私がショウさんから呼び出しがあったのは、その翌日のことだ。 場所はポラリス・プロの近くにある落ち着いたカフェで、指定された時間に行くとすでにショウさんが待っていた。「お待たせしてしまってすみません」「いや、こっちこそ呼び出して悪い」 つぶやくように言ったショウさんの顔を、思わず見入ってしまいそうになった。 久しぶりに会ったけれど、目の下にわかりやすいほどはっきりとクマができていたからだ。 仕事で疲れているのもあるけれど、ジンが記者と喧嘩をしたと言っていたのをふと思い出し、その件で対応に追われて寝不足が続いているのではと想像がついた。「顔色が悪いですけど、お体大丈夫ですか?」「大丈夫じゃないね。胃に穴が開きそうだ。だからほら、今もコーヒーじゃなくて紅茶」 最初に笑顔を少しだけ見せてくれたから冗談で大げさな言葉なのかと思ったけれど、ショウさんは実際に紅茶を口にしていたし、「本当は水だけでもいいくらいだ」とつぶやく姿を目にすると、私は愛想笑いさえできなくなった。「ジンに邪魔をされたくなかったから事務所じゃなくてここに呼んだ。用件は、脚本のドラマ化の件」「あ、はい」 ショウさんは組んでいた脚を下ろし、少し伸びた黒髪をおもむろに掻き上げた。 こうして改めて見るとショウさんもなかなかのイケメンだけれど、その整った顔が少しばかり歪む。 要するにドラマ化の話はなくなった、という事だろう。申し訳なさそうにするショウさんに、私は小さく首を振って大丈夫だと意思表示した。「懇意にしているプロデューサーがいると言っただろ? その人が長編ドラマの話を逆に依頼してきたんだ」「長編……」「ああ。しかもジンが主役でね」 ショウさんの戦略では、足がかりとしてまずはスポットの短編ドラマでジンを売り込もうとしていた。 それがいきなり本格的な長編ドラマでの抜擢となれば、こちらとしては願ったり叶ったりだろう。「だから由依の脚本はまたの機会になる。すまない」 誠心誠意私に頭を下げるショウさんに、恐縮しながら「頭をあげてください」と私は言葉をかけた。「いいんです。長編ドラマに起用されるだなんてすごいじゃないですか」 やはり芸能関係の仕事をする人なら、誰もが惹かれるジンの魅力や特別な光に気づくのだ。 そう思うと、私まで自分のことのようにうれしくなった。「てっきり
私が首をかしげると、ショウさんは参ったというように盛大な溜息を吐き出した。「せっかくのオファーなのに出るのは嫌だと。長編だと日本に来られなくなるとか、由依の脚本でないとダメだと言ったはずだとか、ワガママばっかり」 私から視線を外し、ガラステーブルを人差し指でコツコツと無意識に叩く様子がショウさんの苛立ちを表していた。「アイツは本当になんにもわかってない。これは喉から手が出るほどのチャンスなのに」 昨日のジンの『芸能の仕事はやめてもいい』という言葉が脳裏をよぎった。 もしかしてそれをショウさんにも言ってしまったのではないかと懸念したけれど、どうやらそれはまだ告げていないみたい。 単に今回舞い込んだ仕事が嫌だと拒否しているだけのようだ。 今がチャンスだと意気込むショウさんと、やる気をなくしているように思えるジンとでは、第三者である私から見ても確実に温度差がある。「このチャンスを掴むどころか、記者と口論なんかするし」「昨日ジンからそれはちょっとだけ聞きました」「そのことでまた週刊誌の紙面を騒がせてる。第二弾だ」 対応に追われる身にもなれ、と言わんばかりにショウさんは再び盛大な溜め息を吐きだした。 マスコミへの対応と、ジン本人への説得の両方で疲れてしまっているようだ。「昔は俺の言うとおりに素直に行動してたのにな」 ポツリとつぶやいたショウさんの表情に少しばかり寂しさの感情が乗っていて、実の兄のような顔つきに変わった。「ジンは今もショウさんのことを大切に思ってますよ」「そうかな。俺よりも大切にしたい相手が出来たんじゃないか?」 その言葉と同時に視線を差し向けられ、途端に居心地が悪くなった。 遠回しだったけれど、ショウさんの鋭い目を見れば本当に言いたいことがなんなのかわかってしまった。 だけど私はわざと気づかないフリをして話を元に戻した。「記者の人に言い返したことで、それをまた記事にされちゃったんですか?」「ジンの話によると、俺がいないひとりのときの仕事帰りを狙って記者が突撃取材してきようだ。そこでいきなり『日本にも同棲している恋人がいるみたいですが二股交際ですか?』と聞かれたらしい」「え?!」 てっきりドラマで共演した女優との熱愛報道の火種がまだ消えていないのだと思っていたけれど、今のショウさんの発言で頭が一瞬でパニックになっ
