真希は江茉の墓前で長い時間を過ごし、そろそろ帰ろうとしたその時、向かいから歩いてくる一団の姿が目に入り、思わず足が止まった。その中にいた万尋も、すぐに彼女を見つけた。真希が事故に遭ってから、二人が顔を合わせるのはこれが初めてだった。万尋は江茉の墓前に供えられた花に気づくと、表情が一瞬で冷え込んだ。次の瞬間、彼の隣にいた母親・古川章子(ふるかわ あきこ)が真希を見つけるなり、激昂して駆け寄り、彼女の腕を乱暴に掴んだ。「よくも来れたわね!」章子は怒りに震えながら、勢いよく真希の頬を平手打ちした。「今すぐ消えなさい!出ていけ!」鋭い痛みとともに、真希の視界が一瞬ぐらつく。後ずさりしながら、唇を震わせた。「おばさん、私はただ……」「黙ってよ!」章子は怒鳴り声をあげた。「あんたなんかが江茉を見に来る資格なんてない!江茉はあんたのせいで死んだのよ!消えなさい!」真希の頬はすぐに赤く腫れ上がった。痛みをこらえながら、ただ黙って章子の怒りを受け止めるしかなかった。万尋の父親・古川永正(ふるかわ えいせい)が慌てて章子を抱きとめ、必死になだめようとした。「黒澤さん、帰りなさい。もうここへは来ないでくれ」だが、章子の怒りはそれでは収まらなかった。地面にある花に目を留めると、永正の腕を振りほどき、それを掴み上げて真希に投げつけた。「偽善者ぶるんじゃないわよ!あの日逃げなかったら、江茉はこんな無惨な死に方をしなくて済んだのよ!酒に酔った男が五人もいて、江茉を一人残して逃げたんだ!あの子は……あの子は……」章子は真希を激しく憎んでいた。たとえ誰もが知っていたとしても――あの時、真希が逃げなかったら、結局二人とも同じ運命を辿っていただろうということを。だが、江茉の死はあまりにも惨かった。だからこそ、誰もが憎しみに囚われ、他の可能性を見ようとしなかった。真希が江茉を先に逃がさなかったことを責めた。犯人の男たちは、二度と外の世界に出られないようにされた。そして真希もまた、一生罪悪感という名の牢獄から逃れられないように――。章子は嗚咽を漏らしながら、拳を振り上げ、何度も真希を叩いた。「江茉はまだあんなに若かったのに……あんなに優しい子だったのに……どうしてあの場に一人置き去りにしたの!?どうして……!
翌日、真希は会社を休んだ。そして、一人でお寺へ向かった。帝都近郊には、「霊験あらたか」と評判の空昭寺がある。この数年、真希は何度もこのお寺を訪れ、仏前で長い時間祈り続けた。江茉が極楽浄土へと旅立てるように――万尋が平穏無事でいられるように――だが、もう二度とここへ来るわけがないかもしれない。今回、真希は空昭寺の菩提樹の下に跪いた。昔から、心からの誠意を示せば、お寺の貴重な宝を授かることができると言われているからだ。日が暮れると、突然雪が降り始めた。冷たい風が容赦なく吹きつけ、真希の体を芯から凍えさせた。すると、全身が激しく痛み、寒さにもかかわらず、額には細かい汗が滲んだ。体が止めどなく震え、ついに「ぷっ」と、口から血を吐いた。それでも、真希は立ち上がらなかった。そのまま一昼夜、動かずに跪き続けた。夜が明けるころ、僧侶が境内を巡回していると、半分雪に埋もれた真希の姿を見つけた。近づくと、白い雪の上に鮮やかな血の跡が広がっていた。僧侶は静かに尋ねた。「大丈夫ですか?お嬢さん、そこまで誠心誠意を尽くして、一体何をお求めですか?」真希は青ざめた顔で、ふらつきながら立ち上がり、手を合わせて深く礼をした。「長生の蝋燭と……厄除お守りをいただきたいのです」長生の蝋燭は、亡き者の位牌の前で灯せば、その魂が来世で安らぎを得られると言われるもの。真希は願いを叶えてもらうと、震える体を引きずりながら、そのまま会社へ向かった。これが、去る前に彼らに残せる、唯一のものだった。万尋が自分の贈り物を受け取るはずがないことは、真希にも分かっていた。だから、昼休みの誰もいない時間を見計らい、そっと長生の蝋燭を万尋のデスクの上に置いた。厄除お守りは、後日、彼の車の中に忍ばせるつもりだった。会社を出たあとも、真希はすぐには立ち去らなかった。万尋がこの蝋燭を持ち帰るのか、どうしても確かめたかった。そして、午後六時半。万尋が会社を出てきた。その手には、長生の蝋燭の袋があった。真希の胸が高鳴った。しかし、次の瞬間、彼は無造作にその袋をそばにいた朋也へ渡し、ある方向を指差した。そこは、ゴミ捨て場だった。真希の顔色が変わった。捨てるつもりなのか?慌てて朋也のあとを追っ
