100 まぁ、相馬さんとの仕事も時期によって波があるからねぇ~。 そんな訳で、私は8月の最後の金曜日と翌9月の末日までに併せて6回、 夜間保育に係わった。19時までにお迎えに来られた人たちに対しては芦田さんにそのまま 休憩してもらい私が対応、最終の20時に来られる人たちにはどのみち 起きて帰り支度をしなければならないので芦田さんが対応するという形に なった。 凛ちゃんは6回とも最終まで残っていた。 ……なので相原さんがお迎えに来た時はいつも私は一歩下がって 芦田さんの後ろから芦田さんと一緒に『お疲れ様です』と声掛けして 相原親子を見送った。 ……そのため彼と直に遣り取りすることは一度もなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ そして10月に入ると相馬さんとも相談しながら夜間保育の仕事を 週2でするようになった。 私が助っ人に入る日、芦田さんは大抵奥の部屋で横になっている。 ……なので必然的に子供たちの先生は私になる。 先生ぶって子供たちの子守をするのは楽しかった。 まさか、普通の会社員が保育園の先生の真似事ができるなんて、 ナァ~イス! 手間のかかるオムツ替えや食事は夜間保育の始まる前に他の保育士さん たちが済ませておいてくれるから、ストレスも全くない。 私は子供たちが怪我をしたり勝手に誤って部屋の外に出て行かないよう 見守りしているだけでよかった。 可愛いチビっ子の可愛い顔をたっぷりと堪能し、時には膝に乗って くれたり、抱っこできたり、普通ならできない幼児との触れ合いは ほんとに心が癒される。
101 夜間保育の手伝いを始めてから2か月めに入った頃、通常業務中に 給湯室に行こうとブース横の通路を歩いていると外回りから帰って 来たのか相原さんとすれ違う恰好になった。 私は軽く会釈をして給湯室に向かおうとしたのだけれど、相原さんに 呼び止められた。『なんだろう……』 「君さ、時々遅くに保育所にいるよね、なんで? 保育士の資格持ってるの?」 いきなり予想外の人物から無防備な状況で矢継ぎ早に質問され、 一瞬私は怯《ひる》んだ。 あまりのことで完全に私の脳はショートしたようだった。 口の中はカラカラ、いつもの明晰な思考回路は何としても作動してくれず、 立て板に水の如し……とまではいかずとも、なんとかして体裁の整う返事を したいと思うのにどうにもならないのだ。 『しようがない……』 「申し訳ありませんが上手く説明できないので芦田さんに訊いて いただけますか。スミマセン」 そう私が返事をすると相原さんが何故か困った表情をした。 そんな彼をその場に残し、私は給湯室に向かった。 私は誰もいない個室スペースに入るとドッと疲れを感じた。『やだ、なんかあの人やりづらい~』 ◇ ◇ ◇ ◇ 親しみを込めたつもりで気軽に声を掛けたのにスルーされた形になり、 気落ちする相原だった。『自分は何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか』と少し ガックリときた。 普段相馬との遣り取りなんかを見た感じと初日に声を掛けてきた感じか ら、もっと話しやすい相手だと思っていたのだがそうでもなかったようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ それほど親しくもない相手に上手く話せそうになく、芦田さんに 訊いて下さいと言ったものの、本当は相原さんにちゃんと説明できれば 良かったのかもしれない。 ……とはいうものの後で冷静になって考えてみると、あながち間違っても なかったかなと思えた。 芦田さんが更年期であることをペラペラ自分がしゃべっていいことでは ないからだ。 相原に上手く説明できなかったことに対してモヤモヤしていたけれど この考えに行き着いたことで、花の胸の中にあったモヤモヤ があっさりと雲散霧消していくのだった。 またこの日を境に花は相原に対して苦手意識を持つように なってし
