デスクチェアに座って、咲月は駅前のコンビニで買って来たサンドウィッチを大きな口を開けて頬張る。オフィスの周囲にはランチに最適なちょっとお洒落な飲食店も多いけれど、卒業旅行を控えた金欠女子大生には手が出ない。ペットボトルの無糖紅茶ですら贅沢に感じ、お徳用ティーパックを買って来てお湯を沸かして自分で淹れた方が良いのではと思っていたくらいだ。
――笠井さんみたいな大人の女の人って、いつも外で何食べてるんだろ?
休憩に行くと言いに来た時、笠井の髪が朝よりも強めに巻き直されていたような気がする。友達とのランチにそこまで気合いを入れるなんてよっぽどだ。もしかすると、噂に聞くランチデートというやつだろうか? 仕事の合間に待ち合わせ。想像するだけでドキドキする。
最後の一口を口の中へ放り込んでから、紅茶でゴクゴクと流し込む。「ハァ、大人だなぁ……」
「え、卵サンドが?」 「へ?」急に背後から声がして、驚いて振り返る。思わず変な声を出してしまった。ぼーっとしていたせいで羽柴がフロアへ出て来たのに全く気付いていなかった。資料室のドアを開けっ放しにしたままだから、平沼が動かしているシュレッダーの音で足音がかき消されていたというのもあるだろう。
咲月は慌てて首を横に振って誤魔化した。「いえ、何でもないです」
「ふーん……?」デスクの上に置いたコンビニ袋の中を覗き込んできて、羽柴が笑いを堪えた顔をする。今日買って来たのは、さっき食べ切った卵サンドと、500mlの紅茶に明太子オニギリ1個だ。これで大体500円くらいだろうか。まさか初日から身体を動かす仕事になるとは思ってみなかったから、正直言って夕方までお腹がもつかが心配ではある。
同じようなことを思ったらしく、羽柴が不審そうに聞いてくる。「肉好きのキミには、それだけじゃ足りなくない?」
「なっ……!」以前のパーティーで咲月が肉料理ばかりを皿に盛っていたのを、羽柴はしっかりと覚えているらしい。あの時は叔母とご飯を食べに行く時と同じノリだったし、自分のことなんて見てる人はいないと思ってたから……。急に恥ずかしくなってきて、咲月の顔が
斜め前のデスクで伝票の束を捲りながら、プリプリと分かり易く頬を膨らませる笠井。三上は目を合わせないようモニターの陰に顔を潜め続ける。 ここ最近よく目撃するようになった、事務スタッフの突発的なヒステリー。触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだ。「何があったんですか?」なんて聞こうものなら、その後の仕事の進捗に大幅な遅れが出るのは間違いなし。怒涛の勢いで愚痴を聞かされ、相槌に手を抜こうとしてバレれば「そんなだからモテないんですよ」と思い切り飛び火を食らってしまう。 台車を押して外へゴミ出しに行ってしまった平沼のことを、上手く逃げやがってと心の中で毒づく。普段は人懐っこく誰にでも話し掛けていくくせに、こういう時だけはしっかりと距離を置いてくるのが解せない。その要領の良さがいつも気に食わない。 かと言って、今、フロアには三上と笠井しかいない。どう考えても、女王様のご機嫌取りの役は自分だ。ハァと諦めの溜め息が漏れ出てしまう。面倒なことには極力関わり合いたくない。 電卓を壊れそうな強さで叩く音に、三上は身体をビクつかせる。今日のご機嫌斜め度はかなりキツイ。放っておくとさらに悪化する可能性もありそうだ。恐る恐る、モニターの隅から目だけを覗かせて笠井の様子を伺う。どう話を切り出していけばいいのやら。 と、ちょうど顔を上げた笠井と思い切り目が合ってしまった。その結果、「どうしました?」と聞く前に笠井の方から口撃を受けてしまう。「ちょっと三上さん、さっきから何なんですか? チラチラとこちらを――」 「す、すみません……えっと、きょ、今日の笠井さんも、お、お洒落だなぁと、思いまして……」 しどろもどろに思ってもみない世辞を投げる。正直、笠井が今どんな服装をしているかなんて知ったこっちゃない。表情と空気で苛立っているのは分かっているが、デスクの下で今は隠れて見えていないボトムがスカートだったかパンツだったかすら記憶にない。 そんな三上の適当な言葉にも、笠井は満足そうに照れ笑いを浮かべ始める。色恋とは無縁な三上でも、一応は異性として認識はしてくれているようだ。笠井の電卓を叩く音が静かになったことに、ホッと胸を撫で下ろす。 ――どうせまた、マッチ