真希は、雨に濡れそぼったお守りをそっと拾い上げた。万尋はその中に小さな紙切れがあることには、気づかなかった。「万尋が平穏無事で、喜びに満ちた人生を送れますように」雨水に滲んだ文字は、もはや判別できないほどにぼやけていた。突然、血のような鉄臭さが喉元までこみ上げるが、真希は必死に飲み込み、目に滲んだ涙を無理やり押し戻した。三日後、真希は再び会社へ出勤した。交通事故による外傷はほぼ治っていたが、胃がんの症状はますます悪化していた。見かねた祐人がわざわざ訪ねてきて、「無理せず休んだほうがいい」と何度も説得したが、彼女の意思を変えることはできなかった。その夜、万尋と、またしても付き合いへ向かうことになった。次から次へと酒を勧められていた。真希は一切断らず、杯を重ねていった。「黒澤さん、さすがですね!こんなに飲める女性、なかなかいないよ!」喧騒の中、万尋は静かに彼女を見つめ、その姿を目に焼き付けるようにじっとしていた。結局、この夜も彼女は酒を飲み続け、宴が終わる頃にはすっかり泥酔していた。だが、胃は焼けるように痛んだ。人目を盗んでトイレに駆け込み、薬を二錠飲み込んだ後、何とか痛みに耐えながら席に戻った。しかし、個室に戻ると、すでに人はまばらだった。万尋の姿はどこにもない。いつものことだ。どうせまた、彼は先に帰ったのだろう。真希はそう思い、気にも留めずに店を後にした。冷たい風が吹きつけ、酔いが回った体に寒さが染みる。道路の車のライトは、霞がかったようにぼやけて見えた。ふらふらと車道の真ん中へと歩みを進め、片手を挙げてタクシーを止めようとした。「ビ――!!」甲高いクラクションが響き渡った。猛スピードで突っ込んでくる車。避けようとしたが、泥酔した体は言うことを聞かず、動きがワンテンポ遅れた。ぶつかってしまう。そう思った次の瞬間、後ろから強い腕が彼女の体を引き寄せた。ドンッ!勢いよく歩道に引き戻され、彼女は目を見開いた。目の前にあるのは、夜の闇のように深い瞳。「また轢かれるつもりか?」低く抑えた声が、静かに響いた。真希はぼんやりと彼を見上げた。現実と過去の記憶が交錯し、思考が曖昧になる。彼の腕の中にいる――それだけで、何年も前のあの夏の記憶が蘇った。
土曜日、真希は同窓会に参加した。生命の最後に、もう一度あの頃の仲間たちと会って、自分の青春に別れを告げたかったのだ。だが、思いがけず万尋も来ていた。彼はもともとこういう社交の場が好きではなく、以前はいつも真希と江茉に無理やり連れてこられていた。それなのに、今日は自ら姿を見せただけでなく、京香まで連れてきていた。皆で酒を飲み、歌い、おしゃべりをして、やがてゲームが始まった。「さあ、ルーレットゲームだ!止まった人は真実か挑戦、どっちかを選べ!」ちょうどその時、万尋は仕事の電話を受けるために席を外していた。真希はこういうゲームには慣れていなかったが、皆に促されるまま参加することになった。ルーレットが回り、最初に止まったのは真希だった。カードに書かれた挑戦内容は、次に部屋へ入ってきた人と十秒間キスをすること。真希はそのカードを握りしめ、黙り込んだ。京香は得意げに笑いながら言った。「真希さんって純潔を大事にするタイプでしょ?どうしてもできないなら、私の靴を磨いてくれたら、挑戦は免除してあげるわ」その挑発的な視線に、真希は指を強く握りしめた。もうすぐ死ぬ身だ、誰とキスしようが関係ない。「挑戦するわ」彼女は静かに言った。京香は驚くどころか、むしろ笑みを深め、目の奥に鋭い光を宿した。その頃、廊下では。万尋は電話を終えて振り返った瞬間、汚れた格好の浮浪者が上機嫌に歩いてくるのを目にした。男は電話をしながら興奮した声で話していた。「今すげえ仕事ゲットしたぜ!ある女をはめるために、わざわざ俺にキスしろってさ!」電話を切ると、そのまま個室の扉へと向かった。男はニヤつきながら唇を舐め、ドアを押し開けようとした。その瞬間、突然強い力で腕をつかまれた。「すまん」万尋は冷ややかに言い放ち、先に個室へと足を踏み入れた。個室にいた皆は、入ってきた人物を見て一瞬で静まり返った。京香の顔色が変わる。なぜ彼が!?真希も驚いたように万尋を見つめた。だが、当の万尋は何事もなかったかのように冷然とした表情で、「何を見てる?」と低く問った。誰かがためらいがちに答えた。「ルーレットは止まった人が真希さん……最初に入ってきた人とキスしなきゃならなくて……」万尋は静かに席に座ると、「くだらん
