だが、これはさくらが意図的に仕掛けた策だった。実際のところ、陛下は現時点で御城番整理を望んでいない。余程の騒動でもない限り、陛下は些事に介入しない方針だ。均衡が最重要なのだ。特に今は謀反の調査中。燕良親王と淡嶋親王は疑念の対象となっているものの、確たる証拠はまだない。この時期に粛正を行えば、燕良親王が暗躍する口実を与えかねない。一人を籠絡すれば一族が従う――それは珍しい話ではない。さらに陛下には深い思惑があった。玄甲軍を掌握できないのなら、徹底的に腐敗させ、玄鉄衛による交代を自然な流れとする。しかし、さくらにとって、この無能な連中に御城番を掻き回させるわけにはいかなかった。些細な権力でさえ、民衆を苦しめる道具となる。御城番を完全に廃止するか、徹底的な改革を行うか――そうしなければ、御城番は朝廷の俸禄で養われる暴徒と化すだけだった。陛下が動かないのは、これまでの不祥事が全て揉み消されてきたからだ。しかし、一旦証拠を掘り起こし、弾正台に送れば、朝議での弾劾は避けられない。そうなれば、陛下とて黙っていられまい。さくらは陛下に逆らうつもりはなかった。だが、玄甲軍の大将として、配下の者が民を苦しめ、玄甲軍の名を汚すのを見過ごすわけにはいかない。このまま放置すれば、民の心の中で玄甲軍は、守護者たる精鋭から、民を虐げる悪党の集まりへと変わってしまう。村松はすぐに名簿を提出した。さくらはそれを一読した後、その夜、紫乃と紅竹を呼び寄せた。「この者たちを調べてほしいの」清湖が去る際、数名の部下を残していった。都景楼に雲羽流派の分館を開いたのだ。紫乃は今、手が空いていたため、この分館の采配を任されていた。部下たちも彼女の采配に従っている。二日後、北條守は刑部から追い出された。いや、正確には担ぎ出されて放り出された、と言うべきか。山田鉄男はその光景を目の当たりにして、言葉を失った。かつての部下である北條守。その所業には憤りを感じながらも、髪は乱れ、衣服は汚れ、朝廷の官吏の体面を汚すその姿に、思わず手を差し伸べた。だが、鼻を突く悪臭に、鉄男は袖で鼻を覆いながら手を放した。「どうしてこんな有様に……」北條守は魂の抜けたような目で、鉄男の姿にしばし呆然とした後、苦笑を浮かべた。「お恥ずかしい限りです」「笑い事ではありませんぞ」鉄男は
鉄男の妻は北條守が気に入らず、つまみを二、三皿だけ用意させると、下がってしまった。召使たちも連れ去る。あの臭気には我慢ならなかった。北條守は黙々と酒を煽るばかりで、料理には手をつけない。鉄男の妻の露骨な嫌悪も見透かしているようで、ますます沈んでいく。「何か食べろよ。酒ばかりじゃ……一体どうしたというのだ?」鉄男が声をかけた。北條守は杯を一気に干すと、突然机に伏せって泣き出した。大きな声は出さないものの、枕に顔を埋めたような、こもった啜り泣きが響く。鉄男は黙って酒を飲み、つまみを口に運ぶ。ただ泣き場所が欲しかっただけなのかもしれない。何を泣いているのかは分からないが。しばらくして、誰も慰めてくれないと悟ったのか、北條守は涙を拭って顔を上げた。涙で汚れが少し落ち、目の周りだけが妙に白く浮かび上がって、滑稽な様相を呈していた。思わず鉄男は噴き出してしまう。「私が笑い者だということは、山田殿もご存知なのですね」北條守は哀しげに笑った。「私こそ、この上ない道化です」鉄男は一度頷いたが、すぐに首を振る。因果は巡るものだ。「なぜ家に帰らないのだ?」「帰って何になる」北條守は立て続けに二杯を煽った。