紗雪は何食わぬ顔で視線を上げ、店の外にいる男に気づいた。キャップを深くかぶり、マスクで顔を隠しているが、じっと彼女と清那を見つめている。どこかで見たことがある気がする......まさか加津也?じっくり目を凝らすと、間違いない。コソコソと様子を窺っているこの男は、まさしく加津也だった。紗雪は思わず眉をひそめた。こいつ、この前捕まったばかりじゃなかった?出てきたばかりなのに、また私にちょっかいを出すつもり?とはいえ、さすがに堂々と何か仕掛けるほどの度胸はないだろう。紗雪はそれ以上気にするのをやめ、「ねえ、向かいのワンピース見た?Aブランドの新作だけど、絶対清那に似合うよ!」と清那に話を振った。Aブランドの熱狂的なファンである清那は、その一言に目を輝かせ、「本当?見に行かなきゃ!」と、さっそく紗雪の手を引いて向かった。さっきまで「京弥にネクタイを買おう!」とはしゃいでいたのに、すっかり忘れてしまったらしい。紗雪は密かに安堵する。正直、京弥にネクタイを買いたくなかった。もし買って帰ったら、清那はきっと「ネクタイを贈るのは『あなたを一生自分のそばに留めたい』って意味なのよ」と京弥に吹き込むに違いない。そんなことになれば、「身代わりのくせに、妻の座に収まろうとしてるのか?」彼にそう嘲笑される未来が目に浮かぶ。この考えがよぎると、胸の奥がチクリと痛んだ。紗雪は無理やりコーヒーを一口飲み、冷静さを取り戻そうとする。ふと清那に目をやると、彼女はワンピース選びに夢中で、紗雪の変化には気づいていないようだった。それを確認し、そっと息をつく。再び外を見ると、もう加津也の姿はなかった。ただの偶然?だが、この小さな出来事を深く気にすることなく、紗雪は清那と一緒にショッピングを続けた。2時間後。両手いっぱいの戦利品を抱えた二人は、レストランに入りランチをとることにした。清那は満足げに息をつく。「はぁ~、買い物って最高のストレス解消よね!」「でも、紗雪はほとんど何も買ってないじゃない。買ってたの、私ばっかりじゃなの」紗雪はくすりと笑い、「何食べる?」とメニューを差し出した。清那はひらひらと手を振り、「何でもいいわ、私の好み分かってるでしょ」と言いながら、バッグからスマホを取り出す。「せっかく
紗雪の対処法は至ってシンプルだった。事実を突きつけ、流言を粉砕することだ。彼女はすぐにショッピングモールの管理者を見つけ、事件発生時の監視カメラの映像を入手。その映像をそのままネットに投稿した。映像には、紗雪と男がただの偶然の接触でぶつかった様子が映っていた。男は反射的に紗雪を支えたものの、二人の間には言葉すら交わされていない。ただの通行人同士の些細な衝突に過ぎなかった。ネット上の風向きは一瞬で変わり、デマを流したアカウントは炎上。罵倒され、謝罪に追い込まれた挙句、アカウントを削除する羽目になった。だが、紗雪にとってこれで終わりではない。彼女はこの件の黒幕を突き止めるつもりだった。「ほらこいつ、やたらコソコソしてたよ」清那は監視カメラの映像を指し示した。画面の隅に、バケットハットとマスクをした男の姿が映っている。「まるでパパラッチね。ただ、正面の顔が映ってないのが残念ね。顔さえわかれば、警察に突き出して終わりなのに」紗雪もそれを惜しく思ったが、簡単に引き下がるつもりはなかった。彼女の瞳が細められ、その中に鋭い光が閃く。「大丈夫。黒幕はまだ諦めてないはず。きっとまた仕掛けてくるわ」「~♪」京弥からの着信だった。普段なら即座に電話を取るところだが、紗雪は一瞬躊躇した。そんな彼女の変化に気づかず、清那はニヤニヤしながら囃し立てる。「うちの兄さん、普段は仕事で超多忙でしょ?自分の誕生日パーティーすら遅刻するくらいなのに、紗雪のこととなるとすぐ動くのよね」「今の時間なら、ちょうど定例会議が終わった頃。きっと紗雪のことが心配してるんだよ」だが、紗雪は結局電話に出ず、コールが切れるまで放置した。「えっ、出ないの?」清那は驚いた。紗雪自身も、ここまでためらうとは思っていなかった。だが、電話が切れた後、京弥からの再着信はなかった。彼女はほっと胸を撫で下ろす。「急に思い出したわ。プロジェクトのプラン、もう少し修正すれば完璧になる」「え?今から?」「会社に戻って仕上げる!」清那が何か言う前に、紗雪は足早に立ち去った。清那は鼻をこすりながら、独りごちる。「いやいや、ほんとこの二人、お似合いすぎでしょ......どっちもワーカホリックだもんね。ショッピング中にいきなり仕事に戻る人、普通いる
