私は脚本家ではないのだから、今後ジンが主役で出演するだろうドラマの脚本をずっと書けるわけがない。「最近のジンは反発してばかりですね」 最後はじっと見守っていた甲さんが苦笑いでつぶやくと、ショウさんは盛大に溜め息を吐き出した。「俺が頭割れそうなの、わかるだろ?」 今日だけ特別に虫の居所が悪いのなら心配しないのだけれど、なんだか長引きそうな様子がうかがえた。 数日だけでも日本にいるのなら、その間にジンにもショウさんにもリフレッシュしてほしいが、そんな雰囲気ではない。 事務所からの帰り際、一階へ向かうためにエレベーター機の到着を待ち、下から上がってきたそれに乗り込もうとしたところで中に人が乗っていて思わず視線を上げた。「あれ、由依ちゃんじゃないか」 偶然エレベーターで出くわしたのは、相馬さんだった。 部屋を借りている身だというのにイヴの日に会ったままそれっきりになっていて、私はすかさず深々と頭を下げた。「ご無沙汰していて申し訳ありません」「いや、それはいいんだけど。何かあった?」「そうではなくて……」 なにか困ったことが起こったわけではなく、今日はショウさんに脚本のことで呼ばれたのだと説明した。 どうやらそれについては相馬さんは概要しか知らされていなかったらしい。「あの……姉と母は、元気にしていますか?」 私がそう尋ねると、相馬さんは少し目を見開いて驚いた表情を浮かべた。「お姉さんから連絡は来てない?」「はい。忙しいんですかね」「お母さんの具合は、一進一退みたい。調子が良さそうなときにお母さんを連れ出して、僕の知り合いの病院の精神科で診てもらったんだ。入院の話も出てる」 てっきり姉から話をされていると思っていた、と言う相馬さんに、私はゆるゆると首を横に振った。 そんな重要な話どころか、姉からは全然連絡が来ていないのだ。 姉がどういうつもりなのかさっぱりわからないし、私とはもう縁を切るつもりでいるのではとすら思う。「施設も探してるんだよ。すぐには入れないかもしれないけど。お母さんにそこへ移ってもらえれば、お姉さんだって夜の仕事を辞めることができるから」「 ……姉はお店を辞めるんですか?」「うん。向いてないみたいだしね。だったら昼間に働いたほうがいいって僕が助言した」 相馬さんの目にはそう映ったらしいけれど、向いていない
姉は姉でがんばっているのだ。 そう考えたら、連絡がなく離れて暮らしていても家族であることに変わりはないのだから、私もがんばらなくてはいけない。「あぁ、そうだ、由依ちゃんは就職は決まったのかな?」 心の中で気合いを入れた途端、相馬さんが無意識に私の傷をえぐった。「……いえ」「そうか。じゃあ僕もいろいろと知り合いに当たってみるよ」「大丈夫です。四月からバイトも掛け持ちして増える予定ですし、自分で就職先は探しますから」 あわあわと咄嗟に取り繕う私を見て、相馬さんが緩やかにほほ笑んだ。「あのマンションの部屋も、引っ越し資金が出来たらお返ししますので。でも……もうしばらくお借りしてしまうことになると思いますけど」「あそこは本当にいつまででも使ってくれていいんだ。気にしないで。ジンも台湾の仕事が忙しくなったみたいだから由依ちゃんひとりで好きに使ってよ」 私が今、精一杯強がっていることを大人である相馬さんにはすべて見抜かれているだろう。「無理しなくていい。僕を頼ってくれていいんだよ」 相馬さんはやさしい。温かい笑みと共に肩をポンポンとされたらなにも言えなくなってしまう。 懐が深くて、なんて大きな人なのだろう。姉が頼ってしまうのも無理はないと、わかってしまった。 出かけたついでに途中でスーパーに寄って食材の買い物をして、マンションに帰るとリビングに明かりが付いていた。「来てたの」 それはリビングのソファー座るジンの姿で、久しぶりに見る光景だった。 彼の部屋に畳んで置いてあった服を着ていて、なんだか懐かしい気持ちになる。「お茶でも淹れようか」 やはり私に対して怒っているのか、話しかけてもジンは反応しなかった。 だったら、ここに来ないで自分の家に帰ればいいのに。 私は返事を待たずにキッチンに向かい、お湯を沸かしながら買ってきた食材を冷蔵庫にしまった。 お茶を飲みながら話せば少しは機嫌が直るだろう。 甘いお菓子を一緒に出せば効果倍増かも、などと漠然と考えていたとき、気配に気づいてふと振り返る。 するとジンが無表情で私の真後ろに立っていた。「な、なに?」 突然のことに驚いて後ずさろうとした瞬間、彼は私の腰を捉えてグっと引き寄せた。 至近距離で見るジンの整った顔はすごい威力で、鋭い目力で射貫かれるともがくどころかピクリと身動きさえでき
