前日に叔母から念を押すように送られてきた、店と時間の連絡メッセージ。事務所設立15年を祝うパーティーは、石畳が敷き詰められた歩道に面した小さなレストランで開催される。結婚式の二次会でも重宝されそうな雰囲気の良い店。それを当日は夕方から貸し切りにするらしい。
よく手入れされた鉢植えが店の前に並び、レンガ造り風の壁面にブラウンの屋根。遠目からはその一角だけがまるで童話の世界から抜け出してきたような、メルヘンチックな外観。控えめなベルの音を鳴らすドアを押し開けてみると、入口のすぐ前に控えていた男性がニコリと微笑みながら声を掛けてくる。
「咲月ちゃん、いらっしゃい」
「あ、立石さん。お久しぶりです」 「本当だ、久しぶり。今年に入ってからは初めてか、今年もよろしく。敦子さん、今は外にお客様の出迎えに行ってるんだけど、すぐ戻ってくると思うよ。あ、コートはこっちで預かるね」事務所の事務スタッフでもあり、叔母の事実婚の相手でもある立石は、流れるように咲月のことをエスコートしてくれる。物腰も柔らかで落ち着いてみえるが、敦子よりも一回り年下の30歳。叔母とは25歳の頃から一緒にいるのだから、元々から年上の女性が好きなのだろう。年下の咲月のことなんて眼中に無いという感じだ。
「敦子さんが戻ってきたら始まると思うから、それまではドリンクでも飲んでて。あ、もうお酒は飲める歳だったっけ?」
立石の言葉に咲月が小さく頷き返したのを確かめると、ドリンクコーナーに並んだ飲み物から綺麗なピンク色の液体の入ったカクテルグラスを差し出してくる。
「ストロベリーフィズでいいかな? ご飯食べる前だから、一気に飲んじゃダメだよ」
年下だからと完全に子ども扱い。きっとこういうところが、敦子が年齢を気にせずに彼と一緒に居られるんだといつも思う。立石にとって若い女の子というのは、全く恋愛対象にはならず、いつまで経っても子供にしか見えないのだ。
以前に食事に来た時は等間隔で並んでいたテーブルと椅子は、今日の為に大きく配置を変えている。壁際にはビュッフェ形式で料理が並べられ、大きなフラワーアレンジメントで飾られたフロア中央のテーブルにはドリンクとデザートが乗っている。ゆっくり食事を楽しみたい人の為に椅子席もいくつか用意はされているが、基本的には立食スタイルみたいだ。
立石がスタンバイしていた入口ドアの横には、招待客から贈られたらしき花束やアレンジメントがずらりと並べられている。――仕事関係の人ばかりだって言ってたし、そういうものなのかな。
今日ここにご飯を食べるつもりで来ているのは咲月くらいなんだろう。隅っこの空いている椅子を見つけて座ると、咲月は店の中をぐるりと見回した。立石以外にも知っている顔は何人かいたが、全て事務所関係者ばかりだ。あとは皆、弁護士である叔母の顧客なんだろうか。客同士で名刺交換をして談笑しているのも見え、パーティーなんて言っても仕事の一環で来ているのが丸わかりだ。
スーツ姿の参加者ばかりの中、咲月一人がぽつんと浮いている感じだ。またネイビーのワンピを着てきたけれど、ジャケットでも羽織ってくれば良かったと少し後悔する。ま、何を着てようがまだ学生の咲月には、この社会経験が豊富そうな一団に馴染める訳はないけれど。
一人だけ異質な咲月のことを、チラチラと気にして見てくる客も中にはいたが、あえて声を掛けて来ようとする人はいなかった。子供に話し掛けたところで、何の人脈にも繋がらないとでも思っているのだろう。チビチビと控えめに飲んでたつもりのストロベリーフィズが、グラス半分近くになった頃、店の前から聞き慣れた笑い声が届いてくる。
「あら、あの案件くらいなら私が入らなくても、今の社長のお力でしたら簡単になんとかなさるでしょう?」
「いえいえ、先生のお力添え無しでは、まだまだとても――」「またまたぁ」と上機嫌な笑みを浮かべながら、敦子は背の高い男性にエスコートされながら店内へと姿を見せる。今日は白のスーツで華やかさがアップしている。その隣にいる黒のスリーピースを着た男は手に大きなフラワーアレンジメントを抱えていたが、それは入口で待ち構えていた立石へと手渡していた。ピンクのバラが中心のアレンジメントの間に『H.D.O』という社名らしきプレートが見えた。
敦子が到着したことで、店内にいた招待客達は一斉にこの場の主賓へと注目する。ここにいる人全員が、15年の仕事で叔母が築き上げてきた人脈なのかと思うと、急に敦子という存在が遠く感じてしまう。
敦子は進行役のスタッフから受け取ったマイクでお礼の挨拶を述べた後、乾杯の音頭を取る。それぞれが手に持っているグラスを宙に掲げるタイミングで、奥の厨房からは湯気の立った出来立ての料理が追加で運ばれてくる。ようやくご飯が食べられると、咲月はビュッフェコーナーへ向かって椅子から立ち上がった。
「もう咲月ったら、こんな隅っこにいたの? ちょうどいいから、こっちへいらっしゃい」
取り皿はどこかとキョロキョロしていると、客へ挨拶回りしていた敦子に見つかってしまった。腕を掴まれ、中央のテーブル前で話し込んでいる男性達の所へと連れていかれる。そこには敦子と一緒に店に来た黒のスリーピースの男性の姿もあった。開業当時から付き合いのある年配の顧客が多い中、この一角だけは少し若めで三人ともが立石と同世代くらいだろうか。新進気鋭の若手企業家といった風だ。
「あれ、先生、そんな大きなお嬢さんがいらっしゃったんですか?」
