「お? その感じ……やはりお前もしっかり男だって所が良く出てて良いぞ! ナイス童貞感ッ!」
「いや、そうなんだけどうるさいよ!? というか、ある女の子とべっ……べろちゅーって、昨日外出してたって話を聞いたけど、もしかして……え、もしかしてッ!?」
(ふむ……『べろちゅー』って単語は、ルーナくらいの歳の子が知らなかったってだけで、一般的には浸透してるんだなぁ。なんでだろう、この世界では俺の造語なはずなのに)
ジセルは『造語』などと言っているが誰でも思い付けそうな程に簡単なモノである為、ルーナの様に幼い子供でも無い限り基本的には大体の人間が理解できるだろう。つまり、別に『べろちゅー』を知らなかったとしても大半には伝わる。問題は──
「あらあらレア君……君は今一体ナニを想像しているのカナァ? ハッハッハッ、そうッ! まさにその想像通りの事をしてきたのだよッ!!」
「子供という事を利用して……外出ついでに大人の女性とべろちゅーした挙句、その女性の家に上がり込んで……〇〇〇してッ!! 終いには、その人の恋人にバラされたくなかったら、明日も同じ事をしろだって? ダメだよ、ジセル! そんな事ッ!」
──その単語から自力で意味を読み取った場合、内容には個人差が出てしまうという事だ。
「なぁ俺、女の子って言わなかった? そこまでしてねぇよッ! というかべろちゅー以外何一つ合ってねーよ! バカがッ!」
──いや、子供という事を利用したという点においては間違っていないか。と付け加えようとしたジセルだが、ある事に気付き口にしようとしていたモノとは別の言葉が飛び出る。
「──つーかそれ、NTRじゃねえかッ!!」
そのようなツッコミも、自分の世界に入っている様子のレアには届かない。
「えぇッ! 大人の女性じゃなくて相手は子供ってこと!?」
(いや、子供が子供を好きになるのは普通じゃないのか? 本能的には大人を好きになる事が多いというのは良く聞くが。レアお前……もしかしてそれ、お前の性癖が入ってるんじゃないのか? 想像力豊か過ぎるというか、過激過ぎるというか、なんというか……へんたいだぁ〜)
ジセルが発言した『べろちゅー』という単語一つから、ここまで妄想を膨らませる事が出来るというのは最早一種の才能と呼べるだろう。というか、このような知識を既に保有しているレアは一体何歳なのだろうか。
「はい。じゃあ、レアは変態という事で続きを話していくぞ〜」
「いや、やめて!?」
「はいはい……俺が昨日ナニをしてたとか、一体お前がどれだけ変態なのかなんてどうッでも良いんだよッ!!」
「そもそも僕がどれだけ変態なのかとかいう話はしてなくない!?」
「俺は今から友達の女の子と待ち合わせをしている場所へ向かう。さっき言った通り、俺はその子とべろちゅーをするから……そう、べろちゅーをするからッ!」
男友達に対して”女の子とイチャつける自慢をする”という事に優越感を覚えたのか『べろちゅー』と強調するジセル。
「べ、べろちゅーするのはもう分かったから! 僕は何をしていればいいの?」
「お前は……まぁ、父さん達に報告できる程度で良いから、離れて見ててくれ。あ、そうそう! あの子、頭良いから……ガチで隠密しないと普通にバレると思うけど、頑張れ♪」
「えぇっ! そんなぁ!」
「まぁバレたらバレた……でッ!?」
──アレ……? もしバレたとして、ルーナには仲のいい友達とするモノと教えている『べろちゅー』を仲良くなったレアとルーナがする事になったらマズイのでは!?
とここで看過できない事実に気付いてしまったジセルだが、問題はそれだけではない。普通に考えればレアをジセルの友達として紹介する事になるだろう。しかしそうなった場合、普段からレアとジセルが|男同士《・・・》で『べろちゅー』していると勘違いさせてしまうことになるのだ。
「……」
「ん? ジセル、どうしたの?」
(クソッ! レアを女の子として紹介すれば……『男色家である俺がいつも男同士でキスをしている』と思われるのだけは回避できる……いや、あいつは女の子扱いされるのをあんなに泣くほど嫌がってるんだ。BLエンドを目指す俺がこの程度のことで友達が嫌がる選択をするのか?)
「……おーい!」
(まぁ、最悪レアを友達でもなんでも無い知らん人って言えば大丈夫か)
何か色々面倒臭くなったジセルは何故かそう結論を出しているが──女性として認識されたくないという彼を女の子として紹介する事と、知り合いですらないと紹介する事、果たしてそれらにどれ程の差があるというのだろうか?
「……む、無視?」
熟考のし過ぎで外の声が聞こえていないジセルは、胸の前で腕を組みながら『うーん』と唸り続ける。
「……ジぃーセぇールぅーッ!」
「あ、すまん。考え事してた! ……え、お前泣いてる?」
「……泣いてない」
|漸《ようや》くレアの声に気付いたジセルだが、割と長い間シカトされていたレアは普通に泣いてしまっていた。
「す、すまん……本当に考え事してただけだから、無視してた訳じゃないんだ」
「……うん」
「……ハァ。ほら、行くぞ!」
お漏らししてしまったのであろう涙を隠す為に、後ろを向いているレア。その姿を見て思わずため息を吐いたジセルは──
「わっ!」
──レアの手を強引に引っ張って、ルーナと待ち合わせをしている庭園へと向かった。
***********************
「お、いたいた!」
「あの子が、ジセルと『べろちゅー』したっていう女の子か……」
「そうそうッ! じゃあ、俺は行ってくるから……後の事は親友のお前に任せたッ!」
「親……友」
「あぁッ!」
ジセルと同じく、生まれて此の方一度も親友と呼べる様な人間に出会った事が無かったレアは『親友』というその単語を聞いただけで、身体中に活力が|漲《みなぎ》っていた。
「あ、言うの忘れてたんだが……父さん達には、見たまんまを報告するんじゃなくてちょっとは隠し……」
「うん、分かった! 親友の僕に任せてッ!! じゃあ、先に見つかりにくい所にでも隠れておくね!」
「え、ちょ、聞いて……なさそうだなアレは」
ジセルは張り切った様子でどこかへと走って行ったレアを見送ると、ため息を吐きながらルーナの元へと向かった。
レアと別れたジセルは、昨日二人で『べろちゅー』をした木製の椅子に座っているルーナへと声を掛ける。
「ルーナ、おはよう!」
「あっジセル、おはよう!」
(……ん? 何だ? この感じ……少し雰囲気が違う! ……恐らく何かが変わっているな。そしてこのまま、それに気が付かないのは多分マズイ。髪型を変えた妹の姿に気付かない兄くらいマズイッ!)