静かな口調のショウさんとは対照的に、私の心臓はバクバクと早打ちが続いている。 同棲はしていないし、記事には虚偽が混じっているけれど、その日本の恋人とはどう考えても私のことだろう。「しつこく聞かれてジンが切れたんだ。『二股なんかするわけない! 誰と交際しようと俺の勝手だ!』と。その態度で記者を敵に回し、反撃とばかりに面白おかしく派手に書かれた。Harryは二股は否定したが恋人がいるのはたしかだとか、根っからの女好きだとか」「そんな……」 ショウさんの詳しい説明を聞き、私は唖然としながらも顔から血の気が引いた。「君の存在をチラつかされて頭にきたジンの負けだ」 ショウさんはそう言うけれど、記者たちがやったことはペンによる暴力だと思う。 あまりにも事実無根ならば名誉棄損で訴えてもいいけれど、おそらくマスコミはギリギリの範ちゅうで仕掛けているからショウさんは困っているのだろう。 そんな目にあっているジンが心配だ。「マスコミは俺がどうにかして押さえる」 ショウさんが力強く言うのだから、任せておけば本当になんとかしてくれそう。「ジンを守るのが俺の役目だからな」 ショウさんは有言実行という言葉が一番似合う人だと思う。 表向きは仲が悪くなったように見えても、ショウさんとジンはお互いに大切に想っている。 血は繋がっていなくとも、ふたりは兄弟のように切っても切り離せない関係だ。 マンションに帰ると明かりが付いていて、ジンがリビングのソファーに座りながらスマホを耳に当てて電話をしていた。「だから、ここは俺の大切な場所なんだよ!」 ジンが発する言葉の言い方が普段と違って少々荒々しい。 本気で怒っているわけではないけれど、イラついている感じだ。「ここは社長が管理してるマンションなんだから、なんとでも言い訳できるよ。記者には十分気を付ければいいんだろ?」 誰と電話しているかは尋ねなくてもショウさんだとわかったし、今口論している内容も先ほど私が聞いた話だと想像がついた。 自分の部屋に荷物と上着を置いてリビングに戻ると、ジンはもう電話を終えていた。「今の電話、ショウさん?」「ああ」「ここには来るな、って言われた?」 なぜ会話の内容がわかるのだ、とジンが目を見開いて驚いていた。 日本での同棲疑惑が囁かれているのだから、ここの場所がバレている可能性
「さっきショウさんに聞いたの。ドラマの話とか、第二弾の記事とか」「俺、しばらくここに来るのはやめる」 ジンは不本意だ、という気持ちを前面に出した表情をしていた。 さっきの電話の口調とは反対に、やけに素直なところに私は違和感を覚えた。「ショウくんに、お前が出入りすることで由依がそこに住めなくなるかもしれない。由依が追い出されてもいいのか? って説教された」 私のためを思って動けと、ショウさんはある意味ジンを脅したみたいだ。 自分のことを理由にされるのは気持ちよくはないけれど、それでもショウさんの助言どおり、ジンが不用意にここに出入りするのは危険だと私も思う。 彼がこれ以上週刊誌で騒がれて傷つかないためにも、しばらくここに立ち寄らないのは私も賛成だ。「ショウさんから聞いたけど、ドラマには出ないの?」 早速もう帰るつもりなのか、テーブルの上を片付け始めたジンに言葉をかけると、なんでもないことのようにあっさりと首を縦に振った。「断ってくれって言ってる」「せっかくの大きな仕事なのに」 考える余地なく断るにはもったいない話だと、私の気持ちが言葉尻で伝わったのか、ジンは私に小難しい視線を送って来た。「相手の女優が気に入らないのもあるんだ。柳 莉紋(リュウ リーウェン)で内定してるらしいから」「りゅ……?」「ほら、俺が初めて出たMVで共演した子」 あのMVでしか見たことはないけれど、今でもはっきりと覚えている。 男心をくすぐるようなほんわかとした雰囲気のとってもかわいらしい容姿をした女性だった。「すごくかわいい人なのに、どうして気に入らないの?」 彼女を思い出しながらも笑顔で話す私とは対照的に、ジンがうんざりだとばかりに顔をしかめた。「顔はどうでもいいとして性格が悪いんだ。ありえないくらいにワガママ」 おそらくだけれど、彼女のそのワガママな性格に以前直面したのだろう。「また共演なんてごめんだ」と、ジンが心の底から嫌そうに言った。 人は見かけによらないとはこのことで、あんなにかわいらしくて素直そうな女性なのに、性格の悪い一面があるとは思いもよらなかった。「これでドラマの話が来なくなるならそれまでだ。細々とモデルだけやってもいいし、全部やめたっていい」「……ジン」「俺は北京語ができるから、どこか日本の企業に就職できるだろう」 ジン
