備品の買い出しと面談を兼ねたランチから戻ると、オフィスには昼過ぎ出勤の三上の姿もあった。パソコンモニターに隠れるように背を丸めてキーボードを叩いていた三上は、「お疲れさまです」と挨拶した咲月には、静かに無言で頷き返してくるだけ。
でも、注文していた備品とは別にお菓子の詰まった大きな段ボール箱がオフィス内に運び入れられると、誰よりも目を輝かせていたのは何を隠そう、もうすぐアラフォーになる三上だった。羽柴からこのオフィスの人達は甘い物はそんなにという話は聞いていたが、糖分多めのスイーツ系が人気ないというだけで、塩気のある駄菓子は喜んでくれるみたいだ。詰め合わせになっている袋を片っ端から開封し、自分のお気に入りのスナック菓子ばかりを選んで抜き取って、三上は自分のパソコンの横に積み上げていた。
「あ、三上さん、コンポタ味ばっか確保してません? あとはチーズとかコンソメしか残って無いんすけど! 俺にも一本くらい分けてくださいよー」
「ふんっ、こういうのは早い者勝ちっていうんだよ……」袋によって入っている味が違ったらしく、箱の中に頭を突っ込んで漁っていた平沼が同僚のデスクに山積みになっている駄菓子を指差して物言いを入れる。まさか末等の景品がこんなに喜んでもらえるとは思ってなかったし、少しびっくりだ。
咲月は先輩達の様子を横目に、買って来たばかりの備品を棚へ片づけていく。笠井も洗剤詰め合わせセットの中に自宅で愛用しているのと同じメーカーの商品が入っていたらしく、ちゃっかりそれだけはデスクの引き出しにしまい込んでいた。駄菓子をネタに賑やかになった平沼達のことを、咲月は珍しい物でも見るかの視線を送る。意気揚々とお菓子を持って帰っても、そこまで子供っぽい反応はもらえないものだと思い込んでいた。社会人というのは駄菓子の取り合いなんてしない、もっと大人な生き物と思っていたから。
「あ、泉川さんが軽蔑の目してるー。いい歳して馬鹿だなって思ってる顔だ!」
平沼が、咲月に向かって揶揄うように言ってくる。咲月は慌てて、首を振って否定する。たとえ思っていたとしても、認める訳にはいかない。
「いえ、そんなことは思ってないで
その段ボール箱いっぱいの駄菓子が全て食べ尽くされた頃、咲月は大学生活最後のイベントでもある卒業式の日を迎えた。太陽は隠れていたが、とても暖かく過ごし易い日だった。「成人式は地元に帰っちゃって、写真しか見せて貰えなかったじゃない。だから卒業式は叔母ちゃんに任せなさいっ」 そう言ってくれた敦子の言葉に甘え、袴のレンタルに美容院での着付けとヘアメイク、事前の段取り全てを任せきりにしていた。だから、まさか当日の朝、ホテルの美容室へ連れて行かれた後、写真館での撮影まであるとは思ってもみなくて、敦子と共にタクシーで到着してからずっと戸惑いが隠せない。 カーペットが敷きつめられた廊下をホテルの人の後ろを付いて、慣れない草履で恐る恐る移動する。 今日の敦子は深いグレーの仕事用スーツを着ていた。バッジを胸に付けて颯爽と歩く姿は大きなホテルの中でも全く場違い感がない。これから大きな会合でもあるかのような、堂々とした佇まい。老舗ホテルの雰囲気に押されて、完全に委縮しまくりな咲月とは正反対だ。「本当は式にも付いて行きたいところなんだけど……」 姪っ子の晴れ姿に満足そうに頷きながら、敦子が寂しい声で呟く。今日は午後からどうしても立ち会わなければならない仕事が入っているらしく、本気で残念がっている。「終わった後には謝恩会もあるから」 「そうよね。私とのお祝いはまた今度ね。食べたい物を決めておいて頂戴」 「やった、今度は焼肉が食べたい」 「分かった。とっておきの店を押さえておくわね」 写真館では通常の撮影とは別に、敦子も一緒に並んでスマホで撮ってもらうと、叔母はそれを咲月の父であり、彼女の実兄でもある泉川博也にメールで早速送りつけていた。離れた場所に住む父親への近況報告もあるけれど、可愛い姪っ子の傍に今は自分がいるというマウントだ。「あ、兄さんから、何でお前も写ってるんだって、お怒りのメールが届いた。あはは、咲月だけの写真を送れって。お正月から帰ってないでしょ、寂しがってるわ」 「もうっ、入社前に一回帰るっていってるのに……」 3月は卒業式や友達との旅行、帰省などの予定が入っているせいで、H.D
