隼人の視線は、メールに添付された詳細な鑑定結果のデータを素早く流し読みし、最終ページへと飛んだ。――その瞬間、呼吸が止まった。胸の奥にくすぶっていた疑念、期待、そして淡い願望、すべてが一瞬にして霧散した。鑑定報告には、「目黒陽菜と目黒隼人の間に親子関係は認められない」と明記されていた。しかし、「二人の染色体には、一部一致する部分が確認された」それは、目黒陽菜が瞬の実の娘であることを示していた。だからこそ、自分のDNAとの間にも近い遺伝情報が検出されたのだ。手の中のスマートフォンが、指の隙間から滑り落ちた。それにさえ気づかぬまま、隼人は虚空を見つめた。夕暮れの光が静かに彼の表情を照らし出す。どれほどの時間が過ぎたのか、やがて、彼は唇を僅かに持ち上げ、乾いた笑いを漏らした。やはり、ただの他人だったか。やはり――お前はもう、俺の元にはいないんだな。胸の奥が、ずしりと痛んだ。三年前に失ったものは、もう二度と取り戻せない。その喪失感と後悔は、彼の人生を永遠に蝕み続ける。もう、安らかに眠ることすらできないほどに。隼人の疑念が完全に払拭された頃、瑠璃は二日後のパーティーに向けて、準備に没頭していた。景市で最も豪華なホテルといえば、目黒グループ傘下の六つ星ホテルに他ならない。すでに会場は予約済みで、契約を交わしに向かおうとしたその時、店の入り口に、蛍の姿が見えた。彼女の表情は沈み、いつもの愛らしく柔和な雰囲気ではなく、どこか憂いを帯びていた。しかし、瑠璃は知っている。この女が、一度その仮面を剥がせば、どれほど攻撃的な本性を晒すのかを――。「千さん、少しだけお時間をいただけない?お話ししたいことがあるの」蛍は足早に近づき、控えめな口調で頼み込んだ。瑠璃は冷ややかに彼女を見下ろし、薄く笑った。「私たちに話すことなんてあったかしら?」そう言い放ち、そのまま歩き去ろうとした。「千さん、お願い――」背後から、蛍の弱々しい懇願の声が響いた。「ほんの少しでいいの。時間を取らせないわ」瑠璃は足を止め、美しい横顔をわずかに傾けた。「……そんなに頼み込むのなら、仕方ないわね、十分だけよ」「ありがとう」蛍は感謝を述べるが、瑠璃には、それが何よりも胡散臭く聞こえた。近くのカフェ。席につくなり、蛍は愛想よく注文を済ま
蛍は、一瞬表情をこわばらせたものの、すぐに涙を浮かべた楚々とした姿を装い、今にも泣き出しそうな声で言った。「千さん、つまりあなたは、私の婚約者に執着し、どうしても愛人になりたいということ?」瑠璃は、ゆっくりと唇を開いた。「あなたの誕生日に鏡を贈った理由、わかる?」「……」蛍の顔色が一瞬沈んだ。「どうやら、まだ自分の立場を理解していないようね、だからこそ、目黒隼人は何年経ってもあなたと結婚しないのよ」瑠璃は意味ありげに微笑んだと、そのまま席を立った。「千ヴィオラ!!」蛍は勢いよく立ち上がると、必死に取り繕っていた優雅な仮面が一瞬でひび割れ、怒りを剥き出しにした。「私が下手に出てやれば、いい気になって――いいわ、覚えておきなさい!私を敵に回したら、どんな目に遭うのか、すぐに思い知ることになるわよ!」瑠璃は悠然と振り返り、怒りで顔を歪める蛍を見下ろした。「だったら、その日が来るのを楽しみにしてるわ」そう言いながら、スマートフォンを握りしめる。そうよ。楽しみにしてる。来るなら来い。彼女は、いつでも準備できている。瑠璃が去るのを見届けると、蛍は憤然と隣の個室へ向かった。「どう?ちゃんと撮れた?」怒気を含んだ声で問いただした。「もちろん」スマートフォンを操作しながら、その男は頷いた。蛍の目が冷酷に細められた。「フン、千ヴィオラ……いい気になっていられるのも今のうちよ。地に叩き落としてやる。あの瑠璃が味わった地獄を、そっくりそのままな!」カフェを出た瑠璃は、その足でホテルへ向かった。すると、予想外の人物が出迎えに現れた。隼人だった。前回会った時よりも、彼の視線が以前よりも落ち着いていることに気づいた。どうやら、瞬がうまく動いてくれたようだ。瑠璃は蛍との一件には触れず、淡々と仕事の話を済ませた。契約が無事に完了した後、隼人が声をかける。「ヴィオラさん、一緒に昼食でもどう?試食も兼ねて」瑠璃は躊躇せず、その申し出を受けた。隼人に案内されたのは、ホテルのVIP個室。三階という低めのフロアから見える景色は、心地よい秋風に揺れる枯葉が舞い、窓の外を蝶のように舞っていた。夏の終わりを告げるような、ひんやりとした空気が漂う。隼人はワインを注ぎ、自分でも数杯飲んだ。やがて、彼の端正な顔にほ