深夜。万尋はまだ寝室の窓辺に立っていた。手には少し古びた指輪が握られている。それは、かつて真希にプロポーズしたときの指輪。あのとき、ほんの少し――あと少しで、結婚できるはずだった。彼はじっと指輪を見つめ続けた。どれほどの時間が経っただろう。やがて目を閉じると、力いっぱい指輪を投げた。小さな指輪は、静寂に包まれた夜の闇へと消えていった。数日後。真希は病院での検査を終えて帰宅した。すると、家の前に車が停まっているのが目に入った。車にもたれかかるようにして立つ万尋の姿があった。まるで大学時代、彼がよく寮の前で待っていてくれた時のように。真希は買ってきた薬をバッグに隠し、彼のもとへ歩み寄った。「私に何か?」万尋は彼女を見つめ、ふと気づいた。真希が、以前よりずっと痩せたように見える。顔色も、ひどく蒼白だった。喉がわずかに動いたが、彼は何も言わず、ただポケットから招待状を取り出した。真希は視線を落とし、招待状を見た途端、全身が凍りついた。動くことも、声を発することもできないまま、じっと立ち尽くした。頭上から、万尋の冷淡な声が降ってきた。「俺と京香が結婚する。伝えておく。ただ、それだけだ。来るなよ。祝福の言葉もいらない」真希の胸に鈍い痛みが広がった。彼はもう、これほどまでに自分を憎んでいるのか。これから先、一生顔も見たくないほどに。震える手で招待状を受け取りながら、彼女は最後まで顔を上げることができなかった。かすかに頷き、小さく言葉をこぼした。「お幸せに」万尋と京香の結婚式は、一週間後に迫っていた。真希は会社に退職願を提出し、すぐに受理された。彼が結婚する。もう二度と自分には会いたくない。――それなら、自分が償うのもできないだろう。結婚式の三日前。真希はこれまでの財産を整理した。古川グループで働いた数年間、貯金はそれなりにあった。彼女は家を売り、その全額をこども育成基金に寄付した。結婚式の二日前。真希は墓地を訪れた。江茉のお墓の隣に、自分の墓の区画を購入した。そして、墓地のスタッフにこう頼んだ。「竿石には、名前を刻まないでください」墓参りに来る人もいないからだ。そうすれば、古川家の人が見ても、自分だと気づか
帝都の一年に一度の企業交流会が、今年も例年通り開催された。会場に集まるのは、どれも名だたる企業の経営者たち。だが、誰の目にも明らかなように、その中心にいるのはただ一人。噂の男――古川万尋。三年の歳月が、彼をさらに洗練させた。家業を離れ、独立してからというもの、若き実力者として頭角を現し、一つの決算期だけで華々しい成果を叩き出した。今や彼を支えているのは、名門企業の後ろ盾ではなく、彼自身が切り開いた新たな産業である。突然、ある男性が隣の女の子に小さな声でつぶやいた。「ねえ、なんで古川社長はわざわざ家業を捨てて、独立したか知ってる?」めったに聞けないゴシップに、女の子は興奮気味に問いかけた。こういった場に来るのは初めてで、名だたる経営者たちに囲まれながら、先輩の里見晃樹(さとみ あき)の話に耳を傾けていた。「信じられないかもしれないけど、古川社長って昔、結婚式当日に逃げたのよ!俺も詳しいことは知らないけど、当時、長年付き合ってた花嫁を置き去りにして、パナメーラに乗ってそのまま消えたって話。金持ちの結婚なんて、俺たちが想像するほど単純じゃないのよ。あの結婚破棄は、自分の家族、花嫁の家族から裏切った。それでそのお父さんが事業を使って脅したんだけど、結局彼は全部放り出して辞めちゃったの」「ええっ……」女の子は思わず口元を押さえ、声にならない悲鳴を上げた。「それで、それで!なんで逃げたんですか!?気になるから最後まで話して!」「だから詳しいことは知らないってば。ただ、当時の関係者によると、古川社長は電話を受けた後、即座に会場を飛び出したらしいのよ。きっと、本当に愛してる人に何かあったんじゃない?愛する人を得られず、でも完全には手放せない……いやあ、まるでドラマみたいだよね」ところが、その時だった。女の子は突然、晃樹の背後に立つ長身の男の存在に気づき、顔面蒼白になった。彼女は慌てて晃樹の袖を引っ張るが、晃樹はまだ話し足りない様子で続けた。「ちょっと、何すんのか。そんなに引っ張ったら皺になるでしょ?後で部長にまた怒られるじゃん」「古……古川社長……」怖い女の子は顔を伏せ、心の中で「しまった……」と絶望した。もし、万尋が晃樹の話を全部聞いたら……万尋は整った顔立ちをしていたが、どこか冷