妹が髪型を変えた事に気が付かなかった結果──そのまま彼女が超絶不機嫌になってしまったという、前世の出来事を思い出すジセル。彼は知らないが『プリンセス・ジ・グランドハーツ』に登場する、ジセルというキャラクター本来の体に備わっている天性の危機感知能力により、ルーナの”何か”が変わっている可能性に気付く。
「……ルーナは今日も可愛いね! でも、ちょっと雰囲気変わった?」
(よしッ! 範囲が広めで、大体の事には当てはまる万能さを持つ魔法の言葉『雰囲気変わった?』を使えば乗り切れるはずだ! 俺はなぁ……魔法は使えないが、魔法の言葉は使えるんだよぉッ!)
しかし『魔法の言葉が使える』などという能力が備わっていたところで──中身がコレだと、対処出来たとしてもこのような当たり障りのないようなモノにしかならない。
「え? う、うん! そうなの。昨日お母さんに、男の子のお友達ができたって言ったら……普段の会話の仕方とか、トリコ? にできる話し方を教えて貰って」
(そう言えば、昨日と比べて明らかに舌っ足らずさが消えているな。……え、クソ流暢なんですけど。また天才発揮したのかこの子。てか母親も母親でやべェなッ! 子供にナニ教えてんだよッ……いや、俺が言えることじゃないけどもッ!)
ジセルとは違いルーナは物語に登場するキャラクターではないのだが、出来ることが明らかに普通の人間を越えている。原作に登場しないモブキャラがこれ程の能力を持っているというのは流石に異常であると言わざるを得ないが、ここがゲームの世界ではなく紛れも無い現実であると言うのならば、|ジセル《彼》の様なメインキャラクター以外で|其処彼処《そこかしこ》に隠れた天才が存在していてもおかしくは無いのだろう。
「あと……今日も会う約束してるって言ったら、お母さんがスゴい勢いでおめかししてくれたの……どう、かな?」
──その上目遣いからのセリフをちょっと溜める感じのヤツはお母さんから教わったのかい?
と、内心問いかけたい気持ちでいっぱいのジセル。だが彼女はそれを昨日もやっていたため、もしかしたら魔性なのかもしれない。
「もうスッゴイ。スッゴイ可愛いよ。可愛すぎて今すぐ『べろちゅー』したいくらい! ……ぐへへ」
(ふむ……しかし、母親は娘を放置気味で関係が悪いのかと思ってたが……俺が思っていたモノとは少し違うようだな。聞く限り、仲が良さそうな感じはする)
ルーナ曰く──しらないおとこのひととなかよくしないといけない、という理由から外で遊ぶことを母親に促されていた事実があった。その件から、育児放棄気味なのかと勝手に思っていたジセルだが、どうやらその考えを改める必要があるらしい。
「えへへ! 私もはやく……『べろちゅー』……したいな」
(……だから溜めて言うのはやめなさい。虜にする技術を活用し過ぎだからッ! 俺は簡単に虜になっちゃうからッ! ……母親の熱が伝わるな。でも、俺って一応領主の息子だし……ルーナから俺の名前を聞いたりして態度変えたとかじゃないと良いが)
相手が貴族──それも領主の息子だと知ったら、態度を一変させる母親も多いだろう。
「……ルーナってもしかして、僕の名前をお母さんに言ったりした? いや、全然良いんだけどね! 気になって……」
「ううん。言ってないよ?」
(はい……母親の愛、確定です。愛確定させられました。え〜こちら、ストレスフリーでべろちゅーに移行させていただきます!)
どうやらそれは杞憂だったと確認が取れた所で、予定通り『べろちゅー』を開始するジセル。ルーナの返答を聞いた直後、ノータイムでそのまま額にキスをする。
「え? ジセル!? はわ……はわわ! ジセル、凄いことして……わぁ」
──一方、ジセルとルーナが熱いハグや親愛キスを交わしている光景を木陰から覗き見るレア。
「あんな……アツアツな……えぇ〜? そんな、えー!」
最初は木から片目のみしか出していなかったため、ルーナが|視線《ダンガン》を当てる為のヒットボックスは本当に最小限まで抑えられていたのだが──時間が経つにつれて、本当に隠れているのか? と思う程身を乗り出してしまっている。その為──、
「もう、ジセル! いきなりはびっくりするからやめ……い、いや、これもイイかも」
「ごめん、どうしても我慢できなくてッ!」
「ふふ、ジセルだからいいよ? ……ところで、さっきからジセルの後ろの方でこっちを見てる人ってだれ?」
──ルーナの目には普通に丸見えで、思いっきりバレていた。
「……ところで、さっきからジセルの後ろの方でこっちを見てる人ってだれ?」「えっ」 (あぁ……もしかしてレアか? ……ってレアかッ!? いぃ〜や、バレるの速過ぎッ!)「え? そんな人居るの?」 恐らくレアをガン見しているのであろうルーナ。背後のレアへとどうしても身体を向けることが出来ないまま──どうにかしてルーナの気を逸らそうと恍け始めるジセル。「うん、あっちの木の所に……こっちを見てる女の子がいる!」「え、マジ? 女の子!? どこどこッ!」「……ねぇ、どうして女の子って聞いた途端にそんな反応するの?」 しかし『女の子』という単語が耳を掠めた瞬間、コンマ1秒で振り向いてしまう|この男《バカ》。ルーナはそれにより、シセルを簡単に動かす為の言葉を一つ覚えてしまった。(さて何処にいるのかな〜……って、やっぱりレアじゃねーかッ! アイツ……隠れていないにも程があるだろ! ルーナの発言が『木の後ろに〜』や『隠れて見てる〜』とかじゃなくて、後ろの方やらあっちの木の所やら抽象的な事ばかりだったという事に、少しだけ違和感を感じてはいたが……もはや何も遮蔽物がない道のド真ん中に棒立ちしてんじゃねぇかお前!)「あの女の子……もしかして、ジセルの……知り合い?」「へ? あ、あぁ。アイツは……」 ジセルはレアを友達と紹介して、普段から『べろちゅー』をしていると勘違いされる訳にはいかないが──レアの事を|女の子《・・・》と言ったルーナに対しての返答を考えようとした時、シセルの脳内に今朝の記憶が駆け巡る。 ──……だっでッ! ぼぐっひぐ……男で良かっだなんでッ! ──うん、分かった! 親友の僕に任せてッ!! 初めは怖い程の無表情を浮かべ、水色という髪の色も相まってより冷たい雰囲気を醸し出していたのにも関わらず、爆速で泣き顔から笑顔まで晒す事となったレア。 詳しくは知らない、知らないが──そうなってしまうということは、女の子扱いされるのが嫌になる程の相当な理由があるのだろう。 ──ならばジセルが取れる選択は一つしかない。「……はぁ〜」「ジセル……?」「アイツはただの知り合いじゃなくて……僕の男友達で、親友なんだ」 そう、例え普段から男同士で『べろちゅー』をしていると思われたとしても──素直にレアを男友達として紹介するという選択しか。「……しんゆう?」