「やだ、違うわよー。この子は姪よ。でも、私にとっては可愛い娘みたいなものだけどね」 「あー、姪っ子さんかぁ、だから何となく雰囲気が似ておられるんですね」 「スタッフさんとは違う若い子がおられるなーとは思ってたんですよ」男性達は口々に咲月をネタにして会話を始める。年齢を聞かれて答えると、当然のように「4月からはどちらに?」と就職の予定について触れられてくる。この順風満帆を絵に描いたような社会人達を前にそんなこと言えるものかと、咲月は無言でヘラヘラと愛想笑いを浮かべて誤魔化そうと試みる。
が、敦子が咲月の背をぐいっと押しながら、悪戯めいた表情を浮かべて速攻でバラしてしまう。「この子、働く度に職場がなぜか倒産しちゃうのよね。4月から正社員として勤めることが決まっていた会社も、やっぱり潰れちゃったらしいのよ」
「へー、そんなことあるんですね?」 「ええ、こないだは内定を取り消しされたって落ち込んでて、とっても可哀そうなのよ。今は短期バイトしながら就職先を探し直してるところ。ね、ここにいらっしゃる社長さん達は業績も右肩上がりで勢いに乗ってらっしゃるでしょう? どなたか、力試しにうちの姪を雇ってみないかしら?」勤務する先が全て倒産という、ありがたくもないジンクスを聞かされた後だ。当然のように一同が咲月から目を背けていく。何も好き好んでそんな爆弾娘を抱えたいと思う経営者はいない。
ただ、あの黒のスリーピース男だけが、「それは面白そうですね」と余裕ぶって微笑んでいたのが印象的だった。どちらにしても、咲月の不幸話を酒の肴にするのは失礼極まりない。敦子の悪ノリに、咲月はムッとした眼で叔母の顔を睨みつける。
「私、お料理いただいてきます」
「やだー、咲月。冗談だってばぁ」可愛がっている姪っ子の不貞腐れた顔に、敦子は慌てたように謝ってくる。挨拶回りするごとに客達と乾杯を繰り返していたのは、隅にいた咲月からもよく見えていた。今の叔母は完全に酔っ払いモードだ。悪酔いが過ぎる。パートナーの状況に気付いた立石が慌てて傍に駆け寄っていったので、もうこれ以上飲まされることはなさそうだけれど。
ようやく辿り着いた料理コーナーで、咲月は肉料理を中心に皿へと盛っていく。怒った分、余計にお腹が減った気がする。今日は思い切り食べてやるぞと、お皿にめいいっぱい乗せまくった。
卵料理と肉類ばかりを乗せた皿を抱えて、咲月は空いていた椅子に腰を下ろす。壁に沿って10脚並べられている椅子には、地元の名士といった風情の白髪のお爺さんとその昔からの知り合いという感じの老人の二人が座っているだけ。料理もあんなに沢山用意されているのに、手を付ける人がほとんどいないのが信じられない。デザートをリクエストしたという女性スタッフ達ですら、来賓客との会話で忙しく、手に持つグラスに軽く口を付けるのが精一杯という感じだ。 ――社会人って、大変だ……。 パーティーですら仕事になってしまうのだ、ちっとも楽しそうじゃない。あとでスタッフだけで打ち上げがあるとは聞いているけれど、きっとその頃には料理は冷めてしまって美味しさは半減しているだろう。 ローストビーフをフォークで折り畳んでから突き刺すと、それを一口で頬張ってみる。何だか味に物足りなさを感じるのは、別に用意されていたソースを付け忘れたからだ。今更取りにいくのも面倒だし、代わりにサラダに掛けたドレッシングを付けた。まあ、何も付けないよりはマシだ。 咲月が一人で黙々と食事を続けている時、隣の椅子に誰かが座った気配がした。周りが皆、新しい繋がりを求めて必死で営業に回っている中、学生と一緒に壁の華で収まるなんて、やる気の無い大人もいるんだと、興味本位でちらりと隣へ視線を動かしてみる。 露骨に顔を覗き込む訳にはいかないが、咲月の目には隣の席からはみ出して来ている長い脚が確認できた。男物の黒色の革靴に、黒のスラックス――否、よく見てみると黒色の生地には光沢のある濃いグレーのストライプが入っている。一言で黒いスーツと言っても、就活中に同級生が着ていたのとは全く違う、大人の黒スーツだ。「君の悪いジンクスは、正規入社でも発動するのかな?」 たまたま隣に座って来ただけと思っていた男から、急に声を掛けられる。驚いて顔を見上げた咲月の目に、さっきの黒のスリーピース男が足と腕を組みながら何やら考えている姿が飛び込んでくる。「いや、試してみるのも悪くないなと思ってね。泉川先生にはこの先もお世話になるつもりだし」 「……学生なので、まだバイトでしか働いたことないから、その辺りは分からないです。でも、や
「ちょっと座って待ってくれる?」 咲月に向かって、羽柴は顎をくいと動かして応接用ソファーを指し示す。言いながらも指先はキーボードから離れず、カタカタというキーの打音だけが室内に響き続ける。咲月の位置からは大きなモニターの陰になって羽柴の顔だけしか見えなかったが、そのとても厳しい目がこちらを向いたのは一瞬だけ。 言われるまま二人掛けソファーの隅っこに背筋を伸ばして浅く座ると、咲月は足下に立て掛けていたトートバッグから履歴書を取り出して待った。面接というのは何回経験しても全く慣れない。しかも惨敗続きなのだから、苦手意識は高まるばかりだ。 昨夜に慌ててプリントアウトし直した履歴書。この一年間、いろんな企業へ何枚も提出してきたが、ほぼ全て送り返されてきた――不採用通知書と共に。 タンというエンターキーを叩く音。それを皮切りにデスクチェアをくるりと回転させてから、ようやくこのオフィスの代表である羽柴智樹が腰を上げる。黒のストレートパンツにライトグレーのVネックニット、かなり緩められているネクタイは深みのある橙色。こないだの隙の無いスーツ姿とはかなり雰囲気が違う。というか、就活の面接でこんなラフな面接官は初めてだ。調子が狂う。 モニターに向かっていたのとは別人のような、余裕のある笑顔で羽柴が咲月の前に手を差し出してくる。