万尋のデスクにインスタント写真立てだった。中には、二人の少女が無邪気に笑っている。一人はどことなく万尋に似ていて、もう一人は花梨と受付嬢を足して二で割ったような顔立ちをしていた。「きっと、社長の恋人か家族なんだろうな」彼らは口には出さずとも、同じことを思った。「座れ」万尋は、酒の匂いをまとったまま、眉をひそめてソファに腰を下ろした。どうやら食事会から戻ったばかりのようだった。「入社する気があるなら、受付で手続きを済ませろ。後で担当者が仕事を教える。給与は試用期間の基準で支払う。納得したら契約書にサインしろ」この三年間、万尋は真希に似た顔の女性を見かけるたび、できるだけ傍に置くようにしてきた。だが、彼女たちに手を出すことは決してなかった。ただ、空昭寺の住持が言ったのだ。「人に善を施して、欲を断って、怒りを戒めて、心に想う者のために日夜経を唱えれば、その者が来世において安らかに転生する助けとなります」と。万尋は、忠実にそれを守り続けた。真希に似た顔を目にするたび、まるで彼女がまだ傍にいるかのような錯覚に陥った。それだけで、夜ごと襲いくる悪夢に苛まれずに済む気がした。世間が自分をどう噂しているかなど、興味がなかった。なぜなら、こういう思っていた。真希が死んだ日、空は晴れ渡っていた。それ以来、帝都の空は一度も晴れることはなかった。太陽はいつも厚い雲に隠れ、空気を覆う靄が霧なのか、それとも汚れた大気なのかすら分からないまま、彼の世界を灰色に染め続けていた。息ができない。まるで溺れているように、絶えず苦しさが付きまとっていた。脳裏には、あの日の祐人の真っ赤に充血した目が、警告灯のように点滅していた。江茉が涙ながらに「お兄ちゃん、どうして助けてくれなかったの?」と訴える夢を何度も見た。真希が膨れた体で水面に浮かびながら、「新婚おめでとう、幸せになってね」と微笑む悪夢にも、何度も苛まれた。悔恨と痛みが炎のように、昼も夜も彼を焼き尽いている。結局、眠れなかった。疲れた表情で煙草に火をつけ、窓の外を見つめた。この街のどこかに、自分の帰る場所はあるのかと思った。家族とは絶縁し、京香とも離婚した今、万尋に行くあてはなかった。彼が戻ってきたのは、真希と一緒に暮らすために買ったこ
半年後、万尋は退院した。傷だらけの体にスーツを纏えば、また業界の第一線で華々しく名を馳せる「古川社長」に戻った。だが、凜佳はずっと彼と連絡を取り続けていた。今日、また彼の首を絞めた跡を見た。「昨夜も黒澤さんの夢を見たんでしょう?」彼女はできるだけ穏やかな口調で尋ねたが、万尋は怪訝そうに彼女を一瞥した。「ああ」彼は温かいミルクの入ったカップを置きながら答えた。「真希は俺を殺そうとした。俺を連れてそっちに行こうとしてな。でも、俺がそれを受け入れるたびに、彼女は必ず躊躇うんだ」実は、彼のヒステリーは少しも良くなっていない。毎回、まるで真希がまだこの世に存在しているかのように話した。でも、凜佳はそれを否定せず、彼に合わせるしかなかった。でなければ万尋は即座に治療への協力を拒むだろう。「でも、考えたことはありますか?」彼女は静かに言葉を続けた。「なぜ妹さんは現れないのでしょうか? この言葉通りでしたら、お二人ともに古川さん対して恨みを抱いてるはずなのに、不思議と黒澤さんだけが責めに来られますよね」万尋は言葉に詰まり、しばし沈黙した後、ぼそりと呟いた。「俺が死ぬべきだからだ」彼はいつもこんな調子だった。まともな会話にならなかった。凜佳もそれには慣れていた。彼は人を傷つけることはしないし、強制入院させられるほど危険な状態でもない。だから彼女にできるのは、ただ薬を処方することだけだった。だが、それこそが万尋の望むことだった。彼はこの心の澱みを解消しようなどとは思っていなかった。ただ、薬で一時的に自分を麻痺させ、仕事をこなすことだけを考えているのだった。世間では万尋を「成功者」だと讃えるが、彼自身は、まだ十分ではないと感じていた。三年前、真希が亡くなる前にこども育成基金へと寄付した金額――それを埋めることが、彼の仕事を続ける理由の一つとなっていた。何度も多額の寄付をしているが、それでもまだ遥かに足りないと感じていた。万尋は薬の入った袋を手に車へ乗り込んだ。その瞬間、スマホが軽やかな通知音を鳴らした。大学時代の級長が作ったグループチャットからだった。【今週日曜、卒業8周年の同窓会をやるぞ!今いるやつはみんな来いよ!】まったく興味が湧かなかった。万尋はメッセージ
