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第6話

作者: ルビーベイビー
夜になって村人たちが立ち去った後、母の部屋から険しい言い争いが漏れ聞こえてきた。

「生き霊程度と聞いていたのに、化け物が出るとは聞いておらんかった。あいつ真昼に弱っていなかったら、私の命も危なかったぞ」

高僧の声に怒りが滲んでいた。

「でもあの山伏は追い払えました。これからは近在で祈祷となれば、ご住職様の独壇場。それに、私の血で化け物を誘き出さなければ、あなたの祈祷もお手上げでしたでしょう?」

なるほど。姉が豹変したのも、全て仕組まれていたのだ。

身も凍る思いがした。こんな時でさえ、母は薬姫の値のことばかり。家族の死など、紙切れほどの重みもなかったのか。

このままでは私も薬姫に仕立て上げられる。

それなら山奥で野垂れ死にした方がまし。死んでからも玩具にされるような運命だけは......

覚悟を決めて荷物を背負い、抜け出そうとした瞬間。

戸を開けると、母と高僧が立っていた。

「何処へ行く」

「あ、その......」

高僧の目が光った。母の振り上げた手を制しながら、 「手荒なことはよせ。まだ使い道がある」

「分かっていますとも。脅しただけです。この子で一山当てなきゃならないんですから」

母の声は冷たく、目は異様な光を帯びていた。

「山伏の術は侮れん。始末はつけねばならぬが、我らはここを離れるわけにはいかん」

高僧は静かに言い放った。

母が頷いた。「聞こえただろう、みさき。あの男を消せば、今までのことは帳消しだ」

帳消しだなんて、全部あんたたちの仕組みだろう。

だが、ふと閃いた。これが逃げ出すチャンスかもしれない。

すぐに頷くのは怪しまれる。人を殺めることに躊躇うふりをした。

「殺さなければ、お前が殺される。それに、あの男はお前を騙した。本当に村から出してくれると思うのか?姉にも同じ手を使ったのよ」

拳を握り締めては開いた。ただ逃げ出したいだけなのに。産まれた時から、自分の意思など持てなかった。

でも、今がチャンス。母の差し出した短刀を受け取り、覚悟を決めた。

玄関を出ようとすると、奥から高僧の声が響いた。 「逃げ足は無駄だ。薬姫の気が染みついている。どこへ行こうと、その匂いで追い立てられるぞ」

足を止め、「逃げる気などありません」と答えた。

血の跡を辿って、ようやく川辺で山伏を見つけた。

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    夜になって村人たちが立ち去った後、母の部屋から険しい言い争いが漏れ聞こえてきた。「生き霊程度と聞いていたのに、化け物が出るとは聞いておらんかった。あいつ真昼に弱っていなかったら、私の命も危なかったぞ」 高僧の声に怒りが滲んでいた。「でもあの山伏は追い払えました。これからは近在で祈祷となれば、ご住職様の独壇場。それに、私の血で化け物を誘き出さなければ、あなたの祈祷もお手上げでしたでしょう?」なるほど。姉が豹変したのも、全て仕組まれていたのだ。 身も凍る思いがした。こんな時でさえ、母は薬姫の値のことばかり。家族の死など、紙切れほどの重みもなかったのか。このままでは私も薬姫に仕立て上げられる。それなら山奥で野垂れ死にした方がまし。死んでからも玩具にされるような運命だけは......覚悟を決めて荷物を背負い、抜け出そうとした瞬間。 戸を開けると、母と高僧が立っていた。 「何処へ行く」「あ、その......」 高僧の目が光った。母の振り上げた手を制しながら、 「手荒なことはよせ。まだ使い道がある」「分かっていますとも。脅しただけです。この子で一山当てなきゃならないんですから」 母の声は冷たく、目は異様な光を帯びていた。「山伏の術は侮れん。始末はつけねばならぬが、我らはここを離れるわけにはいかん」 高僧は静かに言い放った。母が頷いた。「聞こえただろう、みさき。あの男を消せば、今までのことは帳消しだ」帳消しだなんて、全部あんたたちの仕組みだろう。だが、ふと閃いた。これが逃げ出すチャンスかもしれない。 すぐに頷くのは怪しまれる。人を殺めることに躊躇うふりをした。「殺さなければ、お前が殺される。それに、あの男はお前を騙した。本当に村から出してくれると思うのか?姉にも同じ手を使ったのよ」拳を握り締めては開いた。ただ逃げ出したいだけなのに。産まれた時から、自分の意思など持てなかった。 でも、今がチャンス。母の差し出した短刀を受け取り、覚悟を決めた。玄関を出ようとすると、奥から高僧の声が響いた。 「逃げ足は無駄だ。薬姫の気が染みついている。どこへ行こうと、その匂いで追い立てられるぞ」足を止め、「逃げる気などありません」と答えた。血の跡を辿って、ようやく川辺で山伏を見つけた。 私を見る

