律子の胸には、どうしようもない悔しさが込み上げていた。反論したかったが、隼人の冷ややかな声を聞いた瞬間、彼女の中の熱意と希望が、一気に冷めていった。彼女は瑠璃を見つめる。その美しく、凛とした顔立ちを。そして、一瞬の迷いが生まれた。――本当に……彼女は瑠璃ちゃんじゃないの?そんなはずない。律子は隼人を睨みつけ、唇を噛みしめた。「目黒、これは絶対にあなたの策略よ!彼女は瑠璃ちゃんだわ!あなたが……」「もういい」瑠璃が低く冷ややかに言い放った。「あなたたちが、四宮瑠璃とどんな関係があったのか、私には関係のないこと。私は四宮瑠璃じゃない。それだけは、はっきりさせておくわ」そう言い終えた彼女は、ふと隼人へと視線を向けた。水のように澄んだ瞳に、柔らかな笑みを浮かべながら――「ねえ、目黒さん。今日は少し気分転換をしたいの。あなた、お付き合いしてくれる?」隼人は、その美しい瞳を覗き込みながら、ふっと笑った。「……喜んでる」そう答えると、彼は自然に瑠璃の手を取った。周囲の人々は、まるで当然のように道を開け、彼らが手を繋ぎ、堂々とその場を去ったのを見送った。律子と若年はすぐに後を追った。だが、外に出ると、ちょうど瑠璃が隼人の車に乗り込む瞬間だった。しかも、彼女の顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。「なんで!」律子は、信じられないというように息を呑んだ。「西園寺先輩、追いましょう!」しかし、隣の若年は、ただ穏やかな笑みを浮かべたまま、車が去っていくのを見送るだけだった。「……瑠璃が生きていてくれるなら、それだけでいい。たとえ彼女が変わってしまったとしても……それでも、僕は彼女を受け入れる」郊外の公園。車が停まると、瑠璃はゆっくりと外に出た。そして、大きく息を吐いた。「……目黒さんの元妻にそっくりだなんて、本当に面倒ね」彼女は、わざと嫌そうに肩をすくめた。そして、何気ない風を装いながら、ふと彼を見上げた。「さっきの彼、誰?あなたと知り合いみたいだったけど?」隼人は一瞬、彼女を見つめた後、ふっと笑いを浮かべた。「俺の元妻に、未練たっぷりな金持ちの坊っちゃんさ」その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の心が、跳ねた。未練たっぷり。そんな美しい言葉が、まだ自分に向けられることがあるなんて。この世界には、まだ彼女を忘れられ
隼人の低く魅惑的な声が、耳元で静かに響いた。まるで意識の奥深くへと沈み込んでいくかのように、心の奥に直接触れてくる。瑠璃は、彼がこんな問いを投げかけてくるとは思わなかった。驚きの表情を浮かべながらも、内心では戸惑いがあった。だが、それ以上に、冷静さを失うことはなかった。「目黒さん、あなた、自分が何を言っているのか分かってるの?」「当然、分かっている」彼は音を落とし、さらに低く、深みのある声で囁いた。その声は、ひどく人の心を揺さぶるような響きを持っていた。「私はもうすぐ瞬と結婚するの、あなたを好きになるわけがないでしょう?」瑠璃は、冷たく言い放った。同時に、手を伸ばして彼を押しのけようとした。だが、彼女の手が肩に触れた瞬間、それを隼人の指がしっかりと捕らえた。「……本当に俺のことを好きじゃない?」彼はゆっくりと問いかけた。「じゃあ、昨夜はなぜ病院に来た?俺のことが気になるからだろう?それに――お前が俺の叔父様をどれだけ好きなのか、俺には到底分からないな」彼は唇を開きかけたものの、深い瞳で瑠璃の顔をじっと見つめるうちに、心が不覚にも一瞬、乱れた。わかっている――瑠璃とは別の人間だと。それでも、この顔を前にすると、どうしても意識せずにはいられない。 たとえそうしたところで、心の奥深くに刻まれたあの傷を癒すことはできなかった。瑠璃は瑠璃だ。彼の心の中で、唯一無二の存在であり、決して代わりのきかない、そして、もう二度と手に入らない真の愛だった。空気が張り詰める中、瑠璃はゆっくりと深呼吸をする。そして、美しい眉を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。「目黒さんは、とても魅力的な男性ね。でも、私は、過去に妻をあんなにも冷酷に扱った男を好きになることは、絶対にないわ」彼女の声は静かだった。しかし、その瞳の奥には、鋭く燃え上がるような感情が宿っていた。「瑠璃とそっくりだけど、私は絶対に彼女と同じ道を歩まない」――二度と。二度と、この男の甘い罠に落ちることはない。彼女は復讐のために生まれ変わった。隼人を滅ぼすために戻ってきたのであって、再び自分を犠牲にするためではない!沈黙が落ちる。その時、隼人が、低く笑った。「……お前は知っているのか?彼女がどんな道を歩んできたのかを」彼は手を離し、ふっと視線を落とした。彼の背が、ゆ
