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第四話

last update Last Updated: 2025-02-08 10:55:51

 卵料理と肉類ばかりを乗せた皿を抱えて、咲月は空いていた椅子に腰を下ろす。壁に沿って10脚並べられている椅子には、地元の名士といった風情の白髪のお爺さんとその昔からの知り合いという感じの老人の二人が座っているだけ。料理もあんなに沢山用意されているのに、手を付ける人がほとんどいないのが信じられない。デザートをリクエストしたという女性スタッフ達ですら、来賓客との会話で忙しく、手に持つグラスに軽く口を付けるのが精一杯という感じだ。

 ――社会人って、大変だ……。

 パーティーですら仕事になってしまうのだ、ちっとも楽しそうじゃない。あとでスタッフだけで打ち上げがあるとは聞いているけれど、きっとその頃には料理は冷めてしまって美味しさは半減しているだろう。

 ローストビーフをフォークで折り畳んでから突き刺すと、それを一口で頬張ってみる。何だか味に物足りなさを感じるのは、別に用意されていたソースを付け忘れたからだ。今更取りにいくのも面倒だし、代わりにサラダに掛けたドレッシングを付けた。まあ、何も付けないよりはマシだ。

 咲月が一人で黙々と食事を続けている時、隣の椅子に誰かが座った気配がした。周りが皆、新しい繋がりを求めて必死で営業に回っている中、学生と一緒に壁の華で収まるなんて、やる気の無い大人もいるんだと、興味本位でちらりと隣へ視線を動かしてみる。

 露骨に顔を覗き込む訳にはいかないが、咲月の目には隣の席からはみ出して来ている長い脚が確認できた。男物の黒色の革靴に、黒のスラックス――否、よく見てみると黒色の生地には光沢のある濃いグレーのストライプが入っている。一言で黒いスーツと言っても、就活中に同級生が着ていたのとは全く違う、大人の黒スーツだ。

「君の悪いジンクスは、正規入社でも発動するのかな?」

 たまたま隣に座って来ただけと思っていた男から、急に声を掛けられる。驚いて顔を見上げた咲月の目に、さっきの黒のスリーピース男が足と腕を組みながら何やら考えている姿が飛び込んでくる。

「いや、試してみるのも悪くないなと思ってね。泉川先生にはこの先もお世話になるつもりだし」

「……学生なので、まだバイトでしか働いたことないから、その辺りは分からないです。でも、やめといた方がいいと思いますよ」

 まだそのネタを引っ張ってくるのかと、咲月はうんざり顔で答える。縁起の悪い子扱いには慣れている。けれど、初対面の相手にしつこく言われ続けるのは嫌な気しかしない。必要以上に絡んで来ないでと、皿の上の料理を急いで口へ放り込んでいく。

「女の子が一人入っただけでダメになるなら、誰が入って来たっていずれは消える会社だよ」

「まあ、そうだと思いますけど」

「丁度今、スタッフを募集しようと思ってたところでね。あ、これ、俺の名刺。来週月曜、朝9時に履歴書を持って来て」

 ジャケットの胸ポケットからブラウンの革製名刺入れを出し、中から一枚抜き取って目の前に差し出してくる。咲月はすでに空になった皿とフォークを慌てて隣の空いている椅子の上へ置いて、それを丁寧に両手で受け取った。就活の為に何度も練習したせいで、名刺を見たら思わず反射的に手を出してしまった……。

 受け取ったからと言って承諾したつもりはないと、急いで訂正したくて隣の席を振り返ってみるが、男は他の客から声を掛けられて立ち上がり、すでにフロアの中央へと移動した後だ。

 受け取ってしまった名刺の表には『H.D.O 代表兼デザイナー 羽柴智樹』とだけが曲線の多いお洒落なフォントで記載され、裏面には会社のホームページへのQRコード。住所や電話番号が書かれていないのはホームページを見ろということなのか。デザイン性重視の名刺はいちいち手間がかかる。

