ボディーガードは無言になった。「......」結城理仁が何人かの顔見知りの社長たちと話を済ませた後、そのボディーガードは隙を見て彼の傍へ来て、小声で報告した。「若
牧野明凛はグラスを口元まで持ち上げて、ワインを一口飲んだ。「小説の読みすぎじゃない?同名同姓の人なんかそこら辺にたくさんいるわよ。同姓というなら、京都の有名な大金持ちの苗字は鈴木だよ、世の中の鈴木さんは全部彼の親戚というわけ?」牧野明凛は笑った。「それもそうだね」「うちのはただのサラリーマンで、持ってる車も250万ぐらいのホンダ車よ。結城家の御曹司もそういう車にするの?もう、考えすぎだよ」内海唯花は玉の輿なんて考えたこともなかった。夢を見るのはいいのだが、見すぎるのはよくないと思っていた。「ところで、結城家の御曹司って、そんなに女性のことを拒絶してて、ホモなんじゃ?結婚してるの?」内海唯花はそのお坊ちゃんの顔には興味なかったが、彼がそんなに女性の接近を拒絶しているのは、高潔であるか、あるいは何か問題があるか、アッチ系なのかもしれないと思っていた。「結婚の話は聞いたことないわね。私たちは庶民とはいえ、結城家の当主が結婚したら、東京中、絶対大騒ぎになるよ。ネットといい、新聞といい、彼の結婚のニュースでもちきりになるわよ。それがないってことはつまりまだ独身だってことでしょ」牧野明凛はグラスを置いた。「そうだね、何か問題があるかもしれないよね。だって、そんなに立派な男性なら、恋人がいないなんておかしいわよ」「お金持ちの考えなんて、私たちには一生わからないかもよ。もう、食べましょうよ。食べ終わったらさっさと帰りましょ」「うん」と牧野明凛が答えてから、二人はまた遠慮なくご馳走を楽しんだ。多くの人が二人のことを見た。ある人はすぐ目をそらしたが、またある人は嫌そうな顔をして、あざ笑った。どこかのご令嬢が若い使用人を連れてきて、今までろくなものを食べたことがないみたいに、一晩中ずっと隅っこで飲み食いしているなんて、はしたない。それにしても、この二人よく食べたね!「明凛姉さん」牧野のおばさんの息子である金城琉生が近づいてきた。彼は牧野明凛より三歳年下で、幼いころから仲のよかった従弟だ。親に付き合って一週挨拶回りした後、母親は突然従姉の明凛のことを思い出すと、彼に頼んで探させた。「琉生、こっちに座って」牧野明凛は椅子を引いて、従弟を座らせた。内海唯花が笑顔を見せると、金城琉生は顔を少し赤く染めて、彼女にグラスをあげ、
牧野明凛は満足そうに食べ終ると、金城琉生の話を聞いて笑い出した。「琉生、おねえさんはね、逸材な男なんかに全然興味ないのよ。今晩唯花と一緒に来て、ただ視野を広げるついでに、ご馳走を楽しんでるの。さすが七つ星のホテル、食べ物が全部おいしかったよ。私たちはもう満足したわ」金城琉生は無言になった。「......」「もう満足したし遅いから、琉生、先に唯花と一緒に帰るね。おばさんに言っておいて」それを聞いた金城琉生は少し焦った。チラッと内海唯花のことを見ながら言った。「明凛姉さん、もう帰っちゃうの?パーティーはまだまだ続くんだ。まだそんな遅い時間じゃないじゃないか。十一時まで続くらしいよ」「私たち、明日も店を開かないといけないから、夜十一時までいられないよ」と内海唯花は答えた。金城琉生も二人につれて一緒に立ち上がった。「でも、店なら少しくらい遅れてもいいんじゃないんですか」内海唯花の隣について、彼は二人の姉をもう少し引き止めようとしていた。「そうはいかないよ。うちは毎日、登校下校塾帰りのラッシュ時間に稼いでるんだよ。朝を逃したら、結構な損なんだから」牧野明凛は自分の従弟の方を叩き、からかうように笑った。「琉生、一人で楽しんでね。まだまだ子供だけど、もし好きな子が見つかったら、恋愛はどういうものか、試してもいいんだよ」またチラッと内海唯花を見た金城琉生は顔を赤らめて、はにかんだように言った。「明凛姉さん!僕まだ大学を卒業したばかりだよ。何年か働いてから結婚のことを考えるつもりだ」海内唯花は何気なく言った。