紗雪はますます京弥とどう向き合えばいいのかわからなくなり、視線を逸らした。「ここまで大ごとになったんだから、もう現れる勇気はないんじゃない?」でも、もしもまた現れたら?京弥は心の中で小さくため息をつき、それ以上はこの話題を引きずらなかった。「わかった、とりあえず家に帰ろう」すでに部下に盗撮者の調査を命じており、結果が出るまでは紗雪を外に放っておくのが心配だった。紗雪は小さく「うん」とだけ返し、大人しく京弥の隣を歩いた。京弥はふと眉を寄せた。昨夜からずっと、紗雪の態度がどこかおかしい。まるで彼を避けているかのようだ。試しにそっと手を伸ばしてみる。だが、彼女の手はちょうどポケットに収まってしまい、空を切った。偶然か、それともわざと?紗雪は何事もなかったかのように車を見て、「車、どこに停めたの?」と尋ねた。「ここだよ」京弥はひとまず胸の内を押し隠し、紳士的に助手席のドアを開けてやる。紗雪が座るのを確認してから、静かにドアを閉めた。運転席に回り込み、車を発進させる前に、京弥は何気ない口調で聞いた。「晩飯は何が食べたい?冷蔵庫の食材も少なくなってきたし、帰りにスーパーに寄ろうか?」紗雪は少し頭が重い気がした。できれば早く帰って休みたい。けれど、また断ったら京弥が余計なことを考えそうで、結局うなずいた。スーパーに着くと、京弥は慣れた様子でショッピングカートを押した。「食材以外にも、何か見ていく?」紗雪は首を横に振った。今は体調が悪いのをこらえて買い物している状態だ。喉が少しむずがゆく、咳が出そうだった。体がだるくて、少しふらつく。さっき急いで歩いたせいで汗をかいたのに、外に出て冷たい風に当たったからかもしれない。ちょっとした風邪かな。「げほっ......魚が食べたいかも」「じゃあ俺が選んでくる」京弥はカートを紗雪に預け、魚屋へ向かった。新鮮な魚を一匹選び、店員に下処理を頼む。ふと振り返ると、紗雪はその場から動いていなかった。けれど、彼女の視線の先にはチョコレートがずらりと並ぶ棚があった。甘いものが食べたいのか?「お客さん、できましたよ」京弥が店員に応じたその瞬間、紗雪の体がぐらりと揺れた。彼女はとっさに棚の柵をつかみ、倒れるのを防ぐ。額に手
京弥は、じっくり煮込んだ肉のお粥を運んできた。その香りだけで、胃が鳴りそうになるほど食欲をそそる。紗雪は丼を受け取り、待ちきれない様子でひと口すする。本当に美味しい。とろみのあるなめらかな舌触り、米粒のほろほろとした柔らかさ、独特な風味が絶妙に絡み合っている。胃に流し込むと、全身がぽかぽかと温まる気がした。気づけば、皿の中はすっかり空っぽになっていた。紗雪が顔を上げると、まだ隣に座っている京弥と目が合い、思わず頬が熱くなる。「京弥さんはもう食べたの?早く食べてきなよ、私は大丈夫だから」京弥は、紗雪の手から空になった皿を受け取りながら、何気なく尋ねた。「おかわりは?」紗雪は一瞬迷ったが、少し恥ずかしそうにこくんと頷く。京弥は小さく笑って、もう一度立ち上がり、お粥をよそって戻ってきた。今回は、一緒にぬるめの白湯と薬も持ってくる。「お粥を食べたら、ちゃんと薬も飲むこと。薬を飲んだら、眠くなったら寝ていい。食器はそのまま置いといて、後で片付けるから」まるで子どもを相手にするように言い聞かせる京弥。彼が先ほど隣に座っていたのは、紗雪の体調を注意深く観察するためだった。お粥を食べて少し落ち着いたようなので、これ以上そばにいて気を遣わせるのも悪いと考え、席を外すことにした。紗雪は密かに安堵の息をつく。皿を手に取ると、今度は半分ほどの量しか入っていないことに気づく。「足りなかったら、また取りに行こう」そう思って食べ始めたが、食べ終わる頃にはちょうど満腹感を覚えた。自分の食べる量、計算してた?そんな驚きが胸をよぎったその時、窓の外がふっと一瞬光った。紗雪は無意識に顔を向け、静かにカーテンの隙間から外を覗く。すると、建物の下に怪しげな人影が見えた。パパラッチ、かもしれない。ここは十八階建ての高級マンション。上下の階には有名人が住んでいたはずだ。何しろ市内で最も便利な立地にあり、資金に余裕のある人々が好んで住む場所なのだから。リビングでは、京弥がスマホを見ながらお粥を食べていた。彼が調査を依頼していた件は、すでに結果が出ていた。調べがついたのは、金のためならどんな手段でも使う悪質なパパラッチ。高額の報酬を貰えれば、どんな捏造記事でも書き、ターゲットを社会的に破滅させ