だけど今の彼の表情をうかがう限りでは怒りは消えている気がする。「由依がやれって言うなら、やるよ……キスシーン。ただ肉と肉がぶつかってるだけだと思って」「……ジン」「だけど俺は、好きな女としかキスしない」 はっきりと言い放たれた彼の言葉を聞いて涙が出そうになった。 今、私だけではなくて彼の頭の中にも、あの夜のキスが思い出されているはずだから。「キスは想い合ってるふたりがするものなんだろ? だから俺は、由依とキスがしたい」 そんな直接的な言葉を、妖艶な色気を纏わせながらジンが言う。 本当に吸い込まれそうなほど綺麗な瞳だと見惚れているあいだに、彼の唇が私のそれと重なった。「ごめんな。俺の仕事のせいで由依に嫌な思いをさせるかもしれない」 未だに唇と唇が触れ合うような距離でジンが切なくつぶやいたけれど、私はそれを否定するように小さく首を振った。「俺のこの気持ちは本物だから」 再び重なった彼の唇はやけどしそうなほど熱くて、すぐに私の唇と舌を溶かし、自然とふたりの吐息も熱を帯びる。 彼が私の髪に指を差し込んで後頭部を支えた。 唇が離れては触れ合うことを繰り返し、そのたびにキスの温度が上がって濃度が増していく。 抱き合って無心でキスをしたまま、いつの間にかリビングのソファーにふたりでなだれこんだ。いや、ジンが私を押し倒したのだ。 彼の瞳はいつもの妖艶さに加え、獲物をとらえる肉食獣に変わっていた。 首筋にキスを落とし、彼の右手が私の太ももを撫で上げる。 愛する人とキスをすると、幸せな気持ちになるのだと初めて知った。 だけどひとつになった今は、もっと幸せだ。 胸は締め付けるようにドキドキして壊れてしまいそうになるのに、温かい気持ちでいっぱいになる。 ジンは甘い声を上げる私をやさしく抱いた。 どうせ逃れられないのなら、この波にいっそ溺れてしまおう。 あのスキャンダル記事は本当なのか、そんな真偽はもうたしかめなくてもいい。 そう思えるほど、今の彼の純粋な気持ちを信じたかった。 私が単なる石ならば、彼は夜空で一番輝く星だ。 その星に手を伸ばしてみたら、今なら届くかもしれない。 誰もが惹かれる彼の“特別な光”に、私も魅せられてしまった。
大学を卒業し、四月からカフェに加えてアパレルショップでのバイトを増やしてそれなりに忙しく暮らしていると、季節はあっという間に五月になっていた。「なかなか連絡できなくてごめんね。お母さんのこと、なんて話したらいいのか迷っていたら電話できないでいたの」 バイトの合間の時間帯に、私は姉に呼び出される形でふたりでカフェで会った。姉の顔を見るのは五ヶ月ぶりだ。「由依、元気でやってた?」 私の様子をうかがう姉は、メイクがいつもより薄めだからか元気がないような印象を受けた。「私は大丈夫。それよりお母さん……具合悪いの?」 私の核心を突くような質問に、姉は困ったような笑みを浮かべてうつむいた。「施設にお願いしようと思ってる。治療をしながら身の回りのお世話をしてもらえるの」「……そう」 どうやら姉の口ぶりからすると、入れる施設を探している段階ではなく、もう決まったところに入所間近みたい。 相馬さんに相談して姉が決めたのだから、私は反対するつもりはないけれど、費用の面は大丈夫なのだろうか。「私ね、転職するの。相馬さんの系列会社で事務の仕事をする。お母さんが施設に入れたら勤め始める予定なのよ」 以前相馬さんが、母が施設に入れば姉は昼間に母の世話をしなくてよくなるから会社で働けると私に話してくれた。 すべては相馬さんのはからいだと思う。 なにからなにまでお世話になっている相馬さんに申し訳なく思いつつも、心から感謝した。「だから由依、もう少ししたら家に帰ってこられるよ」「………」「帰っておいで?」 なにも言わない私に同意を求めるように姉が顔色をうかがってきて、私は曖昧に笑って軽くうなずいた。 堂々と帰ればいいのだけれど、母が施設に行ったからといってそのタイミングで家に戻るのもなにか違う気がしたのだ。 それにあのマンションは、すでに私にとってはジンと会える特別な場所になっているから去りがたい。 その日、マンションに帰ると会いたかった人が来ていて、いつものようにリビングのソファーに座っていた。 顔を見るのは三日ぶりだけれど、ジンがここにいる光景が当たり前になっていて、まるでルームシェアをしているような感覚に陥る。 部屋で着替えを済ませてリビングに戻ると、ジンはなぜかぼんやりとしていた。「なにかあったの?」 そう声をかけたくなるほど、なんだか今