「お待たせしちゃったね。じゃあ、履歴書を見せてくれる?」 「は……はいっ」 咲月の目前の席にゆったりと座りつつ、履歴書を入れた封筒を受け取る。そして、緊張で顔を強張らせている咲月のことをちらりと見てから、紙面へ軽く目を通していく。やや俯き加減になると、長い睫毛の動きで彼が今どの辺りを見ているのかがよく分かった。「うん、この住所なら特に引っ越して貰う必要はないね。本採用は4月に入ってからになるけど、それまでもアルバイトとして来る気ある? 今は短期バイトしてるんだっけ?」 「え……?」 酔っ払った敦子が会話の流れでさらっと話していたことまでを、羽柴が覚えていることに驚く。というか、今「本採用」という言葉が聞こえたような気がして、自分の耳を疑う。 いくら叔母のコネがあるとは言え、そんな即断
4年生になってからは就活を理由にする欠席の多かったゼミで、こうやって全ゼミ生が顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。就活のピーク時期なんて、酷い時には出席者が15人中数人ということもあった。「我が森本ゼミは今年もゼミ生全員の進路が確定したということで、ホッとしているよ。提出して貰った卒業論文は来週には返せると思うので、各自が私の部屋へ引き取りに来るように」 これが実質最後のゼミの講義となるから、教授はニコニコと教壇からご機嫌の笑みを振り撒いていた。担当した生徒の進路は気が気じゃなかったことだろう。最後まで心配をかけてしまったはずの咲月は反省の意味も込めてすっと視線を逸らした。 今日は講義もなく、思い思いに雑談する感じで、席の近い生徒同士で近況を報告し合う。 大学へ来ること自体が久しぶりという生徒も何人かいて、中には内定を貰ったと同時にバックパッカーとして海外を旅していたという強者も。真っ黒に日焼けして見た目の印象も随分と変わってしまっている。そこまででなくても、皆が卒業後の為に何らかの試練を乗り越えて今日この場にいる。もうあと2か月もすれば、それぞれが新しい道を歩んでいくのだ。学生という気楽な身分も残り僅か。「内定取り消しされたって聞いたけど、泉川さんもすぐに次が決まったんだね」 「うん、一応。叔母が紹介してくれた会社だけどね」 この時期にまだリクルートスーツで学内をウロウロしていたから、咲月が就活をやり直していることは一部で噂になっていたらしい。パステルの倒産は新聞にも掲載されていたし、系列店が一斉に閉店してしまったからバレても当然だ。 黒板に対してコの字に並んだ机の角と角の席で、斜め隣から片桐聡太が「何の会社?」と聞いてくる。彼は確か、大手通信会社への内定をいち早く決めていたが、卒業に必要な単位がまだ残っているからと4年になっても週4で登校していた。だから、就職課を頻繁に覗きに来ていた咲月とは今年に入ってからも何度か顔を合わせることがあった。「H.D.Oっていう、デザイン会社なんだけど……」 何の会社と聞かれたところで、自分でも上手く説明できない。片桐の就職先のように誰でも知っている大手という訳じゃないし、咲月
前回は面接で緊張していたのもあって、オフィスの中をキョロキョロ見回す余裕はこれっぽちも無かった。でも、さすがに二度目の今日は、デスクの一角でアルバイトの就業規定へ目を通しながらも、室内の様子を気にすることはできる。 こないだ居た丸眼鏡の原田というデザイナーの姿はない。普段は在宅勤務だと言っていたので今日はオンラインでの出勤なんだろうか。出社の手間が無いのは羨ましい。 パッと見でもこのフロア内にデスクは6人分もあるのに、案内してくれた女性以外は誰もいない。オフィスに出社してくるデザイナー達も、フレックス制で午後からの人が多いらしい。新人の初出社日だけれど、羽柴も打ち合わせで外へ出ていてまだ来ていない。しんとしたオフィスの中を、事務や人事を担当しているという笠井野乃花のヒールの音だけがカツカツと響いている。「もう、原田君この書類も忘れてるじゃないっ。まとめて置いてたのに、何で全部渡しといてくれないのかしら……」 咲月が提出したばかりの入社書類を確認しながら、向かいの席で笠井が忌々しげに呟いている。独り言にしてはかなり大きいから、わざと咲月へ聞かせるように言っているのかもしれない。まるで、自分のミスじゃないと言い訳しているようにも聞こえる。 時折、笠井が気だるげに髪を掻き上げる仕草をする度、向かいからふんわりと甘い香りが漂ってくる。ヘアコロンだろうか。その大人っぽい匂いは咲月はちょっと苦手かもしれないと思った。スメハラというほどじゃないが、押しつけがましい強い香りにウッとする。 外から中の様子が見えないと思っていた窓ガラスにはミラーフィルムが貼られているらしく、こちらからは前の通りのことがよく見通せる。駅から近い大通りを一本入っただけだから、意外と人通りは多い。開閉可能な天窓も今はぴっちりと閉ざされている状態だ。「アルバイトの内は私の補助をしてもらうように聞いてるんだけど……泉川さんは、事務の経験は全然なのよね?」 「……はい」 「えー、困ったわぁ。それだと雑用くらいしか思い付かないんだけどぉ」 頬に手を当てて、わざとらしく眉を寄せて困り顔を作ってみせてくる。多分、否、きっと彼女は咲月の入社をあまり歓迎していない。鈍い咲月