俊介はすぐに笑みを浮かべた。「つまり......」加津也は彼に顎をしゃくり、目を細める。その様はまるで毒蛇のようだった。「どうするか、いちいち教えなくても分かるだろ?」「はい」俊介は頷いた。策を練り終えた加津也は俊介を追い払う。今の彼にとって最優先なのは、椎名のプロジェクトを手に入れること。どれだけ認めたくなくても、現実は変わらない。最大の競争相手は二川グループだ。だからこそ、二川グループがどんな提案を準備しているのかを知る必要がある。「~♪」スマホの着信音が鳴る。加津也は電話を取り上げた。友人からの電話だった。二川家の次女を紹介してやるというのだ。「椎名のプロジェクトを取りたいんだろ?二川家の次女が関わってるって聞いたぞ。あの子は恋愛脳だから、お前みたいなプレイボーイならちょっと甘い言葉を囁けばすぐに落ちるんじゃないか?」「ほう?わかった。話がまとまったら礼は弾む」「でも女を口説くなら、それなりのプレゼントも用意しないとな?」「フッ、もちろんだ」加津也は、新しく買ったダイヤモンドのブレスレットに視線を落とした。元々は初芽に贈るつもりだったが、考えを変えることにした。まずは二川家の次女を籠絡し、椎名のプロジェクトを手に入れる。そうすれば、晴れて初芽との結婚を家族に認めさせることができる。京弥の強い勧めで、紗雪は一日中家で休むことになった。今の彼女にできるのは、椎名の結果を待つことだけ。自分の努力と京弥のアドバイスがあれば、成功の確率は80%以上はあるはずだ。夕方、清那から電話がかかってきた。パーティーに誘われたのだ。紗雪はあまり乗り気ではなかったが、清那のしつこい誘いに根負けする。彼女が鳴り城に戻ってからほとんど顔を出していないせいで、周囲の人々が彼女のことを忘れかけているというのだ。新しい人脈を築くためにも、たまには顔を出した方がいい。最終的に紗雪は行くことを決めた。体調を考慮し、今夜の服装は暖かめにする。ダークブラウンのタートルネックセーターに、深いブルーのデニムパンツ。黒く艶やかな長い巻き髪は無造作に下ろしたまま。彼女の整った顔立ちは、メイクなしでも十分に映える。ただ、軽くリップクリームを塗った。会場に到着し、清那
加津也は視線を下げ、いやらしく笑いながら続けた。「まあ……お前の態度次第では、俺が囲ってやってもいいぞ。俺の愛人になれば、あの役立たずのヒモといるより、よっぽど稼げるんじゃないか?」紗雪は彼の目をじっと見つめた。その卑しい表情が、ただただ気持ち悪い。二川家のお嬢様の男?何をバカなことを言っているのか。紗雪は眉をひそめた。清那は「ただの気軽なパーティー」と言っていたはず。それなのに、彼女を加津也に紹介する?当の二川お嬢様本人は、そんな話聞いたこともないのだが。「二川お嬢様?」紗雪は冷笑した。「そうさ!二川家の次女だ!」加津也は得意げに笑う。「お前みたいな田舎者には縁のない世界だろうが、二川お嬢様は名門の令嬢だ。お金持ちのサークルは、金持ちに取り入ったところで入れるものじゃないんだからな」彼は紗雪の顔色をじっくり観察し、ニヤリと笑った。「そんなに悔しいのか?それとも……怖い?」紗雪は呆れたように笑った。なるほど、加津也にとって「二川お嬢様」の肩書きは特別らしい。そして彼の目には、自分はどんなに頑張ろうと「二川お嬢様」に及ばない存在なのだろう。「心から成功を祈ってるわ」と皮肉げに言い捨てる。自分と加津也をくっつけようなんて、そんな話、冗談じゃない。来世でも御免だ。彼女はさっさと踵を返し、清那を探しに行った。残された加津也は、その背中を目を細めて見つめた。紗雪が自分の前に跪いて懇願する姿を想像し、思わず舌なめずりする。「お前のプライドがどこまで持つか見ものだな」すぐにでも、地獄に突き落としてやる。お前の破滅を待ち遠しいよ。加津也はそう呟くと、意気揚々とパーティー会場に足を踏み入れた。彼は手をこすり合わせ、仲間のもとへ駆け寄った。「二川お嬢様、まだ来てないのか?」「来るなら、きっと派手な登場をするはずだ」と仲間の成金が肩を組んでくる。「心配するな、ちゃんと手配してある。俺はちょっと用事があるから、後で写真でも送ってくれ」仲間が去ると、加津也は満足そうにうなずいた。「サンキューな。二川お嬢様を落としたら、礼をするよ」そんな会話を、近くで聞いていた清那が、思わず冷笑する。はっ、このバカが二川お嬢様を落とすって?ホント笑わせる。清那はす
瞬間、紗雪は会場で最も注目を集める存在となった。その場にいる者たちは、皆面白がるような表情を浮かべていた。「まさか、復縁を懇願しにこんな場に来たんじゃないだろうな?」誰かが嘲笑混じりに言う。紗雪は眉をひそめた。この場にいるのはみな放蕩者ばかりで、彼女が二川家の次女であることを知らないのも無理はない。だが、復縁を懇願しに来たとまで言われるのは、さすがに聞き捨てならなかった。ある名門令嬢が口元を手で覆いながら、くすくすと笑う。「ほんと、それよね。こんな身分の子がどうやって私たちの界隈に入り込んだのかしら?西山さん、もしかしてまだ未練があるんじゃない?」加津也は鼻を鳴らした。「田舎出身だからな。昔は俺がちょっと面倒を見てやっただけだ」「田舎者はやっぱり田舎者ね。こんな場に来るのに、そのダサい服装は何?