「罵られ、嘲笑われるだけだ」「官位も捨てるつもりか?」山田は口角を引きつらせた。「陛下のご機嫌を損ねれば、前途はない」「どうせ失うものだ。いや、元より前途などなかったのかもしれん。降格に減俸三年……家で無為に過ごすくらいなら、外で過ごした方がましだ。陛下の御目を穢さずに済む」鉄男は眉をひそめた。「真面目に仕事をすればいいだけだろう。お前の実力と手腕を、陛下にお見せすれば……」「実力?手腕?」北條守は泣きそうな顔で嘲るように笑った。「私の手腕と言えば、次々と女性を裏切ることばかり。軍功さえ捨てた。葉月との恋が本物だと信じ込んでいた。結局は笑い話で終わり、彼女すら裏切った」「刑部で寝られなかった。眠れば悪夢ばかりだ。平安京の者たちに皮を剥がれ、骨を砕かれ、血まみれになった彼女が私に救いを求める。かと思えば、私を罵り、呪い、『なぜ裏切った』と問い詰める彼女の姿が……」「かつての私は、未来への希望に満ちていた。天の御加護さえあった。京の権門がこぞって北平侯爵家に婿を申し出る中、上原夫人の目に留まったのは私だけで……」「やめろ」鉄男は
「おい!」鉄男が我に返って酒甕を奪い返した時には、既に大半が空になっていた。北條守はその場でぐらりと揺れ、意識を失って倒れ込んだ。追い出すことなど到底できない。鉄男は後悔の念に駆られた。なぜこんな厄介者を家に入れてしまったのか。これほどの酒量で死なれでもしたら……鉄男は怒りに任せて冷水を汲みに行ったものの、死人のように横たわる北條守の青ざめた顔を見ると、かける手が止まった。首を振りながら、鉄男は召使いに馬車の用意を命じた。仕方あるまい、自ら送り届けるしかない。馬車が揺れるたび、内部から激しい嘔吐の音が響いた。御者台の鉄男の鼻をつく吐瀉物の臭気は、まるで何年も清掃されていない下水のような腐敗臭だった。「北條守!馬車の弁償だ!」鉄男は怒りに任せて叫んだ。これは妻の外出用の馬車で、自分では普段使わない大切な品だった。妻の怒りを思うと背筋が寒くなる。人の好意も、余計な好奇心も持つものではない――そう心に刻み込んだ。将軍家に到着すると、鉄男は苛立ちながら飛び降り、門番に怒鳴った。「お宅のお坊ちゃまをお引き取り願います。こんな厄介者は私には手に負えません」北條正樹が数人の下人を引き連れて駆けつけた。幌を開けた途端、強烈な悪臭が襲い掛かり、思わず胸元に手を当てた。息を詰めながら中を覗くと、弟は馬車の隅で丸くなっていた。座布団は吐瀉物と酒で汚れ、混ざり合った悪臭が目にまで染みた。怒りを抑えながら、正樹は下人たちに弟を運び出すよう指示し、鉄男に向かって深々と頭を下げた。「山田殿、一体何があったのでしょうか?」「さあ」鉄男は不機嫌そうに答えた。「本人にでも聞いてください。私は馬車を洗いに行かねば」「申し訳ございません」正樹は気まずそうに言葉を継いだ。「どうかお気をつけて」鉄男が帰宅すると、案の定、妻の叱責が待っていた。「人を招くなとは言わないけれど、誰を連れてくるかよく考えなさい。あんな人とは関わらない方がいいのに、なぜ家まで」「馬車がこんな有様じゃないの。もう頭が痛い!明日、師匠に桜餅をお届けする予定だったのに、これじゃ行けないじゃない」「ろくでもない人を引き込むなんて。まして、あんな恩知らずの裏切り者を。人の恩を仇で返すような男を、プンッ!」鉄男の妻は決して意地悪な性格ではなかったが、北條守に対してだけ