アルバイト2日目。前日に引き続いて資料室の片付けが待っているのが分かっているから、家を出るのも少し気が楽だった。頭を使っていろいろ覚えるよりも、ただひたすら身体を動かしている方が向いているのかもしれない。「おはようございます」 センサーの電子音に掻き消されないよう、少し声を張って挨拶する。さすがにもう誰も迎えに出てはくれないから、遠慮なくパーテーションの奥へと入っていく。フロアは無人だったが、キッチンの方から水を流す音が聞こえている。デスク下のスペースへトートバッグを置いていると、ふんわりと珈琲の香ばしい匂いが漂ってきた。 子供舌なのか、咲月は珈琲を飲んでも一度も美味しいと感じたことは無い。けれど、それでも良い匂いだとは思う。まだぼんやりしていた頭がカフェインの香りで一気に覚めた気分だ。 ブラウンのロングワンピに白いカーディガンを合わせた笠井が、シュシュでまとめていた髪をほどきながらキッチンから顔を出す。「あら泉川さん、早いわね」「おはようございます。今日も資料室の片付けをしたらいいですか?」「そうね。昨日、平沼君がどこまでやってくれたか確認して、続きをお願いします。全部出せたら、隣の部屋から荷物を移動させて欲しいんだけど……資料室へ入れる物は羽柴さんに確認してくれる? あ、掃除用具はキッチンの横の棚にまとめてあるから」 「はい」と頷き返しながら、言われた指示を頭の中で反芻する。不要品を運び出した後に掃除して、隣からまた運び込んでいく。うん、完全に肉体労働のフルコースだ。 気合いを入れ直し、咲月は軍手を嵌めつつフロアの壁沿いのドアを開く。「わっ」 資料室と書かれたプレートが貼られたドアの向こうは、がらんとしていた。初めて入った時は荷物で遮断されて日の光を一切通していなかった窓は、ブラインドが下ろされているのに朝日が強く差し込んでいる。照明を点けなくても平気なくらい明るい室内。 咲月が思わず漏らした短い驚きの声が、何もない部屋の中で小さく響く。 ――平沼さん、残り全部運んでくれたんだ。 そう言えば、駐車場の不要品の山は咲月が帰った時
「じゃあ、咲月ちゃんはこっちで分けた物をまとめてくれるか。隣へ運ぶのは平沼君に任せたらいい」「はい」 羽柴に呼ばれて、咲月は急いで駆け寄っていく。素人である咲月には何を基準に要らないと判断しているのかは分からなかったが、羽柴が雑多に床に置いていく物を紐で縛ってまとめる。 昨日とは違って隣の部屋へ移動するだけだから、一旦出て行った平沼が戻って来るのは一瞬だ。彼のペースを乱さないよう、隣へ運んで貰う分を咲月はドア近くにまとめて積み上げていく。 きっと、両手で抱えた荷物で足下がよく見えていなかったせいだ。さっき自分が紐で縛ったばかりのパンフレットの束に、思わず右足を引っ掛けてしまったのは。急に身体のバランスが崩れ、咲月の視界が社長室の床を捉えた。 「ヤバッ!」と反射的に目を瞑ったのは一瞬だった。すぐ横から羽柴の腕が伸びてきて、咲月の身体を包み込んだ。 耳元で聞こえてくる、心配して少し焦った羽柴の声。「大丈夫か?」 咄嗟のことに驚いたせいか、心臓がドキドキしている。コケかけたこともそうだけれど、羽柴の顔がすぐ目の前にあり、両腕でしっかりと抱き寄せられている状況。これは不慮の事故以外に何と言い表せばいいのだろう。 瞬きも忘れて硬直している咲月へ、羽柴が心配そうに確認して来る。「咲月ちゃん? 足を捻ったりはしてない?」 身体は支えることが出来たが、躓いた時に足首を痛めたりしてはいないかと、咲月の顔を覗き込んでくる。背中と腰へ回された力強い腕。羽柴の腕の中で、咲月はフルフルと首を横に振って、ただ大丈夫だと伝えるのが精一杯だった。 腕を離された後も、咲月の鼓動はなかなか収まらない。同級生だった元カレとはまるで違う、ずっと大人な男の人。服の上からは細く見えていた腕は、咲月の身体なんて軽々と支えられるほど逞しかった。心配して声を掛けて来た時、ほんのりと珈琲の香りが近くにした。「あのっ、ありがとうございます」 荷物を抱えたまま礼を言うと、「怪我して貰ったら困るよ」と羽柴は咲月の頭を宥めるようにポンポンと優しく叩いてくる。まるで小さな子供を甘やかすような仕草は、きっと揶揄われてい
あまり深く考えず無責任に言ったつもりの咲月の言葉に、平沼は「なるほど……」と頷き返しながら口の端をキュッと上げた。何か良い案が浮かんだらしい。再びメジャーを引き伸ばして、部屋の寸法を測り始める。 咲月へ指示してくる声はかなりご機嫌で明るい。「えっとじゃあ、そっちの端っこの棚の位置はそのままにするから、そこにある資料から並べてって貰える?」「は、はい」 いきなり生き生きとし出した平沼に指示され、咲月も慌てて作業を始める。咲月が黙々と棚にデザイン集やパンフレット類を収納している時、平沼は隣の社長室へと入って行ったらしく、ドアを開け閉めするのが聞こえてきた。そして、しばらくするとゴトゴトと家具を移動する音。「泉川さーん、ごめーん。ちょっとドア開けてくれるー?」 資料室の前から平沼が呼んでいる声がして、咲月は急いで入口ドアへ駆け寄る。ガチャリとノブに触れて開いてみると、見覚えのある二人掛けソファーを平沼と羽柴が運び込もうとしているところだった。意気揚々とご機嫌で入ってこようとする平沼とは対照的に、羽柴は苦虫を嚙み潰したような表情をしている。