「この店だよ」
車を停めたすぐ横の店を羽柴が指差してくる。教えて貰った店は看板がとても小さく、建物が古いからか照明が薄暗くて、外からは何屋さんかが分かり辛い。昔ながらの個人商店。きっと、ぱっと見では気付かず、咲月が一人で来ていたら絶対に一度は素通りしていたはずだ。
先に店の中へと入っていく羽柴の後ろを、咲月も一緒に付いていくと、ドアに設置されたベルがチリンと鳴って奥にいる店主へ来客を知らせていた。「お、羽柴さん。申し訳ないね、今日は従業員がみんな休みいただいてて、お届けに伺えなくて――」
「いえ、新しいスタッフにこちらの場所を教える良い機会になりました」「それなら良かった。注文して貰ってたのは全部届いてますよ」文具メーカーの社名入り段ボール箱を重そうに両手で抱えて、初老の店主が奥の部屋から運んでくる。中にはぎっしりとプリンターのインクやコピー用紙などが詰め込まれていた。どう考えても、羽柴が言うように歩いて持って帰るのは無理な量だ。
「あ、あと追加で必要な物があるみたいなので、ちょっと店内を見て回らせていただきます」
「じゃあ、決まったら声掛けてください」店主に軽く会釈した後、羽柴は咲月が手に持っていた買い物リストを覗き込んでくる。メモを見ながら付箋や輪ゴム、紙テープなどを店内を一緒に探し回っていく。オフィスを開業した時からの付き合いというだけあり、羽柴は店内のどこに何があるかは完璧に分かっているみたいだった。店主の方も彼のことを信頼しきっているみたいで、客がいるのに奥の部屋へと姿を消した。
「店になければすぐに取り寄せて貰える」
「とりあえず急ぎで付箋だけは欲しいんです。あとは今度でも良いそうなので」「ボールペンの替え芯か。どこのメーカーのかは書いてないな……」電話して笠井に確認してみようかと咲月が考えていると、羽柴はさっと二種類の替え芯を選んで咲月に渡してくる。
「三上君が主に使ってるのが、こっちで。他はこのシリーズのだったと思う。予備はどれだけあっても困らないから両方買っておけばいい」
他の文具も普段使っているメーカーを教
「本日最終日! ハズレ無し! 末等でも駄菓子詰め合わせだよー」 商店街名の入ったはっぴを羽織った男性が、威勢よく声を張り上げていた。景品一覧が書かれたポスターの中で、罫線を引かれて消されているのは既に当選者が出たやつなんだろう。二等の商品券五千円分はもう三本とも無くなっているみたいだが、特等のロボット掃除機も、一等の商品券一万円分も本当にまだ残っている。 まだ引いてもいないのに、並んでいる景品を眺めているだけでワクワクする。ハズレてもお菓子が貰えるなんて、なんて太っ腹な商店街だ。前の人が抽選器を回しているのを横から覗き込んでいると、羽柴がはにかみながら言ってくる。「全部、咲月ちゃんが引いていいよ。オレはこういうの、苦手だし」「え、いいんですか? あ、でも……」 一瞬ぱぁっと明るくなった咲月の顔が、すぐに曇る。くじ運はそこまで悪くない、というか普通だ。これまで大きく当てた経験は一度もない。良い物を引き当てる自信は全くない。しかも、咲月はありがたくないジンクスだって抱えている。落ち込んだ、暗い声で呟く。「私、仕事絡みだと運勢最悪なんですけど」 勤務先が全て倒産の道を辿る運勢が、こういうところでも発揮されてしまうんじゃないか。そんなマイナス思考が浮かび上がってきた咲月の頭を、羽柴はポンポンと優しく右手で宥めるよう叩いてくる。「それはアルバイトの時だろ。うちでは正社員なんだから、関係ないよ」 羽柴の励ましに、そうだといいんだけど、と自信なさげに最初に回した抽選器。出てきたのは、末等を示す白色の玉だった。初っ端からこれでは、ちょっと凹む。「はい! じゃあ、抽選券と補助券合わせて、後33回ね。お姉さん、さくさく回してってー」 回数があるだけに、回す度に落ち込んでいる暇がない。見物している人ばかりだと思っていた抽選会場にも、少しずつ抽選待ちの列が出来ていく。ほぼ抽選器を回すロボットと化した咲月は、途中で白色以外の玉が何個か出てきたのにも気付かず、ひたすら腕を回し続けていた。 玉が出る度に残り回数を大きな声で叫ばれるのは、少し恥ずかしい。「はい! ラス