「俺は──恋人が欲しい!」 ジセルの心からの叫びを聞いて首を傾げたままではあるが、一応は耳を傾けているルーナ。「ある日、思い出したんだ……──俺は変態だった、とッ!」 そう、ジセルは思い出した。自分が|瑠璃川 眞《へんたい》だと言う事、その過去を。「俺自身、かなり性欲がある。今は理性で抑える事が出来ているが、将来の自分がこの欲望を抑えることができるのかどうかを確信できなかったッ!」 ──この男、本音である。自身が変態であるという事実も、前世から己の魂に存在するモノの事であり、自身の未来に関わる重要な話と言えなくもないが──真に伝えるべきはそちらでは無い。 将来の伴侶にすべき人物は決まっており、”その人物を恋人とするために協力して欲しい”と……そう伝えなければならないはずであった。 「……」 「……」 ルーナもレアも真剣に聞いてくれてはいるが、少々呆れ気味なのが顔に出てしまっている事にジセルはまだ気付かない。「そして俺は考えたッ! 将来、その性欲を解消できるくらいラブラブな彼女でも作れば良いんじゃね? ……と。一体どうすればそんな事ができるのか。俺は領主の息子だから、普通に過ごしていれば両親に選んで貰った人間と結婚して、子孫くらいは余裕で作れただろう……だが果たしてそこに愛はあるのか? 俺は相手にも幸せになって貰わないと興奮しないタイプなんだッ!」「──わぁ、変態だぁ」 ジセルの事を変態だと言うレアの顔は何故か少し嬉しそうだ。自分だけではなく、親友であるこの男までもが変態だったという事実に喜びを感じているのだろう。「じゃあどうすれば、女の子とラブラブになれる? 将来暇があったらイチャイチャできるくらいラブラブな伴侶を作れる? と、その方法を考えた。そうそれがッ! 『今から幼馴染でも作って、相手をべろちゅーで依存させればイけるんじゃね』作戦だった!」「ふーん」「……僕の初めての親友がこんなクズだなんて嫌だよ!」 口ではそう言っているが──レアの顔がみるみる悦びに満ちているのが、ジセルの水晶体にはハッキリと映っている。「そしてッ! ……アレ? そういや……前に領民と顔を合わせる目的で領内を回った時に、めちゃめちゃ可愛い子いたな? と思った俺は、その子を見かけたこの庭園へとやってきた」「……へぇ」「ジセル……僕の横から伝わってく
「……ふわぁ……あ?」「あ、ジセル。おはよう!」「んあぁ? あぁ……おはよう、レア」 昨日は流石に疲れたのか、帰宅直後に爆速で眠ってしまったジセル。「随分とぐっすり寝てたね。もうお昼だよ〜!」(それはヤバいな。俺が寝たのは昨日の夕方とかだったから……)「……マジか。う~わ──口がベトベトじゃん……相当爆睡しちまったなぁ」 口から流れ出た涎は枕に大きなシミを作っている。夕飯も食べずに寝た為、昼に起きた彼はもう既に夕食に加えて朝食も抜いてしまっている。現在進行形で非常にお腹が空いていて、なかなか体を動かす事ができない。「お昼はどうする?」 ──ちょっと夫婦みたいな雰囲気を出して言うな。 と、ジセルは内心でツッコんだ。「あぁ……食べる」「分かった! ちょうどランチの時間だから厨房の人に伝えて来るね!」「あ、うん。ありがとうレア」(物凄く助かるし、有難いという気持ちでいっぱいではあるが──何故当たり前のようにレアが俺の部屋にいるのか) そう困惑した様子でレアの方へと視線を向けるジセル。レアが担当している仕事のメインは一応『ジセル専属の付き添い人』である。ではあるのだが、別に同じ部屋で一緒に寝ている訳ではない。 幾ら専属と言えど、通常は──主人の部屋に入る際にノックをして『返答がない場合は勝手に入室せず、後ほどまた伺う』というようにしなければならないはずだ。しかし、彼にそのような事をされた記憶などジセルには微塵も無い。(──一体、俺の世話をどこまで担当しているのだろうか。そう言えば以前も……目が覚めたら既にこの部屋に居た。あの時は初めまして且つ、自己紹介やら……あと他にも色々あったせいで気にする暇が無かったな) |昨日《さくじつ》にて──帰宅後、ジセルの眠気が流石に限界だったため直ぐに自室へと向かったが、彼と別れたレアがエリナス夫妻の部屋へと向っていった様子を確認した……というのは鮮明に覚えている。(……そういやそういう約束でレアをつけて貰ったんだっけ。嘘をつけとまでは言わないが……全てを話すのはやめて欲しいという俺の気持ちをレアは汲んでくれているだろうか) ──昼食を食べる時にでも軽く探ってみるかぁ。 と、自室の扉へと手をかけるジセルであった。 食卓に着いた彼は長いテーブルにある7つの椅子の内、普段座っている──端から3番目の椅
現在、彼が居るのは大庭園内。いつもルーナと会っている木製の椅子がある所──付近の草むらの中だ。「やべぇ……緊張してきた。学園に誘うなんて……一体どう誘えば良いんだ!」 などと脳を無駄にフル回転させることで、緊張を和らげようとしているジセル。「普通に誘えばいいじゃん……」「は、は〜? 普通ってナンデスカ~? 貴方が言う普通っていうのは所詮貴方の普通であって俺にとっての普通とは違うというか、そもそも貴方にとっての普通どころか俺にとっての普通が分からないから悩んでいるわけで……たった今俺の脳内で、どうせこのまま時間を浪費するだけだという結論がでたため──実家に帰らせていただきますッ!」「……めんどくさっ」 Uターンをして帰宅しようとしたジセルの首根っこを掴んで、元の位置に戻すレア。もはや遠慮という物は無くなっている様だ。「……何すんだよ」「……ジセルの方こそ何してるのさ。このまま帰ったらソフィア様に怒られるんじゃない?」「そんなに言うなら俺の代わりにレアが誘ってくれれば良いじゃん」「……やだ!」 