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第9話

作者: 豹ちゃん
深夜。

万尋はまだ寝室の窓辺に立っていた。

手には少し古びた指輪が握られている。

それは、かつて真希にプロポーズしたときの指輪。

あのとき、ほんの少し――あと少しで、結婚できるはずだった。

彼はじっと指輪を見つめ続けた。

どれほどの時間が経っただろう。

やがて目を閉じると、力いっぱい指輪を投げた。

小さな指輪は、静寂に包まれた夜の闇へと消えていった。

数日後。

真希は病院での検査を終えて帰宅した。

すると、家の前に車が停まっているのが目に入った。

車にもたれかかるようにして立つ万尋の姿があった。

まるで大学時代、彼がよく寮の前で待っていてくれた時のように。

真希は買ってきた薬をバッグに隠し、彼のもとへ歩み寄った。

「私に何か?」

万尋は彼女を見つめ、ふと気づいた。

真希が、以前よりずっと痩せたように見える。顔色も、ひどく蒼白だった。

喉がわずかに動いたが、彼は何も言わず、ただポケットから招待状を取り出した。

真希は視線を落とし、招待状を見た途端、全身が凍りついた。

動くことも、声を発することもできないまま、じっと立ち尽くした。

頭上から、万尋の冷淡な声が降ってきた。

「俺と京香が結婚する。伝えておく。ただ、それだけだ。

来るなよ。祝福の言葉もいらない」

真希の胸に鈍い痛みが広がった。

彼はもう、これほどまでに自分を憎んでいるのか。

これから先、一生顔も見たくないほどに。

震える手で招待状を受け取りながら、彼女は最後まで顔を上げることができなかった。

かすかに頷き、小さく言葉をこぼした。

「お幸せに」

万尋と京香の結婚式は、一週間後に迫っていた。

真希は会社に退職願を提出し、すぐに受理された。

彼が結婚する。もう二度と自分には会いたくない。

――それなら、自分が償うのもできないだろう。

結婚式の三日前。

真希はこれまでの財産を整理した。

古川グループで働いた数年間、貯金はそれなりにあった。

彼女は家を売り、その全額をこども育成基金に寄付した。

結婚式の二日前。

真希は墓地を訪れた。

江茉のお墓の隣に、自分の墓の区画を購入した。

そして、墓地のスタッフにこう頼んだ。

「竿石には、名前を刻まないでください」

墓参りに来る人もいないからだ。

そうすれば、古川家の人が見ても、自分だと気づかず、怒ることもないだろう。

結婚式の前日。

真希は身辺整理を始めた。

不要品回収業者を呼び、自分の荷物をすべて処分させた。

何もなくなった家の中央には、ただひとつ、大きなダンボール箱が残った。

中には、万尋と彼女の高校時代の学生証、初デートで観た映画の半券、二人の写真、彼がくれたネックレス、互いに書いた手紙……

長い夜に何度も取り出しては、涙を流しながら読み返したものばかり。

それから、真希は火鉢に火を点けると、箱の中の思い出の品を次々と投げ入れた。

炎は揺らめきながら、それらをゆっくりと焼き尽くしていった。

彼女は静かに座り込み、燃え盛る火を見つめ続けた。

やがて、夜が明け、朝日が昇った。

今日は、万尋の結婚式の日だった。

真希はゆっくりと立ち上がる。

その瞬間、床に赤い染みが広がっていることに気がついた。

顔を触ると、指先に生暖かい液体がついた。

血?