結構な量を外へと運び出した後に、不要品の山の中から掘り出すことができた台車。その後の持ち運びは天と地かというくらい楽になり、急にペースの上がった片付けに、笠井が自分のデスクから小さく舌打ちしたことは誰も気付いていない。 男性ばかりのこのオフィスでずっと紅一点を貫いてきた笠井野乃花。優秀なデザイナー達に囲まれて、クリエイティブな仕事に携わっているという自負がある。デザイン事務所で働いていると言えば、誰もがお洒落な仕事だと憧れの眼差しを向けてくれる。エントランスに並ぶ胡蝶蘭の鉢植えに、ライトグレーを基調としたスタイリッシュなオフィス家具。すっきりと整理されたオフィスの中を颯爽と歩く資格があるのは、自分のように大人な香りを放つ女だけのはず。 ――いくら顧問弁護士の姪だからって、何であんな子供っぽい子をっ?! ……そりゃ、泉川先生のバックアップは今後も必要よ。それでも、あれは無いんじゃないの?! 商談から戻って来たばかりの羽柴が、オフィスへ来て真っ先に口にしたのは「咲月ちゃんは?」だった。彼を追いかけて以前のオフィスを出てから4年は経つが、羽柴が異性を下の名前で呼ぶのを初めて聞いた。たまに二人きりで食事するくらいには親密になったと思っていた自分でさえ、今だに「笠井さん」なのに……。 ガラガラと車輪の音を立てながら移動していく台車に目を背ける。手伝う気なんて毛頭ない。社会経験もなく若さだけが取り柄のような学生なんて、汚れ仕事でもしていればいい。根を上げて自分から辞めたいと言い出してくれれば、こっちのものだ。 デザイナー達から回収した領収書の束へ目を通しながら、ギリリと奥歯を噛みしめる。資料室の窓が開いているらしく、咲月が台車を押して外へと出入りする度に強い風がオフィス内を吹き抜けていく。突風に煽られて髪の毛が乱されることにすら苛立ちを覚える。 50リットルの大きさのゴミ袋を台車に積み上げて、落ちないようにと咲月は片手で押さえながら慎重に運んでいく。これを3往復ほど繰り返し、駐車場の隅にゴミの山を作っていると、すぐ真横に一台のロードバイクが停まった。黒色に青ラインの入った自転車に跨っていた男性は、怪訝な表情をしつつ自転車と同色のヘルメットを脱いでいる。見慣れない女の子が、勤務
デスクチェアに座って、咲月は駅前のコンビニで買って来たサンドウィッチを大きな口を開けて頬張る。オフィスの周囲にはランチに最適なちょっとお洒落な飲食店も多いけれど、卒業旅行を控えた金欠女子大生には手が出ない。ペットボトルの無糖紅茶ですら贅沢に感じ、お徳用ティーパックを買って来てお湯を沸かして自分で淹れた方が良いのではと思っていたくらいだ。 ――笠井さんみたいな大人の女の人って、いつも外で何食べてるんだろ? 休憩に行くと言いに来た時、笠井の髪が朝よりも強めに巻き直されていたような気がする。友達とのランチにそこまで気合いを入れるなんてよっぽどだ。もしかすると、噂に聞くランチデートというやつだろうか? 仕事の合間に待ち合わせ。想像するだけでドキドキする。 最後の一口を口の中へ放り込んでから、紅茶でゴクゴクと流し込む。「ハァ、大人だなぁ……」 「え、卵サンドが?」 「へ?」 急に背後から声がして、驚いて振り返る。思わず変な声を出してしまった。ぼーっとしていたせいで羽柴がフロアへ出て来たのに全く気付いていなかった。資料室のドアを開けっ放しにしたままだから、平沼が動かしているシュレッダーの音で足音がかき消されていたというのもあるだろう。 咲月は慌てて首を横に振って誤魔化した。「いえ、何でもないです」 「ふーん……?」 デスクの上に置いたコンビニ袋の中を覗き込んできて、羽柴が笑いを堪えた顔をする。今日買って来たのは、さっき食べ切った卵サンドと、500mlの紅茶に明太子オニギリ1個だ。これで大体500円くらいだろうか。まさか初日から身体を動かす仕事になるとは思ってみなかったから、正直言って夕方までお腹がもつかが心配ではある。 同じようなことを思ったらしく、羽柴が不審そうに聞いてくる。「肉好きのキミには、それだけじゃ足りなくない?」 「なっ……!」 以前のパーティーで咲月が肉料理ばかりを皿に盛っていたのを、羽柴はしっかりと覚えているらしい。あの時は叔母とご飯を食べに行く時と同じノリだったし、自分のことなんて見てる人はいないと思ってたから……。急に恥ずかしくなってきて、咲月の顔が
斜め前のデスクで伝票の束を捲りながら、プリプリと分かり易く頬を膨らませる笠井。三上は目を合わせないようモニターの陰に顔を潜め続ける。 ここ最近よく目撃するようになった、事務スタッフの突発的なヒステリー。触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだ。「何があったんですか?」なんて聞こうものなら、その後の仕事の進捗に大幅な遅れが出るのは間違いなし。怒涛の勢いで愚痴を聞かされ、相槌に手を抜こうとしてバレれば「そんなだからモテないんですよ」と思い切り飛び火を食らってしまう。 台車を押して外へゴミ出しに行ってしまった平沼のことを、上手く逃げやがってと心の中で毒づく。普段は人懐っこく誰にでも話し掛けていくくせに、こういう時だけはしっかりと距離を置いてくるのが解せない。その要領の良さがいつも気に食わない。 かと言って、今、フロアには三上と笠井しかいない。どう考えても、女王様のご機嫌取りの役は自分だ。ハァと諦めの溜め息が漏れ出てしまう。面倒なことには極力関わり合いたくない。 電卓を壊れそうな強さで叩く音に、三上は身体をビクつかせる。今日のご機嫌斜め度はかなりキツイ。放っておくとさらに悪化する可能性もありそうだ。恐る恐る、モニターの隅から目だけを覗かせて笠井の様子を伺う。どう話を切り出していけばいいのやら。 と、ちょうど顔を上げた笠井と思い切り目が合ってしまった。その結果、「どうしました?」と聞く前に笠井の方から口撃を受けてしまう。「ちょっと三上さん、さっきから何なんですか? チラチラとこちらを――」 「す、すみません……えっと、きょ、今日の笠井さんも、お、お洒落だなぁと、思いまして……」 しどろもどろに思ってもみない世辞を投げる。正直、笠井が今どんな服装をしているかなんて知ったこっちゃない。表情と空気で苛立っているのは分かっているが、デスクの下で今は隠れて見えていないボトムがスカートだったかパンツだったかすら記憶にない。 そんな三上の適当な言葉にも、笠井は満足そうに照れ笑いを浮かべ始める。色恋とは無縁な三上でも、一応は異性として認識はしてくれているようだ。笠井の電卓を叩く音が静かになったことに、ホッと胸を撫で下ろす。 ――どうせまた、マッチ