御書院では、清和天皇の眉間に怒りの色が宿っていた。目の前に跪く北條守を見下ろし、冷厳な声音で問う。「辞官だと?よくよく考えたうえでの決断か」「臣に罪がございます」北條守は震える声で叩頭した。「陛下のご期待に背き、佐藤家にも顔向けできません」「朕の期待を知っているのなら」天皇は頭痛を覚えながら言った。「己の職務に専念すべきであろう。感情に任せて辞官などと」「陛下」また深々と頭を下げる。「これは感情からではございません。臣の無能さを悟り、玄鉄衛副指揮官の任に堪えぬと」吉田内侍は眉をひそめた。罪人と称することで、陛下の任官の判断を疑問視しているようなものだ。「数日の自省の後、また参れ」天皇の声は一層冷たさを増した。「下がれ」「御意」北條守は諦めの表情で立ち上がった。北條守が退出すると、天皇は顔を青ざめさせ、「吉田」と呼びかけた。「彼に伝えよ。佐藤大将に顔向けできないというなら、この時期に辞官などと言い出すべきではないとな」吉田内侍は既に口を開きかけていたが、陛下の言葉を待っていた。今こそ北條守に一言伝えねばと、後を追った。「北條殿、お待ちください」北條守の僅かに前屈みの背が一瞬止まり、ゆっくりと振り返った。「吉田様、他にご用でしょうか」その虚ろな表情に、吉田内侍は背筋を伸ばして言った。「なんと愚かな。この時期の辞官は佐藤家の将軍たちを巻き込むことになりませんか?御前の役職にある者が辞めれば、罷免されたと誤解されかねない。辞官なさるにしても、この時期を避けるべきでしょう。さもなくば、佐藤家への負い目がさらに深まるというものです」「私の辞官が佐藤家と何の関係が?」北條守は困惑の色を見せた。「あなたが引責辞任すれば、佐藤家の方々はどうすればよいのです?彼らも謝罪の上、辞官すべきとでも?鹿背田城へは誰の命で向かわれたのですか?」北條守の瞼が微かに震えた。「私……そこまで考えが及びませんでした」「ならばよく考えなさい。自分のためでなくとも、他人のために。いつまで周りに負担をかけ続けるおつもりか」珍しく厳しい口調の吉田内侍だったが、この優柔不断な男を前にしては、どれほどの温厚な性格でも限界があった。大それた悪事を働くわけでもない者が、かえって人の反感を買うこともある。北條守は茫然と吉田内侍を見つめ、しばらくして漸
紫乃は独特な視点で物事を捉える性格だった。しばらく黙っていたかと思うと、首を傾げてさくらに尋ねた。「もしかして、降格と減俸が気に入らなくて、拗ねてるの?」北條守がそうだったかどうかは分からない。でも、自分なら……家族や師匠から期待以下の扱いを受けると、すぐに引くふりをして攻めに転じる。そんな自分の姿と重なって見えた。さくらの表情の険しさに気付き、紫乃は話を切り替えた。「もう、あの人の話はやめましょう。陛下が許可なさらない以上、好き勝手もできないでしょう」話題は自然と桜餅の味わいへと移っていった。玄武はまだ戻っていない。「親王様のお分は取り置きしておきましょう」お珠が立ち上がり、丁寧に桜餅を別の器に移し始めた。客が去った後、紫乃はさくらに向き直った。「辞めさせた方がいいんじゃない?あんな男に玄鉄衛の指揮官なんて、もったいないわ」さくらは穏やかに首を振った。「今は関ヶ原に関わる者すべてが、できるだけ物議を醸さない方がいい。彼が辞官しても、陛下に罷免されても、必ず話題は外祖父や叔父上たちへと及ぶわ。それを狙う者たちの手に渡る口実になりかねない」「そうね、そうね」紫乃は頷きながら、少し首を傾げた。「でも、どんな口実が?」怒りが収まったさくらは、静かに説明を始めた。「燕良親王は長年、佐藤家を関ヶ原から退かせようとしている。