「仕事、もう始まってるって聞いてたから、今日は来ないかと思ってた」 不意に隣に人が座ってきたと思ったら、よく聞き慣れた声。そっと左隣に視線を送ると、同じ森本ゼミの新垣絢人が片手でスマホを操作しながら、何かもの言いたげにもじもじしている。反対の手に持っている中ジョッキのビールは、すでに半分近く減っていて、目の周りがほんのり赤く染まっている。「あー、うん、今月いっぱいまではアルバイトだから、気にせず休んでいいって言ってもらってる」 「へー、いい会社だな」 「まあ、そうだね」と軽く受け流して、咲月はウーロン茶をゴクゴクと飲む。一刻も早く飲み切って、すぐにでも席を立ちたい一心だったが、氷をたっぷり入れたウーロン茶はキンキンに冷えていて一気飲みには向いてない。急激に身体の温度が下がり、ぶるっと震える。「……ほら、最近お互いに会うことがなかっただろ。卒業前にちゃんと話さないと、とは思ってたんだけど」 絢人のこういう勿体ぶった遠巻きな言い方が、咲月はずっと嫌いだった。まるで自分は全然悪くないとでも言うかのような、保守的で、自分本位な。 ジョッキ片手に話しかけてきたのは、何か自分にとって不都合なことがあった時に全部お酒のせいにできるから? ――今更、何言ってんだろ、こいつ……? 二人の間に話し合うことで解決するような問題は何もない。彼の中で、彼の過去の行いはどう湾曲して記憶されているんだろうか?「えっと……何の話?」 私からは何も話すことなんてないよ、とでも言いたげに、咲月はわざと欠伸を堪えているような表情をつくる。絢人と一緒にいると、退屈で仕方ないとでも言うように。「俺は別に、咲月のことが嫌いになったって訳じゃないんだよね。ただほら、あの頃ってさ、内定決まった奴と、まだの奴とでかなり温度差があっただろ?」 絢人の手元を覗き見ると、SNSのグループでやり取りしている最中らしく、喋っている間もメッセージ画面がどんどん流れていっていた。悪ふざけのようなスタンプが勢いよく羅列されていく。 絢人とは同じゼミになった3年の夏から付き合い始めた。それまでの2年間も同じ講義をとる
社会人になって半月近くが過ぎてくると、SNSでは会社の愚痴がポツポツと出始める。想像していた以上に地味な作業の連続に、強いられる我慢とプレッシャー。さらに小さなミスがどんどん積み重なっていくと、夢見ていた世界とは全く違うという思いが募っていくばかり。あんなに必死で企業分析した上で受けたにも関わらず、だ。外からと中からの景色はまるで違う。気持ちの折り合いがつかず、溜まっていく鬱憤。 周りへ愚痴を吐き出す余裕がある人はまだマシなのだろう。静かに一人きりで限界を迎えて、ようやく連絡が付いたと思ったら、「辞めちゃった」と言われた時はどう声かけしていいか分からなくなる。あんなに大変な思いをして就活したのに、季節を一つも越さずにあの苦労が無かったことになるのだ。 そういう点では、先にアルバイトとして勤務先に関わることができた咲月は恵まれていたのかもしれない。入社後に「こんなはずじゃなかった」ということがないのだから。内定取り消しというどん底からのスタートで、就職させてもらえるならどこでもいいという期待感ゼロでの入社だったことも大きい。 宛名がプリントされた封筒へ三つ折りにしたお礼状を封入していきながら、咲月は目の前で鳴り始めた外線に手を伸ばす。笠井に倣って、ワントーン高めの声でゆっくりと社名を名乗る。「はい、H.D.Oです」 「お世話になっております、弁護士の泉川です……って、あら、その声は咲月ね? ちゃんと仕事してるじゃない。あはは」 姪の聞き慣れない余所行きの声に、電話の向こうの敦子が声を上げて笑っている。緊張しながら気合い入れて出たのに、相手が叔母だったと分かると、一気に力が抜けていく。まだ電話に出るのは慣れてないから余計、笑われたことで不機嫌になる。「ごめんごめん。いつも出てくれる事務の女性の声じゃなかったから、違う番号に掛けちゃったかと思った。――ああ、丁度良かったわ、来週はご希望通りの焼肉を押さえたから、めいいっぱい楽しみにしてなさい。詳しいことはまた連絡するわね」 「ありがとう。で、この電話は?」 「そうそう、今日、羽柴社長はオフィスにいらっしゃる?」 「うん、社長に電話繋ぐねー」 外線を社長室へと繋ぎ直し
平沼が社長室に入ってから出てくるまでの時間はそれほど長くはなかった。けれど、その短い間に何があったのか問い詰めたくなるくらいに、憔悴しきった表情へと変わって出てきた。「最悪だぁぁ……」 デスクに両肘をつき、頭を抱え始める。よっぽど大きなミスでも犯したんだろうかと、笠井もチラチラと平沼の方を気にしているようだった。二つ隣の席から何度も大きな溜息が聞こえてくるのを、咲月だって気にならない訳がない。けれど、聞いたところで何のお手伝いも出来そうもないだろうし……。 散々、独り言で負の言葉をまき散らした後、平沼がくるっと椅子を回転させて咲月の方へ向き直してから、思い出したように告げてくる。急にこっちを向かれて、咲月は何事かと身構えた。「三上さんが来たら、泉川さんのデスクをボスの部屋に移動させろって言われてるんで、運びやすいよう荷物は片づけといてください」 「え?」 突然のことに、きょとんとする咲月。向かいの席の笠井は特に驚いている様子は無いから、知らなかったのは咲月本人だけみたいだ。みんな知っているということは、ミーティングでは告知済みなのか。 先月までアルバイトだったから誰よりも早く退勤していたせいで、夕方に週1で行われる社内ミーティングには咲月はまだ一度も出たことがない。