 こちらの意志も確認せずの一方的な面接の約束。何から何まで全てに納得がいかない。そもそもが酔っ払った敦子の戯言が発端なのだ。面接なんか行ってやるものかと思っていた咲月だったが、日曜の夜にスマホへかかってきた電話でそういう訳にもいかなくなった。

「新聞にも載ってたって聞いて、お母さん驚いたわよ! なんですぐに言わないの、内定いただいてた会社が倒産しちゃったんでしょう? それで4月からどうするつもりなの? 卒業しても働くところが見つからないんなら、もう帰って来なさい。お父さんの事務所のお手伝いでも何でもすればいいから――」

 通話ボタンに触れた途端、母親からの怒涛の小言。敦子にはしばらく内緒にしてとお願いしていたのに、近所の人が新聞に掲載されていた小さな記事を見つけてしまったらしい。「これ、咲月ちゃんが就職するって言ってた会社じゃなかった?」と言われて、母は玄関前で卒倒しかけたのだという。

「大丈夫だって。明日は別の会社で面接受けることになってるんだ。敦子叔母さんの知り合いだし、そこの社長さんからもおいでって言って貰ってるの。正式に決まった時はちゃんと連絡するね」

 母親からのあまりの勢いに、咲月は思わず口から出まかせを言ってしまった。そうでも言わないと、すぐに引っ越し屋の手配をされてしまいそうな雰囲気だったのだから仕方ない。

 じゃあね、と有無を言わさず終話ボタンを押した後、ふぅっと長い溜め息を吐く。今更どんな顔をして実家へ戻れと言うんだろう。しかも、父親の事務所に勤めるなんて、親のすねをかじり続けるのもいいところだ。というか、また悪いジンクスが発動して父の事務所まで潰れてしまったら困る。

 翌朝、ホームページで案内されていた住所を頼りに、咲月は羽柴のオフィスを訪ねていた。15階建ての分譲マンションの1階の路面テナント。全面がガラス張りなのに外から中の様子が何も見えないのは、特殊な窓ガラスを使用しているんだろうか。

 社名の入ったプレートが貼られたドアを押し開けると、ふんわりと甘い花の香りが漂ってくる。見ると目の前のカウンターの上にも下にも、ずらりと鉢植えの胡蝶蘭が並べられている。鉢の中に立てられた札によると、何かのデザイン賞を受賞したお祝いみたいだ。

 ――あれ……もしかすると、ここって何かすごい事務所だったりする?

 パーテーションで目隠しされていて様子は見えないが、部屋の奥からは声が聞こえている。けれど、待っていても誰もカウンターへ出て来る気配がない。咲月はそっとパーテーションの横から顔を覗かせてみる。

 と、すぐ手前のデスクでパソコンを操作しながら電話していた男性と目が合い、相手が慌て始める。特に重要な通話でもなかったのか、男性はすぐに電話を切ってから咲月の方へ駆け寄った。

「え、あー……申し訳ありません。ここのところセンサーの調子が悪いとは思ってたんですが、完全に電池切れしてしまったみたいで――」

「あの、9時に伺うよう言われてました、泉川と申します」

「は、はい。伺っております。どうぞ、こちらへ」

 インディゴブルーのデニムに黒のジャケット、中には丸首のTシャツ。銀縁の眼鏡もレンズは真ん丸で、咲月よりも長い髪を後ろで一つに束ねている。少し独特の雰囲気を持った彼はデザイナーなんだろうか。間違っても事務や営業職には見えない。

 外からは分かりにくかったが、オフィスの中は意外と広さがあるようで、路面のガラス張りのスペース以外にも奥に部屋があるみたいだ。そのドアの一つをノックしてから咲月に中へ入るよう勧めると、案内してくれた男性は入口カウンターの方へと戻っていった。さっき言っていた、電池切れのセンサーを直すつもりなんだろう。

「失礼します」

 言いながら部屋の中へと目を向ける。奥にある窓以外の壁を天井近くまである棚に囲まれた室内。ぎっしりとファイルや資料、書籍、立体模型などが詰め込まれていて、地震が来た時には絶対にここには近寄りたくはない。

