35 「とんでもないってどういう意味? 分かるように説明してよ……ってさっきから言ってるでしょ」「この世の中はね、政治家や法律家、国家権力を持つ警察官などで全てが回っているわけじゃないの。 もちろんある一定の効力はあるし、世の中を回している側面がないわけではないけれど。 こういうことは日本だけに限らずどこの国でもあるあるじゃないかしら。 大事なことは『フィクサー』といった存在が決めるのよ。 フィクサーっていうそんな闇の権力者がいるとして、掛居花さんはそのフィクサーにあたる人物の目に入れても痛くないようなとても大事にされている孫なのよ。 あなたは蜂がいる巣穴の中に腕や手をガードもせずに無防備に突っ込んだのよ。 ただじゃすまないわよ。 あなたはフィクサーである向阪財閥のお孫さんに無礼を働いたってわけ。 花さんは泣き寝入りしたかもしれないけど、後ろに付いてるおじいさまが私たちを許しはしないでしょうね。 あなたは最後のチャンスが与えられたにも係わらず棒にふるどころかさらに火に油を注ぐような真似をしたでしょ? 最悪の悪手だよね。 普通の人間なら空気を読んで謝罪をし『私たちの間に肉体関係はありません』とちゃんと誤解を解くべきところなのに、花さんが敢えて誤解して受け取るような物言いをしたのだものね」「じゃあ、今から私はどうすればいいの?」「そりゃあ決まってるでしょ。 謝罪よ、謝罪しかないわよ。 花さんにちゃんとお詫びすることね。 畳に額擦《こす》りつけてでもね」 「分かった」 性格も頭も悪い妹はそう言って自分の部屋に引き上げた。「やっぱりアイッは馬鹿だ」 だいたい姉の恋人を寝取っておいて大事な一生に係わる相談を姉である私にしてくるところがもう痛すぎるんだってばぁ~。
36 ―― 聞くところによると、悪事を悪気なくなんなくできる妹は 今回の騒動に係わる全てをこと細かく最初の出来事から直近に至るまで 母親に話していた ―― 妹の玲子は交際相手のいる男性に横恋慕してデートに誘い横取り《略奪》を目論むも相手の男性は乗り替えるつもりなどなかったようで、ほんとの飲みのデートだけで終わったようなんだけども、玲子は男を奪えなかったということに焦れて、こともあろうに横恋慕した男性の婚約者に、さも自分と男性の間には身体の関係があったかのような発言をしたようで、婚約者を心が病むほど苦しめたのだ。この辺のことは独自にちょろっと調べて知ったんだけど。 匠吾さんっていったかな、うちの悪たれ女の妹なんかと係わったせいで 結局花さんっていう婚約者との結婚は破談になり、しばらくして玲子との 結婚を決めたのよね。 私はてっきり花さんから許されなかったことで自暴自棄になり 妹と結婚したのだとばかり思ってたけど……ふふっ、そりゃあそうよね、 自分たちの未来をぶっ潰した相手を許すはずなんてあるわけない。 玲子は夫になった匠吾さんやその母親、そしてフィクサーでもある総帥からもきっちりと報復されたの。 ほんとに今更、玲子は花さんに謝罪に行くつもりかしら。 バカだから許される可能性なんて少しもない謝罪に行くのだろう。 まぁ人として謝罪は当然のことだから……しておいで。 総帥はきっとこの先も妹を許しはしないだろう。 ひょっとすると玲子がこの先また爆発暴走して愚かな行為に 及ばないとも限らない。 その時は連帯責任で両親や姉である私にもとばっちりがくるかもしれない。 私は玲子が離縁されてからの顛末をじっと息を殺して傍観してきた。 逃げるが勝ち。 国内で逃げても無駄だと踏んでる。 随分前から本格的に国外への逃亡を計画している。 できれば海外で結婚相手を見付けて永住するつもり。 姉の恋人を寝取った妹を許してやれだとかしか言わなかった両親も 妹同様にいらんっ。 みんな振り捨てて心機一転、生き延びてみせるわ。 ◇ ◇ ◇ ◇ それからほどなくして島本蘭子は信州方面の民宿で仕事を見つけたと 家族に言い置き、それっきり姿を消した。