備品の買い出しと面談を兼ねたランチから戻ると、オフィスには昼過ぎ出勤の三上の姿もあった。パソコンモニターに隠れるように背を丸めてキーボードを叩いていた三上は、「お疲れさまです」と挨拶した咲月には、静かに無言で頷き返してくるだけ。 でも、注文していた備品とは別にお菓子の詰まった大きな段ボール箱がオフィス内に運び入れられると、誰よりも目を輝かせていたのは何を隠そう、もうすぐアラフォーになる三上だった。 羽柴からこのオフィスの人達は甘い物はそんなにという話は聞いていたが、糖分多めのスイーツ系が人気ないというだけで、塩気のある駄菓子は喜んでくれるみたいだ。詰め合わせになっている袋を片っ端から開封し、自分のお気に入りのスナック菓子ばかりを選んで抜き取って、三上は自分のパソコンの横に積み上げていた。「あ、三上さん、コンポタ味ばっか確保してません? あとはチーズとかコンソメしか残って無いんすけど! 俺にも一本くらい分けてくださいよー」「ふんっ、こういうのは早い者勝ちっていうんだよ……」 袋によって入っている味が違ったらしく、箱の中に頭を突っ込んで漁っていた平沼が同僚のデスクに山積みになっている駄菓子を指差して物言いを入れる。まさか末等の景品がこんなに喜んでもらえるとは思ってなかったし、少しびっくりだ。 咲月は先輩達の様子を横目に、買って来たばかりの備品を棚へ片づけていく。笠井も洗剤詰め合わせセットの中に自宅で愛用しているのと同じメーカーの商品が入っていたらしく、ちゃっかりそれだけはデスクの引き出しにしまい込んでいた。 駄菓子をネタに賑やかになった平沼達のことを、咲月は珍しい物でも見るかの視線を送る。意気揚々とお菓子を持って帰っても、そこまで子供っぽい反応はもらえないものだと思い込んでいた。社会人というのは駄菓子の取り合いなんてしない、もっと大人な生き物と思っていたから。「あ、泉川さんが軽蔑の目してるー。いい歳して馬鹿だなって思ってる顔だ!」 平沼が、咲月に向かって揶揄うように言ってくる。咲月は慌てて、首を振って否定する。たとえ思っていたとしても、認める訳にはいかない。「いえ、そんなことは思ってないで
その段ボール箱いっぱいの駄菓子が全て食べ尽くされた頃、咲月は大学生活最後のイベントでもある卒業式の日を迎えた。太陽は隠れていたが、とても暖かく過ごし易い日だった。「成人式は地元に帰っちゃって、写真しか見せて貰えなかったじゃない。だから卒業式は叔母ちゃんに任せなさいっ」 そう言ってくれた敦子の言葉に甘え、袴のレンタルに美容院での着付けとヘアメイク、事前の段取り全てを任せきりにしていた。だから、まさか当日の朝、ホテルの美容室へ連れて行かれた後、写真館での撮影まであるとは思ってもみなくて、敦子と共にタクシーで到着してからずっと戸惑いが隠せない。 カーペットが敷きつめられた廊下をホテルの人の後ろを付いて、慣れない草履で恐る恐る移動する。 今日の敦子は深いグレーの仕事用スーツを着ていた。バッジを胸に付けて颯爽と歩く姿は大きなホテルの中でも全く場違い感がない。これから大きな会合でもあるかのような、堂々とした佇まい。老舗ホテルの雰囲気に押されて、完全に委縮しまくりな咲月とは正反対だ。「本当は式にも付いて行きたいところなんだけど……」 姪っ子の晴れ姿に満足そうに頷きながら、敦子が寂しい声で呟く。今日は午後からどうしても立ち会わなければならない仕事が入っているらしく、本気で残念がっている。「終わった後には謝恩会もあるから」 「そうよね。私とのお祝いはまた今度ね。食べたい物を決めておいて頂戴」 「やった、今度は焼肉が食べたい」 「分かった。とっておきの店を押さえておくわね」 写真館では通常の撮影とは別に、敦子も一緒に並んでスマホで撮ってもらうと、叔母はそれを咲月の父であり、彼女の実兄でもある泉川博也にメールで早速送りつけていた。離れた場所に住む父親への近況報告もあるけれど、可愛い姪っ子の傍に今は自分がいるというマウントだ。「あ、兄さんから、何でお前も写ってるんだって、お怒りのメールが届いた。あはは、咲月だけの写真を送れって。お正月から帰ってないでしょ、寂しがってるわ」 「もうっ、入社前に一回帰るっていってるのに……」 3月は卒業式や友達との旅行、帰省などの予定が入っているせいで、H.D
最寄り駅前の銀行ATMで、泉川咲月は通帳を片手に茫然と立ち尽くしていた。今まさに記帳したばかりの自分名義の銀行口座。その残高の数字が、予定していたよりも全然少ないのだ。 ――え、え、えっ?! なんで、なんでぇ……?! 後ろに並ぶ老婦人から急かすように咳き込まれて、慌ててATMの機械前から離れる。人の列の邪魔にならないよう壁際に移動して、もう一度通帳をこっそり開いて確認する。 ――バイト代が、振り込まれてないっ?! え、今日って26日だよね……?! 毎月25日に支払われるはずのアルバイト料。今月は日曜だったから、前倒しで23日の金曜には振り込まれているはずだった。確認する為にスマホのホーム画面を覗いてみるが、間違いなく今日の日付は26日の月曜日と表示されている。 週末は手持ちがまだあったからと、余裕を見たつもりで銀行を訪れてきた。なのにまだ、バイト代が入っていないのは何故だ? 入っていると思っていたはずのものは無いけれど、光熱費もスマホ料金もちゃっかりと引き落としは済んでいる。出る一方で入金はゼロだ。おかげで口座内に残されている預金残高は完全にスズメの涙。これから飲みに行くなんて調子に乗ったことをしたら、来月には消費者金融のお世話になってもおかしくはない。 大学生活4年目。