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第十六話

last update Last Updated: 2025-03-06 09:50:26

 翌朝、咲月がオフィス前の駐車場を歩いていると、背後から自転車のブレーキをかける音が聞こえてきた。驚いて振り返ると、駐輪スペースに自転車を停めた平沼がヘルメットを脱いでいた。そして、咲月に向かって笑顔を見せながら手を振っている。相変わらず、人懐っこい人だ。

「うっす」

「おはようございます」

 確か、彼は普段は昼前の出社が多かったはず。今日は朝からの仕事でもあるんだろうか。とくに気にせず先に行こうとする咲月のことを追いかけてきて、平沼はちょっと照れたような表情でヘルメットを小脇に抱えている。

「たまには朝から出てくるのも悪くないかな、って」

 たまたま今日は早起きできたとかなんだろう。出勤時間が決まっている咲月達と違って、フレックスが適応されるデザイナー達は自由で羨ましい。

 平沼と共にオフィスのドアを入っていくと、ハンディモップを片手に棚の埃を払っていた笠井が、珍しいものでも見たと目を丸くする。

「え、平沼君、どうしたのっ?!」

「うっす」

「今日って朝から何かあったかしら……?」

「いや、何もないっす。たまには早めに出勤してみようかなって思っただけっす」

「そ、そうなの、ね……?」

 何年も一緒に働いているはずの笠井がそんなに驚くくらい、どうやらとても珍しいことみたいだ。なんだか落ち着かない表情の笠井に反して、平沼本人は昼前に来る時と同じように、いつも通りデスクの上にノートパソコンを置いてタスクリストの確認を始めている。本当にただ早く来ただけみたいだ。笠井はまだ「信じられない」とでもいうように小首を傾げている。

 駐車場に車が無かったから、羽柴はまだ来ていない。壁掛けのホワイトボードを確認すると、直行で営業で外へ出ているらしい。けれど、本日分の指示は既にちゃんと用意されていたみたいで抜かりない。社長はちゃんと毎日家に帰って休んでいるのかと、心配になってくる。

「うわー、やっぱ修正入ったかぁ……っしゃ、頑張ろっ」

 任されていたデザイン案に羽柴からのダメ出しがあったらしく、目に見えて肩を落とす。が、すぐに気合いを入れ直して、平沼はパソコンモニターに向き直していた。一発オッケー

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     思わぬ話を聞かされた後、笠井は何事も無かったかのように、本当に新しい仕事の指示を咲月へとしてくる。ただの出まかせではなく、実際に咲月へ教えるつもりだった作業があったらしい。最近になってから、新しい仕事を沢山任せて貰えるようになった。今まで笠井が一人でこなして来たものを新米事務スタッフである咲月に教え込むということそれは何を意味するのか――。 咲月はハッとして、声を上げる。「笠井さん、もしかして辞めちゃうんですか?!」 ほぼ毎日のように出掛けて行くランチデートの相手と、結婚が決まったってことだろうか? それとも、いろいろすっ飛ばしてご懐妊?! 咲月は不安気な顔で向かいのソファーに座る先輩を見上げる。 笠井はいきなりの質問に、目をギョッと剥いて、動揺からか手に持っていたファイルを床に落としていた。「な、な、な……っ?!」「だって、今まで笠井さんがやってこられた仕事まで私がするってことは、つまり――」「いいから、泉川さん。落ち着いてちょうだい……」 ようやく仲良くなりかけたと思ったら、退職を決めた後だったなんてと、咲月はショックで続きが言葉にならない。気難しい先輩だとは思っていたけれど、別に笠井のことは嫌いじゃない。むしろ唯一の同性の同僚なのだから、もっといろんなことを教えて貰いたいと思っていたくらいなのに。 ――そうだ、私の悪いジンクスって、バイトに関してだけじゃなかったんだった……。 仲良しの友達が引っ越しして居なくなってしまうことは、一度や二度じゃない。特に親の仕事の都合で引っ越しを余儀なくされる小中学生の時は、覚えているだけでも四人の友達とお別れすることになった。習い事も同じで、同じ中学に行こうねと約束し合った同級生は、親の教育方針で私立を受験して、以降は会ってもいない。気になっていた人とようやく親しくなれたと思った時は、すぐ後にお別れが待っている。 運命はいつも、咲月から何もかもを取り上げていく。「咲月ちゃん、それは違うよ」 落ち込んでしまった咲月へと最初に声を掛けてきたのは、自分のデス

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十二話

    「別にそういうのがダメって訳じゃないと思うのよ、私だって。外堀を埋めてくのも駆け引きの一つなんだから」 SNSの話に完全にドン引き気味の咲月へ、笠井が気を使ってフォローする。互いに明言してなくて周りが勝手にはやし立ててるだけだから、そんなつもりは無かったと後で言えば済む話。傍に居る時間が多ければ、それだけ周りから一歩リードできる、ってことだろうか。あるいは、勢いで既成事実を作るチャンスがあると狙ってなのか。大人の恋愛は複雑だ。「でもあの人、別のデザイナーから言い寄られて気持ちが揺れちゃったのよね」「そんなに必死だったのに、ですか?」 咲月が身を乗り出して聞き返すと、笠井はかなり嬉しそうに笑っていた。多分、一緒に働くようになってから咲月へ向けられた笑顔の中では一番だ。いつも咲月には愛想笑いもしてくれないから、ちょっと嬉しかった。 咲月の反応に、笠井は「そうなのよー」とノリノリで話しを続ける。人の悪口で親睦を深めるのはどうかと思ったけれど、相手は別のオフィスの人だし、何より先輩とようやく仲良くなれそうだったからと、咲月は頭を上下に振って続きを促した。「七瀬さんって言うんだけど、その人も同期でね、羽柴さんのライバル的存在っていうのかしら。顔もまあ、それなりだったわ」「七瀬さん……飯塚さんの旦那様ってことですか? さっき、あの女の人のことを今は七瀬さんだっておっしゃってたし」「そう、最終的にはあの人、羽柴さんとは別のデザイナーの方を選んじゃったのよね。その直後のコンペで七瀬さんのデザインに決まったからって。彼の方が有望で将来性があるとでも思ったのよね、きっと」「じゃあ、社長は勝手に振られた形になっちゃってるんだ……なんか、可哀想」 付き合っているという噂のあった女性が、他の人と婚約したら同情の目は全て羽柴へと集中する。元々交際すらしていないと否定しても、飯塚の露骨な匂わせのせいで言い訳にしか聞こえない。羽柴からしたら、いい迷惑だ。「そのタイミングで羽柴さんがオフィスを独立することになったの。ううん、とっくの前から決まってたことらしいんだけど。でも、あの女の悔し

