柔らかなマットレスがわずかに沈み込み、雅之の荒い息遣いが部屋に響いた。押し殺したような声で、彼は囁いた。「目が覚めても、知らんぷりなんてさせないからな」しかし、里香はそんな言葉などまるで聞いておらず、ただ夢中で雅之に唇を重ねた。雅之の声はくぐもり、低く囁くように続いた。「何も言わないなら……承諾したとみなすぞ」そして、一夜が明けた。翌朝。里香がゆっくりと目を開けると、見慣れない天井が目に飛び込んできた。瞬間、胸がざわついた。不安が押し寄せ、反射的に身を起こした。布団がずり落ち、ひやりとした空気が肌をかすめた。視線を落とした瞬間、全身から血の気が引いた。昨夜の記憶は、祐介が「お前に薬が盛られた」と言ったところで途切れている。それ以降のことは、まったく思い出せない。でも……この状況が、すべてを物語っている。私、祐介と関係を持ったの……?嘘……嘘でしょ……!?昨日は、祐介の結婚式だったのに!絶望が胸を締めつけた。震える指先でシーツを強く握りしめたまま、里香は呆然と前を見つめ、ぽろぽろと涙を零した。どうしよう。どうすればいいの?そんなとき、突然、部屋の扉が開いた。耳慣れた低い声が、静寂を破った。「……何泣いてるんだ?」息を呑んだ。入ってきたのは雅之だった。驚きに固まり、涙に濡れたままの瞳で彼を見つめた。雅之は、ベッドの上で項垂れる里香をじっと見つめ、深く眉をひそめた。そして、迷いなく彼女のそばに歩み寄った。そんなに嫌、だったのか?僕が相手だったことが、そんなに受け入れられない?僅かに、雅之の唇が引き結ばれた。里香はゆっくりと瞬きをし、目の前の雅之の凛々しい顔立ちを見つめた。そして、震える声で、やっとの思いで言葉を紡いだ。「あなた……なの?」雅之は静かに里香を見つめ、慎重に言葉を選びながら、小さく頷いた。「昨夜、急なことで、病院に運ぶ余裕がなかった。だから、ここに連れてきた。でも辛いなら、僕を責めてもいい」胸の奥が、ギリッと痛んだ。それでも、今の雅之にとって、里香以上に大切なものなんて、何もない。里香が泣くと、胸が苦しくなる。突然、里香が雅之にしがみついた。震えながら、小さな体を彼の腕の中に押し込み、声を上げて泣き出した。 雅之は一瞬
「うん……」里香は伏し目がちに答えた。雅之が部屋を出て行った後、里香は寝間着を手に取り、着替えてからベッドを降り、洗面所へ向かった。戻ってくると、雅之が朝食をテーブルに並べていた。里香は疑わしげに尋ねた。「このマンションもあなたの持ち物?」雅之は軽く頷いた。「ただの一つに過ぎないよ。二宮グループに近いから、遅くなった時に泊まることがある」300平米のワンフロア。シンプルなデザインで、植物もなく、全体的に冷たい雰囲気だった。里香はダイニングテーブルに座り、スプーンを手に取ってお粥をすくった。「気に入った?」雅之が尋ねると、「まあまあ」と里香は答えた。「後でここをお前の名義にしておくよ。これからは自由に使える」雅之はさらりと言った。里香は彼を一瞥したが、何も言わなかった。雅之の薄い唇がわずかに弧を描いた。「どうした?感動しすぎて言葉も出ない?」「……」この男、何も言わなくても勝手に話を作り上げる!本当に面倒くさい性格だ!黙々と朝食を済ませると、二人はホテルへ向かった。到着すると、ホテル全体が緊張感と重苦しい空気に包まれていた。エレベーターの扉が開くと、周囲の人々が一斉にこちらを見た。彼らの表情には明らかな不満が浮かんでいた。「どういうこと?この二人、昨夜帰ったの?じゃあ、なんで私たちは閉じ込められてたの?」「そうだよ!なんであの二人だけ出られて、私たちはダメなの?」「一体何が起こったの?説明してくれない?」昨夜のダンスパーティーに参加していたのは、ほとんどが名門の御曹司や令嬢たちだった。一晩中閉じ込められていたせいで、皆の顔色は最悪だった。「里香ちゃん!」かおるが階段を駆け下りてきて、里香を見つけるとすぐに駆け寄った。「一体何があったの?」昨夜、かおるは里香を探しに行こうとしたが、すでに先に帰ったと聞かされた。しかし、かおる自身は止められて出られなかった。その時、かおるは月宮に事情を尋ねた。しかし、月宮は「俺はずっと君と一緒にいた。何があったかなんて知るわけない」と答えた。確かにその通りだった。かおるの疑念は深まるばかりで、直感的に何かが起こったと感じた。それも、里香に関することだと。祐介に事情を聞こうとしたが、相手が忙しくて会えなかった。仕方なく里香に電