去年まではそれなりにバイトを頑張って貯金していたつもりだった。別にブランド物には興味は無いし、旅行も海外よりも国内のパワースポット巡りの方が性に合う。 自他共に認める安上がりな女。なのに、どうしてここまでギリギリでやっているのかは、いつまで経っても終わらなかった就職活動のせい。おかげでシフトに入れる日数が極端に減ってしまっていた。この一年は少ない稼ぎと貯金を切り崩して頑張ってきたつもりだった。 勿論、実家からの仕送りはあるにはあるけれど、それは家賃と光熱費できれいさっぱり消えてしまう。それ以外の生活費くらい自分で何とかするよと啖呵切ってしまった過去の自分が恨めしい。 半ば諦めモードになりつつも、銀行の建物の外に出てから、咲月はスマホに登録しているバイト先の電話番号を呼び出す。「お電話ありがとうございます、パテル東町店です」 咲月も聞き慣れている、おっとりとした中年女性の声。古参のパート勤務の中谷で、小学生の男の子二人のママだ。平日のバイトリーダー的存在でもあり、入ったば
1月末。早くも3月にある卒業式に向けて、周囲の同級生達は当日はスーツにするか袴を着るか、どこの美容室を予約したかと浮かれていた。中には卒論の提出が間に合いそうもないと、図書館やコンピュータルームにまだ通い詰めている人もいたが、それはそれで平和な光景とも言える。 少なくとも周りの皆の行動は、大学を出た後の進路がちゃんと決まっている前提なのだ。卒業旅行だって、就職や進学先が確定しているからこそ行ける。 就職課の専用ボードを見上げながら、咲月は長く深い溜め息を吐く。学生向けの求人情報は、既に半数以上が来年度の卒業生向けの物に張り替えられて、この4月入社の案件は数えるほどしかない。まだ新卒なはずが、ここではすでに第二新卒扱いだ。就職課の窓口で相談したら、思い切り同情の目を向けられてしまった。 ――職安とかに行った方が良さそうかな……。 通学用トートバッグの中には本屋で買い込んで来たばかりの求人情報誌が三冊入っている。就職課の窓口で渡された紙の束と合わせて、その重みがずっしりと肩へと食い込んでくる。 規定の給料日は守られなかったが、一週間遅れでもちゃんと支払われたバイト代に一抹の望みをかけていた。中谷の言っていた「大丈夫」の言葉を素直に信じて、一昨日の夕方には久しぶりに入っていたシフトに合わせてバイトへ行く準備していた。 と、アドレス登録はしていなかったが、見たことあるような無いような固定電話の番号がスマホの液晶に表示された。不審な表情を浮かべながらも、咲月は通話ボタンに触れる。「……もしもし?」 「あ、泉川さん? お疲れ様、大槻です」 「ああ、店長。お疲れ様です」 バイト先であるパテル東町店の店長からだ。どうりで見たことあると思ったら、本社からの直通番号だった。「確か、今日ってシフト入ってたよね……?」 「はい」と短く返事する咲月に、電話の向こうの大槻が言いにくそうに言葉を選んで話し始める。店長から電話が掛かって来たこの時点で、嫌な予感しかなかった。「実はさ、火野川の店で食中毒が出ちゃってね、保健所の指示でしばらくは全店休業しなきゃならなくてさ。工場内の検査とかいろいろあって、製造も完全ストップすることになって」 「えっ、じゃあ、しばらくバイト無しですか? それって、いつまで……?」 「うん、そうだな……いつまでになるんだろうねぇ」 大
前日に叔母から念を押すように送られてきた、店と時間の連絡メッセージ。事務所設立15年を祝うパーティーは、石畳が敷き詰められた歩道に面した小さなレストランで開催される。結婚式の二次会でも重宝されそうな雰囲気の良い店。それを当日は夕方から貸し切りにするらしい。 よく手入れされた鉢植えが店の前に並び、レンガ造り風の壁面にブラウンの屋根。遠目からはその一角だけがまるで童話の世界から抜け出してきたような、メルヘンチックな外観。控えめなベルの音を鳴らすドアを押し開けてみると、入口のすぐ前に控えていた男性がニコリと微笑みながら声を掛けてくる。「咲月ちゃん、いらっしゃい」 「あ、立石さん。お久しぶりです」 「本当だ、久しぶり。今年に入ってからは初めてか、今年もよろしく。敦子さん、今は外にお客様の出迎えに行ってるんだけど、すぐ戻ってくると思うよ。あ、コートはこっちで預かるね」 事務所の事務スタッフでもあり、叔母の事実婚の相手でもある立石は、流れるように咲月のことをエスコートしてくれる。物腰も柔らかで落ち着いてみえるが、敦子よりも一回り年下の30歳。叔母とは25歳の頃から一緒にいるのだから、元々から年上の女性が好きなのだろう。年下の咲月のことなんて眼中に無いという感じだ。「敦子さんが戻ってきたら始まると思うから、それまではドリンクでも飲んでて。あ、もうお酒は飲める歳だったっけ?」 立石の言葉に咲月が小さく頷き返したのを確かめると、ドリンクコーナーに並んだ飲み物から綺麗なピンク色の液体の入ったカクテルグラスを差し出してくる。