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第463話

Author: 似水
里香は心が乱れていた。

ほどなくして、バスルームから水の流れる音が聞こえ、ようやく里香は少しホッとした。次第に力を抜き、自分を抱きしめた。

眠りに落ちそうなとき、隣のベッドが少し沈み込み、雅之のひんやりした水気を帯びた体が近づき、しっかりと抱きしめてくれた。

里香は微動だにせず、抵抗もしなかった。

雅之は彼女の肩に軽くキスをし、「愛してる、今夜もゆっくり休んでね」

里香はビクッと睫毛を震わせたが、何も言わなかった。

翌日、里香が出勤すると、星野がすでにオフィスに到着していた。彼は清潔な白いシャツを着ており、全身から明るく爽やかな雰囲気が漂っていた。まるで光を照らすかのように、まぶしさに満ちていた。

小池と話していた星野は、里香を見つけるとすぐに席を立ち、彼女の方へ歩いてきた。「小松さん、おはようございます!」

里香はほのかな笑みを浮かべた。「私たち、もう同僚なんだから、普通に『里香』って呼んでいいわ」

星野は少し照れて鼻をこすりながら、「里香、ですね」

「うん、おはよう」里香は軽く頷いた。

小池はデスクに座りながら、淡々と言った。「結婚してなければ、まるでカップルみたいに見えるわよね」

星野はその言葉に眉をひそめ、「そんなこと言わないでください。僕たちはただの友達です」

小池は鼻で笑い、明らかに信じていない様子だった。

里香は彼女を無視し、星野に「仕事の流れに慣れてきた?」と聞いた。

星野は頷き、「以前一緒に仕事をしたプロジェクト担当者に連絡を取り、今後の案件がないか聞いてみようかと。目標を達成したいです」

「頑張って」里香は言った。

「頑張ります!」

星野の目はキラキラと輝いていた。

聡がやってきたとき、彼は少し疲れた様子であくびをしながらオフィスに入ってきた。そして、入る前に星野を見て、「星野君、ちょっと来てくれる?」と言った。

「分かりました」

星野は聡の後について、彼のオフィスへと入っていった。

聡は「午後、食事会があるんだ。君も一緒に行こうか。プロジェクトの担当者と顔合わせしておくといい」と言った。

星野は頷き、「わかりました、社長」

聡は微笑み、「君には大きな可能性がある。頑張ってくれ」

星野は少し照れ臭そうに笑った。

聡は彼を見ながら心の中で思った。「彼の気持ちが里香に向いていなければな......」
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    月宮は、その言葉を聞いて動きを止めた。「何のためにかおるを探そうとしてるんだ?」雅之の声は低く、冷え切っていた。「何も知らないなら、それが一番だ。だが、もし知っていたら……」月宮の口調も鋭くなった。「雅之、たとえかおるが何か知っていたとしても、手を出すのはやめろ。里香がどう思うかはともかく、まず俺が許さない」雅之はゆっくり目を閉じ、それから静かに言った。「かおるを連れてこい」そう言い終えると、一方的に通話を切った。今、唯一の望みは、かおるが彼女の行き先や事情を知っていること。もし何も分からないのなら、自分が何をしでかすか分からなかった。かおるは仕事中だった。スマホを肩と耳の間に挟みながら、キーボードを叩き続けた。「何?仕事中なんだけど」月宮の声が返ってくる。「少し時間取れないか?話がある」「今は無理。電話で済むなら聞くけど、直接会う話なら退勤後にして」上司にこき使われてクタクタのところに、勤務時間中の呼び出しなんて冗談じゃない。だが、次の言葉に指が止まった。「里香のことだ。それでも出られないか?」かおるはスマホを握り直し、声が鋭くなった。「どういう意味?里香に何があったの?」月宮が静かに答えた。「里香が姿を消した」「なっ!?」かおるは椅子を勢いよく引き、立ち上がった。バッグを掴むと、迷わずオフィスを飛び出した。「いつから!?どうしていなくなったの!?」歩きながら矢継ぎ早に問い詰めると、ちょうどその時、オフィスから上司が顔を出した。「おい、かおる!どこ行くつもりだ!?まだ勤務時間中だぞ!早退なんて許さないからな!いいか、勝手に抜けたら給料から差し引くぞ!」振り返りざま、きっぱりと言い放った。「どうぞご自由に。差し引いた分、好きに使って燃やせば?もう辞めるから!」唖然とする上司を無視し、エレベーターに飛び乗った。里香より大切なものなんて、あるわけない!仕事なんて、無くなったらまた探せばいい!電話の向こうで月宮が怪訝そうに尋ねた。「今の、何?」「どうでもいいわ!」息を整える間もなく、すぐに本題に戻る。「早く詳しく話して!里香、どうしていなくなったの!?」「俺も聞いたばかりだ。雅之がつけた護衛をわざと巻いて、変装して出て行ったらしい」

