若子の瞳に浮かぶ疑念を見て、西也は自分がさっき取り乱しすぎたことに気づいた。「悪かった。さっきは......わざとあんなことを言ったわけじゃない」謝る西也に、若子の表情は少し和らぐ。苦笑いを浮かべながら、彼女はぽつりと言った。「大丈夫よ。西也の言う通り......私、怖くて逃げ出そうとしたの」「だけど、お前がこんなことをしても、自分を傷つけるだけだろう?そんなの、俺は見たくない」西也の声に、熱がこもる。「お前がなんで逃げなきゃならないんだ?全部、藤沢のせいだろ。あいつがなんであんな偉そうな顔してられるんだ!」西也は時々、若子に本気で腹が立つことがある。 彼女の、その過剰な優しさにだ。何もかも自分で飲み込んで、周りには良い顔ばかり見せるその性格が、どうしようもなく許せなかった。彼女が馬鹿ではないことを、西也はよく知っている。 彼女は何もわかっていないわけじゃない。でも、それでも彼女は手を引くことを選ぶのだ。西也は認めざるを得ない。彼はそんな若子に惹かれた。こんなに優しい人間なんて、もうこの世界にはほとんど残っていないのだから。彼はこれまで、数え切れないほどの駆け引きや裏切りを経験してきた。策略と陰謀が渦巻く、硝煙のない戦場のような毎日に疲れ果てていた。そんな彼が若子に出会った瞬間、それはまるで光を見つけたような気がした。彼女といる時だけ、彼は心の底から安心できる。疑うことも、警戒する必要もなくなる。ただ、彼女の隣にいるだけで、世界が穏やかになるのを感じるのだ。家族ですら、そんな感覚を与えてくれたことはなかった。だが、その優しさゆえに、時折西也は苛立つこともある。彼女がもう少しだけ意地悪だったら、こんなに傷つくこともなかっただろうに、と。修のせいで流した若子の涙の量を、あのクズは知りもしないのだ。若子は小さくため息をつき、しばらくの沈黙の後、諦めたように口を開いた。「誰のせいだろうと、もう終わったことよ。修と私は離婚したわ。だから、あの人にはこのことを知る必要なんてないの」若子は心の中で決めていた。たとえ一人でも子どもを立派に育ててみせる、と。誰にも頼らず、誰にも邪魔されることなく。「俺が知る必要ないって?」突然、少し離れた場所から低い声が響いた。その瞬間、若子は雷に打たれたように動きを止めた。振り
二人の間には、目に見えない火花が激しく散り、まるで戦場のような緊迫感が漂っていた。その間に挟まれている若子は、一番辛い立場に置かれている。「もう十分よ!二人とも手を放して。お願いだから!」若子は怒りと恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら叫ぶ。周囲の人々が二人の争いを面白がって見ているような視線が、彼女をさらに追い詰めた。自分がこんな状況にいることが、もうたまらなく情けない。若子が眉を寄せ、目元を赤く染めた様子を見て、西也は心を痛めた。彼は若子の手を離し、申し訳なさそうに言った。「若子......ごめん」本来なら、二人とも手を放すべき場面だった。だが、西也が手を離した瞬間、それを好機と見た修が若子を強く引き寄せた。彼の大きな手は若子の背中を掴み、そのまま彼の胸に押しつけるように抱きしめた。若子の額が修の肩にぶつかり、瞬間的な眩暈が彼女を襲った。妊娠中で体調が万全でないこともあり、この激しい動きは彼女の身体に負担をかけていた。動揺しながら顔を上げると、修の表情が目に入った。彼の顔には険しい疑念が刻まれ、目の奥には深い不安が渦巻いているのがわかる。若子は心底焦った。「藤沢、彼女を放せ!」西也は怒りに満ちた声を上げ、若子を取り戻そうと詰め寄った。だが、矢野がすぐに西也の前に立ちはだかった。「うちの総裁と松本さんは家族です。二人の話し合いですから、どうかご安心を」西也は矢野の言葉を一蹴するように叫ぶ。「家族だと?藤沢、お前いい加減にしろ!若子はもうお前と離婚してるんだ。