102 『あと1日出勤したら休みだぁ~、あと1日がんばっ、そしたらたっぷり 朝寝して過ごせる休みなのよぉ~』 と仕事帰りにも係わらす身も心も軽やかなまま、花は下へ降りる エレベーターに飛び乗った。 体制を変えて振り向くと、目の前にあとから乗って来た相原が目の前に 飛び込んで来た。 『えっ、えっ、どどっ、どうしよう』 私が押すはずだったボタンを彼が押した。 「掛居さん、何か俺のこと避けてない?」『するどい、避けてますぅ~、なんて言えないよね。 ……じゃなくって避けてたとして何が悪いの。 どんな不都合があるっていうのだ。 元々仕事だって被ってないし、凛ちゃんのことがなければ 接点などなかったのだからそんなふうに絡まれる筋合いなどないはず』 「私に絡む……の、やめてください」『それに相原さん何故にボタンから手を放さず、しかも何か威圧的な 体制になってるぅ~。 近い、近過ぎる。 箱の中で逃げ場がない場所で詰問されるのは精神的にキツイ』「君こそただ訊いただけなのに絡むとかって、なんかすごく 大事にしてない? そういうのが男を落とす君の手管なのかな?」 「何を……もうそれっ、セクハラですよ」 花はそう言い放つもすでに涙目になっていた。「私はここへは仕事をしに来てるんです。 男を落とすとか、失礼なこと言わないで!」「あれっ、だけど掛居さん相馬と付き合ってるんでしょ?」 私は彼の言い草を聞いて目が点になってしまった。 何ですと、私は相馬さんとはよろしくやってる癖に相原さんの気を引く ためにわざともったいぶって避けてるんだろ? ってそう言いたいわけ? マジ、最悪。 何なのだろう、この拗らせセクハラ親父め! しかも今だエレベーターのボタン押したまま…… 私を閉じ込めたまま……。 とんでもない男だ。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
1「牧野さん、私、向阪 匠吾《こうさかしょうご》さん狙っていきまぁ~す」 一緒に社食に向かうこの春準社員で入社して来た島本玲子 が 開けっ広げに私に宣言してきた。 『いや、ちょっとそれは…まずいかも。しかし最近入ってきた人には 分かンないよね~』と心の声。 「水を差すようだけど向阪くんに彼女いる可能性は考えないの?」「彼、独身ですよね?」「ええ、まあ、独身だと思うわ」「じゃあ、もし彼女がいても無問題ですよ。 結婚がゴールだとしたらそこに辿り着くまではマラソンみたいなものだから 一番にゴールした者の勝利ってことで。 私の前に1人2人走ってたって平気ですよ。 ゴールのラインはまだ誰も踏んでませんからね」 「島本さんって積極的なのね~」 「私もう29才、いわゆる崖っぷちっていうやつなので、 大人しくしていたら永遠に独身まっしぐらですもん」『島本さん綺麗だから今までチャンスは幾らもあったと思うんだけど、 高望みし過ぎたとか? 20代で綺麗で積極性があって、なのにどうして今だに独身なのかしら、 と訊いてみたいところだけど、きっとここは踏み込んではいけないところよね』 向阪くんが掛居 花 《かけいはな》ちゃんと仲いいことは周知の事実に なっている。 中には知らない者もいるだろうけれど、ほとんどの者が知っている。 ほぼほぼ公認の仲っていうヤツよ。 29才独身はやはりパートナー狙いで入社してきたようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 実は彼女の採用時の最終面接にはうちの課の仕事の補佐をお願いするものだから課長、係長そして私と3人が人事課以外からも面接の場に立ち会っていた。 今回の応募者は20代前半の人が大半で20代後半は島本さんひとりだった。 経理経験者は彼女ともうひとり40代既婚の人がひとりだけ。 課長と係長は仕事ができることと見た目で、島本さん即決だった。 私は正直40代の女性とどちらにするか迷った。 結局私も島本さん推しということで彼女に決まったわけだけど、 私ひとりがあの時40代の女性を