でも、どうでもよかった。

ふらふらと、家を出た。

今日は、珍しく晴れた日だった。

だが、真希の体は寒さに震えていた。

歩くたびに血が滴り落ちていた。

道行く人々が驚いて振り返るが、彼女は一度も立ち止まらず、やがてある大きな橋の上に辿り着いた。

橋の下には、底知れぬ深い川が広がっている。

きっと、冷たくて、痛いほどの水だろう。

真希は欄干に腰掛けると、病院へ電話をかけた。

「すみません、私、今日死にます。

遺体を引き取って、すぐに臓器提供の手続きをお願いします」

電話を切り、じっと川を見つめた。

血だらけの顔に、ふっと笑みが浮かぶ。

ようやく、終わる。

今日、彼は結婚し、私は川の底へ沈む。

それが、真希の考えた「最善のエンディング」だった。

それから、彼女は微笑みながら、目を閉じ、躊躇なく身を投じた。

さようなら、万尋。

三十分後――結婚式会場にて。

万尋はタキシードに身を包み、ステージの上に立っていた。

ウェディングドレス姿の京香が、ゆっくりと歩み寄っていた。

だが、彼の頭の中には、真希との会話しか響いていなかった。

「真希、どんな結婚式がしたい?」

「うーん、広い芝生に、色とりどりの風船をたくさん飾って、仲のいい友達だけを招くの。江ちゃんには、私の介添人をお願いしたいな」

「古川家の結婚式がそんな簡単なわけないだろ」

「そんなに自信あるの?私の旦那になれるなんて」

あの頃の笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。

ぼんやりとしたまま、儀式を進めた。

だが、指輪交換の直前、朋也が慌てて駆け寄ってきた。

「社長、大変です。スマホがずっと鳴っていて……」

「こんな時に――」

「ですが、どうしても気になります!」

そして、万尋は苛立ちつつも、スマホを手に取った。

見知らぬ番号。

通話ボタンを押すと、怒鳴り声が飛び込んできた。

――祐人だった。

「古川、真希さんが死んだ。川に飛び込んで、死んだ!」

万尋の血の気が、一瞬で引いた。

――ガシャン。

手からスマホが滑り落ち、床に砕けた。

次の瞬間、会場中の人々が目撃した。

新郎が突然、狂ったように駆け出した瞬間を。
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    あの時、祐人の姉は、せっかく苦労して手に入れた職を捨て、迷うことなく医者になるために警察病院へと向かった。たとえ家族との縁を切ることになろうとも、決して後悔しなかった。花梨は、そんな姉の生き方をずっと勇敢だと思っていた。それだけに、姉の訃報を聞いたときは、しばらくの間、悲しみに暮れていた。「実は、姉が医者になったのは、義兄が警察だったからだ。そして、しっちゃんは二人の娘なんだ。義兄が亡くなって間もなく、姉がしっちゃんのことを俺に託したんだ」祐人の言葉を聞き、ようやく真実を知った花梨は、胸の奥が痛むのを感じながら、病室で真希のそばに寄り添っている蒔月をじっと見つめた。「でも、真希がしっちゃんを大切に育ててくれてるよね」祐人は微笑みながら言った。「だから、姉のことを悲しむ必要はないさ。しっちゃんには素晴らしいママがいるし、これからは素晴らしいパパである俺もいる。まあ、すっかり『叔父ちゃん』呼びが定着しちゃったみたいだけど」花梨は、気まずさを拭いきれずにいた。自分は祐人の親族でありながら、彼と真希の関係をすぐに見抜けなかったばかりか、よりによって社長の手助けをしようとしていたのだから。自分の行動を思い返し、力なく首を振った。「お兄さん、それとね……」花梨は一瞬言葉を切り、ためらいがちに続けた。「古川社長がずっと……」「真希を愛してる、って?」「そう」祐人は、過去五年間のすべてを目の当たりにしてきた。万尋が真希にどれほど冷酷で、どれほど傷つけてきたかを知っている。それなのに、今さら万尋が真希を愛していると言われても、彼には到底理解できなかった。「あいつはクズだ」祐人は淡々と呟いた。「花梨、今の職場って……まさか、あいつの会社じゃないよな?」「うん」花梨は一瞬ためらったが、やがて観念したように答えた。「でも、社長の腕には、すごく長い傷跡があるの」祐人はそれを知らなかった。少し驚いたものの、ただ片眉を上げ、続きを促した。「変な意味じゃないんだけど……」花梨は、ふとした拍子に見てしまった傷跡を思い出した。社長室で机を拭いていたとき、万尋が腕時計のバンドを外した瞬間、その傷がちらりと見えたのだ。「もしかして、社長は本当に自分の過ちを悔いてるのかもしれない」