テレワーク組もオンラインで参加するらしいから密かに楽しみにしているのだけれど。 でも、入社後の初ミーティングだった先週は予定を取りやめて、みんなで近所の居酒屋へ移動し、新人歓迎会を兼ねた親睦会に変更になった。「元々、事務の手が足りない訳じゃなかったから、一通りのことを経験して貰った後は、社長の補助業務に回ってもらうことになってたのよね」 「俺もしばらくはパソコン持って、あっちで作業しろって言われてるんで……ハァ」 まだテンションが戻らないままの平沼が、大きな溜息を吐く。上司の監視下に置かれるなんてよっぽどだ。何があったのか咲月の立場からは聞けないが、笠井が遠慮なく突っ込み始める。「平沼君、何をやらかしたの?」 「いや……俺は何も、です。あー、だけど、俺が紹介したデザイナーが、ちょっと……」 もごもごと言
小松に対して他にも回す予定だった案件は、信頼できる別のデザイナーへ全て発注し直しみたいだった。ただ、2件ほど納期の関係で外に委託する猶予のないものがあり、それは羽柴自ら眉間に深いシワを刻みながらデザインをし直していた。 殺伐とした二人の様子を、咲月は部屋に入ってすぐの位置から眺めていた。三上の出勤後すぐ、男性社員二人がかりで社長室へと運び込まれたデスクは、いわゆる秘書ポジション的な、部屋全体の様子がよく伺えるドア横に配置された。 咲月は名刺に使用されているフォントの確認作業を進めていく。件のデザイナーが申告していたフォント名から入手先を割り出し、その真偽をチェックする。画像と違い、使用フォントはその名称からダウンロード先を特定し易い。「フォント、2件とも確認終わりました。今、ダウンロード元をメールで送ります」 「ありがとう、咲月ちゃん。――ああ、どちらも商業利用可で問題なさそうだね」 咲月が送ったURLを確認して、羽柴がほっとしたように頷き返す。新たにデザインを起こすとはいっても、クライアントからの要望がはっきりしていたのでそこまでの時間を要さない。ただ問題なのは――。「小松からの連絡は?」 「全然っす。メッセージ送っても既読も付かないっすね。多分、分かってて無視ですよ」 小松のことをウェブデザイナーとして紹介した責任を感じているのか、平沼は絵に描いたように落ち込んで肩を落としている。自分のせいで会社が余計な問題を抱えることになったと気にしているのだろう。横に置いたスマホを何度もチラチラと確認しては、小松から何の反応がないと分かると嘆くように溜め息を漏らす。 既にクライアントへの納品済みで、後から小松の無断利用が発覚し画像使用料が発生した案件に関して、弁護士を間に入れて説明の場を設けようとしているのだが、当の本人が雲隠れしてしまっている状況だ。 敦子によると他社でも同じような問題が発覚しつつあり最近は特に相談の件数が増えているのだという。ひどいケースではダウンロード元から足下を見られ、法外な著作使用料を請求されるということもあるらしい。勿論それらの料金はデザイン会社側が支払うことになる。 運が良かった
平沼が出ていった後のドアを何気なく目で追ってから、咲月は両腕をぐっと前に出して伸びをした。とりあえず自分に課せられた仕事は終わったけれど、羽柴や平沼の緊迫した様子に釣られて気持ちだけは焦ってしまう。盗作や著作権の侵害はデザイン事務所にはあってはならないこと。素人にだってそれくらいは分かる。たった一度の小さな過ちが会社を傾かせることになりかねない。 咲月は奥のデスクの方にチラリと視線を送る。パソコンモニターへ向かい、眉間に皺を寄せて集中している羽柴の真剣な表情は、ここに来て初めて見る顔かもしれない。普段の少し上から面白がって周りを見ているような余裕は消え、目の前の仕事に全力で取り組んでいる一人のデザイナーの姿。独立して複数のデザイナーを抱えていても、彼は今も現役のクリエイターなのだ。 咲月はそっと椅子から立ちあがると、出来るだけ音を立てないように部屋を出ていく。簡易キッチンへ向かう手前のデスクスペースで、笠井に対して川上が微妙に身体を背けた体勢で作業しているのが目に入った。どうも川上は笠井のことを怖がっている節があり、わざと目を合わせないよう椅子ごと斜め向きに座り、パソコンモニターで顔を隠していることが多い。 一方、笠井の方はリズミカルにテンキーを弾きながら、黙々と伝票を捲って仕事をしていた。川上のことなど眼中にないという感じだ。 二人の先輩のことを横目で気にしつつ、咲月はキッチンの棚からカップを二客取り出して、片方には保温中の珈琲メーカーから湯気の立つ珈琲を注ぎ入れる。そして、もう一つには棚上のカゴからスティックタイプのココアを選んで、電気ケトルのお湯を注ぎ足す。これまでは珈琲派しかいなかったオフィスだけれど、咲月が珈琲は飲めないと分かると、休憩用に様々な種類の飲み物を用意して貰えるようになった。ほとんど咲月しか飲まないから申し訳ないなと思っていたが、意外と他の人達も飲んでいるらしく結構なペースで在庫は減っている。一番人気はロイヤルミルクティー味みたいだ。 熱々のカップを両手に持って社長室へと戻る。手が塞がっているからと肘を使ってお行儀悪くドアノブを下げているのを、川上が遠巻きから唖然と見ているのに気付き、それには笑って誤魔化した。「社長、珈琲を淹れて来たんですが――
