卵料理と肉類ばかりを乗せた皿を抱えて、咲月は空いていた椅子に腰を下ろす。壁に沿って10脚並べられている椅子には、地元の名士といった風情の白髪のお爺さんとその昔からの知り合いという感じの老人の二人が座っているだけ。料理もあんなに沢山用意されているのに、手を付ける人がほとんどいないのが信じられない。デザートをリクエストしたという女性スタッフ達ですら、来賓客との会話で忙しく、手に持つグラスに軽く口を付けるのが精一杯という感じだ。
――社会人って、大変だ……。
パーティーですら仕事になってしまうのだ、ちっとも楽しそうじゃない。あとでスタッフだけで打ち上げがあるとは聞いているけれど、きっとその頃には料理は冷めてしまって美味しさは半減しているだろう。
ローストビーフをフォークで折り畳んでから突き刺すと、それを一口で頬張ってみる。何だか味に物足りなさを感じるのは、別に用意されていたソースを付け忘れたからだ。今更取りにいくのも面倒だし、代わりにサラダに掛けたドレッシングを付けた。まあ、何も付けないよりはマシだ。
咲月が一人で黙々と食事を続けている時、隣の椅子に誰かが座った気配がした。周りが皆、新しい繋がりを求めて必死で営業に回っている中、学生と一緒に壁の華で収まるなんて、やる気の無い大人もいるんだと、興味本位でちらりと隣へ視線を動かしてみる。
露骨に顔を覗き込む訳にはいかないが、咲月の目には隣の席からはみ出して来ている長い脚が確認できた。男物の黒色の革靴に、黒のスラックス――否、よく見てみると黒色の生地には光沢のある濃いグレーのストライプが入っている。一言で黒いスーツと言っても、就活中に同級生が着ていたのとは全く違う、大人の黒スーツだ。
「君の悪いジンクスは、正規入社でも発動するのかな?」
たまたま隣に座って来ただけと思っていた男から、急に声を掛けられる。驚いて顔を見上げた咲月の目に、さっきの黒のスリーピース男が足と腕を組みながら何やら考えている姿が飛び込んでくる。
「いや、試してみるのも悪くないなと思ってね。泉川先生にはこの先もお世話になるつもりだし」
「……学生なので、まだバイトでしか働いたことないから、その辺りは分からないです。でも、やめといた方がいいと思いますよ」まだそのネタを引っ張ってくるのかと、咲月はうんざり顔で答える。縁起の悪い子扱いには慣れている。けれど、初対面の相手にしつこく言われ続けるのは嫌な気しかしない。必要以上に絡んで来ないでと、皿の上の料理を急いで口へ放り込んでいく。
「女の子が一人入っただけでダメになるなら、誰が入って来たっていずれは消える会社だよ」
「まあ、そうだと思いますけど」 「丁度今、スタッフを募集しようと思ってたところでね。あ、これ、俺の名刺。来週月曜、朝9時に履歴書を持って来て」ジャケットの胸ポケットからブラウンの革製名刺入れを出し、中から一枚抜き取って目の前に差し出してくる。咲月はすでに空になった皿とフォークを慌てて隣の空いている椅子の上へ置いて、それを丁寧に両手で受け取った。就活の為に何度も練習したせいで、名刺を見たら思わず反射的に手を出してしまった……。
受け取ったからと言って承諾したつもりはないと、急いで訂正したくて隣の席を振り返ってみるが、男は他の客から声を掛けられて立ち上がり、すでにフロアの中央へと移動した後だ。
受け取ってしまった名刺の表には『H.D.O 代表兼デザイナー 羽柴智樹』とだけが曲線の多いお洒落なフォントで記載され、裏面には会社のホームページへのQRコード。住所や電話番号が書かれていないのはホームページを見ろということなのか。デザイン性重視の名刺はいちいち手間がかかる。こちらの意志も確認せずの一方的な面接の約束。何から何まで全てに納得がいかない。そもそもが酔っ払った敦子の戯言が発端なのだ。面接なんか行ってやるものかと思っていた咲月だったが、日曜の夜にスマホへかかってきた電話でそういう訳にもいかなくなった。