律子ちゃん、私は何も忘れていない。だからこそ、ここにいる。自分自身のために、そしてあの子のために復讐を果たすために。瑠璃が沈黙したまま何も言わないのを見て、律子は激しく動揺し、思わず彼女の腕を掴んだ。「瑠璃ちゃん……お願いだから、一緒に来て!西園寺先輩こそが、あなたを本当に愛し、大切にしてくれる人なのよ!どうか……どうか、このクズ男に惑わされないで!!」「もういい」瑠璃は冷たく遮った。「何度も言ったはずよ。私は瑠璃じゃないって。それに、目黒さんと一緒にいてはいけない理由がどこにあるの?彼が過去に何をしたかなんて、私には関係ないわ。大事なのは、今、私が彼と一緒にいることが楽しい、ただそれだけ。だから、もう、私たちの邪魔をしないで!」言い終えると、彼女は迷いなく律子の手を振り払った。そして、くるりと振り返り、隼人の腕にしなやかに手を添えた。まるで、恋人同士のように。「隼人、場所を変えましょう。ここにいても、うるさくて落ち着かないわ」「……ああ」隼人は無表情のまま、一言だけ返した。そして、瑠璃が今まさに彼の腕に手を添えていることには、まったく気づいていなかった。去る直前、彼は鋭い眼差しで律子を見た。彼女が先ほど発した言葉が、今もなお、彼の脳裏にこびりついて離れない。無数の蟻が心を喰い散らすような激痛が、胸を締めつけ、呼吸さえも奪っていく。律子の口から次々と語られる残忍な所業は、まさに彼がかつて瑠璃にどれほど冷酷非道だったかを突きつけるものだった。車内。瑠璃は助手席に座りながら、そっと隼人の横顔を盗み見た。彼の表情は、異様なほど険しかった。きっと、律子の言葉が彼の心を掻き乱したのだろう。彼女は密かに笑みを浮かべる。どうしたの?隼人。今さら、罪悪感でも覚えた?それとも、良心というものに目覚めたの?だけど、私に対して、良心なんて抱いたことがあった?もし、あの時にほんの少しでも情けをかけてくれていたなら、私はあんなにも、絶望しながら「死ぬ」ことはなかったのに。秋の黄昏、深まる夕闇。瑠璃は、静かに石畳の道を歩いた。そして、一つの墓碑の前で足を止める。手に持った白菊の花をそっと捧げると、深々と三度、頭を下げた。「お祖父ちゃん……」墓碑に刻まれた名前を見つめながら、優しく呼びかけた。「千
隼人は疾風のように駆け出した。先ほど目にした白い影を追いかけて、心臓が痛いほど高鳴り、呼吸すら乱れる。瑠璃!お前なのか!?お前が、そこにいるのか!?彼の心で、狂ったように彼女の名が響き続けた。今見たものが幻なんかじゃない――そう信じて疑わなかった。だが、墓地の奥へと走り抜けた彼の視線の先には、誰もいなかった。先ほど確かに目にした、儚くも美しい白い姿は、まるで霧のように消え去っていた。彼の心は一瞬にして冷え込んだ。さっき見えたのは、思い詰めるあまり生まれた幻覚だったのか?隼人は落胆しながら考え、立ち去ろうとした――その時。ふと視線の先、少し離れた墓前から、かすかに煙が立ち上っているのが見えた。隼人の目が鋭く細められた。迷うことなく、彼は煙の立ち上る方向へと向かった。そして、瑠璃のお祖父ちゃん、倫太郎の墓前へと辿り着いた。目の前にあるのは、白菊の花束と、まだ燃え尽きていない線香だった。やはり、さっきのは見間違いなんかじゃなかった。本当に誰かがここに来て、倫太郎を弔っていたのだ。だが、この世で倫太郎を弔う人間がいるとすれば――瑠璃以外に、誰がいる?隼人の心臓が、再び狂ったように鼓動を打つ。迷わず振り返り、墓地の出口へと走り出した。彼の視界に、一台の黒いセダンが映る。まさに今、墓地を出て、大通りへと進もうとしていた。彼はすぐさま車に乗り込み、エンジンをかけ、アクセルを思い切り踏み込んだ。思考は乱れ、胸の鼓動は速まる一方だった。それはまるで、心の奥に眠る期待を示しているかのようだった。前を行くあの車を追いかけた先に、もしそこにいるのが「彼女」だったら。すでに三年前、この世を去ったはずの「彼女」だったら――。彼がようやく追いつき、隣に並んで車内を確認した瞬間、そこにいたのは、ただの運転手の男だけだった。他には、誰もいない。期待が、再び深い奈落へと突き落とされる。まるで冗談のように、彼は乾いた笑みを漏らした。死んだんだ。三年前に、お前のせいで、彼女はもう死んでいる。だから、こんな妄想を抱くのはやめろ、隼人。だとしたら、一体誰が瑠璃の祖父に花を捧げた?そして、それが女だった。瑠璃は墓地から戻ると、ちょうど瞬が陽ちゃんを連れて帰ってきたところだった。陽ちゃんが可愛い小さな手を広
