佳奈は少し戸惑っていた。裕子が橘おばあさんと知り合いだったなんて、考えたこともなかった。それに、裕子はもともと甘いものが苦手で、むしろアレルギーに近い反応を見せていた。そんな人が、どうして橘おばあさんの作るお菓子が好きなんて言えるのか。二人の会話に、その場の空気が一瞬凍りついた。結翔がすぐさま近づいて、橘おばあさんの手をそっと取った。「おばあさま、また人違いしてますよ。この子は佳奈です。あなたの外孫じゃありません」その言葉に、橘おばあさんはようやく自分の失言に気づいた。涙に潤んだ目で佳奈を見つめながら、こう言った。「美桜がいなくなってから、体調を崩してね……治った頃には、よく人を間違えるようになってしまったの。綾乃を抱いて美智子って呼んだりもして。佳奈、どうか責めないでおくれね」その言葉を聞いた佳奈の胸に、ずしんと重い痛みが走った。橘おばあさんの悲しみと、その境遇が痛いほど伝わってくる。二十年以上も大切に育てた孫が裏切り者で、母親がその死の元凶かもしれない。佳奈は小さく微笑んで、そっと首を振った。「大丈夫ですよ。おばあさまの体が元気になってくれれば、それでいいんです」佳奈が何も疑わなかったことで、橘おばあさんは内心ひどく安堵した。目元を少し赤くしながら、佳奈の手をぎゅっと握った。「佳奈、これから私にいっぱい甘えてくれないか?」そのまっすぐで温かい眼差しに、佳奈は断ることができなかった。もしそれでおばあさんの心が少しでも癒えるなら、彼女は喜んで応じるつもりだった。佳奈はにっこりと微笑んでうなずいた。「小さい頃から外祖母がいなくて、祖母にもあまり好かれてなかったんです。だから、祖父母と孫の特別なって、よく分からないの。もしおばあさまが私を好きでいてくれるなら、それは私にとって、すごく幸せなことです」その言葉を聞いた橘おばあさんの目から、とうとう抑えきれない涙がこぼれ落ちた。佳奈のこれまでの人生を思って、胸が締めつけられる。本来なら、大切に大切に育てられるはずの子だったのに。母に冷たくされ、藤崎家でも居場所がなくて……橘おばあさんは佳奈をぎゅっと抱きしめ、その頭を何度も撫でながら、声を震わせて言った。「もう大丈夫。これからは私がついてる。何も怖くない。赤ちゃんを産ん
彼の問い詰めに対し、橘お婆さんは悔しそうに歯を食いしばった。「彼女が誰だろうと、あんたには関係ないわ。私がどれだけ甘やかそうが、あんたに口出しされる筋合いはないの。あんたが結翔の父親ってことで今回は大目に見てるけど、美智子にあんなことしておいて、橘家が簡単に許すと思ってんの?」「ここはあんたを歓迎してないわ。さっさと出ていきなさい。出ていかないなら、今すぐ警備員呼んで叩き出すわよ!」清司も怒り心頭で箒を手にし、聖人に向かって振りかざした。「前にも言ったよな。うちの娘を悪く言ったら、俺は黙ってないって!俺が大事に育てたお姫様を、あんたごときが口汚く罵るなんて許せるか!」そう言い放つと、清司の箒が聖人の背中に当たった。痛みはさほどでもなかったが、屈辱感は半端じゃない。聖人は反撃しようとしたが、智哉の冷たい視線に圧され、思わず怯んだ。拳を握りしめながら、清司を睨みつけて言った。「覚えてろ!お前、俺の手にかかったらただじゃおかねぇからな!」それを聞いた智哉が冷ややかに言い放つ。「やれるもんならやってみろよ。生きて帰れたらな」聖人は歯ぎしりするほど悔しがりながら、結翔を指差して怒鳴った。「親父がぶたれてるってのに、一言も発さないとはな、結翔……あんたはほんっと親孝行だよ智哉と一緒になって、母親を監禁しやがって、今度は俺を閉じ込める気か?」結翔は無表情のまま言った。「佳奈に手を出すなら、その可能性もあるな」「はっ、また佳奈か。佳奈がそんなに大事かよ!智哉はあいつのために母親を閉じ込めて、お前も同じことをしようとしてる。いいさ……見てろ、いつか絶対に後悔させてやる!」そう吐き捨てて、聖人は一度も振り返らずにその場を去った。清司は怒りのあまり、肩で息をしていた。何度も何度も佳奈を罵倒され、そのたびに堪えるのは限界だった。そしてハクに向かって叫んだ。「ハク!あいつ、ママをいじめたんだ。少しこらしめてやれ」ハクはその言葉を聞くやいなや、ピンと立ち上がり猛ダッシュ。吠えながら聖人に突進していった。ズボンの裾にガブッと噛みつき、思いっきり引っ張る。聖人は驚いて慌てて逃げ出すが、走れば走るほど、ハクはますます勢いづいて追いかける。時折ジャンプして胸元に飛びつき、シャツに食らいついてはビ