「ストロベリーフィズでいいかな? ご飯食べる前だから、一気に飲んじゃダメだよ」 年下だからと完全に子ども扱い。きっとこういうところが、敦子が年齢を気にせずに彼と一緒に居られるんだといつも思う。立石にとって若い女の子というのは、全く恋愛対象にはならず、いつまで経っても子供にしか見えないのだ。 以前に食事に来た時は等間隔で並んでいたテーブルと椅子は、今日の為に大きく配置を変えている。壁際にはビュッフェ形式で料理が並べられ、大きなフラワーアレンジメントで飾られたフロア中央のテーブルにはドリンクとデザートが乗っている。ゆっくり食事を楽しみたい人の為に椅子席もいくつか用意はされているが、基本的には立食スタイルみたいだ。 立石がスタンバイしていた入口ド
卵料理と肉類ばかりを乗せた皿を抱えて、咲月は空いていた椅子に腰を下ろす。壁に沿って10脚並べられている椅子には、地元の名士といった風情の白髪のお爺さんとその昔からの知り合いという感じの老人の二人が座っているだけ。料理もあんなに沢山用意されているのに、手を付ける人がほとんどいないのが信じられない。デザートをリクエストしたという女性スタッフ達ですら、来賓客との会話で忙しく、手に持つグラスに軽く口を付けるのが精一杯という感じだ。 ――社会人って、大変だ……。 パーティーですら仕事になってしまうのだ、ちっとも楽しそうじゃない。あとでスタッフだけで打ち上げがあるとは聞いているけれど、きっとその頃には料理は冷めてしまって美味しさは半減しているだろう。 ローストビーフをフォークで折り畳んでから突き刺すと、それを一口で頬張ってみる。何だか味に物足りなさを感じるのは、別に用意されていたソースを付け忘れたからだ。今更取りにいくのも面倒だし、代わりにサラダに掛けたドレッシングを付けた。まあ、何も付けないよりはマシだ。 咲月が一人で黙々と食事を続けている時、隣の椅子に誰かが座った気配がした。周りが皆、新しい繋がりを求めて必死で営業に回っている中、学生と一緒に壁の華で収まるなんて、やる気の無い大人もいるんだと、興味本位でちらりと隣へ視線を動かしてみる。 露骨に顔を覗き込む訳にはいかないが、咲月の目には隣の席からはみ出して来ている長い脚が確認できた。男物の黒色の革靴に、黒のスラックス――否、よく見てみると黒色の生地には光沢のある濃いグレーのストライプが入っている。一言で黒いスーツと言っても、就活中に同級生が着ていたのとは全く違う、大人の黒スーツだ。「君の悪いジンクスは、正規入社でも発動するのかな?」 たまたま隣に座って来ただけと思っていた男から、急に声を掛けられる。驚いて顔を見上げた咲月の目に、さっきの黒のスリーピース男が足と腕を組みながら何やら考えている姿が飛び込んでくる。「いや、試してみるのも悪くないなと思ってね。泉川先生にはこの先もお世話になるつもりだし」 「……学生なので、まだバイトでしか働いたことないから、その辺りは分からないです。でも、や
「ちょっと座って待ってくれる?」 咲月に向かって、羽柴は顎をくいと動かして応接用ソファーを指し示す。言いながらも指先はキーボードから離れず、カタカタというキーの打音だけが室内に響き続ける。咲月の位置からは大きなモニターの陰になって羽柴の顔だけしか見えなかったが、そのとても厳しい目がこちらを向いたのは一瞬だけ。 言われるまま二人掛けソファーの隅っこに背筋を伸ばして浅く座ると、咲月は足下に立て掛けていたトートバッグから履歴書を取り出して待った。面接というのは何回経験しても全く慣れない。しかも惨敗続きなのだから、苦手意識は高まるばかりだ。 昨夜に慌ててプリントアウトし直した履歴書。この一年間、いろんな企業へ何枚も提出してきたが、ほぼ全て送り返されてきた――不採用通知書と共に。 タンというエンターキーを叩く音。それを皮切りにデスクチェアをくるりと回転させてから、ようやくこのオフィスの代表である羽柴智樹が腰を上げる。黒のストレートパンツにライトグレーのVネックニット、かなり緩められているネクタイは深みのある橙色。こないだの隙の無いスーツ姿とはかなり雰囲気が違う。というか、就活の面接でこんなラフな面接官は初めてだ。調子が狂う。 モニターに向かっていたのとは別人のような、余裕のある笑顔で羽柴が咲月の前に手を差し出してくる。「お待たせしちゃったね。じゃあ、履歴書を見せてくれる?」 「は……はいっ」 咲月の目前の席にゆったりと座りつつ、履歴書を入れた封筒を受け取る。そして、緊張で顔を強張らせている咲月のことをちらりと見てから、紙面へ軽く目を通していく。やや俯き加減になると、長い睫毛の動きで彼が今どの辺りを見ているのかがよく分かった。「うん、この住所なら特に引っ越して貰う必要はないね。本採用は4月に入ってからになるけど、それまでもアルバイトとして来る気ある? 今は短期バイトしてるんだっけ?」 「え……?」 酔っ払った敦子が会話の流れでさらっと話していたことまでを、羽柴が覚えていることに驚く。というか、今「本採用」という言葉が聞こえたような気がして、自分の耳を疑う。 いくら叔母のコネがあるとは言え、そんな即断