37 玲子より3才上の姉の蘭子が大学生だった頃、漠然とだが結婚も心のどこかで視野に入れていたことのある、恋人の金城信也を自宅に2度ほど招いたことがあった。 そしてそのあとのデートの帰りに「お茶でも飲んで少しゆっくりしてから帰ったら?」と誘うも、この時は「今日は止めておくよ。また今度寄せてもらうから」と彼は立ち寄らずに帰って行くというようなことがあった。『どうしたんだろう?』って少し気にはなったものの、今日はなんとなく早く帰りたい気分だったのかな、とこの時はそれがどういうことなのかよく分かっていなかった。このデート以降、彼が余所余所しくなったように感じることが多くなった。 次のデートをいつにするか決めるために今までのように「次はいつ時間空いてる?」と訊いても返事を濁すようになり『もしかして避けられてたりして』と不安に思っていたところ、ある日のこと。 * 大学の授業を終えて家に帰るとリビングダイニングに両親がいた。「あれっ? お父さん、会社は? 有給取るなんて珍しいね。お母さんとデートでもしてきた?」 両親に声を掛けたあと私が自分の部屋へ行こうとすると、父親から声を掛けられた。「蘭子、話がある……」「今すぐがいいの? ちょっと着替えてきてからでもいーい?」 2階に上がろうと部屋から出ると、玲子が私と入れ替わりにリビングダイニングに入ろうとするところで、私たちはすれ違った。『お帰りなさい』の一言もなく、どうしちゃったんだろう変な子。 そう思いながら父親から話があると言われていたので急いで着替え、リビングダイニングへと向かった。 4人掛けのテーブルセットに3人が座り、私を待っていた。 この時何か空気がおかしいって思い、私から両親に「何か改まった話なの?」と口火を切り尋ねた。 それなのに私の問い掛けに反応したのは妹の玲子だった。-「私、妊娠したかもしんない」「え~、お父さん、話って玲子の妊娠の話のことだったの?」 訊いても父親はうんともすんとも言わず、言葉を選んでいるようでなかなか言い出さない。「玲子、付き合ってた人いたんだ。 その子の父親って誰なの? 結婚するの?」
38「お姉ちゃんの知ってる人だよ」「そんな人いる?」 私は誰よぉ~と頭の中で年頃の男子を思い浮かべたけれど 自分の恋人しか出てこなかった。 従兄たちを思い浮かべてもそもそも皆遠方だし、ご近所さんを探しても 付き合うような人は見当たらない。「高校か大学の友だち?」とは口にしたものの、私は妹の女友だちの 2人くらいなら見知ってるけど、男友だちがいるのかどうかも 知らないのだから……違うでしょ。 いろいろ考えて一周して私は恐ろしいことに気が付いてしまった。 両親が纏うドヨンとした空気、結婚もしていないのにあっけらかんとして 妊娠しているかもしれないと話す妹の空気感。 「お姉ちゃん、信也さんは私のだからね。 このお腹の中の子の父親は彼だから。 お姉ちゃんがどんなに頑張っても信也さんはお姉ちゃんのものには ならないの。分かった?」 自分の言いたいことだけを話すと、妹は部屋を出て行った。 あまりのことに私は頭の中が真っ白でしばらく思考停止してしまった。 何がなにやら訳が分からない。 だって信也を自宅に招いたのは2回しかなくて、どこでどうやったらあの子が妊娠するっていうの! 「まだ蘭子も若いし、それからいくらでも出会いあるわよ。 ねぇ、あなた」「そうだな、子供ができちゃったならどうにもならんしな」 ねぇ、私の親たちは何を言ってるの? 玲子を叱ることもせず私の恋人を妹に譲るのが当たり前のように 言ったりしておかしくない? しようがない? しようがないで済ますつもりなんだ。 最近あまりデートに誘われなくなって距離が……距離感が遠くなったように感じてたんだけども、こういうことだったのね。腑に落ちた瞬間だった。「お父さん、お母さん、今の私の気持ちが分かる? って訊いても無駄だよね。 分かってるなら絶対私にそんな発言できないよね。 一言では語りつくせない言いたいことはたくさんあるけどひと言だけ……。 玲子は勿論だけど、あなたたちには失望した。 同じ血を分けた娘なのに妹には寛容で私には随分と無慈悲なことを 言うんだね。 もしかして私って橋の下で拾われた子だったりして」