橘お婆さまは嬉しそうに顔をほころばせた。「うちの佳奈は私の好みを覚えててくれたのね。なんて親孝行な子なの。さ、ちょっと注いでちょうだい」佳奈はお婆さまに一杯注いだ。その後、テーブルの他の人たちにも順番に注いでいく。最後に智哉に差し出そうとしたとき、よだれが出そうになって思わずごくりと喉を鳴らした。小声で囁く。「ねえ、智哉……ちょっとだけ、ほんの一口だけ飲んじゃダメ?」智哉は即座に却下した。「ダメだよ。妊婦はお酒飲んじゃいけないって、忘れたの?そんなことしたら生まれてくる子が小さな酒飲みになるぞ」「一口くらい平気だってば。舐めるだけでもいいし、梅酒だよ?酔っ払うほどじゃないって」そう言いながら、彼女は舌で唇をぺろりと舐めた。その様子に、智哉は苦笑いして彼女の鼻を軽くつまんだ。そして酒を持ったグラスを彼女の唇の前に差し出した。「舐めるだけだぞ。一口でも多かったらお尻ぺんぺんだからな」佳奈は目を細めて嬉しそうに何度も頷いた。まず香りを嗅いでみる。どこか懐かしい匂い。まるで昔、どこかで飲んだことがあるような気がする。そして、舌先でひと舐め。芳醇な甘さと淡い酒の香りが舌を包み込んで、味覚を優しく刺激した。たった一口で、幼いころの記憶が一気に蘇った。彼女は驚いたようにグラスを見つめ、智哉の制止も聞かず、もう一口だけ飲んでしまった。冷たい酒が喉を滑り落ち、あとに残るのは深く香ばしい梅の香り。これは、彼女がずっと忘れられなかった、あの味。大切に心の中でしまい込んでいた、あの頃の思い出の味だった。佳奈の胸がぎゅっと締めつけられる。彼女は震える手で酒を清司に差し出し、目には抑えきれない感情がにじんでいた。「お父さん、このお酒、お兄ちゃんのお母さんが作ったやつだよ!」清司もすぐにピンときて、グラスを傾けて一口飲んだ。そして目を見開いて言った。「この味、間違いない!佳奈、晴臣って、まさか……あの九くんか?」晴臣が佳奈にしてきた数々の気遣いを思い出し、清司の中でその確信はどんどん強くなっていく。佳奈の目には涙が溢れた。「やっぱり、やっぱりお兄ちゃんと叔母さんは生きてたんだ……あんなに優しい人たちが、死んでるわけないよ。今すぐ病院に行って、ちゃんと聞いてくる!」そ
佳奈は一刻も早く晴臣親子に会って、真相を確かめたかったため、軽く返事をした。「はいはい、あなたが一番好きよ。早く行こう」そう言うと、智哉の手を引いて急いで車の方へ向かった。佳奈の慌てぶりを見て、智哉の目にはさらに深い嫉妬が浮かぶ。佳奈がドアを開けようとした瞬間、彼は彼女の身体をドアに押しつけた。端正な顔がすっと近づき、鼻先で頬を軽くなぞった。低く甘い声に、どこか拗ねた響きが混ざっている。「でもさ……今の君の頭の中は、あの幼なじみのお兄ちゃんでいっぱいなんだろう? 俺のことなんて、入る隙間もないんじゃないか?」智哉がそんな拗ねた表情を見せるので、佳奈はつま先立ちして、そっと彼の唇にキスをした。そして優しく囁いてなだめる。「彼のことはただの兄だと思ってる。私が愛してるのはあなただけ。ねぇ、旦那様、もうヤキモチ焼かないで、ね?」「旦那様」という一言が、まるで魔法のように智哉の体温を急激に上げた。彼の目から嫉妬の色は一瞬で消え去り、代わりに抑え切れない情熱が浮かぶ。唇の端を軽く持ち上げ、喉の奥で低く笑った。「ヤキモチを消すには、こんなキスじゃ足りないよ」そう言うと、彼はゆっくりと佳奈の柔らかな髪に指を差し入れ、後頭部を包み込むように引き寄せて、彼女の唇を深く奪った。一見甘く優しいキスだが、その中には明らかな強引さと独占欲が入り混じっていた。冷たい彼の唇が熱を帯びながら佳奈を圧倒し、彼女の唇を簡単にこじ開けていく。佳奈の意識はだんだん薄れて、杏色の瞳には次第に潤んだ水気が広がった。彼女は甘く掠れた声でつぶやいた。「智哉……」ようやく智哉が唇を放し、冷えた指先で佳奈の唇を撫でる。「いい子だから、もう一回『旦那様』って呼んで?」佳奈は目尻を赤く染め、子猫のような声で答えた。「旦那様……これでいい?」智哉はごくりと喉を鳴らし、彼女の唇にもう一度軽くキスを落とした。そして笑みを浮かべながら冗談めかして言った。「君がこんなに可愛いから、今すぐ食べたくなったんだけど、どうしよう?」佳奈は慌てて口を覆い、必死に首を横に振った。「もうダメだってば。みんなが見てるよ」智哉が振り返ると、確かに家族全員が映画でも見るように窓に張り付いて、二人をじっと見ていた。智哉は苦笑した。「気にす