「男の子なんだから、そんなに焦らなくても。まだ二十二歳でしょう。二年でも経ってからまた考えてもいいんじゃない」金城琉生がうなずくと、彼女はまた懐かしそうに声をあげた。「琉生君に出会った時、まだまだ子供だったよね。あっという間にこんなに立派になっちゃって」「......」彼はまた黙ってしまった。姉たちを止められず、金城琉生はやむを得なく二人をホテルの外まで送り出した。 「明凛姉さん、車で来たんじゃなかった?」「おばさんが迎えの車を手配してくれたよ」牧野明凛は全然気にしてなかった。「唯花とタクシーで帰るから、琉生、戻っていいよ。おばさんに言っとくのを忘れないで。じゃ、先に帰るよ、楽しんできて」ホテルの入り口にもた
東京の商業界では、結城理仁に認められようものなら、これからチート人生が送れるに違いなかった。未来が保証されるのだ。金城夫妻が息子をパーティーに連れて来るのは、子供にここで友人を作ってもらい、将来のために後ろ盾を作っておいてもらいたいからだ。「金城さん、先程は?」「姉たちを送ってきたところです」金城琉生は結城理仁の言葉を待たず、先に自分が今何をしていたのか恭しく説明した。この場を好まず、ホテルのサービスも気にくわないと結城理仁に誤解されるのを恐れたのだ。スカイロイヤルホテル東京は結城家が所有するホテルの一つだからだ。結城理仁はうんと頷いて、金城琉生の前を通り過ぎた。ただ礼儀として目の前にいた金城琉生に挨拶を交わしたかのように。まだ状況をよく把握しきれない金城琉生が知ったのはただ、大勢の人に囲まれた結城理仁がここから離れると、自分がたちまち誰にも知られないモブになってしまったことだった。結城理仁はパーティーに出る時は、ほとんど少し顔を出すだけで、長居はしないので、みんなも慣れたことだった。どの短い時間に機会を逃さず結城理仁と商売の話ができた社長たちは思わずこっそり笑みを浮かべた。これはスピードの勝負だった。チャンスをつかんだ彼らはすっかり満足したのだ。まもなく、「世田谷XXX‐777」というナンバーがついたロールスロイスが数台のガード車に守られ、スカイロイヤルホテル東京から去っていた。「若旦那様、今日はどちらへ帰られますか」運転手は車を走らせながら尋ねた。結城理仁は腕時計を見て、まだ九時だと確認した。彼にとってこの時間はあまりにも早かった。暫く考えてから決めた。「トキワ・フラワーガーデンへ」畏まりましたとドライバーが応じた。 意外なことに、内海唯花より彼のほうが先に家に帰った。誰もいない、温かさも感じられない、誰もいない小さな家だ。結城理仁はソファに座り、退屈そうにテレビを見ながら、先にホテルを出てまだ帰ってこない妻を待っていた。ボディーガードはパーティーで撮った内海唯花の行動の写真を彼の携帯に送ってきた。結城理仁は一枚ずつゆっくりと見て、この女、何年もいい物をろくに食べたことがないかのようにずっと食べていた。という結論を出した。しかし、他の男を誘うよりは、隅っこでこっそり食べているほうがましだ
「うん」 結城理仁は低い声で返事した。内海唯花は透明なビニール袋を一つ持って、近づいてきた。「おいしい納豆を買ってきましたよ。食べますか」結城理仁は思わず暗い顔をして彼女を睨んでいた。パーティーでひたすら食べていたのに、あれでもまだ満足できなかったか。どんだけ食いしん坊なんだ!「匂いはきついかもしれませんが、食べれば食べるほどおいしく感じますよ。私が大好きだったあの男性も好きでしたよ」内海唯花はそのまま結城理仁の隣に座り、ビニールを開けた。納豆の匂いが漂ってくると、結城理仁は慣れない匂いにむせないように距離を取ろうと、さりげなく少し横へ体を動かした。「好きだった男?」「一万円札のあの方ですよ」「......」お金は結城理仁にとってただキャッシュカードに表示された無意味の数字の並べでしかなかった。「一口だけ食べてみませんか。本当においしいですよ。独特な匂いだけど、私は結構好きですよ」「いらない、自分で食べてろ。