アルバイト2日目。前日に引き続いて資料室の片付けが待っているのが分かっているから、家を出るのも少し気が楽だった。頭を使っていろいろ覚えるよりも、ただひたすら身体を動かしている方が向いているのかもしれない。「おはようございます」 センサーの電子音に掻き消されないよう、少し声を張って挨拶する。さすがにもう誰も迎えに出てはくれないから、遠慮なくパーテーションの奥へと入っていく。フロアは無人だったが、キッチンの方から水を流す音が聞こえている。デスク下のスペースへトートバッグを置いていると、ふんわりと珈琲の香ばしい匂いが漂ってきた。 子供舌なのか、咲月は珈琲を飲んでも一度も美味しいと感じたことは無い。けれど、それでも良い匂いだとは思う。まだぼんやりしていた頭がカフェインの香りで一気に覚めた気分だ。 ブラウンのロングワンピに白いカーディガンを合わせた笠井が、シュシュでまとめていた髪をほどきながらキッチンから顔を出す。「あら泉川さん、早いわね」「おはようございます。今日も資料室の片付けをしたらいいですか?」「そうね。昨日、平沼君がどこまでやってくれたか確認して、続きをお願いします。全部出せたら、隣の部屋から荷物を移動させて欲しいんだけど……資料室へ入れる物は羽柴さんに確認してくれる? あ、掃除用具はキッチンの横の棚にまとめてあるから」 「はい」と頷き返しながら、言われた指示を頭の中で反芻する。不要品を運び出した後に掃除して、隣からまた運び込んでいく。うん、完全に肉体労働のフルコースだ。 気合いを入れ直し、咲月は軍手を嵌めつつフロアの壁沿いのドアを開く。「わっ」 資料室と書かれたプレートが貼られたドアの向こうは、がらんとしていた。初めて入った時は荷物で遮断されて日の光を一切通していなかった窓は、ブラインドが下ろされているのに朝日が強く差し込んでいる。照明を点けなくても平気なくらい明るい室内。 咲月が思わず漏らした短い驚きの声が、何もない部屋の中で小さく響く。 ――平沼さん、残り全部運んでくれたんだ。 そう言えば、駐車場の不要品の山は咲月が帰った時
「でも同じ会社の人と付き合うとかは無理だなぁ……」 そう呟いたのが美奈じゃなくて紗英だったから、咲月は食べていた鶏の唐揚げで喉を詰まらせそうになり、むせ返ってしまった。驚きと喉の詰まりで思わず目をぱちくりさせる。ついさっき、会社の先輩の話で瞳にハートを浮かべていたところではなかったか、と。「いやいや、バッグデザイナーの先輩は?」 咲月が来る前に散々いろいろ聞かされていたせいもあってか、美奈も速攻で紗英を突っ込んで「はぁぁ?!」と目を剥いていた。「だってほら、付き合ったとしても、その後に上手く行かなかったことを考えてみてよ。下手したら職場に居辛くなって、職も彼氏も同時に失うことになっちゃわない? あんなに苦労して就活した会社だよ。そこまでの覚悟ができるくらい本気ならいいかもだけど……」 「じゃあ、その先輩は何なの一体?」 「先輩は私にとって、社内のオアシスってとこかなぁ。ぶっちゃけ、推しだね。それ以上でもそれ以下でもない!」 あくまでも恋愛感情ではないと言い切る紗英に、美奈が呆れた溜め息を吐いている。コイバナだと思って真剣に聞いていた時間を返せと、紗英にクレームを入れ始める。「だってほら、大学ん時だってバイトとかサークルで付き合い始めた子とかいたけど、別に上手くいってる内はいいよ。でも、結局別れるってなった時、必ずどっちかが来なくなってたもん」 「まあ、普通はそうなるなるよね。たまに平然としてる人達もいたけど、周りが変に気使わされて大変なやつ」 「そうそう。学生の時はそういう後々のことは考えず行動しても何とかなったでしょ。気マズかろうが、どうせ卒業したら会わなくなるんだしって。でもさ、今はそういう訳にもいかないじゃん」 「……確かに、どっちかが辞表出すまでずっとだよね」 就活をやり直すリスクを冒してまでは踏み込みたいとも思えないと、ついさっきまであんなに惚気ていたとは思えないほど紗英がドライに語る。社会人になって見た目と同じくらい、恋愛観までがらりと変わったみたいだ。「でも、うちの会社って意外と社内結婚が多いらしいんだよねー」 信じられないと言いたげに、紗英が眉を寄せながら言う。「やたら懇親会的なのが多いから、そういうので距離が縮まるのかなぁ。大抵はどっちかが辞めて、どっちかが残ってるって感じなんだけど。結婚しても旧姓のままだったりす