晴臣はためらいながらも、そっと佳奈の頭に手を置いて、優しく髪を撫でた。唇には柔らかな笑みが浮かんでいる。「泣かないで。もうすぐ母親になるのに、相変わらず泣き虫だね」佳奈は手の甲で涙を拭いながら、潤んだ瞳で彼を見つめる。「この何年間、二人はどこにいたの?どうして連絡もくれなかったの?私、毎年夏休みも冬休みも、ずっとあの家であなたたちを待ってたんだよ。家が取り壊される時だって、私、工事の人とケンカしちゃったの。家を壊したら、あなたたちが帰る場所がなくなるって……」晴臣はその話を聞き、口元には微かな笑みを浮かべていたが、目元はとっくに涙で濡れていた。佳奈の頭を軽く撫でながら、かすれた声で告げる。「俺たちはあの頃、誰かに命を狙われてたんだ。君に連絡を取れば危険が及ぶと思って、敢えて遠ざかったんだよ。でも、その後、母の実家を見つけて、何とか落ち着いて暮らせたんだ。今回戻ったのは、母さんの過去を調べるためで、君を巻き込みたくなかったんだよ」佳奈は鼻をすすりながら問い返した。「本当?嘘じゃないよね?」「俺がいつ君に嘘をついた?」「だって、あの時だって、朝市に行くだけだって嘘をついて、そのまま戻ってこなかったじゃない」昔のことを思い出し、晴臣は小さく笑った。「君って、子供の頃から全然変わらないな。そんなに根に持つタイプだった?」彼が佳奈の額を軽くつつこうとした瞬間、その手首を智哉ががっしり掴んだ。低く冷たい声が響く。「再会するのは構わないが、ベタベタ触らないでくれる?」そう言うと、智哉は佳奈を自分の胸元に引き寄せ、露骨に嫉妬した声で告げた。「他の男のためにそこまで泣くなんて、君の夫はもう死んだとでも?」佳奈の涙を拭いながら、唇に何度もキスを落とすその仕草は、明らかな独占欲を示していた。それを見て、晴臣はつい笑いを漏らした。「随分とヤキモチ焼きなんだね。俺と佳奈にはまだまだたくさん子供の頃の思い出があるって言ったら、お前は怒り狂っちゃうかな?」穏やかな口調だが、明らかな挑発だった。智哉は冷たく晴臣を睨み返した。「子供の遊びなんて、誰もお前みたいに本気にしないんだよ。俺の妻はそこまで馬鹿じゃない。昔のことなんて、もうとっくに忘れてるよな、佳奈?」佳奈は唇を噛み、戸惑って二人を見つめた。この質
智哉が甲殻類アレルギーだということは、家族と本当に親しい友人しか知らないはずだ。奈津子がなぜそれを知っているのか。智哉は複雑な眼差しで奈津子を見つめた。「私が甲殻類アレルギーだってこと、なぜご存知なんですか?」突然そう尋ねられて、奈津子は一瞬戸惑った。自分はなぜ智哉のアレルギーを知っているのか?もしかして潜在意識に残っていた記憶?もしそうだとしたら、自分は昔、智哉とどんな関係だったのだろう。記憶を失ってもなお、彼のアレルギーまで覚えている理由は?奈津子は咄嗟に動揺を隠し、適当な理由をでっち上げた。「この前一緒に食事をした時に、佳奈のお父さんが話していたような気がして……」そう言われて智哉は半信半疑ながらも、軽く頷いた。「以前から佳奈をすごく気遣ってくださっていたようですし、退院されたら改めてお礼に伺います。その時はぜひ手料理を食べさせてください」それを聞いた奈津子は目を丸くして驚き、信じられないといった表情を見せた。「本当ですか?本当に佳奈と一緒にうちに来てくれるの?」「ええ、退院の日に佳奈を連れて伺いますよ」智哉がそう約束すると、奈津子はまるでお菓子をもらった子供のように瞳を潤ませ、感激の笑顔を見せた。「嬉しい!じゃあ、約束ですよ。今のうちにメニューを書き出して、晴臣に準備させておくわね」そう言って枕元からスマホを取り出し、嬉しそうにメモを打ち込み始める。その表情は心から幸せそうだった。智哉はその様子を眺めて、しばしぼんやりと考え込んでしまった。なぜ奈津子の姿を見ていると、いつも誰かの面影が重なってしまうのだろう。彼女とはまったく関係のない人物のはずなのに。自分の錯覚か、それとも何か知らない秘密があるのだろうか。病院を出てからも、智哉はずっとそのことを考えていた。佳奈は彼がぼんやりしているのを見て、まだ拗ねているのだと勘違いした。赤信号で止まった隙に、佳奈はそっと顔を近づけて智哉の頬にキスを落とした。彼女はいたずらっぽく笑いながら言った。「うわっ、高橋社長ったら、ヤキモチの匂いぷんぷんだよ」その言葉に、智哉はようやく我に返り、隣で得意げに笑う佳奈に目を向けた。彼は佳奈の顎を指で軽く持ち上げ、意味深な目でじっと見つめる。「仕方がないよ。佳奈が大好き
激しい夜の情事の後、藤崎佳奈(ふじさき かな)の肌には薄くピンクの輝きが差していた。高橋智哉(たかはし ともや)は彼女を腕に抱き、長い指先で彼女の繊細な顔立ちをなぞる。その魅惑的な目には、これまでにない優しい情が宿っていた。佳奈は激しく求められ、体は疲れ切っていたが、どこか満たされた気持ちがあった。しかし、彼女がまだその余韻に浸る間もなく、智哉の携帯電話が鳴り響いた。画面に表示された番号を見た瞬間、佳奈の心はざわめいた。彼女は智哉の腕にしがみつき、見上げるように言った。「取らないで、いい?」電話の相手は遠山美桜(とおやま みおう)だった。彼女は智哉にとって、手の届かない理想そのものだった。帰国してまだ1カ月も経たない間に、何度も自殺未遂を繰り返していた。佳奈はわかっていた。美桜がわざとこういう行動をとっているのは明らかだ。