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あなたの子です。結婚してください
あなたの子です。結婚してください
Author: 水守恵蓮

Prologue

Author: 水守恵蓮
last update Last Updated: 2025-03-31 15:24:27

私は、父の顔を知らない。

戸籍上でも、存在しない。

それでも、私が生を得た以上、父親の役割を持つ人間がいるのは確か。

私は父に関する情報を、すべて母から伝え聞いた。

なんでも、『ジョン・エヴァンズ』という名のイギリス人だそうだ。

父が外国人というのは、私の髪が周りの他の子と違って薄い栗色で瞳はヘーゼル、顔立ちも日本人離れしているから納得できる。

純粋な日本人の母は、イギリスの貿易会社の社員だった父が日本に赴任していた時に、東京で出会ったという。

母は幼い私に、『王子様みたいな人だったのよ』と語った。

多分、私が夢中で読んでいた、シンデレラや眠り姫の王子様のように、素敵な人だと刷り込みたかったんだろうけど、その王子様はお姫様を迎えに来るのではなく、私が生まれる前に身重の母を置いて姿を消した。

そんなわけで、私の家族は、生まれる前からずっと母一人だった。

今の時代、シングルマザーは、それほど珍しくない。

でも、私が育った母の生まれ故郷の田舎町では、住民の感覚は都会に比べて一時代くらい遅れている。

母子家庭は、うちくらいだった。

その上、私がハーフだから、母は私を連れて歩くだけで、外国人に弄ばれて捨てられた惨めな女という色眼鏡で見られる。人々から向けられる奇異の目と偏見は、ただでさえ苦しい生活に精神的苦痛という拍車をかけた。

せめて、父が日本人ならよかったのに。

いや、私を産まなきゃよかったのに。

母一人なら、見世物みたいに生きるんじゃなく、ごく普通の幸せな生活を送ることができただろうに――。

いつの頃からか、私は同じ女として、母に冷ややかな視線を送るようになっていた。

そうすることで、『私は母とは違う』と、自分自身に刻みつけていたんだと思う。

それなのに、二十五歳になった今。

私は、母と同じ運命を辿るか逃れるか、人生の岐路に立っている。

「妊娠……ですか。私が」

一通りの検査を終え、粗末な丸椅子に座って初老の男性医師と向き合った私は、呆然と呟いた。

大きく目を瞠ったまま、瞬きも忘れる私に、そばに控えていた看護師が眉尻を下げる。

「沢(さわじり)さん、もう十二週目です。すぐにお相手の方にも報告してくださいね」

狭い田舎町。私が知らなくても、看護師は私を知っている。

私が母子家庭で育ったことも、未婚のまま妊娠診断を受けていることも。

そして多分……『お相手』なんか、いないことも。

「産めません」

話し合うなんて、悠長な提案は聞いてられない。

「……産みません」

私は、即決で返した言葉を、自分の意志に言い換えた。

「中絶を……希望されますか」

医師と看護師から向けられる視線に、憐みのようなものが混じったのを見て、無意識に俯く。

「沢尻さん。人工妊娠中絶は二十二週までは可能ですが、十二週までとそれ以降では、方法が異なります」

医師が、その方法とやらを淡々と説明し始めた。

すでに十二週目の私には、人工的に流産させるという方法を取るそうだ。身体への負担が大きく、数日の入院を要する上に、胎児は死産として埋葬届を出さなければならない。健康保険適用外だから、それなりの費用がかかる。