私のほうへ視線を向けて力なく笑った彼を見て、予感は当たったのだと確信した。「ちょっとね。やっちゃったんだ、喧嘩」「喧嘩? もしかしてショウさんと?」 小さいころから今まで喧嘩はしてこなかったと言っていたけれど、初めてそういう状況になったのだろうか。 もちろん殴り合いの喧嘩ではなさそうだが、口喧嘩だとしてもジンにとってはかなりのダメージかもしれない。 そんなふうに思考を巡らせていると、意外な言葉が返って来て私は唖然としてしまう。「ショウくんとじゃない。……記者の人」 メキメキと音を立てて嫌な予感がした。「どういうこと?」 詳しい状況は私にはわからないが、どうやら例のスキャンダル記事の件で記者の人に囲まれてしまい、あまりにもしつこかったために咄嗟に言い返してしまったらしい。 そのことでまたショウさんに咎められたのだそう。 しかしあの記事が出てからもう二ヶ月も経っているというのに、未だに追いかけまわされるとは思わなかった。「ショウくんは記者を無視しろって。事実じゃないおかしな記事を書かれて、さらには追いかけまわされて、なんで言い返せないのか俺には意味がわからない」 ソファーの背もたれに頭を乗せて天を仰ぐジンを見ていると、すごく気の毒になった。 こちらも人間なのだからしつこくされたら腹が立って当たり前なのに。 だけどショウさんからすると、熱愛否定は事務所側から発信しているので本人からはもうなにも言うな、とのことらしい。 かける言葉が見つからずにジンの隣にポスンと座ると、彼がゆっくりと体を起こして私に抱き着いた。「ちょ、ちょっと」「由依……」 ハグをされている状態だから顔は見えないけれど、彼の声がやけに切なく耳に響く。「俺、ずっと日本で暮らそうかな」「……え?」「台湾に戻っても追いかけまわされるだけだし。……ここで由依と暮らしたい」 ジンの気持ちは少しだけどわかる気がした。 なにも悪いことをしていないのに、逃亡生活のようなことは誰だって嫌だし、そんなことが続けば精神的に疲れてしまう。「向こうでの仕事はどうするの? オファーが増えてるんでしょ?」「芸能の仕事は……やめてもいい」 それは冗談だと思えない声音で、ジンと視線が合ったが切なくて真剣なまなざしだった。「別にこのマンションじゃなくてもいい。うちの社長の息がかからな
私がショウさんから呼び出しがあったのは、その翌日のことだ。 場所はポラリス・プロの近くにある落ち着いたカフェで、指定された時間に行くとすでにショウさんが待っていた。「お待たせしてしまってすみません」「いや、こっちこそ呼び出して悪い」 つぶやくように言ったショウさんの顔を、思わず見入ってしまいそうになった。 久しぶりに会ったけれど、目の下にわかりやすいほどはっきりとクマができていたからだ。 仕事で疲れているのもあるけれど、ジンが記者と喧嘩をしたと言っていたのをふと思い出し、その件で対応に追われて寝不足が続いているのではと想像がついた。「顔色が悪いですけど、お体大丈夫ですか?」「大丈夫じゃないね。胃に穴が開きそうだ。だからほら、今もコーヒーじゃなくて紅茶」 最初に笑顔を少しだけ見せてくれたから冗談で大げさな言葉なのかと思ったけれど、ショウさんは実際に紅茶を口にしていたし、「本当は水だけでもいいくらいだ」とつぶやく姿を目にすると、私は愛想笑いさえできなくなった。「ジンに邪魔をされたくなかったから事務所じゃなくてここに呼んだ。用件は、脚本のドラマ化の件」「あ、はい」 ショウさんは組んでいた脚を下ろし、少し伸びた黒髪をおもむろに掻き上げた。 こうして改めて見るとショウさんもなかなかのイケメンだけれど、その整った顔が少しばかり歪む。 要するにドラマ化の話はなくなった、という事だろう。申し訳なさそうにするショウさんに、私は小さく首を振って大丈夫だと意思表示した。「懇意にしているプロデューサーがいると言っただろ? その人が長編ドラマの話を逆に依頼してきたんだ」「長編……」「ああ。しかもジンが主役でね」 ショウさんの戦略では、足がかりとしてまずはスポットの短編ドラマでジンを売り込もうとしていた。 それがいきなり本格的な長編ドラマでの抜擢となれば、こちらとしては願ったり叶ったりだろう。「だから由依の脚本はまたの機会になる。すまない」 誠心誠意私に頭を下げるショウさんに、恐縮しながら「頭をあげてください」と私は言葉をかけた。「いいんです。長編ドラマに起用されるだなんてすごいじゃないですか」 やはり芸能関係の仕事をする人なら、誰もが惹かれるジンの魅力や特別な光に気づくのだ。 そう思うと、私まで自分のことのようにうれしくなった。「てっきり
私が首をかしげると、ショウさんは参ったというように盛大な溜息を吐き出した。「せっかくのオファーなのに出るのは嫌だと。長編だと日本に来られなくなるとか、由依の脚本でないとダメだと言ったはずだとか、ワガママばっかり」 私から視線を外し、ガラステーブルを人差し指でコツコツと無意識に叩く様子がショウさんの苛立ちを表していた。「アイツは本当になんにもわかってない。これは喉から手が出るほどのチャンスなのに」 昨日のジンの『芸能の仕事はやめてもいい』という言葉が脳裏をよぎった。 もしかしてそれをショウさんにも言ってしまったのではないかと懸念したけれど、どうやらそれはまだ告げていないみたい。 単に今回舞い込んだ仕事が嫌だと拒否しているだけのようだ。 今がチャンスだと意気込むショウさんと、やる気をなくしているように思えるジンとでは、第三者である私から見ても確実に温度差がある。