車を走らせ、北へと向かった。花梨の結婚式まではまだ少し時間があるため、道中、観光を楽しみながらの旅となった。大学時代、真希は旅行を楽しむ同級生たちを羨ましく思っていた。しかし、両親を亡くした彼女にとって、日々の生活を維持するだけでも精一杯だった。どれほど江茉と仲が良くても、彼女に全額負担してもらい、何不自由なく旅行することには気が引けた。今、真希の体調はすっかり回復し、旅の途中で名山のある地方を通ると、三人は登山へと出かけた。山道は険しく、頂上にたどり着くまでの道のりは決して楽ではなかったが、山頂からの景色を目にした瞬間、すべての苦労が吹き飛ぶような気持ちになった。まるで、ここ半年の人生の変化そのもののようだった。帝都に到着すると、花梨は待ちきれない様子で家族を迎え、自分たちがローンで購入した小さな別荘へと案内した。晃樹は万尋の会社で営業職として働いていたが、意外にもかなり順調にキャリアを積んでいた。「彼って、ほんとに実力あるのよ」旦那のことを話す花梨は、誇らしげな表情を浮かべた。「もともと、噂話を集めるのが得意だったし、この仕事はまさに天職って感じ。もう、毎日絶好調って感じよ」「おいおい、褒めすぎだろ?」晃樹は笑いながら、彼女の腕を軽くつまんだ。二人のやり取りはまるで夫婦というよりも、仲の良い子ども同士がじゃれ合っているように見えた。真希は祐人の耳元で、そっと感想を囁いた。ところが、その瞬間、不意に彼の唇に触れてしまった。祐人の顔は一瞬で真っ赤になった。この半年、二人は自然と恋人同士の関係になったが、それ以上の関係には踏み込まずにいた。祐人は、過去の恋愛が真希の心に棘のように刺さっているのではないかと、ずっと気にしていた。しかし、真希は急ぐことなく、時には年下の祐人をからかうように、余裕のある態度を取っていた。三日後、結婚式が行われた。ウェディングドレスに身を包んだ花梨の姿を見て、真希の心は少し揺れた。三十歳になった彼女は、もう長く待ちたくはなかった。それなのに、祐人は相変わらず鈍感なままだった。前に、花梨の招待状は万尋にも送られていた。だが、彼は返事をせず、その代わりに彼女と晃樹、それぞれに結婚祝いとして二十万円を振り込んだ。やがて結婚式が始まる。
「まだそんなに早くはないよ。医者さんが言うには、もう半月は帝都にいたほうがいいって。半月後の再検査で問題なきゃ、本当に安定するだって」万尋は軽く頷いた。彼の視線は真希の顔の上を彷徨い続け、まるで飽きることなく、その顔を悲しげで憂鬱な眼差しで描き出していた。真希はそっと彼の腕時計をはめた手を引き寄せ、バックルを外した。そして、その腕に刻まれた傷跡を見つめた。まるで、自分の醜みを晒されたような気がして、万尋はふと恐れを感じた。反射的に手を引こうとするが、真希はしっかりとその手首を握りしめ、まるでその眼差しに熱がこもっているかのように、彼の骨の奥まで焼き尽くすようだった。「どうしてこんなことを?」「自分が許せなかったから……」万尋は低く呟いた。「もし俺がいなきゃ、真希はこんなにも苦しむことはなかった」真希は微笑み、彼の手をそっと放した。「実は、私、万尋を恨んでなんかいない」彼女は真剣な目で言った。「あの五年間、ただあなたの許しを乞うためにいたわけじゃない。江ちゃんのことが、ただただ悲しかった。確かに、古川家の人間の立場からすれば、私が生きていること自体が罪なのかもしれない。あの日、江ちゃんと一緒に死ぬべきだったのかもしれない。でもね……その日、手術台の上で私が死にかけた時、江ちゃんを見たの。彼女は私のそばにいて、私の手を引きながら、広い川を渡っていた。腰まで、胸まで水が迫ってきても、私は一度ももがかなかった。だって、江ちゃんは私を傷つけるはずがないし、恨むはずもないって、信じてたから。案の定、川を渡りきった時、彼女は呆れたように言ったの。『どうしてこんなに早く来ちゃったの?約束したでしょ、私の分までしっかり生きるって』って」それは、真希がこの八年間で見た中で最も美しい夢だった。死の境界線を漂う中、彼女の最愛の友が、まるで船のマストのように、舵のように、彼女を希望へと導いてくれた。江茉は、本当に優しくて、温かい人だった。もしあの日、凶刃に倒れたのが自分だったとしても、江茉を責めることは決してなかっただろう。そう、江茉の心もまた、同じように。そう言いながら、涙が止めどなくこぼれ落ちていた。真希は手の甲で涙を拭い、同じく涙を流しながら呆然とする万尋を見つめた。「だから、分かった?