どんな権利があって彼女に絡む?」「離婚していても、彼女はまだ藤沢家の一員だ!」修の声は鋭く響き渡り、その瞳には怒りの炎が燃えている。「俺と彼女は10年の付き合いだ。お前なんかに何がわかる!」「修、もういい!」若子は力強く修を押しのけた。「ここで騒ぎを起こさないで!」「俺が騒いでいるって?」修は皮肉げな笑みを浮かべる。「騒ぎっていうのか?俺はただ、飯を食いに来ただけだ。たまたま前妻を見かけて、何か隠し事があるようだから聞いているだけだろう」「それが『たまたま』だって?」西也は冷ややかに皮肉を返した。「ずいぶんタイミングのいい『偶然』だな」「誰が一人だって言った?」修は顎をしゃくり、矢野を指さした。「俺はちゃんと矢野と一緒にいる」矢野は背筋を伸ばし、ま
修の怒りはますます燃え上がった。「どうやら遠藤は全部知っているみたいだな。それで俺だけが知らないってことか?いったい何の話だ!お前が言わないなら、今日はどこにも行かせない!」修は、若子が自分に隠していることが多すぎると感じていた。まるで周囲の誰もが知っていて、自分だけが蚊帳の外に置かれているかのように。「何を隠しているんだ?早く言え!」怒りを抑えきれない修は荒い息をつきながら、若子を睨みつける。その心臓は緊張と怒りで激しく鼓動していた。若子は視線を下げ、伏せたまつげが微かに震える。目に浮かんだ動揺を隠すため、彼女は視線を落とし続けた。「若子、言ってやれ!」西也は怒りと悲しみが入り混じった声で言った。「あいつに思い知らせてやれ!どれだけ無責任な男で、お前をどれだけ追い詰めたかってことを!」「黙れ、遠藤!」修が西也に怒鳴りつけた。「これは俺と若子の問題だ!お前みたいな外野が口を挟むな!」「俺は外野じゃない。俺は若子の友人だ。むしろ外野なのはお前だろう!」西也は皮肉を込めて言い放つ。「お前らは離婚したんだ。もう友人ですらないだろう?ましてや、兄妹なんて笑えるほどおかしな関係だ」西也の声には、皮肉だけでなく怒りが混じっていた。「俺が余計な口を挟むだって?じゃあ聞くけど、お前は若子のために何をしたんだ?」彼は修を睨みつけ、言葉を続けた。「あの日、大雨の中で若子が病院の前で倒れていた時、お前はどこにいた?お前はその時、桜井と一緒にいただろう!」「西也、もうやめて!」若子は慌てて声を上げた。「なぜだ?言ってやれよ。あいつに自分がどれだけクズなのか教えてやれ!」西也は若子の言葉を無視して続けた。「お前は桜井のためには優しく気を配るくせに、若子が病気になった時、雨の中で倒れた時、お前はどこにいた?一度でも彼女の気持ちを考えたことがあるのか?」西也の声がさらに鋭く響く。「お前は若子を幸せにする資格なんてない!それどころか、あいつを娶った理由も、全部お前の身勝手さのせいだ!」彼は修を冷たい目で睨みつけ、最後に吐き捨てるように言った。「お前は、徹底的にどうしようもないクズだ!」もし若子のことを思わなければ、西也は今すぐ修に殴りかかっていただろう。結果など気にしない。たとえ警察沙汰になろうとも構わない。ただ、若子のためにこの怒りをぶつけてやりたかった。
修は動けなくなったまま、ただ若子をじっと見つめていた。わずか数秒のことなのに、永遠のように長く感じられた。震える唇を微かに動かしながら、修は一歩を踏み出し、若子に近づこうとした。その瞬間、西也が動き、修を止めようとしたが、矢野が必死に彼を押さえ込んで阻んだ。西也は拳を握りしめ、矢野の襟元を掴んで押しのけようとする。だが、その時、若子の声が響いた。「二人とも、来ないで!」修はまるで命令を受けた兵士のように、足を止めた。その声に、本能的に従ってしまったのだ。若子はゆっくりと立ち上がった。少しふらつきながらも、それを必死に隠して、冷静を装った。彼女は目を上げ、西也に向かって言った。「西也、ごめんなさい。ちょっと疲れたから先に帰りたいの」「俺が送っていくよ」西也は一歩前に出ようとしたが、矢野が再び立ちはだかる。