隼人は、ほろ酔いのまま険しい表情を浮かべ、低く呟いた。「……ああ、彼女だ」長い沈黙の末、瑠璃は彼の肯定を得た。彼女。隼人がずっと愛し続けていたのは――蛍。瑠璃は、握りしめたワイングラスの指を、一本ずつぎゅっと強張らせる。心の奥底に燻っていた憎しみの炎が、一瞬にして燃え広がった。それでも、その炎は彼女の中に渦巻く悔しさや苦しみを、すべて燃やし尽くすことはできなかった。「千璃ちゃん、ずっと一緒にいるよ。俺が守る。君を、俺の花嫁にするんだ――」幼い頃、波の音と共に囁かれた少年の約束が、秋風のように耳を掠める。けれど、その約束はすでに遠く吹き飛ばされてしまった。瑠璃は無言のまま、ワイングラスを持ち上げ、中の液体を一気に飲み干す。ほんの一瞬、胸の奥が鋭く痛んだ。それは、まるで細い針で突かれたような痛み――かつての自分が愛しくて、哀れで、苦しくなる。純粋に、ひたむきに、彼が迎えに来ると信じて待ち続けた少女時代。待ち続けた末に得たものは、隼人の冷酷な仕打ちと、幾度となく繰り返された地獄だった。瑠璃は、この眉間には、消えない憂いの色が滲んでいた男を冷ややかに見つめた。目には憎しみを満ちた。隼人。私は、あなたがただ薄情な男だと思っていた。けれど、本当は最初から一度たりとも、私を愛してなどいなかったんだな。千璃ちゃんと呼んでいたあの頃も、あなたの言葉はただの戯れ言だった。――本当に愛していたのは、蛍。……いいわ。そんなに彼女を愛しているのなら、存分に愛せばいい。この先、地獄の底まで。隼人がどのタイミングで眠ってしまったのかはわからなかった。目が覚めた時には、すでに個室は静まり返っており、瑠璃の姿はどこにもなかった。額に手を当て、昨夜の記憶を辿る。すると、無意識にポケットへ手を伸ばしていた。指先に触れたのは――あの七色の貝殻。そっと取り出し、掌の上に転がしてみる。刹那、彼の意識は時間の狭間に吸い込まれるように、遠い記憶の中へ沈んでいった――。あの年、祖父に連れられて訪れた海辺の別荘。けれど、彼にとってそこは決して楽しい場所ではなかった。幼いながらも、「目黒家の跡取り」という重圧に押し潰されそうになりながら、心のどこかで息苦しさを感じていた。そんな時だった。あの少女が、目の前に現れたのは――
――二日後、酒会が予定通り開催された。Miss L.adyのブランドは今や業界のトップに君臨しており、今夜の酒会には上流階級の名士が集い、とりわけ名門のご令嬢や貴婦人たちが多く出席していた。瑠璃もすでに準備を整えていたが、彼女の胸中には複雑な感情が渦巻いていた。なぜなら、今夜の会場には夏美――彼女を生んだにもかかわらず、彼女を失い、その後も探そうとしなかった母親――が訪れることを知っていたからだ。本社のマネージャーから電話を受け、瑠璃は静かに会場へと足を踏み入れた。華やかなシャンデリアの下、煌びやかなドレスに身を包んだ貴婦人や令嬢たちが集い、互いのジュエリーを称賛し合いながら優雅に談笑していた。彼女が姿を現すと、瞬く間に人々の視線が集まった。シャンパンゴールドのドレスは彼女の優雅な曲線を引き立て、漆黒のロングヘアはその肌の白さを一層際立たせる。歩みを進めるたびに、彼女の周囲にはかすかに甘美な香りが漂い、思わず香りを追う者も少なくなかった。「彼女が千ヴィオラ?」「聞いたことがあるわ。水晶街の一号店を買い取って、Miss L.adyのフランチャイズ店を開いたとか」「それが景市初のMiss L.adyの店長?綺麗な人ね、それにやり手みたい」「やり手?冗談じゃないわ。ただの金持ちに飼われた愛人じゃない?」「なるほどね。それで納得したわ。若い女が何の後ろ盾もなしに成功できるはずがないもの。今回の酒会は、彼女に箔をつけるためのものってわけね」――周囲からの皮肉や揶揄が聞こえてきたが、瑠璃は淡々と微笑みながら歩を進めた。やがて、彼女の視線は会場の中心にいるMiss L.ady本社のマネージャーとデザインディレクターを捉えた。彼らは数人のゲストと談笑していたが、その中には夏美と蛍の姿もあった。その時、マネージャーとディレクターが彼女の存在に気づき、ゲストたちに紹介を始めた。「皆さん、ご紹介しましょう」デザインディレクターが満足げな笑みを浮かべながら、瑠璃に目を向けた。その瞬間、夏美と蛍も振り返り、一瞬驚愕の表情を浮かべた。だが、それも束の間、軽蔑と嘲笑の色に変わる。特に蛍の目には、陰険な笑みがちらついていた。瑠璃は、今夜の主役として堂々と微笑み、ゆっくりと歩み寄った。「こちらの千ヴィオラ様は、Miss L.ad