2 いや、ターゲットを狙うのはいいのよ、問題なくそのお相手が シングルならばね。 いくら結婚してないからって恋人がいるのが分かっていて 略奪みたいな真似はねぇ~、普通しないものでしょ。 前々から忙しい業種ではあるんだけれど、近年忙しいため募集をかけて 折角採用したのだから、揉めて辞めてくれるなよ~頼むよ~だ。 今我が社は近年の台風や豪雨そしてあちこちで頻発する地震と自然災害の 乱発がすごくて皆、青息吐息で社員は誰も彼も猫の手を借りたいほど 忙しいのだ。 そんな我が社は旧財閥系列の会社で社名もふたつの財閥の名称から取り 『三居掛友海上火災保険株式会社』と称する。 島本さんが狙ってる向阪くんは彼女より2才も年下で現在の仕事は 『損害サポート業務部の火災損害サポート部』社員として活躍している。 自動車損害サポート部も兼任しており将来を有望視されている若手社員だ。 花ちゃんは向阪くんと同年に同期入社し、総務部でテキパキ頑張ってる。 聞いたところによると向阪くんと花ちゃんは入社前から面識があったみたいだ。 交際がいつ始まったかは知らないけれど入社してすぐに付き合っていることは公認みたいな形になってる。 だからといって、別に社内でイチャイチャすることはないのよね、 今のところ。 ランチも一緒に摂ってるところなんて私は見たことないし。 不思議っちゃあ不思議よね。 そんなふたりが公認の仲? 今まで何も不思議にも思っていなかったのに島本さんの向阪くん狙いの 話から彼と花ちゃんのことを考えていたら辿り着いてしまったって感じよね。 あれだね、きっと向阪くんが花ちゃんに悪い虫が付かないよう、 自分から周りにじわりと小出しにして認識させていったのかも。 ◇ ◇ ◇ ◇ 準社員として配属された島本玲子の上司で正社員の牧野千鶴38才既婚、 大学を卒業してから早16年勤務……は、知らなかった。 従業員はパートまで含めると約3万人近くになる規模の会社で 取締役会長に始まり同じような執行役員という名の付く役員が 4、50人もいる中、そのような重役から下の役職へとふたりのことは 伝達されていたのである。 伝播された設定はこうだ。 向阪
3 10年前学生だった頃、姉の恋人を寝取ったのを皮切りに、人のモノ、 即《すなわ》ち彼女持ちの男を射止めるのが癖になってしまった島本玲子は 元々がそのような拗れたところからの恋愛を繰り返してきたため、 最後はいつも破局してしまいこの年になっても未だ独身だった。 言い寄られて彼女のいないれっきとした独身男性との交際も 時にはあったが飽き症の上にすぐ人のモノが欲しくなる性格も相まって なかなか結婚まで辿りつかない。 向阪に関していえば社内のカフェテリアで何度か見かけたのが切っ掛けだ。 背が高く容姿がずば抜けて整っている。 男性にしてはゴツゴツしてなくて、顔の肌が女子顔負けにきれいで さらには鼻梁の線も美しく、くっきりとした二重瞼と併せて彼の顔を きりりとした表情に作り上げている。 実は彼の顔をなるべくはっきり見たくて自然を装って 彼が座っていた近くを何度か行ったり来たりした。 島本玲子が入社した会社では、バーベキュー施設は地域問わず多く存在し、物品や材料が備えられているケースも多いため実施ハードルは低めで、屋外で自然と触れ合いながら飲食をすれば、非日常感溢れる環境だからこその仲が深まりやすい点もあり職場内よりも開放的な気持ちでコミュニケーションが取れるメリットがある。 そのため、BBQは毎年恒例の行事となっている。 玲子が入社して3ヶ月目に突入した頃のこと。 3日後の日曜日に社内の親睦を兼ねたバーベキューが催されることに なり、玲子は絶対この日に向阪のメルアドをGetしようと決めていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は慎重に向阪 匠吾の様子を窺った。 周りに人はいても、実際彼に話し掛けている者がいない隙ができたのを 見計らい私は近づいて行った。
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。