あの時、祐人の姉は、せっかく苦労して手に入れた職を捨て、迷うことなく医者になるために警察病院へと向かった。たとえ家族との縁を切ることになろうとも、決して後悔しなかった。花梨は、そんな姉の生き方をずっと勇敢だと思っていた。それだけに、姉の訃報を聞いたときは、しばらくの間、悲しみに暮れていた。「実は、姉が医者になったのは、義兄が警察だったからだ。そして、しっちゃんは二人の娘なんだ。義兄が亡くなって間もなく、姉がしっちゃんのことを俺に託したんだ」祐人の言葉を聞き、ようやく真実を知った花梨は、胸の奥が痛むのを感じながら、病室で真希のそばに寄り添っている蒔月をじっと見つめた。「でも、真希がしっちゃんを大切に育ててくれてるよね」祐人は微笑みながら言った。「だから、姉のことを悲しむ必要はないさ。しっちゃんには素晴らしいママがいるし、これからは素晴らしいパパである俺もいる。まあ、すっかり『叔父ちゃん』呼びが定着しちゃったみたいだけど」花梨は、気まずさを拭いきれずにいた。自分は祐人の親族でありながら、彼と真希の関係をすぐに見抜けなかったばかりか、よりによって社長の手助けをしようとしていたのだから。自分の行動を思い返し、力なく首を振った。「お兄さん、それとね……」花梨は一瞬言葉を切り、ためらいがちに続けた。「古川社長がずっと……」「真希を愛してる、って?」「そう」祐人は、過去五年間のすべてを目の当たりにしてきた。万尋が真希にどれほど冷酷で、どれほど傷つけてきたかを知っている。それなのに、今さら万尋が真希を愛していると言われても、彼には到底理解できなかった。「あいつはクズだ」祐人は淡々と呟いた。「花梨、今の職場って……まさか、あいつの会社じゃないよな?」「うん」花梨は一瞬ためらったが、やがて観念したように答えた。「でも、社長の腕には、すごく長い傷跡があるの」祐人はそれを知らなかった。少し驚いたものの、ただ片眉を上げ、続きを促した。「変な意味じゃないんだけど……」花梨は、ふとした拍子に見てしまった傷跡を思い出した。社長室で机を拭いていたとき、万尋が腕時計のバンドを外した瞬間、その傷がちらりと見えたのだ。「もしかして、社長は本当に自分の過ちを悔いてるのかもしれない」
花梨は、万尋が見せた脆弱さに戸惑いながらも、彼がこんなにも落ち込んでいる姿を見たくないと思った。少しためらった後、おそるおそる口を開く。「こんなこと言うのは、私の立場では余計なお世話かもしれませんけど……社長、黒澤さんにきちんと説明しようとは思わなかったんですか? それに、しっちゃん、本当にお子さんじゃない可能性はありませんか?」「違うんだ」万尋は苦笑し、首を振った。「もしそうだったら、どれだけよかったか……」花梨には、その笑いに込められた苦しみや後悔の深さが理解できなかった。万尋自身、一生かけても過去の過ちを許せないのかもしれない。診察室にて。「骨折ですね」診察した医師はそう判断し、万尋の顔色を見て尋ねた。「熱もあるようですが?」手を伸ばして額に触れようとすると、万尋は丁寧にその手を制した。彼自身、高熱の原因が夜明け前の薬の乱用と、窓辺で冷たい風に当たっていたせいだとわかっていた。軽く頷きながら、淡々と言う。「ギプスをします。でも、それよりも先にやらなきゃいけないことがあるんです」万尋は手術室へ戻ろうとしたが、蒔月を気にかけていた花梨にまず整形外科で診てもらうよう強く勧められた。やはり、病状は彼の予想はほぼ的中していた。立ち上がり、軽く足首を動かしてみると、痛みは麻痺して少し鈍くなっている。そのまま診察室を後にして、手術室へ向こった。でも、手術室の前のランプはまだ消えていなかった。万尋は一瞬、動揺しながらも、すぐに看護師に尋ねた。「まだ終わっていないんですか?」看護師は彼を覚えていたようで、首を振った。「患者さんはすでにICUに移動しました。今は次の手術が行われています」その瞬間、万尋は大きく息を吐き、同時に眩暈を覚えた。ふらついた拍子に負傷した足を踏みしめ、鋭い痛みが走っていた。それでも、彼はこの数日で初めて、心からの笑みを浮かべた。花梨の言葉が脳裏に蘇った。彼女が、優しい慰めに過ぎないとわかっていた。それでも、真希が生きていてくれる。無事だった。そう思うだけで、もしかしたら彼女から「許す」という言葉を聞けるのではないかと、希望を抱いてしまう。実は、万尋の心の奥底には、自分でも認めたくない願いがあった。もう一度、真希とやり直したい。
「お兄さん」階段の方から花梨の怯えた叫び声が響いた。彼女は明らかに意識を失った蒔月を抱きしめ、泣きそうな声で駆け寄ってきた。「お兄さん、しっちゃんが急に倒れちゃったの!」冷静になれ。祐人は頭の中が真っ白になりながらも、何度も自分に言い聞かせた。目の前には力尽きたように膝をつく花梨と、顔を真っ赤にしてぐったりした蒔月の姿がある。落ち着け。冷静になれ。万尋はずっと近くにいたのか、泣いていた花梨の叫びを聞いてすぐに駆け寄った。蒔月の紅潮した顔を見るなり、すぐに判断した。「宮野!泣いてる場合じゃない、ここは病院。急いで救急へ行くぞ!」「花梨!」祐人はすぐに蒔月の服をまくり上げ、彼女の腹部に広がる赤い発疹を見て、ある可能性に思い至った。「しっちゃんに何か食べさせたか?」祐人の姉はアレルギー体質だったが、蒔月にはこれまで特にそういった症状はなかった。そのため、祐人も真希も特に気にしていなかったのだ。アレルゲンが分かれば、処置も早くできる。花梨は涙を拭いながら、急いで記憶を辿った。「さっき一緒に階下へ降りたとき、しっちゃんは飴を食べたくないって言ったから、パンを買ってあげたの……そ、それにピーナッツバターが入ってた」ピーナッツは強いアレルゲンの一つだ。万尋はすぐに蒔月を抱き上げた。祐人が受け取ろうとしたが、万尋は冷たい視線を向け、きっぱりと言い放った。「真希のことはお前が見ていろ。俺は絶対にこの子を傷つけたりしない。俺が行く」祐人は彼の言葉に反論できなかった。蒔月の容態は一刻を争うものだし、さっき危篤の同意書にサインしたばかり。今は時間がない。歯を食いしばりながら、祐人は万尋と花梨が蒔月を抱えて走り去るのを見送った。そして、抑えきれない怒りのまま、壁に拳を叩きつけた。バキッ!関節からじわりと血が滲んでいた。どうしようもない憤りに、祐人は低くうめきながら頭を垂れた。万尋は朝からずっと体調が悪かった。熱で体力がどんどん奪われていくのを感じていた。それでも、彼の腕の中にある小さな体は信じられないほど軽かった。真希の、大切な娘だ。階段を駆け下りる途中、足首がぐにゃりと捻れる感覚がした。しかし、反射的に蒔月をしっかりと抱きしめ、臂と背中で硬い段差を受け止めた。「社長!