「どけ!」西也は拳を握りしめ、あと一歩で殴りかかりそうだった。矢野もその様子に怯えながら、どうにかして自分を抑え込む。彼は自分の仕事のために動いているだけだったが、心中は穏やかではなかった。「西也、大丈夫だから」若子が静かに制止した。「送ってもらわなくても平気。自分で運転して帰るわ。少し一人になりたいの、」そして、彼女は少し間を置いて付け加えた。「それに、高橋さんのことをちゃんと招待してあげてほしいの」「でも......」西也は彼女の状態が心配でたまらない様子だった。「俺は......」「いいの、西也」若子は軽く微笑みを浮かべながら、彼の言葉を遮った。「もう決めたことだから、私を困らせないで」若子は、西也が話せば分かる人間であることをよく知っていた。だからこそ、落ち着いて話をすればきっとわかってもらえると信じていた。そして、事実その通りだった。西也は特に若子に対してはいつも理性的で、彼女の言葉を何よりも尊重していた。「......わかった。だけど、家に着いたら、必ず電話をしてくれ。お前の声を聞いて、ちゃんと無事だって確かめたい」若子は小さくうなずいた。彼女は荷物も持たず、スマホだけをポケットに入れていたため、そのまま出る準備が整っていた。そのまま彼女は背を向け、修のそばを通り過ぎようとした。修は反射的に手を伸ばしかけたが、その手を止めた。若子を引き止める理由が、何一つ思い浮かばなかった
「そのことよ」 若子は静かに口を開いた。「あの日、私は泣きながらあなたを引き止めようとした。でも、あなたはどうしても桜井さんのところに行くって聞かなかった。彼女が病気だって言ってね」 彼女の声は淡々としていたが、その言葉の裏には深い痛みが滲んでいた。「私は車であなたを追いかけた。そして、あなたが彼女に約束するのを目の前で見たの」 若子は小さく息をつきながら続けた。 「その帰り道......雨がひどくてね。病院の前で気を失った。でも、そのことをあなたには一度も言わなかったわ。今も別に話すつもりはなかった。もし西也が言わなければ、私は永遠に黙っていたでしょうね。話しても意味がないと思ったから」修は呆然と若子を見つめた。その瞳には複雑な感情が渦巻いている。彼は口を開きかけたが、言葉が出てこない。本当にそのことだけなのか?いや、それだけではないはずだ。彼の胸には、もっと重大な何かが隠されている予感が押し寄せていた。一方、西也は胸の中で静かにため息をついた。結局、若子は修に真実を明かさなかった。けれど、それでも構わない、と西也は思った。修が今日ここに現れたのは偶然ではなく、確実に計画的なものだと彼にはわかっていた。彼らはすでに離婚している。それなのに、修はまだ若子に執着している―それが西也には心配だった。もしかして......彼は若子に対して、まだ特別な感情を抱いているのか?男というのは得てして手元にあるものを大切にせず、失ってから後悔するものだ。修も例外ではない。離婚して初めて若子の価値に気づき、彼女を取り戻そうとしているのかもしれない。だからこそ、若子の妊娠のことを修に知られるわけにはいかなかった。そんなことになれば、修はそれを理由に復縁を迫ってくるだろう。そして、若子の優しい性格を考えれば、修が子どもの父親であることに罪悪感を覚え、彼の提案を断り切れなくなるかもしれない。若子は言葉を終えると、そのまま足早に出口へと向かった。修は無意識のうちに彼女を追おうと一歩を踏み出した。若子は背後の気配に気づき、冷たい声で言った。「誰も私についてこないで。それが守れないなら......もう二度と会わないから」その言葉を残して、若子は拳をぎゅっと握りしめ、足早にその場を去った。修は彼女の背中を見送るしかなかった。彼女の姿が完全