ジンは私の頭を優しく撫で、額にチュっとキスを落とす。「外で会って平気?」「日本は大丈夫だろ。不安ならホテルで密会する?」「え?! 」 一瞬動揺した私を見て、ジンが吹き出すように盛大に笑った。「なにを想像したんだよ。まぁ、間違ってはいないけど」「もう!」 ケラケラと笑う彼を見て、なぜか少しホッとした。 出会ったころはよく笑っていたのに、最近めっきり笑顔が減った気がしていたから。 彼にはいつも笑っていてほしいし、自分の周りにいる人たちもみんな笑顔になれたらいい。 だけど私にとって彼はもう特別な存在だから、誰よりも心から笑顔でいてほしいと願っている。 ジンとショウさんの言い争いが絶えなくなった、と甲さんから聞いたのは、それから一ヶ月ほど経ったころだった。 ドラマのオファーのことで大揉めになっているのかと思ったけれど、それだけではないらしい。 今後の仕事の方針や、プライベートの過ごし方など、あらゆることで衝突する日々なのだそう。 ほんの些細なことでも衝突するなんて以前なら考えられない光景だけれど、今のジンとショウさんならあり得ると思う。 空気が悪いなんてもんじゃない、と甲さんが嘆くぐらいだから相当殺伐としているのだろう。 そんな日々も過ぎていき、季節は梅雨も半ばを迎えようかという蒸し暑さの中。―― 多くの人間が関係する大変な事が起きた。「話がある」 私を呼び出したのはショウさんで、用件はなんだろうかと特に気構えることなく待ち合わせのカフェへと向かった。 するとそこには甲さんもいて、私を手招きしている。 挨拶もそこそこに私の向かい側に座るふたりの顔を見て、なにか良くないことを告げられると予感した。 こういうときの勘は、なぜか当たるものだ。「回りくどく言うのは苦手だから結論から言う」 無表情に淡々とショウさんが話を切り出した。「ジンと、別れてくれ」 神妙な顔つきで私を見つめるショウさんは苦渋の表情だ。「あ、あの……」 一瞬で声が震えた。 誰かに交際を反対されるかもしれないと一定の覚悟はあったけれど、交際の事実を自分たちから伝えないままショウさんからいきなり別れろと言われて、私の頭は途端に混乱し始めた。「お前たちが数ヶ月前から付き合ってるのは知っていた。相手が由依だから黙認してただけだ」 ショウさんは私たちの交際を
「俺らはポラリス・プロの人間だが他人事じゃない。相馬コーポレーションの資金力でポラリス・プロは成り立ってると言っても過言じゃないからだ。あっちに倒れられたら、こっちも共倒れだ」 いつも緩慢な笑みを浮かべる癒し系の甲さんまで神妙な顔つきでただ聞いているだけだから、どうやら私が思う以上に事は深刻なのだろう。「資金繰りは社長がなんとかするって言ってるけどね。だけどショウさんのツテで、台湾の事務所にも借り入れをお願いしてるんだ」 個人でなんとかなるような、そんな金額ではないと思う。 私は会社の経営に関しては詳しくないけれどその程度のことはわかる。「幸い、台湾の事務所は協力すると言ってくれてる。だけどそれには条件を突き付けられた」「……条件?」 おそるおそる聞き返すとショウさんはコクリと首を縦に振った。「例の長編ドラマにジンを出演させることだ」 あのオファーについては、ジンが頑なに嫌がっていて未だに保留の状態らしい。「こうなったら、なりふりなんて構っていられない。俺はこの話を受けるつもりでいる」「でもジンが……」「なんとしてでもあのドラマには出てもらう。俺が出させる」 強行突破、というのはこういうのを言うのだろう。 本人の意向を無視してでも出演させるとは、かなり強引なやり方だと思う。 だけどジンの気持ちを無視してまでも、その選択しかないのだと追い詰められているみたいだった。「どうして台湾の事務所はそのドラマにこだわるんですか?」 仕事ならほかにもオファーがあるはずなのに、本人が嫌がっている仕事をなぜ無理強いするのか私はそこが引っかかる。「長編ドラマの仕事を受けたら、ギャラとして事務所に大きなカネが入る。だけどそれだけじゃない。断れば懇意にしているプロデューサーの顔に泥を塗ることになる。事務所はプロデューサーと関係が悪化するのを避けたいんだ」 力のあるプロデューサーに逆らいたくないからだとショウさんが説明してくれた。 それにドラマのオファー自体は悪い話ではない。 むしろジンの人気を後押しするきっかけになるはずだから、あとはジン自身が首を縦に振るだけだとみんな思っているのだろう。「相馬コーポレーションもポラリス・プロも倒産回避。ジンは俳優として本格デビューして人気が上がる。ドラマはヒット間違いなし。それで全部丸く収まる」 たしかにシ