102 『あと1日出勤したら休みだぁ~、あと1日がんばっ、そしたらたっぷり 朝寝して過ごせる休みなのよぉ~』 と仕事帰りにも係わらす身も心も軽やかなまま、花は下へ降りる エレベーターに飛び乗った。 体制を変えて振り向くと、目の前にあとから乗って来た相原が目の前に 飛び込んで来た。 『えっ、えっ、どどっ、どうしよう』 私が押すはずだったボタンを彼が押した。 「掛居さん、何か俺のこと避けてない?」『するどい、避けてますぅ~、なんて言えないよね。 ……じゃなくって避けてたとして何が悪いの。 どんな不都合があるっていうのだ。 元々仕事だって被ってないし、凛ちゃんのことがなければ 接点などなかったのだからそんなふうに絡まれる筋合いなどないはず』 「私に絡む……の、やめてください」『それに相原さん何故にボタンから手を放さず、しかも何か威圧的な 体制になってるぅ~。 近い、近過ぎる。 箱の中で逃げ場がない場所で詰問されるのは精神的にキツイ』「君こそただ訊いただけなのに絡むとかって、なんかすごく 大事にしてない? そういうのが男を落とす君の手管なのかな?」 「何を……もうそれっ、セクハラですよ」 花はそう言い放つもすでに涙目になっていた。「私はここへは仕事をしに来てるんです。 男を落とすとか、失礼なこと言わないで!」「あれっ、だけど掛居さん相馬と付き合ってるんでしょ?」 私は彼の言い草を聞いて目が点になってしまった。 何ですと、私は相馬さんとはよろしくやってる癖に相原さんの気を引く ためにわざともったいぶって避けてるんだろ? ってそう言いたいわけ? マジ、最悪。 何なのだろう、この拗らせセクハラ親父め! しかも今だエレベーターのボタン押したまま…… 私を閉じ込めたまま……。 とんでもない男だ。
101 夜間保育の手伝いを始めてから2か月めに入った頃、通常業務中に 給湯室に行こうとブース横の通路を歩いていると外回りから帰って 来たのか相原さんとすれ違う恰好になった。 私は軽く会釈をして給湯室に向かおうとしたのだけれど、相原さんに 呼び止められた。『なんだろう……』 「君さ、時々遅くに保育所にいるよね、なんで? 保育士の資格持ってるの?」 いきなり予想外の人物から無防備な状況で矢継ぎ早に質問され、 一瞬私は怯《ひる》んだ。 あまりのことで完全に私の脳はショートしたようだった。 口の中はカラカラ、いつもの明晰な思考回路は何としても作動してくれず、 立て板に水の如し……とまではいかずとも、なんとかして体裁の整う返事を したいと思うのにどうにもならないのだ。 『しようがない……』 「申し訳ありませんが上手く説明できないので芦田さんに訊いて いただけますか。スミマセン」 そう私が返事をすると相原さんが何故か困った表情をした。 そんな彼をその場に残し、私は給湯室に向かった。 私は誰もいない個室スペースに入るとドッと疲れを感じた。『やだ、なんかあの人やりづらい~』 ◇ ◇ ◇ ◇ 親しみを込めたつもりで気軽に声を掛けたのにスルーされた形になり、 気落ちする相原だった。『自分は何か気に障るようなことを言ってしまったのだろうか』と少し ガックリときた。 普段相馬との遣り取りなんかを見た感じと初日に声を掛けてきた感じか ら、もっと話しやすい相手だと思っていたのだがそうでもなかったようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ それほど親しくもない相手に上手く話せそうになく、芦田さんに 訊いて下さいと言ったものの、本当は相原さんにちゃんと説明できれば 良かったのかもしれない。 ……とはいうものの後で冷静になって考えてみると、あながち間違っても なかったかなと思えた。 芦田さんが更年期であることをペラペラ自分がしゃべっていいことでは ないからだ。 相原に上手く説明できなかったことに対してモヤモヤしていたけれど この考えに行き着いたことで、花の胸の中にあったモヤモヤ があっさりと雲散霧消していくのだった。 またこの日を境に花は相原に対して苦手意識を持つように なってし
100 まぁ、相馬さんとの仕事も時期によって波があるからねぇ~。 そんな訳で、私は8月の最後の金曜日と翌9月の末日までに併せて6回、 夜間保育に係わった。19時までにお迎えに来られた人たちに対しては芦田さんにそのまま 休憩してもらい私が対応、最終の20時に来られる人たちにはどのみち 起きて帰り支度をしなければならないので芦田さんが対応するという形に なった。 凛ちゃんは6回とも最終まで残っていた。 ……なので相原さんがお迎えに来た時はいつも私は一歩下がって 芦田さんの後ろから芦田さんと一緒に『お疲れ様です』と声掛けして 相原親子を見送った。 ……そのため彼と直に遣り取りすることは一度もなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ そして10月に入ると相馬さんとも相談しながら夜間保育の仕事を 週2でするようになった。 私が助っ人に入る日、芦田さんは大抵奥の部屋で横になっている。 ……なので必然的に子供たちの先生は私になる。 先生ぶって子供たちの子守をするのは楽しかった。 まさか、普通の会社員が保育園の先生の真似事ができるなんて、 ナァ~イス! 手間のかかるオムツ替えや食事は夜間保育の始まる前に他の保育士さん たちが済ませておいてくれるから、ストレスも全くない。 私は子供たちが怪我をしたり勝手に誤って部屋の外に出て行かないよう 見守りしているだけでよかった。 可愛いチビっ子の可愛い顔をたっぷりと堪能し、時には膝に乗って くれたり、抱っこできたり、普通ならできない幼児との触れ合いは ほんとに心が癒される。
99 仕事も順調に多忙を極める中、相方という言い方は不遜かもしれないけど仕事上のパートナーにも恵まれ仕事そのもの以外のところで悩まされることなく働けて、仕事大好きな私は充足感に包まれていた。 そんな状況の中でのこと。 ちょうど週末に夜間保育を頼まれた日から2週間目の週末のことになる。 小一時間ほど残業をこなして仕事を終え、1階に降りて来てビルの出入り口に向かう途中で声を掛けられた。「掛居さぁ~ん、ちょっとお話させてもらってもいいかしら……」 誰かと思えば芦田さんだ。「はい、いいですよ」 私たちは場所を移して保育所内で話をした。 話の内容は、私自身の仕事が残業などなく早めに切り上げられる日があればその時に夜間保育のラスト1時間でもいいから保育の仕事を手伝ってもらえないだろうかというものだった。 芦田さんは最近ホルモンのバランスが崩れるといわれる更年期障害に悩まされており、特に夕方になると身体が辛くなるとのこと。芦田さんが万が一倒れでもして夜間保育ができなくなると子供を預けることができなくて困る人たちがいるわけで、とても断ることなどできなかった。 小さなチビっ子たちはどの子も可愛いくて、私は戸惑いながらも『週一でよければ』と返事をした。 更年期と戦いながら働き続ける人を少しでも助けることができればいいなぁと思った。 週一の、それも2時間の夜間保育だけじゃ大した助けにもならないと思うのに芦田さんは喜んでくれた。 ほんとは今の自分の状況だと週三くらいは可能かもしれない。 とは言え、最初から頑張り過ぎて続かなくなるっていうのは非常にまずい悪手になると思うのでまずは週一からと決めた。 相馬さんにも相談をしてこの先の仕事を微調整しつつ将来的には週三くらいにできればと考えている。
98 週明け私は席に付くと、周囲を見渡した。 始業30分前、人はまだまばらなだけに凛ちゃんのパパらしき人物は 見つけられない。 15分前に珍しく寝ぐせをつけた相馬さん登場~、待ってたよ~。「おはようございます」 「おはよう~。週明け早々、元気だね掛居さん」「はぁ、まぁ、それだけが取り柄なものでぇ~って、待ってたんですよ~」「ナニナニ、僕をでしょうか?」「ええ、ええ、相馬さまをです」「ンで? 何でしょう」「あのぉ~、相原さんって男性社員の方、もしかしてこの同じフロアーに いたりしますか?」 「うん? いるよー。 えっとね、ここから数えて5つほど島を越えたところにいますよ~。 まだ知らなかったんだ、びっくりですわ」「まだまだ知らない人だらけですよ、たぶん。 相馬さんとの仕事に集中するだけで今は精一杯ですもんっ」「あっ、そうだよね、ごめん、嫌な言い方して。 それだけ僕の仕事に集中してくれてるってことで、有難いことです。 謝謝……謝謝。 相原さんのことで何かあった?」 「話せばちょっと長くなりそうなのでお昼休みに説明するね」「わかった。じゃあ、さっそく本日の業務に入りますか」「OKです。それではこの書類から整理してまとめていきますね」「助かるよ、その間僕は外回りできるので。 後少ししたら、クライアントのところまで出向く予定だから」「……ということは、1日がかりで帰社は17時頃になりますね」 相馬さんとの1日の予定のすり合わせをして週明けから、また新しい 1週間が訪れようとしていた。 始業時間になって再度私は遠目に見える島を見渡してみた。 いたーっ、凛ちゃんパパ。 ほんとにいたよ。 今日も残業で凛ちゃんは遅くまで待ちぼうけかな。 小さいのに可哀そうだな。 ……ってそんなこと考えるなんて頑張ってる親御さんに申し訳ない、 よね。 でもお父さんだと母親よりも残業が多いというイメージは払拭できない ので、やっぱり凛ちゃんが可哀そうだ。 そう思いつつ、そんな気持ちでいたのもつかの間、仕事に忙殺されて 昼休み直前になると、私はランチのことばかり考えていた。