「このチャンスを掴むどころか、記者と口論なんかするし」「昨日ジンからそれはちょっとだけ聞きました」「そのことでまた週刊誌の紙面を騒がせてる。第二弾だ」 対応に追われる身にもなれ、と言わんばかりにショウさんは再び盛大な溜め息を吐きだした。 マスコミへの対応と、ジン本人への説得の両方で疲れてしまっているようだ。「昔は俺の言うとおりに素直に行動してたのにな」 ポツリとつぶやいたショウさんの表情に少しばかり寂しさの感情が乗っていて、実の兄のような顔つきに変わった。「ジンは今もショウさんのことを大切に思ってますよ」「そうかな。俺よりも大切にしたい相手が出来たんじゃないか?」 その言葉と同時に視線を差し向けられ、途端に居心地が悪くなった。 遠回しだったけれど、ショウさんの鋭い目を見れば本当に言いたいことがなんなのかわかってしまった。 だけど私はわざと気づかないフリをして話を元に戻した。「記者の人に言い返したことで、それをまた記事にされちゃったんですか?」「ジンの話によると、俺がいないひとりのときの仕事帰りを狙って記者が突撃取材してきようだ。そこでいきなり『日本にも同棲している恋人がいるみたいですが二股交際ですか?』と聞かれたらしい」「え?!」 てっきりドラマで共演した女優との熱愛報道の火種がまだ消えていないのだと思っていたけれど、今のショウさんの発言で頭が一瞬でパニックになっ
静かな口調のショウさんとは対照的に、私の心臓はバクバクと早打ちが続いている。 同棲はしていないし、記事には虚偽が混じっているけれど、その日本の恋人とはどう考えても私のことだろう。「しつこく聞かれてジンが切れたんだ。『二股なんかするわけない! 誰と交際しようと俺の勝手だ!』と。その態度で記者を敵に回し、反撃とばかりに面白おかしく派手に書かれた。Harryは二股は否定したが恋人がいるのはたしかだとか、根っからの女好きだとか」「そんな……」 ショウさんの詳しい説明を聞き、私は唖然としながらも顔から血の気が引いた。「君の存在をチラつかされて頭にきたジンの負けだ」 ショウさんはそう言うけれど、記者たちがやったことはペンによる暴力だと思う。 あまりにも事実無根ならば名誉棄損で訴えてもいいけれど、おそらくマスコミはギリギリの範ちゅうで仕掛けているからショウさんは困っているのだろう。 そんな目にあっているジンが心配だ。「マスコミは俺がどうにかして押さえる」 ショウさんが力強く言うのだから、任せておけば本当になんとかしてくれそう。「ジンを守るのが俺の役目だからな」 ショウさんは有言実行という言葉が一番似合う人だと思う。 表向きは仲が悪くなったように見えても、ショウさんとジンはお互いに大切に想っている。 血は繋がっていなくとも、ふたりは兄弟のように切っても切り離せない関係だ。 マンションに帰ると明かりが付いていて、ジンがリビングのソファーに座りながらスマホを耳に当てて電話をしていた。「だから、ここは俺の大切な場所なんだよ!」 ジンが発する言葉の言い方が普段と違って少々荒々しい。 本気で怒っているわけではないけれど、イラついている感じだ。「ここは社長が管理してるマンションなんだから、なんとでも言い訳できるよ。記者には十分気を付ければいいんだろ?」 誰と電話しているかは尋ねなくてもショウさんだとわかったし、今口論している内容も先ほど私が聞いた話だと想像がついた。 自分の部屋に荷物と上着を置いてリビングに戻ると、ジンはもう電話を終えていた。「今の電話、ショウさん?」「ああ」「ここには来るな、って言われた?」 なぜ会話の内容がわかるのだ、とジンが目を見開いて驚いていた。 日本での同棲疑惑が囁かれているのだから、ここの場所がバレている可能性
「由依って占いっていうか、予知できる能力があったっけ?」 ツボにはまったようにクスクス笑うジンに、思わずプっと頬を膨らませた。「でもわかるの。この俳優さんはまだ若いけど、同世代のほかの人と比べたら演技力が全然違うし、将来はそれが評価されること間違いなしだよ」「そうか」「ジンもそうなれると思うんだけど」 隣にいるジンをそっと見上げた。 ジンがこのまま芸能の仕事を続けるのなら、きっとそうなれる。 息をのむような演技に誰もが見惚れる、そんな俳優になるだろう。「そうなって欲しいなって……思ってるんだけど……」「俺の話はいいって。ショウくんもドラマの話ばっかりしてくるし、うんざりだ」 デートの時にまでそんな話はしたくないと言わんばかりにジンが顔をしかめた。 最後のデートなのだから楽しく過ごしたいと思っていたのに、私はまたジンをこんな顔にしてしまうのだから本当にダメだな。「社長の不動産会社の話、由依も聞いたんだろ」「……うん」「資金調達は社長がなんとかするらしいし、俺もモデルの仕事を増やして協力すれば大丈夫だって」 ジンがあまりにも楽観的にそう言うから、本当にこのままなんとかならないかと心が揺らぎそうになる。