それでも、智哉は佳奈の気持ちなどお構いなしに、彼女を腕から払いのけた。ついさっきまでの甘い空気など感じられない冷たい態度で、ためらいなく電話を取った。佳奈には電話の内容までは聞き取れなかったが、智哉の瞳には嵐のような感情が揺らめき、外の夜の闇よりも深く見えた。電話を切ると、彼は素早く服を身に着けながら言った。「美桜がまた自殺未遂をしたらしい。様子を見てくる」佳奈はベッドの上に座り、彼をじっと見つめた。白く透き通った肌には、彼の愛撫の痕跡が鮮やかに残っている。「でも、今日は私の誕生日。あなた、私と過ごすって約束したよね。大事な話があるの」智哉はすでに服を着終え、冷たく鋭い目で彼女を見下ろした。「こんなときに、よくそんな我儘が言えるな。美桜は命の危機にあるんだ」佳奈が反応する間もなく、智哉は勢いよくドアを閉め、部屋を後にした。間もなく、外からエンジン音が聞こえてきた。佳奈は枕の下から小さな箱を取り出し、そっと中を開けた。中には二つのペアリングが入っている。彼女の目には涙が浮かび、視界が滲んでいく。三年前、佳奈が路地裏で悪党に囲まれた時、智哉は彼女を救うために太ももに怪我を負った。彼女はその出来事をきっかけに、彼を介抱することを自ら申し出た。そしてある夜、酒の勢いで二人は関係を持った。その後、智哉は彼女にこう尋ねた。「俺と付き合
その言葉を聞いた瞬間、智哉の表情は冷え切り、鋭い視線で佳奈をじっと見つめた。「俺は結婚しないって前に言っただろう。遊びが続けられないなら、最初から承諾するな」佳奈の目尻は薄紅に染まりながらも、静かに言葉を返した。「最初は二人の感情だったのに、今は三人になった」「彼女は君にとって何の脅威にもならない」佳奈は自嘲気味に微笑んだ。「彼女の電話一本で、あなたは私を放り出し、私が死にかけていることすら気にしない。智哉、どうすれば『脅威』になるのか教えてよ」智哉の瞳には怒りがはっきりと浮かんでいた。「佳奈、生理痛くらいでここまで大げさに騒ぐ必要があるのか?」佳奈は彼の言葉を聞き、静かに息を吸い込むと言った。「じゃあ、もし私が妊娠していたら?」「子供を理由にするのはやめろ。俺は毎回きっちり避妊している」その冷たく迷いのない口調に、佳奈の心に残っていたわずかな幻想が音を立てて崩れた。もし本当に子供がいたとしても、彼はそれすらも排除しようとするだろう。佳奈は拳を固く握り、爪が皮膚に食い込んでも痛みを感じなかった。彼女は顎を上げ、苦々しい笑みを浮かべて言った。「あなたはこう言ったわね。『二人の関係は感情だけ。結婚はしないし、どちらかが飽きたらすぐに別れよう』。智哉、私、もう飽きたの。別れよう!」その言葉は簡潔で、迷いも未練も感じさせなかった。だが、誰も彼女の胸の中から血が流れていることに気づくことはなかった。智哉の手は拳を握りしめ、青筋が浮かび上がっていた。彼の目は鋭く、冷たく佳奈を射抜いた。「その言葉がどういう結果を招くか分かってるのか?」「この言葉があなたの機嫌を損ねるのは分かってる。でも智哉、私は疲れたの。三人で築く愛なんていらない」彼女はかつて、愛さえあれば結婚など必要ないと信じていた。しかし、それが間違いだったと気づいた。智哉の心は、最初から彼女には向いていなかったのだ。智哉は彼女の顎を乱暴に掴み、その瞳に冷笑を浮かべた。「こんな手で俺に結婚を迫るつもりか?佳奈、お前は俺を甘く見てるのか、それとも自分を買いかぶってるのか」佳奈は絶望に満ちた目で彼を見つめた。「どう思われても構わない。今日ここを出ていくわ」彼女がベッドから降りて荷物をまとめようとした瞬間、智哉は彼女の
智哉が甲殻類アレルギーだということは、家族と本当に親しい友人しか知らないはずだ。奈津子がなぜそれを知っているのか。智哉は複雑な眼差しで奈津子を見つめた。「私が甲殻類アレルギーだってこと、なぜご存知なんですか?」突然そう尋ねられて、奈津子は一瞬戸惑った。自分はなぜ智哉のアレルギーを知っているのか?もしかして潜在意識に残っていた記憶?もしそうだとしたら、自分は昔、智哉とどんな関係だったのだろう。記憶を失ってもなお、彼のアレルギーまで覚えている理由は?奈津子は咄嗟に動揺を隠し、適当な理由をでっち上げた。「この前一緒に食事をした時に、佳奈のお父さんが話していたような気がして……」そう言われて智哉は半信半疑ながらも、軽く頷いた。「以前から佳奈をすごく気遣ってくださっていたようですし、退院されたら改めてお礼に伺います。その時はぜひ手料理を食べさせてください」それを聞いた奈津子は目を丸くして驚き、信じられないといった表情を見せた。「本当ですか?本当に佳奈と一緒にうちに来てくれるの?」「ええ、退院の日に佳奈を連れて伺いますよ」智哉がそう約束すると、奈津子はまるでお菓子をもらった子供のように瞳を潤ませ、感激の笑顔を見せた。