「あ、こっちこっちー」「沙月、おっそーい」 通っていた大学通りの馴染みの居酒屋。駅前でよく見かけるチェーン店だ。アルバイト店員の中にはどこかの講義で一緒になった記憶のある後輩の顔をちらほら見かけた。学生の時から住み続けているマンションが近いという理由で、この店を指定したのは紗英だった。 卒業式以来ずっと会ってなかった紗英は、当時とはメイクもがらりと変わって随分と大人っぽくなったように思えた。美奈と共に同じゼミで、学生生活の大半を一緒に過ごした紗英はアパレルメーカーの勤務。第一志望は出版社で、ファッション誌の編集をやりたかったみたいだけれど、あまりの高倍率に断念して、紹介する側ではなく作って流通させる側に回ることにしたらしい。「ほんと、咲月は全然変わらなくて安心するー。見てよ、紗英を、また初めて見るバッグを持ってるんだよ。こないだ通勤用って言ってたのとは全然違うし。バッグばっかりどんだけ買ってるのよ?」「えー、社割社割! でも、新作が出たらつい欲しくなっちゃうんだよねぇ」 洋服こそビジネスカジュアルを意識してはいるものの、咲月は卒業祝いに敦子からプレゼントして貰ったバッグを通勤用にしている。落ち着いたブラウンの合皮のトートバッグは中の仕切りが多くて使い勝手がとてもいい。自立タイプだからデスクの下に立ててしまえるのが気に入っている。 ただまあ、敦子セレクトだからデザインが大人っぽ過ぎるのは確か。でも、ブランドに詳しい人なら分かるらしく、初めてオフィスに持って行った時、笠井から「あら、そのバッグ素敵じゃない」と褒めて貰えた。「もしや、これも例の彼のデザインとか?」 美奈が揶揄うように紗英の顔をの覗き込んでいる。先に飲み始めていた二人は、すでに目元がほんのりと赤らんでいた。テーブルの上には半分以上を飲み終わっている酎ハイの中ジョッキ。向かいに座る美奈の言葉に、紗英は照れ笑いを浮かべ始める。「え、例の彼って何のこと?」 ジャケットを脱いで壁のハンガーに引っ掛け、美奈の隣の席に座りながら咲月が二人の顔を交互に見る。どうやら自分が来る前にすでに何か面白い話が出ていたらしい。美奈達はクスクスと笑い合って、妙に盛り上がっている。「同じ会社のデザイナーさんなんだってー。四つ上だったっけ?」「そう、デザイン部にいる先輩。展示会とかで一緒になったりするんだけど、
聞かなくても分かっている。咲月のことは顧問弁護士の敦子から預かっている子くらいにしか思われていないってくらいは。それでも聞き返してしまったのは、別の答えが返ってくるのをどこかで期待していたからだろうか。無意識の台詞に、自分自身が一番驚いていた。 ――あれっ、私、何言ってんだろ……? そんなこと、社長に聞く必要なんてないのに……。 さっきの甘えた言い方は、咲月のことをただ揶揄っただけだ。年上で大人な彼からすれば、咲月なんて本気で相手にするはずなんてない。笠井や七瀬に比べたら、咲月なんてまだまだ子供でしかないのだから。 そう頭では理解しているのに、咲月は胸の鼓動が早鳴るのを抑えきれなかった。揶揄いの言葉にさえ、心が大きく揺すぶられるのを感じる。こうなるのが分かっていて、あんな風に思わせぶりなことをわざと言うなんて、羽柴智樹という男は何て意地が悪いんだろう。 そんな咲月の隠れた動揺を打ち破ったのは、社長室扉を叩く音だった。コンコンと二度のノック音の後に、平沼の困惑した声が聞こえてくる。「失礼します。社長、ちょっといいっすか? 七瀬さんがやっぱ社長にも同席して欲しいそうなんすけど……」 小松絡みで相談に来たという七瀬が、羽柴も一緒に話を聞いて欲しいと言い出しているらしい。この事務所では小松の仲介者だった平沼が担当していると伝えたみたいだけれど、彼女はどうしても羽柴社長もと聞かないようだった。 彼女に取って、小松の件は都合の良い言い訳に過ぎない。過去に逃した魚を再び追いかけるのに丁度良いキッカケだったのだろう。笠井の予想では、独立の可能性が立ち消えた彼女の夫は、早い内に見限られて捨てられてしまうに違いない。 そんな女の冷酷な策略を知ってか知らずか、平沼は呆れるような溜め息を吐きつつ、客人の様子を報告してくる。「うちはもう小松の案件はとっくに対応済みだから、社長に出てもらうようなことは無いって言ってるんすけどね。向こうのことを相談に乗って貰いたいとかなんとか――」 「渡せる情報は渡してあげたんだよね?」 「はい。うちがどう対応したかは伝えました」 「じゃあ、こっちで助けてあげられることはもう何もない。他所の事務所のことにまで口出しはできない。他に何かあれば、七瀬――ああ、彼女の旦那の方に連絡するようにするって言ってくれるかな」 さっきとは打って変
「咲月ちゃんは、笠井さんと一緒に行きたかった?」 ソファーテーブルの上の書類を片付けている咲月へ、羽柴がボソボソと遠慮がちに聞いてくる。さっきの笠井からの誘いに横から口を挟んでしまったことを大人げなかったと気にしているみたいだ。 咲月はちょっと首を傾げて悩むそぶりを見せた後、小さく笑いながら答える。「いえ、合コンって聞くとあんまりなんですけど、いつも笠井さんが何食べてるのかには興味があっただけです。なんか、凄いお洒落な物を食べに行ってそうじゃないですか、笠井さんって」 毎日のように外で昼食を取る先輩。きっと行きつけのお店とかも沢山あるんだろう。笠井も一人暮らしだったはずだけれど、どうやり繰りすれば毎日外食が出来るのかも教えて欲しいくらいだ。社員になってからも咲月はコンビニに頼り切りなのに。 咲月の能天気な答えに、羽柴はふっと小さく鼻で笑っていた。そして少し考えていたみたいだが優しく微笑み返す。「そうか、咲月ちゃんはそういうのに興味があるんだね。じゃあ今度、とっておきの店に連れていってあげる」「え……?」「君と一緒に行きたいとずっと思ってる店があるんだよ」 羽柴がさらっと口にした言葉に、咲月は思わず窓際のデスクを振り返り見る。「それとも、俺のお勧めでは物足りない、かな?」「あ、いえ、そんなことは……」 大きなモニターで隠れた羽柴の顔が、今どういう表情をしていたのかまでは見えなかった。ただその言い方がとても社交辞令とは思えなくて、しかもさりげない色気を帯びていて、咲月の胸はドキッとした。 ――今のは、会社のみんなで行くってこと、だよね……? 子ども扱いされるのに慣れてしまっているせいか、上司の真意が読み取れない。余計な勘違いをして恥をかくのも嫌だと、咲月はわざと無邪気に笑って応えた。このオフィスで一番年下なのだから、多少は頭の弱いふりしても許して貰えるだろう。この場はキャラに無いぶりっ子声で誤魔化してしまうのが一番に思えた。 自分のデスクに戻って椅子に座りながら、あくま