「写真集を出す話もあって、その撮影であちこち海外に行くことになるかもしれないけど……」 ジンが色気をたっぷりと乗せて、私をまっすぐ見つめた。「俺、ちゃんと由依のところに戻ってくるから」 ぶわっと一瞬で目に涙が溜まっていく。 私は照れを装い、視線を外しながら笑ってその涙をごまかした。 そんなことを言われたら、離れられずにその胸にすがりつきたくなってしまう。 この日、私たちは映画を見たあとに食事をして会話を楽しんだ。 駅の改札で彼が私の額に素早くキスを落とし、繋いでいた手を放して彼の後ろ姿を見送ったら、すぐに涙があふれてきた。 こうすると決めたのは私なのだから、泣く資格なんてないのに。『ごめんなさい』と彼の後ろ姿に向けて、何度も謝りの言葉を心の中で唱える。 それと同時に、もっと愛情表現をすればよかったと後悔の念も押し寄せた。 愛していると、彼にもっと伝えればよかった、と。 このあと私は相馬さんのマンションを出て ――― 姿を消した。
「由依が観たい映画って、これか」 ジンが映画館のパネルポスターを見ながらポツリとつぶやいた。 私はその姿を目に焼き付けるように、隣に佇むジンを眺めていた。 今日のジンはなぜか黒ぶちめがねをかけている。 目は悪くなかったはずだから、おそらく伊達めがねだろう。 普通の大学生を装う意図があるのか、特に意味はないのかわからないけれど。「恋愛映画だな。由依と見るならなんでもいい」「なんだか楽しそうね」 以前と少し変わったことと言えば、今日のジンは表情が柔らかくて機嫌が良さそうな感じがした。「由依と会ってデートするのは久しぶりだから」「……あ」「どうした?」「ううん。何でもない」 私はふるふると頭を振り、照れくささから視線を外した。 思わず言葉が出たのは、ジンが左側にエクボを作り、パッと花が咲いたように笑ったからだった。 それは私が心待ちにしていた大好きな笑顔で、久しく見ていなかった光り輝く彼の顔を最後に目に焼き付けることができたのだから、これだけでもう十分だ。 少しずつでも、私の前でなくてもいいから、彼が笑えるようになってくれたならそれでいい。「何でこの映画なんだ? もっとほかにも面白そうな作品があったのに」「だってこの俳優さん……素敵」 ポスターに写っている俳優をじっと見つめながら言うと、隣から小さく舌打ちするような音が聞こえた。「由依はこういう顔がタイプなのか? たしかにイケメンだけど、どこにでもいる若い俳優だろ」 私はポスターに視線を注いだまま、ゆっくりと首を横に振る。 私が素敵だと感じたのは恋愛映画に向いていそうな綺麗な顔だからではなく、その俳優はとても演技が上手なのだ。 逆に甘いマスクが邪魔をして、それに気づかれにくいのではないかと思うくらいに。「顔じゃなくて演技がタイプなの。この人はきっとすごい俳優さんになる。今はまだ売れてる途中かな。将来はヒーローからヒールまでカメレオンみたいに変化してなんでも演じられる俳優さんになるよ。断言する!」 きっぱりと私がそう言い切ったので、ジンは驚いて目を丸くしていた。
私はマンションに帰ってさっそく荷造りを始めた。 来たときと同じようにボストンバッグひとつで出ていくわけにはいかない。 年始に姉が送ってきた八つのダンボールに再び荷物を詰め直す作業があるからだ。 幸いジンはしばらくここには来ないはずだから、彼に知られずに荷造りはできる。 実家に帰るのだと嘘をつきたくはないし、引っ越し先の新しい住所を教えてしまえばジンが訪ねてくるのは目に見えている。 それを避けるために『消える』道を選んだ私は卑怯者だ。 それにこのマンションにはジンとの思い出がたくさん残っているから、別れるのなら私も早くここを出たい。 そう思うくらいつらいと自覚したら、自然と涙が出た。 別れるという私の決断は間違っているだろうか。 ……いや、きっとこれが正解だ。 相馬さんも、姉も、母も、ショウさんも、みんなが幸せになれる。 ジンは私がいなくなれば少しは寂しがるかもしれないけれど、それはしばらくの間だけだろう。 たぶん私よりも彼のほうがダメージは少ないはず。 ―――私のほうが、ジンを愛してる。 だけど私と一緒にいることで彼が輝けないのは嫌だし、笑顔になれないのも嫌だ。 彼が身を置くべき場所は芸能界で、私のためだけに自分の住む世界を変えてほしくはない。 私のことは忘れてくれていい。 華やかな世界でキラキラと輝き、毎日を忙しく過ごしていれば私の記憶など薄れるはずだ。 彼には自分の道を行ってもらいたい。 私は不幸を呼ぶ女なのかもしれない。 だからといって、周りの人たちまで巻き込みたくはない。 それから五日が過ぎ、甲さんが新しい住処となるマンションを見つけたと連絡をくれた。 今のバイトは辞めて新しく探しなおすつもりだったから場所はどこでも良かったし、私はすぐにそのマンションを契約した。『会えないか?』 最後に一目、ジンの顔を見たい。 そう思っていたタイミングでジンから連絡が来た。 どうやら今は日本に帰ってきているらしい。『ジンと一緒に見たい映画があるの』 私は自分から誘うようなメッセージをジンに送り、映画デートをすることにした。 今日もじめじめと雨が降って蒸し暑い中、映画館に赴くとジンが待ち合わせ場所に先に来ていた。