「お前がろくでもない奴だ」修は一言ずつ噛み締めるように、歯ぎしりしながら吐き捨てた。その目には燃えるような怒りの炎が宿っている。二人は互いに一歩も引かず、至近距離で向かい合っていた。どちらも身長は180センチを超え、放たれる威圧感は尋常ではない。視線がぶつかるたび、周囲にはピリピリとした緊張感が張り詰め、まるで爆発寸前の火薬のようだ。その場の誰もが二人の怒りの矛先が自分に向かないよう、自然と距離を取った。矢野も例外ではなく、後ずさりしてさらに安全な場所へと退く。彼らを知る者ならば誰でも理解している―この二人は決して関わってはいけない男たちだ、と。西也は目を細め、冷たい光をその瞳に宿しながら静かに言った。「それで?藤沢、お前が言う『いい人間』ってなんだ?」彼は修に一歩近づき、低く嘲るように続ける。「自分の妻を守れない男が『いい人間』を名乗る資格なんてあるのか?そう思わないか?」修に「ろくでなし」呼ばわりされるとは―西也はその滑稽さに思わず鼻で笑いたくなった。確かに自分は決して「いい人間」ではないが、それを言う資格が修にあるとは思えない。二人の間に漂う怒りは、今にも爆発しそうなほど膨れ上がっていく。矢野は修に長年仕えてきた。彼の性格や癖も熟知しているし、どんな場面でも冷静でいる自信はあった。だが、今の状況はさすがに彼の心を乱した。目の前の二人―修と西也は、どちらも冷静さを完全に失っていた。理屈や道理が通じる状態ではない。こうなれば、二人が頼るのは言葉ではなく拳だ。感情のぶつかり合いが最高潮に達し、理性が吹き飛べば、戦いはただの力のぶつかり合いになる。修は突然、皮肉げな笑みを浮かべた。「まあ、俺は少なくとも彼女の夫だったよ。すべてを俺に捧げてくれた彼女のな」修の声には挑発が込められている。「俺が夫として一番得意だったのは、夜のことだったけどな。信じられないなら、若子に聞いてみたらどうだ?」「藤沢!」西也は怒りのあまり制御を失い、修の胸倉を掴んだ。「お前、本当に最低だ。そんなことを言って、若子をどういう立場に置くつもりだ!」「手を離してください!」矢野が西也と修の間に割って入ろうとする。だが修は、焦るそぶりも見せず、冷静な口調で矢野に言った。「下がれ」「でも......」矢野は何か言いかけたが、修の冷たい視
「藤沢、あんたは自己中心的な最低野郎だ。若子がお前と結婚したのは、まったくの不幸だった。だが、ようやく離婚できたんだ。もし少しでも良心が残っているなら、もう彼女の生活を邪魔するな。若子はお前なんか必要としてない!」西也の声は低く、だがその一言一言が修の骨の髄にまで突き刺さるようだった。その言葉は、修の心に容赦なく響き渡った。まるで彼の目の前で再生される映画のように、西也の言葉が過去の出来事を思い出させた。雨の中で倒れる若子。高熱を出して泣き続ける彼女の姿。 やつれた顔、白い頬、全身に刻まれた疲労と痛み。修は、若子がそんな目に遭っていたことを今の今まで知らなかった。もしその事実を早く知っていたなら―あの夜、彼は彼女の家に押しかけたりしなかっただろう。彼女を無理やり連れ戻すような真似もせず、離婚をちらつかせて脅すこともなかったはずだ。彼女が涙を流しているのを見ても、何一つ気遣わず、ただ自分の感情を押し付けただけだった。それもこれも、くだらない嫉妬と男のプライドに飲み込まれた結果だ。修は認めたくなかったが、自分の胸の奥ではっきりと分かっていた。―西也の言葉は、すべて正しい。自分は最低だ。この結婚は、若子に何を与えただろう?彼女にどんな幸せを届けただろうか?修は考えれば考えるほど、心が痛みに苛まれた。一方、矢野はこっそりと額の汗を拭った。「......今の話を聞いてると、確かに総裁、結構なクズだよな」と心の中で呟きつつも、もちろん口には出さなかった。心の痛みは深く、容赦なく、まるで胸を刃で切り裂かれているようだった。修の目はどんよりと曇り、力を失っていた。数歩進んだところで、彼は足を止め、後ろを振り返って低く呟いた。「西也......俺はクズだ。だが、お前は哀れな負け犬だ。ハッ......」修は自嘲気味に笑い、だがその笑みはどこか虚ろで悲しげだった。だが、修には分かっていた。同じ男だからこそ、西也が若子に抱く感情は一目瞭然だった。ただ、修が永遠に「クズ」であり続けるのに対し、西也がずっと「哀れな負け犬」のままでいるとは限らない―それだけは、彼も理解していた。修が去った後、西也は深く息を吸い込み、気持ちを立て直した。彼は冷静さを取り戻しながら部屋に戻り、ドアを開けると、花が美咲と話している