「二人はそんなに仲が良かったっけ?」 咲月達が社長室の応接ソファーで作業していると、羽柴が二人の関係性が少し変わったように感じると首を傾げている。あくまでも同じ会社に勤務しているだけで、必要以上の会話は一切しない。確かについさっきまでの咲月と笠井はそうだった。けれど、飯塚というネタに出来る第三者が現れたことで、仕事以外の会話ができたのは大きい。咲月も笠井の人間的な部分が見れて、ちょっと親しみが湧いてきていた。「泉川さんとは歳が離れてますけど、意外と話が合うかもって思ったところかしら」「笠井さんのお話、ものすごく興味深かったです」 会話の内容は決して教えられないけれどと、咲月達は顔を見合わせてクスクスと笑う。まさか自分のことを噂されてたとは思っていないらしく、羽柴は優しい目で二人の様子を伺っている。女性同士なのになかなか打ち解けないでいたことを、上司としてずっと気にしていたのかもしれない。 咲月のデスクを移動させたのも、もしかするとスタッフ間の関係を考慮してのことだったんだろうか? 和やかな雰囲気の中、笠井が思い出したように咲月へ提案してくる。「そうだわ、来週の火曜のランチに泉川さんも参加してみる? ちょうど一人、都合がつかなくなったのよ。いろんな業界の人が来るから、勉強になることも多いと思うんだけれど」 笠井が定期的に他の会社に勤める友達と待ち合わせて、ランチ会をしているのは咲月も知っていた。ちょっとした交流会だと聞いていたから、目を輝かせて頷き返そうとしたが、咲月が反応するより前に羽柴が椅子から立ち上がって止めに入ってくる。「それだけはダメだよ。笠井さん、そういうのに咲月ちゃんを誘うのやめて下さい」 勢いよく立ち上がったせいで、羽柴のデスクから落ちたボールペンがコロコロと床を転がっていく。それを慌てて拾い上げながら、羽柴がハァと呆れ顔で溜め息を吐く。「休憩時間中の行動には口を挟むつもりはないけれど、笠井さんのランチ会は咲月ちゃんには……」「あら、社長は彼女のこと、いくつだと思ってるんですか?」「いや、ほら……泉川先
思わぬ話を聞かされた後、笠井は何事も無かったかのように、本当に新しい仕事の指示を咲月へとしてくる。ただの出まかせではなく、実際に咲月へ教えるつもりだった作業があったらしい。最近になってから、新しい仕事を沢山任せて貰えるようになった。今まで笠井が一人でこなして来たものを新米事務スタッフである咲月に教え込むということそれは何を意味するのか――。 咲月はハッとして、声を上げる。「笠井さん、もしかして辞めちゃうんですか?!」 ほぼ毎日のように出掛けて行くランチデートの相手と、結婚が決まったってことだろうか? それとも、いろいろすっ飛ばしてご懐妊?! 咲月は不安気な顔で向かいのソファーに座る先輩を見上げる。 笠井はいきなりの質問に、目をギョッと剥いて、動揺からか手に持っていたファイルを床に落としていた。「な、な、な……っ?!」「だって、今まで笠井さんがやってこられた仕事まで私がするってことは、つまり――」「いいから、泉川さん。落ち着いてちょうだい……」 ようやく仲良くなりかけたと思ったら、退職を決めた後だったなんてと、咲月はショックで続きが言葉にならない。気難しい先輩だとは思っていたけれど、別に笠井のことは嫌いじゃない。むしろ唯一の同性の同僚なのだから、もっといろんなことを教えて貰いたいと思っていたくらいなのに。 ――そうだ、私の悪いジンクスって、バイトに関してだけじゃなかったんだった……。 仲良しの友達が引っ越しして居なくなってしまうことは、一度や二度じゃない。特に親の仕事の都合で引っ越しを余儀なくされる小中学生の時は、覚えているだけでも四人の友達とお別れすることになった。習い事も同じで、同じ中学に行こうねと約束し合った同級生は、親の教育方針で私立を受験して、以降は会ってもいない。気になっていた人とようやく親しくなれたと思った時は、すぐ後にお別れが待っている。 運命はいつも、咲月から何もかもを取り上げていく。「咲月ちゃん、それは違うよ」 落ち込んでしまった咲月へと最初に声を掛けてきたのは、自分のデス