「いやー、ちょうどいい感じにハマりそうなサイズなんだよね、これ。広くなったボスの部屋にはもっと大きくて立派なのを買い直して貰うってことで」 社長室にあったソファーセットを、どうやら新たに作る休憩スペースに置くつもりらしい。対になるもう一脚も羽柴の手を借りて運び入れた後、平沼は嬉しそうにテーブルも運んで来てから笑いを堪えながら言った。「これ持ってくって言ったら、最初は反対されたんだけどね。泉川さんのアイデアだってバラしたら、渋々だけど了承してくれたよ。後で隣の部屋見て来ておいで、何にも無さ過ぎて笑えるから」 思い出し笑いか、堪え切れずに平沼が噴き出している。あんなに窮屈だった社長室が、平沼によって家具を強奪されたせいで今はデスクくらいしか無いのがおかしくて仕方ないらしい。新しいソファーが届くまでは、平沼曰く「ぽつんと一軒家状態」なのだとか。要はガランとして殺風景。「別に、私のアイデアって言うほどでは……」
提出していた卒業論文を教授の研究室へ引き取りに行った後、咲月は大学構内にあるカフェでコーラフロートを味わっていた。やや強めの炭酸が喉にピリピリくる。溶けかけたバニラアイスをスプーンで掬い取って食べていると、ここが大学内だということを忘れそうになる。 窓際のハイテーブルは芝生で覆われた中庭に面しているが、今日のような曇り空の下だと誰の姿もない。昨夜に少し雨が降ったみたいだから、余計にか。 このカフェは咲月が入学した年に建て替えが始まって、昨年ようやくオープンした。全開できる大きな窓と、季節によってはウッドデッキにテラス席も設けられる開放的な空間。どちらかと言うと女子の利用者が多いのは、メニューに占めるデザート率の高さだろう。ケーキセットで選ぶことができるケーキは隣駅前の人気店の品。しかも、そのケーキの価格だけで珈琲か紅茶も一緒に頼めるという、超が付くほどお得なセットだったりする。 咲月は座っている椅子をくるりと回転させて店内を見回した。ランチタイムにはまだ早い時間だから、今カフェにいるのは講義までの時間潰しに来ている学生達だろうか。卒業間近の咲月が知っている顔は見当たらない。 ――確か、ここも誰かのデザインだったんだよね。えっと、誰だっけ……? 何とかという空間デザイナーが携わったカフェだと、リニューアルオープン時にはタウン誌でも掲載されているのを読んだ記憶がある。残念ながら、デザイナーの名前までは全く覚えていないけれど。しばらくは近隣住民までもがここ目当てにやってきて、一時期のランチタイムには入口前に行列が出来ていた。 H.D.Oのデザイナー見習いの平沼も空間デザイナーを目指してると言っていた。きっと彼もこういう仕事がしたくて、あの会社に入ったんだろう。明確な目標もなく、ただ流されるままの咲月には、はっきりとした夢を持っているのはすごいとしか言えない。いつか咲月にも何か目指すものが出来るようになるんだろうか……。 何かに対して真っ直ぐに突き進んでいこうとしている人を前にすると、じゃあ自分はどうなんだと問い詰めたくなる。漠然とどこかに就職して社会人になりたいとは思っていたけれど、そこには何かが大きく
食事後、自宅の最寄り駅とは別の駅まで車で送って貰うと、咲月は敦子達と別れて一人になった。三人での食事もそれなりに楽しいけれど、やっぱり子供の頃から知っている叔母と二人だけの方が気が楽だ。 スマホで時間を確認してから、駅前商店街の中をぶらぶらと見て歩く。古くからある商店街だけれど、お洒落な雑貨屋やセレクトショップもあり、意外と客層は幅広い。 咲月のお目当ては、この辺りでは一番大きな手芸用品店。もう常連と言ってもいいくらいに通い慣れた店の中を、咲月は奥の棚へと進んでいく。入園グッズに最適と書かれた大判のポップを一瞥して、カット売りする為にロール状のまま陳列されているキルティング生地を順に見て回る。そして、お目当ての生地を見つけて、安堵の台詞を漏らす。「良かった、まだあった……」 たくさんある生地の中、小さな女の子が好きそうな淡いピンク色のゆめかわ柄のロール2種類を抱えてレジへと運んでいく。全く同じ柄の生地をひと月前にもここで購入したことがある。人気のありそうな柄だったし、もしかしたら完売しているかもと諦め半分で来たけれど、追加納品したのか前よりもロールの巻きは大きい。 特技というほどではないけれど、実家にいる頃からミシンを使って布から何かを作るのが好きだった。キッカケは入学した高校のテニス部が軟式ではなく硬式で、咲月に入れそうなクラブ活動が手芸部以外に無かったから。放課後になると家庭科室に集まって、みんなで好きな物を作った。近所の幼稚園からバザー用にシュシュやマスクを大量に頼まれたこともある。 バッグの中に入れている化粧ポーチも咲月が自分で制作した物だ。普段から持ち歩いている物はそれくらいだけれど、部屋に置いているクッションカバーもカーテンもこの店で布を買って来て縫い上げた。多分、既製品を買った方が安いと分かっていても、つい自分で縫いたくなるのだ。これは裁縫好きあるあると言っていい。 今さっき購入したばかりの布は、もちろん自分用なんかじゃない。ケーキ屋のバイトが無くなった時に、少しでも生活費の足しになればとフリマサイトで入園グッズの注文販売を始めてみた。そしたら、シーズンというのもあって予想以上に注文が貰えた。 勿論、H.D.Oでアルバイト