「新聞にも載ってたって聞いて、お母さん驚いたわよ! なんですぐに言わないの、内定いただいてた会社が倒産しちゃったんでしょう? それで4月からどうするつもりなの? 卒業しても働くところが見つからないんなら、もう帰って来なさい。お父さんの事務所のお手伝いでも何でもすればいいから――」
通話ボタンに触れた途端、母親からの怒涛の小言。敦子にはしばらく内緒にしてとお願いしていたのに、近所の人が新聞に掲載されていた小さな記事を見つけてしまったらしい。「これ、咲月ちゃんが就職するって言ってた会社じゃなかった?」と言われて、母は玄関前で卒倒しかけたのだという。
「大丈夫だって。明日は別の会社で面接受けることになってるんだ。敦子叔母さんの知り合いだし、そこの社長さんからもおいでって言って貰ってるの。正式に決まった時はちゃんと連絡するね」
母親からのあまりの勢いに、咲月は思わず口から出まかせを言ってしまった。そうでも言わないと、すぐに引っ越し屋の手配をされてしまいそうな雰囲気だったのだから仕方ない。
じゃあね、と有無を言わさず終話ボタンを押した後、ふぅっと長い溜め息を吐く。今更どんな顔をして実家へ戻れと言うんだろう。しかも、父親の事務所に勤めるなんて、親のすねをかじり続けるのもいいところだ。というか、また悪いジンクスが発動して父の事務所まで潰れてしまったら困る。
翌朝、ホームページで案内されていた住所を頼りに、咲月は羽柴のオフィスを訪ねていた。15階建ての分譲マンションの1階の路面テナント。全面がガラス張りなのに外から中の様子が何も見えないのは、特殊な窓ガラスを使用しているんだろうか。
社名の入ったプレートが貼られたドアを押し開けると、ふんわりと甘い花の香りが漂ってくる。見ると目の前のカウンターの上にも下にも、ずらりと鉢植えの胡蝶蘭が並べられている。鉢の中に立てられた札によると、何かのデザイン賞を受賞したお祝いみたいだ。
――あれ……もしかすると、ここって何かすごい事務所だったりする?
パーテーションで目隠しされていて様子は見えないが、部屋の奥からは声が聞こえている。けれど、待っていても誰もカウンターへ出て来る気配がない。咲月はそっとパーテーションの横から顔を覗かせてみる。
と、すぐ手前のデスクでパソコンを操作しながら電話していた男性と目が合い、相手が慌て始める。特に重要な通話でもなかったのか、男性はすぐに電話を切ってから咲月の方へ駆け寄った。「え、あー……申し訳ありません。ここのところセンサーの調子が悪いとは思ってたんですが、完全に電池切れしてしまったみたいで――」
「あの、9時に伺うよう言われてました、泉川と申します」 「は、はい。伺っております。どうぞ、こちらへ」インディゴブルーのデニムに黒のジャケット、中には丸首のTシャツ。銀縁の眼鏡もレンズは真ん丸で、咲月よりも長い髪を後ろで一つに束ねている。少し独特の雰囲気を持った彼はデザイナーなんだろうか。間違っても事務や営業職には見えない。
外からは分かりにくかったが、オフィスの中は意外と広さがあるようで、路面のガラス張りのスペース以外にも奥に部屋があるみたいだ。そのドアの一つをノックしてから咲月に中へ入るよう勧めると、案内してくれた男性は入口カウンターの方へと戻っていった。さっき言っていた、電池切れのセンサーを直すつもりなんだろう。
「失礼します」
言いながら部屋の中へと目を向ける。奥にある窓以外の壁を天井近くまである棚に囲まれた室内。ぎっしりとファイルや資料、書籍、立体模型などが詰め込まれていて、地震が来た時には絶対にここには近寄りたくはない。