瑠璃は静かに目を上げ、瞬の細長い瞳と視線を交わした。彼の瞳は、まるで深い湖のように穏やかで、どこか優しく温もりを帯びている。その眼差しは、彼女のすべてを包み込むかのようだった。「君の選ぶ道がどんなものであれ、俺は全力で支える。……だけど、できれば、そんな方法で復讐しないでほしい」彼の指先が、そっと彼女の頬に触れた。ひんやりとした感触が、肌にじんわりと染み込んでいく。瑠璃の体が、思わず小さく震えた。彼の深く謎めいた瞳を、長く覗き込んではいけない気がした。まるで、その奥に飲み込まれそうな錯覚を覚えるほどに――瑠璃が視線をそらそうとした瞬間、瞬が、一歩近づいた。「あいつは、君にふさわしくない。昔の君も、今の君も――隼人には、決して相応しくない」目の前に迫る端正な顔立ち、そこには、強烈な支配欲と侵略的な気配が滲んでいた。その言葉に、瑠璃の心臓がドクンと跳ねた。彼女が息を飲んだ、その刹那、瞬の顔が、すぐ目の前まで迫る。――キスされる。そう直感した瞬間、彼女はとっさに身を引こうとした。だが、彼の唇が触れたのは、彼女の唇ではなく眉間だった。そこに、そっと温かく、優しいキスを落とした。まるで、慰めるかのように。瑠璃は、一瞬、動くことを忘れた。瞬は微笑みながら、彼女を抱きしめる。彼の手が、ゆっくりと彼女の髪を撫でた。そして、彼女の見えない場所で、瞬の唇は冷ややかに歪んだ。瞳の奥に、一瞬、怪しげな光が宿る。翌朝。スマートフォンの振動音で、瑠璃は目を覚ました。無意識に手を伸ばし、画面を確認する。次の瞬間、完全に、目が覚めた。画面には、無数の通知。そして、怒りに満ちたコメント。#Miss L.ady創始者千ヴィオラ、不倫疑惑#千ヴィオラは愛人?#碓氷家令嬢・蛍、ショックで入院瑠璃は、静かに指を動かし、トレンド入りした動画を再生する。そこに映っていたのは、数日前、カフェで蛍と向かい合った時の映像だった。映像の中の蛍は、泣きそうな顔をしている。そして、カフェの中で、蛍はまるで哀れな犠牲者のように、弱々しく身を縮めながら、瑠璃に隼人を諦めるよう懇願していた。しかし、その場面自体はまだ些細なことだった。本当に問題だったのは、その時瑠璃が投げかけた「あの一言」だった。「千さんの言うことはつまり――私の婚約
今まさに「獲物」として話題にしていた人物が、自ら目の前に現れるとは、蛍と華の笑い声は、瞬時に途絶えた。二人の顔には驚愕が浮かび、まるで幽霊でも見たかのように、病室の入り口に立つ瑠璃をじっと見つめた。「……あんた!何でここにいるのよ!いつからそこにいたの!?何を聞いたのよ!!」華が椅子を蹴るように立ち上がり、鋭い目つきで問い詰めた。蛍は何も言わず、ただじっと警戒の目を向けた。瑠璃は、美しく弧を描く眉をゆっくりと上げ、涼やかに微笑んだ。「どうしたの?もしかして――聞かれたらマズいことでも話していた?」「……っ!」華の顔が一瞬でこわばる。彼女の目が、警戒と焦りで揺れた。「な、何を……」「確か……あなた、蛍の養母だったわよね?なるほどね。どうりで……この娘の卑劣な性格は、間違いなくあなたの教育の賜物だわ。私、ずっと疑問だったの。あの気高い碓氷夫人が、どうしてこんな卑劣な娘を産んだのかって」華の顔が、一気に真っ赤になった。「あんた……何をほざいてんのよ!!」怒り狂った華は、まるで獣のように瑠璃に飛びかかる。しかし、瑠璃は素早く彼女の手首を掴んだ。「暴れるところまでソックリね。知らない人が見たら、本当の親子だと勘違いしそうだわ?」蛍と華の顔色が、一瞬で凍りついた。「千ヴィオラ!!黙りなさい!!」蛍は怒りを抑えきれず、威圧的に怒鳴りつけた。この場には他に誰もいない。だからこそ、彼女は隠すことなく、その醜悪で凶暴な本性を剥き出しにした。怒りに満ちた視線を向け、ベッドのシーツを振り払って立ち上がった。「……今はそんなことに構ってる場合じゃないでしょ?さっさと、ネットで炎上してる件をどうにかする方法を考えなさいよ!!」蛍は余裕たっぷりに腕を組み、冷笑した。「言ったでしょ?私に歯向かえば、ただじゃ済まないって。あんたが男を奪いたいと思うなら、あんたを、全ネットユーザーの敵にしてあげるわ。最低の女としてね!!」――パァン!!蛍の言葉が終わるや否や、瑠璃は一切の迷いもなく、彼女の頬を鋭く平手打ちした。「……アッ!」蛍は激痛に悲鳴を上げ、呆然としたまま頬を押さえた。華も一瞬驚いたが、すぐに口を開いて罵ろうとした。しかし、その前に瑠璃の冷静な声が響いた。「これは、お目覚めの一撃よ。目を覚ましなさい。このめちゃくちゃな状況を片
「千ヴィオラ! このクソ女、よくも私をハメたわね!!」蛍は完全に逆上し、狂ったように叫んだ。動画の中で演じていた儚げな被害者の姿は、もはや跡形もない。彼女はナイトテーブルの上にあった果物ナイフを掴み、それを振り上げながら、瑠璃の顔を切り裂こうと突進した。華は止めるどころか、その様子を楽しむかのように傍観していた。刃が鈍く光り、空気を裂く音が響いた。過去に蛍に顔を切られた記憶が、一瞬で瑠璃の脳裏に蘇る。暗闇の中、血が流れ、痛みが走り、絶望に沈んだあの瞬間――彼女はハッと我に返り、鋭く光る刃先を目にした瞬間、慌てて身を翻し横へと避けた。「クソ女!逃げるな!!」蛍は怒り狂い、さらにナイフを振り下ろした。「言っとくけど、瑠璃もこうやって私が切り刻んでやったのよ!!あんたも同じ目に遭わせてやる!!」瑠璃は素早く身を翻し、ナイフを避ける。しかし、華が彼女の腕を掴んだ。