翌朝、咲月がオフィス前の駐車場を歩いていると、背後から自転車のブレーキをかける音が聞こえてきた。驚いて振り返ると、駐輪スペースに自転車を停めた平沼がヘルメットを脱いでいた。そして、咲月に向かって笑顔を見せながら手を振っている。相変わらず、人懐っこい人だ。「うっす」 「おはようございます」 確か、彼は普段は昼前の出社が多かったはず。今日は朝からの仕事でもあるんだろうか。とくに気にせず先に行こうとする咲月のことを追いかけてきて、平沼はちょっと照れたような表情でヘルメットを小脇に抱えている。「たまには朝から出てくるのも悪くないかな、って」 たまたま今日は早起きできたとかなんだろう。出勤時間が決まっている咲月達と違って、フレックスが適応されるデザイナー達は自由で羨ましい。 平沼と共にオフィスのドアを入っていくと、ハンディモップを片手に棚の埃を払っていた笠井が、珍しいものでも見たと目を丸くする。「え、平沼君、どうしたのっ?!」 「うっす」 「今日って朝から何かあったかしら……?」 「いや、何もないっす。たまには早めに出勤してみようかなって思っただけっす」 「そ、そうなの、ね……?」 何年も一緒に働いているはずの笠井がそんなに驚くくらい、どうやらとても珍しいことみたいだ。なんだか落ち着かない表情の笠井に反して、平沼本人は昼前に来る時と同じように、いつも通りデスクの上にノートパソコンを置いてタスクリストの確認を始めている。本当にただ早く来ただけみたいだ。笠井はまだ「信じられない」とでもいうように小首を傾げている。 駐車場に車が無かったから、羽柴はまだ来ていない。壁掛けのホワイトボードを確認すると、直行で営業で外へ出ているらしい。けれど、本日分の指示は既にちゃんと用意されていたみたいで抜かりない。社長はちゃんと毎日家に帰って休んでいるのかと、心配になってくる。「うわー、やっぱ修正入ったかぁ……っしゃ、頑張ろっ」 任されていたデザイン案に羽柴からのダメ出しがあったらしく、目に見えて肩を落とす。が、すぐに気合いを入れ直して、平沼はパソコンモニターに向き直していた。一発オッケー
ハガキの束のチェックが終わり、名刺ファイルにも手を伸ばす。社名の五十音順で管理されているから、ハガキの時よりもリストから探し出すのには時間がかからなかった。こちらは担当者の肩書が変更されているのが結構あって、それがちょっとややこしい。分からないことが出てくる度に笠井へ確認するのだが、作業を中断させられてあからさまに迷惑だという顔をされるのがちょっと堪える。「あの、付箋があればいただけませんか? 分からないのは飛ばしておいて、後でまとめて質問させて貰いたいので――」 さすがに頻繁に笠井の作業の手を止めるのも申し訳ないと、咲月は遠慮がちに聞いてみる。デスクの引き出しの中を探ってみたけど、ボールペンと修正液くらいしか入っていなかった。このデスクはいつから空席だったんだろう。ふとそんな疑問が浮かび上がる。「ああ、そういう備品を後で買いに行って貰うつもりでいたのよ。そうね、せっかくだから一旦作業を止めて、必要な物を揃えて貰う方が先かしら」 言いながら、咲月に頼むつもりの買い物リストを差し出してくる。「前もって注文していた物も一緒に引き取って来てね。いつもは店長さんが配達してくれるんだけど、今日は出られないそうなのよ」 馴染みの文具用品店が、通りを二つ越えたところにあるのだと説明してくる。こういうのはオフィス用品専門のネット通販のイメージだったが、この会社では羽柴の方針で地元との繋がりを大切にしているのだという。 ――もしかして、市民マラソンのロゴデザインしたのもその一環なのかな? 店の場所をもう一度確認してから、咲月はオフィスの建物を出る。就業時間中に買い物に行くなんて、まるでサボっているみたいでちょっとドキドキする。勿論、これも仕事のうちなんだけど。 一旦は駅に戻る方角に向かって歩き、駅前大通りに出てから、一本奥の道を入っていく。地図で見ても簡単な道順だったし、迷う心配はなさそう。万が一には電話するよう言われているし、オフィスの電話番号もアドレス登録を済ませてある。 せっかくのお使いが曇り空なのを残念に思いながら、足取り軽く進んでいく。 と、大通りを渡り切ったところで、信号待ちしていた車にクラクシ