「今回は泉川先生のおかげで、大事にならなくて助かったよ」 脇に置いていた画集のページを捲りながら、羽柴がふぅと肩で息を吐いている。敦子からの的確な指示が無ければ、小松の失態への対応はもっと遅かったかもしれない。下手すれば素材の転載元との訴訟騒ぎに発展して、莫大な使用料を請求されていたはずだ。「叔母さんに会ったら、お礼言っておきますね」 「そうしてくれるかい。落ち着いたら、また改めてご挨拶に伺わせていただくつもりではいるんだけどね」 「しかし、小松君にはほんと困るよね……」と両腕を伸ばし、背凭れへドサッと身体を預けながら、羽柴は天井を見上げ始める。じっと無言で頭上の蛍光灯を見つめ、急にそのまま微動だにしなくなる。頭の中の何かを必死でひねり出そうとしているかのように、眉間を寄せ始める。委託スタッフの尻拭いで手掛けてることになったロゴ案を頭の中で練っているのだろうか。鬼才のデザイナーはいつどのタイミングで発想力を開花させるのか、ド素人の咲月には全く読めない。 そんな羽柴の様子をココアを飲みつつ邪魔しないように見守っていた咲月だったが、ドアの向こうから笠井が「それじゃあ、お疲れ様です」と川上に挨拶している声が聞こえてきて、反射的に壁掛けの時計を見上げた。予想通りに定時ぴったり。すぐ後には、入口のセンサーが『ありがとうございます』と電子音で笠井を見送っているのが微かに耳に届いてくる。相変わらず時間に正確な人だ。「あ、時間なので私も上がらせていただきますね」 「……ああ、うん、お疲れ様」 背を起こして座り直した羽柴が、小さく頷きながら声を掛けてくる。少しくぐもった表情なままなのは、浮かびかけたアイデアがまとまらなかったからだろうか。まだどこか考え込むように眉間を寄せている。 ――私にお手伝いできることは、無さそうだしね……。 邪魔しないよう素人は早々と退散するのが一番だと、咲月は自分のデスク下からトートバッグを引っ張り出す。きっと一人きりでいる方がアイデアを考え易いだろう。気を利かせたつもりでやや急ぎ気味にバッグを肩に掛ける。が、その無駄につけ過ぎた勢いの反動で、中に入れていた荷物の一部が派手な音を響かせながら、床へと飛び散っ
通っていた大学から一駅手前。小さな商店街のアーケードをくぐり抜けて、咲月は自宅へ向かって歩いていた。単身者用のワンルームマンションは半分以上が学生で、窓が開いたままの部屋から賑やかな笑い声が漏れて聞こえてくる。咲月自身も身に覚えがあるが、学校から近いとどうしても友達から溜まり場にされ易い。 3月末に何となく賃貸契約を更新してしまったが、そろそろこの部屋から引っ越した方がいいんじゃないかと思い始めたところだ。週休二日制の規則正しい生活を強いられている社会人には、昼夜問わず賑やかなここは居心地が悪い。 H.D.Oに勤めるようになって数か月。まだ雑務の初級みたいな仕事しかしていないけれど、生活のリズムはすっかり社会人仕様へと変わっていた。最初は手間取っていたけれど、すぐに自分にとって一番効率的な帰宅後ルーティンを見つけ出した。 部屋に入ったらまずシャワーを浴びる。それは鉄則だ。お腹が空いているからと先にご飯を食べてしまえば、満腹からの寝落ちのパターンが待っている。そうなってしまえば朝起きてからの忙しさが半端ない。 そして、シャワー後には洗濯機を回しながらの夜ご飯。簡単な自炊をする時もあれば、駅前のコンビニで買って来たお弁当で済ます時もある。休みの日にお惣菜の作り置きでもできたらいいんだけれど、備え付けの冷蔵庫の小さ過ぎ問題でなかなか難しい。「……冷蔵庫って、いくらくらいするんだろ?」 プラスチック容器に入ったカルボナーラをレンジで温めながら、スマホで大手ショッピングサイトを検索してみる。ファミリー向けの大型のじゃなくて、一人暮らし用の2ドアのでいいんだけれどと画面を順にスクロールしていく。 商品のあまりの多さに慄いていると、レンジが電子音を鳴らして温め終了を告げてくる。扉を開いて湯気の立つパスタを容器の端を持ち、部屋の真ん中にあるローテーブルへと運ぶ。そしてまたキッチンへと戻り、咲月はコンロ横の棚から青色の柄のフォークを取ってくる。コンビニで貰った竹箸でパスタは、いくら何でも味気ない。 「いただきます」と両手を合わせてから、フォークの先にカルボナーラの平麵を絡めていく。テーブルの隅っこに置いたスマホの画面を片手間で操作しつつ、冷蔵庫を検索し続