女性は悔しそうで、不服そうな表情を浮かべていた。里香は冷ややかに彼女を見つめた。一晩閉じ込められていたというのに、まるで動揺している様子もなく、後ろめたさすら感じていないようだった。そこで、祐介に目を向けた。「持ってきて」祐介は部下に視線を送った。部下がノートパソコンを持ってきて、画面には監視カメラの映像が映し出された。再生ボタンを押すと、映像にはっきりと映っていたのは、彼女が会場に入った瞬間からずっと里香に視線を向けていたことだった。里香がどこへ行っても、彼女は少し距離を取りながらついていき、何かを待っているようだった。そして最後に、里香がジュースを一杯飲む。すると約五分後、彼女は何気ないふりをして里香のそばを通り、心配そうに声をかけた。監視カメラの音声はかなりクリアで、雑音は処理され、女性の声だけがはっきりと聞こえた。彼女は里香を上の階で休ませるように誘導していた。里香が部屋へ向かうと、彼女はすぐにスマホを取り出し、メッセージを送った。そこで映像は終わった。女性はその映像を見て、一瞬動揺したような表情を見せたが、それでも歯を食いしばって言い張った。「たったこれだけの映像じゃ、何の証拠にもならないわ。私がこの子を見ていたのは、ただドレスが素敵だと思ったからよ。それの何が悪いの?」少し間を置いて、さらに続ける。「それに、この子に興味を持っていたのは私だけじゃないでしょ?どうして私がやったって決めつけるの?」すると、部下が女性のスマホを取り出し、こう言った。「メッセージはきれいに削除されていたが、システムには痕跡が残っていた。我々の調査によると、君は『彼女は上に行った』というメッセージを送っている」女性はその言葉を聞くと、みるみる顔が青ざめていった。「そ、それは……」「まだ言い逃れするつもりか?」祐介は冷たく言い放った。そして、視線をもう二人に向けた。「彼女がここまで慎重に動いていたのに、俺が突き止めたんだ。お前たちも逃げ切れると思うなよ?」二人はビクッと震え、互いに視線を交わした。すると、給仕係の男が震える声で言った。「わ、わかりました、話します!」皆の視線が彼に集中する。彼は喉をゴクリと鳴らし、話し始めた。「弟が病気で、お金が必要だったんです。そんな時、ある人から金を渡されて、
目の前のこの女性こそが、今回の事件の鍵を握っている。もしかすると、黒幕の正体を知る唯一の人物かもしれない。だが、直接的な証拠がない以上、どうすることもできなかった。会場の責任者は震えが止まらず、額には冷や汗がびっしょりだった。「喜多野さん、二宮さん、私は本当に何も知りません! こんな大事な場で、そんなことを許すはずがないじゃないですか!」かおるは冷笑しながら言った。「でも、実際に起こったわよね? そんなこと言って、自分で恥ずかしくならない?」マネージャーは何度も頷きながら、必死に訴えた。「私の責任です。私の無能さゆえです。責任は取ります! でも、本当に何が起こったのか分からないんです! 私は潔白です!」かおるは腕を組み、女性と責任者を交互に見つめた。「二人とも関係ないって言うけど、じゃあこれはどうやって起こったの? まさか、ただの偶然とでも?」女性は祐介を一瞥し、ゆっくりと口を開いた。「もしかすると、二宮夫人と喜多野さんの間に何かあったんじゃないですか? ちょうど昨夜は人が多くて、隠れるには絶好の機会だったでしょう? だって、客室に長いこと閉じ込められていたんですから、何があってもおかしくないですよね?」「よくもそんなことが言えるわね!」かおるはその言葉を聞くなり、勢いよく彼女の頬を平手打ちした。「あんた、実際に見たの? その場にいたの? それとも、最初から何が起こるか知っていたから、こんなことを堂々と言えるの?」女性は頬を押さえ、顔色を曇らせた。「そんなの、実際に見なくても分かるでしょ? 喜多野さんと二宮夫人が知り合いなのは、みんな知ってることよ! 二人の関係が曖昧なのも!」かおるは怒りが収まらず、もう一度手を振り上げたが、里香がそれを止めた。「やめて。こんなことしても、何も解決しないわ」かおるは悔しそうに拳を握りしめたが、里香の言葉に従い、二歩後ろに下がった。里香は女性の前に立ち、怒りに満ちた彼女の目をじっと見つめながら、淡々と言った。「誰の指示を受けているのかは知らないが、どうやら私を狙っているみたいね。だったら、直接私の前に出てきたらどう? こんな陰湿なやり方ばかりしてると、まるで下水道に潜むネズミみたい。どんなに表向きは立派でも、本質は卑しいままよ」女性は顔を引きつらせ