  • 薬姫異聞   第5話

    ああ、そうか。両親が頻繁に外出していた理由、ようやく分かった。私が山伏の手先になっていることを知っていて、ずっと黙っていたのか。 きっとその時から、高僧と通じていたんだろう。「嘘を言うな!死霊が血の匂いに狂うことなど、皆も知っているはず。騙されるな!」山伏は取り乱した。だが村人の目は既に疑いの色を帯び始めていた。母は私を引き寄せ、背中を強く摘んだ。 痛みで涙が溢れた。母は更に追い打ちをかけるように、山伏の悪事を次々と暴いてきた。 山伏は母を指差したまま、言葉を失っていた。その時、姉が鋭い悲鳴を上げ、突然襲いかかった。 動揺した山伏の動きが鈍る。高僧が素早く身を翻し、次々と札を姉の体に貼り付けた。姉の動きが止まった。「これで一時的に安全だ。火で焼こうものなら、更なる変化を引き起こすところだった。間に合って良かった」 高僧は額の汗を拭いながら告げた。「さすがです」「ありがとうございます」 村人たちは高僧を取り囲んで感謝の言葉を口々に述べた。形勢不利と悟った山伏は逃げ出そうとしたが、機敏な村人に取り押さえられた。「何年も俺たちを騙していたんだな。こいつを叩きのめせ!」 群衆が取り囲み、殴る蹴るの暴行を加えた。 山伏は頭を抱えて悲鳴を上げ、すぐに血を流して気を失った。若い衆が村はずれに放り出した。「死霊を中へ運べ。私が対処する」 高僧の指示に、誰も姉に近づこうとしなかった。私は後ずさったが、母の鋭い目が追った。平手が振り上がるのを見て、急いで姉の体を抱え上げた。 異形の姿より、人の方が恐ろしい。私が先陣を切ると、数人が手伝いに来てくれた。「紅白の幔幕を外し、葬儀の準備を。朱塗りの棺を用意し、死霊を納める。数日で対処するから、もう誰も傷つけはしない」すぐに、姉が客を取らされた部屋は葬儀の間と化した。父の遺体は高僧の確認を経て、既に山に葬られていた。高僧は三本の線香を姉の棺の前で焚き、私と母に何度も頭を下げさせた。 姉の触手が意思を持つかのように、ゆっくりと引っ込んでいく。その光景に、高僧は深いため息をついた。

  • 薬姫異聞   第4話

    しかし姉は何もせず、しばらくして立ち去った。翌朝、村は騒然となった。 家の前には大勢の村人が松明を手に集まり、姉を火あぶりにすると叫んでいた。吉田の死体が玄関先に横たわっていた。胸が裂け、噛みちぎられた腸が零れ落ちていた。他にも数体、この数日間姉の客となった男たちの遺体が並んでいた。「化け物だ!この目で見た!腹が裂けて、牙が生えていた!吉田さんを喰い殺したのも、あいつの親父を殺したのもあの化け物だ!」 誰かが群衆の中から叫んだ。私は黙って門を開けた。「違う!焼くべき化け物は、別にいるのだ!」 母の声が群衆の後ろから響いた。人々が振り返った。「何を言ってんだ。死体が玄関先にあるじゃないか。それに不思議だったんだ、なぜ葬らないで村中を穢してたのか。もう山伏様を呼びに行かせた」 とある未亡人の叫び声。この数日、客足を奪われて恨みがあるらしい。「ふん、自分が稼げないくせに、死人に八つ当たりか」母は鼻で笑い、「山伏なんて要らない。もう高僧様をお連れしたわ」近郷で名高い高僧は、普段なら村人が頼めるような存在ではない。 高僧は髭を撫でながら母の後ろから現れ、玄関先で立ち止まると「これは酷い」と嘆息し、「怨念が強すぎる。一体何をしたのだ」と母に問いかけた。母が答える前に、姉の部屋から激しい音が響き始めた。獣が檻から逃れようとするように、鍵が打ち付けられる。群衆が息を呑む中、扉が粉々に砕け散った。 姉の胸から触手が狂ったように伸び、まるで操り人形のように体を持ち上げる。血走った目が睡りを破られたように光り、裂けた肉の間からは無数の牙が不気味な輝きを放つ。「妖怪だ!」 村人たちは四散した。「何者の仕業か。この地に穢れをもたらすは!」 高僧が人々の前に躍り出る。懐から豆を取り出し、姉の前に撒いた。姉は足を止め、まるで恐れるように後ずさった。 次に黒犬の血を姉に浴びせた。鋭い悲鳴が響く。触手が暴れ狂う。血が肌を焼く音がして、白煙が立ち上る。「何をする!」 山伏が駆けつけ、驚きの声を上げる。「黒犬の血などつかえば壊れて......」 言葉を途中で飲み込んだ。高僧は待ち構えていたように声を上げた。「不思議に思っていた。なぜこの村に死霊が。邪法で屍を操る者がいたとは。皆の衆、こ