その唯一ある窓際の壁を背にして、羽柴はデスクの上のパソコンを操作していた。最寄り駅前の銀行ATMで、泉川咲月は通帳を片手に茫然と立ち尽くしていた。今まさに記帳したばかりの自分名義の銀行口座。その残高の数字が、予定していたよりも全然少ないのだ。 ――え、え、えっ?! なんで、なんでぇ……?! 後ろに並ぶ老婦人から急かすように咳き込まれて、慌ててATMの機械前から離れる。人の列の邪魔にならないよう壁際に移動して、もう一度通帳をこっそり開いて確認する。 ――バイト代が、振り込まれてないっ?! え、今日って26日だよね……?! 毎月25日に支払われるはずのアルバイト料。今月は日曜だったから、前倒しで23日の金曜には振り込まれているはずだった。確認する為にスマホのホーム画面を覗いてみるが、間違いなく今日の日付は26日の月曜日と表示されている。 週末は手持ちがまだあったからと、余裕を見たつもりで銀行を訪れてきた。なのにまだ、バイト代が入っていないのは何故だ? 入っていると思っていたはずのものは無いけれど、光熱費もスマホ料金もちゃっかりと引き落としは済んでいる。出る一方で入金はゼロだ。おかげで口座内に残されている預金残高は完全にスズメの涙。これから飲みに行くなんて調子に乗ったことをしたら、来月には消費者金融のお世話になってもおかしくはない。 大学生活4年目。去年まではそれなりにバイトを頑張って貯金していたつもりだった。別にブランド物には興味は無いし、旅行も海外よりも国内のパワースポット巡りの方が性に合う。 自他共に認める安上がりな女。なのに、どうしてここまでギリギリでやっているのかは、いつまで経っても終わらなかった就職活動のせい。おかげでシフトに入れる日数が極端に減ってしまっていた。この一年は少ない稼ぎと貯金を切り崩して頑張ってきたつもりだった。 勿論、実家からの仕送りはあるにはあるけれど、それは家賃と光熱費できれいさっぱり消えてしまう。それ以外の生活費くらい自分で何とかするよと啖呵切ってしまった過去の自分が恨めしい。 半ば諦めモードになりつつも、銀行の建物の外に出てから、咲月はスマホに登録しているバイト先の電話番号を呼び出す。「お電話ありがとうございます、パテル東町店です」 咲月も聞き慣れている、おっとりとした中年女性の声。古参のパート勤務の中谷で、小学生の男の子二人のママだ。平日のバイトリーダー的存在でもあり、入ったば
1月末。早くも3月にある卒業式に向けて、周囲の同級生達は当日はスーツにするか袴を着るか、どこの美容室を予約したかと浮かれていた。中には卒論の提出が間に合いそうもないと、図書館やコンピュータルームにまだ通い詰めている人もいたが、それはそれで平和な光景とも言える。 少なくとも周りの皆の行動は、大学を出た後の進路がちゃんと決まっている前提なのだ。卒業旅行だって、就職や進学先が確定しているからこそ行ける。 就職課の専用ボードを見上げながら、咲月は長く深い溜め息を吐く。学生向けの求人情報は、既に半数以上が来年度の卒業生向けの物に張り替えられて、この4月入社の案件は数えるほどしかない。まだ新卒なはずが、ここではすでに第二新卒扱いだ。就職課の窓口で相談したら、思い切り同情の目を向けられてしまった。 ――職安とかに行った方が良さそうかな……。 通学用トートバッグの中には本屋で買い込んで来たばかりの求人情報誌が三冊入っている。就職課の窓口で渡された紙の束と合わせて、その重みがずっしりと肩へと食い込んでくる。 規定の給料日は守られなかったが、一週間遅れでもちゃんと支払われたバイト代に一抹の望みをかけていた。中谷の言っていた「大丈夫」の言葉を素直に信じて、一昨日の夕方には久しぶりに入っていたシフトに合わせてバイトへ行く準備していた。 と、アドレス登録はしていなかったが、見たことあるような無いような固定電話の番号がスマホの液晶に表示された。不審な表情を浮かべながらも、咲月は通話ボタンに触れる。「……もしもし?」 「あ、泉川さん? お疲れ様、大槻です」 「ああ、店長。お疲れ様です」 バイト先であるパテル東町店の店長からだ。どうりで見たことあると思ったら、本社からの直通番号だった。「確か、今日ってシフト入ってたよね……?」 「はい」と短く返事する咲月に、電話の向こうの大槻が言いにくそうに言葉を選んで話し始める。店長から電話が掛かって来たこの時点で、嫌な予感しかなかった。「実はさ、火野川の店で食中毒が出ちゃってね、保健所の指示でしばらくは全店休業しなきゃならなくてさ。工場内の検査とかいろいろあって、製造も完全ストップすることになって」 「えっ、じゃあ、しばらくバイト無しですか? それって、いつまで……?」 「うん、そうだな……いつまでになるんだろうねぇ」 大