39「なにバカなこと言ってるの。 ちゃんと私がお腹を痛めて産んだ子よ」 『お腹を痛めて産んだ割に私に対して母性のカケラもないような仕打ち。 一生許さないから。 いつか二人とも捨ててやる』 私は埒もないことしか話さない両親に背を向け、自室に向かった。 こんな大事なことを信也に直接問い詰めることもせず、はいそうですかと 言えるはずもない。 勿論妹からも事情聴取しないわけにはいかない。 私は2階の踊り場に佇み一呼吸置いてから玲子に声を掛け部屋に入った。 「いつそういう関係になったの? この家で2回会っただけなのにどこをどうすれば そんな展開になるっていうの。 分かるように説明して」 「2度目に信也さんが来た日にさ、お姉ちゃんがトイレに行った時に お母さんから頼まれて2人分のコーヒーを淹れて出したことがあったの 覚えてる? その時に信也さんに『姉のことでお話したいことがあるので』って メルアドと電話番号書いたメモを渡したのよ。 それが切っ掛けだよ」 「あなたから誘惑したんだ?」「う~ん、どうだろうねー。 否定はしないけど信也さんの感触見てたら、私とお姉ちゃんと どちらでも好きな方を選べるなら断然私っていう感じはあったよ。 メールで会う約束してすぐに日を置かず会ったんたけど 信也さん私にメロメロだったもん。 やだぁ~私ね、お姉ちゃんとのこと真剣なんですか? って確認したかっただけなのにね。 なんでこうなっちゃったんだろうー。 お姉ちゃん、ごめんね。 魅力的な私のせいだよね。 平凡なお姉ちゃんにやっとできた彼氏だったのにぃ~。 彼ね、私のこと好き過ぎて会うたびにエッチしてたから そりゃあ~妊娠するよね。 信也さんったらすごいんだぁ~。 精力旺盛でぇ~」
40 私は妹の言い訳という名の説明を聞きながら思った。 今まで特に仲の良い姉妹でもなかったけれど、妹の口から 罪悪感など微塵もなさげに吐き出される言葉に衝撃が走り、 薄気味悪さを感じた。 メンタルが普通じゃない。 両親も妹も、皆頭おかしい。 3人とはとてもじゃないけれど建設的な話し合いなんて望めそうもないし、したとしても徒労に終わるのが目に見えてる。 この時私の胸の中に沸き上がった感情、それは『許さない』という 強い思い。 だが『許さない』という負の感情に気持ちを持っていかれるのも癪に障る ほど取るに足らないつまらないもののように思えてきて 最後に行きついた感情は『あきれた』の4文字だった。 枯れ果てるほどの涙を流したわけでもないのに心情としては すでにその境地に入っていた。 涙も枯れ果てるほど泣いたあとの呆然自失というヤツだ。「精力旺盛ってよくも平気で人の恋人寝取っておいて下品なことが 言えるものね。 お父さんたちもあんたも考えてることがちゃんちゃらおかしいわよ」 「なんとでも……負け犬の遠吠えじゃん。ご愁傷様ぁ~」 妹の吐き出した言葉のなんと酷いこと。 私はこの今回の妹の妊娠騒動まで自分の家族は普通の家族だと思って 暮らしてきたわけだけど、異常性に気付いたのが今で良かったと思った。 あと4か月と少しで、来春には大学を卒業し、内定をもらってる企業に 就職も決まっている。 自宅から通うのか独り暮らしをするのか決めかねていたけれど、今や選択肢は1つしかない。 この時蘭子は家も家族も捨てるつもりでこの家を出て行こうと腹を括った。 そしてまた信也に最後の裏付け、すなわち玲子と本当にそんなことがあったのか確認せねばならないと思うのだった。
41◇信也と玲子 蘭子とは学生同士とはいえ真剣に交際していたつもりの信也だった。 だから蘭子の自宅に招かれ母親と妹に蘭子の恋人として紹介された時も、 きちんと臆することなく挨拶をした。 そんな信也だったから父親も加わっての次の挨拶は就職後になるだろうと 考えていた。 最初の訪問時に驚いたのは妹の玲子の美しさにだった。 毒気を纏った美しさでドキマギしてしまった。 花で例えるなら姉の蘭子は知的で物静かなスズランやカンパニュラと いったところだろうか。 反して妹の玲子は色鮮やかな赤いバラかシャクヤクか毒々しさを重ねて みると真っ赤な曼殊沙華。 