97 花は入社したばかりで相馬との遣り取りに神経をほぼ集中して過ごして いるため、凛の父親が広い同じフロアーで仕事をしている相原清史郎だとは 気が付けないでいた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 短期間で相馬付きの派遣社員が立て続けに辞めてしまったことで 周囲と同様、野次馬根性を特別持っているわけではない相原清史郎も 次に着任した掛居花と相馬との仕事振りだとか仕事中の彼らの様子について それとなく気になっていた。 ……なので、娘のお迎えに行った時、娘を連れて彼女が目の前に現れた時 は非常に驚いた。 表向き平静を装いつつも心の中で叫んだ第一声が 『ここで? 何してるんだ?』 だった。 凛を受け取ろうとしたら彼女は一瞬逡巡して、奥にいた芦田さんに 何やら訊きに? 確認のためか、足早に目の前を去って行った。 ヌヌっ、もしや、自分は不審者と間違われたのか、参ったなぁ~。 同じフロアーで働いているのに俺の顔は覚えてないらしい。 呆れた。何ということ。 待っていると芦田さんが凛を抱いて連れて来てくれていつものように 『お疲れ様です』 と労いの言葉と共に凛を渡してくれた。 凛を片手に抱いて帰ろうとした俺の背中に彼女の声が届いた。「失礼して申し訳ありませんでした」と。「おぉ、ちゃんと礼儀正しい婦女子ではないか、よきよき!」 俺は彼女に向けて片手を振り、気にするなと意思表示した。 ちょっとかっこつけ過ぎただろうか。
96 身体がびくともしないところを見るに爆睡している模様。 良かった、グッと少しの間だけでも芯から寝ると回復も 早まるというもの。 さっ、凛ちゃんと絵本を楽しみながら凛ちゃんママを待つことに しようっと。 仕事と家庭の両立をこなす凛ちゃんママはすごいな、なんて思いながら 待つこと小一時間。 しかぁ~し、凛ちゃんママがお迎えに来ることはなかった。 20時を少し過ぎて、男性社員が凛ちゃんを迎えに来た。 てっきりママさんが来るものと思っていた私は少し混乱した。 私は凛ちゃんのパパの顔を知らない。 万が一、保護者を語る偽者だった場合大変な事態になると考えた私は すぐには凛ちゃんを渡さなかった。 凛ちゃんをすぐに抱きかかえ 「あの、少しお待ちいただけますか」 と一言告げ、芦田さんの元へと向かった。 凛ちゃんが何やら『あーぁ、ばぁ~』などと声を出していたが、 とにかく確認しなくちゃならない私はひたすら焦っていた。「すみません芦田さん、凛ちゃんのお迎えはお父さんで間違いない でしょうか?」「ごめんなさい、うっかり伝言するの忘れてたわ。 相原さんの娘さんなのよ。 私が行きましょうね、掛居さんのお蔭でだいぶ身体もシャンとてきた みたい」 芦田さんはそう言うと立ち上がり私から凛ちゃんを受け取って 凛ちゃんの父親の元へ向かった。 芦田さんが父親に渡すと凛ちゃんが嬉しそうに抱かれるのが見えた。 偽者じゃなくて良かったぁ~。 私はその後駆けつけて、背中を見せて歩き出したその男性《ひと》に 「失礼して申し訳ありませんでした」 と声を掛けた。 その男性《ひと》は振り返ることなく左手を上げて横に振って応えた。 私は頭を下げた。「掛居さんは用心深くて関心したわ。保育士合格ぅ~」「いえ、良かったでしょうか? 凛ちゃんパパがお気を悪くされてないといいのですが……」 「掛居さんみたいな若くて可愛い女性《ひと》に娘をちゃんと守って もらえて、きっと気を悪くというのはないと思うわ。 それに今度話す機会があればちゃんと私のフォロー不足の所以だと 説明しておくので心配しないでね」 「はい」