大久保はその言葉を聞いて、信じられないというように目を大きく見開いた。「どうしてそんなことを知ってるの!」雅之はまるでバカを見るような目で彼女を見つめ、冷たく言い放った。「お前の素性を調べるのが、そんなに難しいと思うか?」その瞬間、大久保の顔から血の気が引き、全身の力が抜けたように呆然と前を見つめた。終わった……もう、何もかも終わったのだ。どんなにしらを切っても、「認めなければ大丈夫」と思っていた。そうすれば、自分も家族も無事でいられるはずだった。でも、雅之は想像をはるかに超えて恐ろしい存在だった!家族は、あの人の手の中の駒になり得るのと同じように、雅之の手の中の駒にもなり得る!雅之は大久保の表情をじっと見つめ、淡々と言った。「どうやら、もう覚悟は決まったようだな」大久保は目を閉じ、しばらく沈黙した後、ようやく口を開いた。「話します……どう罰されようと構いません。でも、どうか家族だけは助けてください。彼らには一切関係ないんです……」雅之は静かに言った。「答え次第だな」大久保は彼を見つめ、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。「二宮社長……お願いします……どうか、家族だけは……」雅之の端正な顔には、冷笑が浮かんでいた。「僕は慈善家じゃない。あんたが泣いたところで、情けをかけるような甘い人間だと思ってるのか?もし答えに価値がなければ、大久保家全体を冬木から消し去ることになる」雅之の低く響く声は、ゆっくりとした口調ながらも、圧倒的な威圧感を伴って部屋全体に広がった。まるで空気が凍りついたかのように、室内の温度が一気に下がった。そんな中、かおるはこっそり里香に近づき、小声で囁いた。「これが……いわゆる『俺様系』ってやつ?」里香は口元を引きつらせながらかおるを見た。「月宮だって、こんな感じじゃない?」「アイツ?」かおるは鼻で笑った。「あいつはただのバカよ」里香:「……」一方、大久保の体は小さく震え、目には恐怖の色が浮かんでいた。雅之は祐介と同じように扱いやすい相手だと思っていたが、彼は予想以上に冷酷で、容赦がなかった!その時、祐介が口を開いた。「とりあえず白状しろ。あんたの家族のことは、できるだけ助けてやるから」雅之は冷ややかに彼を一瞥し、皮肉を込めて言った。「へぇ、ここに『偉大な慈善家
大久保は目を大きく見開いた。「あなた……」この男、一体何者なんだ?こんなことまで調べ上げるなんて!それよりも、もっとゾッとしたのは、雅之が黙って自分の言い訳をずっと聞いていたことだった。きっと心の中で軽蔑して、嘲笑ってたんだろうな。まるで顔を思い切り叩かれたような気分で、全身の力が抜けてしまった。「もう少しマシなこと言えるかと思ったけど、どうやら期待外れみたいだな」雅之はスマホをしまい、里香の方を向いた。「もう行くか?」里香は一部始終を見て、驚きながらもすぐに頷いて、祐介を見た。「祐介兄ちゃん、お疲れ様。この件は私がちゃんと調べるから、みんなを先に帰して」祐介は複雑そうな表情で里香を見つめ、雅之に目を移した。「一体どこまで調べたんだ?」雅之は一瞬彼を見て、「そんなに多くはないさ。ただ、誰がやったかは分かった」祐介:「……」なんて皮肉な言い方だ!かおるも目を丸くし、すぐに駆け寄って尋ねた。「誰なの?」雅之は一瞥して言った。「なんでお前に教えなきゃいけない?」「だって私は里香の大親友よ!結婚式の時、彼女をエスコートするのは私なんだから、里香の手をお前に渡すかどうか、私に決定権があるのよ!」「へぇ」雅之は淡々と返した。「それでも教えない」「ちょっと!このクソ野郎!」かおるは怒りを抑えきれず、雅之に指をさして罵声を浴びせた。里香は呆れたように言った。「私が知ってるんだから、あなたもすぐに知ることになるわ。そんなに焦らなくてもいいでしょ」かおるは急に冷静になり、「そうね。じゃあ、情報はすぐに共有してよ」里香は頷き、雅之を見た。「他に何か分かった?」雅之はじっと里香を見つめ、唇を動かしたが、結局何も言わなかった。里香は一歩近づき、「歩きながら話そう」雅之は里香の後をついて、ホテルを後にした。人々はすでに解散し、さっきまで騒がしかった会場も今は静まり返っていた。昨夜の件はその場で説明がついたため、変な噂が広まることはなかった。車の中で、里香は雅之をじっと見つめ、続きを待った。雅之は少し意地悪にじらしてみようとしたが、里香の真剣な視線に圧倒されて、つい口を開いた。「そんなに見つめられると、キスされるのかと思っちゃうよ」里香は少し驚いた様子で言った。「昨夜もう十分したでしょ?まだ足りな
里香は一瞬表情が止まり、手を引き抜いて言った。「雅之、約束を守ってほしい」雅之の瞳に一瞬、失望の色が浮かんだ。薄い唇を一文字に結び、里香の美しいけど冷たい顔をじっと見つめた。昨夜はあんなに激しく絡み合っていたのに、どうして今はこんなに冷たくなってるんだ?まさに、あの言葉通りだ。終わったら、もう他人扱いか。車内の空気が一気に冷え込み、二人とも黙ったままだった。里香は昨夜あまりよく眠れず、カエデビルに戻ると聡に休みを申し出て、そのままベッドに横になった。でも、心の中に引っかかるものがあって、どうしても落ち着いて眠れなかった。結局、うとうとしながら30分ほど寝ただけで、目を覚ました。仕事場に向かい、中に入ると、ちょうど星野がオフィスから出てきたところだった。彼の顔色はあまり良くなさそうだ。「何かあったの?」里香は何気なく声をかけた。