「わかった。それは俺が責任を持って対処すると約束する。……君のお姉さんとお母さんを人質に取ったような言い方をしてすまないと思ってる。だけど俺にとってはジンしかいないんだ」 まさか謝られるとは思っていなかった。 ショウさんは、決して悪い人ではない。 誰にだって守りたい人や事柄があるし、ショウさんにとってジンは家族同然で、実の弟のような存在だから。 ショウさんはジンのことを思い、世界に羽ばたいて欲しいだけなんだと私にも理解できた。 私と一緒にいることで、彼が窮地に立たされてしまうのなら…… 私から離れるしかないじゃないか。「由依ちゃん、さっき『消える』って言ったけど、あのマンションを出るの?」 心配そうな面持で甲さんに問われ、私は小さくうなずいた。「相馬さんが大変なことになってるのにこれ以上お世話にはなれません。住むところを早急に見つけて引っ越します」「実家には帰らないのか?」 ショウさんが少しばかり気の毒そうな表情を浮かべて私の返事を待った。「帰りません」「わかった。甲、由依の住むとこ見つけてやって。引っ越し費用は俺が出す」 うなずきながら言うショウさんに、私は慌てて首をブンブンと横に振った。「私は大丈夫ですから。それよりショウさんにもうひとつ約束してほしいことがあります」「なんだ?」 頬の涙をぬぐい、ピンと姿勢を正す私を見てショウさんが様子をうかがうように眉根を寄せる。「ジンの笑顔を取り戻してください。ショウさんは頭が良くて勘の鋭い人ですから、こんなことを私から言われなくてもわかってると思いますけど、最近のジンは本当に笑わないんです。私と出会ったころはいつも明るく笑っていたのに」 私の言葉を聞き、ショウさんは無言で視線をテーブルへと下げた。「私、ジンの笑顔が好きなんです。片側だけにできるエクボが素敵だから。でもしばらくそんな笑顔は見ていません。エクボだって左側にできていたはずだけど、もしかしたら右側だったかな?って忘れちゃうくらい」「………」「彼がまた、自然に笑えるようにしてあげてください」 頭を下げると、ショウさんはつらそうに参ったという表情を浮かべていた。「自分も大変なのに、最後に頼むのがジンのことだなんてな」 呆れられたのかもしれないが、今言ったことが私の本心だ。 誰もが惹きつけられる不思議な空気を纏う笑顔
激しく動悸がして、息ができないくらい苦しくなった。 後頭部をなにかで殴られたような衝撃を受けている私を気の毒に思ったのか、さすがに言い過ぎだと甲さんが止めに入ってくれた。 姉と母は相馬さんの恩恵があってこそ今がある。 ジンのことで頭がいっぱいで、大事なことなのにすっかり抜け落ちていた。 就職するのだと、気恥ずかしそうに話していた姉の姿が頭に浮かんだ。 それがダメになったら、また夜の仕事を続けるのだろうか。 母も施設の入所が決まっているようだったし、そこで治療しながらゆっくりと過ごすはずだ。 なのに白紙となれば、また自宅で暴れたりするのかもしれない。 姉と母の幸せを奪って踏みつけるようなことをし、お世話になった相馬さんが大変なときに恩を仇で返すようなことをしてまでもジンと一緒にいたいだなんて、そんなワガママが許されるはずがないじゃないか。 ボキッと音を立てて、このとき私の心が折れた。 私はなんのために実家を出てあのマンションで暮らし、就職をして独り立ちしたかったのかと理由を思い返せば、すべては家族のためだったはず。「君が離れてくれればジンは必ず大成する。台湾と日本だけじゃない。韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、中国本土、香港……必ずアジアは制覇する。俺がさせてみせる。そしてその次はハリウッドだ」 夢で終わらせるつもりはないのだと、ショウさんが至極真面目に言ってるのが伝わってくる。「君が思っているより、ジンの“光”は強い」 ジンは生まれもってのスターで、その使命をもって生まれてきた。同じ人間でも私とは全然違う。 そんな、星のような人に近づきたいだとか、今なら手が届きそうだなんて願った私が ―――身の程知らずだったのだ。「もし、姉の就職や母の施設入所が白紙になりそうになったら、ショウさんが助けてくれませんか?」 ボロボロと止まらない涙を流す私を見て、ショウさんは黙って聞いていたがなにかを感じ取ったらしい。「由依、それは……」「…………私は消えます」 涙で濡れて視界が歪んで見えるけれど、ショウさんがホッと息をついたのがわかった。「その代わり、姉と母を助けてください。お願いします」 最初から許されない身分違いの恋だったのだ。 周りに反対され、ほかの人を不幸にしてまで突き進むだなんて、私にはやっぱりできない。 私の大切な人