修は若子の住むマンションの前に立っていた。少し前に、ボディーガードから「彼女は無事に家に着きました」と報告を受けていた。その時、彼女の新しい住所も教えてもらい、気づけば一人でここまで来てしまっていた。ここが若子の新しい住まいか。見上げた建物は、どこにでもあるような普通のマンションだ。彼女はここに引っ越してきた。それなのに、自分の家には戻ろうとしない。あの家―かつて彼女と自分が一緒に暮らした場所―を、彼女はもういらないと言うのだ。それってつまり、彼女は「俺」に関わるすべてを捨て去りたいってことなのか?若子、お前は一体何がそんなに嫌なんだ?俺たちの結婚そのもの?それとも......俺という存在?もしお前が結婚という形を嫌っていたのなら、もうその呪縛は解けたはずだ。それなのに、お前はなぜまだこんなにも辛そうなんだ?もしかして......嫌っているのは、俺そのもの?俺なんて、お前の世界にいない方が良かった?だから、俺をブロックしたのか?―そうか。やっぱり俺が嫌いなんだな。修は苦笑しながらポケットからスマホを取り出した。若子の番号を開き、そこにメッセージを打ち込む。そのメッセージを作るのに、なんと十分以上もかけてしまった。何度も削っては書き直し、ようやくたどり着いたのは、たった数行のシンプルな言葉。送信ボタンを押す。もちろん、届かないと分かっている。彼女にブロックされているからだ。だからこそ送れたメッセージ。彼女に決して届かない、ただの独り言。送信が完了した画面を見て、ふぅ、と小さく息を吐く。それから顔を上げると、目の前のマンションの窓を見上げた。灯りがついている部屋が一つ。「若子、お前がそれほどまでに俺を嫌うなら......もうお前の邪魔はしない」若子はトイレの前にうずくまり、必死に嘔吐していた。普段のつわりはそこまでひどくない。だけど、プレッシャーを感じたり、修のことを考えてしまうと、どうしても胸の奥から激しい悲しみと怒りが込み上げてくる。その感情はあまりにも強烈で、身体まで反応してしまうのだ。今日の夕飯には手をつけていない。朝ごはんも昼ごはんも、すべて吐き尽くしてしまい、最後にはまるで苦い胆汁さえ吐き出すようだった。すべてを吐き終えた後、若子は抜け殻のようになった。トイレの水
「子ども」この言葉を聞いた瞬間、若子は眉をひそめた。 「......どうして知ってるの?」 ヴィンセントは立ち上がり、冷蔵庫を開けてビールを一本取り出し、のんびりと答えた。 「妊娠してから他の男と結婚して、子どもが生まれてまだ三か月ちょっと。ってことは、離婚を切り出された時点で、すでに妊娠してたわけだ。でも、子どもは今の旦那の元にいる。ってことは、可能性は二つしかない。 ひとつは、元旦那が子どもの存在を知ってて、それでもいらなかった。 もうひとつは、そもそも子どもの存在を知らない。君が教えたくなかったんだろう。俺は後者だと思うね。だって、あいつはクズだ。そんな奴に父親なんて務まらない」 若子は鼻の奥がツンとして、喉に痛みを感じながらかすれた声を出した。 「......彼はそんなに悪い人じゃない。あなたが思ってるような人じゃないの」 「どんなやつかなんて関係ない。ただ、浮気者のクズって一面があるのは否定できないだろ」 「ヴィンセントさん、人間は完璧じゃないの。もう彼の話はやめて。私たちは幼い頃から一緒に育ったの。だから......