「私、ずっと思ってたんだけどさぁ」 紗英が目元を赤らめながら、少し呂律の怪しい口調で咲月に向かって人差し指を突きつけてくる。美奈は途中からソフトドリンクへと切り替えていたけれど、ずっと酎ハイばかりを頼み続けていた紗英はそろそろ限界に近付いているのかもしれない。「ん、何?」 店に来てまだ一度もアルコールを口にしていない咲月は、この場で唯一のシラフだ。明日は休日だしお腹も満たされたことだしと、そろそろ何かカクテルでもと考えていたけれど、向かいの席の様子が既にあやしい。今日は飲まずに世話役に徹する気でいた方が良さそうだ。メニューをチラ見してから店員を呼んで、リンゴジュースをオーダーする。すぐに運ばれて来たドリンクを紗英の前にそっと置きつつ、まだ少しレモンサワーが残るジョッキを回収してテーブルの隅に移動させた。「咲月って弁護士やってる叔母さんと結構仲いいでしょう? なのになんで、ケーキ屋が倒産して内定取り消された後、叔母さんのとこに就職ってならなかったのよ? 結構手広くやってる事務所なんでしょ、姪っ子一人雇うくらいできたんじゃないの?」 敦子と食事に出かけたり、いろいろ買って貰ったりしているのは二人には何度か話したことはあった。今日持って来たバッグもそうだし、卒業式の袴一式を用意して貰ったのも喋った記憶はある。そこまで可愛がって貰ってるのなら、卒業後の面倒だってみてもらえそうなのにとずっと不思議に思っていたらしい。「あ、でも、今のデザイン事務所は敦子叔母さんからの紹介だったから……」 「うん、それは聞いた。でも、自分の事務所においでとは言われたことないんだよね?」 「そう言えば、言われたことは無いね」 「まさか、咲月のジンクスが発動するのを恐れて、とか? ……さすがにそれはないかー」 「あーでも、ほら。身内が入ると他のスタッフが仕事し辛くなるってのもあるからじゃない?」 横で聞いていた美奈が、それっぽいフォローを入れてくれるが、紗英はあまり納得していないようだった。確かに姪っ子を創立パーティへ気軽に呼んだり、事務所へ遊びに来させたりするような人がそんなことを気にするとは思えないのだろう。 咲月は困ったなという風に小さく苦笑する。これまで大学の友達に実家の話をしたことがないから、当然といえば当然なのだ。身近にコネがない訳じゃないのに、何でこの子はこん
「でも同じ会社の人と付き合うとかは無理だなぁ……」 そう呟いたのが美奈じゃなくて紗英だったから、咲月は食べていた鶏の唐揚げで喉を詰まらせそうになり、むせ返ってしまった。驚きと喉の詰まりで思わず目をぱちくりさせる。ついさっき、会社の先輩の話で瞳にハートを浮かべていたところではなかったか、と。「いやいや、バッグデザイナーの先輩は?」 咲月が来る前に散々いろいろ聞かされていたせいもあってか、美奈も速攻で紗英を突っ込んで「はぁぁ?!」と目を剥いていた。「だってほら、付き合ったとしても、その後に上手く行かなかったことを考えてみてよ。下手したら職場に居辛くなって、職も彼氏も同時に失うことになっちゃわない? あんなに苦労して就活した会社だよ。そこまでの覚悟ができるくらい本気ならいいかもだけど……」 「じゃあ、その先輩は何なの一体?」 「先輩は私にとって、社内のオアシスってとこかなぁ。ぶっちゃけ、推しだね。それ以上でもそれ以下でもない!」 あくまでも恋愛感情ではないと言い切る紗英に、美奈が呆れた溜め息を吐いている。コイバナだと思って真剣に聞いていた時間を返せと、紗英にクレームを入れ始める。「だってほら、大学ん時だってバイトとかサークルで付き合い始めた子とかいたけど、別に上手くいってる内はいいよ。でも、結局別れるってなった時、必ずどっちかが来なくなってたもん」 「まあ、普通はそうなるなるよね。たまに平然としてる人達もいたけど、周りが変に気使わされて大変なやつ」 「そうそう。学生の時はそういう後々のことは考えず行動しても何とかなったでしょ。気マズかろうが、どうせ卒業したら会わなくなるんだしって。でもさ、今はそういう訳にもいかないじゃん」 「……確かに、どっちかが辞表出すまでずっとだよね」 就活をやり直すリスクを冒してまでは踏み込みたいとも思えないと、ついさっきまであんなに惚気ていたとは思えないほど紗英がドライに語る。社会人になって見た目と同じくらい、恋愛観までがらりと変わったみたいだ。「でも、うちの会社って意外と社内結婚が多いらしいんだよねー」 信じられないと言いたげに、紗英が眉を寄せながら言う。「やたら懇親会的なのが多いから、そういうので距離が縮まるのかなぁ。大抵はどっちかが辞めて、どっちかが残ってるって感じなんだけど。結婚しても旧姓のままだったりす