ほんと世間知らずって感じ。西山さん、なんでこんな女を選んでたの?」別の者が皮肉っぽく言った。加津也はシャンパンを手に取り、紗雪の服装を値踏みするように眺めた。考えれば考えるほど、違和感が募る。これはお金持ちたちの社交の場だ。紗雪が来る理由がない。ここにいるのは成金ばかりで、彼女が狙うような大金持ちはいないはず。ということは、復縁を求めに来た?道理で......彼は冷たく言い放った。「俺がこんな女に惹かれるわけがない。昔付き合ってたってのも、向こうがしつこくすがりついてきたからだ」「なんだ、結局は西山さんに使い捨てられた哀れな女か」紗雪の瞳が冷たく光った。凛とした声音が静寂を切り裂く。「言葉には気をつけたほうがいいわ。口は災いの元よ」「何よ、田舎者のくせに。私たちはお金持ちよ?あなたみたいな人間が手に届くほどの存在じゃないわ」名門令嬢が嘲笑する。「この狐女、西山さんを色仕掛けで落とせるとでも思ってる?あなた、彼に相応しくないのよ」加津也はその言葉に満足げに頷き、得意げに顎を上げる。しかし、次の瞬間、紗雪は左手を持ち上げ、周囲に指輪をはめた指を見せつけた。「私はもう結婚してる。根も葉もない噂を流すのはやめてくれる?」その声には、鋭く冷たい響きがあった。直後、誰かが吹き出すように笑う。「えっ、誰がそんな中古品を引き取ったんだよ?西山さんに散
京弥は嘲笑混じりに鼻を鳴らし、「二川家の次女」と聞いて、さらに口元の皮肉を深めた。視線を紗雪に向けると、彼女はわずかに首をすくめる。「お前が誰であろうと、俺の妻を侮辱するなら、跡形もなく消してやる」彼はゆっくりと言い放つと、さらに続けた。「それに、俺の知る限り、振られたのは西山さんの方だったはずだが?そこまでしつこく絡んでくるってことは、手に入らないものだから、悔しくて壊そうとしてるのか?」「貴様......!」加津也は顔を真っ赤にして怒りを滲ませたが、次の瞬間、氷のように冷たい京弥と目が合い、全身が硬直した。動けない。言葉すら出ない。ただのヒモのはずなのに、どうしてこんな威圧感があるんだ?それどころか、その優雅な仕草、身に纏う品格——とても場違いなほど洗練されている。こいつ、本当にただのヒモなのか?紗雪はふっと笑い、わざとらしくため息をついた。「それから、もう私の下ネタを捏造しないで。『遊ばれた』とか言ってるけど......西山って、そもそもだめなのよ、最後までいったことないのよね」その言葉が落ちるや否や、加津也は歯ぎしりしながら怒鳴った。「このクソ女が!」「パシンッ!」次の瞬間、乾いた音が響いた。紗雪が遠慮なく、全力で彼の頬を打ち据えたのだ。こういう身の程知らずの男には、容赦ないお仕置きが必要だ。加津也は目を見開き、唖然とした。拳を握りしめ、今にも殴り返そうとしたが、京弥の冷徹な眼差しに射抜かれ、その場で凍りつく。このクソヒモが!まともに睨み返すことすらできず、加津也は奥歯を噛み締めたまま、唇を震わせながら言い放った。「覚えていろよ!」そう吐き捨てると、乱暴に踵を返し、そのまま会場を後にした。会場の外。加津也は怒りに震えながら、親しい友人に電話をかけた。「今日のパーティーに来てた女は、全員顔見知りだ!お前、確か『二川家の次女が来る』って言ってたよな?!」電話の向こうで、友人が少し間を置いて答えた。「もしかしたら、何か用事があって来られなかったのかも。二川グループの本社に行けば会えるかもしれない」パーティー場では、加津也が去った後、残った者たちの視線が一斉に京弥へと集中した。とりわけ、社交界の令嬢たちは、彼の姿をじっと見つめていた。
そんなことを言われたところで、ただ自分がどれだけ愚かだったかを思い知らされるだけだった。だが、加津也は全くお構いなしに、自分の思い出話を続けた。「懐かしいと思わないか?俺は今でも覚えてるよ。君が初めて顔を赤らめたときのこと。白いワンピースを着て可愛らしく笑った姿。俺のそばでおとなしくしてたあの優しい君......あの頃は、本当に幸せだったよな......」そう言いながら、彼は紗雪の表情をじっと伺っていた。けれど、紗雪の内心には嫌悪感しか湧かなかった。この人の口からそんな言葉を聞くだけで、気持ち悪くてたまらない。加津也の言葉が続けば続くほど、紗雪の顔には明らかに苛立ちが浮かんでいった。彼女はスマホを手に取り、タクシーを呼ぼうとした。これ以上ここにいても、こいつと同じ頭が悪くなるだけだ。加津也はその動きに気づき、ようやく紗雪が自分の話を最初から聞いていなかったことを悟った。その瞬間、彼は自分がバカにされてると感じた。自分だって、こんなに尽くしてきたのに......どうして紗雪は、あんなにも非情なんだ。