前日に叔母から念を押すように送られてきた、店と時間の連絡メッセージ。事務所設立15年を祝うパーティーは、石畳が敷き詰められた歩道に面した小さなレストランで開催される。結婚式の二次会でも重宝されそうな雰囲気の良い店。それを当日は夕方から貸し切りにするらしい。 よく手入れされた鉢植えが店の前に並び、レンガ造り風の壁面にブラウンの屋根。遠目からはその一角だけがまるで童話の世界から抜け出してきたような、メルヘンチックな外観。控えめなベルの音を鳴らすドアを押し開けてみると、入口のすぐ前に控えていた男性がニコリと微笑みながら声を掛けてくる。「咲月ちゃん、いらっしゃい」 「あ、立石さん。お久しぶりです」 「本当だ、久しぶり。今年に入ってからは初めてか、今年もよろしく。敦子さん、今は外にお客様の出迎えに行ってるんだけど、すぐ戻ってくると思うよ。あ、コートはこっちで預かるね」 事務所の事務スタッフでもあり、叔母の事実婚の相手でもある立石は、流れるように咲月のことをエスコートしてくれる。物腰も柔らかで落ち着いてみえるが、敦子よりも一回り年下の30歳。叔母とは25歳の頃から一緒にいるのだから、元々から年上の女性が好きなのだろう。年下の咲月のことなんて眼中に無いという感じだ。「敦子さんが戻ってきたら始まると思うから、それまではドリンクでも飲んでて。あ、もうお酒は飲める歳だったっけ?」 立石の言葉に咲月が小さく頷き返したのを確かめると、ドリンクコーナーに並んだ飲み物から綺麗なピンク色の液体の入ったカクテルグラスを差し出してくる。「ストロベリーフィズでいいかな? ご飯食べる前だから、一気に飲んじゃダメだよ」 年下だからと完全に子ども扱い。きっとこういうところが、敦子が年齢を気にせずに彼と一緒に居られるんだといつも思う。立石にとって若い女の子というのは、全く恋愛対象にはならず、いつまで経っても子供にしか見えないのだ。 以前に食事に来た時は等間隔で並んでいたテーブルと椅子は、今日の為に大きく配置を変えている。壁際にはビュッフェ形式で料理が並べられ、大きなフラワーアレンジメントで飾られたフロア中央のテーブルにはドリンクとデザートが乗っている。ゆっくり食事を楽しみたい人の為に椅子席もいくつか用意はされているが、基本的には立食スタイルみたいだ。 立石がスタンバイしていた入口ド
卵料理と肉類ばかりを乗せた皿を抱えて、咲月は空いていた椅子に腰を下ろす。壁に沿って10脚並べられている椅子には、地元の名士といった風情の白髪のお爺さんとその昔からの知り合いという感じの老人の二人が座っているだけ。料理もあんなに沢山用意されているのに、手を付ける人がほとんどいないのが信じられない。デザートをリクエストしたという女性スタッフ達ですら、来賓客との会話で忙しく、手に持つグラスに軽く口を付けるのが精一杯という感じだ。 ――社会人って、大変だ……。 パーティーですら仕事になってしまうのだ、ちっとも楽しそうじゃない。あとでスタッフだけで打ち上げがあるとは聞いているけれど、きっとその頃には料理は冷めてしまって美味しさは半減しているだろう。 ローストビーフをフォークで折り畳んでから突き刺すと、それを一口で頬張ってみる。何だか味に物足りなさを感じるのは、別に用意されていたソースを付け忘れたからだ。今更取りにいくのも面倒だし、代わりにサラダに掛けたドレッシングを付けた。まあ、何も付けないよりはマシだ。 咲月が一人で黙々と食事を続けている時、隣の椅子に誰かが座った気配がした。周りが皆、新しい繋がりを求めて必死で営業に回っている中、学生と一緒に壁の華で収まるなんて、やる気の無い大人もいるんだと、興味本位でちらりと隣へ視線を動かしてみる。 