  • 薬姫異聞   第3話

    目を覚ますと、村人たちが家に詰めかけ、父の異様な死に様について口々に噂していた。 母は毛布にくるまったまま震えていた。誰が聞いても、姉の異変については頑なに黙り通していた。私が目を覚ましたのを見ると、母は黙ったまま私を引きずるように山伏の屋敷へ連れて行った。「来ることは分かっていた」 山伏は足を組んで涼しい顔をしていた。「あんた、何も言わなかったじゃないの!あんな化け物になるなんて!人を......食うなんて!」 母の歯が震えている。「時期尚早に殺したのはお前たちだ。死してなお穢されれば、怨霊になるのも当然。死ねば良い」 山伏は冷徹に言い放った。「分かったわ」母は私を突き出した。「この子を連れて行って。あの化け物も好きにして。お金さえくれれば何でも......」「お母さん!」 まさか私を差し出すなんて。「黙りなさい!」 母の眼には恐怖の色が浮かんでいた。「みさきは引き取ろう。それが化け物を始末する代償だ。金など一文も渡さんがな」 山伏の言葉に、母は飛び上がった。「冗談じゃない!娼館に売り飛ばしたって金になるのよ!」「構わんさ。私が手を出さねば、今夜にはお前も死体だ。金を使う命があればの話だがな」母は唇を噛みしめ、考え込む様子もなく立ち去った。 「そんな術が使えるのはあんただけじゃないわ。人を騙すことしかできない似非山伏め。地獄へ堕ちるがいい!」母が去ると、山伏は私を見つめ「よくやった」と言った。「騙したわね。姉が......化け物になって、人を喰うなんて!」 押し殺した声で叫んだ。「お前が訊かなかっただけさ。願い通り、村を出られる。お前は金を稼ぎ、姉はお前の血の匂いを辿って両親の部屋へ......お前にも責任があるのさ」「騙されたのよ......」怒りに震えながら立ち上がった。「もう手伝わない。自分の力で出て行く」「お前に何ができる?」山伏は嘲笑う。「ただの女だ。字も読めん。嫁に行くか、薬姫になるしかない。母親も怖さを忘れれば、また目が眩むだろうよ」足が止まって、体も揺れた。 その通りだ。「それに」山伏は不敵に笑う。「お前が姉を殺したと知れば、母親はどうする?金に目がない女だ。殺されるだけなら上等。村の独り者どもが、また楽しみが増えるというもの。安心しろ、私も顔を