  • さようなら、初恋   第22話

    花梨は、万尋が見せた脆弱さに戸惑いながらも、彼がこんなにも落ち込んでいる姿を見たくないと思った。少しためらった後、おそるおそる口を開く。「こんなこと言うのは、私の立場では余計なお世話かもしれませんけど……社長、黒澤さんにきちんと説明しようとは思わなかったんですか? それに、しっちゃん、本当にお子さんじゃない可能性はありませんか?」「違うんだ」万尋は苦笑し、首を振った。「もしそうだったら、どれだけよかったか……」花梨には、その笑いに込められた苦しみや後悔の深さが理解できなかった。万尋自身、一生かけても過去の過ちを許せないのかもしれない。診察室にて。「骨折ですね」診察した医師はそう判断し、万尋の顔色を見て尋ねた。「熱もあるようですが?」手を伸ばして額に触れようとすると、万尋は丁寧にその手を制した。彼自身、高熱の原因が夜明け前の薬の乱用と、窓辺で冷たい風に当たっていたせいだとわかっていた。軽く頷きながら、淡々と言う。「ギプスをします。でも、それよりも先にやらなきゃいけないことがあるんです」万尋は手術室へ戻ろうとしたが、蒔月を気にかけていた花梨にまず整形外科で診てもらうよう強く勧められた。やはり、病状は彼の予想はほぼ的中していた。立ち上がり、軽く足首を動かしてみると、痛みは麻痺して少し鈍くなっている。そのまま診察室を後にして、手術室へ向こった。でも、手術室の前のランプはまだ消えていなかった。万尋は一瞬、動揺しながらも、すぐに看護師に尋ねた。「まだ終わっていないんですか?」看護師は彼を覚えていたようで、首を振った。「患者さんはすでにICUに移動しました。今は次の手術が行われています」その瞬間、万尋は大きく息を吐き、同時に眩暈を覚えた。ふらついた拍子に負傷した足を踏みしめ、鋭い痛みが走っていた。それでも、彼はこの数日で初めて、心からの笑みを浮かべた。花梨の言葉が脳裏に蘇った。彼女が、優しい慰めに過ぎないとわかっていた。それでも、真希が生きていてくれる。無事だった。そう思うだけで、もしかしたら彼女から「許す」という言葉を聞けるのではないかと、希望を抱いてしまう。実は、万尋の心の奥底には、自分でも認めたくない願いがあった。もう一度、真希とやり直したい。

  • さようなら、初恋   第21話

    「お兄さん」階段の方から花梨の怯えた叫び声が響いた。彼女は明らかに意識を失った蒔月を抱きしめ、泣きそうな声で駆け寄ってきた。「お兄さん、しっちゃんが急に倒れちゃったの!」冷静になれ。祐人は頭の中が真っ白になりながらも、何度も自分に言い聞かせた。目の前には力尽きたように膝をつく花梨と、顔を真っ赤にしてぐったりした蒔月の姿がある。落ち着け。冷静になれ。万尋はずっと近くにいたのか、泣いていた花梨の叫びを聞いてすぐに駆け寄った。蒔月の紅潮した顔を見るなり、すぐに判断した。「宮野!泣いてる場合じゃない、ここは病院。急いで救急へ行くぞ!」「花梨!」祐人はすぐに蒔月の服をまくり上げ、彼女の腹部に広がる赤い発疹を見て、ある可能性に思い至った。「しっちゃんに何か食べさせたか?」祐人の姉はアレルギー体質だったが、蒔月にはこれまで特にそういった症状はなかった。そのため、祐人も真希も特に気にしていなかったのだ。アレルゲンが分かれば、処置も早くできる。花梨は涙を拭いながら、急いで記憶を辿った。「さっき一緒に階下へ降りたとき、しっちゃんは飴を食べたくないって言ったから、パンを買ってあげたの……そ、それにピーナッツバターが入ってた」ピーナッツは強いアレルゲンの一つだ。万尋はすぐに蒔月を抱き上げた。祐人が受け取ろうとしたが、万尋は冷たい視線を向け、きっぱりと言い放った。「真希のことはお前が見ていろ。俺は絶対にこの子を傷つけたりしない。俺が行く」祐人は彼の言葉に反論できなかった。蒔月の容態は一刻を争うものだし、さっき危篤の同意書にサインしたばかり。今は時間がない。歯を食いしばりながら、祐人は万尋と花梨が蒔月を抱えて走り去るのを見送った。そして、抑えきれない怒りのまま、壁に拳を叩きつけた。バキッ!関節からじわりと血が滲んでいた。どうしようもない憤りに、祐人は低くうめきながら頭を垂れた。万尋は朝からずっと体調が悪かった。熱で体力がどんどん奪われていくのを感じていた。それでも、彼の腕の中にある小さな体は信じられないほど軽かった。真希の、大切な娘だ。階段を駆け下りる途中、足首がぐにゃりと捻れる感覚がした。しかし、反射的に蒔月をしっかりと抱きしめ、臂と背中で硬い段差を受け止めた。「社長!