鹿背田城の件は、平安京でも関ヶ原でも大きな騒ぎになった。これは間違いなく、平安京と燕良親王の仕組んだこと。今は葉月が首謀者として平安京に引き渡され、外祖父は総兵として監督不行き届きの責を負い、北條守は鹿背田城への出兵の責任を取る。表向きは筋が通っている。叔父上たちへの影響も最小限に抑えられた。でも、北條守が引責辞任すれば、燕良親王はこれを利用する。佐藤家が罪を知りながら兵権に執着していると噂を流す。それは佐藤軍の民心における威信を損なうことになる」紫乃はさくらの横顔を長く見つめた。胸の内に複雑な感情が渦巻く。その中に、かすかな痛みのようなものが混じっている。戦場でさくらと出会って以来、時折感じるこの感覚。梅月山での日々を思い返す。あの頃は、さくらはただ武芸に優れているだけ。経験も見識も、世間の機微も、自分の方が上だと思っていた。ただ、そういったものに興味を示さないだけだと。だが今のさくらは、何もかも理解している
恵子皇太妃は息子との食事を好まなかった。互いの好みも合わず、会話も続かない。ただ、太后様が口を酸っぱくして言うように、月に数度は母子で食事をともにしなければ、下々の噂になりかねない。玄武とさくらが不孝者だと囁かれるのを避けるためだった。「はぁ……」恵子皇太妃は小さく溜め息をつく。人というものは、いつも何かに縛られ、思い通りにはならないものだった。高松ばあやはいつも「皇太妃様は幸せの中にいながら、それがお分かりにならない」と諭すのだが、恵子皇太妃にしてみれば、この世に本当の幸せだけを享受できる者などいるはずもない。どれほど恵まれた日々を送ろうとも、その身分相応の悩みはつきまとうもの。たとえ天下一の富貴の身であっても、それなりの苦悩を抱えているのだ。結局のところ、恵子皇太妃は楽しい時は存分に楽しみ、悩み事がある時は誰も寄せ付けなかった。悩む権利くらいは、自分にもあってしかるべきだと思っていた。玄武もさくらも寡黙な性格だったため、紫乃を食事に招くことが多かった。紫乃は場を和ませるのが得意で、退屈な食事の時間を愉快なものへと変えてくれるのだった。北條守は結局、辞官はせずじまいだった。数日後、肩を落としながら官服姿で出仕する彼の姿が見られた。清和天皇は再び彼を召し出したものの、その顔には闘志のかけらも見られなかった。まるで野良犬のように、全身から疲弊の色が滲み出ていた。天皇は内心、激しい憤りを覚えていた。純粋な臣下として育て上げ、いずれ重用しようという考えがあったのだ。盗賊の討伐や戦場を経験した武将であり、没落した家の出で、なおかつ君恩を重んじる者ほど、忠誠心という意味で使い勝手が良いものはない――そう考えていたのだが。清和天皇は今や痛感していた。忠誠心は確かに貴重だが、それだけでは何の価値もない。実力が伴わなければ意味がないのだ。玄鉄衛の名を上げ、衛士を配下に収めることを期待していたが、北條守に頼るのは無理そうだった。結局のところ、樋口信也に依存せざるを得ないだろう。しかし、樋口は指揮官の任に就いているとはいえ、別の要務も抱えている。北條守がこれほど役立たずとなれば、新たな副官を登用する必要があるだろう。北條守を退出させた後、清和天皇は樋口信也を召し入れた。「安倍貴守と清張文之進、この二人を推薦させていただきます」樋口は恭