女性の怒り声が耳をつんざくように響き渡り、瞬く間に周囲の注目を集めた。瑠璃は視線を上げ、目の前の憤怒に満ちた顔をはっきりと捉えた。その瞬間、彼女の脳裏に数年前の悪夢が鮮明に蘇った。――あの日、彼女は重病を宣告された直後にもかかわらず、隼人の指示に従い、体調を押して目黒家の母親の誕生日パーティーへ急いで向かった。しかし、邸宅に足を踏み入れるや否や、目の前のこの女にぶつかられた。そして、女は謝るどころか、逆に彼女を責め、さらには「手首のブレスレットを盗んだ」と罵倒した。その後、「救世主」のように登場した蛍が、「善意」のふりをして事態を収拾するそぶりを見せたが、混乱の中でこっそりと瑠璃のポケットにブレスレットを滑り込ませた。結果、孤立無援の瑠璃は身の潔白を証明する術を失い、窃盗の濡れ衣を着せられた。周囲の視線は冷たく、彼女を指さし、蔑みの声が飛び交った。――後に、瞬が密かに清廉を証明する証拠を送ってくれたが、その証拠は隼人の手によってあっさりと葬られた。理由は明白だった。隼人は蛍を愛していた。だからこそ、彼女の罪を見て見ぬふりし、どこまでも甘やかしたのだ。瑠璃は忘れない――あの日、この女は彼女を「物乞いの小娘」と罵り、蛍はこの女を「陸田夫人」と親しげに呼んでいたことを――。「何をぼんやりしているの!早く私のブレスレットを外しなさい!」全身に高価な装飾をまとった陸田夫人は、乱暴に瑠璃の手首をつかみ、怒りに満ちた視線を向けた。瑠璃は回想を断ち切り、鋭い眼差しで陸田夫人の手を一瞥した。「手を離しなさい」その口調は冷淡だった。唇には薄い笑みを浮かべていたが、その佇まいからは強い威圧感が滲み出ていた。陸田夫人は一瞬、彼女の迫力に気圧されたかのように動きを止めた。しかし、次の瞬間、相手の態度に激昂し、さらに力強く手首を握りしめる。「はっ!私を脅すつもり?!」彼女は高慢に鼻を鳴らし、傲慢な目を細めながら瑠璃を上から下まで舐めるように見た。「ふん!どうせ、あんた最近も散々盗みを働いてきたんでしょう?それとも金持ちの男を騙して、こんな豪華なドレスを着られるようになったの?それで今夜のパーティーに紛れ込んで、また盗みを働こうって魂胆ね!」「陸田夫人、それは誤解です!ヴィオラがそんなことをするわけがありません!」本
周囲では次第に囁き声が広がり、あちこちで嘲笑や非難の声が飛び交い始めた。そんな中、蛍は上機嫌な笑みを浮かべ、夏美の耳元で何かを囁いていた。やがて彼女は優雅な足取りで瑠璃のもとへ歩み寄ると、ため息混じりに言った。「千さん、あなたが瑠璃と顔が瓜二つなのは知っていたけど、まさか『すること』までそっくりだとは思わなかったわ」その言葉には明らかな嘲笑の色が滲んでいた。「陸田夫人、あなたの言う通りよ。確かに目黒家には以前、あなたの手首のブレスレットを盗んだ者がいたわ。でも、それはあなたが今、掴んでいるこの女ではないの。ただ、二人はよく似ているだけ」「な、何ですって?でもこの顔……絶対にこの女だったはず!」陸田夫人は瑠璃の顔を指差し、断固として主張した。「陸田夫人、確かに違いますよ」そこへ隼人の母も加わり、冷ややかな視線を瑠璃へ向けながら言った。「千ヴィオラ、まさかあなたがMiss L.adyの店長でありながら、客のブレスレットを盗むなんてね。本当に呆れるわ」「盗み癖があるだけじゃないわよ」夏美が冷笑しながら追い討ちをかける。「どうやら他人の婚約者を盗むのも得意みたいね」その一言で、会場の空気はさらに冷え込み、周囲の視線は一層冷淡で侮蔑的なものとなった。陸田夫人はさらに勢いづき、より強く瑠璃の手首を締め上げる。「やっぱりあんたが盗んだんだな!恥知らずな泥棒め!今すぐ警察へ連れて行く!」彼女は怒声を上げながら、乱暴に瑠璃を引っ張ろうとした。本社のマネージャーとデザインディレクターは見ていられず、すぐに仲裁に入ろうとした。だが、その瞬間、瑠璃は微動だにせず、逆にわずかに力を込めただけで、陸田夫人の手を振りほどいた。バランスを崩した陸田夫人は後方によろめき、そのまま蛍の足を踏みつけた。「痛っ!」蛍は鋭い悲鳴を上げ、反射的に陸田夫人を押しのける。「貴方、何するのよ!」陸田夫人が再び瑠璃を罵倒しようとした、その時――「これ以上、無茶を言うのなら、保証するわ。警察が来た時に捕まるのは私ではなく、あなたになるわよ」瑠璃は静かに、しかし確固たる口調で言葉を紡いだ。彼女の声は冷たく、それでいて心地よく響く。周囲の視線はなおも批判的だったが、それでも彼女は動じなかった。背筋を真っ直ぐに伸ばし、優雅で気品ある佇まい
本部マネージャーとデザインディレクターが言った途端に、会場全体の雰囲気は次第に熱を帯びていった。先ほどまで瑠璃を指差し、執拗に非難していた陸田夫人は、瞬時に呆気に取られた表情を浮かべた。それだけではなく、蛍たちも信じられない様子で瑠璃を見つめ、全員が目を丸くしていた。「な、なんだって?」蛍は眉をひそめ、震える指で瑠璃を指しながら、搾り出すように問い詰めた。「あんたたちの言うことが本当なら……彼女、千ヴィオラがMiss L.adyのチーフデザイナーだってこと!?」その言葉には、信じたくないという強い拒絶の感情が滲んでいた。しかし、すぐに返ってきたのは疑う余地のない答えだった。「その通りです。この方こそがMiss L.adyの創設者であり、専属チーフデザイナーのVeraです」「……」「……」蛍はその場で完全に凍りついた。