その段ボール箱いっぱいの駄菓子が全て食べ尽くされた頃、咲月は大学生活最後のイベントでもある卒業式の日を迎えた。太陽は隠れていたが、とても暖かく過ごし易い日だった。「成人式は地元に帰っちゃって、写真しか見せて貰えなかったじゃない。だから卒業式は叔母ちゃんに任せなさいっ」 そう言ってくれた敦子の言葉に甘え、袴のレンタルに美容院での着付けとヘアメイク、事前の段取り全てを任せきりにしていた。だから、まさか当日の朝、ホテルの美容室へ連れて行かれた後、写真館での撮影まであるとは思ってもみなくて、敦子と共にタクシーで到着してからずっと戸惑いが隠せない。 カーペットが敷きつめられた廊下をホテルの人の後ろを付いて、慣れない草履で恐る恐る移動する。 今日の敦子は深いグレーの仕事用スーツを着ていた。バッジを胸に付けて颯爽と歩く姿は大きなホテルの中でも全く場違い感がない。これから大きな会合でもあるかのような、堂々とした佇まい。老舗ホテルの雰囲気に押されて、完全に委縮しまくりな咲月とは正反対だ。「本当は式にも付いて行きたいところなんだけど……」 姪っ子の晴れ姿に満足そうに頷きながら、敦子が寂しい声で呟く。今日は午後からどうしても立ち会わなければならない仕事が入っているらしく、本気で残念がっている。「終わった後には謝恩会もあるから」 「そうよね。私とのお祝いはまた今度ね。食べたい物を決めておいて頂戴」 「やった、今度は焼肉が食べたい」 「分かった。とっておきの店を押さえておくわね」 写真館では通常の撮影とは別に、敦子も一緒に並んでスマホで撮ってもらうと、叔母はそれを咲月の父であり、彼女の実兄でもある泉川博也にメールで早速送りつけていた。離れた場所に住む父親への近況報告もあるけれど、可愛い姪っ子の傍に今は自分がいるというマウントだ。「あ、兄さんから、何でお前も写ってるんだって、お怒りのメールが届いた。あはは、咲月だけの写真を送れって。お正月から帰ってないでしょ、寂しがってるわ」 「もうっ、入社前に一回帰るっていってるのに……」 3月は卒業式や友達との旅行、帰省などの予定が入っているせいで、H.D
備品の買い出しと面談を兼ねたランチから戻ると、オフィスには昼過ぎ出勤の三上の姿もあった。パソコンモニターに隠れるように背を丸めてキーボードを叩いていた三上は、「お疲れさまです」と挨拶した咲月には、静かに無言で頷き返してくるだけ。 でも、注文していた備品とは別にお菓子の詰まった大きな段ボール箱がオフィス内に運び入れられると、誰よりも目を輝かせていたのは何を隠そう、もうすぐアラフォーになる三上だった。 羽柴からこのオフィスの人達は甘い物はそんなにという話は聞いていたが、糖分多めのスイーツ系が人気ないというだけで、塩気のある駄菓子は喜んでくれるみたいだ。詰め合わせになっている袋を片っ端から開封し、自分のお気に入りのスナック菓子ばかりを選んで抜き取って、三上は自分のパソコンの横に積み上げていた。「あ、三上さん、コンポタ味ばっか確保してません? あとはチーズとかコンソメしか残って無いんすけど! 俺にも一本くらい分けてくださいよー」「ふんっ、こういうのは早い者勝ちっていうんだよ……」 袋によって入っている味が違ったらしく、箱の中に頭を突っ込んで漁っていた平沼が同僚のデスクに山積みになっている駄菓子を指差して物言いを入れる。まさか末等の景品がこんなに喜んでもらえるとは思ってなかったし、少しびっくりだ。 咲月は先輩達の様子を横目に、買って来たばかりの備品を棚へ片づけていく。笠井も洗剤詰め合わせセットの中に自宅で愛用しているのと同じメーカーの商品が入っていたらしく、ちゃっかりそれだけはデスクの引き出しにしまい込んでいた。 駄菓子をネタに賑やかになった平沼達のことを、咲月は珍しい物でも見るかの視線を送る。意気揚々とお菓子を持って帰っても、そこまで子供っぽい反応はもらえないものだと思い込んでいた。社会人というのは駄菓子の取り合いなんてしない、もっと大人な生き物と思っていたから。「あ、泉川さんが軽蔑の目してるー。いい歳して馬鹿だなって思ってる顔だ!」 平沼が、咲月に向かって揶揄うように言ってくる。咲月は慌てて、首を振って否定する。たとえ思っていたとしても、認める訳にはいかない。「いえ、そんなことは思ってないで