「別にそういうのがダメって訳じゃないと思うのよ、私だって。外堀を埋めてくのも駆け引きの一つなんだから」 SNSの話に完全にドン引き気味の咲月へ、笠井が気を使ってフォローする。互いに明言してなくて周りが勝手にはやし立ててるだけだから、そんなつもりは無かったと後で言えば済む話。傍に居る時間が多ければ、それだけ周りから一歩リードできる、ってことだろうか。あるいは、勢いで既成事実を作るチャンスがあると狙ってなのか。大人の恋愛は複雑だ。「でもあの人、別のデザイナーから言い寄られて気持ちが揺れちゃったのよね」「そんなに必死だったのに、ですか?」 咲月が身を乗り出して聞き返すと、笠井はかなり嬉しそうに笑っていた。多分、一緒に働くようになってから咲月へ向けられた笑顔の中では一番だ。いつも咲月には愛想笑いもしてくれないから、ちょっと嬉しかった。 咲月の反応に、笠井は「そうなのよー」とノリノリで話しを続ける。人の悪口で親睦を深めるのはどうかと思ったけれど、相手は別のオフィスの人だし、何より先輩とようやく仲良くなれそうだったからと、咲月は頭を上下に振って続きを促した。「七瀬さんって言うんだけど、その人も同期でね、羽柴さんのライバル的存在っていうのかしら。顔もまあ、それなりだったわ」「七瀬さん……飯塚さんの旦那様ってことですか? さっき、あの女の人のことを今は七瀬さんだっておっしゃってたし」「そう、最終的にはあの人、羽柴さんとは別のデザイナーの方を選んじゃったのよね。その直後のコンペで七瀬さんのデザインに決まったからって。彼の方が有望で将来性があるとでも思ったのよね、きっと」「じゃあ、社長は勝手に振られた形になっちゃってるんだ……なんか、可哀想」 付き合っているという噂のあった女性が、他の人と婚約したら同情の目は全て羽柴へと集中する。元々交際すらしていないと否定しても、飯塚の露骨な匂わせのせいで言い訳にしか聞こえない。羽柴からしたら、いい迷惑だ。「そのタイミングで羽柴さんがオフィスを独立することになったの。ううん、とっくの前から決まってたことらしいんだけど。でも、あの女の悔し
「相変わらず、笠井さんはスタイルが良くて羨ましいわー。今もヨガ教室は続けてるの? 最近ちょっと食べ過ぎちゃって、私も少しは運動しなきゃって思ってるの」「そんなぁ、飯塚さんは元が細いから、まだ気にしなくて大丈夫よー」 互いに親し気な言葉を掛け合っている割に、あまり仲良しに見えないのは彼女達の会話の大半に心が籠っているように思えないからだ。いわゆる社交辞令ってやつだからだろうか。それでも笠井達は終始笑顔で、お互いを褒めちぎり合っていた。電話打ち合わせ中だった羽柴が社長室を出てくるまでそれは続きそうで、横で聞いていた三上のうんざり顔がパソコンモニターの後ろでチラチラと見え隠れしていた。 壁面の棚から予備の付箋と修正液を探し出すと、咲月はそっとその場を離れかける。が、笠井の後ろを通り過ぎようとした時、ピンクベージュのネイルをした指がなぜか咲月の腕をぐっと掴んできた。「……?!」 驚いて立ち止まった咲月は、自分の腕を引っ張っている笠井の顔を振り返り見る。事務の先輩はすぐには何も言わず、口角をきゅっと上げた顔を見せてくるが、その目は全然笑っていない。何だか妙な威圧感に、「なんですか?」と聞くに聞けない雰囲気だ。「泉川さんに手伝って貰いたい仕事があるんだけど、今って急ぎで抱えてる作業はある?」「あ、いえ、今は特に……」 午前にやっていた資料のファイリングの続きが残っているけれど、別に期限のある作業じゃない。それをそう伝えると、笠井はくるりと身体を回転させて飯塚と呼んでいた客へ向けて、少し残念そうな表情を作ってみせる。「とってもお久しぶりだから、もっとゆっくりお話ししていたかったんだけど、今は新人への指導もしなきゃだし、あまり余裕が無いのよねー。羽柴ももうすぐ出てくると思いますし、それまであちらでお待ちいただけます?」 パーテンションに仕切られた、商談スペースを指し示しながら、笠井は「バタバタしてて、申し訳ないわぁ」と飯塚へ声を掛けていた。言われた客の方も、「忙しい時にごめんなさいねぇ」とお詫びの台詞を口にしていたが、その表情は何だか釈然としていない。急に改まって客扱いさ
羽柴から返して貰ったばかりのマスコットを、咲月は両手にそっと包み込んだ。子供っぽいと笑われてもおかしくはない、元は幼児向けに作った手芸作品。プレゼントした園児達は喜んでくれているみたいだったけれど、とっくに成人した咲月には似合わないはずだ。なのに……。 お気に入りなんだけど、これを外で持ち歩くことにはコンプレックスというか後ろめたさもあった。人には見せないようにしていた、自分だけの秘密。きっと、母が見たら「いい歳して何やってるのよ、情けないわ」と大きな溜め息を吐かれてしまうだろう。 それを羽柴は馬鹿にするどころか、「いいね」と言ってくれた。そして、咲月が作ったマスコットからインスピレーションを得たと言って、とても喜んでくれた。きっと彼ほどのデザイナーなら、他の題材があっても素敵なデザインを生み出すことができるだろうが、それに咲月の猫を選んでくれたことが素直に嬉しかった。 ――羽柴社長の魔法の手にかかったら、何でも素敵なロゴに変身しちゃうんだ。 本当は言葉にして本人へ伝えようと思ったが、すんでのところでぐっと飲み込む。魔法とか、どれだけ子供発言なんだろう。発想が幼稚過ぎて、これではますます大人の女性像が遠ざかっていく。 けれどもう一度、咲月はパソコンのモニターに表示されている羽柴のデザイン画を眺める。顔や髭も何も描かれていないのに、それだけで猫だと分かる曲線。そして、緑とオレンジの比率が妙に洗練された配色。同じ物を見て、このデザインへ辿り着くことができるのは世界で彼一人なのだ。 マジマジと食い入るようにロゴのデザイン画を見ている咲月のことを、羽柴は自分のデスクから優しい表情を浮かべながら眺めていた。 そして、何かを思いついたかのように、羽柴がデッサン用のノートの上にペンを走らせる。カリカリという筆音が社長室の中に響き始めて、モニターから顔を上げた咲月は、口の端を少し上げて真剣な目で紙面に向かう羽柴に気付く。部下に見られていることを物ともせず、描くことに没頭している男の顔は、仕事に集中しているというよりはむしろ、楽しい遊びに夢中になっている子供のようだと思った。 羽柴智樹という人にとって、何かをデザインして形作ってい