そんなジセルの態度を見たレアは、その整った綺麗な水色の眉を少し寄せ──プイッとそっぽを向く。「なんでやねんッ! 別に俺が誘ってもお前が誘っても変わらないだろ!? そうすれば俺は怒られずに済むし、もし失敗したとしてもレアがフラれただけで俺がフラれた判定にはならないし!」「いや、別にそれは良いさ。ただ……ルーナちゃんのことを考えると、ね。というか、こんな話してて良いの? ルーナちゃん、さっきからずっとあそこで魔法の練習してるみたいだけど」 そう言って──いつの間にか木製の椅子の横に立ち、球体状の水を掌で弾ませて遊んでいるルーナへと指を向けるレア。「ホントだぁ。スゴイな〜」「いや……『スゴイな〜』じゃなくて!」(いやぁ〜良く見てみると本当にスゴイ。前は『べろちゅー』の事しか考えていなかったから、細かい技術まで意識を向けるということはできなかったけど)「ルーナは頭が良い……失敗しても常にその原因を考えて、同じ失敗をしない為に思考錯誤しているのが分かる。そしてそれを専門の知識無しで、感覚で理解出来る運動神経というか……肉体制御が上手く、勘もある」 おそらく前世の世界でFPSゲームでもやらせたら、時間さえあればトッププロのレベルまで到達できる程の才能だ
ジセルの部屋は、柔らかな午後の日差しが窓から斜めに差し込み、埃がキラキラと舞う中、どこか懐かしく温もりを感じさせる空間になっている。壁には今より幼い頃の写真や思い出の品々が飾られ、木の温もりを感じる床には、日常の静けさと共に、どこかしら不穏な期待が漂っている。 そんなことはさておき──先程からレアの様子がおかしい。「ふんふふーん♪」 ルーナが来るまでの間、ジセルはこの部屋で静かに待機していた。いつも通りの自室、見慣れた風景──だが、今日の空気は普段とは違っている。何故かレアが、部屋の隅々まで目を輝かせながら鼻歌を奏でつつ掃除を始めたのだ。その姿は、部屋に降り注ぐ柔らかな光と相まって、まるで春風に誘われた花びらのように軽やかだった。「お〜お〜随分とルンルンしてるなぁ、レア。めちゃめちゃ上機嫌じゃないか?」「え〜? そうかな? ふふっ」 ──やべぇ……やべぇよぉ! ジセルの胸の中で、どうしてこんなにも異様な空気が漂うのか理解し難く、不安と苛立ちが渦巻いている。 相手の心の奥に何が潜んでいるのか、全く読めない。こんなにも機嫌が良いレアは、決して慣れ親しんだ姿ではない。(一体何がそんなに楽しいんだよ、こいつは! レアがこんなんになっちまう事なんて、今までに無かっただろうがッ!) ジセルの心臓は不規則なリズムを刻みながら、警戒と戸惑いで大きく膨れ上がっていた。「ル、ルーナが家に来る事がそんなに嬉しいのか?」「へ? ふふっ、なんでルーナが来ることで僕が嬉しくなると思うの? あははっ! ジセルったら、面白いこと言うね! あ〜おかし!」(……おかしいのはお前だよバカっ!!) レアの言葉に、ジセルの心の中では怒りと不安が交錯する。(どう考えても、レアは普段この程度事で笑い転げるような奴じゃない。どこも面白くない事で腹抱えてるお前の方がオモ……いや、もはや冗談でもオモロいなんて言えないわ。正直怖い、非常に怖い!) 部屋の窓からは、木々のざわめきと遠くで聞こえる鳥のさえずりが、平穏な午後のひとときを彩っている。しかしその平穏さとは裏腹に、ジセルは今──自分の内側で荒れ狂う感情を抑えきれずにいた。「そ、それにしてもルーナ遅いなぁ? 別れてからもう数時間は経ってるし。あまりにも時間がかかりすぎだと思わないか?」「う〜ん、確かにそうだね。もしかしたら今日
「ごちそうさま」「あら〜? 今日はジセルの大好きな、えーっと……『チキン南蛮?』なのに、もう食べないのぉ〜?」 父リオネルは今、書斎で仕事に没頭している。その為ジセルが食卓のある部屋に戻ると、母ソフィアはひとり静かに夕食を済ませなければならない。そんな状況を憂うように、ソフィアはどこか寂しげな表情でジセルに声をかける。(確かに俺はチキン南蛮が大好きだ。前世の世界で、赤坂の〇ん〇んでんというお店のチキン南蛮を初めて食べた時の事は……今でも忘れられない。あれはまるで、心の奥底から『食ってみな、飛ぶぞ!!』という熱い衝動が溢れ出すほどだった)「ごめん、ちょっと今日は疲れてて……できれば早めに横になりたいんだ」(だが今日は何故か全然食欲が湧かない。母が食べ終わるまでここで座って待っていてもいいが……起きていると脳内に近頃の様子がおかしいレアの映像が浮かび続けるため、早めに寝たい) ジセルは寂しげな表情を浮かべる母と、皿に残されたチキン南蛮に一度だけ視線を向けると──心の中で小さな葛藤を抱えながらも、後ろ髪を引かれる思いで部屋の入口へと向かう。「そうなの〜? ならしっかり休んで、ルーナちゃんが来る時に備えないとねぇ〜」 ソフィアの温かい声がやや物憂げな夕暮れの空気に溶け込む。そしてジセルは──その言葉だけは聞き流すように、静かに足早に歩き始めた。****** 廊下に出ると、ジセルの足音が硬い床材に響く。夕陽が窓から差し込み、長い影を廊下の壁に映し出している。かすかな風が通り抜け、時計の針の音とともに、彼の心のざわめきを映し出すかのようだった。 心の中では昼間の出来事の記憶が静かに渦巻き、未来への不安とともにじわじわと広がっていた。彼の肩は重くどこか疲れた表情を浮かべながらも、先へ進む決意を秘めているのが感じられる。 ジセルは部屋と部屋の間にある広い廊下を通り抜けた。廊下の先には幼い頃から見慣れた自室のドアが控えており、そのドア越しに静かな光と、どこか安心感を呼び覚ます温もりが漏れている。 ドアの前に立つと、ジセルは一度深く息を吸い込んだ。心の中で今日の出来事を整理しようとするかのように、彼は手でドアノブに触れ、そっと開ける。中に入ると、薄暗い照明が部屋全体に柔らかな影を落とし、机の上には散乱した受験参考書やノートが、今にも彼の思考を吸い込