口を開いたまま、優雅で落ち着いた表情の瑠璃をじっと見つめ、一瞬言葉を失い、呆然とした。夏美と隼人の母も顔を見合わせ、今まさに目の前で起きている出来事を到底受け入れられずにいた。この女が、そんな大物だったなんて!?しかも、この二年間、社交界で最も人気を博したジュエリーが、すべて彼女のデザインだったというのか!?信じられない――こんなこと、あっていいはずがない!「では、奥様。うちのヴィオラが、あなたのブレスレットを盗む理由がどこにあるでしょう? それに、あなたは詐欺に遭い、偽物を掴まされた可能性が高いですね」デザインディレクターが堂々とした口調で問い返した。「……偽物ですって!?そんなはずはない!私は200万円も出して買ったのよ!」女は怒りに震えながら叫び、納得がいかない様子で瑠璃を睨みつけた。「明らかにこの女が盗んだのよ!あんたたちはグルなんでしょ!」「なるほど、つまり私があなたのブレスレットを盗んだと主張するのね?」瑠璃は整った眉をわずかに上げ、淡々と問いかけた。「そうよ!」女は悔しさを滲ませながら、指を突きつけて叫んだ。「わかったわ」瑠璃は静かに唇を開き、傍らのデザインディレクターに視線を向けた。「Sasa、今すぐ弁護士の三島先生に連絡して、私の代理で名誉毀損の訴訟準備を進めてもらって」「承知しました。すぐに手配します」デザインディレクターは即座に動き出
瞬は、仕立ての良いスーツを纏い、優雅で洗練された雰囲気を漂わせていた。しかし、その端正な眉間には怒りの色が浮かび、普段は感情を表に出さない彼の穏やかさが打ち破られていた。「今すぐ俺の婚約者に謝れ。さもなければ、弁護士を通じた警告では済まなくなるぞ」「……」女は瞬のことを知らなかったが、その鋭い眼差しから放たれる冷たい威圧感に思わず身をすくませた。そんな中、瑠璃は静かに歩み寄り、自然な仕草で瞬の腕にそっと手を回した。「瞬、もういいわ。こんな形だけの謝罪なんて必要ないわよ。皆、私の無実を知ってくれればそれでいい」「それではダメだ」瞬は優しく瑠璃を見つめながら、きっぱりと言い切った。「誰であろうと、君を傷つけ、貶めることは許さない。たった一文字でも」彼の言葉には、強い決意と揺るぎない庇護の意志が込められていた。その圧倒的な包容力に、瑠璃は彼の瞳を見つめたまま、ふと心臓が跳ねるのを感じた。気のせいだろうか。この瞬間、彼の瞳に、今まで見たことのないほどの深い愛情と所有欲が宿っている気がした。言葉を発する前に、周囲にいる若い令嬢たちの頬が紅潮しているのが目に入った。どうやら、彼の一言一句に心を奪われてしまったらしい。その光景を目の当たりにした蛍は、嫉妬で胸が煮えくり返る思いだった。瑠璃と瓜二つの顔を持つこの女が、もともと大嫌いだった。今夜こそ彼女を晒し者にするつもりだったのに、まさか事態がここまで逆転するとは!「まだ謝らないのか?それとも、警察署でなら謝るつもりか?」瞬の冷ややかな声が響く。女は彼の鋭い眼光に震え上がり、慌てて口を開いた。「ご、ごめんなさい!勘違いして、あなたを疑ってしまいました。本当に申し訳ありません!」――三年。瑠璃は、まさかこの日が来るとは思っていなかった。もし、あの時、隼人があんなにも冷酷でなければ、三年前にこの謝罪を受けていたはずだった。複雑な想いが胸をよぎる中、ふと視線を感じて顔を上げると、蛍がじっとこちらを窺っていた。目が合うと、彼女は慌てて視線を逸らした。女は謝罪を終えると、そそくさと立ち去ろうとした。しかし――「待て」瞬が再び呼び止めた。「謝るべき相手は、俺の婚約者だけじゃないだろう」意味深な言葉に、女は一瞬戸惑いの表情を浮かべた。「……どういう意味
瑠璃は微笑みながら、口を開こうとしたその時、スマホが鳴った。画面を確認すると、瞬からの着信だった。彼女はごく自然に電話を取り、簡単にやり取りしただけで通話を切った。「隼人、お店でちょっとトラブルがあって、今戻らないといけないの」「送っていくよ」「いいの、夜にまた会いましょう」そう言って背を向けて歩き出した瞬間、隼人が手を伸ばして彼女を引き止めた。不思議そうに振り返った瑠璃の唇に、隼人はそっとキスを落とした。「Kiss Goodbye」「……」心の中では拒絶していたが、瑠璃は笑顔でそれを受け入れた。彼女が去っていく背中を見つめながら、隼人の唇に浮かんでいた微笑はゆっくりと消えていき、目の奥に潜んでいた鋭さもすっかり色褪せ、代わりに残ったのは後悔の色だった。――さっき、夏美が「瑠璃が自分たちの娘だ」と言った時、彼の心の中でずっと繋がらなかった点と点が、完璧な形でひとつに結びついた。「千璃ちゃん……」彼の薄く色気のある唇から、静かにその名が零れた。そこには、深い愛と悔しさが込められていた。……瑠璃は瞬と合流し、これまでに得た情報を伝えた。