  • さようなら、初恋   第20話

    昨夜、万尋は不吉な夢を見た。朝焼けがわずかに空を染める頃、目を覚ました。その時、窓の外は氷河期のような寒さだった。氷点下数十度の冬、彼は窓を開け、降りしきる雪をその身に浴びた。まるで、自らへの罰のように。実は、万尋は祐人を羨ましく思った。祐人は堂々と真希のそばに立ち、真希が幾多の困難を乗り越えるのを支え、一緒にかわいい子を育てることができた。それは彼が若かりし頃、切望していた夢だった。しかし今、それは二度と叶うことのない幻想となった。夢の中で、彼は何度もその柔らかな唇に口づけた。しかし、その唇が発した言葉は、冷たく、決定的な拒絶だった。「また私を殺すつもり?もう少しでも近づいたら、手術は受けない……その望み通りにしよう。私はまた万尋の前で死ぬよ」その時、万尋の顔色は悪かった。悪夢から目覚めるたびに、全身冷や汗でびっしょりになった。手足も痺れた。凜佳には、そのままでは最適な対処法ではないと言われていた。だから、彼は手元の薬瓶を掴み、震える指で細い口から一気に大量の薬を取り出し、口へと押し込んだ。歯を強く食いしばる音が響いた。かなり苦い。今、手術室のランプが灯っている。祐人は安全通路の入口で立っていた。そこで、煙草に火をつける万尋と遭遇した。「俺は吸わない」万尋が差し出した煙草を、彼は複雑な表情で見つめ、首を横に振った。万尋は気を悪くする様子もなく、ただ伏し目がちに顔をそらした。その頬には、どこか不自然な紅潮が浮かんでいる。煙草を口に咥え、扉にもたれかかった。煙の向こう、彼の目には一抹の迷いが滲んでいた。「緊張してないのか?」彼は静かに問いかけた。祐人は答えずに、別のことを口にした。「真希は約束してくれた。必ず大丈夫だって」本当は、彼だって緊張している。だが、それを表に出すわけにはいかない。病気の者も、幼い者もいるこの家で、祐人だけ踏ん張るしかない。彼まで怯えてしまったら、蒔月と真希を支える人はいなくなってしまうだろう。一ヶ月前、二人は互いを敵視する恋敵だった。今は、似たような気持ちを抱え、ただ無言で冬の寒さの中、白い息を吐いていた。「結婚は?」突然、祐人は問いかけた。万尋は新たな煙草に火を点けた。小さな光が、薄暗い階段の片隅で

  • さようなら、初恋   第19話

    今日の昼食はあっさりしたものだったが、量はしっかりあった。今夜から真希は手術のために十時間の絶食をしなければならない。そのせいか、彼女はつい食べ過ぎてしまった、お腹がぱんぱんに膨れたままベッドに横になっていた。しばらく消化を待っていると、祐人も当たり前のようにベッドに上がってきた。「何してるの?」真希は顔を動かすのも面倒そうに天井を見つめたまま言った。「最近、私のベッドに入るのが、すっかり当たり前になってない?」「ちょっと横になるくらい、いいだろ!」祐人は即座に動揺し、顔を真っ赤にした。真希が自分に好意を持っていると気づいてから、彼の行動は少しずつ大胆になっていた。だが、こうしてズバリ指摘されると恥ずかしくて、すぐに身を起こしてしまった。「祐人」真希は穏やかに呼びかけた。「手術が終わったら、秘密を教えてあげる」「うん」手術当日、花梨が休みを取り、蒔月と病院にきた。彼女はまだ若いが、蒔月とはすっかり仲良くなっていた。たった一週間ほどの間に、蒔月はもう「花梨ちゃん」と甘えた声で呼ぶようになっている。真希は優しく微笑みながら、蒔月を抱き取った。「本当に助かりました。花梨さんがいてくれなかったら、しっちゃんをどうしたらいいか分かりませんでしたわ」だが、花梨の心の中は激しく揺れていた。この数年、真希は病気のせいでずいぶん痩せたが、それでも顔立ちや雰囲気は、万尋のデスクに大切に飾られていたあの写真の女性と、まったく同じだった。戸惑いのまま真希をじっと見つめた。その視線に気づいた真希は、軽く眉をひそめ、不思議そうに尋ねた。「どうししましたか?花梨さん」「えっ……大したことではありません」花梨は慌てて首を振った。今は真相を確かめるときではない。真希はもうすぐ手術を受けるのだ。こんなことを言ったところで、どうにもならない。心がざわついたまま、彼女は医師たちが真希を術前検査に連れて行くのを見送った。そしてふとスマホを取り出し、メッセージを送った。【里見さん、この前言ってた「社長が好きだった人」って、本当に亡くなったんですか?】メッセージを送ると、すぐに返信が届いた。【なんで急にそんなこと気にするんだ?最近たくさん情報を得た。マジで死んだらしいぞ。しかも、自