  • 薬姫異聞   第2話

    夜更けまで眠れなかった。先ほどの出来事が頭から離れず、布団の中で落ち着かない。ここから逃げ出さなければ。死にたくない。姉のように、死してなお穢されるなんて......闇を切り裂く悲鳴が、静寂を破った。私の背筋が凍った。音は隣の両親の部屋から。布団から抜け出し、おずおずと襖に手をかけた。「何かあったの......?」掠れた声が漏れた。答えは、闇の向こうから響く不気味な音。骨を砕くような、嫌な音が耳に残った。手探りで廊下の灯りを点けると、血の糸が両親の部屋へと這うように伸びていた。半開きの襖に近づくたび、その音は大きくなった。あの薬湯特有の妖しい香りが、鼻をついた。つい先ほど自分が浸かっていた、あの忌まわしい薬湯の匂いだった。おののく手で襖を開けば、白い肌をした何かが父の上にのしかかっていた。母は布団にくるまったまま、棚の脇で気絶している。「姉さん......?」震える声を絞り出すと、白い影がゆっくりとこちらを向いた。廊下から漏れる僅かな光に照らされ、姉の姿が浮かび上がった。全身を血に染め、虚ろな瞳は人形のよう。まるで魂が抜け落ちたかのように。「大丈夫なの......?」その言葉を後悔した。姉の足元には、父の無残な死骸が横たわっていた。引き裂かれた腹から内臓が零れ落ちていた。恐怖で声も出ない私の目の前で、姉の額から腹まで、一筋の血線が浮かび上がった。そして、目を疑うような光景が広がった。姉の体が縦に裂け、両側には無数の牙が並び、まるで異形の口のよう。枯れ枝のような触手が、裂けた体から蠢きながら這い出してきた。その奥には、生々しい肉色と血に染まった内壁が見えた。姉の白い肌とのあまりの対比に、吐き気を覚えた。一瞬の静寂の後、姉が襲いかかってきた。触手を振り乱しながら、まるで獲物を追う獣のように。悲鳴を上げて逃げ出すも、その怪物は疲れを知らなかった。あっという間に部屋の隅に追い詰められた。「やめて......私のせいじゃないの......」崩れ落ちた私の上に、異形の姿が覆い被さった。触手が素肌を這い、粘つく液を垂らした。甘ったるい薬湯の匂いが、吐き気を誘った。胸元に開いた二つの目。血管の浮いた眼球が私を見つめ、漆黒の瞳に映る自分の歪んだ顔。腐臭を帯びた吐息が顔に降りかかり、意識

  • 薬姫異聞   第1話

    これのどこが葬式だろう。死んでもなお、姉を解放してやれないのか。涙で顔を濡らしながら、次々と部屋に入っていく独り者たちを見つめていると、異様に飾り立てられた部屋に入っていく彼らの姿に、背筋が凍るのを感じた。「こりゃたまらねぇ。生きてるみてえだ」村の五十男の吉田が真っ先に部屋に入った。出てきた時、舌なめずりをしながら、札束を父の手に押し付けた。「そりゃそうよ。毎晩薬湯に浸からせたのも、死んでからも瑞々しい体になるためだもの」母は声高に言った。周りの連中に聞こえるように。吉田が最初の客となって以来、他の独り者たちもそわそわし始めた。父と母は焦る様子もなく、入り口に腰掛けて、不気味な笑みを浮かべながら客たちを待っていた。きっと、奴らは我慢できないはず。だって両親は、奴らの食事に薬を紛れ込ませた。量は少なめだが、効き目は確かなもの。「くそ、我慢できねぇ」二人目、三人目と、欲望に目を潰された連中は、姉が死体だということすら気にも留めなかった。三日経っても、姉の部屋への列は途切れなかった。こっそり部屋を覗いてみると、死んでから三日とは思えないほど姉は美しかった。頬は桜色に染まり、肌は雪のように白く、むしろ生前より艶やかになっていた。けれど、姉の姿が異様に変わっていくほど、私の心は恐怖に蝕まれていった。だって、姉が毎日強いられてきた薬湯に、次は私が......「みさき、湯加減がちょうどいいわよ。早くお入りなさい」母がこんな甘ったるい声を出すときは、決して良いことがない。まるで、姉の薬湯を手伝わせた時と同じ声色。「嫌です......怖いです」私は首を振った。バチン!母の平手が頬を打った。「図に乗るんじゃないよ。お前みたいな役立たずが、ご飯食べて屁こいて無駄飯食らってばかりで。恩返しの一つもできないってのかい」「嫌!姉さんみたいになりたくない!」私は頬を押さえて泣き叫んだ。「お前の望みなんか知ったことか。大人しく聞かないと、お父さんの鉄拳で分からせてやるからね」母の目が鋭く光った。玄関に立て掛けてある父の鉄の棒を思い出し、思わず体が震えた。あれで叩かれると骨まで痺れる。まだ生々しい傷跡に触れた。言うことを聞かなければ、もっと早く死ぬことになる。どっちみち死ぬなら..

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