医師も看護師も様々な負担を強調して、私に中絶を思い留まらせようとしていた。

もちろん、私も怯んだ。

だけど――産めるわけないじゃない。

母子家庭の生活の苦しさは、私が一番よく知っている。

生まれてくる子は、イギリス人の父の血が四分の一入ったクォーターだ。

誰が好き好んで、母と同じ人生を繰り返そうだなんて思うの。

もっと早く気付いていれば……と、自分でも後悔して唇を噛む。

でも、この一ヵ月ほどの間、自分の体調を気にする余裕もないほど、忙しかった。

「わかりました。でも、産みません」

説明への理解を示しただけで、中絶の意志を変えない私を見て、

「そうですか」

医師は静かに相槌を打った。

「それでは、手術の予約を取りましょう。これ、中絶同意書です。お相手の方に署名してもらって、入院当日に持ってきてください」

淡々とした説明と共にA4サイズの用紙を差し出され、私はギクッと肩を強張らせた。

「署名……」

思わず独り言ち、同意書に目を落とす。

「……沢尻さん」

医師は、辛抱強く同意書を差し出したまま、穏やかな口調で私を呼んだ。

「こういう言い方でいいのか、わかりませんがね。亡くなられたお母様があなたを案じて、独りぼっちにならないよう、授けてくれた命のようには思えませんか?」

諭すように言われて、私はビクンと身体を震わせた。

「え……?」

「お母様は、最期まであなたを心配していたと聞いています。そして、あなたがいてくれたから、自分は幸せだった、とも」

聞き返しながら顔を上げた私に向けられたのは、私には到底共感できない、母の最期の言葉。

そう――。

私の母は、突然病に倒れて、ついひと月前に亡くなった。

私一人を、自ら創り上げた茨の世界に遺して。

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    長閑と慧斗を連れてJONAS OCEAN TRADING本社に乗り込んだあの日――事前の打ち合わせ通りの時間に、オリヴィアとその上司である国税局幹部の男が、応接室に入ってきた。JONAS OCEAN TRADINGの脱税疑惑を捜査している当局の男に、真相解明に向けての協力を求められ、エヴァンズ氏は当惑した。しかし、やや硬い表情ながら、素直に応じた。最初から、俺が国税局側と行動を共にしなかった理由は、エヴァンズ氏が抵抗に出る可能性があったからだ。結婚を約束した愛する女性とお腹の子を捨て、自身をも犠牲にして救った会社だ。愛着がないはずがない。脱税は重大犯罪だと正論を翳し、良心に訴え出ても、拒否される可能性を否めなかった。会長秘書という、願ってもいない強力な協力者を逃すわけにはいかない。俺とオリヴィアは、上司も交えて綿密に作戦を立て……彼らが来る前に、エヴァンズ氏に長閑と慧斗を会わせることにしたのだ。どんなに社に忠実で鉄壁な男だったとしても、捨てたはずの恋人が娘を産んでいて、その上孫を連れて目の前に現れたら、動揺しないわけがない。彼の人情に訴えるという、素朴で泥臭い、一か八かの賭けでもあった。結果的に、俺たちの目論見通り、彼を協力者に取り込むことに成功したが――。それからしばらくして、改めて思考を巡らせても、俺は長閑と慧斗の力を借りずとも、エヴァンズ氏の協力を仰ぐことは可能だったと考えている。『私は父の会社の何千という従業員とその家族を守ったかもしれないが、自分の大事なものは守れなかった。そんな男が、一企業の経営者になってはいけない』たとえ救済合併とはいえ、一企業の社長子息だった男が、今、会長秘書という身分に甘んじている理由をそう語った彼には、無理矢理引き摺り出すまでもない真摯な人情を感じた。『エミとノドカを犠牲にして守った会社を、これ以上汚すわけにはいかない』沈痛に顔を歪めながらも、しっかりした口調で言い切り、協力を約束した彼だから――長閑の母親が死ぬ間際まで忘れず愛していたのも、納得できる。会長秘書という協力者を得たことで、JONAS OCEAN TRADINGの組織的脱税疑惑は、国税局の手によって全貌解明に向かっていた。そして、三月が終わり四月。第二土曜日、オリヴィアから、『来週初めに、国税局が強制捜査に入るわ』という報告の電話をもらった。午前の休日出勤中に電話を