蛍は血走った目で陰険に笑った。その顔は狂気に歪み、まるで血に飢えた悪魔のように凶悪で冷酷だった。そして、何の躊躇もなく、手にした刃を瑠璃へと振り下ろした――!「――危ない!!」まさに刃が振り下ろされようとしたその瞬間、背後から、焦燥と不安に満ちた声が響いた。隼人が猛スピードで駆け寄り、瑠璃を強く抱きしめる。片腕でしっかりと彼女を守りながら、もう一方の手で蛍の刃物を握る手をがっちりと掴んだ。彼は冷酷なまでに鋭い眼差しを向け、蛍の歪んだ顔を睨みつけた。「お前、自分が何をしているのか分かっているのか?」彼の声は、これまでにないほど冷酷だった。蛍は一瞬呆然とし、華も同様に動揺した。まさか、このタイミングで隼人が現れるなんて―― 誰も予想していなかった。「隼……隼人!?」蛍は目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。何か弁解しようとしたその瞬間、隼人は彼女の手首を力強く振り払った。バランスを崩した蛍は、よろめきながら後方へと倒れ込む。背後のキャビネットに激しくぶつかり、とっさに壁に手をつこうとした――しかし、彼女はその手に刃物を握っていることを忘れていた。鋭利な刃が頬をかすめ、皮膚が裂ける感覚が走った。しかし、その痛みすら感じる余裕もなく、蛍は信じられないものを見るような目で隼人をじっと見た。――そんなはずない! ありえない! きっとこれは錯覚だ。絶対に
蛍は、恐る恐る自分の頬に手を当てた。指先に触れたのは、温かく粘つく液体――血。彼女の瞳孔が、一瞬で収縮する。「血!?こんなに!私の顔!」鮮血に染まった自分の手を見た瞬間、蛍は絶叫した。急激な血の流出により、顔色は一気に青ざめる。瑠璃は、その様子を冷ややかに見つめた。右頬を裂かれた蛍――その姿に、驚きよりも嘲笑が込み上げる。まさか、あの蛍が、自分の顔を台無しにする日が来るなんてね。これが因果応報ってやつ?「蛍、大丈夫よ!隼人がいるんだから、あんたを放っておくわけないよ!」華がすぐさま駆け寄り、慌てて彼女を支えた。だが、そんな状況でも、華はちゃっかり隼人を巻き込もうとするのを忘れなかった。「早く医者のところへ連れていって!もし傷跡が残ったら、それこそ大変なことになるわ!」華は急かしながら、蛍を隼人の前に押し出した。蛍の視線が向かった先には、いまだ瑠璃を抱きしめている隼人の姿があった。彼女の目に、涙が溜まる。「隼人……私の顔……私、今……すごく醜い?」震える声で、隼人に問いかけた。「隼人!早くしないと、蛍の血が止まらないわよ!死ぬよ!」華が大袈裟に声を張り上げる。瑠璃は、それを静かに見ていた。隼人の眉間が深く寄る。彼は――何かを迷っていた。次の瞬間、彼はゆっくりと腕を解き、瑠璃から身を離そうとする。「……っ、痛っ……」瑠璃が、小さく息を漏らした。隼人の目が、一瞬にして瑠璃に戻る。「どうした?」「目黒さん、私のことは気にしないで、ちょっと足をくじいただけよ。それよりも、早くそちらのご令嬢を診てもらっては?血を流しすぎて、倒れたら大変だもの」瑠璃は、皮肉げに微笑みながら言った。華と蛍が、彼女を睨みつけた。だが、ここで言い争うわけにはいかない。「隼人!蛍の顔色が悪くなった、もう時間がないのよ!」「お前が連れていけ」隼人の冷たい声が、それを遮った。そして再び瑠璃の手を取り、歩き出した。「俺は、彼女を連れて手外科へ行く」「……え?」華と蛍の表情が、一瞬にして硬直した。瑠璃は、困ったように彼女たちを振り返った。「そんなことして、いいのかしら?」「お前が怪我をしてるのに、それを放置する方が問題だろう」彼の答えは、あまりにも自然だった。そのまま、隼人は瑠璃の肩を抱き寄せ、病室を後にした。「隼人
瑠璃は微笑みながら、口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。画面を確認すると、瞬からの着信だった。彼女はごく自然に電話を取り、簡単にやり取りしただけで通話を切った。「隼人、お店でちょっとトラブルがあって、今戻らないといけないの」「送っていくよ」「いいの、夜にまた会いましょう」そう言って背を向けて歩き出した瞬間、隼人が手を伸ばして彼女を引き止めた。不思議そうに振り返った瑠璃の唇に、隼人はそっとキスを落とした。「Kiss Goodbye」「……」心の中では拒絶していたが、瑠璃は笑顔でそれを受け入れた。彼女が去っていく背中を見つめながら、隼人の唇に浮かんでいた微笑はゆっくりと消えていき、目の奥に潜んでいた鋭さもすっかり色褪せ、代わりに残ったのは後悔の色だった。――さっき、夏美が「瑠璃が自分たちの娘だ」と言った時、彼の心の中でずっと繋がらなかった点と点が、完璧な形でひとつに結びついた。「千璃ちゃん……」彼の薄く色気のある唇から、静かにその名が零れた。そこには、深い愛と悔しさが込められていた。……瑠璃は瞬と合流し、これまでに得た情報を伝えた。