「ちょっと待ってください。なぜそうなるんですか?」「俺だってこんなことを君に頼みたくはなかった。だけどジンがドラマの仕事を受けない理由はただひとつなんだ。君と一緒にいたい気持ちが強い」 最初はそうだったかもしれないけれど、相馬さんの会社の資金繰りの話をすればジンだって気持ちが変わるかもしれないのに。「私が説得してみます。事情があるとわかればジンはオファーを受けるはずです」「いや、無理だ。ジン自身がこの倒産危機を知らないとでも思ってるのか? すでに話してある。それでもジンは君と離れるのが嫌で、芸能活動を辞めるとまで言った。そうなると俺は、アイツと君を無理にでも引き離すしかない。なりふり構わないと言ったろ。必ずドラマには出演させる。俺は本気だ」 決して激高はしていなかったが、ただ淡々と話すショウさんが私は逆に怖くなった。 誰がなんと言おうと絶対に自分の意見を押し通して、この局面を必ず乗り越えるのだという固い決意がショウさんの中に見えたから。「気づいたんだ。今後もし同じことが起きたらジンはまた君を優先する。それは芸能活動をしていくにあたって“支障”になる。だったら今のうちに別れさせるべきだろう」 いつも助け舟を出してくれる甲さんも、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んでいる。 次から次へと矢継ぎ早に言葉を並べられ、私は頭が混乱してなにも言い返せない悔しさからかじわりと目頭が熱くなった。「それでも………どうしても一緒にいてはダメですか?」「……由依」「私はジンのことが、すごく好きなんです」 涙がポロリと両目からこぼれ落ちた。 一度だけワガママが許されるのならば、ジンと一緒にいたい。 ほかには何も望まない。愛する彼と笑って一緒に生きていきたいだけだ。 そんなたったひとつの切なる願いを訴えてみたけれど、ショウさんは眉間にグッとシワを寄せて私を真正面から見つめた。「もっとすんなりとわかってもらえると思ってた。君は今俺が話したことをなにも理解できなかったのか?」「いえ、そういうわけでは……」 手の平で頬の涙を拭う私に、ショウさんは動揺することなく視線を送り続けてきた。「今回の倒産危機は君も他人事ではない。今君が住んでるマンションも社長は手放すことになるだろう。それにお姉さんの就職もきっと白紙だ。系列会社だといっても間違いなく危機に陥り、コネで
激しく動悸がして、息ができないくらい苦しくなった。 後頭部をなにかで殴られたような衝撃を受けている私を気の毒に思ったのか、さすがに言い過ぎだと甲さんが止めに入ってくれた。 姉と母は相馬さんの恩恵があってこそ今がある。 ジンのことで頭がいっぱいで、大事なことなのにすっかり抜け落ちていた。 就職するのだと、気恥ずかしそうに話していた姉の姿が頭に浮かんだ。 それがダメになったら、また夜の仕事を続けるのだろうか。 母も施設の入所が決まっているようだったし、そこで治療しながらゆっくりと過ごすはずだ。 なのに白紙となれば、また自宅で暴れたりするのかもしれない。 姉と母の幸せを奪って踏みつけるようなことをし、お世話になった相馬さんが大変なときに恩を仇で返すようなことをしてまでもジンと一緒にいたいだなんて、そんなワガママが許されるはずがないじゃないか。 ボキッと音を立てて、このとき私の心が折れた。 私はなんのために実家を出てあのマンションで暮らし、就職をして独り立ちしたかったのかと理由を思い返せば、すべては家族のためだったはず。「君が離れてくれればジンは必ず大成する。台湾と日本だけじゃない。韓国、フィリピン、タイ、シンガポール、中国本土、香港……必ずアジアは制覇する。俺がさせてみせる。そしてその次はハリウッドだ」 夢で終わらせるつもりはないのだと、ショウさんが至極真面目に言ってるのが伝わってくる。「君が思っているより、ジンの“光”は強い」 ジンは生まれもってのスターで、その使命をもって生まれてきた。同じ人間でも私とは全然違う。 そんな、星のような人に近づきたいだとか、今なら手が届きそうだなんて願った私が ―――身の程知らずだったのだ。「もし、姉の就職や母の施設入所が白紙になりそうになったら、ショウさんが助けてくれませんか?」 ボロボロと止まらない涙を流す私を見て、ショウさんは黙って聞いていたがなにかを感じ取ったらしい。「由依、それは……」「…………私は消えます」 涙で濡れて視界が歪んで見えるけれど、ショウさんがホッと息をついたのがわかった。「その代わり、姉と母を助けてください。お願いします」 最初から許されない身分違いの恋だったのだ。 周りに反対され、ほかの人を不幸にしてまで突き進むだなんて、私にはやっぱりできない。 私の大切な人
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普