目の奥に陰りを宿しながら、加津也はゆっくりと紗雪に歩み寄った。「こんなに話してるのに、なぜ無視するんだ」「一言くらい返してくれてもいいだろ?なんで、チャンスをくれないんだよ......」「そんな態度取るなら......俺、自分を抑える自信がない。そうなったら、何するか分からないぞ?」その言葉に、ようやく紗雪の目が冷たく光った。彼女は冷笑しながら二歩後ろへ下がり、彼との距離を大きく取った。「いいわ。その言葉、確かに聞き届けたよ」「今の、全部録音してあるから。これ以上つきまとうなら、お互いにとって損しかしない」加津也は一瞬、目に光を取り戻し、疑わしげに聞いた。「録音した?」紗雪は彼が信じていないのを見て、ためらうことなく行動に移した。その場で録音データを初芽に送信し、さらに迷わず警察に通報した。そして、二川グループのオフィスに戻ると、すぐに警備員を呼び寄せた。一連の流れは、まるで水が流れるように滑らかで迅速だった。加津也はあっけに取られ、その様子を見つめるだけだった。気づいたときには、すでに警備員に取り押さえられており、紗雪は、駆けつけた警官に向かって毅然と話し出
紗雪はその言葉を聞いた瞬間、怒りが込み上げてきた。彼女は思い切り加津也に平手打ちを食らわせ、冷たい口調で言った。「一体、何がしたいの?ここは二川グループの会社の前よ。こんな場所で好き勝手してなんて。私がどう決めるかは、あんたには関係ないわ!」その平手打ちで、加津也は完全に呆然とした。油断していたせいで、紗雪に携帯を奪い返されてしまった。さらに、彼は顔を押さえながら、視線のやり場に困っていた。加津也はついに怒りを爆発させた。「このアバズレが!よくも俺を殴ったな!」紗雪は顎を上げて言い返す。「だから?自業自得でしょ」加津也は彼女のそんな挑発的な態度に我慢ができなかった。歯を食いしばりながら言った。「俺との関係を完全に切ろうったって、そう簡単にはいかないからな!」「俺たちは三年以上付き合ってたんだぞ。お前のことくらい、手に取るようにわかるぞ!全部公開しても構わないのか?」男の脅しに、紗雪は眉をひそめて加津也を睨みつけた。その顔には、以前の端正で穏やかな面影は一切なかった。目の前にいるのは、ただの醜悪な他人にすぎなかった。「三年も付き合ってたこそ、あんたが何を持ってるかは私にも分かってる」紗雪の声は驚くほど静かだった。「だから、これ以上つきまとったら、本当に警察を呼ぶよ」加津也は彼女の冷たい視線に少しだけ我に返った。そうだ、自分は紗雪を脅せるようなものは何一つ持っていないのだ。彼は紗雪の服の袖をそっと引っ張った。ちょうどその時、通勤中の人々が彼らの様子に気づき始めていた。ある通りすがりの中年女性が、善意から声をかけてきた。「お嬢ちゃん、さっきから見てたけどね......」「あんたの旦那さん、ずっと謝ってるじゃない。夫婦なんてそういうものよ。もう機嫌直して仲直りしなさいな」加津也はすかさずうなずき、まるでニンニクでも刻んでるように頭を縦に振った。ようやくまともな人が来てくれた、そう思ったのだろう。その言葉が耳に心地よかったのか、満足げな様子だった。「そうだよ。これはただの夫婦喧嘩だ、紗雪。怒ってばっかだと体に悪いよ?」ついさっきまで脅してきたくせに、今度は優しい言葉をかけてきた。この豹変ぶり、紗雪はもう見飽きていた。彼女は堪えきれず、路人に向き直って
何せ、今回の選択も賭けも、自分で決めたことだった。たとえその賭けに負けたとしても、その結果はすべて自分で飲み込むしかない。紗雪は携帯を取り出し、配車アプリを開いて車を呼ぼうとした。その時、不意に怒りを噛み殺したような男の声が響いた。「お前、わざとだろ」その声に驚いて、彼女はびくりと体を震わせた。まさか、自分のすぐ横に人が立っているとは思いもしなかった。気を落ち着けて顔を上げると、そこには真っ黒に怒りを染めた加津也の顔があった。「あれ?職業変えたの?」紗雪は思わず皮肉を口にした。加津也は一瞬反応が遅れたように、呆然とした表情を浮かべた。「......どういう意味だ?」「別に大した意味はないけど。家の前に面白いピエロでもいるなって思っただけよ」紗雪は無造作に言い放ち、軽く顎をしゃくった。「どいて」その一言で、加津也の顔色が一瞬で変わった。せっかく整えたヘアスタイルも、怒りに歪んだ顔には意味をなさない。「どういうつもりだ!わざわざ会いに来てやったのに、その言い草はなんなんだ」紗雪は冷たく目を細め、あからさまに白眼を向けた。「自分のプライドを捨てた人間に言うセリフだけよ」「優秀な元恋人ってのはね、別れた後二度と姿を見せないのが一番なの」今の紗雪には、加津也に対する一片の情も残っていなかった。言葉を交わすだけで、時間の無駄だとすら思っている。