それに、ベランダで食べてくれないか?俺はこういう匂いが苦手なんだ」彼のへどが出そうな顔を見ると、内海唯花は慌てて袋をもって距離をとりながら心の中で呟いていた。収入が高い人は生活も普通の人と違って、拘っているんだねと。彼女はベランダで楽しんで残った納豆をいただいた。その後姿を部屋から見ていた結城理仁は顔色をコロコロ変えたが、結局何も言わなかった。人の好みはそれぞれだから。「結城さん、今晩残業がないなら、明日はちょっと早く起きてもらえませんか」ベランダで内海唯花は部屋にいる男に問いかけた。結城理仁はしばらく無言で、やや冷たく返事した。「なんだ?」もともと無愛想な人なのでしょう。だって初めて彼に出会った時から、いつも冷たい言葉遣いをしていたから。内海唯花は思わず心の中で彼のことをツッコんだ。しかし、ただ一時的に一緒に暮らすだけだから、それができなくなったら離婚すればいいだけの話だ。「車で市場の花屋まで送ってもらいたくて。鉢植えの花を買って、ベランダで育てたいんですが、車を出してくれたら助かります」結城理仁は何も言わなかった。「もし早く起きられないんでしたら、車を貸してくれるだけでもいいですから。自分でも行けますよ」「何時?」結城理仁は少し悩んだが、結局彼女に時間
「今晩店にいなかったんですよ。友達からパーティーに一緒に来てくれって頼まれましたから、その子に付き合って行ったんです。そういえば、結城さんに聞きたいことがあるんです。答えてくれませんか。」結城理仁の向かいに腰をかけた内海唯花は大きくてきれいな目で男を見つめた。彼女は知っていた。いつも無愛想で冷たく、彼女に対する態度もあまりよくない結城理仁は心のなかに防衛線を張っていた。他の人ではなく、彼女だけを警戒していた。しかし、彼は本当に整った顔をしていた。外の一番美しい風景のようで、見ているだけでも満足が得られる。「今夜のパーティーはスカイロイヤルホテル東京でやっていました。そのホテルは東京の大富豪が経営しているそうです。今夜、その大富豪の御曹司も来ていて、彼の苗字がなんと同じ結城だそうですよ。結城さんはその大富豪家と関係ないでしょう?」結城理仁は顔色も変えず、淡々と「五百年前なら同じ釜で飯を食べたことがあるかもしれない」と答えた。内海唯花はほっとした。笑いながら言った。「そうですよね。全く関係ないんですよね」ほっとしてから嬉しそうにしていた彼女に、結城理仁は思わず問いかけた。「俺にあの家と関係があってほしくないのか?」「もう夜ですね」内海唯花はニコニコしながら言った。「寝言なら寝て言ってくださいね」「もし大富豪の結城家と関係があったら、見知らぬ私なんかと結婚するものですか。どう考えても、答えははっきりしているでしょ。私が結城家のお嫁になる可能性は毎日スカイロイヤルホテル東京へ食事をしに行くほど低いですよ。たとえ結城さんが分家の人だったとしても、釣り合わないと思って、気楽に一緒に暮らせませんよ」「あなたたちが何の関係もなくて、私たちがお互い同じレベルにいるからこそ楽なんです」結城理仁は黙っていた。「おばあさんに聞きました。大企業で働いていますよね。結城御曹司のことを知っていますか。その大富豪家のお坊ちゃまのことです。彼が今晩来た時、まるで王様が帰還したように、周りの人にちやほやされていて、私は明凛と背を伸ばしても、ひと目も見ることができなかったんですよ」結城理仁は相変わらず沈黙を貫いて、内海唯花を見つめている目がさらに冷たくなった。「その結城さんにはいつもボティーガードがついていて、若い女性が近づくのは許されていないそう