「隼人のパソコンにはロックがかかっていて、あなたが欲しがっているデータを手に入れるのは簡単じゃない」「それでも、彼のオフィスの配置を把握できただけでも十分すごい」瞬はそう言って振り返り、黒曜石のように輝く瞳に優しい光を湛えて瑠璃を見つめた。「本当は、情報よりも君に会いたかった」「欲しいものを手に入れて、計画を完遂すれば、あなたのもとへ戻るわ」「……本当に戻ってきてくれるのか?」瞬の目には、一抹の不安が浮かんでいた。「君はかつて、隼人を深く愛していた。今は、本当に彼に対して何の気持ちもないのか?」その問いに、瑠璃は少し笑って、静かに息を吐いた。「かつてどれだけ愛していたか……今はそれだけ、彼を憎んでる」彼女は遠くの海を見つめながら、続けた。「私の彼への愛は、四月山の海底に沈んでしまった。二度と戻れない……」……一方その頃。夏美と賢は、瑠璃の遺品を探すことを諦めていた。そんな時、不意に隼人から電話がかかってきた。指定された場所で隼人と落ち合うと、彼はひとつの透明なビニール袋を夏美に手渡した。「これは……」夏美は驚きながら
瑠璃が止める間もなく、夏美の口からその言葉が飛び出した。一瞬にして、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。瑠璃は視線を動かさず、余所見するように隼人の表情を窺った。彼の顔にはわずかに複雑な色が浮かび、驚いているようにも見えたが、どこか平静さを保っているようにも思えた。瑠璃は静かに数秒考えたあと、あえて沈黙を破った。「碓氷さん、碓氷夫人、本当に四宮瑠璃がご自身の娘だとお思いですか?」夏美はまっすぐに彼女を見つめた。「科学的な証明はまだないけれど、私は九割の確信を持っている。瑠璃は、私の娘よ!」彼女の口調には揺るぎのない確信があり、その涙を湛えた瞳は、名残惜しそうに瑠璃の顔をじっと見つめていた。「ヴィオラさんには、娘さんがいるよね?」夏美は突然そう訊ねた。瑠璃は頷いた。「はい」「以前、幼稚園の前であなたの娘さんを見たとき、私は本当に驚いた。娘の幼い頃にそっくりだった。でも今になって、その理由がわかった。あなたの娘さんはあなたに似ていて、あなたの顔は瑠璃とほとんど同じだったから……」夏美の言葉を聞いて、瑠璃はようやく思い至った。あのとき、確かに夏美は陽ちゃんを見つめて、しばらく動けなくなっていた。なるほど、そういうことだったのか。――三十年近く経っても、母は私の赤ん坊の頃の顔を覚えていてくれたのだ。その事実に、瑠璃の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。長い間、両親のいない日々を生きてきた彼女は、ようやく「愛されていた」という感覚を噛みしめていた。それが、誰にも知られぬ密かな想いだったとしても。そんな思いにふけっていた矢先、賢の言葉が静かに隼人に向けられた。「隼人様……あなたが瑠璃を憎んでいたことは知っている。策略に嵌められ、無理に結婚させられたと思っていたのでしょう。でも今では、全てが蛍の罠だったとわかっているはず。そして……瑠璃は、もう三年も前に亡くなっている」そこまで語ると、賢の声は詰まり、しばらくして再び続けた。「隼人様、僕たち夫婦にあなたを責める資格などない。今日伺ったのは、ただ……かつて夫婦であったご縁に免じて、お願いしたいことがあるんだ」「生きて再会できなくとも……私たちはせめて、娘に名前と血筋を返してやりたいの。無名のまま、彷徨う魂にだけは、なってほしくないよ……」
透明なガラスの壁一面の窓の外には、広大な川の流れが見え、その向こうには街全体を見下ろせるような絶景が広がっていた。こんな一等地のオフィスに座れる人間など、そうそういるものではない。だが、かつて自分は、この場所に入ることすら許されなかった。彼は自分の夫だった。それなのに、彼のオフィスには一歩も踏み入れる資格さえ与えられなかった。その一方で、彼は別の女がここを自由に出入りするのを黙認していた。瑠璃は唇の端をわずかに上げ、静かに思い返しながら、持ってきた料理を丁寧に取り出して並べた。もちろん、もう彼のためにエプロンをつけて料理を作ることなどない。かつて一方的に尽くした日々は、すでに過去のものだ。隼人の機嫌は良さそうだった。料理が彼女の手作りかどうかを疑うこともなく、美味しそうに食べていた。晩秋の午後のやわらかな陽光が、黒いシャツを身にまとう彼の肩に静かに降り注ぎ、彼の深い瞳を柔らかく照らしていた。食事の後、瑠璃は給湯室でフルーツを切り、フォークに刺して隼人の口元へ差し出した。「甘い?」彼女は笑顔で尋ねた。隼人は静かに頷き、その深いまなざしで彼女の美しい顔をじっと見つめていた。この瞬間が、少しでも長く続いてくれればと願うように……だが、フルーツを食べ終える前に、隼人は重要な電話を受け、席を外すことになった。瑠璃は、すぐに彼の私物のパソコンを調べ、自分の計画を進めようとした。