「ちょっと座って待ってくれる?」
咲月に向かって、羽柴は顎をくいと動かして応接用ソファーを指し示す。言いながらも指先はキーボードから離れず、カタカタというキーの打音だけが室内に響き続ける。咲月の位置からは大きなモニターの陰になって羽柴の顔だけしか見えなかったが、そのとても厳しい目がこちらを向いたのは一瞬だけ。
言われるまま二人掛けソファーの隅っこに背筋を伸ばして浅く座ると、咲月は足下に立て掛けていたトートバッグから履歴書を取り出して待った。面接というのは何回経験しても全く慣れない。しかも惨敗続きなのだから、苦手意識は高まるばかりだ。
昨夜に慌ててプリントアウトし直した履歴書。この一年間、いろんな企業へ何枚も提出してきたが、ほぼ全て送り返されてきた――不採用通知書と共に。
タンというエンターキーを叩く音。それを皮切りにデスクチェアをくるりと回転させてから、ようやくこのオフィスの代表である羽柴智樹が腰を上げる。黒のストレートパンツにライトグレーのVネックニット、かなり緩められているネクタイは深みのある橙色。こないだの隙の無いスーツ姿とはかなり雰囲気が違う。というか、就活の面接でこんなラフな面接官は初めてだ。調子が狂う。
モニターに向かっていたのとは別人のような、余裕のある笑顔で羽柴が咲月の前に手を差し出してくる。
「お待たせしちゃったね。じゃあ、履歴書を見せてくれる?」
「は……はいっ」咲月の目前の席にゆったりと座りつつ、履歴書を入れた封筒を受け取る。そして、緊張で顔を強張らせている咲月のことをちらりと見てから、紙面へ軽く目を通していく。やや俯き加減になると、長い睫毛の動きで彼が今どの辺りを見ているのかがよく分かった。
「うん、この住所なら特に引っ越して貰う必要はないね。本採用は4月に入ってからになるけど、それまでもアルバイトとして来る気ある? 今は短期バイトしてるんだっけ?」
「え……?」酔っ払った敦子が会話の流れでさらっと話していたことまでを、羽柴が覚えていることに驚く。というか、今「本採用」という言葉が聞こえたような気がして、自分の耳を疑う。
いくら叔母のコネがあるとは言え、そんな即断はありなんだろうか。というか、履歴書を軽く見ただけで、羽柴からはまだ何の質問も受けていないのだが? スタッフとしての素質とか資格とか、確認されるべきことは山ほどあるはずだ。これまで志望動機を聞かれなかった会社なんて一社も無い。「ああ、バイトの件は別にどちらでもいいよ。その辺りの細かいことは、原田君――あ、さっき君を連れて来てくれた彼ね。彼と打ち合わせてくれるかな。じゃあ、そういうことで」
一方的に話を終えると、羽柴は席を立つ。そして再びデスクへと戻っていくのを、咲月は茫然と見ていたが、すぐ我に返って立ち上がると、「失礼します」とペコリと頭を下げ、慌てて部屋を出る。資料室のような羽柴の個室を出る際、後ろから半笑い気味の声が聞こえた気がするが、気のせいだろうか。
「期待してるよ」
咲月が部屋から出て来たことはドアを閉める音で気付いたらしく、長髪に丸眼鏡の原田がすぐに駆け寄ってくる。どのタイミングで羽柴から指示を得ていたのかは分からないが、オフィスのフロアでパーテーションで仕切られた商談スペースへと当然のように案内された。
原田は何かのメモを見ながら、順に説明し始める。普段そういった人事関連の業務は別のスタッフが請け負っているが、今は別件で出てしまっているのだと少し眉を寄せていた。余計な業務をイヤイヤやらされてる感が全身から漂っている。話を聞いていると、予想通りに彼はデザイナー職で普段はテレワークの方が多いらしく、たまたま出社したところに、人事担当者から業務を押し付けられたのだという。
「このファイルに就業規定と雇用契約書が入ってるらしいんで。あと、次に来る時までに住民票を1通用意しておいてください。ええっと、それから――」
入社書類一式が咲月の目の前のテーブルの上に広げられていく。ついさっき面接を受けてきたばかりで、これは用意周到過ぎる。まるで、前もって採用が決まっていたかのように。
――え、本当にあの面接で受かったの?