そんな紗雪の決然とした態度に、加津也は一瞬たじろいだが、すぐに何か思い出したかのように表情を緩め、無理に笑顔を作って話しかけてきた。「紗雪......俺たち、三年以上も付き合ってたんだぞ。そんな関係、簡単に捨てられるもんじゃないだろ?」「何も感じなくなったら、捨てるのは簡単よ」その言葉に、紗雪は少しの迷いも見せなかった。その一言で、加津也の表情に小さな亀裂が走る。垂れ下がっていた手が、ぎゅっと握りしめられた。こいつ、本当にどうしようもないな。西山家の御曹司である自分がここまで頭を下げてやってるのに、この女はまだそんなに偉そうな態度を取るのか。沈黙のまま紗雪を見つめる加津也の表情は、読みにくく濁っていた。だが、三年間も共に過ごした相手だ。紗雪にはその考えが手に取るように分かった。心の底から、ぞっとする。
「最近は辛い思いをさせた。欲しい物があれば、好きに選んでくれ」加津也は大きく手を振り、初芽に一枚のキャッシュカードを差し出した。「暗証番号は知ってるだろ?足りなかったら俺に言え」そのカードを見つめる初芽は、最初は少し驚いたような顔をした。「ありがとう、加津也。優しいね」加津也は彼女を腕の中に抱き寄せた。「君は俺の女。これくらいは当然のことだ。午後はショッピングに行け。金を使い切るまで帰ってくるな」初芽は幸せそうに加津也の胸に身を寄せる。願わくば、前に感じたあの不安が全部思い違いでありますように。初芽を送り出した後、加津也はスタイリングを整え、二川グループの本社へと向かった。彼の目的は、紗雪と一度直接会って話をつけることだった。ここ最近、考えれば考えるほど、心の中は苛立ちでいっぱいだった。紗雪のあの三年間の隠し事は、全部ワザとだったのではないか?二人の間に、ほんの少しの信頼すらなかったから、自分はこの女に対して我慢ができなくなった。だから別れたのだ。だが、加津也にはどうしても腑に落ちないことがあった。恋愛は元々、お互いの合意があって成り立つものだろう?なぜ紗雪は事態をややこしくにしたがる。彼女が「二川家の次女」だからって、自分を切り捨てるつもり?そんなの、させないぞ。加津也は二川グループビルの前に到着し、紗雪が必ず通る出入口で彼女を待つことにした。ここには人の目がたくさんある。いくら紗雪でも、ここで醜態を晒すようなことはしないはずだ。もし騒ぎになれば、損するのは二川グループだ。......その頃、紗雪はまだ何も知らずにいた。午後、日向と別れた後は会社に戻り、業務の続きをしていた。会長になってからというもの、彼女に注がれる視線は明らかに増えていた。常に自分を律していなければならない。ここで満足してはいけない。椎名のプロジェクトを獲得できたとはいえ、後続の工程にミスは許されない。これは初めての提携なのだ。信頼を築けなければ、次のチャンスは来ない。その最中、美月から呼び出しが入り、彼女は母親のオフィスへ向かった。日向との進捗について聞かれた紗雪は、最近のことを丁寧に報告した。「彼には自閉症の妹がいます。神垣日向自身も誠実な人柄で、既にデ
二人が笑いながら会話する姿は、京弥の目にはまるで家族に見えた。京弥の目尻には赤みが差し、心の奥底で湧き上がる感情を必死に抑え込んでいた。落ち着け。紗雪を信じろ。心の中の声が何度もそう言い聞かせる。だが、あの店内の三人を見ていると、理性などすぐに限界を迎えそうだった。美男美女、それに可愛らしく整った小さな女の子。その光景は、どう見ても家族にしか見えなかった。京弥の胸中には、嫉妬と焦燥が沸々と煮え立つ。息を数回深く吐き、最終的にその場を離れることを選んだ。どれだけ怒っていようと、ここは紗雪の会社のすぐそば。きっと紗雪は、自分にちゃんと説明してくれるはずだ。あの男は、ただの仕事仲間かもしれない。京弥はそう自分に言い聞かせるのだった。......その頃、加津也は自宅で焦りながら部屋を歩き回っていた。髪をぐしゃぐしゃにかき乱し、もともと端正だった顔には無精ひげが生え、見る影もない姿だった。二川グループのパーティーで追い出されて以来、彼はしばらく外出もしていなかった。毎日部屋に引きこもり、何かをぶつぶつと呟いている。初芽が近づいても、以前のように喜んで迎えることもなかった。「ご飯ができたよ、加津也」食事に呼びに来た初芽は、彼の惨めな姿に一瞬だけ嫌悪の色を浮かべたが、すぐにそれを隠した。「今日はおばさんが加津也の好きな料理を作ってくれたの。早く降りてきて」加津也は初芽を見つめ、その目にはいつの間にか憎しみが滲んでいた。もしこの女がいなければ、自分は紗雪と別れることにならなかったのに。あの人は二川家の二女で、今や二川グループの会長。家の資産だって、西山家の何倍もある。初芽のせいで、自分は大金を他人に渡してしまったのだ。深く息を吸い込んだ加津也は、初芽を見る目がどんどん恐ろしいものに変わっていく。初芽は怖くなり、少し後ずさる。「加津也、どうしたの......?」「なんでもない。ちょっと顔を洗ってくる」怒りを抑えながらそう答え、洗面所に向かう。鏡に映る自分の無精ひげを見つめ、手で触れる。そのとき、彼の脳裏にひらめきが走った。そうだ。紗雪が一度自分を好きになったのなら、もう一度惚れさせることだってできるはずだ。どうせ女なんて、見た目がすべて。