「本日最終日! ハズレ無し! 末等でも駄菓子詰め合わせだよー」 商店街名の入ったはっぴを羽織った男性が、威勢よく声を張り上げていた。景品一覧が書かれたポスターの中で、罫線を引かれて消されているのは既に当選者が出たやつなんだろう。二等の商品券五千円分はもう三本とも無くなっているみたいだが、特等のロボット掃除機も、一等の商品券一万円分も本当にまだ残っている。 まだ引いてもいないのに、並んでいる景品を眺めているだけでワクワクする。ハズレてもお菓子が貰えるなんて、なんて太っ腹な商店街だ。前の人が抽選器を回しているのを横から覗き込んでいると、羽柴がはにかみながら言ってくる。「全部、咲月ちゃんが引いていいよ。オレはこういうの、苦手だし」「え、いいんですか? あ、でも……」 一瞬ぱぁっと明るくなった咲月の顔が、すぐに曇る。くじ運はそこまで悪くない、というか普通だ。これまで大きく当てた経験は一度もない。良い物を引き当てる自信は全くない。しかも、咲月はありがたくないジンクスだって抱えている。落ち込んだ、暗い声で呟く。「私、仕事絡みだと運勢最悪なんですけど」 勤務先が全て倒産の道を辿る運勢が、こういうところでも発揮されてしまうんじゃないか。そんなマイナス思考が浮かび上がってきた咲月の頭を、羽柴はポンポンと優しく右手で宥めるよう叩いてくる。「それはアルバイトの時だろ。うちでは正社員なんだから、関係ないよ」 羽柴の励ましに、そうだといいんだけど、と自信なさげに最初に回した抽選器。出てきたのは、末等を示す白色の玉だった。初っ端からこれでは、ちょっと凹む。「はい! じゃあ、抽選券と補助券合わせて、後33回ね。お姉さん、さくさく回してってー」 回数があるだけに、回す度に落ち込んでいる暇がない。見物している人ばかりだと思っていた抽選会場にも、少しずつ抽選待ちの列が出来ていく。ほぼ抽選器を回すロボットと化した咲月は、途中で白色以外の玉が何個か出てきたのにも気付かず、ひたすら腕を回し続けていた。 玉が出る度に残り回数を大きな声で叫ばれるのは、少し恥ずかしい。「はい! ラス
「この店だよ」 車を停めたすぐ横の店を羽柴が指差してくる。教えて貰った店は看板がとても小さく、建物が古いからか照明が薄暗くて、外からは何屋さんかが分かり辛い。昔ながらの個人商店。きっと、ぱっと見では気付かず、咲月が一人で来ていたら絶対に一度は素通りしていたはずだ。 先に店の中へと入っていく羽柴の後ろを、咲月も一緒に付いていくと、ドアに設置されたベルがチリンと鳴って奥にいる店主へ来客を知らせていた。「お、羽柴さん。申し訳ないね、今日は従業員がみんな休みいただいてて、お届けに伺えなくて――」「いえ、新しいスタッフにこちらの場所を教える良い機会になりました」「それなら良かった。注文して貰ってたのは全部届いてますよ」 文具メーカーの社名入り段ボール箱を重そうに両手で抱えて、初老の店主が奥の部屋から運んでくる。中にはぎっしりとプリンターのインクやコピー用紙などが詰め込まれていた。どう考えても、羽柴が言うように歩いて持って帰るのは無理な量だ。「あ、あと追加で必要な物があるみたいなので、ちょっと店内を見て回らせていただきます」「じゃあ、決まったら声掛けてください」 店主に軽く会釈した後、羽柴は咲月が手に持っていた買い物リストを覗き込んでくる。メモを見ながら付箋や輪ゴム、紙テープなどを店内を一緒に探し回っていく。オフィスを開業した時からの付き合いというだけあり、羽柴は店内のどこに何があるかは完璧に分かっているみたいだった。店主の方も彼のことを信頼しきっているみたいで、客がいるのに奥の部屋へと姿を消した。「店になければすぐに取り寄せて貰える」「とりあえず急ぎで付箋だけは欲しいんです。あとは今度でも良いそうなので」「ボールペンの替え芯か。どこのメーカーのかは書いてないな……」 電話して笠井に確認してみようかと咲月が考えていると、羽柴はさっと二種類の替え芯を選んで咲月に渡してくる。「三上君が主に使ってるのが、こっちで。他はこのシリーズのだったと思う。予備はどれだけあっても困らないから両方買っておけばいい」 他の文具も普段使っているメーカーを教
ハガキの束のチェックが終わり、名刺ファイルにも手を伸ばす。社名の五十音順で管理されているから、ハガキの時よりもリストから探し出すのには時間がかからなかった。こちらは担当者の肩書が変更されているのが結構あって、それがちょっとややこしい。分からないことが出てくる度に笠井へ確認するのだが、作業を中断させられてあからさまに迷惑だという顔をされるのがちょっと堪える。「あの、付箋があればいただけませんか? 分からないのは飛ばしておいて、後でまとめて質問させて貰いたいので――」 さすがに頻繁に笠井の作業の手を止めるのも申し訳ないと、咲月は遠慮がちに聞いてみる。デスクの引き出しの中を探ってみたけど、ボールペンと修正液くらいしか入っていなかった。このデスクはいつから空席だったんだろう。ふとそんな疑問が浮かび上がる。「ああ、そういう備品を後で買いに行って貰うつもりでいたのよ。そうね、せっかくだから一旦作業を止めて、必要な物を揃えて貰う方が先かしら」 言いながら、咲月に頼むつもりの買い物リストを差し出してくる。