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    私は、塔也さんの寝室に、お姫様抱っこで運ばれた。彼の大きなダブルベッドの真ん中に組み敷かれ、何度も何度も角度を変えてキスをする間に、服を全部脱がされていた。「っ……」目元を情欲でけぶらせた彼が、遠慮なく視線を注ぐから、激しい羞恥で身を捩る。「こら、隠すな」胸を隠した腕に、塔也さんが手をかけて解こうとする。「嫌。恥ずかしい……」「この期に及んで、なにを言う」「だって。塔也さん……貧相って言った」私が、じっとりと詰るような目を上げると、まったく悪びれることなく、ふんと鼻を鳴らした。「事実だろ」「ひっ、酷っ……!」「あの時も今も肉付き足りないし、煮干しみてえ」「にっ……!?」あまりに酷い喩えように涙目で絶句する私に、ふっと目尻を下げて笑う。口にするのはデリカシーのない最低な言葉なのに、反則なくらい優しい微笑み。ズルすぎるギャップに、私の胸がドキッと弾む。塔也さんは私に覆い被さり、唇を奪った。「んっ、ふ」今までで一番の、執着めいたキス。呼吸を乱し、胸を上下させる私に、塔也さんがベッドについた腕を支えに上体を持ち上げ、ねっとりとした視線を絡ませる。「なのに……俺はこの身体に狂わされたんだよな……あの日」「え……? あ、んっ!」なにか耳慣れない言葉を向けられ、虚を衝かれた隙に、胸を覆っていた両腕を観音扉みたいに開かれた。躊躇なく顔を埋められ、彼のサラサラの前髪や吐息が肌を掠めて、ビクンと身体が撓る。敏感な胸の先を、チロチロと動かす舌先に容赦なく攻め立てられ、いやがおうでも腰が跳ねた。「あ、あ……」二年近く前、他でもない彼自身から植えつけられた、生まれて初めての官能の痺れ。今もなお変わらず、ゾクゾクと背筋を昇る。「とう、塔也、さ……」堪らず、彼の頭を掻き抱いた。「好き。塔也さんが、好き……」喉に引っかからせながら、掠れる声で必死に想いを紡ぐ。荒い呼吸で途切れ途切れになってしまい、聞き取りづらかったかもしれないけど……。「っ、く……」塔也さんはブルッと頭を振って、小さな声を漏らした。そして、指で、舌で、私に施す愛撫を強めていく。「俺も……好きだ、長閑。愛してる」耳元に湿った声で囁かれ、体幹から湧き上がるゾクゾクとした痺れに戦慄いた瞬間。「あっ……!」ズシッと存在感のある質量のなにかに、容赦なく身体の中心を貫かれ――ビクンビクンと痙攣して、目の前に星が飛んだ。「大丈夫か? 落ち着け

  • あなたの子です。結婚してください   私の旦那様になって 5

    午後十時。私は慧斗を寝かしつけた後、お風呂に入った。髪をタオルドライしながら出てくると、塔也さんがラウンジのソファに座っているのを見つけた。条件反射で、胸がドキンと跳ねる。夕方フラットに帰ってきてから、私は慧斗と二人で客室に閉じこもっていた。いろんなことがありすぎて、少し落ち着いて自分自身を見つめ直したかったけど、夜になっても頭がふわふわしている。でも――私は思い切って、ソファに歩いていった。私が声をかけなくても、気配で気付いた彼が顔を上げる。「お前も、飲むか?」「え……」なにを問われたかと答えを探して、ローテーブルに目が向いた。いつかと同じように、ウィスキーボトルとグラスが置かれていた。塔也さんは自分のグラスを軽く揺らして、私の返事を待っている。「……はい」私は一度頷いて、彼の隣に腰を下ろした。「待ってろ」塔也さんは私と入れ違いで立ち上がり、キッチンに入っていった。氷を入れたグラスを一つ手に、戻ってくる。ドスッと勢いよく私の隣に座り、持ってきたグラスに琥珀色の液体を注いだ。「ん」と、私に差し出してくれる。「……ありがとうございます」私は両手で受け取って、グラスに口をつけた。一口、ゴクンと飲んで……。「ごほっ」喉が焼けるように熱くて思わず噎せ返った私に、塔也さんがブッと吹き出す。「お前、ウィスキー飲んだことないのか? 水みたいに飲むな。原液だぞ、これ」面白そうに肩を揺らす彼の隣で、私は何度か咳き込み――。「はああっ」一度大きく息を吐いて落ち着いてから、膝の上で両手で支えるように持ったグラスに目を落とした。「あの……ありがとうございました」ボソッとお礼を言った私に、塔也さんは無言で横目を流してくる。「あの人に会いたがったのは母だから。亡くなってるなら、どこの誰かも知らなくていいって思ってたけど……会えて、よかったです」あの人が……父が私をずっと欲しかった子だと言ってくれたことを思い出し、胸が締めつけられる。それと同時に、塔也さんの言葉も導かれてくる。『俺はお前を産んだ母親に感謝してるよ!!』――。「っ……」胸がきゅんと疼いて、鼓動を猛烈に昂らせるのに慌てて、勢いよく下を向く。塔也さんは、私があたふたするのを気にする様子はなく、短い相槌で返してきた。「悪かったな。二年前……亡くなった可能性が高いなんて嘘ついて」私がそっと視線を戻すと、グラスを持って口元に運んだ。一口含