だが室内を見回すと、監視カメラが設置されていることに気づいた。無理に行動すれば、すぐにバレる。仕方なく、彼女はフルーツの皿を片づけ、さらに気を利かせるふりをして、隼人のデスクを整え始めた。整理の最中、彼女はわざとマウスを床に落とし、それを拾い上げながらパソコンを操作する素振りを見せた。だが、パソコンにはロックがかかっており、中を見ることはできなかった。諦めざるを得なかったが、何も得られなかったわけではない。ちょうどその時、隼人が戻ってきた。だが、聞こえてきたのは三人分の足音だった。顔を上げた瑠璃は、隼人の後ろに立っている夏美と賢の姿を見て、思わず心が跳ねた。彼女は、夏美と賢が自分が瑠璃であることに気づいたことを隼人には話していなかった。もし今、彼らがそのことを口にすれば、全てがバレてしまう。胸中で不安を抱えながらも、瑠璃は穏や
一瞬の出来事だった。瑠璃の叫び声が響いたその瞬間、夏美と賢の耳にその言葉が飛び込んだ。死を覚悟して身を投げようとしていた夏美は、驚きで半分以上乗り出していた体をぴたりと止め、涙に濡れた顔をぼんやりと瑠璃の方へ向けた。その視線の先には、記憶の中で憎んできた女と瓜二つの顔を持つ少女が立っていた。「お母さん、千璃は死んでなんかいないよ。私のために死のうとしないで」瑠璃は優しく微笑みながら、静かにそう言った。「もう戻って。お父さんを心配させないで」「千璃……」夏美は呆然としたまま瑠璃を見つめていたが、ゆっくりと身体を引き戻し、危険な縁から離れていった。賢もまた、しばらくの間瑠璃を見つめていたが、ようやく我に返ると急いで夏美の手を取り、病室へと引き戻した。そしてすぐさまバルコニーの扉に鍵をかけた。「き、君は……瑠璃なのか?本当に……瑠璃なのか?」夏美は震えるように瑠璃の元へ駆け寄り、彼女の手をぎゅっと握った。温もりを与えたくて、その手を包み込んだが――自分の手のひらは氷のように冷たかった。期待と感激のまなざしで彼女を見つめる夏美と賢。だが、瑠璃はただ静かに微笑んだ。「碓氷夫人、ご無事でよかったです。命を粗末にしてはいけませんよ。衝動は悪魔を呼びます」「……」夏美と賢は同時に固まった。今の言葉が、ただ、夏美を助けるための演技だったと理解した瞬間――さっきまで天国にいたような気持ちは、一気に地獄へと叩き落された。彼らにはわかっていた。瑠璃は三年前、治療不可能な病で亡くなったと。でも、もし自分たちがあの時、何度も彼女を追い詰めなければ――彼女はもっと長く生きられたのかもしれない。思い返すのは、あの日。病に侵されながら、苦しい身体で蛍と隼人の婚約式に現れた彼女。それなのに、自分たちは彼女を罵倒し、侮辱した。彼女が血を吐いて倒れかけた時ですら、夏美はそれを「演技」だと決めつけ、冷たく突き放した。だがその「演技」の結末は――彼女の永遠の別れだった。そしてそれは、今もなお、二人の胸をえぐる痛みとなって消えなかった。病院を後にする頃、夏美はもう泣いてはいなかった。その深い喪失の痛みを、誰よりも理解できるのは、瑠璃自身だった。かつて、自分の我が子が命を奪われたと知った時、彼女もまた、生きる気力を失っ
賢は困惑した表情で瑠璃を見た。「千さん、どうして君が妻を病院まで?」「それは……」瑠璃が説明しようとしたその瞬間、病室の中から嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。賢の顔色が一変し、すぐさま病室へ駆け込んだ。瑠璃は気を落ち着け、何事もなかったような顔で後に続いた。夏美はすでに目を覚ましていたが、今まさに泣き崩れていた。賢は心配そうに彼女のそばにしゃがみ込んだ。「夏美、どうしたんだ?なんでそんなに泣いてるんだ?」その声に、夏美はようやく賢の存在に気づいたかのように、はっと顔を上げた。涙で赤くなったその目には、取り返しのつかない深い痛みが浮かんでいた。「賢……どうして神様は私たちをこんなにも弄ぶの……どうして……」その声は震え、涙はまるで糸が切れた真珠のように次々と頬を伝って落ちていった。賢は話が見えず、ただ不安と焦りが増していくばかりだった。「夏美、どういうことだ?ゆっくり話してくれ。落ち着いて、泣かないで……」夏美は涙の中で苦笑し、青ざめた顔を上げて、賢の不安に満ちた視線を見つめた。彼女は懐から一つのペンダントを取り出した。「賢……私たちの実の娘を見つけたのよ」「なに!?本当か!娘を見つけたって!?本当に!?」賢の顔には一瞬にして喜びが広がった。「彼女はどこにいるんだ?夏美、娘は今どこにいる?」賢は興奮して問いかけたが、夏美は痛ましげに目を閉じた。「……もう、亡くなってるの」「……な、なんだって?死んだ?」賢は茫然として固まった。「私たちも、間接的に彼女を死なせてしまったのよ……」夏美は悔しさで唇を噛みしめながら顔を上げた。「四宮瑠璃こそが、私たちの本当の娘だったの……」「……な、なんだって?」夏美のその一言に、賢の全身が凍りついた。わずか数秒前の喜びは、瞬時に無残に砕け散り、その破片が胸の中に突き刺さるような痛みとなって押し寄せてきた。その傍らで、瑠璃は痛みに満ちた両親の姿を見つめながら、自分の胸にもじわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。「四宮……瑠璃が、俺たちの……娘だと?」賢は愕然としたまま目を見開いた。その脳裏には、かつて自分が瑠璃の頬を平手打ちした時の記憶がよみがえっていた。あの偽者の蛍をかばうため、彼は瑠璃を足で突き倒したことすらあった。あの時の