結城理仁は椅子に少し座ってから、会社に戻ろうとした。内海唯花が食器を洗い終わりキッチンから出てくると、彼が立ち上がり出ていこうとしていたので、彼に続いて外に出て行った。彼は一言もしゃべらず、車から大きな封筒を取り、振り返って内海唯花に手渡し声を低くして言った。「この中に入ってる」内海唯花は佐々木俊介の不倫の証拠を受け取り、もう一度お礼を言おうとした。その時彼のあの黒く深い瞳と目が合い、内海唯花は周りを見渡した。しかし、通りには人がいたので、やろうとしていたことを諦めた。「車の運転気をつけてね。会社にちゃんと着いたら私に連絡して教えてね」結城理仁は唇をきつく結び、低い声で返事をした。彼は車に乗ると、再び彼女をじいっと深く見つめて、それからエンジンをかけ運転して店を離れた。内海唯花はその場に立ったまま、遠ざかる彼の車を見つめ、彼らの間に少し変化があるのを感じた。彼が自分を見つめる瞳に愛が芽生えているような気がした。もしかしたら、彼女は気持ちをセーブせず、もう一度思い切って一歩踏み出し、愛を求めてもいいのかもしれない。半年の契約はまだ終わっていないのだから、まだまだチャンスはある。そう考えながら、内海唯花は携帯を取り出し結城理仁にLINEを送って彼に伝えた。「さっきキスしたかったけど、人がいたから遠慮しちゃったわ」メッセージを送った後、彼女は結城理仁の返事は待たなかった。少ししてから、内海唯花は大きな封筒を持って店に入っていった。佐々木陽は母親の懐でぐっすり寝ていた。牧野明凛は二匹の猫を抱っこして遊んでいて、内海唯花が入って来るのを見て尋ねた。「旦那さんは仕事に行った?」「うん、仕事の時間になるからね。彼は仕事がすごく忙しいから夜はよく深夜にやっと帰ってくるの」内海唯花も二匹の子猫を触った。結城理仁が彼女にラグドールを二匹プレゼントしてくれた。彼女に対して実際とてもよくしてくれている。犬もとても可愛い。ペットを飼うことになったので、彼女は後でネットショップで餌を買うことにした。「お姉ちゃん、あそこにソファベッドがあるから陽ちゃんをそこで寝かせたらいいよ。ずっと抱っこしてると疲れるでしょ」内海唯花は姉のもとへ行き、甥を抱き上げて大きな封筒を姉に渡して言った。「これ、理仁さんが友達に頼んで集め
結城理仁もこう言っているので佐々木唯月はそれ以上何も言わず、息子に使い捨て手袋をはめてあげた。食事の後、結城理仁はまた妻を手伝いに食器を片付けてキッチンに入り皿洗いをしようとしていた。佐々木唯月は妹の前で義弟を褒め、妹にも結城理仁に必ずよくするように言っていた。彼女は自分の結婚が失敗したので、妹に結婚に対する悪い印象を植え付けてしまうのを恐れていたのだ。佐々木俊介はゲス男だが、全ての男が彼のようであるわけではないのだから。この世には良い旦那さんもいるのだ。ただ佐々木唯月の運が悪く、そのように良い男性と巡り合えなかっただけだ。内海唯花はしょうがないといった様子で言った。「お姉ちゃん、わかってるから。一日に何百回も彼を褒めなくていいってば。私もキッチンに行ってお皿洗い手伝ってくる」そう言うと、急いでキッチンに入っていった。また姉から結城理仁がいかに素晴らしいか説かれ、理仁によくしてやれと聞かされるのを避けるためだった。姉の言いっぷりでは、まるで彼女がいつも結城理仁をいじめて、悪く扱っているかのようだ。牧野明凛はその横でこっそり笑っていた。結城理仁が食器を洗おうとしたところに足音が聞こえてきて、キッチンの入り口へ目をやってみると、そこには内海唯花がいた。「俺が洗うよ。君は座って休んでて。こんなにたくさんの海鮮料理を作ったんだから、とても疲れているだろう」「あなたも食べにくると思ったから、こんなにたくさん作ったのよ」内海唯花は彼を押しのけた。「あなたこそゆっくり座ってお茶でも飲んでて、私が洗うから。お姉ちゃんったら私があなたを悪く扱って、いじめてるんじゃないかって心配してるんだからね。一日中私の前で『結城さんは良い人だから、よくしてあげなさい』ってぶつぶつ言われるのよ。もう耳にタコができるくらい」結城理仁は食器洗い争奪戦には参加せず、手を洗った後、それに賛同して言った。「お姉さんは自分自身で経験したから、何もかも全部わかっているわけだ。彼女の話は間違っていない」内海唯花「……」「君の義兄さんが不倫している証拠、持って来たよ。車に置いてあるんだけど、今お義姉さんに持って行こうか?」「こんなに早く証拠が集まったの?」結城理仁はうんと一言答え、言った。「俺の友人は情報網がすごいからな。あっという間に集めてくれ