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十一話

    「相変わらず、笠井さんはスタイルが良くて羨ましいわー。今もヨガ教室は続けてるの? 最近ちょっと食べ過ぎちゃって、私も少しは運動しなきゃって思ってるの」「そんなぁ、飯塚さんは元が細いから、まだ気にしなくて大丈夫よー」 互いに親し気な言葉を掛け合っている割に、あまり仲良しに見えないのは彼女達の会話の大半に心が籠っているように思えないからだ。いわゆる社交辞令ってやつだからだろうか。それでも笠井達は終始笑顔で、お互いを褒めちぎり合っていた。電話打ち合わせ中だった羽柴が社長室を出てくるまでそれは続きそうで、横で聞いていた三上のうんざり顔がパソコンモニターの後ろでチラチラと見え隠れしていた。 壁面の棚から予備の付箋と修正液を探し出すと、咲月はそっとその場を離れかける。が、笠井の後ろを通り過ぎようとした時、ピンクベージュのネイルをした指がなぜか咲月の腕をぐっと掴んできた。「……?!」 驚いて立ち止まった咲月は、自分の腕を引っ張っている笠井の顔を振り返り見る。事務の先輩はすぐには何も言わず、口角をきゅっと上げた顔を見せてくるが、その目は全然笑っていない。何だか妙な威圧感に、「なんですか?」と聞くに聞けない雰囲気だ。「泉川さんに手伝って貰いたい仕事があるんだけど、今って急ぎで抱えてる作業はある?」「あ、いえ、今は特に……」 午前にやっていた資料のファイリングの続きが残っているけれど、別に期限のある作業じゃない。それをそう伝えると、笠井はくるりと身体を回転させて飯塚と呼んでいた客へ向けて、少し残念そうな表情を作ってみせる。「とってもお久しぶりだから、もっとゆっくりお話ししていたかったんだけど、今は新人への指導もしなきゃだし、あまり余裕が無いのよねー。羽柴ももうすぐ出てくると思いますし、それまであちらでお待ちいただけます?」 パーテンションに仕切られた、商談スペースを指し示しながら、笠井は「バタバタしてて、申し訳ないわぁ」と飯塚へ声を掛けていた。言われた客の方も、「忙しい時にごめんなさいねぇ」とお詫びの台詞を口にしていたが、その表情は何だか釈然としていない。急に改まって客扱いさ

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十話

     羽柴から返して貰ったばかりのマスコットを、咲月は両手にそっと包み込んだ。子供っぽいと笑われてもおかしくはない、元は幼児向けに作った手芸作品。プレゼントした園児達は喜んでくれているみたいだったけれど、とっくに成人した咲月には似合わないはずだ。なのに……。 お気に入りなんだけど、これを外で持ち歩くことにはコンプレックスというか後ろめたさもあった。人には見せないようにしていた、自分だけの秘密。きっと、母が見たら「いい歳して何やってるのよ、情けないわ」と大きな溜め息を吐かれてしまうだろう。 それを羽柴は馬鹿にするどころか、「いいね」と言ってくれた。そして、咲月が作ったマスコットからインスピレーションを得たと言って、とても喜んでくれた。きっと彼ほどのデザイナーなら、他の題材があっても素敵なデザインを生み出すことができるだろうが、それに咲月の猫を選んでくれたことが素直に嬉しかった。 ――羽柴社長の魔法の手にかかったら、何でも素敵なロゴに変身しちゃうんだ。 本当は言葉にして本人へ伝えようと思ったが、すんでのところでぐっと飲み込む。魔法とか、どれだけ子供発言なんだろう。発想が幼稚過ぎて、これではますます大人の女性像が遠ざかっていく。 けれどもう一度、咲月はパソコンのモニターに表示されている羽柴のデザイン画を眺める。顔や髭も何も描かれていないのに、それだけで猫だと分かる曲線。そして、緑とオレンジの比率が妙に洗練された配色。同じ物を見て、このデザインへ辿り着くことができるのは世界で彼一人なのだ。 マジマジと食い入るようにロゴのデザイン画を見ている咲月のことを、羽柴は自分のデスクから優しい表情を浮かべながら眺めていた。 そして、何かを思いついたかのように、羽柴がデッサン用のノートの上にペンを走らせる。カリカリという筆音が社長室の中に響き始めて、モニターから顔を上げた咲月は、口の端を少し上げて真剣な目で紙面に向かう羽柴に気付く。部下に見られていることを物ともせず、描くことに没頭している男の顔は、仕事に集中しているというよりはむしろ、楽しい遊びに夢中になっている子供のようだと思った。 羽柴智樹という人にとって、何かをデザインして形作ってい

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