 その唯一ある窓際の壁を背にして、羽柴はデスクの上のパソコンを操作していた。

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     聞かなくても分かっている。咲月のことは顧問弁護士の敦子から預かっている子くらいにしか思われていないってくらいは。それでも聞き返してしまったのは、別の答えが返ってくるのをどこかで期待していたからだろうか。無意識の台詞に、自分自身が一番驚いていた。 ――あれっ、私、何言ってんだろ……? そんなこと、社長に聞く必要なんてないのに……。 さっきの甘えた言い方は、咲月のことをただ揶揄っただけだ。年上で大人な彼からすれば、咲月なんて本気で相手にするはずなんてない。笠井や七瀬に比べたら、咲月なんてまだまだ子供でしかないのだから。  そう頭では理解しているのに、咲月は胸の鼓動が早鳴るのを抑えきれなかった。揶揄いの言葉にさえ、心が大きく揺すぶられるのを感じる。こうなるのが分かっていて、あんな風に思わせぶりなことをわざと言うなんて、羽柴智樹という男は何て意地が悪いんだろう。 そんな咲月の隠れた動揺を打ち破ったのは、社長室扉を叩く音だった。コンコンと二度のノック音の後に、平沼の困惑した声が聞こえてくる。「失礼します。社長、ちょっといいっすか? 七瀬さんがやっぱ社長にも同席して欲しいそうなんすけど……」 小松絡みで相談に来たという七瀬が、羽柴も一緒に話を聞いて欲しいと言い出しているらしい。この事務所では小松の仲介者だった平沼が担当していると伝えたみたいだけれど、彼女はどうしても羽柴社長もと聞かないようだった。  彼女に取って、小松の件は都合の良い言い訳に過ぎない。過去に逃した魚を再び追いかけるのに丁度良いキッカケだったのだろう。笠井の予想では、独立の可能性が立ち消えた彼女の夫は、早い内に見限られて捨てられてしまうに違いない。 そんな女の冷酷な策略を知ってか知らずか、平沼は呆れるような溜め息を吐きつつ、客人の様子を報告してくる。「うちはもう小松の案件はとっくに対応済みだから、社長に出てもらうようなことは無いって言ってるんすけどね。向こうのことを相談に乗って貰いたいとかなんとか――」 「渡せる情報は渡してあげたんだよね?」 「はい。うちがどう対応したかは伝えました」 「じゃあ、こっちで助けてあげられることはもう何もない。他所の事務所のことにまで口出しはできない。他に何かあれば、七瀬――ああ、彼女の旦那の方に連絡するようにするって言ってくれるかな」 さっきとは打って変

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十五話

    「咲月ちゃんは、笠井さんと一緒に行きたかった?」 ソファーテーブルの上の書類を片付けている咲月へ、羽柴がボソボソと遠慮がちに聞いてくる。さっきの笠井からの誘いに横から口を挟んでしまったことを大人げなかったと気にしているみたいだ。 咲月はちょっと首を傾げて悩むそぶりを見せた後、小さく笑いながら答える。「いえ、合コンって聞くとあんまりなんですけど、いつも笠井さんが何食べてるのかには興味があっただけです。なんか、凄いお洒落な物を食べに行ってそうじゃないですか、笠井さんって」 毎日のように外で昼食を取る先輩。きっと行きつけのお店とかも沢山あるんだろう。笠井も一人暮らしだったはずだけれど、どうやり繰りすれば毎日外食が出来るのかも教えて欲しいくらいだ。社員になってからも咲月はコンビニに頼り切りなのに。 咲月の能天気な答えに、羽柴はふっと小さく鼻で笑っていた。そして少し考えていたみたいだが優しく微笑み返す。「そうか、咲月ちゃんはそういうのに興味があるんだね。じゃあ今度、とっておきの店に連れていってあげる」「え……?」「君と一緒に行きたいとずっと思ってる店があるんだよ」 羽柴がさらっと口にした言葉に、咲月は思わず窓際のデスクを振り返り見る。「それとも、俺のお勧めでは物足りない、かな?」「あ、いえ、そんなことは……」 大きなモニターで隠れた羽柴の顔が、今どういう表情をしていたのかまでは見えなかった。ただその言い方がとても社交辞令とは思えなくて、しかもさりげない色気を帯びていて、咲月の胸はドキッとした。 ――今のは、会社のみんなで行くってこと、だよね……? 子ども扱いされるのに慣れてしまっているせいか、上司の真意が読み取れない。余計な勘違いをして恥をかくのも嫌だと、咲月はわざと無邪気に笑って応えた。このオフィスで一番年下なのだから、多少は頭の弱いふりしても許して貰えるだろう。この場はキャラに無いぶりっ子声で誤魔化してしまうのが一番に思えた。 自分のデスクに戻って椅子に座りながら、あくま