星野は里香を見て、一瞬目をそらし、「何でもないよ。後で社長と一緒に出張に行くんだ」と言った。「出張?」里香は驚いた。聡は今まで一度も出張なんてしたことがない。それに、まだ冬木にしっかり根を下ろしてもいないのに、もう他の地域の顧客と連絡を取るつもりなの?聡って、そんなに仕事熱心だったっけ?「うん」と星野は短く答え、何か言いたげな表情を浮かべた。里香はまばたきして、「どうしたの?」と尋ねた。その時、聡の声が聞こえた。「星野くん、荷物をまとめて。すぐに出発するよ」星野は言いかけた言葉を飲み込み、「何でもない」とだけ言い、里香の横を通り過ぎて自分のデスクに戻っていった。里香はその後ろ姿を見ながら、何かおかしいと思った。変じゃない?聡が近づいてきて、里香の少しやつれた顔を見て言った。「休みを取ったんじゃなかった?顔色が悪いよ。無理して出勤しなくてもいいのに」里香は答えた。「家にいても休めないから、仕事してたほうがいいの。忙しくしてれば、夜はぐっすり眠れるし」聡は頷いて、「それも一理あるね。私と星野君は出張で1週間ほどいない。その間、デザインの仕上げに集中して。他のことは気にしなくていいから」と言った。「分かった」里香は頷いた。それでも、後任のデザイナーを選ばないといけない。冬木を離れる前に、しっかり人選を決めておかないと。デスクに戻り、パソコンを開いてデザインの作業を
雅之のからかうような口調に、里香はぐっとこらえ、さらに冷たい口調で言った。「来ないなら、それでいいわ」「行くよ、絶対行く。お前が誘ってくれたなら、たとえ今飛行機に乗ってても機長に命じて引き返してでも、絶対お前と一緒にご飯食べるから」雅之は即答した。その態度、まさに本気だ。里香の腕には一瞬、鳥肌が立った。そして彼に向かって言った。「バカみたいなこと言わないで、そんなこと言ってると雷に打たれるわよ」そう言うと、すぐに電話を切った。雅之は軽く笑いながら、切られた電話を見つめた。それから閉まりかけている機内のドアを一瞥し、口を開いた。「フライト、キャンセル」フライトアテンダントは目を丸くして驚いた。前の席に座っている桜井はすぐに振り返った。「社長、今回アメリカに行くのは戦略提携の話し合いじゃないですか?ドタキャンされたら、相手が不満を抱くでしょう。そしたら、次に協力をお願いするのが難しくなるんじゃないですか?」雅之は冷たく答えた。「じゃあ、別の会社とやればいい」そう言い放ってから、ビジネスクラスの席を立ち去った。桜井:「……」もう助けてくれ!うちの社長、最近本当に気ままになりすぎてるよ!でも桜井も分かっていた。雅之に仕事を放り出させるような存在なんて、里香以外には絶対いないだろう。前は、口を開けば「興味ない」とか「好きじゃない」とか言ってたけどさ、どうだ?見事に手のひら返しだ!夜が深くなった頃、里香は食卓に座り、冷めかけた料理を見つめながら、美しい眉を少ししかめた。時計を見ると、すでに1時間が過ぎていた。どういうこと?来ないの?来ないなら、一言くらい知らせてくれてもいいのに。里香の表情はますます冷たくなり、スマホを取り出して、かおるに連絡し、一緒に夕食を食べようと思ったその時、インターホンが鳴った。里香は立ち上がり、ドアを開けに行くと、黒いコートを着た雅之がそこに立っていた。その中は深いグレーのビジネススーツで、同系色のネクタイまできっちりと締めていた。「遅れてごめん、途中で渋滞に巻き込まれちゃって」彼は美しい瞳で里香を見つめ、一言そう言うと、そのまま部屋に入ってきた。コートを脱いで、そのまま里香に渡した。里香は呆れながらも仕方なくそのコートを玄関口のハンガーにかけた。雅之がテー
月宮家の人々がこの知らせを聞いたとき、皆が怒り狂いそうになった。だが、月宮家には綾人という一人息子しかおらず、本当に彼を見捨てるわけにもいかないため、仕方なくかおるを受け入れることになった。そして今、月宮家では婚礼の準備が進められている。月宮はすべてを管理し、少しでも気に入らないところがあればすぐに修正させていた。かおるへの想いは日増しに強くなり、夢中になっているようだった。そのかおるの顔に浮かぶ甘い笑顔を無視して、里香は聞いた。「雅之を見かけた?」かおるは首を振った。「いないよ、会場にはいなかったの?でもさ、最近、雅之の存在感めっちゃ薄くない?里香のお父さんもお兄さんたちも毎日ずっとあんたの周りにいるし、雅之は入る隙ないんじゃない?」毎回、疎外されるような雅之の姿を思い出し、かおるはつい笑った。里香も笑いながら言った。「たぶん今は自分のことで忙しいんだろうね。落ち着いたらきっと会いに来てくれるよ」冬木。二宮系列の病院の病室内。正光が緊急処置を受けていた。雅之が駆けつけ、状況を尋ねた。付き添いの看護師が答えた。「先ほど若い男性が訪ねてきて、先生がその人と会ってから情緒が激しく不安定になったんです」雅之は眉をひそめた。