「──さて、レア君。何をしているのカナ?」「はぁ……え?」 目の前に現れたジセルの顔に、レアはふと戸惑いの色を浮かべる。ジセルはどこか冷徹でありながらも、どこかいたずら心を滲ませる口調で返す。「こんばんは♪」 その声に、レアは一瞬にして体が硬直する。慌てた様子で、レアは口ごもりながらも問い返す。「こ、こんばんは……って! え、お、起きてる?」「ウン、そりゃ起きてるヨ。寝言でこんな事言わないヨ」「……ご、ごめッ! これは、違くてッ!」 ジセルはゆっくりと掌を動かし、ベッドシーツの乱れた皺を丁寧になぞるように伸ばしながら、レアの動揺する表情をまるで解剖するかのような冷静な眼差しで観察していた。壁際に映る影が、レアの背中に罪人の烙印のように濃く刻まれているかのようだ。(ふむ……何かを誤魔化す時に大体『違くてッ!』ってセリフを言うのは、フィクションの世界だけじゃなかったんだな) ジセルは無言のままじっとレアを見据える。その眼差しに、レアは次第に言い訳の言葉を飲み込み、肩を落として項垂れるようになった。「うっ……い、いつから起きてたの?」 レアの震える声にジセルは一瞬の間を置くと、冷静な口調で答える。「『ジセルばっかべろちゅーできてズルい……僕だってしたいのに』とかいうセリフのちょっと前からだな」 それを聞いたレアの顔は一気に赤く染まり、恥じらいと苛立ちが交錯する表情を浮かべた。「え、それって……最初からじゃないかぁ〜ッ! 起きてたなら言ってよ!」 ジセルは軽くため息をつくような口調で問い返す。「……言ったとして、今お前がここにいる事をどう誤魔化すつもりだ?」 レアは言葉を失い、口ごもるばかり。ようやく、震える声で呟く。「ぐっ」「どっちにしろ『べろちゅー』も出来なくて、苦しいままお前は自室に戻る事になるなぁ〜?」 ジセルの言葉は冷徹ながらもどこか茶目っ気を帯び、レアの内面に潜む欲望と葛藤を容赦なく突きつける。レアの体は次第に抵抗できぬ衝動に震え始め、心の奥底で押し込めた感情が噴出しようとしているかのようだ。「うぅ」「で、次の日とかに……完全に俺が眠った後で発散しに来るつもりだったんだろうが。そうなったとしても……夜、俺に対してレアが何かしてるっていうのは、ちゃんと分かるぞ?」 ジセルの一言一言が部屋に響くたびに、レアの顔は次第に
薄明かりが差し込む静かな部屋。窓の外では夜風が微かに木々を揺らし、その音が遠くから届く。ジセルの低く鋭い、そして少し照れを含んだ声が、夜の静寂を切り裂くように響く。「俺が寝ている間にするんじゃなくて、起きてる間だったら……ハグまではさせてやってもいいぞ」 その言葉には、不意に混じった照れ隠しのような気持ちが滲んでいる。ジセルは少し顔をそらし、耳がほんのり赤くなっているのがわかる。それでも、口元にはどこか余裕を感じさせる微笑みを浮かべていた。(日頃のストレスは、ハグだけでもかなり解消されると実証されているらしいし……別にソレ自体は良い。『べろちゅー』で口の周りどころか枕までベトベトにされるよりはマシだ。問題は、加減をしてくれないせいで朝起きた時に俺の身体がバキバキになる可能性がある事。それも、力加減をレアに任せるんじゃなくて俺側が調整すれば解決できる)「ほ、ほんとにッ!?」 その返事にレアの顔が一瞬で輝き、驚いたような声をあげながら無防備にジセルの目の前に顔をズイっと寄せる。満面の笑顔でジセルを見つめる彼の目はキラキラと輝き、無邪気な期待と興奮が溢れていた。「あ、あぁ」 ジセルは何とか冷静を保とうとしたが、思わず声が少し震える。レアのあまりにも近い距離に、心の中で少し焦りが広がる。レアが急に大きな声を上げたことで、ジセルはつい表情を崩しそうになりながらも、彼の突き出された顔に目をそらすことなく──ほ、本当だ……と、言葉を続けた。(うむ、この食い付き方は前に一度見たから今度は驚かなかった。おれえらい。まぁ、正直こんなに可愛い子と『ハグ』するなんて事は……本物の変態であるこの俺ならば、例え相手にお〇ん〇んが|ついていた《・・・・・》としてもッ! 余裕でこちらからお願いするレベルではあるッ! その上……レアがして欲しいって言うのなら仕方がないよなぁ?)「じゃ、じゃあ、さささ早速っ──」 ──と元気いっぱいに宣言するレアの目はキラキラと輝き、ハグを待ちわびるその顔に、今までの迷いや戸惑いは影を潜めていた。ジセルは一瞬、目を閉じ、しばらく静かにレアの様子を見つめた後、勢いよく彼を抱き締める。 抱擁が落ち着いた瞬間、ジセルは温かさを含んだ声で呟く。「…………お前は見習いなのに、いつも頑張っているな」 その言葉に、レアは急に困惑の表情を浮かべ、震える声で
彼と初めて出会ったのは七年前──私が六歳の頃だった。この日は、父の旧友であるリオネル様と久しぶりの再会を果たせると、嬉しそうな父に連れられてエリナス領まで足を運んでいた。 父が旧友との談笑を楽しんでいる間、私は屋敷の中を探検することにした。広々とした廊下には、格式高い絵画や美しい花瓶が並び、絨毯を踏むたびに柔らかく沈む感触が心地よい。背伸びをしながら額縁に触れてみたり、飾られた騎士の甲冑にそっと手を伸ばしてみたりと、興味の赴くままに歩き回る。 気がつけば、ひんやりとした空気が頬を撫でた。知らぬ間に、裏庭へと続く扉を抜けていたのだ。 庭には鮮やかな草花が咲き誇り、風にそよぐ木々が心地よい木陰を作っている。優雅に噴水が流れる音が響くなか、私はふと、芝生の上にぽつんと座る少年の姿を見つけた。 銀色の髪が陽光を受けて輝き、澄んだ青玉の瞳が手元のカードをじっと見つめている。風に吹かれた髪がさらりと揺れたが、彼はそれを気にする様子もなく、静かにゲームへ没頭していた。その姿に、私は思わず足を止める。「ねぇ、何をしてるの?」 唐突に話しかけると、少年は少し顔を上げた。陽の光を受けて透き通る瞳が、ちらりとこちらを見やる。「カードゲームさ。何やら、父様の友人が家に来ているらしいからね。僕は自ら気を使って遊びに勤しんでるってワケ」 淡々とした口調に、小さなため息まで添えられる。話しぶりからして、彼がリオネル様の息子──ジセル・エリナスなのだろう。「へぇ。剣術より楽しいの?」 彼の隣にちょこんと腰を下ろし、興味深げにカードを覗き込む。 ジセルは肩をすくめると、カードを手の中で切り直した。「それは分からないな。剣術は習ったことがないから」「私もない!!」 勢いよく答えると、ジセルが訝しげにこちらを見た。「……なんでさ、まるでやったことがある人の質問だったのに」 ジセルが呆れたようにこちらを見上げる。私はむっとして腕を組んだ。「パパが私にはまだ危ないからって教えてくれないの。いつもあんなに楽しそうに門下生とかいうのと戦ってるのに……ねぇ、アンタ! 私と勝負しなさい!」 そう言いながら、腰に差していた細剣を引き抜く。 鋼が陽光を受け、きらりと光を反射した。「……いや、何で? そもそもナニで?」「剣術で!」 私は剣の切っ先をぴんと向け、気合十分に構え