「でも同じ会社の人と付き合うとかは無理だなぁ……」 そう呟いたのが美奈じゃなくて紗英だったから、咲月は食べていた鶏の唐揚げで喉を詰まらせそうになり、むせ返ってしまった。驚きと喉の詰まりで思わず目をぱちくりさせる。ついさっき、会社の先輩の話で瞳にハートを浮かべていたところではなかったか、と。「いやいや、バッグデザイナーの先輩は?」 咲月が来る前に散々いろいろ聞かされていたせいもあってか、美奈も速攻で紗英を突っ込んで「はぁぁ?!」と目を剥いていた。「だってほら、付き合ったとしても、その後に上手く行かなかったことを考えてみてよ。下手したら職場に居辛くなって、職も彼氏も同時に失うことになっちゃわない? あんなに苦労して就活した会社だよ。そこまでの覚悟ができるくらい本気ならいいかもだけど……」 「じゃあ、その先輩は何なの一体?」 「先輩は私にとって、社内のオアシスってとこかなぁ。ぶっちゃけ、推しだね。それ以上でもそれ以下でもない!」 あくまでも恋愛感情ではないと言い切る紗英に、美奈が呆れた溜め息を吐いている。コイバナだと思って真剣に聞いていた時間を返せと、紗英にクレームを入れ始める。「だってほら、大学ん時だってバイトとかサークルで付き合い始めた子とかいたけど、別に上手くいってる内はいいよ。でも、結局別れるってなった時、必ずどっちかが来なくなってたもん」 「まあ、普通はそうなるなるよね。たまに平然としてる人達もいたけど、周りが変に気使わされて大変なやつ」 「そうそう。学生の時はそういう後々のことは考えず行動しても何とかなったでしょ。気マズかろうが、どうせ卒業したら会わなくなるんだしって。でもさ、今はそういう訳にもいかないじゃん」 「……確かに、どっちかが辞表出すまでずっとだよね」 就活をやり直すリスクを冒してまでは踏み込みたいとも思えないと、ついさっきまであんなに惚気ていたとは思えないほど紗英がドライに語る。社会人になって見た目と同じくらい、恋愛観までがらりと変わったみたいだ。「でも、うちの会社って意外と社内結婚が多いらしいんだよねー」 信じられないと言いたげに、紗英が眉を寄せながら言う。「やたら懇親会的なのが多いから、そういうので距離が縮まるのかなぁ。大抵はどっちかが辞めて、どっちかが残ってるって感じなんだけど。結婚しても旧姓のままだったりす
「あ、こっちこっちー」「沙月、おっそーい」 通っていた大学通りの馴染みの居酒屋。駅前でよく見かけるチェーン店だ。アルバイト店員の中にはどこかの講義で一緒になった記憶のある後輩の顔をちらほら見かけた。学生の時から住み続けているマンションが近いという理由で、この店を指定したのは紗英だった。 卒業式以来ずっと会ってなかった紗英は、当時とはメイクもがらりと変わって随分と大人っぽくなったように思えた。美奈と共に同じゼミで、学生生活の大半を一緒に過ごした紗英はアパレルメーカーの勤務。第一志望は出版社で、ファッション誌の編集をやりたかったみたいだけれど、あまりの高倍率に断念して、紹介する側ではなく作って流通させる側に回ることにしたらしい。「ほんと、咲月は全然変わらなくて安心するー。見てよ、紗英を、また初めて見るバッグを持ってるんだよ。こないだ通勤用って言ってたのとは全然違うし。バッグばっかりどんだけ買ってるのよ?」「えー、社割社割! でも、新作が出たらつい欲しくなっちゃうんだよねぇ」 洋服こそビジネスカジュアルを意識してはいるものの、咲月は卒業祝いに敦子からプレゼントして貰ったバッグを通勤用にしている。落ち着いたブラウンの合皮のトートバッグは中の仕切りが多くて使い勝手がとてもいい。自立タイプだからデスクの下に立ててしまえるのが気に入っている。 ただまあ、敦子セレクトだからデザインが大人っぽ過ぎるのは確か。でも、ブランドに詳しい人なら分かるらしく、初めてオフィスに持って行った時、笠井から「あら、そのバッグ素敵じゃない」と褒めて貰えた。「もしや、これも例の彼のデザインとか?」 美奈が揶揄うように紗英の顔をの覗き込んでいる。先に飲み始めていた二人は、すでに目元がほんのりと赤らんでいた。テーブルの上には半分以上を飲み終わっている酎ハイの中ジョッキ。向かいに座る美奈の言葉に、紗英は照れ笑いを浮かべ始める。「え、例の彼って何のこと?」 ジャケットを脱いで壁のハンガーに引っ掛け、美奈の隣の席に座りながら咲月が二人の顔を交互に見る。どうやら自分が来る前にすでに何か面白い話が出ていたらしい。美奈達はクスクスと笑い合って、妙に盛り上がっている。「同じ会社のデザイナーさんなんだってー。四つ上だったっけ?」「そう、デザイン部にいる先輩。展示会とかで一緒になったりするんだけど、