「ちょっと待ってください。なぜそうなるんですか?」「俺だってこんなことを君に頼みたくはなかった。だけどジンがドラマの仕事を受けない理由はただひとつなんだ。君と一緒にいたい気持ちが強い」 最初はそうだったかもしれないけれど、相馬さんの会社の資金繰りの話をすればジンだって気持ちが変わるかもしれないのに。「私が説得してみます。事情があるとわかればジンはオファーを受けるはずです」「いや、無理だ。ジン自身がこの倒産危機を知らないとでも思ってるのか? すでに話してある。それでもジンは君と離れるのが嫌で、芸能活動を辞めるとまで言った。そうなると俺は、アイツと君を無理にでも引き離すしかない。なりふり構わないと言ったろ。必ずドラマには出演させる。俺は本気だ」 決して激高はしていなかったが、ただ淡々と話すショウさんが私は逆に怖くなった。 誰がなんと言おうと絶対に自分の意見を押し通して、この局面を必ず乗り越えるのだという固い決意がショウさんの中に見えたから。「気づいたんだ。今後もし同じことが起きたらジンはまた君を優先する。それは芸能活動をしていくにあたって“支障”になる。だったら今のうちに別れさせるべきだろう」 いつも助け舟を出してくれる甲さんも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。 次から次へと矢継ぎ早に言葉を並べられ、私は頭が混乱してなにも言い返せない悔しさからかじわりと目頭が熱くなった。「それでも………どうしても一緒にいてはダメですか?」「……由依」「私はジンのことが、すごく好きなんです」 涙がポロリと両目からこぼれ落ちた。 一度だけワガママが許されるのならば、ジンと一緒にいたい。 ほかには何も望まない。愛する彼と笑って一緒に生きていきたいだけだ。 そんなたったひとつの切なる願いを訴えてみたけれど、ショウさんは眉間にグッとシワを寄せて私を真正面から見つめた。「もっとすんなりとわかってもらえると思ってた。君は今俺が話したことをなにも理解できなかったのか?」「いえ、そういうわけでは……」 手の平で頬の涙を拭う私に、ショウさんは動揺することなく視線を送り続けてきた。「今回の倒産危機は君も他人事ではない。今君が住んでるマンションも社長は手放すことになるだろう。それにお姉さんの就職もきっと白紙だ。系列会社だといっても間違いなく危機に陥り、コネで
「俺らはポラリス・プロの人間だが他人事じゃない。相馬コーポレーションの資金力でポラリス・プロは成り立ってると言っても過言じゃないからだ。あっちに倒れられたら、こっちも共倒れだ」 いつも緩慢な笑みを浮かべる癒し系の甲さんまで神妙な顔つきでただ聞いているだけだから、どうやら私が思う以上に事は深刻なのだろう。「資金繰りは社長がなんとかするって言ってるけどね。だけどショウさんのツテで、台湾の事務所にも借り入れをお願いしてるんだ」 個人でなんとかなるような、そんな金額ではないと思う。 私は会社の経営に関しては詳しくないけれどその程度のことはわかる。「幸い、台湾の事務所は協力すると言ってくれてる。だけどそれには条件を突き付けられた」「……条件?」 おそるおそる聞き返すとショウさんはコクリと首を縦に振った。「例の長編ドラマにジンを出演させることだ」 あのオファーについては、ジンが頑なに嫌がっていて未だに保留の状態らしい。「こうなったら、なりふりなんて構っていられない。俺はこの話を受けるつもりでいる」「でもジンが……」「なんとしてでもあのドラマには出てもらう。俺が出させる」 強行突破、というのはこういうのを言うのだろう。 本人の意向を無視してでも出演させるとは、かなり強引なやり方だと思う。 だけどジンの気持ちを無視してまでも、その選択しかないのだと追い詰められているみたいだった。「どうして台湾の事務所はそのドラマにこだわるんですか?」 仕事ならほかにもオファーがあるはずなのに、本人が嫌がっている仕事をなぜ無理強いするのか私はそこが引っかかる。「長編ドラマの仕事を受けたら、ギャラとして事務所に大きなカネが入る。だけどそれだけじゃない。断れば懇意にしているプロデューサーの顔に泥を塗ることになる。事務所はプロデューサーと関係が悪化するのを避けたいんだ」 力のあるプロデューサーに逆らいたくないからだとショウさんが説明してくれた。 それにドラマのオファー自体は悪い話ではない。 むしろジンの人気を後押しするきっかけになるはずだから、あとはジン自身が首を縦に振るだけだとみんな思っているのだろう。「相馬コーポレーションもポラリス・プロも倒産回避。ジンは俳優として本格デビューして人気が上がる。ドラマはヒット間違いなし。それで全部丸く収まる」 たしかにシ