「若い男性?顔は見たのか?」看護師は頷いた。「監視カメラに映っているはずです。いま映像を確認します」雅之は処置中の正光の様子を見つめた。全身がけいれんし、骨と皮だけのようにやせ細っており、どう見ても長くは持ちそうになかった。すぐに監視映像が再生された。画面に映った人物を見て、雅之の表情が次第に冷たくなっていった。まさか、彼だったとは。二宮みなみ!本当に死んでいなかったのか!雅之はすぐさま人を使って彼の行方を探させた。が、それはさほど時間もかからずに見つかった。みなみはちょうど療養所から出たばかりで、二宮おばあさんのところに顔を出していた。夜の帳が降りた頃、雅之は外に現れた高身長の人影を見つめた。十数年ぶりの対面、お互いにまるで別人のようになっていた。雅之は手にもっていたタバコをもみ消し、そのまま歩み寄った。二人の男が向き合い、じっと見つめ合う。みなみは不意にくすっと笑い、言った。「兄さんを見たら挨拶くらいしろよ、まさくん」雅之は冷たい目で彼を見た。
そう言って手を振ると、沙知子はそのまま中へと押し込まれた。リビングにいた人たちの視線が、一斉に彼女の方へ向いた。沙知子の顔色はみるみるうちに青くなり、次第に真っ白に。何とも形容しがたい、みっともない表情を浮かべていた。秀樹は鋭い視線で彼女を睨みつけ、「どこへ行くつもりだったんだ?」と問いかける。沙知子の隣にはスーツケースがひとつ、ぽつんと置かれていた。彼女は答えず、顔色はさらに悪くなっていく。そんな緊張感の中、桜井が口を開いた。「瀬名様、こちらで調べた結果、当時のホームで起きたゆかりによるなりすまし事件の全容が明らかになりました。こちらをご覧ください」そう言って一枚の資料を差し出し、秀樹の前に置いた。中身に目を通した秀樹は、沙知子が当時、安江のホームを最初に見つけた人物だったことを初めて知った。彼女はずっと前から、里香――つまり本当の娘が誰なのかを知っていた。それにもかかわらず、幸子と手を組んで、ゆかりを娘としてすり替えたのだ。「バン!」資料を読み終えた秀樹は、怒りに満ちた表情で沙知子を睨みつけた。「前から知ってたんだな?なぜそんなことをした?」沙知子は視線を彼に向け、ポツリと言った。「私は長年あなたのそばにいて、自分の子どもを授かることもできなかった。それなのに、あなたはいつも娘のことばかり。私の気持ちなんて、どうでもよかったんでしょ?」そう言って、沙知子はどこか虚しげに笑った。「亡くなった奥さんのことを忘れられないっていうなら、なんで私と結婚したの?最初から私なんか巻き込むべきじゃなかったのよ!」秀樹の表情には、複雑な感情が浮かんでいた。沙知子が長年、瀬名家で抱えてきた想いを思うと、多少は気の毒にも感じた。けれど、彼女がしたことは、決して許されることではない。静かに、しかしはっきりとした口調で彼は言った。「離婚しよう。まとまった金は渡す。どこへでも行けばいい。過去のことも追及しない」沙知子は冷たく笑い、「その方がいいわね」と吐き捨てるように言った。その後、瀬名家は正式に里香の身元を公表し、錦山の上流階級を招いて盛大な宴を開いた。里香は特注のドレスに身を包み、秀樹と腕を組んで優雅に登場した。その美しさに、場にいた誰もが息をのんだ。ふと里香が秀樹を振り返り、その顔に刻
里香は彼の様子を見て少し戸惑いながらも、「それでは、親子鑑定をなさいますか?」と控えめに提案した。「いや、そんな必要はない。君こそが、私の娘だ。見てごらん……お母さんにそっくりじゃないか!」秀樹はすぐさま首を振ると、足早に一枚の写真の前へと歩み寄り、その中の女性を指さした。里香も近づき、じっと写真を見つめる。見覚えのない顔だったが、確かに自分とよく似ているとわかる。特に目元の優しく穏やかな雰囲気が、自分とそっくりだった。里香は軽く唇を噛み、秀樹の方に向き直ると、静かに口を開いた。「やはり一度、きちんと確認しておきましょう。あとで揉め事にならないようにするためにも」するとそのタイミングで、賢司が口を挟んだ。「父さん、やっておいたほうがいいよ。これで今後、誰にも何も言われなくなるんだから」景司は何も言わず、ただ複雑な表情のまま、じっと里香を見ていた。里香とまっすぐ向き合う勇気がなかったのだ。あれほど、何度も雅之との離婚を勧めたのは、自分だった。しかも、その理由は、ゆかりを守るためだった。どれほど愚かだったのか……今になって痛いほど思い知らされる。そんな景司をよそに、里香が賢司の方を見やると、賢司はにこりと笑って言った。「初めまして。賢司だ。俺のことは『お兄さん』って呼んでくれればいいよ」里香は少し戸惑いながらも、小さく唇を動かして「お兄さん」と呼んだ。その瞬間、いつもは厳しい表情の賢司の顔に、初めて柔らかな笑みが浮かんだ。「うん」不思議な感覚だった。