露骨に顔を覗き込む訳にはいかないが、咲月の目には隣の席からはみ出して来ている長い脚が確認できた。男物の黒色の革靴に、黒のスラックス――否、よく見てみると黒色の生地には光沢のある濃いグレーのストライプが入っている。一言で黒いスーツと言っても、就活中に同級生が着ていたのとは全く違う、大人の黒スーツだ。「君の悪いジンクスは、正規入社でも発動するのかな?」 たまたま隣に座って来ただけと思っていた男から、急に声を掛けられる。驚いて顔を見上げた咲月の目に、さっきの黒のスリーピース男が足と腕を組みながら何やら考えている姿が飛び込んでくる。「いや、試してみるのも悪くないなと思ってね。泉川先生にはこの先もお世話になるつもりだし」 「……学生なので、まだバイトでしか働いたことないから、その辺りは分からないです。でも、や
前日に叔母から念を押すように送られてきた、店と時間の連絡メッセージ。事務所設立15年を祝うパーティーは、石畳が敷き詰められた歩道に面した小さなレストランで開催される。結婚式の二次会でも重宝されそうな雰囲気の良い店。それを当日は夕方から貸し切りにするらしい。 よく手入れされた鉢植えが店の前に並び、レンガ造り風の壁面にブラウンの屋根。遠目からはその一角だけがまるで童話の世界から抜け出してきたような、メルヘンチックな外観。控えめなベルの音を鳴らすドアを押し開けてみると、入口のすぐ前に控えていた男性がニコリと微笑みながら声を掛けてくる。「咲月ちゃん、いらっしゃい」 「あ、立石さん。お久しぶりです」 「本当だ、久しぶり。今年に入ってからは初めてか、今年もよろしく。敦子さん、今は外にお客様の出迎えに行ってるんだけど、すぐ戻ってくると思うよ。あ、コートはこっちで預かるね」 事務所の事務スタッフでもあり、叔母の事実婚の相手でもある立石は、流れるように咲月のことをエスコートしてくれる。物腰も柔らかで落ち着いてみえるが、敦子よりも一回り年下の30歳。叔母とは25歳の頃から一緒にいるのだから、元々から年上の女性が好きなのだろう。年下の咲月のことなんて眼中に無いという感じだ。「敦子さんが戻ってきたら始まると思うから、それまではドリンクでも飲んでて。あ、もうお酒は飲める歳だったっけ?」 立石の言葉に咲月が小さく頷き返したのを確かめると、ドリンクコーナーに並んだ飲み物から綺麗なピンク色の液体の入ったカクテルグラスを差し出してくる。「ストロベリーフィズでいいかな? ご飯食べる前だから、一気に飲んじゃダメだよ」 年下だからと完全に子ども扱い。きっとこういうところが、敦子が年齢を気にせずに彼と一緒に居られるんだといつも思う。立石にとって若い女の子というのは、全く恋愛対象にはならず、いつまで経っても子供にしか見えないのだ。 以前に食事に来た時は等間隔で並んでいたテーブルと椅子は、今日の為に大きく配置を変えている。壁際にはビュッフェ形式で料理が並べられ、大きなフラワーアレンジメントで飾られたフロア中央のテーブルにはドリンクとデザートが乗っている。ゆっくり食事を楽しみたい人の為に椅子席もいくつか用意はされているが、基本的には立食スタイルみたいだ。 立石がスタンバイしていた入口ド
1月末。早くも3月にある卒業式に向けて、周囲の同級生達は当日はスーツにするか袴を着るか、どこの美容室を予約したかと浮かれていた。中には卒論の提出が間に合いそうもないと、図書館やコンピュータルームにまだ通い詰めている人もいたが、それはそれで平和な光景とも言える。 少なくとも周りの皆の行動は、大学を出た後の進路がちゃんと決まっている前提なのだ。卒業旅行だって、就職や進学先が確定しているからこそ行ける。 就職課の専用ボードを見上げながら、咲月は長く深い溜め息を吐く。学生向けの求人情報は、既に半数以上が来年度の卒業生向けの物に張り替えられて、この4月入社の案件は数えるほどしかない。