どうしても憎めないの」 「わかったよ」ヴィンセントはソファに戻って腰を下ろした。 「そいつがここまでクズになったのは、君が甘やかしたせいだな」 「やめてってば」若子は少し苛立ったように言った。 「いい加減にして」 そして、ソファの上のクッションを手に取り、彼に向かって投げつけた。 ヴィンセントはその様子を見て、少し嬉しそうにしていた。 彼はクッションを横に置きながら言った。 「わかった、もう言わないよ」 そして、新しいビール缶を開けて、若子に差し出した。 若子は気分もモヤモヤしていたので、それを受け取り一口飲んだ。 普段あまりお酒は飲まないが、ビールならまだ飲める。 けれど、彼に締められた首がまだ痛くて、その一口で喉が強く痛んだ。 すぐにビールを置き、喉に手をやる。 顔をしかめるほどの痛みだった。 それを見たヴィンセントはすぐに彼女のそばに来て、体を向けさせ、あごを軽く持ち上げた。 「見せて」 若子の首は腫れていた。 もう少しで折ってしまうところだった。 「腫れ止めの薬を取ってくる」 立ち上がろうとしたヴィンセントを、若子は腕を
ニュースキャスター:「今回の件は、社会的にも大きな話題を呼んでいます。この富豪と謎の女性の関係はまだ正式には確認されていないものの、ふたりの行動は世間の注目の的となっています。今後も続報をお届けしますので、どうぞご注目ください」 (画面が徐々にフェードアウトし、バックミュージックが流れ始める) 若子は言葉を失った。 ニュースを見終わった彼女の心は、重くて複雑だった。 目元は自然と潤み、瞳の奥には様々な感情が混ざり合っていた。 心に走った衝撃で、体が小さく震える。 まるで冷たい風が胸を吹き抜けたようだった。 まさか、こんな形で再びふたりの姿を見ることになるなんて― 画面の中、修と侑子は、ときに手をつなぎ、ときに情熱的に抱き合っていた。 修は公衆の面前で、彼女にキスをしていた。 侑子がかじったアイスクリームを、そのまま彼が口にした。まるで何の抵抗もなく。 修は彼女の髪を優しく撫で、額や唇にキスを落としていた。 かつて若子と修の間にあったはずの親密さは、すべて侑子のものになっていた。 ふたりの親しげな様子に、道行く人たちも思わず足を止めて見入っていた。 修の整った顔立ちは、アメリカでも目立つほどで、外国人の目から見ても、その顔立ちにはどこかエキゾチックな魅力がある。 修は周囲の目をまるで気にせず、写真を撮られても意に介していない様子だった。 ―どうやら、山田さんは本当に、彼の大切な人になったようだ。 若子の顔には無力な苦笑が浮かび、指先がかすかに震える。 突然、胸が強く締めつけられるような感覚に襲われ、息苦しさすら感じた。 彼女は胸を押さえ、頬を伝う涙を静かにぬぐった。 それでも、涙は止まらなかった。 胸が締めつけられるように痛む。 まるで、暗闇に落ちたかのようだった。 ―どうして、こんなにも痛いの? ―どうして、なの? これでいいはずなのに。 修は新しい幸せを見つけた。 桜井さんのあとには山田さん。 自分は、もう要らない存在だった。 修って本当に優しい人。 どの女の人にも、同じように優しい。 でも― 今、彼は確かに私を傷つけた。 ヴィンセントは若子の様子をじっと見つめ、目を細めた。 視線の奥に、疑念がよぎる。 「テレビに出てたあの男
今回はちゃんと学んだから、きっともう次はない。 ヴィンセントはソファの横にやって来て座った。 彼の傷はまだ完全には治っておらず、動くたびに少し痛むようだった。 リモコンを手に取りながら聞いた。 「何見たい?」 若子は答えた。 「なんでもいいよ」 ヴィンセントはチャンネルを変えた。画面には恋愛ドラマが映っていた。 内容は少しドロドロしていた。 男主人公が愛人のために妻と離婚。 傷ついた妻は、別の男の胸に飛び込む。 そして、元の男は後悔してヨリを戻そうとする。 数分見ているうちに、若子はどこか見覚えのある感じがしてきた。 