ゆかりから十年以上「兄さん」と呼ばれてきたのに、心が動くことは一度もなかった。むしろ、どこかで疎ましく感じていた。けれど、今。里香に「兄さん」と呼ばれた瞬間、煩わしさなんて一切なく、むしろ心地よささえ感じた。これが、血のつながりってやつなんだろう。とはいえ、手続きはやはり必要だった。すでに瀬名家のみんなが里香を家族として受け入れていたとしても。鑑定結果が出るまでには3日かかるということで、里香はその間、瀬名家に滞在することになった。秀樹は里香をひときわ大事にし、細やかな気配りで接してきた。彼女の好みを一つひとつ聞き出して、特別に部屋まで用意したほどだ。賢司も、里香の好きそうな物をたくさん買い揃えて帰ってきた。景司は最後
「じゃあ、本当の妹は、いったいどこにいるんだ?」景司は魂が抜けたように、ぽつりと呟いた。賢司は冷静な表情で言った。「ゆかりは、あの時たしか安江のホームから来たよな。親子鑑定の結果もあって、妹ってことになったけど……今思えば、髪の毛を出してきたのは彼女自身だった。もしかしたら、あれは彼女のものじゃなかったのかもしれない」「ってことは……本物の妹は、まだ安江のホームにいる可能性があるってこと?」景司は兄をまっすぐ見つめた。「ああ、そういうことになるな」賢司は静かに頷いた。ただ、時は流れ、今の安江ホームは当時とはすっかり様変わりしていた。あの頃の子どもたちはみんな成長し、今や全国に散らばっている。探すのは簡単なことじゃなかった。そんな中、なぜか景司の脳裏にふと、里香の顔が浮かんだ。そのときだった。使用人が扉をノックして入ってきた。「賢司様、景司様。二宮雅之と名乗る方が旦那様にお目通りを願っております」雅之?あいつが、なんでここに?景司の表情が固まる。頭に浮かんだのは、ゆかりがしでかした一連のことだった。まさか、詰問しに来たのか?階段を降りてきた秀樹が、「通せ」と静かに命じた。「かしこまりました」5分後、二人の人物が現れた。雅之は背が高く、整った顔立ち。仕草のひとつひとつから気品が漂い、見ただけで只者ではないと分かる男だ。そして彼の隣に立つ女性――上品で美しく、化粧っ気はなくリップグロスだけ。それがかえって、澄んだ印象を際立たせていた。秀樹はその女性――里香の顔を見た瞬間、凍りついたように動きを止めた。似ている!あまりにも似すぎている!この娘、美琴に瓜二つじゃないか!思わず興奮して、里香の前に歩み寄ると、震える声で尋ねた。「あなたは……?」里香は口元に穏やかな笑みを浮かべ、「瀬名さん、初めまして。小松里香と申します」と丁寧に名乗った。「里香!?なんで君がここに?」景司の驚きが部屋に響いた。秀樹が鋭い目で息子を睨んだ。「どういうことだ。お前、彼女と面識があるのか?」「あ、ああ……」景司が答えたその瞬間、賢司が軽くため息をつき、突然弟の頭を掴んでぐいっと向きを変えた。「ちょ、なにすんだよ!」景司は不満そうに身を捩った。賢司は手を離しながら、
「わ、わたしは……」ゆかりは全身を震わせながら、声が出なかった。目の前にこれだけの証拠を突きつけられては、もう言い逃れなどできるはずもない。もはや瀬名家の娘ではなく、お嬢様でもない。こんな状況で、これからどうやって生きていけばいいの?「父さん、この鑑定書の出所がはっきりしていません。もう一度きちんと検査し直すべきです。誰かが細工した可能性もありますから」賢司が冷静な口調で提案した。秀樹はゆかりの顔を見つめたまま、ふいに視線を逸らして「任せる」とだけ答えた。「わかりました」元々、賢司は冷静で厳しい性格だ。景司のようにゆかりを甘やかすようなことはなかった。そんな彼が、ゆかりが偽物であると知り、さらには数々の悪行まで明らかになった今、彼女に対する態度は一層冷たくなるのも当然だった。こうして手配が済むと、ゆかりは監禁されることとなった。景司は放心したようにソファへ崩れ落ちた。「ゆかりが妹じゃないなら、本当の妹は一体どこに……」秀樹はじっと壁にかかった一枚の写真を見つめていた。着物をまとった気品ある女性が、満面の笑みを浮かべてカメラの前に立っている。「美琴……間違った子を連れてきてしまったよ。ゆかりは、僕たちの娘じゃなかった。どうか……本当の娘がどこにいるのか、教えてはくれないか」沙知子はその様子を見つめながら、強く拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込みそうなほど、力を込めて。嫁いできて十年。いまだに秀樹の心には入れず、息子たちからも距離を置かれている。本当に、報われない人生だわ……親子鑑定の再検査には時間がかかる。その間、瀬名家では本物のお嬢様探しが始まっていた。その動きはすぐに、雅之と里香の耳にも入った。「鑑定結果が出るまで三日かかるそうだ。錦山まで行くつもりか?」と雅之が尋ねると、里香は軽く頷いた。「うん、ちょっと見てこようかな」三日あれば、錦山をゆっくり見て回れる。その頃には、瀬名家がどう動くかも見えてくるだろう。錦山へは飛行機で数時間。着いたときには、ちょうど夕暮れどきだった。雅之は里香を連れて、名物料理をいろいろ食べ歩いた。以前は好んでいた焼きくさややドリアンなどには目もくれず、辛いものや甘いものばかりを選ぶ彼女の様子に、雅之は思わず笑いながらからかった。「どうした