「前もって注文していた物も一緒に引き取って来てね。いつもは店長さんが配達してくれるんだけど、今日は出られないそうなのよ」 馴染みの文具用品店が、通りを二つ越えたところにあるのだと説明してくる。こういうのはオフィス用品専門のネット通販のイメージだったが、この会社では羽柴の方針で地元との繋がりを大切にしているのだという。 ――もしかして、市民マラソンのロゴデザインしたのもその一環なのかな? 店の場所をもう一度確認してから、咲月はオフィスの建物を出る。就業時間中に買い物に行くなんて、まるでサボっているみたいでちょっとドキドキする。勿論、これも仕事のうちなんだけど。 一旦は駅に戻る方角に向かって歩き、駅前大通りに出てから、一本奥の道を入っていく。地図で見ても簡単な道順だったし、迷う心配はなさそう。万が一には電話するよう言われているし、オフィスの電話番号もアドレス登録を済ませてある。 せっかくのお使いが曇り空なのを残念に思いながら、足取り軽く進んでいく。 と、大通りを渡り切ったところで、信号待ちしていた車にクラクシ
翌朝、咲月がオフィス前の駐車場を歩いていると、背後から自転車のブレーキをかける音が聞こえてきた。驚いて振り返ると、駐輪スペースに自転車を停めた平沼がヘルメットを脱いでいた。そして、咲月に向かって笑顔を見せながら手を振っている。相変わらず、人懐っこい人だ。「うっす」 「おはようございます」 確か、彼は普段は昼前の出社が多かったはず。今日は朝からの仕事でもあるんだろうか。とくに気にせず先に行こうとする咲月のことを追いかけてきて、平沼はちょっと照れたような表情でヘルメットを小脇に抱えている。「たまには朝から出てくるのも悪くないかな、って」 たまたま今日は早起きできたとかなんだろう。出勤時間が決まっている咲月達と違って、フレックスが適応されるデザイナー達は自由で羨ましい。 平沼と共にオフィスのドアを入っていくと、ハンディモップを片手に棚の埃を払っていた笠井が、珍しいものでも見たと目を丸くする。「え、平沼君、どうしたのっ?!」 「うっす」 「今日って朝から何かあったかしら……?」 「いや、何もないっす。たまには早めに出勤してみようかなって思っただけっす」 「そ、そうなの、ね……?」 何年も一緒に働いているはずの笠井がそんなに驚くくらい、どうやらとても珍しいことみたいだ。なんだか落ち着かない表情の笠井に反して、平沼本人は昼前に来る時と同じように、いつも通りデスクの上にノートパソコンを置いてタスクリストの確認を始めている。本当にただ早く来ただけみたいだ。笠井はまだ「信じられない」とでもいうように小首を傾げている。 駐車場に車が無かったから、羽柴はまだ来ていない。壁掛けのホワイトボードを確認すると、直行で営業で外へ出ているらしい。けれど、本日分の指示は既にちゃんと用意されていたみたいで抜かりない。社長はちゃんと毎日家に帰って休んでいるのかと、心配になってくる。「うわー、やっぱ修正入ったかぁ……っしゃ、頑張ろっ」 任されていたデザイン案に羽柴からのダメ出しがあったらしく、目に見えて肩を落とす。が、すぐに気合いを入れ直して、平沼はパソコンモニターに向き直していた。一発オッケー
食事後、自宅の最寄り駅とは別の駅まで車で送って貰うと、咲月は敦子達と別れて一人になった。三人での食事もそれなりに楽しいけれど、やっぱり子供の頃から知っている叔母と二人だけの方が気が楽だ。 スマホで時間を確認してから、駅前商店街の中をぶらぶらと見て歩く。古くからある商店街だけれど、お洒落な雑貨屋やセレクトショップもあり、意外と客層は幅広い。 咲月のお目当ては、この辺りでは一番大きな手芸用品店。もう常連と言ってもいいくらいに通い慣れた店の中を、咲月は奥の棚へと進んでいく。入園グッズに最適と書かれた大判のポップを一瞥して、カット売りする為にロール状のまま陳列されているキルティング生地を順に見て回る。そして、お目当ての生地を見つけて、安堵の台詞を漏らす。「良かった、まだあった……」 たくさんある生地の中、小さな女の子が好きそうな淡いピンク色のゆめかわ柄のロール2種類を抱えてレジへと運んでいく。全く同じ柄の生地をひと月前にもここで購入したことがある。人気のありそうな柄だったし、もしかしたら完売しているかもと諦め半分で来たけれど、追加納品したのか前よりもロールの巻きは大きい。 特技というほどではないけれど、実家にいる頃からミシンを使って布から何かを作るのが好きだった。キッカケは入学した高校のテニス部が軟式ではなく硬式で、咲月に入れそうなクラブ活動が手芸部以外に無かったから。放課後になると家庭科室に集まって、みんなで好きな物を作った。近所の幼稚園からバザー用にシュシュやマスクを大量に頼まれたこともある。 バッグの中に入れている化粧ポーチも咲月が自分で制作した物だ。普段から持ち歩いている物はそれくらいだけれど、部屋に置いているクッションカバーもカーテンもこの店で布を買って来て縫い上げた。多分、既製品を買った方が安いと分かっていても、つい自分で縫いたくなるのだ。これは裁縫好きあるあると言っていい。 今さっき購入したばかりの布は、もちろん自分用なんかじゃない。ケーキ屋のバイトが無くなった時に、少しでも生活費の足しになればとフリマサイトで入園グッズの注文販売を始めてみた。そしたら、シーズンというのもあって予想以上に注文が貰えた。 勿論、H.D.Oでアルバイト