「嬉しい!じゃあ、約束ですよ。今のうちにメニューを書き出して、晴臣に準備させておくわね」そう言って枕元からスマホを取り出し、嬉しそうにメモを打ち込み始める。その表情は心から幸せそうだった。智哉はその様子を眺めて、しばしぼんやりと考え込んでしまった。なぜ奈津子の姿を見ていると、いつも誰かの面影が重なってしまうのだろう。彼女とはまったく関係のない人物のはずなのに。自分の錯覚か、それとも何か知らない秘密があるのだろうか。病院を出てからも、智哉はずっとそのことを考えていた。佳奈は彼がぼんやりしているのを見て、まだ拗ねているのだと勘違いした。赤信号で止まった隙に、佳奈はそっと顔を近づけて智哉の頬にキスを落とした。彼女はいたずらっぽく笑いながら言った。「うわっ、高橋社長ったら、ヤキモチの匂いぷんぷんだよ」その言葉に、智哉はようやく我に返り、隣で得意げに笑う佳奈に目を向けた。彼は佳奈の顎を指で軽く持ち上げ、意味深な目でじっと見つめる。「仕方がないよ。佳奈が大好き
晴臣はためらいながらも、そっと佳奈の頭に手を置いて、優しく髪を撫でた。唇には柔らかな笑みが浮かんでいる。「泣かないで。もうすぐ母親になるのに、相変わらず泣き虫だね」佳奈は手の甲で涙を拭いながら、潤んだ瞳で彼を見つめる。「この何年間、二人はどこにいたの?どうして連絡もくれなかったの?私、毎年夏休みも冬休みも、ずっとあの家であなたたちを待ってたんだよ。家が取り壊される時だって、私、工事の人とケンカしちゃったの。家を壊したら、あなたたちが帰る場所がなくなるって……」晴臣はその話を聞き、口元には微かな笑みを浮かべていたが、目元はとっくに涙で濡れていた。佳奈の頭を軽く撫でながら、かすれた声で告げる。「俺たちはあの頃、誰かに命を狙われてたんだ。君に連絡を取れば危険が及ぶと思って、敢えて遠ざかったんだよ。でも、その後、母の実家を見つけて、何とか落ち着いて暮らせたんだ。今回戻ったのは、母さんの過去を調べるためで、君を巻き込みたくなかったんだよ」佳奈は鼻をすすりながら問い返した。「本当?嘘じゃないよね?」「俺がいつ君に嘘をついた?」「だって、あの時だって、朝市に行くだけだって嘘をついて、そのまま戻ってこなかったじゃない」昔のことを思い出し、晴臣は小さく笑った。「君って、子供の頃から全然変わらないな。そんなに根に持つタイプだった?」彼が佳奈の額を軽くつつこうとした瞬間、その手首を智哉ががっしり掴んだ。低く冷たい声が響く。「再会するのは構わないが、ベタベタ触らないでくれる?」そう言うと、智哉は佳奈を自分の胸元に引き寄せ、露骨に嫉妬した声で告げた。「他の男のためにそこまで泣くなんて、君の夫はもう死んだとでも?」佳奈の涙を拭いながら、唇に何度もキスを落とすその仕草は、明らかな独占欲を示していた。それを見て、晴臣はつい笑いを漏らした。「随分とヤキモチ焼きなんだね。俺と佳奈にはまだまだたくさん子供の頃の思い出があるって言ったら、お前は怒り狂っちゃうかな?」穏やかな口調だが、明らかな挑発だった。智哉は冷たく晴臣を睨み返した。「子供の遊びなんて、誰もお前みたいに本気にしないんだよ。俺の妻はそこまで馬鹿じゃない。昔のことなんて、もうとっくに忘れてるよな、佳奈?」佳奈は唇を噛み、戸惑って二人を見つめた。この質
佳奈は一刻も早く晴臣親子に会って、真相を確かめたかったため、軽く返事をした。「はいはい、あなたが一番好きよ。早く行こう」そう言うと、智哉の手を引いて急いで車の方へ向かった。佳奈の慌てぶりを見て、智哉の目にはさらに深い嫉妬が浮かぶ。佳奈がドアを開けようとした瞬間、彼は彼女の身体をドアに押しつけた。端正な顔がすっと近づき、鼻先で頬を軽くなぞった。低く甘い声に、どこか拗ねた響きが混ざっている。「でもさ……今の君の頭の中は、あの幼なじみのお兄ちゃんでいっぱいなんだろう? 俺のことなんて、入る隙間もないんじゃないか?」智哉がそんな拗ねた表情を見せるので、佳奈はつま先立ちして、そっと彼の唇にキスをした。そして優しく囁いてなだめる。「彼のことはただの兄だと思ってる。私が愛してるのはあなただけ。ねぇ、旦那様、もうヤキモチ焼かないで、ね?」「旦那様」という一言が、まるで魔法のように智哉の体温を急激に上げた。彼の目から嫉妬の色は一瞬で消え去り、代わりに抑え切れない情熱が浮かぶ。唇の端を軽く持ち上げ、喉の奥で低く笑った。「ヤキモチを消すには、こんなキスじゃ足りないよ」そう言うと、彼はゆっくりと佳奈の柔らかな髪に指を差し入れ、後頭部を包み込むように引き寄せて、彼女の唇を深く奪った。一見甘く優しいキスだが、その中には明らかな強引さと独占欲が入り混じっていた。冷たい彼の唇が熱を帯びながら佳奈を圧倒し、彼女の唇を簡単にこじ開けていく。