秀樹はソファに深く腰を下ろし、目を閉じたまま、何も言わなかった。賢司は沙知子の方をちらりと見た。継母である彼女は、瀬名家の中ではいつも遠慮がちで、小さな声で「それは……」と口を開いた。「黙れ!」その瞬間、秀樹が怒声を上げ、リビングの空気は一気に重く沈んだ。賢司はただ事ではないと直感し、それ以上は何も言わず、そっと隣のソファに腰を下ろして静かに待った。30分後、玄関から再び物音がして、景司とゆかりが前後して部屋に入ってきた。中に足を踏み入れた途端、景司は空気の異様さに気付き、「父さん、兄さん、何があったんだ?」と問いかけた。後ろにいたゆかりは、おどおどと様子を伺い、不安げな表情を浮かべていた。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。秀樹がようやくゆっくりと目を開け、「全員揃ったな。なら、これを見ろ」と低く言った。彼はテーブルの上の書類を指差した。最も近くにいた賢司がそれを手に取り、目を通していくうちに、その表情が次第に険しくなっていく。「……本当に、お前がやったことなのか?」読み終えた賢司は、鋭い視線でゆかりを見据えた。ゆかりは顔面蒼白になり、「え?な、何の話?兄さん、何言ってるのか全然わからない……」と声を震わせた。「これは……一体どういうことだ?」景司が近づき、書類を手に取って見た瞬間、顔つきが凍りついた。ゆかりを振り返り、怒りをにじませて睨みつけた。「放火、誘拐、薬物による冤罪工作……ゆかり、お前、冬木に残ってこんなことしてたのか!」その言葉に、ゆかりはすべてがバレたと悟った。だが、認めたら終わりだ。すべてを失う。「な、何のこと?何かの誤解じゃない?兄さん、いつも私のこと一番可愛がってくれてたじゃない……私がそんなことする人間に見える?」ゆかりは涙をポロポロこぼしながら、すがるように訴えた。景司は、苦しげに言った。「俺も、あの電話を聞いてなければ、もしかしたら信じてたかもしれない。でもな、雅之を陥れようとするお前を見て、もう……何を信じればいいのかわからなくなった」「土下座しろ!」その時、秀樹の怒声がリビングに響き渡った。ゆかりの膝がガクガクと震え、その場に崩れるように跪いた。涙に濡れた顔で秀樹を見上げる。「お父さん、信じて。本当に私じゃないの!誰かが私をハメようと
「もしもし、どうすればいいのよ?全部失敗したじゃない!雅之に指まで折られたのよ!あなたの計画、全然使いものにならなかったわ!」怒りを押し殺して話してはいたが、ゆかりの声は明らかに震えていた。少しの沈黙のあと、相手は冷たく言った。「自分の無能を人のせいにしないでくれる?」「……なにそれ!」ベッドから飛び上がりそうな勢いで声を荒げたゆかりだったが、それでもこの人物に頼るしかないと思い直し、なんとか感情を押さえて訊ねた。「じゃあ、これからどうするつもり?」「ここまで使えないなら、もう協力する意味もないね。あとは勝手にやれば?」それだけ言い残して、相手は一方的に電話を切った。「ちょ、ちょっと!もしもし!?」ゆかりは青ざめた顔で慌ててかけ直したが、すでに電源が切られていた。ひどい。本当に、ひどすぎる!そのとき、不意に背後から声がした。「誰と電話してた?」ドアの方から聞こえてきたのは景司の声だった。「に、兄さん……なんで戻ってきたの?」驚いたゆかりは、思わずスマホを床に落とし、動揺を隠しきれないまま景司を見上げた。景司はゆっくりと部屋に入ってきた。ドアの外で、彼女の会話をすべて聞いていたのだ。雅之に指を折られたという事実も、そこで知った。「お前、雅之を陥れようとしたのか?」ベッドの脇に立ち、不機嫌そうな目で彼女を見下ろしながら、床に落ちたスマホを拾い上げる。そして画面に表示された番号を確認した。記憶力に優れた彼は、その番号をすぐに覚えた。「この相手、誰だ?雅之を罠にかけろって言ったのか?お前が何度もしつこく俺に、雅之と里香を離婚させろって言ってきたのも、この人物の指示か?」畳みかけるように問い詰められ、ゆかりの顔から血の気が引いていった。「そんなこともういいじゃない。ねぇ、錦山に帰ろ?冬木にはもういたくないの。全然楽しくないし……」甘えるような声で、いつもの手を使ってごまかそうとする。けれど、もうそんなやり方は通用しなかった。「雅之を怒らせたから、逃げるように帰りたいんだろ?……ゆかり、本当に自分勝手すぎるよ」景司は失望を隠さず、彼女をまっすぐに見つめた。ちょうどそのとき、彼のスマホが鳴った。画面には「父さん」の文字が表示された。「父さん?」電話を取った景司の声は