ジンは私の頭を優しく撫で、額にチュっとキスを落とす。「外で会って平気?」「日本は大丈夫だろ。不安ならホテルで密会する?」「え?! 」 一瞬動揺した私を見て、ジンが吹き出すように盛大に笑った。「なにを想像したんだよ。まぁ、間違ってはいないけど」「もう!」 ケラケラと笑う彼を見て、なぜか少しホッとした。 出会ったころはよく笑っていたのに、最近めっきり笑顔が減った気がしていたから。 彼にはいつも笑っていてほしいし、自分の周りにいる人たちもみんな笑顔になれたらいい。 だけど私にとって彼はもう特別な存在だから、誰よりも心から笑顔でいてほしいと願っている。 ジンとショウさんの言い争いが絶えなくなった、と甲さんから聞いたのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。 ドラマのオファーのことで大揉めになっているのかと思ったけれど、それだけではないらしい。 今後の仕事の方針や、プライベートの過ごし方など、あらゆることで衝突する日々なのだそう。 ほんの些細なことでも衝突するなんて以前なら考えられない光景だけれど、今のジンとショウさんならあり得ると思う。 空気が悪いなんてもんじゃない、と甲さんが嘆くぐらいだから相当殺伐としているのだろう。 そんな日々も過ぎていき、季節は梅雨も半ばを迎えようかという蒸し暑さの中。―― 多くの人間が関係する大変な事が起きた。「話がある」 私を呼び出したのはショウさんで、用件はなんだろうかと特に気構えることなく待ち合わせのカフェへと向かった。 するとそこには甲さんもいて、私を手招きしている。 挨拶もそこそこに私の向かい側に座るふたりの顔を見て、なにか良くないことを告げられると予感した。 こういうときの勘は、なぜか当たるものだ。「回りくどく言うのは苦手だから結論から言う」 無表情に淡々とショウさんが話を切り出した。「ジンと、別れてくれ」 神妙な顔つきで私を見つめるショウさんは苦渋の表情だ。「あ、あの……」 一瞬で声が震えた。 誰かに交際を反対されるかもしれないと一定の覚悟はあったけれど、交際の事実を自分たちから伝えないままショウさんからいきなり別れろと言われて、私の頭は途端に混乱し始めた。「お前たちが数ヶ月前から付き合ってるのは知っていた。相手が由依だから黙認してただけだ」 ショウさんは私たちの交際を
「さっきショウさんに聞いたの。ドラマの話とか、第二弾の記事とか」「俺、しばらくここに来るのはやめる」 ジンは不本意だ、という気持ちを前面に出した表情をしていた。 さっきの電話の口調とは反対に、やけに素直なところに私は違和感を覚えた。「ショウくんに、お前が出入りすることで由依がそこに住めなくなるかもしれない。由依が追い出されてもいいのか? って説教された」 私のためを思って動けと、ショウさんはある意味ジンを脅したみたいだ。 自分のことを理由にされるのは気持ちよくはないけれど、それでもショウさんの助言どおり、ジンが不用意にここに出入りするのは危険だと私も思う。 彼がこれ以上週刊誌で騒がれて傷つかないためにも、しばらくここに立ち寄らないのは私も賛成だ。「ショウさんから聞いたけど、ドラマには出ないの?」 早速もう帰るつもりなのか、テーブルの上を片付け始めたジンに言葉をかけると、なんでもないことのようにあっさりと首を縦に振った。「断ってくれって言ってる」「せっかくの大きな仕事なのに」 考える余地なく断るにはもったいない話だと、私の気持ちが言葉尻で伝わったのか、ジンは私に小難しい視線を送って来た。「相手の女優が気に入らないのもあるんだ。柳 莉紋(リュウ リーウェン)で内定してるらしいから」「りゅ……?」「ほら、俺が初めて出たMVで共演した子」 あのMVでしか見たことはないけれど、今でもはっきりと覚えている。 男心をくすぐるようなほんわかとした雰囲気のとってもかわいらしい容姿をした女性だった。「すごくかわいい人なのに、どうして気に入らないの?」 彼女を思い出しながらも笑顔で話す私とは対照的に、ジンがうんざりだとばかりに顔をしかめた。「顔はどうでもいいとして性格が悪いんだ。ありえないくらいにワガママ」 おそらくだけれど、彼女のそのワガママな性格に以前直面したのだろう。「また共演なんてごめんだ」と、ジンが心の底から嫌そうに言った。 人は見かけによらないとはこのことで、あんなにかわいらしくて素直そうな女性なのに、性格の悪い一面があるとは思いもよらなかった。「これでドラマの話が来なくなるならそれまでだ。細々とモデルだけやってもいいし、全部やめたっていい」「……ジン」「俺は北京語ができるから、どこか日本の企業に就職できるだろう」 ジン