君秋のその一言に、瑠璃も夏美も、目を大きく見開いて驚いた。夏美もデザイナーであり、瑠璃の体にある母斑は、まさにA4用紙に描かれたその蝶とほぼ完全に一致していた。もしかして、どこかで自分の腰の後ろにあるその母斑が見えてしまい、それを君秋が目にしたのではないか――瑠璃の胸にそんな疑念が浮かんだ。「君ちゃん、この蝶を見たって言ったけど、どこで見たの?」夏美はしゃがみ込み、目を潤ませながら食い入るように尋ねた。「碓氷夫人、こんなにたくさんのビラを印刷されたんですか?それで娘さんを探そうと?」瑠璃は平静を装い、話題をそらした。夏美はうなずいた。「ネットでもたくさん情報を出しているけど、こうした手段も一つの方法だと思って。とにかく、娘を見つけられるなら、どんな手段でも使いたいの!」その声には、切実な願いと誠意があふれていた。彼女は心から、かつて失ってしまった我が子を見つけたいと思っているのだ。瑠璃の心は揺れ動き、思わず胸が締めつけられた。……もしかしたら、私の本当の両親を責めるべきじゃなかったのかもしれない。彼らは、蛍一家に騙されていただけ。自分たちの大切な子を探すために、利用されてしまっただけなんだ。でも……「君ちゃん、お願い。どこでこの蝶を見たのか、おばあちゃんに教えてくれない?」再び、夏美の必死の問いかけが瑠璃の耳に飛び込んできた。彼女ははっとして現実に戻り、止めようとしたその瞬間、小さな声が耳を打った。「瑠璃お姉ちゃん」君秋は静かに、そう答えた。瑠璃の心臓が一瞬、強く鼓動した。夏美も呆然とした。「君ちゃん……今、瑠璃お姉ちゃんって言ったの?それって、四宮瑠璃のこと?」君秋はこくんとうなずき、突然、小さな手で瑠璃の右腰の後ろを指差した。「瑠璃お姉ちゃんの、ここのところに、このちょうちょがあるよ」「……」「……」まさか本当に、君秋があの母斑を見たことがあったなんて――三年前に「死んだ」自分のことを、当時まだ二歳だった君秋が、こんなにも鮮明に覚えていたなんて。瑠璃は完全に予想外の展開に言葉を失った。「な、なに?」夏美は混乱したまま、視界が暗くなっていくのを感じた。まるで全身から力が抜けるような感覚に襲われ、よろめきながら倒れそうになる。瑠璃はすぐに我に返り、夏美の体
瑠璃はその微笑を浮かべたまま眠る顔を冷ややかに見つめ、薄く唇を引き結んだ。三年間ほとんど毎晩眠れなかったって言ってたんじゃなかった?なのに、昨夜はずいぶんと気持ちよさそうに眠っていたじゃない。ふん、隼人――あなたは本当に、私の死を悔やみ、不安に感じたことなんてあったの?いいえ、あなたは一度だって、そんなことなかった。彼の顔を一瞥し、瑠璃は素早く身支度を整えて部屋を出た。ちょうどその時、君秋が部屋から出てくるところだった。「君ちゃん、おはよう」彼女は優しく微笑みながら彼のもとへ歩み寄った。「学校へ行くのね?ヴィオラお姉ちゃんが朝ごはんを作ってあげようか?」君秋はその言葉を聞いて、キラキラした大きな目で見上げながらコクリと頷いた。「うん」その愛らしく整った小さな顔を見て、瑠璃の気分は一気に和らいだ。メイドたちは朝早くから朝食の準備をしていたが、それでも瑠璃は自らキッチンに立ち、君秋のために簡単で栄養バランスの良い朝ごはんを作った。君秋は食卓につき、目の前のハート型の目玉焼きをじっと見つめていたが、なかなか箸を取ろうとしなかった。瑠璃は彼の反応が気になって声をかけた。「君ちゃん、目玉焼きが苦手?食べたいものがあれば教えてね、ヴィオラお姉ちゃんがすぐ作ってあげる」そう言った直後、君秋は首を横に振った。その澄んだ目にはまっすぐな喜びが宿っていて、彼は小さな口を開き、可愛らしい八重歯を覗かせながら言った。「ありがとう、ママ」――ママ。瑠璃は一瞬、言葉を失った。まさか君秋がこんなにも早く、そして自分から「ママ」と呼んでくれるなんて、夢にも思わなかった。普通の子供なら、継母には少なくとも嫌悪感を持つものなのに。なのに君秋は、心から自分を慕ってくれている。瑠璃の目尻が熱くなり、そっと君秋の頭を撫でながら、慈しみに満ちた眼差しを向けた。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんは、あなたを本当の我が子のように大切にするからね。これからは、あなたを心から愛するママがそばにいるよ」君秋はコクリと頷き、その小さな顔にこれまで見たこともないほど自由で幸せそうな笑顔を咲かせた。その笑顔を見て、瑠璃の心もとろけるように温かくなった。これまでの愛や憎しみも、復讐も、その笑顔の前では全てが小さく思えた。朝食