雅之は里香にスマホを返し、彼女が電源を入れてメッセージを確認する様子をそっと見守っていた。ちょうどそのとき、かおるから電話がかかってきた。「もしもし、かおる?」「里香! どういうつもり!? 一人で行くなんて! 最初に一緒に行こうって約束してたでしょ!? なんで黙って出て行ったの? 私のこと、本当に友達だと思ってるの?」かおるの怒鳴り声がスマホ越しに響き渡り、どれほど怒っているかが痛いほど伝わってくる。里香はスマホを少し耳から離し、かおるが一通りまくしたてるのを待ってから、慌てて優しく謝った。「ごめんね、確かに行くつもりだったんだけど、結局行けなかったの。今、外で朝ごはん食べてるんだけど……一緒にどう?」「場所送って!」再び怒りの声が飛んできて、電話は一方的に切られた。里香は鼻をこすりながら、困ったように苦笑いを浮かべた。雅之は優しい眼差しを向けながら、頬にかかった彼女の髪をそっと耳にかけて言った。「君がこっそり出ようとしてたって聞いて、なんか……妙に納得しちゃったんだけど、なんでだろうね」里香はじっと彼を見つめて言った。「たぶん、平等に扱ってるって思ってるからでしょ。でもさ、逆に考えてみて? あなたが特別じゃないから、平等に扱ってるのかもしれないよ?」雅之は言葉を失って完全に黙り込んだ。ほどなくして、かおるが到着した。勢いよく店に入ってきて、里香と雅之が並んで座っているのを見るなり、顔をしかめた。「これ……どういう状況?」里香は説明した。「全部誤解なの。ゆかりが仕組んだことだったけど、結局うまくいかなかったの」かおるは状況を理解した様子だったが、雅之への視線は冷たいままだ。「こいつが他の女と一線を越えそうになったからって、何も言わずに街を出ようとして、それで説明されたからってすぐ許して考え直したってわけ? あなた自身の意思は? 最低限の線引きとか、ないの?」かおるはじっと里香を見つめ、怒りを通り越してあきれたような顔をしていた。里香はかおるの手をそっと握り、穏やかに微笑んで言った。「かおる……いろいろあって、本当に疲れちゃったの。だから、自分にもう一度チャンスをあげたいって思ったの。もしかしたら、本当に変われるかもしれないって……ね?」「ふんっ」かおるは鼻で笑ったものの、
朝の街はまだ車もまばらで、里香はしばらく歩いたあと、タクシーを拾った。「空港までお願いします」そう淡々と告げながら、窓の外に目をやる。視線の奥には、どこか生気のない静けさが宿っていた。同じ頃。徹は、遠ざかる里香の背中を見つめながら、雅之に電話をかけた。「小松さん、出て行きました。向かったのは……たぶん空港かと」渋滞に巻き込まれることもなく、里香が空港に到着したのは、まだ午前七時前だった。一番早い便のチケットを買い、そのまま保安検査場へ向かった。「里香!」ちょうどそのとき、背後から聞き覚えのある声が響いた。一瞬だけ動きが止まり、目を閉じてから、何事もなかったかのように振り返った。少し離れた場所に、雅之が立っていた。整った顔立ちには、冷ややかな表情が浮かんでいる。「どこへ行くつもりなんだ?」ゆっくりと彼が近づいてきた。「ずっと、お前のこと探してたんだ。やっと帰ってきたと思ったら……またすぐにいなくなるのか?もう僕なんて、いらないのか?」雅之は、じっと里香の目を見つめながら言葉を重ねた。里香は静かに答えた。「私たち、もう離婚したのよ。そういう誤解を招くような言い方はやめて」「でも、昨日の夜、僕に会いに来ただろ?間違いなく、会いに来てくれた。そうだろ?会いたかったんじゃないのか?」その言葉に、里香のまつ毛がかすかに震えた。気づいていたんだ。里香は深く息を吸い込み、静かに口を開いた。「私が会いに行ったってわかってるなら、私がこの街を出ていく理由も、きっとわかるはず。でもね、そもそも離婚したら出ていくつもりだったのよ」「あの女は、ゆかりだ。僕の飲み物に何か混ぜて、お前そっくりの格好をして、僕をあの個室に誘い込んできた。でも、途中で気づいた。何もしてない。本当に、何もしてないんだ。里香、あのとき、どうして中に入ってきてくれなかった?もし来てくれたら……僕、きっとすごく嬉しかった」雅之は、言葉を一つひとつ噛みしめるように、まっすぐに彼女を見つめながら言った。戸惑いが、里香の顔に滲む。そんな彼女の手を、雅之がそっと握った。「本当に、何もしてない。何もなかったんだ。お願いだ、僕のこと、捨てないで」その瞬間、心の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出すように、里香のまつ毛が震え、こらえていた涙が頬を