「はい。最近、会長はプロジェクトの打ち合わせで忙しくて、お昼にはもう会社を出ました。たぶん近くのレストランで食事してるんじゃないかと」受付の人は、京弥に対して知っていることをすべて話してくれた。京弥は軽く頷いて感謝の意を示すと、そのまま会社を後にした。彼は、相変わらず音沙汰のないスマホの画面を見つめながら、胸の奥に不安を覚え始めていた。どうやら、紗雪はまだ怒っているようだ。京弥は向きを変えて、外のレストランをいくつか見て回った。周囲の人々が自分に視線を送ってくるのを感じ、仕方なくマスクをつけ、車を走らせて周辺を一通り巡った。最初は、ただ偶然会えたらラッキーくらいにしか思っていなかった。ところが、ガラス張りのレストランの中で、紗雪の笑顔を見つけてしまった。最初は距離があって、彼女かどうか確信が持てなかった。というのも、彼女の向かいには男性と小さな女の子が座っていたからだ。だが、窓を少し下ろした瞬間、京弥は確信した。あの中にいるのは、確かに紗雪だ。彼女の向かいには、明るい色の髪の男性がいて、その隣に小さな女の子もいた。昨日はあんなに言い争いをしていたのに、今日はこんなにも笑顔を見せている。特に、その女の子と話しているときの表情は、とても柔らかくて楽しそうだった。京弥はハンドルを握る手に、思わず力を込めてしまう。ついこの間まで怒っていたはずなのに?あの男は何者?まさか、わざと自分を嫉妬させようとしている?京弥の脳内では、すでに一つの恋愛ドラマが始まっていた。しかも、その男はそこそこ整った顔立ちをしていた。そして、あの女の子......彼らとの関係はいったい?「さっちゃん......俺を裏切るつもりなのか?」彼の車が道端に止まったまま、どれほどの時間が過ぎたのだろう。やがて、紗雪も何となく気づいた。誰かの視線をずっと感じているような気がしたのだ。その違和感に日向が気づき、千桜の口元についたご飯粒を拭き取りながら尋ねた。「どうした?さっきから顔色があまり良くないけど」「ううん、なんでもない。考え過ぎたかも」紗雪はすぐに表情を整え、さっきの違和感について日向には何も言わなかった。ただの勘違いかもしれないし、万が一間違っていたら、余計な心配をかけることに
京弥はもう彼女の手には乗らなかった。冷たい表情でこう言い放った。「あと二日くらい遊んだら、帰ってくれ」「......私を追い出す気?」伊澄は信じられないという顔で京弥を見た。表情には驚きが溢れていた。彼らは子供の頃からの知り合いで、長年の付き合いがある。今やその関係がまったくの無価値になったというのか。だが、京弥の態度は変わらない。彼には彼の信念があった。今回ばかりは、伊澄がどれだけ甘えても、どれだけ懇願しても、京弥の口は固く閉ざされたままだった。最終的に、この茶番は伊澄の一方的な怒りとともに、不機嫌なまま終わりを迎えた。京弥も食事をする気分にはなれず、服を手に取り、家を出て行った。伊澄が来てからというもの、彼は紗雪との関係をもう一度見つめ直す必要があると痛感していた。これ以上、曖昧な態度ではいけないと。彼の背を見送る伊澄は、ゆっくりと拳を握りしめ、その目には怒りが浮かんでいた。紗雪は一体、どんな魔法を使った?あんなにも気が強い女なのに、京弥がそこまで譲歩するとは、思いもしなかった。しかも彼女のために料理までするなんて。昔は、そんなこと一度もなかったのに。たまに何か作ったことがあっても、それは京弥と彼の兄が機嫌のいいとき、ほんの気まぐれで作る程度だった。あんな温かい家庭のようなこと、ほとんどあり得なかった。伊澄は苛立ちまぎれに、目の前の朝食を口に運ぶ。だが、京弥がいないと、どれも味気ない。......一方その頃、京弥は家を出た直後、まず紗雪にメッセージを送った。紗雪はそのメッセージをちらりと一瞥しただけで、スマホをポケットにしまい、返事をする気配はなかった。しかし、オフィスの椅子に腰かける京弥は、ずっとスマホから目を離さなかった。明らかに、紗雪からの返信を待っていた。内容までは誰にも分からなかったが、側にいた匠にもそれは伝わった。だが匠にとって、細かい内容などどうでもよかった。最終的に社長の機嫌が戻りさえすれば、自分たちの利益になる。書類を処理しながらも、京弥の視線はスマホへと向けられ続けていた。そして、昼が近づく頃になっても、紗雪からの返信はなかった。これには、さすがの京弥も我慢の限界だった。彼は上着を手に取り、そのまま立ち上がって出て行こう