その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の表情がわずかに変わった。――母斑。もし今この場で夏美が、自分の体にあるその母斑の形を口にしたら、これまでの計画がすべて水の泡になってしまう。「どんな母斑?」隼人が不思議そうに問い返した。「蝶の――」「隼人……なんだか急に、頭がクラクラするの……」夏美が「蝶の」まで口にしたその時、瑠璃は眉間を寄せて弱々しく隼人にもたれかかった。隼人の意識はすぐに瑠璃へと戻った。彼はすぐに彼女を抱き上げた。「病院へ連れていこう」「病院なんて必要ないわ。ただ少し、疲れただけよ」瑠璃は彼の肩に身を預けながら、かすかに囁いた。隼人に抱かれてその場を離れる彼女を見送りながら、夏美と賢の心には、どこか得体の知れない不安がじんわりと広がっていった。夜が更けて、窓辺の大きな木をそよ風が揺らし、ささやくような音を立てていた。瑠璃はベッドに横たわっていたが、まったく眠気はなかった。それでも、目を閉じて、眠っているふりをしていた。今夜は彼女と隼人の新婚初夜だった。彼が今どんな気持ちでいるのか、彼女には分からない。だが彼と肌を重ねることだけは、どうしても避けたかった。しばらくすると、バスルームから水の音が止み、隼人が静かに出てくる足音が聞こえてきた。まるで彼女を起こさないようにと、意図的に足音を抑えているようだった。やがてベッドの片側がわずかに沈み、隼人がそこに横たわったのが分かった。彼の体温と気配が、じわじわと瑠璃の側に近づいてきた。瑠璃の心臓がわずかに早く鼓動し、毛布の下にある手が静かに強ばっていく。彼がまさか、そんなつもりじゃ……そう思った矢先、頬にふわりとあたたかな吐息が触れた。キスされるかもしれない――その不安に駆られ、瑠璃は一気に目を開けた。その瞬間、彼女の瞳は深く静かな目とぶつかった。「起こしてしまったか?」男の低くて優しい声が耳元でささやいた。瑠璃は口角を少し引き上げた。「ううん」「それならよかった」隼人は穏やかに微笑み、長くしなやかな指で彼女の頬に触れ、その美しい顔がゆっくりと近づいてきた。そして、彼の唇は彼女の口元にそっと触れた。瑠璃は彼を押しのけた。「隼人……私、妊娠してるのよ。あんまり無理はできないわ」隼人は顔を上げて彼女を見つめ、その目に探るような光を
だが、この結婚式は心からのものではなかったとはいえ、瑠璃は今日、君秋がフラワーボイとして来てくれたことが嬉しかった。そして人混みの中には、夏美と賢の姿もあり、彼らが式に出席してくれたことで、ある意味、両親からの承認を得られたとも言えた。しかし、隼人の母は当然ながら不満げだった。隼人の母と親しい上流階級の婦人が祝福にやってきた。「目黒夫人、今回の新しいお嫁さんは本当にすごい方ね。お金もあって、有能で、それにあんなに綺麗だなんて。きっと今回はご満足でしょう?」「お金があって何?うちにお金が足りないとでも?綺麗な女なんてこの世に山ほどいるわよ。あの子なんて大したことないわ!」隼人の母は軽蔑したように、ちょうど招待客にお酒を注いでいた瑠璃に目を向けて白い目を向け、そっぽを向いた。そして夏美と賢の姿を見つけると、急いで近づき親しげに話しかけた。「碓氷さん、碓氷夫人、まさかあの四宮蛍が偽者だったなんて、私もすっかり信じ込んでいたのよ。結果として騙されて、ほんとに腹立たしいわ」隼人の母は憤慨した表情でそう語りながら、さりげなく自分との関係を切り離した。夏美は困ったようにため息をついた。「実の娘を見つけたと思っていたのに……目黒家と親戚になるかもしれないと期待していたけど、まさかこんなことになるなんて」隼人の母はすぐに同調した。「誰が想像できたかしら、あの四宮家の連中があんなにひどいなんて。隼人の子供を産んだという一点だけが唯一の考慮だったのよ。それがなければとっくに詐欺で訴えてたわ!」彼女は憤りを込めてそう言い放ち、さらに残念そうな顔をして続けた。「碓氷家は景都でも有名な名門だから、もし親戚関係になれていたら、それはもう素晴らしいご縁でしたのにね。残念ながらお嬢さんが今も見つからないだなんて……もっと早く見つかっていれば、隼人と何か進展があったかもしれないし、こんな女にチャンスを与えることもなかったでしょうに!」そう言いながら、隼人の母は不機嫌そうに瑠璃に睨みを利かせた。夏美もその視線を追い、純白のドレスをまとい、まるで絵のように美しい瑠璃の姿を目にして、胸の奥がなぜかきゅっと痛んだ。「実は……ヴィオラも、そんなに悪い子ではないのよ」「碓氷夫人、ご存じないでしょうけど、この女はね、隼人の元妻である瑠璃に比べて、悪さでは上