佳奈の意識はだんだん薄れて、杏色の瞳には次第に潤んだ水気が広がった。彼女は甘く掠れた声でつぶやいた。「智哉……」ようやく智哉が唇を放し、冷えた指先で佳奈の唇を撫でる。「いい子だから、もう一回『旦那様』って呼んで?」佳奈は目尻を赤く染め、子猫のような声で答えた。「旦那様……これでいい?」智哉はごくりと喉を鳴らし、彼女の唇にもう一度軽くキスを落とした。そして笑みを浮かべながら冗談めかして言った。「君がこんなに可愛いから、今すぐ食べたくなったんだけど、どうしよう?」佳奈は慌てて口を覆い、必死に首を横に振った。「もうダメだってば。みんなが見てるよ」智哉が振り返ると、確かに家族全員が映画でも見るように窓に張り付いて、二人をじっと見ていた。智哉は苦笑した。「気にす
橘お婆さまは嬉しそうに顔をほころばせた。「うちの佳奈は私の好みを覚えててくれたのね。なんて親孝行な子なの。さ、ちょっと注いでちょうだい」佳奈はお婆さまに一杯注いだ。その後、テーブルの他の人たちにも順番に注いでいく。最後に智哉に差し出そうとしたとき、よだれが出そうになって思わずごくりと喉を鳴らした。小声で囁く。「ねえ、智哉……ちょっとだけ、ほんの一口だけ飲んじゃダメ?」智哉は即座に却下した。「ダメだよ。妊婦はお酒飲んじゃいけないって、忘れたの?そんなことしたら生まれてくる子が小さな酒飲みになるぞ」「一口くらい平気だってば。舐めるだけでもいいし、梅酒だよ?酔っ払うほどじゃないって」そう言いながら、彼女は舌で唇をぺろりと舐めた。その様子に、智哉は苦笑いして彼女の鼻を軽くつまんだ。そして酒を持ったグラスを彼女の唇の前に差し出した。「舐めるだけだぞ。一口でも多かったらお尻ぺんぺんだからな」佳奈は目を細めて嬉しそうに何度も頷いた。まず香りを嗅いでみる。どこか懐かしい匂い。まるで昔、どこかで飲んだことがあるような気がする。そして、舌先でひと舐め。芳醇な甘さと淡い酒の香りが舌を包み込んで、味覚を優しく刺激した。たった一口で、幼いころの記憶が一気に蘇った。彼女は驚いたようにグラスを見つめ、智哉の制止も聞かず、もう一口だけ飲んでしまった。冷たい酒が喉を滑り落ち、あとに残るのは深く香ばしい梅の香り。これは、彼女がずっと忘れられなかった、あの味。大切に心の中でしまい込んでいた、あの頃の思い出の味だった。佳奈の胸がぎゅっと締めつけられる。彼女は震える手で酒を清司に差し出し、目には抑えきれない感情がにじんでいた。「お父さん、このお酒、お兄ちゃんのお母さんが作ったやつだよ!」清司もすぐにピンときて、グラスを傾けて一口飲んだ。そして目を見開いて言った。「この味、間違いない!佳奈、晴臣って、まさか……あの九くんか?」晴臣が佳奈にしてきた数々の気遣いを思い出し、清司の中でその確信はどんどん強くなっていく。佳奈の目には涙が溢れた。「やっぱり、やっぱりお兄ちゃんと叔母さんは生きてたんだ……あんなに優しい人たちが、死んでるわけないよ。今すぐ病院に行って、ちゃんと聞いてくる!」そ
彼の問い詰めに対し、橘お婆さんは悔しそうに歯を食いしばった。「彼女が誰だろうと、あんたには関係ないわ。私がどれだけ甘やかそうが、あんたに口出しされる筋合いはないの。あんたが結翔の父親ってことで今回は大目に見てるけど、美智子にあんなことしておいて、橘家が簡単に許すと思ってんの?」「ここはあんたを歓迎してないわ。さっさと出ていきなさい。出ていかないなら、今すぐ警備員呼んで叩き出すわよ!」清司も怒り心頭で箒を手にし、聖人に向かって振りかざした。「前にも言ったよな。うちの娘を悪く言ったら、俺は黙ってないって!俺が大事に育てたお姫様を、あんたごときが口汚く罵るなんて許せるか!」そう言い放つと、清司の箒が聖人の背中に当たった。痛みはさほどでもなかったが、屈辱感は半端じゃない。聖人は反撃しようとしたが、智哉の冷たい視線に圧され、思わず怯んだ。拳を握りしめながら、清司を睨みつけて言った。「覚えてろ!お前、俺の手にかかったらただじゃおかねぇからな!」それを聞いた智哉が冷ややかに言い放つ。「やれるもんならやってみろよ。生きて帰れたらな」聖人は歯ぎしりするほど悔しがりながら、結翔を指差して怒鳴った。「親父がぶたれてるってのに、一言も発さないとはな、結翔……あんたはほんっと親孝行だよ智哉と一緒になって、母親を監禁しやがって、今度は俺を閉じ込める気か?」結翔は無表情のまま言った。「佳奈に手を出すなら、その可能性もあるな」「はっ、また佳奈か。佳奈がそんなに大事かよ!智哉はあいつのために母親を閉じ込めて、お前も同じことをしようとしてる。いいさ……見てろ、いつか絶対に後悔させてやる!」そう吐き捨てて、聖人は一度も振り返らずにその場を去った。清司は怒りのあまり、肩で息をしていた。何度も何度も佳奈を罵倒され、そのたびに堪えるのは限界だった。そしてハクに向かって叫んだ。「ハク!あいつ、ママをいじめたんだ。少しこらしめてやれ」ハクはその言葉を聞くやいなや、ピンと立ち上がり猛ダッシュ。吠えながら聖人に突進していった。ズボンの裾にガブッと噛みつき、思いっきり引っ張る。聖人は驚いて慌てて逃げ出すが、走れば走るほど、ハクはますます勢いづいて追いかける。時折ジャンプして胸元に飛びつき、シャツに食らいついてはビ