「隼人のパソコンにはロックがかかっていて、あなたが欲しがっているデータを手に入れるのは簡単じゃない」「それでも、彼のオフィスの配置を把握できただけでも十分すごい」瞬はそう言って振り返り、黒曜石のように輝く瞳に優しい光を湛えて瑠璃を見つめた。「本当は、情報よりも君に会いたかった」「欲しいものを手に入れて、計画を完遂すれば、あなたのもとへ戻るわ」「……本当に戻ってきてくれるのか?」瞬の目には、一抹の不安が浮かんでいた。「君はかつて、隼人を深く愛していた。今は、本当に彼に対して何の気持ちもないのか?」その問いに、瑠璃は少し笑って、静かに息を吐いた。「かつてどれだけ愛していたか……今はそれだけ、彼を憎んでる」彼女は遠くの海を見つめながら、続けた。「私の彼への愛は、四月山の海底に沈んでしまった。二度と戻れない……」……一方その頃。夏美と賢は、瑠璃の遺品を探すことを諦めていた。そんな時、不意に隼人から電話がかかってきた。指定された場所で隼人と落ち合うと、彼はひとつの透明なビニール袋を夏美に手渡した。「これは……」夏美は驚きながら
瑠璃が止める間もなく、夏美の口からその言葉が飛び出した。一瞬にして、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。瑠璃は視線を動かさず、余所見するように隼人の表情を窺った。彼の顔にはわずかに複雑な色が浮かび、驚いているようにも見えたが、どこか平静さを保っているようにも思えた。瑠璃は静かに数秒考えたあと、あえて沈黙を破った。「碓氷さん、碓氷夫人、本当に四宮瑠璃がご自身の娘だとお思いですか?」夏美はまっすぐに彼女を見つめた。「科学的な証明はまだないけれど、私は九割の確信を持っている。瑠璃は、私の娘よ!」彼女の口調には揺るぎのない確信があり、その涙を湛えた瞳は、名残惜しそうに瑠璃の顔をじっと見つめていた。「ヴィオラさんには、娘さんがいるよね?」夏美は突然そう訊ねた。瑠璃は頷いた。「はい」「以前、幼稚園の前であなたの娘さんを見たとき、私は本当に驚いた。娘の幼い頃にそっくりだった。でも今になって、その理由がわかった。あなたの娘さんはあなたに似ていて、あなたの顔は瑠璃とほとんど同じだったから……」夏美の言葉を聞いて、瑠璃はようやく思い至った。あのとき、確かに夏美は陽ちゃんを見つめて、しばらく動けなくなっていた。なるほど、そういうことだったのか。――三十年近く経っても、母は私の赤ん坊の頃の顔を覚えていてくれたのだ。その事実に、瑠璃の胸の奥に、じんわりとした温かさが広がった。長い間、両親のいない日々を生きてきた彼女は、ようやく「愛されていた」という感覚を噛みしめていた。それが、誰にも知られぬ密かな想いだったとしても。そんな思いにふけっていた矢先、賢の言葉が静かに隼人に向けられた。「隼人様……あなたが瑠璃を憎んでいたことは知っている。策略に嵌められ、無理に結婚させられたと思っていたのでしょう。でも今では、全てが蛍の罠だったとわかっているはず。そして……瑠璃は、もう三年も前に亡くなっている」そこまで語ると、賢の声は詰まり、しばらくして再び続けた。「隼人様、僕たち夫婦にあなたを責める資格などない。今日伺ったのは、ただ……かつて夫婦であったご縁に免じて、お願いしたいことがあるんだ」「生きて再会できなくとも……私たちはせめて、娘に名前と血筋を返してやりたいの。無名のまま、彷徨う魂にだけは、なってほしくないよ……」
透明なガラスの壁一面の窓の外には、広大な川の流れが見え、その向こうには街全体を見下ろせるような絶景が広がっていた。こんな一等地のオフィスに座れる人間など、そうそういるものではない。だが、かつて自分は、この場所に入ることすら許されなかった。彼は自分の夫だった。それなのに、彼のオフィスには一歩も踏み入れる資格さえ与えられなかった。その一方で、彼は別の女がここを自由に出入りするのを黙認していた。瑠璃は唇の端をわずかに上げ、静かに思い返しながら、持ってきた料理を丁寧に取り出して並べた。もちろん、もう彼のためにエプロンをつけて料理を作ることなどない。かつて一方的に尽くした日々は、すでに過去のものだ。隼人の機嫌は良さそうだった。料理が彼女の手作りかどうかを疑うこともなく、美味しそうに食べていた。晩秋の午後のやわらかな陽光が、黒いシャツを身にまとう彼の肩に静かに降り注ぎ、彼の深い瞳を柔らかく照らしていた。食事の後、瑠璃は給湯室でフルーツを切り、フォークに刺して隼人の口元へ差し出した。「甘い?」彼女は笑顔で尋ねた。隼人は静かに頷き、その深いまなざしで彼女の美しい顔をじっと見つめていた。この瞬間が、少しでも長く続いてくれればと願うように……だが、フルーツを食べ終える前に、隼人は重要な電話を受け、席を外すことになった。瑠璃は、すぐに彼の私物のパソコンを調べ、自分の計画を進めようとした。