聞かなくても分かっている。咲月のことは顧問弁護士の敦子から預かっている子くらいにしか思われていないってくらいは。それでも聞き返してしまったのは、別の答えが返ってくるのをどこかで期待していたからだろうか。無意識の台詞に、自分自身が一番驚いていた。 ――あれっ、私、何言ってんだろ……? そんなこと、社長に聞く必要なんてないのに……。 さっきの甘えた言い方は、咲月のことをただ揶揄っただけだ。年上で大人な彼からすれば、咲月なんて本気で相手にするはずなんてない。笠井や七瀬に比べたら、咲月なんてまだまだ子供でしかないのだから。 そう頭では理解しているのに、咲月は胸の鼓動が早鳴るのを抑えきれなかった。揶揄いの言葉にさえ、心が大きく揺すぶられるのを感じる。こうなるのが分かっていて、あんな風に思わせぶりなことをわざと言うなんて、羽柴智樹という男は何て意地が悪いんだろう。 そんな咲月の隠れた動揺を打ち破ったのは、社長室扉を叩く音だった。コンコンと二度のノック音の後に、平沼の困惑した声が聞こえてくる。「失礼します。社長、ちょっといいっすか? 七瀬さんがやっぱ社長にも同席して欲しいそうなんすけど……」 小松絡みで相談に来たという七瀬が、羽柴も一緒に話を聞いて欲しいと言い出しているらしい。この事務所では小松の仲介者だった平沼が担当していると伝えたみたいだけれど、彼女はどうしても羽柴社長もと聞かないようだった。 彼女に取って、小松の件は都合の良い言い訳に過ぎない。過去に逃した魚を再び追いかけるのに丁度良いキッカケだったのだろう。笠井の予想では、独立の可能性が立ち消えた彼女の夫は、早い内に見限られて捨てられてしまうに違いない。 そんな女の冷酷な策略を知ってか知らずか、平沼は呆れるような溜め息を吐きつつ、客人の様子を報告してくる。「うちはもう小松の案件はとっくに対応済みだから、社長に出てもらうようなことは無いって言ってるんすけどね。向こうのことを相談に乗って貰いたいとかなんとか――」 「渡せる情報は渡してあげたんだよね?」 「はい。うちがどう対応したかは伝えました」 「じゃあ、こっちで助けてあげられることはもう何もない。他所の事務所のことにまで口出しはできない。他に何かあれば、七瀬――ああ、彼女の旦那の方に連絡するようにするって言ってくれるかな」 さっきとは打って変
「咲月ちゃんは、笠井さんと一緒に行きたかった?」 ソファーテーブルの上の書類を片付けている咲月へ、羽柴がボソボソと遠慮がちに聞いてくる。さっきの笠井からの誘いに横から口を挟んでしまったことを大人げなかったと気にしているみたいだ。 咲月はちょっと首を傾げて悩むそぶりを見せた後、小さく笑いながら答える。「いえ、合コンって聞くとあんまりなんですけど、いつも笠井さんが何食べてるのかには興味があっただけです。なんか、凄いお洒落な物を食べに行ってそうじゃないですか、笠井さんって」 毎日のように外で昼食を取る先輩。きっと行きつけのお店とかも沢山あるんだろう。笠井も一人暮らしだったはずだけれど、どうやり繰りすれば毎日外食が出来るのかも教えて欲しいくらいだ。社員になってからも咲月はコンビニに頼り切りなのに。 咲月の能天気な答えに、羽柴はふっと小さく鼻で笑っていた。そして少し考えていたみたいだが優しく微笑み返す。「そうか、咲月ちゃんはそういうのに興味があるんだね。じゃあ今度、とっておきの店に連れていってあげる」「え……?」「君と一緒に行きたいとずっと思ってる店があるんだよ」 羽柴がさらっと口にした言葉に、咲月は思わず窓際のデスクを振り返り見る。「それとも、俺のお勧めでは物足りない、かな?」「あ、いえ、そんなことは……」 大きなモニターで隠れた羽柴の顔が、今どういう表情をしていたのかまでは見えなかった。ただその言い方がとても社交辞令とは思えなくて、しかもさりげない色気を帯びていて、咲月の胸はドキッとした。 ――今のは、会社のみんなで行くってこと、だよね……? 子ども扱いされるのに慣れてしまっているせいか、上司の真意が読み取れない。余計な勘違いをして恥をかくのも嫌だと、咲月はわざと無邪気に笑って応えた。このオフィスで一番年下なのだから、多少は頭の弱いふりしても許して貰えるだろう。この場はキャラに無いぶりっ子声で誤魔化してしまうのが一番に思えた。 自分のデスクに戻って椅子に座りながら、あくま
「二人はそんなに仲が良かったっけ?」 咲月達が社長室の応接ソファーで作業していると、羽柴が二人の関係性が少し変わったように感じると首を傾げている。あくまでも同じ会社に勤務しているだけで、必要以上の会話は一切しない。確かについさっきまでの咲月と笠井はそうだった。けれど、飯塚というネタに出来る第三者が現れたことで、仕事以外の会話ができたのは大きい。咲月も笠井の人間的な部分が見れて、ちょっと親しみが湧いてきていた。「泉川さんとは歳が離れてますけど、意外と話が合うかもって思ったところかしら」「笠井さんのお話、ものすごく興味深かったです」 会話の内容は決して教えられないけれどと、咲月達は顔を見合わせてクスクスと笑う。まさか自分のことを噂されてたとは思っていないらしく、羽柴は優しい目で二人の様子を伺っている。