なんだか、自分の経験に似ている気がする。 やっぱり、ドラマって現実を元にしてるんだ。 というか、現実のほうがよっぽどドロドロしてる。 誰だって、掘り下げればドラマみたいな人生を持ってる。 若子はつい見入ってしまった。 画面の中、ヒロインが男主人公と浮気相手がベッドにいるのを目撃する。 そのあと、ヒロインは別の男の胸で泣きながら―そのまま、ふたりもベッドイン。 ......ほんとにやっちゃった。 若子は思わず息をのんだ。 アメリカのドラマって、本当にすごい。大胆で開けっぴろげ。 その映像は若子にとってはかなり刺激が強くて、気まずくなり、すぐに顔をそむけた。 「チャンネル変えて」 これがひとりで観てるならまだしも、隣にはあまり親しくない男が座っている。 男女ふたり、リビングでこういうシーンを観るのは、どうにも居心地が悪い。 このレベルの描写、国内じゃ絶対放送できない。 「なんで?面白いじゃない。ヒロインはあんなクズ男なんか捨てて正解だ」 「もう捨てたじゃない。だから、もう観る意味ないよ」若子はぼそっと言った。 「それはどうかな、このあと、彼女がどんな男と関係持つのか、気になるし。ほら、スタイルもいいしな」 ヴィンセントは足を組み、ソファにもたれかかって気だるげな様子だった。 視線の端で、なんとなく若子をちらりと見る。 若子の顔が赤くなった。 まさか、ドラマを見て顔を赤らめるなんて、自分でも驚いた。こんなに恥ずかしがり屋だったとは。 ヴィンセントはそれ以上からかうこともなく、チャンネルを適当に変えてニュース番組にした。
たしかに、彼はひどいことをした。 けれど、彼は子どもじゃない。 強くて大きな体の男―それなのに今の彼は、まるで迷子になった子どものように戸惑っていて、どこか滑稽でもあった。 若子はソファから立ち上がり、服を整えてダイニングへ向かった。 テーブルに着こうとしたそのとき。 「待って」 ヴィンセントが自ら椅子を引いた。 「座って」 そして彼はナプキンを丁寧に広げて手渡し、飲み物まで注いだ。 若子は疑わしげに彼を見つめた。 「何してるの?」 「......ごはん」 ヴィンセントはそう答えると、自分も向かいの席に腰を下ろした。 その視線はどこか落ち着かず、若子の目を避けていた。 若子が作ったのは中華料理。ヴィンセントはそれが気に入っていて、毎回それをリクエストしてくる。 彼は箸を取り、料理を少し取って若子の茶碗に入れた。 「たくさん食べろ」 若子は気づいた。 これが彼なりの謝罪なのだと。 椅子を引いて、ナプキンを渡して、飲み物を注ぎ、料理まで取り分けてくる。 ―不器用だけど、ちゃんと伝わってくる。 若子は箸を置いて言った。 「『ごめん』って一言でいいの。そんなに気を遣わなくていい」 慣れていないのもあるし、そもそも怒っていなかった。 彼は故意じゃない。悲しさと恐怖が滲んでいた。 特に、「マツ」と呼んだあのとき。 ヴィンセントはうつむいたまま何も言わず、黙って食事を続けた。 若子は小さくため息をついた。 本当に、不器用な人だ。 二人は黙って食事を終えた。 若子が立ち上がり、食器を片付けようとしたとき― ヴィンセントが先に動いた。 「私が......」 若子が皿を取ろうとするが、彼は一歩早くすべての皿を水槽に運んだ。 「俺が洗う。君は座ってろ」 若子は彼のあまりの熱心さに、それ以上は何も言わなかった。 皿洗いを一度サボれるのも悪くない。 彼女は振り返ってリビングのソファに戻り、腰を下ろす。 テーブルの上にはヴィンセントのスマホが置かれていて、若子は手に取って画面を確認した。 ―ロックがかかっている。 西也に無事を伝えたかった。 でも、自分のスマホはもう充電が切れていた。 しかも、この家には合う充電器がない。 ヴ
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった