All Chapters of 君と花を愛でながらー消えない想いを胸に閉じ込め、私はそっと春を待つー: Chapter 11 - Chapter 20

24 Chapters

1話 チョコとパンジー《11》

「しかし、パンジーはブーケには向きませんか? 草花ですし……」そう聞かれて、私は漸くブーケの方へ思考回路を集中させた。「いえ、そんなことは。色も豊富にあるし、華やかでいいかも。水揚げさえ上手くいけば……」フリルパンジーなら見栄えもするし、と頭の中でイメージした。パンジーは水がなければすぐに萎れてしまうけど……そこをなんとかすれば。それに、パンジーの花束、たしかネットかどこかで見た気がする。「調べてみます! バレンタインにちなんだ花だと聞いたら、是非使いたくなりましたから」そういうと、一瀬さんはほんの少し口角を上げて、笑ってくれたように見えた。◆◇◆バレンタイン限定プレートは、二月一日から始まった。それまでにお姉ちゃんが大学のお友達同士で広告を回してくれたりと宣伝に協力してくれて、初日から盛況、とまではいかなくてもいつもよりもずっと来客数は増えている。予測通り、女性客が殆どだったけど。私は初めて売り物の為のブーケを作り、最初は緊張したけれどいくつもこなすうちに間違いなく私の自信に繋がった。注文を受けてから、プレートが出来上がるまでに私はブーケを作り、一緒にテーブルに届ける。こういうのは演出が大事だから、と、必ず同時に届けるよう指示したのは一瀬さん。「きゃあ、可愛い!」届けた時の女性客の笑顔には何度も気分が高揚させられ、私もその都度唇が綻んでしまう。「今はチョコレートのプレートだけですが、その後はケーキを選べるようにするのもいいですね」「あ、じゃあ。お花も選べるようにするのもいいかもしれません。 生花のブーケだとお客様のその後の予定によっては邪魔になることもあると思うんですよね。ドライフラワーを入れたフラワーボックスもいいかな、と思ってて……」「ま、イベント時以外は厳しいかもしれないね」お店とマスターには手厳しい、冷静な片山さんの意見にはがっくりくるけれど。ブーケ作りは、このカフェに私の居場所ができたような、そんな実感も与えてくれる。そして、バレンタイン当日。それまでブーケに専念していた気持ちも、さすがに今日は朝から緊張して落ち着かなかった。片山さんが仕事の合間に意味ありげに私を見て口元をにやつかせその度に恥ずかしくなる。「告白は?」「か……帰り道に! ここではしませんよ!」「なーんだ、残念。真っ赤な顔の綾ちゃん見
last updateLast Updated : 2025-03-17
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1話 チョコとパンジー《12》

「私が届けましょうか」不意に声がして、作業台からブーケが二つ消えた。見上げると一瀬さんが私とは目を合わさずに二種類のブーケを手に「どちらを、どなたに渡せばいいですか?」と尋ねる。「いいです、私が届けます」見上げながら笑ってみせると、一瀬さんの瞳が少し揺れた気がした。かっこ悪いなあ、と少し自分が恥ずかしくなる。こんな綺麗な男の人の目の前で私は失恋しちゃうんだ。片山さんにも、もうバレバレだろうし。ブーケを一瀬さんの手から取り戻して、カウンターに戻るともうスイーツのプレートは出来上がっていた。恥ずかしいし情けないけど……ブーケを悠くんに手渡すのだけは譲りたくなかった。初めての恋。あんなに気づいてほしいと願って告白しようと決めたのに、今は違った。だって、かなうはずない。愛しげに、幸せそうな悠くんの横顔が目に焼き付いて少しも消えてくれないの。だから、お願い気づかないで。悠くんが姉を連れてきたのは、今年のチョコレートにいつも以上の意味はないと、そう思ったからだよね? 気づいたからじゃないよね?「プレート、持ちますよ」一瀬さんの声がして、私は顔を上げた。結局一人では持ちきれなくて、一瀬さんがスイーツプレートを運んでくれる。「お待たせしました」と一瀬さんが恭しく綺麗な一礼を見せ、プレートを置くと一歩下がる。次に私がブーケをそれぞれのプレートの横に並べると。「これで二度目だけど、やっぱり可愛い! あれ、ブーケ、二種類あるのね」姉が目を輝かせながらブーケを手に取った。スプレーマムの中に、一輪だけの白バラを主役にした花束が姉の手に触れてかさりと音を立てる。私は少し身体を屈めて、離れた場所にいる他のお客さんには聞こえないよう声を潜めた。「うん、お姉ちゃんは二度目だし、特別。悠くんはパンジーだけどごめんね」「全然。すごく可愛い……って、男が花束もらって喜ぶのも変か」「そんなことないよ」へへ、と私は愛想笑いをして、誤魔化した。ヨーロッパではね、バレンタインにパンジーの花を贈るんだって。だから全然、おかしくない、本当に特別なのは悠くんの手にある花束だけだよ。私はそれを花束にだけ込めて、声にはしないと決めた。「ところで、ごめんね。今日、お迎え頼んだの私なのに、ちょっと遅くなりそうだから二人で帰って?」「いいわよ、待ってるから。一緒に帰れ
last updateLast Updated : 2025-03-18
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2話 イキシアの花言葉《1》

花屋カフェflowerparc二度目に訪れたのは、受験に失敗して引きこもった後、心配した姉が荒療治と称して無理やり二度目のオープンキャンパスに誘った日だった。……行きたくないけど、お姉ちゃんが待ってる。そう思うと約束をすっぽかすこともできず、それでも前向きにはなれなくて駅から大学までの道を時間稼ぎのようにトボトボと歩いて向かっていて。一年前と同じように、その綺麗な外観にまた目が惹きつけられふらりと中へ入ってしまった。窓側のテーブル席で、ぼんやりと窓の外を見ていると、大学生っぽい人たちが通り過ぎていく。私、あんな風になりたかったのかな。わかんない。ただ、高校を卒業して次へ進むなら、お姉ちゃんや悠くんと同じ場所に行きたかった。そんな不純な動機しかなかった自分が情けなくて、かといって何がしたいのかわからなくてすっかり私は迷子だった。オーダーしたカフェオレが運ばれてきた時、外を女子高生の集団が賑やかに通り過ぎて、再び窓の外へ視線が向いた。店の中にまで聞こえるくらい元気の良い声だった。「びっくりした……賑やかですね」「今日は、この先の大学でオープンキャンパスがあるらしいです。そのせいですね」私の言葉に、カフェオレを運んでくれた綺麗な男の人が応えてくれて、思えば家族と悠くん以外の人と話をするのは、これが久しぶりだった。「はい、私も今から行く予定で……ちょっと寄り道しちゃって」「そうでしたか」「いいなあ、元気いっぱいに、飛び出す寸前って感じ。大学生になるのが楽しみで仕方ないんだろうなあ」一年前の私って、あんな感じだった。すっかり、飛び損ねちゃったけど。卑屈になっていく私の気持ちが、伝わったのかどうかはわからない。けれど、マスターがくれた言葉が固くなった私の心をほぐしてくれた。「そうですね、でも。時には立ち止まって道を眺めながら、ゆっくりとお茶を飲む時間を持つのもいいですよ」私の事情など何も知らないのに、立ち止まってもいいのだと、言ってくれた。それまで誰の言葉にも応えなかった心が、まったく知らない人との会話だったからかマスターの雰囲気がそうさせたのか。言葉が胸に沁みて、カフェオレを手にもつと手のひらからもじんわりと温もりが伝わって。気が付いたら、涙が零れてた。一度その場を離れたマスターが小皿にチョコレートチャンクのクッキーを運ん
last updateLast Updated : 2025-03-19
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2話 イキシアの花言葉《2》

「そっか……よくあることなんだ……」一瀬さんの言葉で、まるで拍子抜けしたみたいに気が軽くなったのを感じた。何だか、自分だけが精神的にひ弱で甘えてるのかと、そんな気がしていたから。その時、カウベルがコロンと鳴って来客を知らせた。慌ててカップを置いて入口に目を向けると、よく見知った人が私に向かってひらひらと手を振った。「苑ちゃん!」手を振り返すと、苑ちゃんはカフェスペースには入らずに花の陳列のところで屈んで花を眺め始めた。私は「ちょっと行ってきます」と二人に声をかけて立ち上がる。「お友達?」「姉の親友なんです。私もしょっちゅう一緒に遊んでもらってて……高校生の時からお花屋さんでバイトしてるからブーケでも少し相談に乗ってもらったんです」それだけ言うと、ぺこりと頭を下げて苑ちゃんへと近づいた。「苑ちゃん! 見に来てくれたの?」「んー? 咲子と約束があるからさ。どうせなら綾のとこで待ち合わせようってことになって。パンジーのブーケ、水揚げも上手くいったみたいだね」「うん、ありがと! 苑ちゃんのおかげ!」水がなければすぐに萎れてしまうパンジーをどうやって花束にするのか……実はネットで調べても母に聞いてもよくわからなくて、花屋でバイトしている苑ちゃんに協力してもらった。フローリストになりたいらしくて、大学以外でも独学でずっと勉強している頑張り屋さんだ。苑ちゃんはちらりと腕の時計を見ると、少し考えて一つの花を指差した。入荷したばかりの槍水仙で今店頭で一番のピチピチちゃんだ。「咲子が来るまでちょっと時間あるし。綾、これでブーケ作ってくれない?」「うん、いいけど、スイーツプレートとセットにする?」「珈琲だけもらうからいいや。これは単品で」頷いて花を数本、花付の良さそうなのを選ぶ。私なんかよりずっと先輩の苑ちゃんにブーケを作るのは、ちょっと緊張してしまう。「他の花はどうする?」「全部綾にお任せ」「えーっ」お任せって、余計にやりにくい。唇を尖らせて苑ちゃんを見ると、意地悪そうに私を見て笑っていた。「もー……わかった。やってみる。あっちで珈琲でも飲んで待ってる?」「ここで見てる」「えぇぇ……」またしても情けない声を出した私に、苑ちゃんがけらけらと声を上げて笑った。びくびくしながらも幾つか他の花を手に取り槍水仙と合わせては戻す、を繰
last updateLast Updated : 2025-03-21
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2話 イキシアの花言葉《3》

だって、私は苑ちゃんも大好きだから。そう思うと悲しくなって、へらって弱弱しい笑顔しか出なくて。「……だからってわざわざ後押ししなくてもよかったんじゃない? どーせ、そのうちくっつきそうだったんだし」って苑ちゃんが冗談めかして言ったけど、とても冗談には聞こえなくて。返す言葉が見つからずに、ブーケに集中するフリをするしかなかった。それきり会話は途切れて私はブーケ作りに没頭する。最後に持ち手の部分に結ぶリボンの色を苑ちゃんに選んでもらうと、彼女はパステルグリーンの細いリボンを指差した。「はい、出来ました!」ラウンド型の丸みのある可愛らしい形に仕上がって、これは褒めてもらえるんじゃないかなって、自信たっぷりに苑ちゃんに差し出した。「ん、まあまあじゃない?」「ええっ?! 結構自信作なのに!」「あはは! ?だって。すごくいいよ。上手いじゃん、綾」笑いながら苑ちゃんはブーケを受け取って、槍水仙に顔を近づけて目を閉じる。「いい香り。私、イキシア大好きなんだよね」「え、それ槍水仙じゃないの?」「それは和名。最近はイキシアって呼ぶ方が多いんじゃない?」苑ちゃんはとても大切そうに花束を抱きしめて、深く息を吸い込んで。「花言葉は『秘めた恋』だって」そう言いながら、目を伏せて微笑んだ。ガラス窓の外を見ながらブラックコーヒーを飲む苑ちゃんは、なんだかとても大人っぽい。ひらりと苑ちゃんの手が揺れて、窓の外の大通りを見ると早足で姉が歩いてくるのが見えた。……んん?お姉ちゃん、なんか怒ってる?姉が珍しく、私がよくするみたいに唇をつんと尖らせて拗ねたような表情をしていたような気がした。カラコロとカウベルが鳴ってすぐ、姉は私に小さく片手をあげて「紅茶ちょうだい、あったかいの」とだけ言って、まっすぐ苑ちゃんのいるテーブルに向かい正面に座る。一瀬さんが入れてくれた紅茶のカップをトレーに乗せて運んで行った時、姉が控えめではあるけれどテーブルを叩く仕草をして驚いた。「なんで言ってくれなかったのよ」「あはは、うん。ごめんね?」どうやら、苑ちゃんが怒らせたらしい?私が首を傾げておろおろしながらも姉の前に紅茶を置くと、私をちらりと一瞥した。「……苑ちゃん、大学辞めるんだって」「え……ええっ?! なんで?!」「専門学校に行くんだって、フラワーデザインの」
last updateLast Updated : 2025-03-22
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2話 イキシアの花言葉《4》

「ああ……本当ですね。こうしてみると、雰囲気が綾さんとお姉さん、よく似て見えます」「……あの。それってどういう……」それって私が見るからに甘えん坊ってことでしょうか。その通りだけどまさか一瀬さんにそんな風に言われるとは思わなくて、ちょっと唇を尖らせて拗ねた顔で拭いたお皿を一瀬さんに差し出した。すると、一瀬さんがふっと苦笑いを零してお皿を受け取る。「……そっくりですよ、その表情」言いながら視線を姉がいる方へと向けた。見ると、姉も私と同じように唇を尖がらせたまま上目使いで苑ちゃんを睨んでいた。「あんなに思いっきり、拗ねてないですもん」そう言って、きりっと表情を引き締めて見せると。すると、一瀬さんはいきなりくるっと背中を向けて、「ぶふっ」と吹き出し肩を震わせた。「ちょっ……ひどいですそんなに笑うなんて」「なになに、えらく楽しそう」恥ずかしくなって、顔が熱くなったところに片山さんも厨房から顔を出す。私はまだ肩を震わせる一瀬さんを指差して言った。「マスターが笑うんです、私が甘えん坊だって!」「え、それ今更笑うとこ?」「片山さんまでひどい!」確かにそうだけど、ずっと甘えてたけど!これでもちゃんとお姉ちゃんや悠くんから卒業しようと頑張ってるのに!そう思いながら、結局口元が自然と尖がる私は、きっと間違いなく子供っぽい。だけど、そんな私を見て片山さんはもちろん、一瀬さんまで楽しそうに笑ってくれたから、なんだか少し嬉しかった。最初は怖いだけだった一瀬さんが、この頃ちらちらと笑った顔を見せてくれることが多くなったから。だから、私は今のこのお店の空気が、とても好きだ。少しずつお客さんが増えてきているのも、そういうのが案外お客さんにも伝わってるのじゃないかなって思う。最近よく来る若いカップルさんも、カウンターで私や一瀬さんと話しをしてくれて、楽しいと言ってくれる。カフェのメニューやブーケは勿論、こんな風にお店の空気に惹かれてお客さんが来てくれるっていうのも、いいなって思えた。「わあ、綺麗! いい香り!」姉の少し興奮したような高いトーンの声が響いて、はっきりと耳に届いた。見ると手を口にあてて肩を竦ませながらも、ブーケを片手に嬉しそうに笑っている。「あ……あれ、お姉ちゃんにだったんだ」拗ねている姉のご機嫌をとる為のブーケだったのかと
last updateLast Updated : 2025-03-24
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2話 イキシアの花言葉《5》

せつなかったのは、私の失恋に対してではなく、苑ちゃんの気持ちを想ったからで……自分自身の痛みではなかったことに気が付いた。それはきっと、このカフェの存在のおかげに違いないけれど。毎日この店に通って、優しい空気に触れて自分に出来ることを見つけて……姉や悠くんに依存していた心が少しずつ自然に、離れることが出来ているんだ。「ありがとうございます。何気に優しいですよね片山さんって」銀のトレーに水の入ったグラスを乗せて、ふふ、と笑ってみせると、片山さんはちょっと頬を染めて。「俺は女の子にはいつも優しいの」と、照れ隠し丸出しの発言をした。「はい、そうでした。いつも優しいですよね」初めて片山さんを揶揄できる立場に立ったとちょっぴり優越感を抱きながら、水のグラスを持っていこうと踵を返す。すると、悠くんが二人に手を振ってテーブルを離れるところだった。「あれ? 悠くん、帰っちゃうの?」少し大きめに声が届くように尋ねると、悠くんはこちらを向いて私にも手を振ってくれた。「姿が見えたから寄っただけ。ごめんね邪魔して」そう言って、足早にお店を出て行った。「なんだ。一緒にご飯でも食べに行くのかと思った」グラスの乗ったトレーをカウンターに戻しながら、私は少しほっとしたことは否めない。あの三人の構図が少し前の私達三人に見えて、私と同じ立ち位置になる苑ちゃんの気持ちを想うと少し胸が痛かった。もう一度、悠くんの去った二人のテーブルに目を向ける。私はそこで、まるで映画のワンシーンのような一瞬に目を奪われた。「……」声が出ない。苑ちゃんからはさっきの悠くんがいた時のような、棘さえ感じるような無表情は消えていた手元の花の香りに恍惚として目を閉じる姉の横顔に、そっと伸びていく細い指先。苑ちゃんの横顔はまるで何かを慈しむように和らいでいる。その横顔が、誰かのものに重なる錯覚に、私は目を瞬いた。「綾さん? どうかしましたか」一瀬さんのその声も、確かに聞こえているのになんだか遠くて、すぐには反応できなかった。指先が頬に触れて、気づいた姉が顔を上げる。何かを拭うように親指が動いて、すぐに離れていった。「綾さん?」「あっ、はい! すみません、なんでもないです」もう一度尋ねられて慌てて一瀬さんに向けて頭を振った。そしてすぐに視線を戻すと、苑ちゃんが親指を見せて
last updateLast Updated : 2025-03-25
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3話 ピンクのバラの花束を《1》

季節は春。通りの向こう側にある桜の木から、風に吹かれたピンクの花びらが舞い散る中、初々しい新入生らしい姿が緩やかな坂を上っていく。私は未だフリーターのままだけど、そんな季節を案外穏やかに見送ることができ、葉桜に変わったところで急激に気温が上がった。ツツジの花が色とりどりにあちこちで咲き始める季節、特にカルミアという花が私は好きだった。小さな蕾が密集して、すべて開くと白いパラソルが開いたようになる。……可愛いパラソル。こんな白い日傘が欲しいな。そう思いながら、今日も軽やかにカフェまでの傾斜を歩いた。「おはようございまあす。あ、マスター手伝います」「おはようございます。こちらは大丈夫ですから、カフェの方の準備をお願いします」店に着くと、一瀬さんが花屋スペースの掃き掃除をしてくれていて、近寄った私に目線でテーブル席の方を示した。私は「はあい」と返事をしてから、荷物をカウンター下の手荷物置き場に押し込みショートエプロンを腰に巻く。この頃は、以前より少し早めに店に来るようにしている。でないと、一瀬さんが花屋の方の片付けを全部ひとりでしちゃうから。掃き掃除なんかはやらせてくれるけど、お花の処分はやっぱり私にはさせないように考えてくれている気がする。今日も多分、さっきまでお花を刻んでいたんだろう。だって、私がしていたみたいに、まだ傷みの少ない花を落として作業台に置いてくれているのが見えたから。「……仕事だから、そんなに気にしないで欲しいのに」以前よりはずっとお客さんも増えてブーケや切り花も売れ始めたから、処分する数は減ったと思う。それでも、一瀬さんは自分で処分しようとして、私の手は煩わせまいとする。どうしても処分する切り花が出るのは、仕方ないことだと思うのに。私は作業台に置かれた花を手に取って、一瀬さんに振り返った。「マスター、これで今日はドライフラワー作ってもいいですか?」いつもは生花のまま飾るのに、と思ったのだろう。一瀬さんは不思議そうに首を傾げた。「ドライフラワーですか? 構いませんが……」「シリカゲルに入れたら、綺麗な色のまま乾燥させることができるんです。それをガラスの器に入れて飾ったら頻繁に入れ替えなくても済むし……」上手に作る練習にもなるかな、と思って。ドライフラワーをいれたフラワーボックスとか、例のセットで選べ
last updateLast Updated : 2025-03-27
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3話 ピンクのバラの花束を《2》

「綾ちゃんは、いつがお休みなの?」「毎日フル出勤です」「へえ、そっか。じゃあ定休日、いつだっけ?」「……水曜です」これは答えないわけにはいかなくて、渋々といった調子をわざと見せて言うけれど。「じゃあ、水曜なら遊びに行けるんだ」「行けません」「冷たいなあ。でも夜だったら尚更誘ってもきてくれないでしょ?」にこにこと笑って勝手に話をつなげる、この人にはまるで通じない。仏頂面で目も合わせないでいると、お手洗いから静さんが戻ってきていた。「もう、聡……また綾ちゃんに迷惑かけてたの?」「違うよ、ちょっとからかってただけ」困ったように眉尻を下げる静さんが、私に「ごめんね」と両手を合わせた。私は笑って顔を横にふるけれど……。からかってただけ?!よく言う!と、飄々と言ってのける男を睨んだ。静さんが居ない時、しょっちゅう私に話しかけて食事だなんだと誘うくせに。それだけじゃない、他にもいろんな女の人とここへ来る。少し前には、休日の朝早い時間帯にショートカットの女性とやってきた。珍しい時間帯だな、と思っていると片山さんが言ったのだ。『あー……ありゃ、朝帰りかな』女性の細い腰を抱いて密着して入ってきた様子を思い出すと、腹が立って今すぐここでぶちまけてやりたいと思ってしまう。言わないのは、静さんが悲しむのがわかってるからだ。彼女と歩く時、この二人はそんなにベタベタくっついて歩いたりはしない。他の女の人とそんな風に歩いてると知ったら……傷つくに決まってる。カラコロとカウベルが鳴って、お客様かと思ったら一瀬さんがビニールの袋をぶら下げて入ってきた。カウンターに座る二人を見て、薄く微笑むと「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」と挨拶を交わしながらカウンターまで辿り着き、私は野菜の入ったビニールを受け取ろうと手を差し出す。「買い出しお疲れ様です」「いいえ。ホールお任せしてすみません」ビニール袋が手渡される瞬間、不意に顔が近づいて一瞬どくんと心臓が鳴った。「何もありませんでしたか?」小声でそう尋ねられても、妙に狼狽えてしまった私はただ瞬きをして「えっと、何も?」と大した返事もできなかった。何か、っていうのが何をさしているのかもよく理解できなくて。それでも一瀬さんは納得したのか、一度頷くと「何もないならいいです。すみませんが
last updateLast Updated : 2025-03-29
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3話 ピンクのバラの花束を《3》

私の表情が固まったことに片山さんが気付いたのか、ふっと我に返ったように目を見開いた。慌てて作業台から腰を離し取り繕うように言葉を繋ぐ。「……悪い、意地悪言うつもりじゃなかったんだよ。ただ、あんまり感情移入したら綾ちゃんがしんどいだろうって」「いいえ、本当のことだし」「余計なこと言った、ごめん」いつも揶揄するような言い方をしてもどこか優しい片山さんが、明らかに苛立ちを滲ませたことに私も少し驚いた。けれど、こうして私よりずっと背の高い人が素直に項垂れるのを見ると、怒る気もほんの少し傷ついたこともすぐに薄れてしまった。「大丈夫ですよ、ほんとのことだし」「ごめんって」笑顔で首を振って大丈夫だと言ったのに、片山さんは眉を下げ切なげに目を細めていた。「……まだ、『悠くん』のことが好きだったりすんの?」「えっ……」そんな表情で近づかれたら、私の失恋でそんなに心配をかけてしまってるのかな、と私の方が申し訳なくなってしまう。私は俯いて、片山さんの問いかけの答えを探した。悠くんのことは今も好きだけど、それは本当に恋だったのかなと今になるとよくわからない。「好きですけど……恋とはもう、違うような気がします」静さんと話すようになってふと考えたことがある。苦しくても想い続けたり傍に居続けるなんて、私にはとてもできなかったし考えもしなかった。静さんの恋に比べて自分の気持ちはとても幼く、本当に恋だったのかとさえ思ってしまう。「自分でも、よくわからないですけど。悠くんの顔を見ても、もう割とへっちゃらだし」いつかまた、誰か好きになったら……その時に、今はわからないことも理解できるようになる、そんな気がする。だから今は案外前向きなのだと笑顔で顔を上げたら、思ったよりも近い距離に片山さんが立っていた。「……だったら、いいけど」急になれない雰囲気に飲みこまれて、後ずさりもできなかった。厨房の明りが片山さんの真後ろにあり、表情に陰りを作る。何もされているわけじゃないのにひどく威圧を感じるのは、目の前の人が急に「男の人」に見えたから。「静さんに感情移入しすぎて、失恋の傷も癒えてないだろうにって思ったら……」心配でさ。と小さく付け足した片山さんを見上げて、私は言葉を探すこともできず身動き一つできなかった。片山さんの手が近づいてきて、ああ、大きな手だなって
last updateLast Updated : 2025-03-31
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