どう思い返してみても「はい」と「失礼します」くらいしか発した覚えがない。咲月が部屋を出入りするところだって、ほとんど見られてもいない。ということはつまり、
――さっきのは形だけの面接かぁ。結局、敦子叔母さんがいなかったら、就職先も見つけられないんだ、私……。
周りの同級生達なんて、一人で複数社から内定を貰ったりしているのに、自分はどこの面接にも受かることが出来無かった。実家を出て一人暮らしを始め、少しは自立できているつもりだったけれど、実際は全然だ。叔母の力を借りなければ働く会社さえ見つけられない。あまりにも非力過ぎて、情けなくなる。
とはいえ、コネ入社と言えど、叔母の名に恥じないよう頑張ろうという心意気だけは十分だ。咲月は一通りの入社手続きについて説明し終えた原田に向かって、意気揚々と質問する。
「入社までに勉強しておいた方がいいことって、何かありますか? 例えば資格とか、そういったものは――」
「えー、なんだろう……あ、車の免許って持ってます?」 「はい」 「なら、十分じゃないかなぁ。内勤だと車を使うことが多いだろうし」 「はぁ」叔母の七光りである咲月には何も期待されてないということか。そもそも自分はこの会社で何の仕事をする為に採用されるのかすら分かっていない。ここがデザイン会社だということは、名刺裏のQRコードを読み取って表示されたホームページで知った。お店の内装や看板、ウェブサイトなどを企業向けに提案しているらしい。そして、叔母が認めているくらいに業績は今のところ好調だということだ。
そんな会社で、自分に何ができるんだろうか。当然、知識もセンスも皆無だからデザインなんて無理。事務の経験もないし、せいぜい使いっぱしりくらいか。言われてみると確かに、外へお使いに出る為に社用車の運転は出来た方がいいのだろう。
「えっと、それから――入社前にもアルバイトに来るかもって聞いてるんだけど、それってどうなってます? 社長から何か言われました?」
「あ、どちらでもいいっておっしゃってました。安定して入れていただけるんなら、私は来週以降いつからでも」バイト先だったケーキ屋も閉店して、最近はずっと求人アプリで単発バイト情報を漁る日々だ。勤務先が毎回変わるのも最初は物珍しくて楽しかったが、さすがにずっとは気疲れする。配属先によっては派遣バイトは使い捨てだと思われているのか、無茶な業務も多くて心身共にヘトヘトになってしまう。できることなら同じところで腰を落ち着けて働きたい。
「了解です。だったら、アルバイト用の雇用契約書が別にあったはずなんだけど……すみません、僕じゃそこまでは分からないんで、今日は日程だけ決めさせて貰ってもいいですか? 必要な書類があれば、当日までには用意しといてもらうんで」
「はい、お願いします」 「基本的な勤務はカレンダー通りなので――」テーブルの隅に置かれた卓上カレンダーに手を伸ばして、原田が翌週の日付を確認する。次の月曜は人事担当のスタッフが確実にいるはずだからと、今日と同じ9時に来るよう指示された。
渡された契約書類をバッグにしまい込んで、咲月は何だかフワフワする気分でオフィスのドアを出る。来た時には電池切れだったセンサーが、軽やかな電子音を奏でて見送ってくれた。
4年生になってからは就活を理由にする欠席の多かったゼミで、こうやって全ゼミ生が顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。就活のピーク時期なんて、酷い時には出席者が15人中数人ということもあった。「我が森本ゼミは今年もゼミ生全員の進路が確定したということで、ホッとしているよ。提出して貰った卒業論文は来週には返せると思うので、各自が私の部屋へ引き取りに来るように」 これが実質最後のゼミの講義となるから、教授はニコニコと教壇からご機嫌の笑みを振り撒いていた。担当した生徒の進路は気が気じゃなかったことだろう。最後まで心配をかけてしまったはずの咲月は反省の意味も込めてすっと視線を逸らした。 今日は講義もなく、思い思いに雑談する感じで、席の近い生徒同士で近況を報告し合う。 大学へ来ること自体が久しぶりという生徒も何人かいて、中には内定を貰ったと同時にバックパッカーとして海外を旅していたという強者も。真っ黒に日焼けして見た目の印象も随分と変わってしまっている。そこまででなくても、皆が卒業後の為に何らかの試練を乗り越えて今日この場にいる。もうあと2か月もすれば、それぞれが新しい道を歩んでいくのだ。学生という気楽な身分も残り僅か。「内定取り消しされたって聞いたけど、泉川さんもすぐに次が決まったんだね」 「うん、一応。叔母が紹介してくれた会社だけどね」 この時期にまだリクルートスーツで学内をウロウロしていたから、咲月が就活をやり直していることは一部で噂になっていたらしい。パステルの倒産は新聞にも掲載されていたし、系列店が一斉に閉店してしまったからバレても当然だ。 黒板に対してコの字に並んだ机の角と角の席で、斜め隣から片桐聡太が「何の会社?」と聞いてくる。彼は確か、大手通信会社への内定をいち早く決めていたが、卒業に必要な単位がまだ残っているからと4年になっても週4で登校していた。だから、就職課を頻繁に覗きに来ていた咲月とは今年に入ってからも何度か顔を合わせることがあった。「H.D.Oっていう、デザイン会社なんだけど……」 何の会社と聞かれたところで、自分でも上手く説明できない。片桐の就職先のように誰でも知っている大手という訳じゃないし、咲月
前回は面接で緊張していたのもあって、オフィスの中をキョロキョロ見回す余裕はこれっぽちも無かった。でも、さすがに二度目の今日は、デスクの一角でアルバイトの就業規定へ目を通しながらも、室内の様子を気にすることはできる。 こないだ居た丸眼鏡の原田というデザイナーの姿はない。普段は在宅勤務だと言っていたので今日はオンラインでの出勤なんだろうか。出社の手間が無いのは羨ましい。 パッと見でもこのフロア内にデスクは6人分もあるのに、案内してくれた女性以外は誰もいない。オフィスに出社してくるデザイナー達も、フレックス制で午後からの人が多いらしい。新人の初出社日だけれど、羽柴も打ち合わせで外へ出ていてまだ来ていない。しんとしたオフィスの中を、事務や人事を担当しているという笠井野乃花のヒールの音だけがカツカツと響いている。「もう、原田君この書類も忘れてるじゃないっ。まとめて置いてたのに、何で全部渡しといてくれないのかしら……」 咲月が提出したばかりの入社書類を確認しながら、向かいの席で笠井が忌々しげに呟いている。独り言にしてはかなり大きいから、わざと咲月へ聞かせるように言っているのかもしれない。まるで、自分のミスじゃないと言い訳しているようにも聞こえる。 時折、笠井が気だるげに髪を掻き上げる仕草をする度、向かいからふんわりと甘い香りが漂ってくる。ヘアコロンだろうか。その大人っぽい匂いは咲月はちょっと苦手かもしれないと思った。スメハラというほどじゃないが、押しつけがましい強い香りにウッとする。 外から中の様子が見えないと思っていた窓ガラスにはミラーフィルムが貼られているらしく、こちらからは前の通りのことがよく見通せる。駅から近い大通りを一本入っただけだから、意外と人通りは多い。開閉可能な天窓も今はぴっちりと閉ざされている状態だ。「アルバイトの内は私の補助をしてもらうように聞いてるんだけど……泉川さんは、事務の経験は全然なのよね?」 「……はい」 「えー、困ったわぁ。それだと雑用くらいしか思い付かないんだけどぉ」 頬に手を当てて、わざとらしく眉を寄せて困り顔を作ってみせてくる。多分、否、きっと彼女は咲月の入社をあまり歓迎していない。鈍い咲月
結構な量を外へと運び出した後に、不要品の山の中から掘り出すことができた台車。その後の持ち運びは天と地かというくらい楽になり、急にペースの上がった片付けに、笠井が自分のデスクから小さく舌打ちしたことは誰も気付いていない。 男性ばかりのこのオフィスでずっと紅一点を貫いてきた笠井野乃花。優秀なデザイナー達に囲まれて、クリエイティブな仕事に携わっているという自負がある。デザイン事務所で働いていると言えば、誰もがお洒落な仕事だと憧れの眼差しを向けてくれる。エントランスに並ぶ胡蝶蘭の鉢植えに、ライトグレーを基調としたスタイリッシュなオフィス家具。すっきりと整理されたオフィスの中を颯爽と歩く資格があるのは、自分のように大人な香りを放つ女だけのはず。 ――いくら顧問弁護士の姪だからって、何であんな子供っぽい子をっ?! ……そりゃ、泉川先生のバックアップは今後も必要よ。それでも、あれは無いんじゃないの?! 商談から戻って来たばかりの羽柴が、オフィスへ来て真っ先に口にしたのは「咲月ちゃんは?」だった。彼を追いかけて以前のオフィスを出てから4年は経つが、羽柴が異性を下の名前で呼ぶのを初めて聞いた。たまに二人きりで食事するくらいには親密になったと思っていた自分でさえ、今だに「笠井さん」なのに……。 ガラガラと車輪の音を立てながら移動していく台車に目を背ける。手伝う気なんて毛頭ない。社会経験もなく若さだけが取り柄のような学生なんて、汚れ仕事でもしていればいい。根を上げて自分から辞めたいと言い出してくれれば、こっちのものだ。 デザイナー達から回収した領収書の束へ目を通しながら、ギリリと奥歯を噛みしめる。資料室の窓が開いているらしく、咲月が台車を押して外へと出入りする度に強い風がオフィス内を吹き抜けていく。突風に煽られて髪の毛が乱されることにすら苛立ちを覚える。 50リットルの大きさのゴミ袋を台車に積み上げて、落ちないようにと咲月は片手で押さえながら慎重に運んでいく。これを3往復ほど繰り返し、駐車場の隅にゴミの山を作っていると、すぐ真横に一台のロードバイクが停まった。黒色に青ラインの入った自転車に跨っていた男性は、怪訝な表情をしつつ自転車と同色のヘルメットを脱いでいる。見慣れない女の子が、勤務
デスクチェアに座って、咲月は駅前のコンビニで買って来たサンドウィッチを大きな口を開けて頬張る。オフィスの周囲にはランチに最適なちょっとお洒落な飲食店も多いけれど、卒業旅行を控えた金欠女子大生には手が出ない。ペットボトルの無糖紅茶ですら贅沢に感じ、お徳用ティーパックを買って来てお湯を沸かして自分で淹れた方が良いのではと思っていたくらいだ。 ――笠井さんみたいな大人の女の人って、いつも外で何食べてるんだろ? 休憩に行くと言いに来た時、笠井の髪が朝よりも強めに巻き直されていたような気がする。友達とのランチにそこまで気合いを入れるなんてよっぽどだ。もしかすると、噂に聞くランチデートというやつだろうか? 仕事の合間に待ち合わせ。想像するだけでドキドキする。 最後の一口を口の中へ放り込んでから、紅茶でゴクゴクと流し込む。「ハァ、大人だなぁ……」 「え、卵サンドが?」 「へ?」 急に背後から声がして、驚いて振り返る。思わず変な声を出してしまった。ぼーっとしていたせいで羽柴がフロアへ出て来たのに全く気付いていなかった。資料室のドアを開けっ放しにしたままだから、平沼が動かしているシュレッダーの音で足音がかき消されていたというのもあるだろう。 咲月は慌てて首を横に振って誤魔化した。「いえ、何でもないです」 「ふーん……?」 デスクの上に置いたコンビニ袋の中を覗き込んできて、羽柴が笑いを堪えた顔をする。今日買って来たのは、さっき食べ切った卵サンドと、500mlの紅茶に明太子オニギリ1個だ。これで大体500円くらいだろうか。まさか初日から身体を動かす仕事になるとは思ってみなかったから、正直言って夕方までお腹がもつかが心配ではある。 同じようなことを思ったらしく、羽柴が不審そうに聞いてくる。「肉好きのキミには、それだけじゃ足りなくない?」 「なっ……!」 以前のパーティーで咲月が肉料理ばかりを皿に盛っていたのを、羽柴はしっかりと覚えているらしい。あの時は叔母とご飯を食べに行く時と同じノリだったし、自分のことなんて見てる人はいないと思ってたから……。急に恥ずかしくなってきて、咲月の顔が
斜め前のデスクで伝票の束を捲りながら、プリプリと分かり易く頬を膨らませる笠井。三上は目を合わせないようモニターの陰に顔を潜め続ける。 ここ最近よく目撃するようになった、事務スタッフの突発的なヒステリー。触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだ。「何があったんですか?」なんて聞こうものなら、その後の仕事の進捗に大幅な遅れが出るのは間違いなし。怒涛の勢いで愚痴を聞かされ、相槌に手を抜こうとしてバレれば「そんなだからモテないんですよ」と思い切り飛び火を食らってしまう。 台車を押して外へゴミ出しに行ってしまった平沼のことを、上手く逃げやがってと心の中で毒づく。普段は人懐っこく誰にでも話し掛けていくくせに、こういう時だけはしっかりと距離を置いてくるのが解せない。その要領の良さがいつも気に食わない。 かと言って、今、フロアには三上と笠井しかいない。どう考えても、女王様のご機嫌取りの役は自分だ。ハァと諦めの溜め息が漏れ出てしまう。面倒なことには極力関わり合いたくない。 電卓を壊れそうな強さで叩く音に、三上は身体をビクつかせる。今日のご機嫌斜め度はかなりキツイ。放っておくとさらに悪化する可能性もありそうだ。恐る恐る、モニターの隅から目だけを覗かせて笠井の様子を伺う。どう話を切り出していけばいいのやら。 と、ちょうど顔を上げた笠井と思い切り目が合ってしまった。その結果、「どうしました?」と聞く前に笠井の方から口撃を受けてしまう。「ちょっと三上さん、さっきから何なんですか? チラチラとこちらを――」 「す、すみません……えっと、きょ、今日の笠井さんも、お、お洒落だなぁと、思いまして……」 しどろもどろに思ってもみない世辞を投げる。正直、笠井が今どんな服装をしているかなんて知ったこっちゃない。表情と空気で苛立っているのは分かっているが、デスクの下で今は隠れて見えていないボトムがスカートだったかパンツだったかすら記憶にない。 そんな三上の適当な言葉にも、笠井は満足そうに照れ笑いを浮かべ始める。色恋とは無縁な三上でも、一応は異性として認識はしてくれているようだ。笠井の電卓を叩く音が静かになったことに、ホッと胸を撫で下ろす。 ――どうせまた、マッチ
アルバイト2日目。前日に引き続いて資料室の片付けが待っているのが分かっているから、家を出るのも少し気が楽だった。頭を使っていろいろ覚えるよりも、ただひたすら身体を動かしている方が向いているのかもしれない。「おはようございます」 センサーの電子音に掻き消されないよう、少し声を張って挨拶する。さすがにもう誰も迎えに出てはくれないから、遠慮なくパーテーションの奥へと入っていく。フロアは無人だったが、キッチンの方から水を流す音が聞こえている。デスク下のスペースへトートバッグを置いていると、ふんわりと珈琲の香ばしい匂いが漂ってきた。 子供舌なのか、咲月は珈琲を飲んでも一度も美味しいと感じたことは無い。けれど、それでも良い匂いだとは思う。まだぼんやりしていた頭がカフェインの香りで一気に覚めた気分だ。 ブラウンのロングワンピに白いカーディガンを合わせた笠井が、シュシュでまとめていた髪をほどきながらキッチンから顔を出す。「あら泉川さん、早いわね」「おはようございます。今日も資料室の片付けをしたらいいですか?」「そうね。昨日、平沼君がどこまでやってくれたか確認して、続きをお願いします。全部出せたら、隣の部屋から荷物を移動させて欲しいんだけど……資料室へ入れる物は羽柴さんに確認してくれる? あ、掃除用具はキッチンの横の棚にまとめてあるから」 「はい」と頷き返しながら、言われた指示を頭の中で反芻する。不要品を運び出した後に掃除して、隣からまた運び込んでいく。うん、完全に肉体労働のフルコースだ。 気合いを入れ直し、咲月は軍手を嵌めつつフロアの壁沿いのドアを開く。「わっ」 資料室と書かれたプレートが貼られたドアの向こうは、がらんとしていた。初めて入った時は荷物で遮断されて日の光を一切通していなかった窓は、ブラインドが下ろされているのに朝日が強く差し込んでいる。照明を点けなくても平気なくらい明るい室内。 咲月が思わず漏らした短い驚きの声が、何もない部屋の中で小さく響く。 ――平沼さん、残り全部運んでくれたんだ。 そう言えば、駐車場の不要品の山は咲月が帰った時
「じゃあ、咲月ちゃんはこっちで分けた物をまとめてくれるか。隣へ運ぶのは平沼君に任せたらいい」「はい」 羽柴に呼ばれて、咲月は急いで駆け寄っていく。素人である咲月には何を基準に要らないと判断しているのかは分からなかったが、羽柴が雑多に床に置いていく物を紐で縛ってまとめる。 昨日とは違って隣の部屋へ移動するだけだから、一旦出て行った平沼が戻って来るのは一瞬だ。彼のペースを乱さないよう、隣へ運んで貰う分を咲月はドア近くにまとめて積み上げていく。 きっと、両手で抱えた荷物で足下がよく見えていなかったせいだ。さっき自分が紐で縛ったばかりのパンフレットの束に、思わず右足を引っ掛けてしまったのは。急に身体のバランスが崩れ、咲月の視界が社長室の床を捉えた。 「ヤバッ!」と反射的に目を瞑ったのは一瞬だった。すぐ横から羽柴の腕が伸びてきて、咲月の身体を包み込んだ。 耳元で聞こえてくる、心配して少し焦った羽柴の声。「大丈夫か?」 咄嗟のことに驚いたせいか、心臓がドキドキしている。コケかけたこともそうだけれど、羽柴の顔がすぐ目の前にあり、両腕でしっかりと抱き寄せられている状況。これは不慮の事故以外に何と言い表せばいいのだろう。 瞬きも忘れて硬直している咲月へ、羽柴が心配そうに確認して来る。「咲月ちゃん? 足を捻ったりはしてない?」 身体は支えることが出来たが、躓いた時に足首を痛めたりしてはいないかと、咲月の顔を覗き込んでくる。背中と腰へ回された力強い腕。羽柴の腕の中で、咲月はフルフルと首を横に振って、ただ大丈夫だと伝えるのが精一杯だった。 腕を離された後も、咲月の鼓動はなかなか収まらない。同級生だった元カレとはまるで違う、ずっと大人な男の人。服の上からは細く見えていた腕は、咲月の身体なんて軽々と支えられるほど逞しかった。心配して声を掛けて来た時、ほんのりと珈琲の香りが近くにした。「あのっ、ありがとうございます」 荷物を抱えたまま礼を言うと、「怪我して貰ったら困るよ」と羽柴は咲月の頭を宥めるようにポンポンと優しく叩いてくる。まるで小さな子供を甘やかすような仕草は、きっと揶揄われてい
あまり深く考えず無責任に言ったつもりの咲月の言葉に、平沼は「なるほど……」と頷き返しながら口の端をキュッと上げた。何か良い案が浮かんだらしい。再びメジャーを引き伸ばして、部屋の寸法を測り始める。 咲月へ指示してくる声はかなりご機嫌で明るい。「えっとじゃあ、そっちの端っこの棚の位置はそのままにするから、そこにある資料から並べてって貰える?」「は、はい」 いきなり生き生きとし出した平沼に指示され、咲月も慌てて作業を始める。咲月が黙々と棚にデザイン集やパンフレット類を収納している時、平沼は隣の社長室へと入って行ったらしく、ドアを開け閉めするのが聞こえてきた。そして、しばらくするとゴトゴトと家具を移動する音。「泉川さーん、ごめーん。ちょっとドア開けてくれるー?」 資料室の前から平沼が呼んでいる声がして、咲月は急いで入口ドアへ駆け寄る。ガチャリとノブに触れて開いてみると、見覚えのある二人掛けソファーを平沼と羽柴が運び込もうとしているところだった。意気揚々とご機嫌で入ってこようとする平沼とは対照的に、羽柴は苦虫を嚙み潰したような表情をしている。「いやー、ちょうどいい感じにハマりそうなサイズなんだよね、これ。広くなったボスの部屋にはもっと大きくて立派なのを買い直して貰うってことで」 社長室にあったソファーセットを、どうやら新たに作る休憩スペースに置くつもりらしい。対になるもう一脚も羽柴の手を借りて運び入れた後、平沼は嬉しそうにテーブルも運んで来てから笑いを堪えながら言った。「これ持ってくって言ったら、最初は反対されたんだけどね。泉川さんのアイデアだってバラしたら、渋々だけど了承してくれたよ。後で隣の部屋見て来ておいで、何にも無さ過ぎて笑えるから」 思い出し笑いか、堪え切れずに平沼が噴き出している。あんなに窮屈だった社長室が、平沼によって家具を強奪されたせいで今はデスクくらいしか無いのがおかしくて仕方ないらしい。新しいソファーが届くまでは、平沼曰く「ぽつんと一軒家状態」なのだとか。要はガランとして殺風景。「別に、私のアイデアって言うほどでは……」
その段ボール箱いっぱいの駄菓子が全て食べ尽くされた頃、咲月は大学生活最後のイベントでもある卒業式の日を迎えた。太陽は隠れていたが、とても暖かく過ごし易い日だった。「成人式は地元に帰っちゃって、写真しか見せて貰えなかったじゃない。だから卒業式は叔母ちゃんに任せなさいっ」 そう言ってくれた敦子の言葉に甘え、袴のレンタルに美容院での着付けとヘアメイク、事前の段取り全てを任せきりにしていた。だから、まさか当日の朝、ホテルの美容室へ連れて行かれた後、写真館での撮影まであるとは思ってもみなくて、敦子と共にタクシーで到着してからずっと戸惑いが隠せない。 カーペットが敷きつめられた廊下をホテルの人の後ろを付いて、慣れない草履で恐る恐る移動する。 今日の敦子は深いグレーの仕事用スーツを着ていた。バッジを胸に付けて颯爽と歩く姿は大きなホテルの中でも全く場違い感がない。これから大きな会合でもあるかのような、堂々とした佇まい。老舗ホテルの雰囲気に押されて、完全に委縮しまくりな咲月とは正反対だ。「本当は式にも付いて行きたいところなんだけど……」 姪っ子の晴れ姿に満足そうに頷きながら、敦子が寂しい声で呟く。今日は午後からどうしても立ち会わなければならない仕事が入っているらしく、本気で残念がっている。「終わった後には謝恩会もあるから」 「そうよね。私とのお祝いはまた今度ね。食べたい物を決めておいて頂戴」 「やった、今度は焼肉が食べたい」 「分かった。とっておきの店を押さえておくわね」 写真館では通常の撮影とは別に、敦子も一緒に並んでスマホで撮ってもらうと、叔母はそれを咲月の父であり、彼女の実兄でもある泉川博也にメールで早速送りつけていた。離れた場所に住む父親への近況報告もあるけれど、可愛い姪っ子の傍に今は自分がいるというマウントだ。「あ、兄さんから、何でお前も写ってるんだって、お怒りのメールが届いた。あはは、咲月だけの写真を送れって。お正月から帰ってないでしょ、寂しがってるわ」 「もうっ、入社前に一回帰るっていってるのに……」 3月は卒業式や友達との旅行、帰省などの予定が入っているせいで、H.D
備品の買い出しと面談を兼ねたランチから戻ると、オフィスには昼過ぎ出勤の三上の姿もあった。パソコンモニターに隠れるように背を丸めてキーボードを叩いていた三上は、「お疲れさまです」と挨拶した咲月には、静かに無言で頷き返してくるだけ。 でも、注文していた備品とは別にお菓子の詰まった大きな段ボール箱がオフィス内に運び入れられると、誰よりも目を輝かせていたのは何を隠そう、もうすぐアラフォーになる三上だった。 羽柴からこのオフィスの人達は甘い物はそんなにという話は聞いていたが、糖分多めのスイーツ系が人気ないというだけで、塩気のある駄菓子は喜んでくれるみたいだ。詰め合わせになっている袋を片っ端から開封し、自分のお気に入りのスナック菓子ばかりを選んで抜き取って、三上は自分のパソコンの横に積み上げていた。「あ、三上さん、コンポタ味ばっか確保してません? あとはチーズとかコンソメしか残って無いんすけど! 俺にも一本くらい分けてくださいよー」「ふんっ、こういうのは早い者勝ちっていうんだよ……」 袋によって入っている味が違ったらしく、箱の中に頭を突っ込んで漁っていた平沼が同僚のデスクに山積みになっている駄菓子を指差して物言いを入れる。まさか末等の景品がこんなに喜んでもらえるとは思ってなかったし、少しびっくりだ。 咲月は先輩達の様子を横目に、買って来たばかりの備品を棚へ片づけていく。笠井も洗剤詰め合わせセットの中に自宅で愛用しているのと同じメーカーの商品が入っていたらしく、ちゃっかりそれだけはデスクの引き出しにしまい込んでいた。 駄菓子をネタに賑やかになった平沼達のことを、咲月は珍しい物でも見るかの視線を送る。意気揚々とお菓子を持って帰っても、そこまで子供っぽい反応はもらえないものだと思い込んでいた。社会人というのは駄菓子の取り合いなんてしない、もっと大人な生き物と思っていたから。「あ、泉川さんが軽蔑の目してるー。いい歳して馬鹿だなって思ってる顔だ!」 平沼が、咲月に向かって揶揄うように言ってくる。咲月は慌てて、首を振って否定する。たとえ思っていたとしても、認める訳にはいかない。「いえ、そんなことは思ってないで
「本日最終日! ハズレ無し! 末等でも駄菓子詰め合わせだよー」 商店街名の入ったはっぴを羽織った男性が、威勢よく声を張り上げていた。景品一覧が書かれたポスターの中で、罫線を引かれて消されているのは既に当選者が出たやつなんだろう。二等の商品券五千円分はもう三本とも無くなっているみたいだが、特等のロボット掃除機も、一等の商品券一万円分も本当にまだ残っている。 まだ引いてもいないのに、並んでいる景品を眺めているだけでワクワクする。ハズレてもお菓子が貰えるなんて、なんて太っ腹な商店街だ。前の人が抽選器を回しているのを横から覗き込んでいると、羽柴がはにかみながら言ってくる。「全部、咲月ちゃんが引いていいよ。オレはこういうの、苦手だし」「え、いいんですか? あ、でも……」 一瞬ぱぁっと明るくなった咲月の顔が、すぐに曇る。くじ運はそこまで悪くない、というか普通だ。これまで大きく当てた経験は一度もない。良い物を引き当てる自信は全くない。しかも、咲月はありがたくないジンクスだって抱えている。落ち込んだ、暗い声で呟く。「私、仕事絡みだと運勢最悪なんですけど」 勤務先が全て倒産の道を辿る運勢が、こういうところでも発揮されてしまうんじゃないか。そんなマイナス思考が浮かび上がってきた咲月の頭を、羽柴はポンポンと優しく右手で宥めるよう叩いてくる。「それはアルバイトの時だろ。うちでは正社員なんだから、関係ないよ」 羽柴の励ましに、そうだといいんだけど、と自信なさげに最初に回した抽選器。出てきたのは、末等を示す白色の玉だった。初っ端からこれでは、ちょっと凹む。「はい! じゃあ、抽選券と補助券合わせて、後33回ね。お姉さん、さくさく回してってー」 回数があるだけに、回す度に落ち込んでいる暇がない。見物している人ばかりだと思っていた抽選会場にも、少しずつ抽選待ちの列が出来ていく。ほぼ抽選器を回すロボットと化した咲月は、途中で白色以外の玉が何個か出てきたのにも気付かず、ひたすら腕を回し続けていた。 玉が出る度に残り回数を大きな声で叫ばれるのは、少し恥ずかしい。「はい! ラス
「この店だよ」 車を停めたすぐ横の店を羽柴が指差してくる。教えて貰った店は看板がとても小さく、建物が古いからか照明が薄暗くて、外からは何屋さんかが分かり辛い。昔ながらの個人商店。きっと、ぱっと見では気付かず、咲月が一人で来ていたら絶対に一度は素通りしていたはずだ。 先に店の中へと入っていく羽柴の後ろを、咲月も一緒に付いていくと、ドアに設置されたベルがチリンと鳴って奥にいる店主へ来客を知らせていた。「お、羽柴さん。申し訳ないね、今日は従業員がみんな休みいただいてて、お届けに伺えなくて――」「いえ、新しいスタッフにこちらの場所を教える良い機会になりました」「それなら良かった。注文して貰ってたのは全部届いてますよ」 文具メーカーの社名入り段ボール箱を重そうに両手で抱えて、初老の店主が奥の部屋から運んでくる。中にはぎっしりとプリンターのインクやコピー用紙などが詰め込まれていた。どう考えても、羽柴が言うように歩いて持って帰るのは無理な量だ。「あ、あと追加で必要な物があるみたいなので、ちょっと店内を見て回らせていただきます」「じゃあ、決まったら声掛けてください」 店主に軽く会釈した後、羽柴は咲月が手に持っていた買い物リストを覗き込んでくる。メモを見ながら付箋や輪ゴム、紙テープなどを店内を一緒に探し回っていく。オフィスを開業した時からの付き合いというだけあり、羽柴は店内のどこに何があるかは完璧に分かっているみたいだった。店主の方も彼のことを信頼しきっているみたいで、客がいるのに奥の部屋へと姿を消した。「店になければすぐに取り寄せて貰える」「とりあえず急ぎで付箋だけは欲しいんです。あとは今度でも良いそうなので」「ボールペンの替え芯か。どこのメーカーのかは書いてないな……」 電話して笠井に確認してみようかと咲月が考えていると、羽柴はさっと二種類の替え芯を選んで咲月に渡してくる。「三上君が主に使ってるのが、こっちで。他はこのシリーズのだったと思う。予備はどれだけあっても困らないから両方買っておけばいい」 他の文具も普段使っているメーカーを教
ハガキの束のチェックが終わり、名刺ファイルにも手を伸ばす。社名の五十音順で管理されているから、ハガキの時よりもリストから探し出すのには時間がかからなかった。こちらは担当者の肩書が変更されているのが結構あって、それがちょっとややこしい。分からないことが出てくる度に笠井へ確認するのだが、作業を中断させられてあからさまに迷惑だという顔をされるのがちょっと堪える。「あの、付箋があればいただけませんか? 分からないのは飛ばしておいて、後でまとめて質問させて貰いたいので――」 さすがに頻繁に笠井の作業の手を止めるのも申し訳ないと、咲月は遠慮がちに聞いてみる。デスクの引き出しの中を探ってみたけど、ボールペンと修正液くらいしか入っていなかった。このデスクはいつから空席だったんだろう。ふとそんな疑問が浮かび上がる。「ああ、そういう備品を後で買いに行って貰うつもりでいたのよ。そうね、せっかくだから一旦作業を止めて、必要な物を揃えて貰う方が先かしら」 言いながら、咲月に頼むつもりの買い物リストを差し出してくる。「前もって注文していた物も一緒に引き取って来てね。いつもは店長さんが配達してくれるんだけど、今日は出られないそうなのよ」 馴染みの文具用品店が、通りを二つ越えたところにあるのだと説明してくる。こういうのはオフィス用品専門のネット通販のイメージだったが、この会社では羽柴の方針で地元との繋がりを大切にしているのだという。 ――もしかして、市民マラソンのロゴデザインしたのもその一環なのかな? 店の場所をもう一度確認してから、咲月はオフィスの建物を出る。就業時間中に買い物に行くなんて、まるでサボっているみたいでちょっとドキドキする。勿論、これも仕事のうちなんだけど。 一旦は駅に戻る方角に向かって歩き、駅前大通りに出てから、一本奥の道を入っていく。地図で見ても簡単な道順だったし、迷う心配はなさそう。万が一には電話するよう言われているし、オフィスの電話番号もアドレス登録を済ませてある。 せっかくのお使いが曇り空なのを残念に思いながら、足取り軽く進んでいく。 と、大通りを渡り切ったところで、信号待ちしていた車にクラクシ
翌朝、咲月がオフィス前の駐車場を歩いていると、背後から自転車のブレーキをかける音が聞こえてきた。驚いて振り返ると、駐輪スペースに自転車を停めた平沼がヘルメットを脱いでいた。そして、咲月に向かって笑顔を見せながら手を振っている。相変わらず、人懐っこい人だ。「うっす」 「おはようございます」 確か、彼は普段は昼前の出社が多かったはず。今日は朝からの仕事でもあるんだろうか。とくに気にせず先に行こうとする咲月のことを追いかけてきて、平沼はちょっと照れたような表情でヘルメットを小脇に抱えている。「たまには朝から出てくるのも悪くないかな、って」 たまたま今日は早起きできたとかなんだろう。出勤時間が決まっている咲月達と違って、フレックスが適応されるデザイナー達は自由で羨ましい。 平沼と共にオフィスのドアを入っていくと、ハンディモップを片手に棚の埃を払っていた笠井が、珍しいものでも見たと目を丸くする。「え、平沼君、どうしたのっ?!」 「うっす」 「今日って朝から何かあったかしら……?」 「いや、何もないっす。たまには早めに出勤してみようかなって思っただけっす」 「そ、そうなの、ね……?」 何年も一緒に働いているはずの笠井がそんなに驚くくらい、どうやらとても珍しいことみたいだ。なんだか落ち着かない表情の笠井に反して、平沼本人は昼前に来る時と同じように、いつも通りデスクの上にノートパソコンを置いてタスクリストの確認を始めている。本当にただ早く来ただけみたいだ。笠井はまだ「信じられない」とでもいうように小首を傾げている。 駐車場に車が無かったから、羽柴はまだ来ていない。壁掛けのホワイトボードを確認すると、直行で営業で外へ出ているらしい。けれど、本日分の指示は既にちゃんと用意されていたみたいで抜かりない。社長はちゃんと毎日家に帰って休んでいるのかと、心配になってくる。「うわー、やっぱ修正入ったかぁ……っしゃ、頑張ろっ」 任されていたデザイン案に羽柴からのダメ出しがあったらしく、目に見えて肩を落とす。が、すぐに気合いを入れ直して、平沼はパソコンモニターに向き直していた。一発オッケー
食事後、自宅の最寄り駅とは別の駅まで車で送って貰うと、咲月は敦子達と別れて一人になった。三人での食事もそれなりに楽しいけれど、やっぱり子供の頃から知っている叔母と二人だけの方が気が楽だ。 スマホで時間を確認してから、駅前商店街の中をぶらぶらと見て歩く。古くからある商店街だけれど、お洒落な雑貨屋やセレクトショップもあり、意外と客層は幅広い。 咲月のお目当ては、この辺りでは一番大きな手芸用品店。もう常連と言ってもいいくらいに通い慣れた店の中を、咲月は奥の棚へと進んでいく。入園グッズに最適と書かれた大判のポップを一瞥して、カット売りする為にロール状のまま陳列されているキルティング生地を順に見て回る。そして、お目当ての生地を見つけて、安堵の台詞を漏らす。「良かった、まだあった……」 たくさんある生地の中、小さな女の子が好きそうな淡いピンク色のゆめかわ柄のロール2種類を抱えてレジへと運んでいく。全く同じ柄の生地をひと月前にもここで購入したことがある。人気のありそうな柄だったし、もしかしたら完売しているかもと諦め半分で来たけれど、追加納品したのか前よりもロールの巻きは大きい。 特技というほどではないけれど、実家にいる頃からミシンを使って布から何かを作るのが好きだった。キッカケは入学した高校のテニス部が軟式ではなく硬式で、咲月に入れそうなクラブ活動が手芸部以外に無かったから。放課後になると家庭科室に集まって、みんなで好きな物を作った。近所の幼稚園からバザー用にシュシュやマスクを大量に頼まれたこともある。 バッグの中に入れている化粧ポーチも咲月が自分で制作した物だ。普段から持ち歩いている物はそれくらいだけれど、部屋に置いているクッションカバーもカーテンもこの店で布を買って来て縫い上げた。多分、既製品を買った方が安いと分かっていても、つい自分で縫いたくなるのだ。これは裁縫好きあるあると言っていい。 今さっき購入したばかりの布は、もちろん自分用なんかじゃない。ケーキ屋のバイトが無くなった時に、少しでも生活費の足しになればとフリマサイトで入園グッズの注文販売を始めてみた。そしたら、シーズンというのもあって予想以上に注文が貰えた。 勿論、H.D.Oでアルバイト
提出していた卒業論文を教授の研究室へ引き取りに行った後、咲月は大学構内にあるカフェでコーラフロートを味わっていた。やや強めの炭酸が喉にピリピリくる。溶けかけたバニラアイスをスプーンで掬い取って食べていると、ここが大学内だということを忘れそうになる。 窓際のハイテーブルは芝生で覆われた中庭に面しているが、今日のような曇り空の下だと誰の姿もない。昨夜に少し雨が降ったみたいだから、余計にか。 このカフェは咲月が入学した年に建て替えが始まって、昨年ようやくオープンした。全開できる大きな窓と、季節によってはウッドデッキにテラス席も設けられる開放的な空間。どちらかと言うと女子の利用者が多いのは、メニューに占めるデザート率の高さだろう。ケーキセットで選ぶことができるケーキは隣駅前の人気店の品。しかも、そのケーキの価格だけで珈琲か紅茶も一緒に頼めるという、超が付くほどお得なセットだったりする。 咲月は座っている椅子をくるりと回転させて店内を見回した。ランチタイムにはまだ早い時間だから、今カフェにいるのは講義までの時間潰しに来ている学生達だろうか。卒業間近の咲月が知っている顔は見当たらない。 ――確か、ここも誰かのデザインだったんだよね。えっと、誰だっけ……? 何とかという空間デザイナーが携わったカフェだと、リニューアルオープン時にはタウン誌でも掲載されているのを読んだ記憶がある。残念ながら、デザイナーの名前までは全く覚えていないけれど。しばらくは近隣住民までもがここ目当てにやってきて、一時期のランチタイムには入口前に行列が出来ていた。 H.D.Oのデザイナー見習いの平沼も空間デザイナーを目指してると言っていた。きっと彼もこういう仕事がしたくて、あの会社に入ったんだろう。明確な目標もなく、ただ流されるままの咲月には、はっきりとした夢を持っているのはすごいとしか言えない。いつか咲月にも何か目指すものが出来るようになるんだろうか……。 何かに対して真っ直ぐに突き進んでいこうとしている人を前にすると、じゃあ自分はどうなんだと問い詰めたくなる。漠然とどこかに就職して社会人になりたいとは思っていたけれど、そこには何かが大きく
あまり深く考えず無責任に言ったつもりの咲月の言葉に、平沼は「なるほど……」と頷き返しながら口の端をキュッと上げた。何か良い案が浮かんだらしい。再びメジャーを引き伸ばして、部屋の寸法を測り始める。 咲月へ指示してくる声はかなりご機嫌で明るい。「えっとじゃあ、そっちの端っこの棚の位置はそのままにするから、そこにある資料から並べてって貰える?」「は、はい」 いきなり生き生きとし出した平沼に指示され、咲月も慌てて作業を始める。咲月が黙々と棚にデザイン集やパンフレット類を収納している時、平沼は隣の社長室へと入って行ったらしく、ドアを開け閉めするのが聞こえてきた。そして、しばらくするとゴトゴトと家具を移動する音。「泉川さーん、ごめーん。ちょっとドア開けてくれるー?」 資料室の前から平沼が呼んでいる声がして、咲月は急いで入口ドアへ駆け寄る。ガチャリとノブに触れて開いてみると、見覚えのある二人掛けソファーを平沼と羽柴が運び込もうとしているところだった。意気揚々とご機嫌で入ってこようとする平沼とは対照的に、羽柴は苦虫を嚙み潰したような表情をしている。「いやー、ちょうどいい感じにハマりそうなサイズなんだよね、これ。広くなったボスの部屋にはもっと大きくて立派なのを買い直して貰うってことで」 社長室にあったソファーセットを、どうやら新たに作る休憩スペースに置くつもりらしい。対になるもう一脚も羽柴の手を借りて運び入れた後、平沼は嬉しそうにテーブルも運んで来てから笑いを堪えながら言った。「これ持ってくって言ったら、最初は反対されたんだけどね。泉川さんのアイデアだってバラしたら、渋々だけど了承してくれたよ。後で隣の部屋見て来ておいで、何にも無さ過ぎて笑えるから」 思い出し笑いか、堪え切れずに平沼が噴き出している。あんなに窮屈だった社長室が、平沼によって家具を強奪されたせいで今はデスクくらいしか無いのがおかしくて仕方ないらしい。新しいソファーが届くまでは、平沼曰く「ぽつんと一軒家状態」なのだとか。要はガランとして殺風景。「別に、私のアイデアって言うほどでは……」