女性同士なのになかなか打ち解けないでいたことを、上司としてずっと気にしていたのかもしれない。 咲月のデスクを移動させたのも、もしかするとスタッフ間の関係を考慮してのことだったんだろうか? 和やかな雰囲気の中、笠井が思い出したように咲月へ提案してくる。「そうだわ、来週の火曜のランチに泉川さんも参加してみる? ちょうど一人、都合がつかなくなったのよ。いろんな業界の人が来るから、勉強になることも多いと思うんだけれど」 笠井が定期的に他の会社に勤める友達と待ち合わせて、ランチ会をしているのは咲月も知っていた。ちょっとした交流会だと聞いていたから、目を輝かせて頷き返そうとしたが、咲月が反応するより前に羽柴が椅子から立ち上がって止めに入ってくる。「それだけはダメだよ。笠井さん、そういうのに咲月ちゃんを誘うのやめて下さい」 勢いよく立ち上がったせいで、羽柴のデスクから落ちたボールペンがコロコロと床を転がっていく。それを慌てて拾い上げながら、羽柴がハァと呆れ顔で溜め息を吐く。「休憩時間中の行動には口を挟むつもりはないけれど、笠井さんのランチ会は咲月ちゃんには……」「あら、社長は彼女のこと、いくつだと思ってるんですか?」「いや、ほら……泉川先
思わぬ話を聞かされた後、笠井は何事も無かったかのように、本当に新しい仕事の指示を咲月へとしてくる。ただの出まかせではなく、実際に咲月へ教えるつもりだった作業があったらしい。最近になってから、新しい仕事を沢山任せて貰えるようになった。今まで笠井が一人でこなして来たものを新米事務スタッフである咲月に教え込むということそれは何を意味するのか――。 咲月はハッとして、声を上げる。「笠井さん、もしかして辞めちゃうんですか?!」 ほぼ毎日のように出掛けて行くランチデートの相手と、結婚が決まったってことだろうか? それとも、いろいろすっ飛ばしてご懐妊?! 咲月は不安気な顔で向かいのソファーに座る先輩を見上げる。 笠井はいきなりの質問に、目をギョッと剥いて、動揺からか手に持っていたファイルを床に落としていた。「な、な、な……っ?!」「だって、今まで笠井さんがやってこられた仕事まで私がするってことは、つまり――」「いいから、泉川さん。落ち着いてちょうだい……」 ようやく仲良くなりかけたと思ったら、退職を決めた後だったなんてと、咲月はショックで続きが言葉にならない。気難しい先輩だとは思っていたけれど、別に笠井のことは嫌いじゃない。むしろ唯一の同性の同僚なのだから、もっといろんなことを教えて貰いたいと思っていたくらいなのに。 ――そうだ、私の悪いジンクスって、バイトに関してだけじゃなかったんだった……。 仲良しの友達が引っ越しして居なくなってしまうことは、一度や二度じゃない。特に親の仕事の都合で引っ越しを余儀なくされる小中学生の時は、覚えているだけでも四人の友達とお別れすることになった。習い事も同じで、同じ中学に行こうねと約束し合った同級生は、親の教育方針で私立を受験して、以降は会ってもいない。気になっていた人とようやく親しくなれたと思った時は、すぐ後にお別れが待っている。 運命はいつも、咲月から何もかもを取り上げていく。「咲月ちゃん、それは違うよ」 落ち込んでしまった咲月へと最初に声を掛けてきたのは、自分のデス
「別にそういうのがダメって訳じゃないと思うのよ、私だって。外堀を埋めてくのも駆け引きの一つなんだから」 SNSの話に完全にドン引き気味の咲月へ、笠井が気を使ってフォローする。互いに明言してなくて周りが勝手にはやし立ててるだけだから、そんなつもりは無かったと後で言えば済む話。傍に居る時間が多ければ、それだけ周りから一歩リードできる、ってことだろうか。あるいは、勢いで既成事実を作るチャンスがあると狙ってなのか。大人の恋愛は複雑だ。「でもあの人、別のデザイナーから言い寄られて気持ちが揺れちゃったのよね」「そんなに必死だったのに、ですか?」 咲月が身を乗り出して聞き返すと、笠井はかなり嬉しそうに笑っていた。多分、一緒に働くようになってから咲月へ向けられた笑顔の中では一番だ。いつも咲月には愛想笑いもしてくれないから、ちょっと嬉しかった。 咲月の反応に、笠井は「そうなのよー」とノリノリで話しを続ける。人の悪口で親睦を深めるのはどうかと思ったけれど、相手は別のオフィスの人だし、何より先輩とようやく仲良くなれそうだったからと、咲月は頭を上下に振って続きを促した。「七瀬さんって言うんだけど、その人も同期でね、羽柴さんのライバル的存在っていうのかしら。顔もまあ、それなりだったわ」「七瀬さん……飯塚さんの旦那様ってことですか? さっき、あの女の人のことを今は七瀬さんだっておっしゃってたし」「そう、最終的にはあの人、羽柴さんとは別のデザイナーの方を選んじゃったのよね。その直後のコンペで七瀬さんのデザインに決まったからって。彼の方が有望で将来性があるとでも思ったのよね、きっと」「じゃあ、社長は勝手に振られた形になっちゃってるんだ……なんか、可哀想」 付き合っているという噂のあった女性が、他の人と婚約したら同情の目は全て羽柴へと集中する。元々交際すらしていないと否定しても、飯塚の露骨な匂わせのせいで言い訳にしか聞こえない。羽柴からしたら、いい迷惑だ。「そのタイミングで羽柴さんがオフィスを独立することになったの。ううん、とっくの前から決まってたことらしいんだけど。でも、あの女の悔し