「あ、こっちこっちー」「沙月、おっそーい」 通っていた大学通りの馴染みの居酒屋。駅前でよく見かけるチェーン店だ。アルバイト店員の中にはどこかの講義で一緒になった記憶のある後輩の顔をちらほら見かけた。学生の時から住み続けているマンションが近いという理由で、この店を指定したのは紗英だった。 卒業式以来ずっと会ってなかった紗英は、当時とはメイクもがらりと変わって随分と大人っぽくなったように思えた。美奈と共に同じゼミで、学生生活の大半を一緒に過ごした紗英はアパレルメーカーの勤務。第一志望は出版社で、ファッション誌の編集をやりたかったみたいだけれど、あまりの高倍率に断念して、紹介する側ではなく作って流通させる側に回ることにしたらしい。「ほんと、咲月は全然変わらなくて安心するー。見てよ、紗英を、また初めて見るバッグを持ってるんだよ。こないだ通勤用って言ってたのとは全然違うし。バッグばっかりどんだけ買ってるのよ?」「えー、社割社割! でも、新作が出たらつい欲しくなっちゃうんだよねぇ」 洋服こそビジネスカジュアルを意識してはいるものの、咲月は卒業祝いに敦子からプレゼントして貰ったバッグを通勤用にしている。落ち着いたブラウンの合皮のトートバッグは中の仕切りが多くて使い勝手がとてもいい。自立タイプだからデスクの下に立ててしまえるのが気に入っている。 ただまあ、敦子セレクトだからデザインが大人っぽ過ぎるのは確か。でも、ブランドに詳しい人なら分かるらしく、初めてオフィスに持って行った時、笠井から「あら、そのバッグ素敵じゃない」と褒めて貰えた。「もしや、これも例の彼のデザインとか?」 美奈が揶揄うように紗英の顔をの覗き込んでいる。先に飲み始めていた二人は、すでに目元がほんのりと赤らんでいた。テーブルの上には半分以上を飲み終わっている酎ハイの中ジョッキ。向かいに座る美奈の言葉に、紗英は照れ笑いを浮かべ始める。「え、例の彼って何のこと?」 ジャケットを脱いで壁のハンガーに引っ掛け、美奈の隣の席に座りながら咲月が二人の顔を交互に見る。どうやら自分が来る前にすでに何か面白い話が出ていたらしい。美奈達はクスクスと笑い合って、妙に盛り上がっている。「同じ会社のデザイナーさんなんだってー。四つ上だったっけ?」「そう、デザイン部にいる先輩。展示会とかで一緒になったりするんだけど、
聞かなくても分かっている。咲月のことは顧問弁護士の敦子から預かっている子くらいにしか思われていないってくらいは。それでも聞き返してしまったのは、別の答えが返ってくるのをどこかで期待していたからだろうか。無意識の台詞に、自分自身が一番驚いていた。 ――あれっ、私、何言ってんだろ……? そんなこと、社長に聞く必要なんてないのに……。 さっきの甘えた言い方は、咲月のことをただ揶揄っただけだ。年上で大人な彼からすれば、咲月なんて本気で相手にするはずなんてない。笠井や七瀬に比べたら、咲月なんてまだまだ子供でしかないのだから。 そう頭では理解しているのに、咲月は胸の鼓動が早鳴るのを抑えきれなかった。揶揄いの言葉にさえ、心が大きく揺すぶられるのを感じる。こうなるのが分かっていて、あんな風に思わせぶりなことをわざと言うなんて、羽柴智樹という男は何て意地が悪いんだろう。 そんな咲月の隠れた動揺を打ち破ったのは、社長室扉を叩く音だった。コンコンと二度のノック音の後に、平沼の困惑した声が聞こえてくる。「失礼します。社長、ちょっといいっすか? 七瀬さんがやっぱ社長にも同席して欲しいそうなんすけど……」 小松絡みで相談に来たという七瀬が、羽柴も一緒に話を聞いて欲しいと言い出しているらしい。この事務所では小松の仲介者だった平沼が担当していると伝えたみたいだけれど、彼女はどうしても羽柴社長もと聞かないようだった。 彼女に取って、小松の件は都合の良い言い訳に過ぎない。過去に逃した魚を再び追いかけるのに丁度良いキッカケだったのだろう。笠井の予想では、独立の可能性が立ち消えた彼女の夫は、早い内に見限られて捨てられてしまうに違いない。 そんな女の冷酷な策略を知ってか知らずか、平沼は呆れるような溜め息を吐きつつ、客人の様子を報告してくる。「うちはもう小松の案件はとっくに対応済みだから、社長に出てもらうようなことは無いって言ってるんすけどね。向こうのことを相談に乗って貰いたいとかなんとか――」 「渡せる情報は渡してあげたんだよね?」 「はい。うちがどう対応したかは伝えました」 「じゃあ、こっちで助けてあげられることはもう何もない。他所の事務所のことにまで口出しはできない。他に何かあれば、七瀬――ああ、彼女の旦那の方に連絡するようにするって言ってくれるかな」 さっきとは打って変