玲子とのメイキングラブは期待を裏切らず随分楽しめた。 かなりの人数と行為をこなしてるみたいで体位もそうだが なかなかのテクニシャンだった。 あんなの経験したら楽しむのはいいだろうけど、まず妻にはできないな。 はっきり言って何人が出入りして使ったか分からない肉便器じゃん。 今日はどんな男をひっかけてヤッてんだろうなんて、一日中心配で 仕事なんて落ち着いてできねーよ。 玲子とは5回ほどホテルへ行った。 蘭子にバレずに済むだろうか。 運よくバレずに蘭子と結婚できたら、できるだけ早めの転勤異動願いを 出して玲子のいるところからう~んと遠くに離れないと……だ。 信也が6回めに玲子と会うことはなかった。 玲子とのアバンチュールは2か月間の5回の逢瀬で打ち切りにした。 いくらなんでもずるずる続けていたら蘭子にバレてしまうだろう。 所詮割り切った遊びなのだから。*◇信也と蘭子 島本家で玲子妊娠報告のあった翌日は金曜日でその日は蘭子も信也も 何コマか授業を取っており、いつものように食堂でふたりして 落ち合うことになっていた。 昨日まで将来を誓い合っていた信也がたった一日を隔てて 赤の他人よりも質《たち》の悪い人間と化してしまった。 玲子の話が真実ならば。
42 食堂へは蘭子のほうが先に着き、席を確保して待っていた。「よっ、今日は何にするかなぁ~」「私はカレーライスにしようかな」「あっ、じゃあ俺もそれにしよっ」 信也が2人分のカレーをテーブルまで持ってきてくれた。「午後から授業あったっけ?」「1コマあったけど今日は休講になったわ」「じゃあ、食事が終わったらちょっとその辺ブラブラしない?」「何かあった?」「うんっ、ちょっと話があるんだ」「ここで今話せないこと?」「うん、ここでは止めたほうがいいかな」「ヒントだけでも」「妹のことだよ」「ブッ……」 信也が口に運んでたカレーを吹いた。「どうしたの?」「ちょっと吃驚して吹いた。予想してなかったから」「そっか」 分かりやすい人。 1%信也を信じてみてもいいかなと考えていた残りのゲージ1%が吹き飛んだ。 信也の口の中にあったご飯粒のように。 話す前に浮気? 乗り替え? が100%だと分かり、冷静に話を持ちだせそうに思えた。 大学の校内にある樹木の周りはぐるりと一周お尻を乗せられるくらいの石積みで囲ってあって、学生のいない場所を見つけて私たちふたりはそこに座った。「ね、玲子のこと、もう知ってるんだよね?」「えー、何かな? その振りっておかしくない?」「うん、じゃあ直截的に訊くね。 玲子とヤッたってほんと?」 私の質問に信也の目が泳ぎ出した。「ヤッたって……何を?」「フーン、そうきたか。玲子のヤツ私をおちょくったのかぁー」 私の呟きを聞いて信也は更にキョドリ出した。「玲子ちゃんに遊ばれたんだ。 姉妹でも蘭子たちって性格ぜんぜん似てないよな」「容姿もね。 やっぱり派手できれいな玲子みたいなのが男心くすぐられるのかしら? だから信也も私から玲子に乗り替えたいって思ったりする?」「そんなこと考えたこともないしぃ~、玲子ちゃんは個性的だからさぁ~俺じゃぁ無理だな。 俺にはさ、やっぱり控えめでやさしい蘭子が似合ってるよ。 あぁこれって別に玲子ちゃんがどうこうっていう悪口じゃないぜ。 ほら、人には破れ鍋に綴じ蓋《われなべにとじぶた》っていうように相性ってあると思うからさ」「金城くん、玲子ね、妊娠したらしいよ。 何か話聞いてなぁ~い?」「えー、俺が? 普通そんなの聞かないでしょ……」「うん、そだ