佳奈は少し戸惑っていた。裕子が橘おばあさんと知り合いだったなんて、考えたこともなかった。それに、裕子はもともと甘いものが苦手で、むしろアレルギーに近い反応を見せていた。そんな人が、どうして橘おばあさんの作るお菓子が好きなんて言えるのか。二人の会話に、その場の空気が一瞬凍りついた。結翔がすぐさま近づいて、橘おばあさんの手をそっと取った。「おばあさま、また人違いしてますよ。この子は佳奈です。あなたの外孫じゃありません」その言葉に、橘おばあさんはようやく自分の失言に気づいた。涙に潤んだ目で佳奈を見つめながら、こう言った。「美桜がいなくなってから、体調を崩してね……治った頃には、よく人を間違えるようになってしまったの。綾乃を抱いて美智子って呼んだりもして。佳奈、どうか責めないでおくれね」その言葉を聞いた佳奈の胸に、ずしんと重い痛みが走った。橘おばあさんの悲しみと、その境遇が痛いほど伝わってくる。二十年以上も大切に育てた孫が裏切り者で、母親がその死の元凶かもしれない。佳奈は小さく微笑んで、そっと首を振った。「大丈夫ですよ。おばあさまの体が元気になってくれれば、それでいいんです」佳奈が何も疑わなかったことで、橘おばあさんは内心ひどく安堵した。目元を少し赤くしながら、佳奈の手をぎゅっと握った。「佳奈、これから私にいっぱい甘えてくれないか?」そのまっすぐで温かい眼差しに、佳奈は断ることができなかった。もしそれでおばあさんの心が少しでも癒えるなら、彼女は喜んで応じるつもりだった。佳奈はにっこりと微笑んでうなずいた。「小さい頃から外祖母がいなくて、祖母にもあまり好かれてなかったんです。だから、祖父母と孫の特別なって、よく分からないの。もしおばあさまが私を好きでいてくれるなら、それは私にとって、すごく幸せなことです」その言葉を聞いた橘おばあさんの目から、とうとう抑えきれない涙がこぼれ落ちた。佳奈のこれまでの人生を思って、胸が締めつけられる。本来なら、大切に大切に育てられるはずの子だったのに。母に冷たくされ、藤崎家でも居場所がなくて……橘おばあさんは佳奈をぎゅっと抱きしめ、その頭を何度も撫でながら、声を震わせて言った。「もう大丈夫。これからは私がついてる。何も怖くない。赤ちゃんを産ん
あの夜の感覚は、あまりにも甘くて蕩けそうで、もう一度味わえば、今日はきっと外に出られなくなる。そう思った佳奈は、慌てて智哉を押しのけて、ベッドから身を起こした。「今日、奈津子おばさんのところに行かなきゃいけないの!」だが、ちょうどベッドを降りようとしたそのとき、彼女の腰に腕が回された。耳元で男の低くて甘い囁きが落ちてくる。「そんなに急がなくてもいいだろ。行く前に、ちょっとキスしてからでも遅くない」そう言って、佳奈はベッドに押し倒された。優しくて濃厚なキスが、まるで波のように彼女を飲み込んでいく。智哉がいつからこんなに上手くなったのかは分からない。ただのキスなのに、こんなにも胸が高鳴るなんて。思わず、佳奈の口から甘い声が漏れた。二人が夢中になってキスを交わしているそのとき、部屋のドアがノックされた。外から清司の声が聞こえる。「佳奈、橘おばあさんが来てくれたよ。二人とも、降りてご挨拶しなさい」佳奈は慌てて智哉を押し返し、声にまだ名残の熱を含みながら答えた。「お父さん、すぐ行きます」息が少し乱れていて、頬もほんのり紅い。それに加えて、「お父さん」と呼んだときの声がどこか弱々しく、智哉は思わずくすっと笑った。佳奈は恥ずかしくなって、智哉の胸をぽかっと叩いた。「もう、智哉のせいだから。キスが長すぎるのよ」智哉は笑いながら、彼女の頬に何度もキスを落とした。「じゃあ、赤ちゃんにキスしたら、支度しようか」「赤ちゃんだけよ。他のとこはダメ」智哉はいたずらっぽく笑った。「ねえ、他のとこって、どこのことか詳しく教えてくれる?」佳奈の顔は一層真っ赤になり、「智哉……このスケベ!」「そう、スケベだよ」そう言いながら、彼は彼女のお腹にキスを数回落とし、大きな手でそっと撫でながら言った。「赤ちゃん、お利口にしててな。ママを困らせたら、出てきたときにお尻ぺんぺんだぞ」その声には微笑みが混じり、瞳にはあふれんばかりの愛情と父性が宿っていた。そんな智哉を見て、佳奈の胸は幸福でいっぱいになる。心の奥から、優しいぬくもりが満ちていくようだった。そして、二人が階下に降りていくと、橘おばあさんがソファに座っていた。佳奈の姿を見た瞬間、すぐに立ち上がって駆け寄ってきた。心配の色が顔