まだ新卒なはずが、ここではすでに第二新卒扱いだ。就職課の窓口で相談したら、思い切り同情の目を向けられてしまった。 ――職安とかに行った方が良さそうかな……。 通学用トートバッグの中には本屋で買い込んで来たばかりの求人情報誌が三冊入っている。就職課の窓口で渡された紙の束と合わせて、その重みがずっしりと肩へと食い込んでくる。 規定の給料日は守られなかったが、一週間遅れでもちゃんと支払われたバイト代に一抹の望みをかけていた。中谷の言っていた「大丈夫」の言葉を素直に信じて、一昨日の夕方には久しぶりに入っていたシフトに合わせてバイトへ行く準備していた。 と、アドレス登録はしていなかったが、見たことあるような無いような固定電話の番号がスマホの液晶に表示された。不審な表情を浮かべながらも、咲月は通話ボタンに触れる。「……もしもし?」 「あ、泉川さん? お疲れ様、大槻です」 「ああ、店長。お疲れ様です」 バイト先であるパテル東町店の店長からだ。どうりで見たことあると思ったら、本社からの直通番号だった。「確か、今日ってシフト入ってたよね……?」 「はい」と短く返事する咲月に、電話の向こうの大槻が言いにくそうに言葉を選んで話し始める。店長から電話が掛かって来たこの時点で、嫌な予感しかなかった。「実はさ、火野川の店で食中毒が出ちゃってね、保健所の指示でしばらくは全店休業しなきゃならなくてさ。工場内の検査とかいろいろあって、製造も完全ストップすることになって」 「えっ、じゃあ、しばらくバイト無しですか? それって、いつまで……?」 「うん、そうだな……いつまでになるんだろうねぇ」 大
最寄り駅前の銀行ATMで、泉川咲月は通帳を片手に茫然と立ち尽くしていた。今まさに記帳したばかりの自分名義の銀行口座。その残高の数字が、予定していたよりも全然少ないのだ。 ――え、え、えっ?! なんで、なんでぇ……?! 後ろに並ぶ老婦人から急かすように咳き込まれて、慌ててATMの機械前から離れる。人の列の邪魔にならないよう壁際に移動して、もう一度通帳をこっそり開いて確認する。 ――バイト代が、振り込まれてないっ?! え、今日って26日だよね……?! 毎月25日に支払われるはずのアルバイト料。今月は日曜だったから、前倒しで23日の金曜には振り込まれているはずだった。確認する為にスマホのホーム画面を覗いてみるが、間違いなく今日の日付は26日の月曜日と表示されている。 週末は手持ちがまだあったからと、余裕を見たつもりで銀行を訪れてきた。なのにまだ、バイト代が入っていないのは何故だ? 入っていると思っていたはずのものは無いけれど、光熱費もスマホ料金もちゃっかりと引き落としは済んでいる。出る一方で入金はゼロだ。おかげで口座内に残されている預金残高は完全にスズメの涙。これから飲みに行くなんて調子に乗ったことをしたら、来月には消費者金融のお世話になってもおかしくはない。 大学生活4年目。去年まではそれなりにバイトを頑張って貯金していたつもりだった。別にブランド物には興味は無いし、旅行も海外よりも国内のパワースポット巡りの方が性に合う。 自他共に認める安上がりな女。なのに、どうしてここまでギリギリでやっているのかは、いつまで経っても終わらなかった就職活動のせい。おかげでシフトに入れる日数が極端に減ってしまっていた。この一年は少ない稼ぎと貯金を切り崩して頑張ってきたつもりだった。 勿論、実家からの仕送りはあるにはあるけれど、それは家賃と光熱費できれいさっぱり消えてしまう。それ以外の生活費くらい自分で何とかするよと啖呵切ってしまった過去の自分が恨めしい。 半ば諦めモードになりつつも、銀行の建物の外に出てから、咲月はスマホに登録しているバイト先の電話番号を呼び出す。「お電話ありがとうございます、パテル東町店です」 咲月も聞き慣れている、おっとりとした中年女性の声。古参のパート勤務の中谷で、小学生の男の子二人のママだ。平日のバイトリーダー的存在でもあり、入ったば