95 相馬は日々案件があり多忙を極めているのだが、花自体はようよう諸々の事務作業が一段落ついたところでもあり、久しぶりに定時で帰ることができそうで心は少しウキウキランラン。 花は声を掛けた相馬から『お疲れぇ~』と返され、所属している部署フロアーを出てエレベーターへと向かう。 自社ビルの1階に降り立ち出入り口に向かうも、昼食時には立ち寄れなかったチビっ子の顔でも見てから帰ろうと保育所に向かった。 チビっ子たちは3人わちゃわちゃしながら親を待っていた。 その側で疲れ気味な芦田が無表情な佇まいでぼーっと座っている。 そして、花を視界に入れるとほっとしたような困ったような複雑な表情を醸し出した。「芦田さん、どうかされました?」「昼間はぜんぜん大丈夫だったのに、夜間保育に入ってから体調がすぐれなくて……」「辛そうですね。私仕事終わりなので少し子供たちみてましょうか? その間少し横になられてたらどうでしょう」「ありがとう、そう言っていただけると助かるわぁ~。厚かましいですけどすみません、ちょっと横にならせてもらいますね。 あと1時間もするとまみちゃんとななちゃんのママたちのお迎えがあるのでもし起きられなければ子供たちの引き渡しお願いしてもいいかしら」「分かりました。大丈夫ですよ。 ただ子供たちをママたちにお渡しするだけで他に申し渡しておく伝言などは特にないのでしょうか?」「今回はないわね」「はい、OKです。ささっ、横になっててください」「助かります。じゃぁ宜しくお願いします」 3才4才のお喋りな子供たちと積み木をして待っているとほどなくしてまみちゃんとななちゃんのママたちが迎えに来て、私は彼女たちを見送った。 残ったのは1才児のかわゆい凛ちゃんだった。 え~っと、この子のママはもう1時間後になるんだ。「凛ちゃん何して遊ぼうか……」 凛ちゃんが私の膝の上にちょこんと座った。 私はお腹に腕を回して膝を上下に揺らして振動を繰り返し、凛ちゃんをあやした。 遊び相手もみんな居なくなって寂しいよねー。「絵本読む? 読むんだったら絵本を花ちゃんに持ってきて~」 私がそう言うと、膝から立ち上がり……なんと、絵本を持って来たよ。 あなどれんな1才児。 ……感動した。 また私の膝にちょこんと腰かけた凛ちゃんを前に
94 社員が残業で迎えが遅くなる時は夜間保育もあるのだとか。 すごい、社内に保育所完備だなんて。 結婚して子供ができてからも働き易い職場、最高~! あんなことがあるまで勤めた前の職場は大企業ではありなから保育所はなかった。 今度おじいちゃんに提案しとかなきゃだわ。 保育所の存在を知ってから花は俄然小さな子たちに興味が沸き、親しくなりたての遠野や小暮を伴って時々食事を終えた後、子供たちの顔を見に行くようになった。 しかし、小説のことでプロットだのキャラ設定だのといろいろ考えることの多い遠野とデザインのアイディアを捻り出すことにエネルギーを注ぎたい小暮たち二人は食事が終わると机に向かうことが多くなり、頻繁に子供たちの顔を見に訪れるのは花だけになってしまった。 それで知らず知らず保育士たちとも親しい関係になり、子供たちにも懐かれるようになっていった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 自分たちはこの先決して恋愛感情を持たず恋愛関係には決してならない、という互いの強い志に基づき、ビジネスライクに接し仕事に邁進していこう、ぶっちゃけそのような内容を相馬と花は業務の合間に真摯にというか大真面目に話あった。 ただしそれは、本人たち限定の話であってそんなブースでの2人の話し合いを横目に周囲はふたりのお熱い語らいとして捉えていた。 着任してひと月にも満たないにも係わらず、今まで相馬付きになった誰よりも最短で二人きりでブースに入ったのだから致し方のないことではある。 どうやら前任者たちは相馬に振られて辞めたのではなかったか、という疑念を周囲の夫々《それぞれ》が胸に持っているため、あらあら、掛居花はいつまで仕事が続くのだろうか? と心配している者もいた。 しかしながらそんな周囲の心配をよそに、話し合いをしてすっきりした相馬と花は元気よく日々仕事に邁進するのだった。 お互い異性として結婚相手にはならないことを確認し合っているため、そのことで相手に対する探り合いなどせずともよい関係だから、肩ひじ張らず フラットな関係で付き合えるというなんとも居心地の良い状況に互いが至極満足していた。 そんな2人の距離が急速に縮まっていったのは言わずもがなというものである。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」