昨夜、万尋は不吉な夢を見た。朝焼けがわずかに空を染める頃、目を覚ました。その時、窓の外は氷河期のような寒さだった。氷点下数十度の冬、彼は窓を開け、降りしきる雪をその身に浴びた。まるで、自らへの罰のように。実は、万尋は祐人を羨ましく思った。祐人は堂々と真希のそばに立ち、真希が幾多の困難を乗り越えるのを支え、一緒にかわいい子を育てることができた。それは彼が若かりし頃、切望していた夢だった。しかし今、それは二度と叶うことのない幻想となった。夢の中で、彼は何度もその柔らかな唇に口づけた。しかし、その唇が発した言葉は、冷たく、決定的な拒絶だった。「また私を殺すつもり?もう少しでも近づいたら、手術は受けない……その望み通りにしよう。私はまた万尋の前で死ぬよ」その時、万尋の顔色は悪かった。悪夢から目覚めるたびに、全身冷や汗でびっしょりになった。手足も痺れた。凜佳には、そのままでは最適な対処法ではないと言われていた。だから、彼は手元の薬瓶を掴み、震える指で細い口から一気に大量の薬を取り出し、口へと押し込んだ。歯を強く食いしばる音が響いた。かなり苦い。今、手術室のランプが灯っている。祐人は安全通路の入口で立っていた。そこで、煙草に火をつける万尋と遭遇した。「俺は吸わない」万尋が差し出した煙草を、彼は複雑な表情で見つめ、首を横に振った。万尋は気を悪くする様子もなく、ただ伏し目がちに顔をそらした。その頬には、どこか不自然な紅潮が浮かんでいる。煙草を口に咥え、扉にもたれかかった。煙の向こう、彼の目には一抹の迷いが滲んでいた。「緊張してないのか?」彼は静かに問いかけた。祐人は答えずに、別のことを口にした。「真希は約束してくれた。必ず大丈夫だって」本当は、彼だって緊張している。だが、それを表に出すわけにはいかない。病気の者も、幼い者もいるこの家で、祐人だけ踏ん張るしかない。彼まで怯えてしまったら、蒔月と真希を支える人はいなくなってしまうだろう。一ヶ月前、二人は互いを敵視する恋敵だった。今は、似たような気持ちを抱え、ただ無言で冬の寒さの中、白い息を吐いていた。「結婚は?」突然、祐人は問いかけた。万尋は新たな煙草に火を点けた。小さな光が、薄暗い階段の片隅で
今日の昼食はあっさりしたものだったが、量はしっかりあった。今夜から真希は手術のために十時間の絶食をしなければならない。そのせいか、彼女はつい食べ過ぎてしまった、お腹がぱんぱんに膨れたままベッドに横になっていた。しばらく消化を待っていると、祐人も当たり前のようにベッドに上がってきた。「何してるの?」真希は顔を動かすのも面倒そうに天井を見つめたまま言った。「最近、私のベッドに入るのが、すっかり当たり前になってない?」「ちょっと横になるくらい、いいだろ!」祐人は即座に動揺し、顔を真っ赤にした。真希が自分に好意を持っていると気づいてから、彼の行動は少しずつ大胆になっていた。だが、こうしてズバリ指摘されると恥ずかしくて、すぐに身を起こしてしまった。「祐人」真希は穏やかに呼びかけた。「手術が終わったら、秘密を教えてあげる」「うん」手術当日、花梨が休みを取り、蒔月と病院にきた。彼女はまだ若いが、蒔月とはすっかり仲良くなっていた。たった一週間ほどの間に、蒔月はもう「花梨ちゃん」と甘えた声で呼ぶようになっている。真希は優しく微笑みながら、蒔月を抱き取った。「本当に助かりました。花梨さんがいてくれなかったら、しっちゃんをどうしたらいいか分かりませんでしたわ」だが、花梨の心の中は激しく揺れていた。この数年、真希は病気のせいでずいぶん痩せたが、それでも顔立ちや雰囲気は、万尋のデスクに大切に飾られていたあの写真の女性と、まったく同じだった。戸惑いのまま真希をじっと見つめた。その視線に気づいた真希は、軽く眉をひそめ、不思議そうに尋ねた。「どうししましたか?花梨さん」「えっ……大したことではありません」花梨は慌てて首を振った。今は真相を確かめるときではない。真希はもうすぐ手術を受けるのだ。こんなことを言ったところで、どうにもならない。心がざわついたまま、彼女は医師たちが真希を術前検査に連れて行くのを見送った。そしてふとスマホを取り出し、メッセージを送った。【里見さん、この前言ってた「社長が好きだった人」って、本当に亡くなったんですか?】メッセージを送ると、すぐに返信が届いた。【なんで急にそんなこと気にするんだ?最近たくさん情報を得た。マジで死んだらしいぞ。しかも、自