彼は振り向いたが、内海唯花は彼を見ておらず、料理を盛ったお皿二つを持っているのを見た。そのお皿を見てみると、一つは野菜炒めで、それ以外は全部海鮮料理だった。これは、神崎姫華が彼女に持って来た海鮮じゃないか!彼は大きな歩幅で近づいて行き、内海唯花の手から二つのお皿を受け取って言った。「キッチンに入ったんだし、これは俺が持って行くよ。君が何度も取りに来る必要ないだろう」「ありがとう、結城さん」そのお皿を持って行こうとしていた結城理仁は突然足を止め、振り返って彼女を見た。「どうしたの?」内海唯花は彼にお皿二つを渡した後に、また他の料理が入ったお皿二つを持った。真っ黒な瞳で見つめられて、彼女は顔を下に向け自分の服が汚れているのかと思ったが、別に汚れてはいなかった。「あの、今後『結城さん』って呼ばないでもらえるかな?」結城理仁は少し怒った様子で自分の不満を吐き出した。彼女との付き合いにおいて、彼が何か不満があるのなら直接彼女に言ってしまったほうがいい。曖昧な態度では彼女に気づいてもらおうとしても、申し訳ないが、彼女にはそんな時間もないし、どういうことなのか考えようともしないのだから。彼女は頑なに契約書に書かれてあることを厳守している。「じゃあ、なんて呼べばいいの?」結城理仁は唇を一の字に結び、瞬時には彼女にどう答えればいいのかわからなかった。「さん」付けで呼んでもらっても、まだ距離を感じると思った。呼び捨てで呼んでもらおうか。でも、よくよく考えると彼女は呼んでくれないだろう。それに彼も彼女からそう呼ばれるのは慣れないようだ。「好きに呼んでくれていい」結城理仁はそう言うと、お皿二つ持って出て行った。内海唯花は小声でぶつぶつ言った。「『結城さん』って呼ばないで、『理仁』って親しげに呼んでも、返事してくれるのかしら?」彼は今は結婚を隠しておくと言っていた。今に至るまで彼ら二人が夫婦だと知る者は多くない。内海唯花はもう気にせず、すぐに料理を運んで行った。牧野明凛と佐々木唯月はすでにテーブルや椅子を整え、きれいに拭いていた。夫婦二人が料理を運んで来るのを見て、牧野明凛と佐々木唯月も手伝った。今日はおばあさんがこの場にいなかったから、結城理仁に唯花のためにエビの殻を剥くようにという指示はなかったが
「結城さん、あなたも来ていたのね」妹の旦那もいるのを見て、佐々木唯月は彼に笑顔を見せた。そして、息子を抱き上げてその可愛い顔に何度もキスをした。キスされた陽は嬉しそうにキャッキャッと笑った。「義姉さん、こんにちは」結城理仁は義姉に挨拶をした。「あら、このワンちゃんと猫ちゃんどうしたの?可愛いわね!」佐々木唯月は息子にキスをした後、店に増えた新しい仲間を見つけた。「結城さんが飼っていいって私にプレゼントしてくれたの。お姉ちゃん、仕事が見つかったって?」姉が入って来る時に見せたあんなに嬉しそうな様子を内海唯花は久しぶりに見た。佐々木唯月は先に義弟が買って来たペットたちが可愛いと褒めて、妹に返事をした。「見つかったの。本当に不思議なんだけど、知り合いに会ったのよ。唯花、私がどこで働くと思う?東グループよ」内海唯花は普段からあまり大企業に関心がなかった。この町にある有名な結城グループは親友がよく結城家の御曹司の話をしていたので彼女は知っていた。結城理仁とスピード結婚した後は、理仁が結城グループで働いているから、彼女はこの会社についてよく知ることになった。神崎グループについては、神崎姫華のおかげで彼女は知ることになったのだ。それ以外の大企業の名前に関しては、内海唯花は本当に関心を持ったことがなかった。彼女はそのような大企業に勤める人とは知り合うことはないと思っていて、興味を持つことすらなかったのだ。もしそんな時間があるなら、ハンドメイドをして売ってお金を稼いだほうがいい。東グループだと聞いた後、彼女は笑って尋ねた。「お姉ちゃん、東グループって大企業なの?そこに転職した昔の同僚と会ったの?」