  • あなたの子です。結婚してください   私の旦那様になって 4

    愕然として言葉を失う男性と私に、塔也さんは一人冷静に、この事態について説明し始めた。先ほども言っていた通り、JONAS OCEAN TRADINGは、二十七年前に二つの会社が合併して生まれた会社だ。その内の一社、貿易会社は男性の父親が社長を務めていた。当時、業績が低迷していて、この合併により倒産を免れたそうだ。貿易会社を救済する形の合併は、男性の政略結婚が条件だったと言う。塔也さんは、「政略結婚の事情については、私が知るところではありませんが」と前置いた上で、男性の日本への出入国記録を調べたと語った。男性は二十八年前に貿易会社の日本支社で働くために入国し、その一年後に出国、イギリスに帰国していた。「在英日本国大使館に申請されたビザはビジネス目的、期間は五年という記録が残っていました。ところが、たった一年で帰国……なにかよほどの事情があったと考えます。僭越ながら私の想像で言わせていただくと、その政略結婚が理由では?」ちらりと視線を向けて問われ、それまで凍りついたように固まっていた男性が目を伏せた。「……ええ、その通りです。私は、父の会社を救うために、五年間の日本勤務予定を短縮して、帰国しました」たどたどしく、言い回しを考えるように答える。「ですがあなたには、日本で結婚を約束した女性がいた」「…………」男性が、口を噤んだ。さっき塔也さんが、『お前の母親が最期まで会いたがっていた人』と言ったから。私と慧斗の正体を気にしてか、目線は揺れ、定まらない。塔也さんは両足に腕をのせて、身体を前に傾け――。「あなたの子供を身籠っていた女性を残し、帰国した。……そうですよね?」含めるように問われた男性が、わずかな逡巡の後、私の方にまっすぐ顔を向けた。俯いていた私も、視線を感じて身体を強張らせる。この人が、塔也さんの質問を肯定したら……。そこから芋づる式に引き摺り出される真実を予想して、私の心臓が早鐘のように打ち鳴る。男性の方も、激しく戸惑っている。だけど。「君は……エミの子なのか……?」半信半疑といった感じで口にしたのは、確かに私の母の名前だった。私は、意志とは関係なくカタカタと身体が震えるのを、慧斗をギュッと抱きしめて堪えようとした。「まー……?」慧斗も、穏やかとは言えない空気の中、不安そうに私を見上げている。私は返事をしていないのに、男性は沈黙を答えと受け取ったようだ。額に手を遣

  • あなたの子です。結婚してください   私の旦那様になって 3

    迎えた火曜日。私はどこに行くのか、なにをするのかも知らされないまま、退院したばかりの慧斗を抱いて、塔也さんの車の後部座席に座っている。「あの……本当に、どこに」車窓から見える街並みが、だんだんとオフィス街に変わっていくから、怯んで訊ねた。フラットを出る前、服装は普段着でいいと言われたし、なにより慧斗が一緒だ。普段着に子連れで来るには、一番そぐわない場所な気がするから、落ち着かない。塔也さんはまっすぐ前を向き、悠々とハンドルを操作しながら、「シティ」バックミラー越しに視線を投げ、答えてくれた。「シティ?」「お前、知らない? ロンドンで言う、日本の東京丸の内」私は日本の東京丸の内に行ったことはないけど、ビッグ都市東京でも有数のオフィス街だということは知っている。もちろん、二年前にも訪れた。「そこに、JONAS OCEAN TRADINGの本社ビルがある」目線をフロントガラスに戻して続けるのを聞いて、私の手がピクッと動いた。「……JONAS OCEAN TRADING?」彼の言葉を反芻すると、よくわからない警戒心がよぎる。一瞬、身体が強張ったのが伝わったのか、慧斗が膝の上から顔を上げた。「まーん、むむ」「あ、ごめんね。慧斗」よいしょと、こちらを向かせて抱え直して、ポンポンと背中を叩いてやる。「塔也さん。その会社に行くんですか? どうして慧斗も……」「見えてきた。あれ」改めて質問を重ねる私を、塔也さんはそんな言葉で阻んだ。ハンドルから離した右手で、前方に聳える巨大なオフィスビルを指さす。その仕草につられて、私は少しだけ身を乗り出した。「JONAS OCEAN TRADINGは、二十七年前に二つの会社が合併して生まれた、イギリス  最大の海運会社だ。……計算は合う」塔也さんは、私の気配を気にすることなく、淡々と説明してくれる。「計算……?」斜め後ろから彼の横顔に問いかけたけど、きゅっと唇を結んでしまい、それ以上は答えてくれなかった。それからほどなくして、JONAS OCEAN TRADINGの本社ビルに到着した。塔也さんはビルの駐車場に車を停めると、慧斗を抱えた私の背を押すようにしてビル内に進み、グランドエントランスの総合受付に立った。赤毛のふんわりロングウェーブヘアの受付嬢に、外交官の身分証を示す。「Take the lift on the right to the t