つまり、彼女は了承したこと?!さっきの祐人はただの衝動で真希を抱きしめた。しかし今は、どうしても手放したくなかった。彼がずっと気にしていたのは、自分を愛していた万尋を目の前にしたとき、真希の気持ちが揺らいでしまうのではないか、ということだった。真希は顔を横に向けると、祐人の耳が真っ赤になっているのを見て、思わずくすっと笑った。「いつまで抱きしめてるつもり?」「しっちゃんもいないし」祐人は小声で言った。「もうちょっとだけ、ね?真希、外は寒いんだよ」真希は午後ずっと日差しを浴びていたせいで、体がほんのり暖かかった。二人はデッキチェアに身を寄せ合い、そのまま昼寝をした。金色の光が祐人の柔らかい短髪に降り注ぎ、陽だまりに漂う塵が星のようにきらめいていた。眠る二人の頬や肩にそっと舞い降り、まるで穏やかな結界が張られたかのようだった。二人は長い時間、そのまま寄り添って眠っていた。その日から、病室の前にはいつも食事の入った容器が置かれていた。祐人は外へ出るたびにそれを蹴飛ばし、真希に「食べ物を無駄にしてる」と言われると、「野良猫を飼ってやってるだけだ」と強がっていた。この三年間、祐人の料理の腕は格段に上がった。幼児食から病人食まで、すべて完璧にこなしていた。病院の近くに小さなキッチンを借り、限られた食材でも驚くほど美味しい料理を作っていた。二人とも、その食事を万尋が届けていることを分かっていた。それに、真希は祐人がそれを処分していることも知っていた。ただ、それを話題にすることはなかった。そんなことを言い出せば、せっかくの平穏な時間が台無しになってしまう。祐人は万尋の作ったものなんて、絶対に真希に食べさせかった。手術まで、あと一日。祐人は買い出しに出かけることになった。真希が買い物リストを渡した。最近彼女は読書に夢中にている。医者からスマホの使用を控えるように言われているため、祐人には新たな日課が増えていた。毎日、真希のために本屋へ行き、読みたい本を買ってくることだ。哲学や心理学の本もあれば、少女趣味の軽い読み物もある。祐人は「子供っぽい」と文句を言いながらも、何キロも離れた本屋まで足を運び、彼女のためにせっせと買い集めていた。ただ、真希が退屈しないように。
こう考えると、真希の心は少し落ち着いた。今、彼女の病室は良い場所にあり、窓から雪に覆われた雑木林だった見えた。冬の午後の陽射しは柔らかく暖かった。真希は椅子を窓辺に寄せ、そこに腰を下ろした。そのとき、扉を叩く音が聞こえた。規則正しく、落ち着いたリズム。ちょうど医師の回診の時間だったので、真希は少し声を張って「どうぞ」と言い、振り返ると、表情が固まった。万尋だった。三年の歳月が彼を大人びた雰囲気に変えた。ロングコートに包まれた体は以前よりずっと痩せており、その分、端正な顔立ちはさらに冷たく鋭く見えた。漆黒の眉は重たく伏せられていたが、その下にある瞳には、隠しきれない熱情が宿っていた。「やった」万尋の声は震えていた。感情が昂りすぎて、言葉にならないほどだった。彼は一歩踏み出し、手に持っていた大きな花束を床に落とすと、そのまま駆け寄って真希を強く抱きしめた。「会えた、真希!」真希は一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。万尋に見つかるのは時間の問題だったからだ。彼の腕はまるで鉄の枷のように彼女の肩を締めつける。襟元にぽたりと滴る温かな雫。それが涙だと気づくのに時間はかからなかった。「そう、私よ」真希は淡々と言った。「久しぶりね」「どうして……」万尋の体は小刻みに震え、息も乱れがちで、言葉すら途切れ途切れだった。「どうして死のうとした……どうして病気のことを隠した……どうして、俺を騙したんだ……」三十を過ぎた男が、まるで騙された子供のように泣きじゃくった。彼は何度も真希の名を呼び、まるで夢の中の幻を逃さぬように彼女を抱きしめ続けた。真希は眉をひそめ、ややうんざりしたように囁いた。「もう少しで窒息するところよ」万尋は弾かれたように腕をほどき、そのまま崩れるように床に座り込んだ。上目遣いに真希を見つめる彼の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。目尻も鼻先も赤く、額には汗とも雪解け水ともつかない滴がにじんでいた。震える手で真希の冷えた手を取ろうとしながら、万尋は必死に涙をこらえようとしていた。しかし、どれだけ唇を噛みしめても、涙は止まらなかった。こんな万尋を見たのは、江茉が亡くなったとき以来だった。「行かないでくれ……」彼は、真希が手を引くのを阻止す