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十四話

    「二人はそんなに仲が良かったっけ?」 咲月達が社長室の応接ソファーで作業していると、羽柴が二人の関係性が少し変わったように感じると首を傾げている。あくまでも同じ会社に勤務しているだけで、必要以上の会話は一切しない。確かについさっきまでの咲月と笠井はそうだった。けれど、飯塚というネタに出来る第三者が現れたことで、仕事以外の会話ができたのは大きい。咲月も笠井の人間的な部分が見れて、ちょっと親しみが湧いてきていた。「泉川さんとは歳が離れてますけど、意外と話が合うかもって思ったところかしら」「笠井さんのお話、ものすごく興味深かったです」 会話の内容は決して教えられないけれどと、咲月達は顔を見合わせてクスクスと笑う。まさか自分のことを噂されてたとは思っていないらしく、羽柴は優しい目で二人の様子を伺っている。女性同士なのになかなか打ち解けないでいたことを、上司としてずっと気にしていたのかもしれない。 咲月のデスクを移動させたのも、もしかするとスタッフ間の関係を考慮してのことだったんだろうか? 和やかな雰囲気の中、笠井が思い出したように咲月へ提案してくる。「そうだわ、来週の火曜のランチに泉川さんも参加してみる? ちょうど一人、都合がつかなくなったのよ。いろんな業界の人が来るから、勉強になることも多いと思うんだけれど」 笠井が定期的に他の会社に勤める友達と待ち合わせて、ランチ会をしているのは咲月も知っていた。ちょっとした交流会だと聞いていたから、目を輝かせて頷き返そうとしたが、咲月が反応するより前に羽柴が椅子から立ち上がって止めに入ってくる。「それだけはダメだよ。笠井さん、そういうのに咲月ちゃんを誘うのやめて下さい」 勢いよく立ち上がったせいで、羽柴のデスクから落ちたボールペンがコロコロと床を転がっていく。それを慌てて拾い上げながら、羽柴がハァと呆れ顔で溜め息を吐く。「休憩時間中の行動には口を挟むつもりはないけれど、笠井さんのランチ会は咲月ちゃんには……」「あら、社長は彼女のこと、いくつだと思ってるんですか?」「いや、ほら……泉川先