  • 離婚後、恋の始まり   第839話

    彼女のヒステリックな叫びにも、誰一人として応じる者はいなかった。頭がどうにかなりそうだった。騙された。そして今、杏の姿どころか、自分の手足すら思うように動かせず、挙句の果てに視界さえも奪われている。どうすればいい?これから、どうすれば……茫然、自失、自責、後悔。そんな負の感情が渦を巻き、心を押し潰していく。苦しさに耐えきれず、その場に崩れ落ちるように膝をつき、腕で自分の体を抱きしめた。全身が震え、止まらなかった。新と徹はショッピングモールを何周も回ったが、どこを探しても里香の姿は見つからなかった。胸騒ぎがした。何かあったに違いない。二人の直感は、そう告げていた。新はすぐに雅之へ報告し、徹は聡に連絡を入れた。監視システムをハッキングし、里香の行方を追うために。雅之の表情は険しく、目の前のモニターを睨みつけた。映し出されていたのは、里香が女性用トイレに入っていく姿。だが、十分も経たないうちに、中から出てきたのは、全身をすっぽりと覆った女だった。雅之の目が鋭く光った。「画面を切り替えろ。その女を追え」「了解」聡は即座に指を動かしながらも、心の中では思わず問いかけていた。里香……何をしてる?どうして、兄貴がつけた人間を巻こうとするんだ?どこへ行くつもりなんだ?映像は次々と切り替わり、女の姿を追い続ける。やがて彼女はモールを抜け、郊外へと向かっていった。聡が眉をひそめた。「ここから先、監視カメラの範囲外です。一時的に位置が把握できません」雅之が低く呟いた。「スマホにGPSを仕込んである」「えっ?」聡が驚いたように目を見開いた。「スマホに追跡機能を?バレたらどうするつもりだったんですか?」雅之は冷ややかな視線を向けた。「今、それを言うタイミングか?」「……っ、了解です」聡はすぐに切り替え、里香のスマホの位置を特定する作業に取りかかった。「いた!」画面を指差し、声を上げた。「ここです!」雅之はその座標を見据え、すぐさま命じた。「車を用意しろ」「すでに準備できてます、すぐに出発できます」桜井の返答とともに、数台の車が発進した。40分後、車はある小さな一軒家の前で停まった。桜井が部下を率いて突入し、しばらくして険しい表情で戻っ