  • あなたの子です。結婚してください   私の旦那様になって 2

    その夜、塔也さんは午後八時に帰ってきた。私はちょうど、一人で夕食を終えた後だった。洗い物の手を止め、布巾で手を拭いてラウンジに戻る。「お帰りなさい」塔也さんは、ソファにスーツの上着を放り、ネクタイを緩めながら「ん」と応じた。いつもと変わらない様子の彼を前に、私は緊張を強めた。一夜明けて冷静になってみると、とんでもなく情けない最低なことを口走ってしまったと痛感していた。いろんな感情が飽和状態で、いっぱいいっぱいになっていたとは言え、私にとって一生ものの悔恨、贖罪。あれを聞いて、塔也さんがどう思ったか――知るのが怖いからこそ、もう一度ちゃんと謝らなければ。「あの、塔……」「どうだった?」「っ、え?」口を開いた途端質問を挟まれ、出鼻を挫かれてしまった。言葉に詰まった私を、塔也さんがちらりと見遣る。「子供」今朝は『慧斗』って呼んでくれたのに、また戻っちゃった……。私の錯覚だったのかとか、ただの気まぐれだったのかと、がっかりする。「あ、はい。……慧斗、元気でした」それでも私は、気を取り直して報告した。今朝、休日出勤する彼が、大使館に行くついでに、私を病院まで送ってくれた。小さなベッドが並ぶ病室に入ると、昨夜はあんなにぐったりしていた慧斗が、ぱっちり目を開けていた。私を見ると甘えて、『まー』と手を伸ばす、いつもと同じ反応。小さな手の温かさも変わらず、心の底からホッとしたことを思い出して、鼻の奥の方がツンとする。「そ」自分で聞いておいて、塔也さんの反応は薄い。「ドクターの話では、週明け火曜日には退院できるそうです。それで」私は思い切って一歩踏み出し、報告を続けた。「退院してすぐなので、慧斗の誕生日のお祝いは、また日を改めてってことに……」塔也さんじゃなく、自分自身が残念な提案に俯いた私を、「火曜……。……かな」彼は顎を撫でながら遮った。思案顔をして低めた声で、なにを言ったか聞き取れない。しかも、慧斗の誕生日は軽くスルーされた。でも真剣な表情だから、憤慨して食ってかかることも憚られる。私は、彼からわずかに視線を外し――。「あの、塔也さ……」無意味に服の裾を両手で引っ張り下げながら、昨夜のことを改めて謝ろうと、遠慮がちに呼びかけた。なのに。「午前中に、退院可能か?」塔也さんが私を斜めの角度から見上げ、話題を続ける。おかげで、またしても謝罪のタイミングを失った。「え? あ、大丈夫だと