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十三話

     思わぬ話を聞かされた後、笠井は何事も無かったかのように、本当に新しい仕事の指示を咲月へとしてくる。ただの出まかせではなく、実際に咲月へ教えるつもりだった作業があったらしい。最近になってから、新しい仕事を沢山任せて貰えるようになった。今まで笠井が一人でこなして来たものを新米事務スタッフである咲月に教え込むということそれは何を意味するのか――。 咲月はハッとして、声を上げる。「笠井さん、もしかして辞めちゃうんですか?!」 ほぼ毎日のように出掛けて行くランチデートの相手と、結婚が決まったってことだろうか? それとも、いろいろすっ飛ばしてご懐妊?! 咲月は不安気な顔で向かいのソファーに座る先輩を見上げる。 笠井はいきなりの質問に、目をギョッと剥いて、動揺からか手に持っていたファイルを床に落としていた。「な、な、な……っ?!」「だって、今まで笠井さんがやってこられた仕事まで私がするってことは、つまり――」「いいから、泉川さん。落ち着いてちょうだい……」 ようやく仲良くなりかけたと思ったら、退職を決めた後だったなんてと、咲月はショックで続きが言葉にならない。気難しい先輩だとは思っていたけれど、別に笠井のことは嫌いじゃない。むしろ唯一の同性の同僚なのだから、もっといろんなことを教えて貰いたいと思っていたくらいなのに。 ――そうだ、私の悪いジンクスって、バイトに関してだけじゃなかったんだった……。 仲良しの友達が引っ越しして居なくなってしまうことは、一度や二度じゃない。特に親の仕事の都合で引っ越しを余儀なくされる小中学生の時は、覚えているだけでも四人の友達とお別れすることになった。習い事も同じで、同じ中学に行こうねと約束し合った同級生は、親の教育方針で私立を受験して、以降は会ってもいない。気になっていた人とようやく親しくなれたと思った時は、すぐ後にお別れが待っている。 運命はいつも、咲月から何もかもを取り上げていく。「咲月ちゃん、それは違うよ」 落ち込んでしまった咲月へと最初に声を掛けてきたのは、自分のデス

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十二話

    「別にそういうのがダメって訳じゃないと思うのよ、私だって。外堀を埋めてくのも駆け引きの一つなんだから」 SNSの話に完全にドン引き気味の咲月へ、笠井が気を使ってフォローする。互いに明言してなくて周りが勝手にはやし立ててるだけだから、そんなつもりは無かったと後で言えば済む話。傍に居る時間が多ければ、それだけ周りから一歩リードできる、ってことだろうか。あるいは、勢いで既成事実を作るチャンスがあると狙ってなのか。大人の恋愛は複雑だ。「でもあの人、別のデザイナーから言い寄られて気持ちが揺れちゃったのよね」「そんなに必死だったのに、ですか?」 咲月が身を乗り出して聞き返すと、笠井はかなり嬉しそうに笑っていた。多分、一緒に働くようになってから咲月へ向けられた笑顔の中では一番だ。いつも咲月には愛想笑いもしてくれないから、ちょっと嬉しかった。 咲月の反応に、笠井は「そうなのよー」とノリノリで話しを続ける。人の悪口で親睦を深めるのはどうかと思ったけれど、相手は別のオフィスの人だし、何より先輩とようやく仲良くなれそうだったからと、咲月は頭を上下に振って続きを促した。「七瀬さんって言うんだけど、その人も同期でね、羽柴さんのライバル的存在っていうのかしら。顔もまあ、それなりだったわ」「七瀬さん……飯塚さんの旦那様ってことですか? さっき、あの女の人のことを今は七瀬さんだっておっしゃってたし」「そう、最終的にはあの人、羽柴さんとは別のデザイナーの方を選んじゃったのよね。その直後のコンペで七瀬さんのデザインに決まったからって。彼の方が有望で将来性があるとでも思ったのよね、きっと」「じゃあ、社長は勝手に振られた形になっちゃってるんだ……なんか、可哀想」 付き合っているという噂のあった女性が、他の人と婚約したら同情の目は全て羽柴へと集中する。元々交際すらしていないと否定しても、飯塚の露骨な匂わせのせいで言い訳にしか聞こえない。羽柴からしたら、いい迷惑だ。「そのタイミングで羽柴さんがオフィスを独立することになったの。ううん、とっくの前から決まってたことらしいんだけど。でも、あの女の悔し