提出していた卒業論文を教授の研究室へ引き取りに行った後、咲月は大学構内にあるカフェでコーラフロートを味わっていた。やや強めの炭酸が喉にピリピリくる。溶けかけたバニラアイスをスプーンで掬い取って食べていると、ここが大学内だということを忘れそうになる。 窓際のハイテーブルは芝生で覆われた中庭に面しているが、今日のような曇り空の下だと誰の姿もない。昨夜に少し雨が降ったみたいだから、余計にか。 このカフェは咲月が入学した年に建て替えが始まって、昨年ようやくオープンした。全開できる大きな窓と、季節によってはウッドデッキにテラス席も設けられる開放的な空間。どちらかと言うと女子の利用者が多いのは、メニューに占めるデザート率の高さだろう。ケーキセットで選ぶことができるケーキは隣駅前の人気店の品。しかも、そのケーキの価格だけで珈琲か紅茶も一緒に頼めるという、超が付くほどお得なセットだったりする。 咲月は座っている椅子をくるりと回転させて店内を見回した。ランチタイムにはまだ早い時間だから、今カフェにいるのは講義までの時間潰しに来ている学生達だろうか。卒業間近の咲月が知っている顔は見当たらない。 ――確か、ここも誰かのデザインだったんだよね。えっと、誰だっけ……? 何とかという空間デザイナーが携わったカフェだと、リニューアルオープン時にはタウン誌でも掲載されているのを読んだ記憶がある。残念ながら、デザイナーの名前までは全く覚えていないけれど。しばらくは近隣住民までもがここ目当てにやってきて、一時期のランチタイムには入口前に行列が出来ていた。 H.D.Oのデザイナー見習いの平沼も空間デザイナーを目指してると言っていた。きっと彼もこういう仕事がしたくて、あの会社に入ったんだろう。明確な目標もなく、ただ流されるままの咲月には、はっきりとした夢を持っているのはすごいとしか言えない。いつか咲月にも何か目指すものが出来るようになるんだろうか……。 何かに対して真っ直ぐに突き進んでいこうとしている人を前にすると、じゃあ自分はどうなんだと問い詰めたくなる。漠然とどこかに就職して社会人になりたいとは思っていたけれど、そこには何かが大きく
あまり深く考えず無責任に言ったつもりの咲月の言葉に、平沼は「なるほど……」と頷き返しながら口の端をキュッと上げた。何か良い案が浮かんだらしい。再びメジャーを引き伸ばして、部屋の寸法を測り始める。 咲月へ指示してくる声はかなりご機嫌で明るい。「えっとじゃあ、そっちの端っこの棚の位置はそのままにするから、そこにある資料から並べてって貰える?」「は、はい」 いきなり生き生きとし出した平沼に指示され、咲月も慌てて作業を始める。咲月が黙々と棚にデザイン集やパンフレット類を収納している時、平沼は隣の社長室へと入って行ったらしく、ドアを開け閉めするのが聞こえてきた。そして、しばらくするとゴトゴトと家具を移動する音。「泉川さーん、ごめーん。ちょっとドア開けてくれるー?」 資料室の前から平沼が呼んでいる声がして、咲月は急いで入口ドアへ駆け寄る。ガチャリとノブに触れて開いてみると、見覚えのある二人掛けソファーを平沼と羽柴が運び込もうとしているところだった。意気揚々とご機嫌で入ってこようとする平沼とは対照的に、羽柴は苦虫を嚙み潰したような表情をしている。「いやー、ちょうどいい感じにハマりそうなサイズなんだよね、これ。広くなったボスの部屋にはもっと大きくて立派なのを買い直して貰うってことで」 社長室にあったソファーセットを、どうやら新たに作る休憩スペースに置くつもりらしい。対になるもう一脚も羽柴の手を借りて運び入れた後、平沼は嬉しそうにテーブルも運んで来てから笑いを堪えながら言った。「これ持ってくって言ったら、最初は反対されたんだけどね。泉川さんのアイデアだってバラしたら、渋々だけど了承してくれたよ。後で隣の部屋見て来ておいで、何にも無さ過ぎて笑えるから」 思い出し笑いか、堪え切れずに平沼が噴き出している。あんなに窮屈だった社長室が、平沼によって家具を強奪されたせいで今はデスクくらいしか無いのがおかしくて仕方ないらしい。新しいソファーが届くまでは、平沼曰く「ぽつんと一軒家状態」なのだとか。要はガランとして殺風景。「別に、私のアイデアって言うほどでは……」