  • 離婚後、恋の始まり   第838話

    里香の視界はずっと閉ざされたまま。頼れるのは、聞こえてくる音だけだった。何も見えない不安が、じわじわと心を沈めていく。相手は一言も発さず、その正体はまるで霧の中。なぜ、何も話さないのか?もし、それが自分に身元を知られたくないからだとしたら――相手は、自分の知っている誰かということになる。だとしたら、一体誰……?車が走る間、必死に考えを巡らせながら、何度も声をかけてみた。けれど、まるで存在を無視するかのように、相手は一切応じようとしなかった。次第に言葉を発する気力も尽き、やがて車は停まった。誰かに腕を掴まれ、外へと連れ出された。地面は平坦で、しばらく進むと、一瞬だけ石畳のような感触が足裏に伝わった。ここは、一体どこなの?どれほど時間が経ったのか分からない。ふいに、誰かが手首をそっと握った。「小松さん、これから私がお世話をします」落ち着いた、中年女性の声だった。「あなたは誰?ここはどこなの?」里香は、すかさず問い詰めた。「これからは、私のことを陽子とお呼びください。何か必要なことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」だが、それ以上の問いには、一切答えようとしなかった。理不尽な沈黙に、押し寄せる無力感。「ねえ!もうここに来たんだから、黙ってないで!杏に会わせてくれるんじゃなかったの!?彼女はどこ!?」怒りが頂点に達し、思わず叫んだ。すると、唐突に耳元で電子音が響いた。「杏は無事だ。君がここで大人しくしている限り、彼女に危害は加えない」「ふざけないで!」怒りのままに、声のする方へ振り向き、叫んだ。「何が目的!?一体誰なの!?なんでこんなことをするの!?」しかし、返答はなく、代わりに足音だけが遠ざかっていく。行かせちゃダメ!このままじゃ、何も分からないままになってしまう。「待って!行かないで!」声の方向へ向かおうとするが、目隠しのせいで何も見えず、思うように動けない。その瞬間、陽子に腕をしっかりと掴まれた。「小松さん、お部屋にご案内します。ゆっくり休んでください」言うが早いか、強引にその場から連れ出された。「放して!離して!」必死に抵抗するが、手が縛られた状態ではどうすることもできない。階段を上がり、部屋へ入ると、陽子が口を開いた。「今から

  • 離婚後、恋の始まり   第837話

    ここ数日、雅之は毎日メッセージを送っていたが、杏の行方は依然として掴めなかった。里香もまた、眠れぬ夜を過ごしていた。動画の注目度は以前ほどではないものの、まだトレンドランキングに残っていた。その日、里香は書斎で図面を描いていた。突然、スマホの着信音が鳴り響く。画面を見ると、見知らぬ番号からの電話だった。一瞬迷ったものの、意を決して通話に出た。もしかしたら、裏で糸を引いている人物がついに動き出したのかもしれない、そんな予感がした。「もしもし、どちら様?」冷静を装いながら問いかけた。しかし、返ってきたのは電子音で加工された声。性別も、感情も読み取れない。「杏に会いたいか?今、私の手の中にいる」「誰なの?杏はどこにいるの?」「今から住所を送る。お前ひとりで来い。雅之には知らせるな。あの二人のボディーガードも連れてくるな。もし誰かにバレたらその場で杏を殺す。そして、すべて雅之の罪にしてやる。今も動画の話題はそこそこ続いてるだろ?こんなタイミングで『雅之が杏を虐待して死なせた』なんて話が流れたら、どうなると思う?」里香は勢いよく立ち上がった。「分かった、行く」相手はそれ以上何も言わず、通話を切る。すぐに、スマホにメッセージが届いた。送られてきたのは郊外の住所。市街地から外れた、人気のない場所だった。胸の奥で不安が渦巻く。雅之に話すべきか?でも、あの脅しが頭から離れない。杏を危険に晒すわけにはいかないし、雅之に殺人犯の汚名を着せることも絶対にできない。決意を固め、里香は最低限の荷物をまとめ、すぐに家を出た。まずはショッピングモールに立ち寄り、人ごみに紛れてトイレへ向かった。そこで服を着替え、帽子とマスクをつけ、顔を隠した。これなら、新や徹にも気づかれないはず。そのままレンタカーを借り、郊外へ向かった。目的地に着くと、そこには一軒家のような独立した建物があった。しばらく様子をうかがっていたが、意を決して中に入ることにした。「……誰かいますか?」慎重に足を踏み入れながら、声をかけた。家は二階建てで、異様なほど静まり返っていた。不気味な雰囲気が漂っている。里香は入り口に立ち、もう一度呼びかけた。「誰かいないの?」しかし、返事はない。これ以上深入りすべきではないかもしれな

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