(図書館で剣を抜くなよ……クソ!) 必死に逃げるジセル。普段の鍛錬のおかげで逃げ足の速さには自信がある彼は、彼女の追跡を振り切り大図書館の外に出ると、そのまま茂みに飛び込んだ。バラの棘が袖を引き裂き、蜘蛛の巣が頬に張り付くのも構わず隠れる。「……どこに行った?」 同じく図書館から出てきた”アデライトの姉”が辺りを見回しているのを、ジセルはじっと隠れながら観察する。彼女の革靴が石畳を叩くリズムが、狩人の足音のように不規則に変化している。 夕焼けが石畳を琥珀色に染め、彼女の腰にある鞘が鈍く光る。やがて諦めたのか、彼女は周囲に咲いている『シビゲル』という花へと注意を向ける。ジセルは蔦の絡まる柱陰へと移動し、彼女の指先がシビゲルの花弁を撫でる様を覗き見ていた。花びらに付いた朝露が、彼女の指に砕けるのが見える。 ──その瞬間、ジセルの脳裏にゲームの記憶がよみがえった。(この花……ヒロイン限定任務に出てきたイベント特効薬の材料じゃないか? たしか主要キャラの名前は──シルヴィア) シルヴィア──『プリンセス・ジ・グランドハーツ』のヒロインの一人。未来の勇者の仲間にして、凛々しき女騎士。(……彼女の母親は病気を患っていて、それを治すには特定の薬草が必要だった。シビゲルという青い花はその主要な材料の一つであり、正しい調合法を知っていれば、効果的な治療薬を作れる) ジセルはそっと茂みから抜け出し、慎重に彼女へと近づいた。「なぁ……君、名前は?」 不意に声をかけると、彼女が驚いて振り向く。すぐに剣を抜かれそうになったが、ジセルは手を上げて制した。「待て待て、敵意はない。ただ、君の役に立てるかもしれないと思って」「何故貴様のような変態如きに私の名前を教える必要がある」「……いいから」 ジセルの真剣な眼差しに、ため息を吐きながら鞘から手を離すシルヴィア。「……シルヴィア・ランスロッドだ」(やっぱり……ヒロインか) シビゲルの花を手に持つ彼女を見ながら、ジセルは内心でそう結論付ける。「──なぁ……その花、大切なものなんだろ?」「……何の話だ?」 警戒する彼女に、ジセルは微笑みながら告げた。「君の母親の病気……それを治す方法を知ってる」 その言葉に、彼女の表情が一瞬揺らぐ。 ジセルは続けた。「この青い花は、治療薬の材料の一つだ。でも、ただ煎じる
鋭い金色の瞳がジセルをじっと見据えている。その表情には確固たる意志が宿り、場違いなほどの気迫を感じさせた。眉間の皺が、尋問官のような厳しさを醸し出している。右手の人差し指が剣の鍔を撫でる動作に、長年の剣術修行で培われた無意識の癖が見える。「……俺に何か用?」 とぼけた口調で返すジセル。しかし、声の奥に潜む微かな震えが、本心の動揺を露わにしていた。左手の小指が痙攣するのを、右手で隠すようにポケットに突っ込む。 少女は一歩踏み出し、革靴の踵が石床を叩く音が館内に反響した。書架の影から小動物が逃げ出す音がして、緊迫した空気が更に濃密になる。「妹が『変な銀髪の男を見かけた』と言っていた。何やら領民の小さな女の子へと変態行為を働いていたらしいが……おそらくそれは貴様だろう?」 声の端に刃のような響きを含ませながら、少女は懐から皺になった紙片を取り出す。羊皮紙の端が擦り切れたその資料を広げると、そこには銀髪の人物を描いた似顔絵が──明らかにジセルをモデルにしたと思われる絵が、稚拙な筆致で描かれていた。右目の位置に鼻が描かれたデフォルメが、作者の不器用さを痛烈に物語っている。(身分はバレてないが、身分がバレるより見られてはいけないところを見られてたんだが……!) ──領民の小さな女の子へと変態行為を働いていた……というのは恐らく、ジセルがルーナと『べろちゅー』をしていた時のことだろう。その光景を彼女の”妹”とやらに見られていたのかもしれない。(──いや、ルーナの見た目はほぼ女の子だとしても、肉体の性別的には男の子……きっと別人のことだ、そうであってくれ!) 剣の鍔に触れる指先が微妙に震える。心当たりがあり過ぎるジセルだが、喉仏を上下させて唾液を飲み込み、何とか無反応を保つ。瞼を一度ぱちりと閉じ、過去の失敗を脳裏に再生する。「その絵……誰が書いたの? めちゃめちゃヘタくそだし、俺だって判別できる要素はないと思うんだけど&hell
──『レア夜這い事件』から一週間が経った。 ジセルは異世界の風に身を任せ、かつての記憶を仄めかすように静かに歩を進めていた。靴底が砂利道を軋ませる音が、領主邸を離れた解放感を強調するかのように響く。「勉強漬けなのも疲れるし……たまには気分転換でもしないとな」 セントラム学園に入学すると決めてからというもの、彼の生活は勉学と鍛錬の繰り返しだった。 ──記憶を思い出す前のジセルは更に多くの勉強と鍛錬を求められていたというのは、しっかりと脳内に刻まれているため、今のジセルが無責任に放り出すのは憚られる。領主の息子であるという重い秘密を胸に秘めながら、自らの過去を隠し、広大な領地の片隅を彷徨うように歩く。左手で懐中時計を開け確認する仕草に、元の世界の名残が滲んでいた。 銀色に輝く髪が陽光を浴びてきらめきながらも、その哀愁を帯びた色彩は、彼の内面に渦巻く葛藤を映し出すようだった。ふと指先で髪の毛を撚る癖が、無意識の焦燥を物語っている。「クソ、失敗だった…………あれからほぼ毎日、寝る前のハグをする羽目になったから無駄な精神疲労の原因が増えたわ」 ふと顔をしかめ、ジセルは先日の一件を思い出す。額に浮かんだ皺が少年の年齢を不自然に老けさせた。 ──あの"レア夜這い事件"の結果、彼の平穏な夜は消し飛んだ。あれ以来、妙に距離感の近い夜が日常化し、精神的な疲労は増すばかりだった。夜毎に押し寄せる甘い香りと体温の記憶が、今も後頭部を鈍く疼かせる。 彼はため息混じりに視線を上げる。首筋に絡みつく初夏の湿気が、領主邸を離れた実感を曖昧にしていた。 薄曇りの空の下、木々のざわめきが風に乗って響く。その音に導かれるように、ジセルは街道の脇に広がる茂みを抜け、やがて見慣れた建物へと足を踏み入れた。石畳に刻まれた深い轍が、この図書館が多くの知識を求める者たちに利用されている証左だった。 ──大図書館。領地の外からも多くの者が訪れる、知識の宝庫である。尖塔を思わせるゴシック様式の建築物が、知識の重みを無言で表現していた。外壁を覆う蔦が年月を刻み、ステンドグラスに描かれた賢者の図像が薄日を受けて幽かに輝いている。「魔法関連の書物は見飽きたし……剣術系統のモノを読んでみるか」 館内は静寂に包まれていた。分厚い書物をめくる音、遠くで囁き交わされる低い会話の声が、静謐な空間に溶け込ん