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十一話

    「相変わらず、笠井さんはスタイルが良くて羨ましいわー。今もヨガ教室は続けてるの? 最近ちょっと食べ過ぎちゃって、私も少しは運動しなきゃって思ってるの」「そんなぁ、飯塚さんは元が細いから、まだ気にしなくて大丈夫よー」 互いに親し気な言葉を掛け合っている割に、あまり仲良しに見えないのは彼女達の会話の大半に心が籠っているように思えないからだ。いわゆる社交辞令ってやつだからだろうか。それでも笠井達は終始笑顔で、お互いを褒めちぎり合っていた。電話打ち合わせ中だった羽柴が社長室を出てくるまでそれは続きそうで、横で聞いていた三上のうんざり顔がパソコンモニターの後ろでチラチラと見え隠れしていた。 壁面の棚から予備の付箋と修正液を探し出すと、咲月はそっとその場を離れかける。が、笠井の後ろを通り過ぎようとした時、ピンクベージュのネイルをした指がなぜか咲月の腕をぐっと掴んできた。「……?!」 驚いて立ち止まった咲月は、自分の腕を引っ張っている笠井の顔を振り返り見る。事務の先輩はすぐには何も言わず、口角をきゅっと上げた顔を見せてくるが、その目は全然笑っていない。何だか妙な威圧感に、「なんですか?」と聞くに聞けない雰囲気だ。「泉川さんに手伝って貰いたい仕事があるんだけど、今って急ぎで抱えてる作業はある?」「あ、いえ、今は特に……」 午前にやっていた資料のファイリングの続きが残っているけれど、別に期限のある作業じゃない。それをそう伝えると、笠井はくるりと身体を回転させて飯塚と呼んでいた客へ向けて、少し残念そうな表情を作ってみせる。「とってもお久しぶりだから、もっとゆっくりお話ししていたかったんだけど、今は新人への指導もしなきゃだし、あまり余裕が無いのよねー。羽柴ももうすぐ出てくると思いますし、それまであちらでお待ちいただけます?」 パーテンションに仕切られた、商談スペースを指し示しながら、笠井は「バタバタしてて、申し訳ないわぁ」と飯塚へ声を掛けていた。言われた客の方も、「忙しい時にごめんなさいねぇ」とお詫びの台詞を口にしていたが、その表情は何だか釈然としていない。急に改まって客扱いさ

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第三十話

     羽柴から返して貰ったばかりのマスコットを、咲月は両手にそっと包み込んだ。子供っぽいと笑われてもおかしくはない、元は幼児向けに作った手芸作品。プレゼントした園児達は喜んでくれているみたいだったけれど、とっくに成人した咲月には似合わないはずだ。なのに……。 お気に入りなんだけど、これを外で持ち歩くことにはコンプレックスというか後ろめたさもあった。人には見せないようにしていた、自分だけの秘密。きっと、母が見たら「いい歳して何やってるのよ、情けないわ」と大きな溜め息を吐かれてしまうだろう。 それを羽柴は馬鹿にするどころか、「いいね」と言ってくれた。そして、咲月が作ったマスコットからインスピレーションを得たと言って、とても喜んでくれた。きっと彼ほどのデザイナーなら、他の題材があっても素敵なデザインを生み出すことができるだろうが、それに咲月の猫を選んでくれたことが素直に嬉しかった。 ――羽柴社長の魔法の手にかかったら、何でも素敵なロゴに変身しちゃうんだ。 本当は言葉にして本人へ伝えようと思ったが、すんでのところでぐっと飲み込む。魔法とか、どれだけ子供発言なんだろう。発想が幼稚過ぎて、これではますます大人の女性像が遠ざかっていく。 けれどもう一度、咲月はパソコンのモニターに表示されている羽柴のデザイン画を眺める。顔や髭も何も描かれていないのに、それだけで猫だと分かる曲線。そして、緑とオレンジの比率が妙に洗練された配色。同じ物を見て、このデザインへ辿り着くことができるのは世界で彼一人なのだ。 マジマジと食い入るようにロゴのデザイン画を見ている咲月のことを、羽柴は自分のデスクから優しい表情を浮かべながら眺めていた。 そして、何かを思いついたかのように、羽柴がデッサン用のノートの上にペンを走らせる。カリカリという筆音が社長室の中に響き始めて、モニターから顔を上げた咲月は、口の端を少し上げて真剣な目で紙面に向かう羽柴に気付く。部下に見られていることを物ともせず、描くことに没頭している男の顔は、仕事に集中しているというよりはむしろ、楽しい遊びに夢中になっている子供のようだと思った。 羽柴智樹という人にとって、何かをデザインして形作ってい

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