紗雪が目を覚ましてリビングに来たとき、ちょうど伊澄がダイニングテーブルに座り、目をキラキラさせながら京弥を見つめていた。「わあ、京弥兄!まさか今日もまた京弥兄の料理が食べられるなんて!本当に恋しかったんだから!」伊澄はわざとらしく言った。「もう、海外の食べ物って本当に人間が食べるもんじゃないのよ、どれもこれも飲み込みづらくて......」「やっぱり国内が一番。何より京弥兄の手料理が最高!」京弥の表情は淡々としていた。「手をつけるな。彼女が起きてからだ」伊澄は唇を尖らせたが、京弥の視線に気づき、しぶしぶと卵焼きを置いた。その視線の端に、紗雪の姿が映った。女は何も言わず、ただ静かにそこに立っていた。まるで他人事のように、その光景を見つめていた。そんな彼女の前に、伊澄がわざと親しげな素振りで歩み寄り、腕を取った。「お義姉さん、見てください。京弥兄がこんなにたくさん美味しいもの作ってくれたんだし、もう怒らないでくださいよ〜」「ていうかさ、お義姉さんってホントにラッキーですね。京弥兄、顔も家柄も完璧だし、おまけに料理までできるなんて、まさに女心を鷲掴みってやつじゃないですか?」その一連のセリフに、紗雪は自然と眉をひそめた。彼女は何の遠慮もなく、伊澄の腕を引き抜き、鼻で笑って言った。「そこまで褒めるってことは、妹さんも彼に惚れた?」その言葉に、伊澄は一瞬驚いた顔を見せた。京弥もまた、不満げに紗雪を見つめて言った。「紗雪、俺と伊澄はただの兄妹だ。それ以上それ以下でもない」その言葉に、伊澄のこめかみがピクリと動いた。拳を無意識に握りしめる。大丈夫。焦らず少しずつ距離を詰めていけばいい。彼女はすぐに表情を整え、にこやかに笑って言った。「昨日のこと、まだ気にしています?京弥兄は自分から仲直りしようとしていたじゃないですか」「で?妹さんも彼に惚れた?」紗雪は背筋を伸ばし、まっすぐに二人の前に立った。冷静なまま、さっきの言葉をもう一度繰り返す。その瞳は澄んでいて、何の感情も読み取れない。まるで、ただ「答え」がほしいだけのようだった。伊澄は乾いた笑いを浮かべた。「お義姉さん、京弥兄みたいに優秀な人なら、そりゃあ女の子たちからモテるに決まってますよ」「じゃあ、君はどう
京弥は紗雪の背中を見つめながら、結局は追いかけなかった。彼には分かっていた。今の紗雪に必要なのは「冷静」だということを。無理に踏み込めば、かえって怒らせるだけだ。拳をぎゅっと握りしめる。客間のドアが「バタン」と閉まる音が響くまで、その場に立ち尽くしていた。ようやく我に返ると、彼は長いため息を吐いて主寝室へと歩いて行った。一方、紗雪も部屋に戻ってからというもの、なぜか胸の内がざわついて仕方がなかった。本来なら、最初から自分に言い聞かせていたはずだ。男の言葉なんて、本気にしちゃダメだって。京弥との関係も、所詮は利害の一致にすぎないと。なのに今は、何かがずれてきている。まるで自分の意思では止められない方向に、すべてが流れていくような感覚。紗雪は胸元に手を当てる。その奥で鼓動している心臓が、自分のものではないかのように、どんどん制御できなくなっている気がした。どうして今日、あんなに怒ってしまったんだろう?......「どういう意味よ!」伊澄は部屋の中で伊吹とビデオ通話をしていた。画面越しに何を言われたのか、彼女の顔には明らかな不満が滲み出ていた。金縁の眼鏡をかけた伊吹は、知的で穏やかな雰囲気を漂わせていた。妹が怒っているのを見ても、その表情は少しも動じなかった。「さっき言ったこと、ちゃんと心に刻んでおけ」「なんでよ、やだもん!」伊澄はワガママな声で反論する。京弥兄から離れろなんて、絶対に無理。彼女が帰国した最大の理由は、この『お義姉さん』とやらを見極めて、京弥兄との『運命の物語』を作ることだったのに。伊吹の目に冷たい光が宿る。「俺の言うこと、もう聞けないってわけ?」「京弥は、お前が関わっていい相手じゃない。お前が息抜きで数日帰国したと思ってたが、これ以上わがままを続けるなら......俺は爺さんに話すぞ!」彼はやむを得ず、爺さんという切り札を持ち出した。その言葉に、伊澄は少し拗ねたように唇を尖らせた。「京弥兄、人を好きになることの何が悪いの?ただ近づきたいだけ、それの何がいけないの?自由に恋愛する権利くらい、私にだってあるでしょ。お爺さんが何を言っても、私の気持ちは止められないよ!」そう言って、彼女は一方的に通話を切ってしまった。「おいっ...