  • あなたの子です。結婚してください   私の旦那様になって 1

    なにか、とても温かい音が聞こえる。とくんとくんとくん――。ゆったりと規則正しい、肌にも馴染む強いリズム。包み込まれるみたいで、心地いい。ああ、これは心音だ。この世に生を受ける前から、ずっとどこかで耳にしていた、優しくて穏やかで懐かしい――命の音。「ん……」全身を包む温もりをさらに求めて、モゾッと身体を動かした。頬に当たるなにかに、『もっともっと』というように自ら擦りつけた、その時。「……起きたか?」額の先から、低い声がした。「ん……え?」問われたことに素直に頷いた次の瞬間、寝起きで声をかけられるという状況が、あり得ないことに気付いた。一気に思考回路が働き始め、バチッと勢いよく目を開けて……。「おはよ」欠伸混じりのくぐもった挨拶に返す余裕もなく、私は身体をビキッと硬直させた。「? なんだよ、長閑」「なっ……なんで? なんでなんで!?」私は絶叫しながら上体を起こし、勢いよく飛び退いた。そして、「あ」という声を聞きながら、ドスンとベッドから落ちる。「痛っ!!」「バカか……なにやってんだよ」ベッドの下で尻もちをつき、顔をしかめる私に、塔也さんが呆れ顔で身を乗り出す。「!」バチッと目が合う前に、私はとっさに胸元を抱きしめた。それから、恐る恐る自分の身体を見下ろすと、頭上から「はあ」と溜め息が落ちてくる。「ヤってねえよ。少しは信じろ」チッと舌打ち混じりの言葉の通り、私はちゃんと服を着ていた。無意識にホッとしたものの――。「だ、だったら、なんで」顔を火照らせて言い返すと、塔也さんは忌々し気に顔を歪めて、寝乱れた髪をザッと掻き上げた。「昨夜、お前があのまま寝たから」「あのまま?」「抱きしめてる間に寝落ちとか。お前、慧斗よりよっぽど赤ん坊なんじゃないか?」「え? ……っ!!」意地悪な言葉に導かれ、昨夜の記憶が鮮明に蘇ってきた。火が噴く勢いでカアッと熱くなる頬を両手で押さえて、弾かれたように彼に背を向ける。「す、すみません。でも、だからって、どうして塔也さんのベッドに……」羞恥のあまり、まだブツブツと言い募る私に、塔也さんが深い溜め息をつく。「……別にいいだろ。面倒臭いから俺のベッドに運んだだけで、本当になにもしてないんだから」ムッと唇を曲げて、ベッドを軋ませて床に降り立つ。いきなり目の前に聳え立った彼に怯み、私はお尻を浮かせて後ろに逃げた。塔也さんは、私に肩越しの視線を落とし……。

  • あなたの子です。結婚してください   肩の荷下ろせよ 3

    フラットに帰り着いた時、時計の針は午後九時を回っていた。タクシーでの帰路の途中、水島から電話の着信があったので、俺はスマホを操作しながらワーキングルームに向かった。「……そうか。サンキュ。悪かったな、ほっぽって行って」報告を聞いて申し訳程度に謝ると、『ほんとですよ!』と憤慨された。耳にキンキンする声に、思わずスマホを耳から遠ざけた。『そ、それにっ! 子供が急病って。いったいどういう言い訳なんですか』「そのままだけど」『だから、子供って。どこの誰の子供……』「俺の」短く返すと、『は?』と惚けた声が聞こえる。俺はガシガシと頭を掻き……。「月曜、大使館で説明するよ。じゃ、悪かったな。気をつけて帰れよ」俺は、水島がまだなにか言ってくる途中でブチッと電話を切り、一度肩を動かして息を吐いた。電話を終えてラウンジに向かう。ドア口から、呆けたようにソファに座っている長閑の背中を見つけた。「…………」俺は無言でネクタイを解きながら、彼女の隣にドスッと腰を下ろした。その振動のせいか、長閑が我に返って顔を上げる。「あの、ごめ……」「何度も謝らなくていい」ほとんど反射的に言いかけた謝罪を、俺は途中で制した。長閑は俺の横顔をジッと見つめて、恐縮したように首を縮める。そして。「私……ママ失格です」聞いたことがないくらい弱々しい声を耳にして、俺は彼女を横目で見遣った。「せっかくの誕生日に、慧斗に辛い思いさせて……」グスッと鼻を鳴らす様を、視界の端に映す。「……子供にはよく見られる病気だと言われただろ。なにもお前が悪いわけじゃ」俺がかける言葉を探して口にする途中で、長閑は目を伏せてかぶりを振った。「私が、無責任なんです」やけに強く断言する彼女を、俺は怪訝な思いで見つめた。「母と同じ事情でママになっても。パパがいなくても、私は慧斗を可哀想になんかしない。塔也さんには偉そうに言ったけど……ほんとは、私」長閑は泣きそうに顔を歪めて、一度言葉を切り……。「生まれてしばらくの間……泣き出すと耳を塞いで逃げて、泣き疲れるのを待った。おっぱいもあげられないくらい、慧斗を受け入れられなくて」「え……?」「慧斗が機嫌のいい時だけ近寄る……。育児放棄とかネグレストとか……虐待スレスレの状態だったんです」ズッと洟を啜って、自分を落ち着かせようとしてか、ハッと浅い息を吐く。「ママになる自信、完全に失くしてました。やっぱ

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