佐々木唯月は仕事が見つかって機嫌がとても良かった。妹の前で隠し事をする必要もないので、正直に事の経緯を妹に話した。内海唯花は姉からそれを聞いて少し腹を立てた。姉は確かに太ってはいるが、その長澤とかいう面接官が姉を軽蔑するとは、少し性格が悪いと思った。東さんに偶然会わなかったら、姉は外に放り出されていたのだから。「唯花、お姉ちゃんも悪かったの。私もその時かなり衝動的に話しちゃったし、長澤さんを怒らせてしまったのよ。もう終わったことだし、仕事も見つかったし、長澤さんとは今後同僚になるんだから、今日あった嫌な事はもう言わないことにするわ。
彼女のそのセリフを聞いて、結城理仁は口を引き攣らせた。しかし、言い返すことはしなかった。なぜなら、あれは彼が彼女に部屋に入るなと言ったからだ。それと同じように、彼女の部屋にも彼は入ってはいけない。結城理仁はまた自分が作成したあの契約書は自分の首を絞めることになったと思った。彼はまさか自分が先にその契約を破りたいと思うことになるとは夢にも思っていなかった。後悔してもいいだろうか?彼女の分の契約書はどこにあるのだろう?彼が彼女の不在時にこっそりとあの契約書を取り戻して跡形もなく消し去ってもいいだろうか?このような考えが結城理仁の頭の中によぎったが、彼はそれをすぐに抑え込んだ。結城家の当主たる者、そのような恥知らずな事はできるはずもない。「可愛い犬ね」牧野明凛は犬のフサフサな毛を撫でて、可愛いと褒めた。結城理仁の目利きは良い。選んだ犬と猫はとても可愛かった。佐々木陽は言うまでもなく、結城理仁に抱っこされていた彼は下に降りると暴れ出した。犬と遊びたかったのだ。内海唯花は携帯を取り出すと、犬と猫の写真を撮った。しかし、すぐにはインスタにアップしなかった。結城理仁はちょっと前まで彼女のインスタもフォローしていたのだが、今は……彼はフォローを外していたのだ。「内海さん、さっき撮った写真を俺に送ってくれないかな」結城理仁は彼女の機嫌が良い隙を見計らって、彼女のLINEを取り戻そうとしたのだ。内海唯花はしれっと「あなた、私のLINE友だちを削除したでしょ。どうやって写真を送るのよ。自分で好きなだけ写真を撮ったらいいわ」と言った。結城理仁は黙ってしまった。少しして、彼は内海唯花の傍に近寄っていくと、こっそりと彼女の服を引っ張った。内海唯花が彼のほうへ目線を向けた時、彼の整った顔が少し赤くなっていた。「内海さん、俺が間違ってた。俺達、もう一回友だち登録しないか?」内海唯花は目をぱちぱちさせた。彼の顔はどんどん赤くなっていった。彼のようにプライドが高い人がこのように低い姿勢を見せて、わざわざ犬と猫を買ってきて飼ってもいいと言ってくれたので、唯花は寛大にLINEのQRコードを開き友だち登録をした。「今後、また私を削除したら、永遠にブロックして二度と友だち登録してあげないんだからね」結城理仁は彼女と友だ
東隼翔と佐々木唯月が去った後、そこにいた面々はざわつき始めた。みんなは社長と佐々木唯月がどうやって知り合ったのか予想していた。さっきの様子を見るからに、社長は佐々木唯月をとても気にかけているようだった。「もしかして社長の親戚かな?」「親戚なわけないよ。あの太い女性は『東さん』って礼儀正しく呼んでいたし、二人はきっと顔見知り程度で、仲が良いってわけじゃないと思う」「なあなあ、うちの社長ってもしかしてあの太った女性が好きだったりして?社長ももう35歳なんだ。彼女もいないし」東隼翔も若くて有能な大物社長の一人だ。しかし、彼の顔にはくっきりと刀傷があり、背も高く勇猛である。目つきは鋭く、彼を見た人はヤクザなのではないかと直感的に思ってしまう。それで35歳に至るまで彼女がいなかった。みんなはその言葉を言った人のほうを見つめ、長澤はその相手の頭をぽんと叩いて言った。「このアンポンタン。なんでそんな考えになるのよ。あの太った女の人、女である私も毛嫌いするくらいよ。あんたたち男は尚更でしょう。うちの東社長だって顔にあの傷があるだけで、その傷があるほうの顔を見なければ彼ってすごくイケメンでしょ。