「咲月ちゃんは、笠井さんと一緒に行きたかった?」 ソファーテーブルの上の書類を片付けている咲月へ、羽柴がボソボソと遠慮がちに聞いてくる。さっきの笠井からの誘いに横から口を挟んでしまったことを大人げなかったと気にしているみたいだ。 咲月はちょっと首を傾げて悩むそぶりを見せた後、小さく笑いながら答える。「いえ、合コンって聞くとあんまりなんですけど、いつも笠井さんが何食べてるのかには興味があっただけです。なんか、凄いお洒落な物を食べに行ってそうじゃないですか、笠井さんって」 毎日のように外で昼食を取る先輩。きっと行きつけのお店とかも沢山あるんだろう。笠井も一人暮らしだったはずだけれど、どうやり繰りすれば毎日外食が出来るのかも教えて欲しいくらいだ。社員になってからも咲月はコンビニに頼り切りなのに。 咲月の能天気な答えに、羽柴はふっと小さく鼻で笑っていた。そして少し考えていたみたいだが優しく微笑み返す。「そうか、咲月ちゃんはそういうのに興味があるんだね。じゃあ今度、とっておきの店に連れていってあげる」「え……?」「君と一緒に行きたいとずっと思ってる店があるんだよ」 羽柴がさらっと口にした言葉に、咲月は思わず窓際のデスクを振り返り見る。「それとも、俺のお勧めでは物足りない、かな?」「あ、いえ、そんなことは……」 大きなモニターで隠れた羽柴の顔が、今どういう表情をしていたのかまでは見えなかった。ただその言い方がとても社交辞令とは思えなくて、しかもさりげない色気を帯びていて、咲月の胸はドキッとした。 ――今のは、会社のみんなで行くってこと、だよね……? 子ども扱いされるのに慣れてしまっているせいか、上司の真意が読み取れない。余計な勘違いをして恥をかくのも嫌だと、咲月はわざと無邪気に笑って応えた。このオフィスで一番年下なのだから、多少は頭の弱いふりしても許して貰えるだろう。この場はキャラに無いぶりっ子声で誤魔化してしまうのが一番に思えた。 自分のデスクに戻って椅子に座りながら、あくま
「二人はそんなに仲が良かったっけ?」 咲月達が社長室の応接ソファーで作業していると、羽柴が二人の関係性が少し変わったように感じると首を傾げている。あくまでも同じ会社に勤務しているだけで、必要以上の会話は一切しない。確かについさっきまでの咲月と笠井はそうだった。けれど、飯塚というネタに出来る第三者が現れたことで、仕事以外の会話ができたのは大きい。咲月も笠井の人間的な部分が見れて、ちょっと親しみが湧いてきていた。「泉川さんとは歳が離れてますけど、意外と話が合うかもって思ったところかしら」「笠井さんのお話、ものすごく興味深かったです」 会話の内容は決して教えられないけれどと、咲月達は顔を見合わせてクスクスと笑う。まさか自分のことを噂されてたとは思っていないらしく、羽柴は優しい目で二人の様子を伺っている。女性同士なのになかなか打ち解けないでいたことを、上司としてずっと気にしていたのかもしれない。 咲月のデスクを移動させたのも、もしかするとスタッフ間の関係を考慮してのことだったんだろうか? 和やかな雰囲気の中、笠井が思い出したように咲月へ提案してくる。「そうだわ、来週の火曜のランチに泉川さんも参加してみる? ちょうど一人、都合がつかなくなったのよ。いろんな業界の人が来るから、勉強になることも多いと思うんだけれど」 笠井が定期的に他の会社に勤める友達と待ち合わせて、ランチ会をしているのは咲月も知っていた。ちょっとした交流会だと聞いていたから、目を輝かせて頷き返そうとしたが、咲月が反応するより前に羽柴が椅子から立ち上がって止めに入ってくる。「それだけはダメだよ。笠井さん、そういうのに咲月ちゃんを誘うのやめて下さい」 勢いよく立ち上がったせいで、羽柴のデスクから落ちたボールペンがコロコロと床を転がっていく。それを慌てて拾い上げながら、羽柴がハァと呆れ顔で溜め息を吐く。「休憩時間中の行動には口を挟むつもりはないけれど、笠井さんのランチ会は咲月ちゃんには……」「あら、社長は彼女のこと、いくつだと思ってるんですか?」「いや、ほら……泉川先
思わぬ話を聞かされた後、笠井は何事も無かったかのように、本当に新しい仕事の指示を咲月へとしてくる。ただの出まかせではなく、実際に咲月へ教えるつもりだった作業があったらしい。最近になってから、新しい仕事を沢山任せて貰えるようになった。今まで笠井が一人でこなして来たものを新米事務スタッフである咲月に教え込むということそれは何を意味するのか――。 咲月はハッとして、声を上げる。「笠井さん、もしかして辞めちゃうんですか?!」 ほぼ毎日のように出掛けて行くランチデートの相手と、結婚が決まったってことだろうか? それとも、いろいろすっ飛ばしてご懐妊?! 咲月は不安気な顔で向かいのソファーに座る先輩を見上げる。 笠井はいきなりの質問に、目をギョッと剥いて、動揺からか手に持っていたファイルを床に落としていた。「な、な、な……っ?!」「だって、今まで笠井さんがやってこられた仕事まで私がするってことは、つまり――」「いいから、泉川さん。落ち着いてちょうだい……」 ようやく仲良くなりかけたと思ったら、退職を決めた後だったなんてと、咲月はショックで続きが言葉にならない。気難しい先輩だとは思っていたけれど、別に笠井のことは嫌いじゃない。むしろ唯一の同性の同僚なのだから、もっといろんなことを教えて貰いたいと思っていたくらいなのに。 ――そうだ、私の悪いジンクスって、バイトに関してだけじゃなかったんだった……。 仲良しの友達が引っ越しして居なくなってしまうことは、一度や二度じゃない。特に親の仕事の都合で引っ越しを余儀なくされる小中学生の時は、覚えているだけでも四人の友達とお別れすることになった。習い事も同じで、同じ中学に行こうねと約束し合った同級生は、親の教育方針で私立を受験して、以降は会ってもいない。気になっていた人とようやく親しくなれたと思った時は、すぐ後にお別れが待っている。 運命はいつも、咲月から何もかもを取り上げていく。「咲月ちゃん、それは違うよ」 落ち込んでしまった咲月へと最初に声を掛けてきたのは、自分のデス