  • さようなら、初恋   第18話

    つまり、彼女は了承したこと?!さっきの祐人はただの衝動で真希を抱きしめた。しかし今は、どうしても手放したくなかった。彼がずっと気にしていたのは、自分を愛していた万尋を目の前にしたとき、真希の気持ちが揺らいでしまうのではないか、ということだった。真希は顔を横に向けると、祐人の耳が真っ赤になっているのを見て、思わずくすっと笑った。「いつまで抱きしめてるつもり?」「しっちゃんもいないし」祐人は小声で言った。「もうちょっとだけ、ね?真希、外は寒いんだよ」真希は午後ずっと日差しを浴びていたせいで、体がほんのり暖かかった。二人はデッキチェアに身を寄せ合い、そのまま昼寝をした。金色の光が祐人の柔らかい短髪に降り注ぎ、陽だまりに漂う塵が星のようにきらめいていた。眠る二人の頬や肩にそっと舞い降り、まるで穏やかな結界が張られたかのようだった。二人は長い時間、そのまま寄り添って眠っていた。その日から、病室の前にはいつも食事の入った容器が置かれていた。祐人は外へ出るたびにそれを蹴飛ばし、真希に「食べ物を無駄にしてる」と言われると、「野良猫を飼ってやってるだけだ」と強がっていた。この三年間、祐人の料理の腕は格段に上がった。幼児食から病人食まで、すべて完璧にこなしていた。病院の近くに小さなキッチンを借り、限られた食材でも驚くほど美味しい料理を作っていた。二人とも、その食事を万尋が届けていることを分かっていた。それに、真希は祐人がそれを処分していることも知っていた。ただ、それを話題にすることはなかった。そんなことを言い出せば、せっかくの平穏な時間が台無しになってしまう。祐人は万尋の作ったものなんて、絶対に真希に食べさせかった。手術まで、あと一日。祐人は買い出しに出かけることになった。真希が買い物リストを渡した。最近彼女は読書に夢中にている。医者からスマホの使用を控えるように言われているため、祐人には新たな日課が増えていた。毎日、真希のために本屋へ行き、読みたい本を買ってくることだ。哲学や心理学の本もあれば、少女趣味の軽い読み物もある。祐人は「子供っぽい」と文句を言いながらも、何キロも離れた本屋まで足を運び、彼女のためにせっせと買い集めていた。ただ、真希が退屈しないように。

  • さようなら、初恋   第17話

    こう考えると、真希の心は少し落ち着いた。今、彼女の病室は良い場所にあり、窓から雪に覆われた雑木林だった見えた。冬の午後の陽射しは柔らかく暖かった。真希は椅子を窓辺に寄せ、そこに腰を下ろした。そのとき、扉を叩く音が聞こえた。規則正しく、落ち着いたリズム。ちょうど医師の回診の時間だったので、真希は少し声を張って「どうぞ」と言い、振り返ると、表情が固まった。万尋だった。三年の歳月が彼を大人びた雰囲気に変えた。ロングコートに包まれた体は以前よりずっと痩せており、その分、端正な顔立ちはさらに冷たく鋭く見えた。漆黒の眉は重たく伏せられていたが、その下にある瞳には、隠しきれない熱情が宿っていた。「やった」万尋の声は震えていた。感情が昂りすぎて、言葉にならないほどだった。彼は一歩踏み出し、手に持っていた大きな花束を床に落とすと、そのまま駆け寄って真希を強く抱きしめた。「会えた、真希!」真希は一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。万尋に見つかるのは時間の問題だったからだ。彼の腕はまるで鉄の枷のように彼女の肩を締めつける。襟元にぽたりと滴る温かな雫。それが涙だと気づくのに時間はかからなかった。「そう、私よ」真希は淡々と言った。「久しぶりね」「どうして……」万尋の体は小刻みに震え、息も乱れがちで、言葉すら途切れ途切れだった。「どうして死のうとした……どうして病気のことを隠した……どうして、俺を騙したんだ……」三十を過ぎた男が、まるで騙された子供のように泣きじゃくった。彼は何度も真希の名を呼び、まるで夢の中の幻を逃さぬように彼女を抱きしめ続けた。真希は眉をひそめ、ややうんざりしたように囁いた。「もう少しで窒息するところよ」万尋は弾かれたように腕をほどき、そのまま崩れるように床に座り込んだ。上目遣いに真希を見つめる彼の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。目尻も鼻先も赤く、額には汗とも雪解け水ともつかない滴がにじんでいた。震える手で真希の冷えた手を取ろうとしながら、万尋は必死に涙をこらえようとしていた。しかし、どれだけ唇を噛みしめても、涙は止まらなかった。こんな万尋を見たのは、江茉が亡くなったとき以来だった。「行かないでくれ……」彼は、真希が手を引くのを阻止す

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