「相変わらず、笠井さんはスタイルが良くて羨ましいわー。今もヨガ教室は続けてるの? 最近ちょっと食べ過ぎちゃって、私も少しは運動しなきゃって思ってるの」「そんなぁ、飯塚さんは元が細いから、まだ気にしなくて大丈夫よー」 互いに親し気な言葉を掛け合っている割に、あまり仲良しに見えないのは彼女達の会話の大半に心が籠っているように思えないからだ。いわゆる社交辞令ってやつだからだろうか。それでも笠井達は終始笑顔で、お互いを褒めちぎり合っていた。電話打ち合わせ中だった羽柴が社長室を出てくるまでそれは続きそうで、横で聞いていた三上のうんざり顔がパソコンモニターの後ろでチラチラと見え隠れしていた。 壁面の棚から予備の付箋と修正液を探し出すと、咲月はそっとその場を離れかける。が、笠井の後ろを通り過ぎようとした時、ピンクベージュのネイルをした指がなぜか咲月の腕をぐっと掴んできた。「……?!」 驚いて立ち止まった咲月は、自分の腕を引っ張っている笠井の顔を振り返り見る。事務の先輩はすぐには何も言わず、口角をきゅっと上げた顔を見せてくるが、その目は全然笑っていない。何だか妙な威圧感に、「なんですか?」と聞くに聞けない雰囲気だ。「泉川さんに手伝って貰いたい仕事があるんだけど、今って急ぎで抱えてる作業はある?」「あ、いえ、今は特に……」 午前にやっていた資料のファイリングの続きが残っているけれど、別に期限のある作業じゃない。それをそう伝えると、笠井はくるりと身体を回転させて飯塚と呼んでいた客へ向けて、少し残念そうな表情を作ってみせる。「とってもお久しぶりだから、もっとゆっくりお話ししていたかったんだけど、今は新人への指導もしなきゃだし、あまり余裕が無いのよねー。羽柴ももうすぐ出てくると思いますし、それまであちらでお待ちいただけます?」 パーテンションに仕切られた、商談スペースを指し示しながら、笠井は「バタバタしてて、申し訳ないわぁ」と飯塚へ声を掛けていた。言われた客の方も、「忙しい時にごめんなさいねぇ」とお詫びの台詞を口にしていたが、その表情は何だか釈然としていない。急に改まって客扱いさ
羽柴から返して貰ったばかりのマスコットを、咲月は両手にそっと包み込んだ。子供っぽいと笑われてもおかしくはない、元は幼児向けに作った手芸作品。プレゼントした園児達は喜んでくれているみたいだったけれど、とっくに成人した咲月には似合わないはずだ。なのに……。 お気に入りなんだけど、これを外で持ち歩くことにはコンプレックスというか後ろめたさもあった。人には見せないようにしていた、自分だけの秘密。きっと、母が見たら「いい歳して何やってるのよ、情けないわ」と大きな溜め息を吐かれてしまうだろう。 それを羽柴は馬鹿にするどころか、「いいね」と言ってくれた。そして、咲月が作ったマスコットからインスピレーションを得たと言って、とても喜んでくれた。きっと彼ほどのデザイナーなら、他の題材があっても素敵なデザインを生み出すことができるだろうが、それに咲月の猫を選んでくれたことが素直に嬉しかった。 ――羽柴社長の魔法の手にかかったら、何でも素敵なロゴに変身しちゃうんだ。 本当は言葉にして本人へ伝えようと思ったが、すんでのところでぐっと飲み込む。魔法とか、どれだけ子供発言なんだろう。発想が幼稚過ぎて、これではますます大人の女性像が遠ざかっていく。 けれどもう一度、咲月はパソコンのモニターに表示されている羽柴のデザイン画を眺める。顔や髭も何も描かれていないのに、それだけで猫だと分かる曲線。そして、緑とオレンジの比率が妙に洗練された配色。同じ物を見て、このデザインへ辿り着くことができるのは世界で彼一人なのだ。 マジマジと食い入るようにロゴのデザイン画を見ている咲月のことを、羽柴は自分のデスクから優しい表情を浮かべながら眺めていた。 そして、何かを思いついたかのように、羽柴がデッサン用のノートの上にペンを走らせる。カリカリという筆音が社長室の中に響き始めて、モニターから顔を上げた咲月は、口の端を少し上げて真剣な目で紙面に向かう羽柴に気付く。部下に見られていることを物ともせず、描くことに没頭している男の顔は、仕事に集中しているというよりはむしろ、楽しい遊びに夢中になっている子供のようだと思った。 羽柴智樹という人にとって、何かをデザインして形作ってい