「別にそういうのがダメって訳じゃないと思うのよ、私だって。外堀を埋めてくのも駆け引きの一つなんだから」 SNSの話に完全にドン引き気味の咲月へ、笠井が気を使ってフォローする。互いに明言してなくて周りが勝手にはやし立ててるだけだから、そんなつもりは無かったと後で言えば済む話。傍に居る時間が多ければ、それだけ周りから一歩リードできる、ってことだろうか。あるいは、勢いで既成事実を作るチャンスがあると狙ってなのか。大人の恋愛は複雑だ。「でもあの人、別のデザイナーから言い寄られて気持ちが揺れちゃったのよね」「そんなに必死だったのに、ですか?」 咲月が身を乗り出して聞き返すと、笠井はかなり嬉しそうに笑っていた。多分、一緒に働くようになってから咲月へ向けられた笑顔の中では一番だ。いつも咲月には愛想笑いもしてくれないから、ちょっと嬉しかった。 咲月の反応に、笠井は「そうなのよー」とノリノリで話しを続ける。人の悪口で親睦を深めるのはどうかと思ったけれど、相手は別のオフィスの人だし、何より先輩とようやく仲良くなれそうだったからと、咲月は頭を上下に振って続きを促した。「七瀬さんって言うんだけど、その人も同期でね、羽柴さんのライバル的存在っていうのかしら。顔もまあ、それなりだったわ」「七瀬さん……飯塚さんの旦那様ってことですか? さっき、あの女の人のことを今は七瀬さんだっておっしゃってたし」「そう、最終的にはあの人、羽柴さんとは別のデザイナーの方を選んじゃったのよね。その直後のコンペで七瀬さんのデザインに決まったからって。彼の方が有望で将来性があるとでも思ったのよね、きっと」「じゃあ、社長は勝手に振られた形になっちゃってるんだ……なんか、可哀想」 付き合っているという噂のあった女性が、他の人と婚約したら同情の目は全て羽柴へと集中する。元々交際すらしていないと否定しても、飯塚の露骨な匂わせのせいで言い訳にしか聞こえない。羽柴からしたら、いい迷惑だ。「そのタイミングで羽柴さんがオフィスを独立することになったの。ううん、とっくの前から決まってたことらしいんだけど。でも、あの女の悔し
「相変わらず、笠井さんはスタイルが良くて羨ましいわー。今もヨガ教室は続けてるの? 最近ちょっと食べ過ぎちゃって、私も少しは運動しなきゃって思ってるの」「そんなぁ、飯塚さんは元が細いから、まだ気にしなくて大丈夫よー」 互いに親し気な言葉を掛け合っている割に、あまり仲良しに見えないのは彼女達の会話の大半に心が籠っているように思えないからだ。いわゆる社交辞令ってやつだからだろうか。それでも笠井達は終始笑顔で、お互いを褒めちぎり合っていた。電話打ち合わせ中だった羽柴が社長室を出てくるまでそれは続きそうで、横で聞いていた三上のうんざり顔がパソコンモニターの後ろでチラチラと見え隠れしていた。 壁面の棚から予備の付箋と修正液を探し出すと、咲月はそっとその場を離れかける。が、笠井の後ろを通り過ぎようとした時、ピンクベージュのネイルをした指がなぜか咲月の腕をぐっと掴んできた。「……?!」 驚いて立ち止まった咲月は、自分の腕を引っ張っている笠井の顔を振り返り見る。事務の先輩はすぐには何も言わず、口角をきゅっと上げた顔を見せてくるが、その目は全然笑っていない。何だか妙な威圧感に、「なんですか?」と聞くに聞けない雰囲気だ。「泉川さんに手伝って貰いたい仕事があるんだけど、今って急ぎで抱えてる作業はある?」「あ、いえ、今は特に……」 午前にやっていた資料のファイリングの続きが残っているけれど、別に期限のある作業じゃない。それをそう伝えると、笠井はくるりと身体を回転させて飯塚と呼んでいた客へ向けて、少し残念そうな表情を作ってみせる。「とってもお久しぶりだから、もっとゆっくりお話ししていたかったんだけど、今は新人への指導もしなきゃだし、あまり余裕が無いのよねー。羽柴ももうすぐ出てくると思いますし、それまであちらでお待ちいただけます?」 パーテンションに仕切られた、商談スペースを指し示しながら、笠井は「バタバタしてて、申し訳ないわぁ」と飯塚へ声を掛けていた。言われた客の方も、「忙しい時にごめんなさいねぇ」とお詫びの台詞を口にしていたが、その表情は何だか釈然としていない。急に改まって客扱いさ