「……実は僕の家族、もう皆死んじゃってるんだ」(アァ、まっずい! 数ある可能性の中で一番重いヤツ来た!)「文字通り天涯孤独になっちゃった僕は、両親が残してくれた貯金を切り崩しながら生活してたんだけど……その貯金も底をついちゃって、住んでた家まで売って無理矢理お金を作ったんだ」 レアの頬がジセルの肩口で微かに動く。涙の痕ではなく、かすかな笑みの形を作っているのが痛々しい。(……なるほどな。暫くはそれを使って仕事を探しながら生活してた訳か) 当時は今よりももっと幼かっただろう……仕事の探し方すら分からなかったから、とりあえず食べる為に家を売ってしまった……という可能性もある事に気付いたジセルは、無意識にレアを抱く力を少しだけ強める。「そのお金も無くなりそうになっていた時、僕は運良くソフィア様に拾って頂いたんだ。どうやら僕が一人で家を売る所を見てくれていたみたいで」(ほぇ~、そうだったのか~……ん? それって、雇い主は母上になる訳だから……俺がレアをクビにするなんて事は出来なくね? 俺の我儘でレアを見殺しにするような選択を母上が取る筈ないし)「ここは住み込みで働ける上に、ご飯も食べれる。もしも出て行くことになってしまったら、何処にも行く所がなくなって……また前の生活に戻る事になる。でも、そうなったら多分……僕はもう生きる為に頑張れない」 そう断言するレアの言葉を聞いて……ジセルは無言のまま思考する。「……」 幼い身でありながら……突然、天国から地獄へと堕とされ、そしてその地獄から奇跡的に這い上がって来る事が出来たのにも関わらず、また落とされるなどという事になってしまったら……レアの身に襲い掛かる絶望は計り知れないものになるだろう。「だから、何としてもクビになる訳にはいかなかったんだけど……うぅ」 想像した最悪の事態への不安から、身体が震えてしまうレア。(初めて経験する事への我慢は難しいからな。この様な状況になった今、これからはその辺の自制はちゃんと出来るようになるだろう)「なるほど……それならまぁ、これからはそんな悩みを抱く必要はなくなるな」「……え?」 そんなジセルの言葉を聞いて、驚きからか身体をビクッとさせる。「まず……雇い主が母上である以上、俺が直接お前をクビにする事は出来ない。そもそも俺がお前をクビにしたいと思う事自体……今まで
薄明かりが差し込む静かな部屋。窓の外では夜風が微かに木々を揺らし、その音が遠くから届く。ジセルの低く鋭い、そして少し照れを含んだ声が、夜の静寂を切り裂くように響く。「俺が寝ている間にするんじゃなくて、起きてる間だったら……ハグまではさせてやってもいいぞ」 その言葉には、不意に混じった照れ隠しのような気持ちが滲んでいる。ジセルは少し顔をそらし、耳がほんのり赤くなっているのがわかる。それでも、口元にはどこか余裕を感じさせる微笑みを浮かべていた。(日頃のストレスは、ハグだけでもかなり解消されると実証されているらしいし……別にソレ自体は良い。『べろちゅー』で口の周りどころか枕までベトベトにされるよりはマシだ。問題は、加減をしてくれないせいで朝起きた時に俺の身体がバキバキになる可能性がある事。それも、力加減をレアに任せるんじゃなくて俺側が調整すれば解決できる)「ほ、ほんとにッ!?」 その返事にレアの顔が一瞬で輝き、驚いたような声をあげながら無防備にジセルの目の前に顔をズイっと寄せる。満面の笑顔でジセルを見つめる彼の目はキラキラと輝き、無邪気な期待と興奮が溢れていた。「あ、あぁ」 ジセルは何とか冷静を保とうとしたが、思わず声が少し震える。レアのあまりにも近い距離に、心の中で少し焦りが広がる。レアが急に大きな声を上げたことで、ジセルはつい表情を崩しそうになりながらも、彼の突き出された顔に目をそらすことなく──ほ、本当だ……と、言葉を続けた。(うむ、この食い付き方は前に一度見たから今度は驚かなかった。おれえらい。まぁ、正直こんなに可愛い子と『ハグ』するなんて事は……本物の変態であるこの俺ならば、例え相手にお〇ん〇んが|ついていた《・・・・・》としてもッ! 余裕でこちらからお願いするレベルではあるッ! その上……レアがして欲しいって言うのなら仕方がないよなぁ?)「じゃ、じゃあ、さささ早速っ──」 ──と元気いっぱいに宣言するレアの目はキラキラと輝き、ハグを待ちわびるその顔に、今までの迷いや戸惑いは影を潜めていた。ジセルは一瞬、目を閉じ、しばらく静かにレアの様子を見つめた後、勢いよく彼を抱き締める。 抱擁が落ち着いた瞬間、ジセルは温かさを含んだ声で呟く。「…………お前は見習いなのに、いつも頑張っているな」 その言葉に、レアは急に困惑の表情を浮かべ、震える声で