だが室内を見回すと、監視カメラが設置されていることに気づいた。無理に行動すれば、すぐにバレる。仕方なく、彼女はフルーツの皿を片づけ、さらに気を利かせるふりをして、隼人のデスクを整え始めた。整理の最中、彼女はわざとマウスを床に落とし、それを拾い上げながらパソコンを操作する素振りを見せた。だが、パソコンにはロックがかかっており、中を見ることはできなかった。諦めざるを得なかったが、何も得られなかったわけではない。ちょうどその時、隼人が戻ってきた。だが、聞こえてきたのは三人分の足音だった。顔を上げた瑠璃は、隼人の後ろに立っている夏美と賢の姿を見て、思わず心が跳ねた。彼女は、夏美と賢が自分が瑠璃であることに気づいたことを隼人には話していなかった。もし今、彼らがそのことを口にすれば、全てがバレてしまう。胸中で不安を抱えながらも、瑠璃は穏や
一瞬の出来事だった。瑠璃の叫び声が響いたその瞬間、夏美と賢の耳にその言葉が飛び込んだ。死を覚悟して身を投げようとしていた夏美は、驚きで半分以上乗り出していた体をぴたりと止め、涙に濡れた顔をぼんやりと瑠璃の方へ向けた。その視線の先には、記憶の中で憎んできた女と瓜二つの顔を持つ少女が立っていた。「お母さん、千璃は死んでなんかいないよ。私のために死のうとしないで」瑠璃は優しく微笑みながら、静かにそう言った。「もう戻って。お父さんを心配させないで」「千璃……」夏美は呆然としたまま瑠璃を見つめていたが、ゆっくりと身体を引き戻し、危険な縁から離れていった。賢もまた、しばらくの間瑠璃を見つめていたが、ようやく我に返ると急いで夏美の手を取り、病室へと引き戻した。そしてすぐさまバルコニーの扉に鍵をかけた。「き、君は……瑠璃なのか?本当に……瑠璃なのか?」夏美は震えるように瑠璃の元へ駆け寄り、彼女の手をぎゅっと握った。温もりを与えたくて、その手を包み込んだが――自分の手のひらは氷のように冷たかった。期待と感激のまなざしで彼女を見つめる夏美と賢。だが、瑠璃はただ静かに微笑んだ。「碓氷夫人、ご無事でよかったです。命を粗末にしてはいけませんよ。衝動は悪魔を呼びます」「……」夏美と賢は同時に固まった。今の言葉が、ただ、夏美を助けるための演技だったと理解した瞬間――さっきまで天国にいたような気持ちは、一気に地獄へと叩き落された。彼らにはわかっていた。瑠璃は三年前、治療不可能な病で亡くなったと。でも、もし自分たちがあの時、何度も彼女を追い詰めなければ――彼女はもっと長く生きられたのかもしれない。思い返すのは、あの日。病に侵されながら、苦しい身体で蛍と隼人の婚約式に現れた彼女。それなのに、自分たちは彼女を罵倒し、侮辱した。彼女が血を吐いて倒れかけた時ですら、夏美はそれを「演技」だと決めつけ、冷たく突き放した。だがその「演技」の結末は――彼女の永遠の別れだった。そしてそれは、今もなお、二人の胸をえぐる痛みとなって消えなかった。病院を後にする頃、夏美はもう泣いてはいなかった。その深い喪失の痛みを、誰よりも理解できるのは、瑠璃自身だった。かつて、自分の我が子が命を奪われたと知った時、彼女もまた、生きる気力を失っ
賢は困惑した表情で瑠璃を見た。「千さん、どうして君が妻を病院まで?」「それは……」瑠璃が説明しようとしたその瞬間、病室の中から嗚咽混じりの泣き声が聞こえてきた。賢の顔色が一変し、すぐさま病室へ駆け込んだ。瑠璃は気を落ち着け、何事もなかったような顔で後に続いた。夏美はすでに目を覚ましていたが、今まさに泣き崩れていた。賢は心配そうに彼女のそばにしゃがみ込んだ。「夏美、どうしたんだ?なんでそんなに泣いてるんだ?」その声に、夏美はようやく賢の存在に気づいたかのように、はっと顔を上げた。涙で赤くなったその目には、取り返しのつかない深い痛みが浮かんでいた。「賢……どうして神様は私たちをこんなにも弄ぶの……どうして……」その声は震え、涙はまるで糸が切れた真珠のように次々と頬を伝って落ちていった。賢は話が見えず、ただ不安と焦りが増していくばかりだった。「夏美、どういうことだ?ゆっくり話してくれ。落ち着いて、泣かないで……」夏美は涙の中で苦笑し、青ざめた顔を上げて、賢の不安に満ちた視線を見つめた。彼女は懐から一つのペンダントを取り出した。「賢……私たちの実の娘を見つけたのよ」「なに!?本当か!娘を見つけたって!?本当に!?」賢の顔には一瞬にして喜びが広がった。「彼女はどこにいるんだ?夏美、娘は今どこにいる?」賢は興奮して問いかけたが、夏美は痛ましげに目を閉じた。「……もう、亡くなってるの」「……な、なんだって?死んだ?」賢は茫然として固まった。「私たちも、間接的に彼女を死なせてしまったのよ……」夏美は悔しさで唇を噛みしめながら顔を上げた。「四宮瑠璃こそが、私たちの本当の娘だったの……」「……な、なんだって?」夏美のその一言に、賢の全身が凍りついた。わずか数秒前の喜びは、瞬時に無残に砕け散り、その破片が胸の中に突き刺さるような痛みとなって押し寄せてきた。その傍らで、瑠璃は痛みに満ちた両親の姿を見つめながら、自分の胸にもじわじわと鈍い痛みが広がっていくのを感じた。「四宮……瑠璃が、俺たちの……娘だと?」賢は愕然としたまま目を見開いた。その脳裏には、かつて自分が瑠璃の頬を平手打ちした時の記憶がよみがえっていた。あの偽者の蛍をかばうため、彼は瑠璃を足で突き倒したことすらあった。あの時の