その名前を聞いた瞬間、征爾の瞳が一瞬揺れた。佐藤さん――彼は高橋家の執事であり、あの火事の唯一の犠牲者だった。奈津子が彼を知っているはずがない。ましてや、その火災にここまで強い印象を持っているとは……。征爾は驚きの眼差しで奈津子を見つめた。「佐藤さん以外に、何か思い出せることはありますか?」奈津子は首を振った。「彼に関しては何の記憶もありません。ただ、悪夢を見るとき、いつも彼の名前を呼んでるんです。きっと彼が私を助けてくれたんだと思います。しかも、あの火事の中で」「でも、当時の火災現場には佐藤さんしかいなかった。監視カメラにも、彼が一人で入っていくところしか映っていない」征爾は思わず動揺を覚えた。もし、あの火事に奈津子も巻き込まれていたとしたら、それは単なる事故ではなく、誰かによって仕組まれたものだ。そのとき、傍らの晴臣が口を開いた。「当日の映像は確かに、佐藤さんしか映っていません。でも、一週間前の映像に十数分の空白があるんです。午後二時ごろ、誰かに編集されていました」征爾は眉をひそめて彼を見た。「そのときに君の母親が閉じ込められた可能性があると?」「ないとは言い切れません」「でも、あのとき高橋家は大混乱の真っ只中だった。智哉たち母子三人が誘拐されて、我々は必死で救出に動いていた。もし本当にそうなら、家の者がやったとは考えにくい」その言葉に、晴臣の瞳がすっと冷えた光を宿した。「陽動って可能性もあります。この件は私が調べます。もし、母が受けた仕打ちに高橋家が関わっていたなら、絶対に許しません」彼の中ではもう確信が芽生えていた。母は、あの火事で命を落としかけた。そして、その背後にいるのは、本当に玲子なのか、それとも……一方。佳奈はあまりの衝撃で、一晩中うなされていた。夢の中では、血まみれの智哉や、父の死が繰り返される。たった一日で、奈津子がシャンデリアに巻き込まれ、自分は誘拐され、そして目の前で男が血まみれで倒れるのを見た。妊娠していなくても、耐えがたい出来事ばかりだった。目を開けたとき、目の前に映ったのは、智哉の凛々しい顔。ちょうど風呂上がりなのか、体からはボディソープの香りが漂い、濡れた髪の水滴が引き締まった顎を伝い、鎖骨を越えて、逞しい胸筋の間へと消えて
晴臣の胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。「何か思い出したんですか?」「まだはっきりとは……でも、あのシャンデリアが落ちてきた瞬間、頭の中に私と彼が一緒にいる場面が一瞬浮かんだの。ほんの一瞬だったけど、間違いなく、あの男は征爾さんだった」その言葉に、晴臣は母の手をぎゅっと握りしめた。「母さん……あなた、彼のことが好きだったんですね?」息子からあまりにも率直に問われ、奈津子は返答に詰まった。十数秒黙り込んだあと、ようやくか細い声で口を開いた。「そうかもしれない。じゃなきゃ、あんなふうに体が勝手に動くわけないもの。晴臣、昔の私は、悪い女だったのかな。家庭がある人だって分かってて、惹かれてしまった。それに……あなたもしかして、彼の子どもじゃないかって」晴臣は、その問いがいつか母の口から出てくると分かっていた。まさに言おうとした瞬間——コンコンとノックの音が鳴った。彼が扉を開けると、そこには征爾の深く静かな瞳があった。「晴臣、お母さんの容体はどうだ?ちょっと見舞いに来た」征爾の腕にはフルーツバスケット、もう片方の腕には花束が抱えられていた。穏やかな微笑を浮かべながら、晴臣を見つめている。晴臣は無意識に拳を強く握りしめた。眼差しには、複雑な光が揺れていた。じっと征爾を見つめ、数秒の沈黙の後に口を開いた。「目を覚ましました。どうぞ、お入りください」彼は背を向けて、母に向かって低く言った。「母さん、高橋叔父さんが会いに来ました」征爾の姿を見た奈津子の表情に、わずかな緊張が走る。髪を軽く整え、ぎこちなく微笑んだ。「どうぞ、入ってください」征爾はベッドに近づき、フルーツバスケットをナイトテーブルに置き、花束を奈津子に差し出した。そして、丁寧に腰を折って頭を下げた。「瀬名夫人、本当にありがとうございました。あなたが庇ってくれなければ、あのシャンデリアは私に直撃してた。下手すりゃ、今ごろ息子が私の葬式をしてたかもしれない」征爾のその深みある瞳を見つめると、奈津子の胸はさっきより早く鼓動を打っていた。頬がほんのり赤く染まり、布団の中で握られた両手がぎゅっと縮こまる。彼と再び顔を合わせた今、奈津子は確信した。——やっぱり、私たちには過去がある。でなければ、こんなに心が乱れる