東社長の身分も考えれば、彼がその気になればどんな美人とだって結婚できるわよ。なんでデブ女なんかに手を出さないといけないのよ。それに、佐々木さんは結婚してて、2歳過ぎの息子がいるわ」それを聞いて野次馬たちはあの二人が男女関係にあるという妄想をやめた。しかし、それでも佐々木唯月と東隼翔の関係が気になっていた。東隼翔は佐々木唯月にジョギングをしてダイエットする要求までしていた。これは明らかに佐々木唯月に良かれと思ってのことで、二人が全く何の関係もないと言われても信じる人はいないはずだ。彼らの噂を聞いたら東隼翔は自分は彼女とは何も関係がないのにとぼやくことだろう。……神崎姫華は昼の十一時に唯花の店を出ると、急いでスカイロイヤルホテルに結城理仁を待ち構えに行った。内海唯花がご飯を作り終わったところに、結城理仁が店に着いた。「おいたん」おもちゃで遊んでいた佐々木陽は結城理仁が入って来るのを見ると嬉しくなって呼びかけ、手に持っていたおもちゃを置き、大喜びして理仁のほうへ走っていった。内海唯花はどうして甥が氷のように冷たい顔をした結城理仁
東隼翔の話を聞き、長瀬は顔を真っ青にさせた。しかし、自分で言い訳をすることもできず、大人しく彼に返事した。「社長、私が間違っていました。このようなことは二度といたしません」そして、佐々木唯月の前までやって来ると、申し訳なさそうに言った。「佐々木さん、人を見た目で判断して、あなたに侮辱的なことを言ってしまいました。大変申し訳ありませんでした。すみません。お許しください」佐々木唯月も怒りを収め、すまなさそうに言った。「長澤さん、私も悪かったです。激怒して、口調が悪くなってしまいました。私のことも許してください」二人はお互いに謝罪をし、長澤は佐々木唯月にいつから仕事に来られるか尋ねた。仕事が決まって、佐々木唯月は内心とても喜び、笑顔になって言った。「私はいつからでも働けます」「それでは、明日から会社に来てください」「わかりました。長澤さん、ありがとうございます。東さんも」佐々木唯月はお礼を言った後、履歴書を持って嬉しそうに出て行った。「佐々木さん」東隼翔は彼女を呼び止めた。佐々木唯月はすぐにその足を止め、後ろを振り返って笑顔で彼に尋ねた。「東さん、何かご用でしょうか」「あなたは明日から仕事に来るんですよね。仕事の前に毎朝外の花壇周りの道を五周走るようにしてください。しっかり五周走ってから仕事に来るように」東隼翔も佐々木唯月は太り過ぎで見た目が悪いと思っていた。親友の面子を考えて佐々木唯月を雇用したのだ。他の社員が彼女を見たら、その醜い容姿を嫌悪するかもしれないから、佐々木唯月にダイエットするように要求したのだった。これは佐々木唯月のためにも言ったことだ。それを聞いて、佐々木唯月の笑顔は消え、凍り付いた。まだ仕事を始めていないのに、社長から毎日花壇の周りを五周走るように言われてしまった。オフィスビルの前にある花壇を見てみると、一周するのにだいたい100から200メートルくらいだろう。五周すれば、確かに疲れる。「東さん、わかりました。毎日走ります」今日のようなことを経験し、佐々木唯月もこれ以上太ってはいけないと肝に銘じた。東隼翔は彼女が急ぎで仕事を見つけないといけないという心理を利用して、仕事として彼女にダイエットをするように命じたのだった。佐々木唯月は東隼翔が厳しいとは思わなかった。それとは逆に彼が