君秋のその一言に、瑠璃も夏美も、目を大きく見開いて驚いた。夏美もデザイナーであり、瑠璃の体にある母斑は、まさにA4用紙に描かれたその蝶とほぼ完全に一致していた。もしかして、どこかで自分の腰の後ろにあるその母斑が見えてしまい、それを君秋が目にしたのではないか――瑠璃の胸にそんな疑念が浮かんだ。「君ちゃん、この蝶を見たって言ったけど、どこで見たの?」夏美はしゃがみ込み、目を潤ませながら食い入るように尋ねた。「碓氷夫人、こんなにたくさんのビラを印刷されたんですか?それで娘さんを探そうと?」瑠璃は平静を装い、話題をそらした。夏美はうなずいた。「ネットでもたくさん情報を出しているけど、こうした手段も一つの方法だと思って。とにかく、娘を見つけられるなら、どんな手段でも使いたいの!」その声には、切実な願いと誠意があふれていた。彼女は心から、かつて失ってしまった我が子を見つけたいと思っているのだ。瑠璃の心は揺れ動き、思わず胸が締めつけられた。……もしかしたら、私の本当の両親を責めるべきじゃなかったのかもしれない。彼らは、蛍一家に騙されていただけ。自分たちの大切な子を探すために、利用されてしまっただけなんだ。でも……「君ちゃん、お願い。どこでこの蝶を見たのか、おばあちゃんに教えてくれない?」再び、夏美の必死の問いかけが瑠璃の耳に飛び込んできた。彼女ははっとして現実に戻り、止めようとしたその瞬間、小さな声が耳を打った。「瑠璃お姉ちゃん」君秋は静かに、そう答えた。瑠璃の心臓が一瞬、強く鼓動した。夏美も呆然とした。「君ちゃん……今、瑠璃お姉ちゃんって言ったの?それって、四宮瑠璃のこと?」君秋はこくんとうなずき、突然、小さな手で瑠璃の右腰の後ろを指差した。「瑠璃お姉ちゃんの、ここのところに、このちょうちょがあるよ」「……」「……」まさか本当に、君秋があの母斑を見たことがあったなんて――三年前に「死んだ」自分のことを、当時まだ二歳だった君秋が、こんなにも鮮明に覚えていたなんて。瑠璃は完全に予想外の展開に言葉を失った。「な、なに?」夏美は混乱したまま、視界が暗くなっていくのを感じた。まるで全身から力が抜けるような感覚に襲われ、よろめきながら倒れそうになる。瑠璃はすぐに我に返り、夏美の体
瑠璃はその微笑を浮かべたまま眠る顔を冷ややかに見つめ、薄く唇を引き結んだ。三年間ほとんど毎晩眠れなかったって言ってたんじゃなかった?なのに、昨夜はずいぶんと気持ちよさそうに眠っていたじゃない。ふん、隼人――あなたは本当に、私の死を悔やみ、不安に感じたことなんてあったの?いいえ、あなたは一度だって、そんなことなかった。彼の顔を一瞥し、瑠璃は素早く身支度を整えて部屋を出た。ちょうどその時、君秋が部屋から出てくるところだった。「君ちゃん、おはよう」彼女は優しく微笑みながら彼のもとへ歩み寄った。「学校へ行くのね?ヴィオラお姉ちゃんが朝ごはんを作ってあげようか?」君秋はその言葉を聞いて、キラキラした大きな目で見上げながらコクリと頷いた。「うん」その愛らしく整った小さな顔を見て、瑠璃の気分は一気に和らいだ。メイドたちは朝早くから朝食の準備をしていたが、それでも瑠璃は自らキッチンに立ち、君秋のために簡単で栄養バランスの良い朝ごはんを作った。君秋は食卓につき、目の前のハート型の目玉焼きをじっと見つめていたが、なかなか箸を取ろうとしなかった。瑠璃は彼の反応が気になって声をかけた。「君ちゃん、目玉焼きが苦手?食べたいものがあれば教えてね、ヴィオラお姉ちゃんがすぐ作ってあげる」そう言った直後、君秋は首を横に振った。その澄んだ目にはまっすぐな喜びが宿っていて、彼は小さな口を開き、可愛らしい八重歯を覗かせながら言った。「ありがとう、ママ」――ママ。瑠璃は一瞬、言葉を失った。まさか君秋がこんなにも早く、そして自分から「ママ」と呼んでくれるなんて、夢にも思わなかった。普通の子供なら、継母には少なくとも嫌悪感を持つものなのに。なのに君秋は、心から自分を慕ってくれている。瑠璃の目尻が熱くなり、そっと君秋の頭を撫でながら、慈しみに満ちた眼差しを向けた。「君ちゃん、ヴィオラお姉ちゃんは、あなたを本当の我が子のように大切にするからね。これからは、あなたを心から愛するママがそばにいるよ」君秋はコクリと頷き、その小さな顔にこれまで見たこともないほど自由で幸せそうな笑顔を咲かせた。その笑顔を見て、瑠璃の心もとろけるように温かくなった。これまでの愛や憎しみも、復讐も、その笑顔の前では全てが小さく思えた。朝食