「──さて、レア君。何をしているのカナ?」「はぁ……え?」 目の前に現れたジセルの顔に、レアはふと戸惑いの色を浮かべる。ジセルはどこか冷徹でありながらも、どこかいたずら心を滲ませる口調で返す。「こんばんは♪」 その声に、レアは一瞬にして体が硬直する。慌てた様子で、レアは口ごもりながらも問い返す。「こ、こんばんは……って! え、お、起きてる?」「ウン、そりゃ起きてるヨ。寝言でこんな事言わないヨ」「……ご、ごめッ! これは、違くてッ!」 ジセルはゆっくりと掌を動かし、ベッドシーツの乱れた皺を丁寧になぞるように伸ばしながら、レアの動揺する表情をまるで解剖するかのような冷静な眼差しで観察していた。壁際に映る影が、レアの背中に罪人の烙印のように濃く刻まれているかのようだ。(ふむ……何かを誤魔化す時に大体『違くてッ!』ってセリフを言うのは、フィクションの世界だけじゃなかったんだな) ジセルは無言のままじっとレアを見据える。その眼差しに、レアは次第に言い訳の言葉を飲み込み、肩を落として項垂れるようになった。「うっ……い、いつから起きてたの?」 レアの震える声にジセルは一瞬の間を置くと、冷静な口調で答える。「『ジセルばっかべろちゅーできてズルい……僕だってしたいのに』とかいうセリフのちょっと前からだな」 それを聞いたレアの顔は一気に赤く染まり、恥じらいと苛立ちが交錯する表情を浮かべた。「え、それって……最初からじゃないかぁ〜ッ! 起きてたなら言ってよ!」 ジセルは軽くため息をつくような口調で問い返す。「……言ったとして、今お前がここにいる事をどう誤魔化すつもりだ?」 レアは言葉を失い、口ごもるばかり。ようやく、震える声で呟く。「ぐっ」「どっちにしろ『べろちゅー』も出来なくて、苦しいままお前は自室に戻る事になるなぁ〜?」 ジセルの言葉は冷徹ながらもどこか茶目っ気を帯び、レアの内面に潜む欲望と葛藤を容赦なく突きつける。レアの体は次第に抵抗できぬ衝動に震え始め、心の奥底で押し込めた感情が噴出しようとしているかのようだ。「うぅ」「で、次の日とかに……完全に俺が眠った後で発散しに来るつもりだったんだろうが。そうなったとしても……夜、俺に対してレアが何かしてるっていうのは、ちゃんと分かるぞ?」 ジセルの一言一言が部屋に響くたびに、レアの顔は次第に
「ごちそうさま」「あら〜? 今日はジセルの大好きな、えーっと……『チキン南蛮?』なのに、もう食べないのぉ〜?」 父リオネルは今、書斎で仕事に没頭している。その為ジセルが食卓のある部屋に戻ると、母ソフィアはひとり静かに夕食を済ませなければならない。そんな状況を憂うように、ソフィアはどこか寂しげな表情でジセルに声をかける。(確かに俺はチキン南蛮が大好きだ。前世の世界で、赤坂の〇ん〇んでんというお店のチキン南蛮を初めて食べた時の事は……今でも忘れられない。あれはまるで、心の奥底から『食ってみな、飛ぶぞ!!』という熱い衝動が溢れ出すほどだった)「ごめん、ちょっと今日は疲れてて……できれば早めに横になりたいんだ」(だが今日は何故か全然食欲が湧かない。母が食べ終わるまでここで座って待っていてもいいが……起きていると脳内に近頃の様子がおかしいレアの映像が浮かび続けるため、早めに寝たい) ジセルは寂しげな表情を浮かべる母と、皿に残されたチキン南蛮に一度だけ視線を向けると──心の中で小さな葛藤を抱えながらも、後ろ髪を引かれる思いで部屋の入口へと向かう。「そうなの〜? ならしっかり休んで、ルーナちゃんが来る時に備えないとねぇ〜」 ソフィアの温かい声がやや物憂げな夕暮れの空気に溶け込む。そしてジセルは──その言葉だけは聞き流すように、静かに足早に歩き始めた。****** 廊下に出ると、ジセルの足音が硬い床材に響く。夕陽が窓から差し込み、長い影を廊下の壁に映し出している。かすかな風が通り抜け、時計の針の音とともに、彼の心のざわめきを映し出すかのようだった。 心の中では昼間の出来事の記憶が静かに渦巻き、未来への不安とともにじわじわと広がっていた。彼の肩は重くどこか疲れた表情を浮かべながらも、先へ進む決意を秘めているのが感じられる。 ジセルは部屋と部屋の間にある広い廊下を通り抜けた。廊下の先には幼い頃から見慣れた自室のドアが控えており、そのドア越しに静かな光と、どこか安心感を呼び覚ます温もりが漏れている。 ドアの前に立つと、ジセルは一度深く息を吸い込んだ。心の中で今日の出来事を整理しようとするかのように、彼は手でドアノブに触れ、そっと開ける。中に入ると、薄暗い照明が部屋全体に柔らかな影を落とし、机の上には散乱した受験参考書やノートが、今にも彼の思考を吸い込
ジセルの部屋は、柔らかな午後の日差しが窓から斜めに差し込み、埃がキラキラと舞う中、どこか懐かしく温もりを感じさせる空間になっている。壁には今より幼い頃の写真や思い出の品々が飾られ、木の温もりを感じる床には、日常の静けさと共に、どこかしら不穏な期待が漂っている。 そんなことはさておき──先程からレアの様子がおかしい。「ふんふふーん♪」 ルーナが来るまでの間、ジセルはこの部屋で静かに待機していた。いつも通りの自室、見慣れた風景──だが、今日の空気は普段とは違っている。何故かレアが、部屋の隅々まで目を輝かせながら鼻歌を奏でつつ掃除を始めたのだ。その姿は、部屋に降り注ぐ柔らかな光と相まって、まるで春風に誘われた花びらのように軽やかだった。「お〜お〜随分とルンルンしてるなぁ、レア。めちゃめちゃ上機嫌じゃないか?」「え〜? そうかな? ふふっ」 ──やべぇ……やべぇよぉ! ジセルの胸の中で、どうしてこんなにも異様な空気が漂うのか理解し難く、不安と苛立ちが渦巻いている。 相手の心の奥に何が潜んでいるのか、全く読めない。こんなにも機嫌が良いレアは、決して慣れ親しんだ姿ではない。(一体何がそんなに楽しいんだよ、こいつは! レアがこんなんになっちまう事なんて、今までに無かっただろうがッ!) ジセルの心臓は不規則なリズムを刻みながら、警戒と戸惑いで大きく膨れ上がっていた。「ル、ルーナが家に来る事がそんなに嬉しいのか?」「へ? ふふっ、なんでルーナが来ることで僕が嬉しくなると思うの? あははっ! ジセルったら、面白いこと言うね! あ〜おかし!」(……おかしいのはお前だよバカっ!!) レアの言葉に、ジセルの心の中では怒りと不安が交錯する。(どう考えても、レアは普段この程度事で笑い転げるような奴じゃない。どこも面白くない事で腹抱えてるお前の方がオモ……いや、もはや冗談でもオモロいなんて言えないわ。正直怖い、非常に怖い!) 部屋の窓からは、木々のざわめきと遠くで聞こえる鳥のさえずりが、平穏な午後のひとときを彩っている。しかしその平穏さとは裏腹に、ジセルは今──自分の内側で荒れ狂う感情を抑えきれずにいた。「そ、それにしてもルーナ遅いなぁ? 別れてからもう数時間は経ってるし。あまりにも時間がかかりすぎだと思わないか?」「う〜ん、確かにそうだね。もしかしたら今日