「ここが東さんの会社?」佐々木唯月は少し驚いた後、それを疑わなかった。ここは東グループという名前だったからだ。結城理仁は東隼翔が彼の会社の重要顧客だと言っていた。彼女はただその彼が東グループの社長だとは思ってもいなかったのだ。東グループが勢いに乗っていた頃、彼女はバリバリのキャリアウーマンで、東グループの実力をよくわかっていた。彼女はずっと東隼翔と東グループの社長を関連付けて考えていなかった。「東さん、私は別に問題を起こしに来たのではなくて、面接をしに来ただけです。あなたの会社の面接官に私の容姿は応募した仕事には適していないと言われて、その理由を尋ねたんです。彼女は私が太っているからだと答えました。太っていることを軽蔑してきたので、腹が立って文句を言ったんです。そうしたら、彼女がデブ女は出ていけと罵倒してきたんですよ。東さん、あなた達東グループはここ星城ではとても有名な大企業の一つですよね。私はずっとあなたの会社の社員はとても品のある方々だと思っていました。それがまさかこんなことを言うような低レベルの人がいるなんて」「東社長、私は……」面接官をした長澤は二歩進み、言い訳をしようとしたが、東隼翔に睨まれて言葉が出てこなかった。東隼翔は佐々木唯月に尋ねた。「あなたはどの部署の面接に来たんですか?」「財務部の一般社員です。私は以前財務部長をしていたから、経験ならあります」東隼翔は彼女の手から履歴書を受け取った後、彼女に言った。「少し待っていてください。後で結果をお教えします」そう言いながら、彼は申し訳ないといった様子で顧客に話しかけた。「大塚社長、少々処理しなければ問題が発生しましたので、応接室でお待ちいただけないでしょうか」秘書に指示をして大塚社長を先に上に連れて行かせた。東隼翔はオフィスビルを出ると、携帯を取り出して彼の親友に電話をかけ、相手が電話に出ると声を低くして言った。「理仁、また君の義姉さんに出くわしたよ。彼女がうちに面接に来て、面接官と喧嘩したんだ。それで危うく警備員が彼女を追い出してしまうところだったよ」結城理仁「……」彼の義姉は最近気分が最悪だ。「何の面接に来ているんだ?」結城理仁は一言尋ねた。「財務部の一般職員だ。彼女は以前財務部長をしていたんだろ。財務に関しては経験が豊富なようだ
「こんなにデブになって、あんたの旦那から嫌われないように気をつけなさいよね。あんたがブスだから嫌われて、若い綺麗なお嬢さんに旦那を取られた時、泣くことになるわよ」この言葉が佐々木唯月の急所を突いた。彼女が焦って仕事を探しているのは、まさに夫が彼女に嫌気をさして不倫したせいだ。息子の親権を取られないように稼ぎが必要だ。そのために自分の要求を下げて、普通の社員に応募しに来たのだ。それがまさか面接で嫌味を言われ皮肉にも侮辱されることになってしまうとは。「もう一度私を侮辱してみなさいよ!」面接官の女性はデスクから立ち上がり、佐々木唯月の前まで出てきて、彼女を押して外に追い出そうとした。そして遠慮なく彼女を罵った。「このデブ女、ブス、何度でも言ってあげるわ。さっさと出ていけ!」佐々木唯月が太っていることのメリットは、彼女がそこに立って断固として動こうとしなければ、その女は彼女を一歩も動かすことができないことだ。「謝りなさい。絶対に私に謝ってもらうわ。あなたが謝罪しないというなら、私はここから一歩も動かないからね!」その女はかなり怒っていて、後ろを振り向いてデスクの前まで行くと、電話を取り警備室に内線をかけて、警備員を呼び佐々木唯月を追い出そうとした。そしてすぐに二人の警備員がやって来た。男の力のほうが大きい。しかも男二人だから、簡単に佐々木唯月を押して外に追い出すことができた。「あんた達、私を放しなさい。彼女に謝ってもらわないと、あの女が私に悪口を言ったのよ!」佐々木唯月は一生懸命抗った。ずっと仕事が見つからない焦りと、夫からの裏切り、将来への不安、それがまるで炎のように彼女の心の中に燃え盛った。その勢いがこの時の彼女を特に興奮させ、異常なまでに激怒させていた。彼女は太っているし、力も強い。彼女の懸命な抵抗に、二人の警備員は彼女を動かすことができなかった。面接官の女はこの状況を見て、面接室を出ると数人の男性職員を呼び、彼らに警備員に助力させ、佐々木唯月を下まで連れていかせた。数人の男が力を合わせてようやく佐々木唯月をオフィスビルの外に追い出すことに成功した。「これはどういうことだ?」東隼翔は顧客を連れてちょうどオフィスビルに入るところだった。そこにこの一行と出くわした。秘書はすぐに顔を曇らせて、どういうことなのか