その言葉を聞いた瞬間、瑠璃の表情がわずかに変わった。――母斑。もし今この場で夏美が、自分の体にあるその母斑の形を口にしたら、これまでの計画がすべて水の泡になってしまう。「どんな母斑?」隼人が不思議そうに問い返した。「蝶の――」「隼人……なんだか急に、頭がクラクラするの……」夏美が「蝶の」まで口にしたその時、瑠璃は眉間を寄せて弱々しく隼人にもたれかかった。隼人の意識はすぐに瑠璃へと戻った。彼はすぐに彼女を抱き上げた。「病院へ連れていこう」「病院なんて必要ないわ。ただ少し、疲れただけよ」瑠璃は彼の肩に身を預けながら、かすかに囁いた。隼人に抱かれてその場を離れる彼女を見送りながら、夏美と賢の心には、どこか得体の知れない不安がじんわりと広がっていった。夜が更けて、窓辺の大きな木をそよ風が揺らし、ささやくような音を立てていた。瑠璃はベッドに横たわっていたが、まったく眠気はなかった。それでも、目を閉じて、眠っているふりをしていた。今夜は彼女と隼人の新婚初夜だった。彼が今どんな気持ちでいるのか、彼女には分からない。だが彼と肌を重ねることだけは、どうしても避けたかった。しばらくすると、バスルームから水の音が止み、隼人が静かに出てくる足音が聞こえてきた。まるで彼女を起こさないようにと、意図的に足音を抑えているようだった。やがてベッドの片側がわずかに沈み、隼人がそこに横たわったのが分かった。彼の体温と気配が、じわじわと瑠璃の側に近づいてきた。瑠璃の心臓がわずかに早く鼓動し、毛布の下にある手が静かに強ばっていく。彼がまさか、そんなつもりじゃ……そう思った矢先、頬にふわりとあたたかな吐息が触れた。キスされるかもしれない――その不安に駆られ、瑠璃は一気に目を開けた。その瞬間、彼女の瞳は深く静かな目とぶつかった。「起こしてしまったか?」男の低くて優しい声が耳元でささやいた。瑠璃は口角を少し引き上げた。「ううん」「それならよかった」隼人は穏やかに微笑み、長くしなやかな指で彼女の頬に触れ、その美しい顔がゆっくりと近づいてきた。そして、彼の唇は彼女の口元にそっと触れた。瑠璃は彼を押しのけた。「隼人……私、妊娠してるのよ。あんまり無理はできないわ」隼人は顔を上げて彼女を見つめ、その目に探るような光を
だが、この結婚式は心からのものではなかったとはいえ、瑠璃は今日、君秋がフラワーボイとして来てくれたことが嬉しかった。そして人混みの中には、夏美と賢の姿もあり、彼らが式に出席してくれたことで、ある意味、両親からの承認を得られたとも言えた。しかし、隼人の母は当然ながら不満げだった。隼人の母と親しい上流階級の婦人が祝福にやってきた。「目黒夫人、今回の新しいお嫁さんは本当にすごい方ね。お金もあって、有能で、それにあんなに綺麗だなんて。きっと今回はご満足でしょう?」「お金があって何?うちにお金が足りないとでも?綺麗な女なんてこの世に山ほどいるわよ。あの子なんて大したことないわ!」隼人の母は軽蔑したように、ちょうど招待客にお酒を注いでいた瑠璃に目を向けて白い目を向け、そっぽを向いた。そして夏美と賢の姿を見つけると、急いで近づき親しげに話しかけた。「碓氷さん、碓氷夫人、まさかあの四宮蛍が偽者だったなんて、私もすっかり信じ込んでいたのよ。結果として騙されて、ほんとに腹立たしいわ」隼人の母は憤慨した表情でそう語りながら、さりげなく自分との関係を切り離した。夏美は困ったようにため息をついた。「実の娘を見つけたと思っていたのに……目黒家と親戚になるかもしれないと期待していたけど、まさかこんなことになるなんて」隼人の母はすぐに同調した。「誰が想像できたかしら、あの四宮家の連中があんなにひどいなんて。隼人の子供を産んだという一点だけが唯一の考慮だったのよ。それがなければとっくに詐欺で訴えてたわ!」彼女は憤りを込めてそう言い放ち、さらに残念そうな顔をして続けた。「碓氷家は景都でも有名な名門だから、もし親戚関係になれていたら、それはもう素晴らしいご縁でしたのにね。残念ながらお嬢さんが今も見つからないだなんて……もっと早く見つかっていれば、隼人と何か進展があったかもしれないし、こんな女にチャンスを与えることもなかったでしょうに!」そう言いながら、隼人の母は不機嫌そうに瑠璃に睨みを利かせた。夏美もその視線を追い、純白のドレスをまとい、まるで絵のように美しい瑠璃の姿を目にして、胸の奥がなぜかきゅっと痛んだ。「実は……ヴィオラも、そんなに悪い子ではないのよ」「碓氷夫人、ご存じないでしょうけど、この女はね、隼人の元妻である瑠璃に比べて、悪さでは上