文之進の修行の志は、武芸への純粋な憧れと出世への野心、その両方にあった。そして彼には十分な忍耐力があった。三年待てなければ五年、五年では叶わなければ十年待てばよい。御前での日々を重ねれば重ねるほど、経験は確かなものとなる。諦めなければ、いつか必ず日の目を見るはずだと信じていた。もちろん、具体的な目標もあった。三年から五年以内に、副衛長、そして衛長への昇進を果たすつもりでいた。だからこそ、玄鉄衛副指揮官の辞令を賜った時、彼は完全に凍りついてしまった。生まれて初めて、殿前での作法を忘れるほどの衝撃だった。「ほれ、立ち尽くしておらずに、早う陛下に御礼申し上げよ」」傍らの樋口が軽く足を踏んで咎めた言葉に、我に返る。震える手を床について深々と叩頭すると、「陛下の御引き立てを賜り、恐悦至極に存じます。私めは忠心を尽くし、命果てるまで御奉公申し上げます」このような言葉こそ、清和天皇の望むところであった。「樋口よ」天皇は微笑を浮かべながら命じた。「彼を連れて行け。同僚たちと祝いの盃を交わさせるがよい」三人の昇進が決まり、文之進は喜びに満ち溢れていた。一方、安倍貴守は何となく肩を落とし、村松陸夫は密偵として培った技で、表情から一切の感情を読み取らせなかった。喜びも苦しみも、すべてを心の深奥に封じ込めるのが彼の習いであった。「皆、一献いかがかな」文之進は祝いの宴を提案したものの、まるで綿を踏むような足取りで、まだ現実感を掴めていないようだった。文之進は一歩一歩、着実に昇進の階段を上っていくつもりでいた。それなのに、突然天から降ってきた幸運の餅に打ち当てられたような心地だった。頭がクラクラする程の驚きの中でも、樋口の袖を引きながら尋ねずにはいられなかった。「副指揮官といえば北條様では? どうして私めのような者を……」「はっはっは」樋口は愉快そうに笑いながら説明した。「北條守殿は引き続き副指揮官として、勤龍衛、護龍衛、神弓衛を統べる。お前は親衛と左右衛を預かることになる。三衛を任されるが、お前なら務まるはずだ。判断に迷った時は、私か、それとも沢村師範に相談するとよい」「師匠、ですか?」文之進は眉を寄せた。修行は内密のつもりだったが、頻繁に稽古に通ううち、もはや秘密でもなくなっていたのだろう。「公務のことで師匠を煩わせるわけには……樋口様にご指
翌日、文之進は両親と妻子を伴い、たくさんの贈り物を携えて沢村紫乃を訪ねた。紫乃は昨夜、さくらから文之進の昇進を聞かされていた。最初は「ただの昇進か」程度にしか思わなかったのだが。しかし今、一家揃って礼に来る彼らの様子を見ると、まるで黄金の箱でも見つけたかのように喜びが溢れ、笑みが絶えない。その喜びに触れ、御前勤めの身では大功を立てない限り、昇進には何年もの年月を要することを知った紫乃は、改めてその意味を実感していた。だが、文之進は一家の感謝の言葉を前に、紫乃は恐縮するばかりだった。彼の昇進に自分は何の力も貸せていない。すべては彼自身の努力の賜物なのだから。文之進は家族を先に帰し、親王家に残ると、今後の誤解や軋轢を避けるため、伝えておくべきことがあると切り出した。一通りの説明の後、彼は真摯な面持ちで続けた。「これはすべて私の推測に過ぎません。陛下のお考えを慮ることなど、私どもには叶いませんが、他は何も気にせず、ただ真心を込めて職務に励む所存です。良心に背くような近道は決して選びません。どうか師匠様、上原師伯様にはご安心いただきたく」さくらは眉を僅かに動かし、何か言いかけたが、紫乃が文之進を誇らしげに見つめる様子に、「まあいいか、師伯で」と胸の内でつぶやいた。清和天皇が突然、文之進を抜擢したことは、北條守を見限った証だろう。実際、北條守は期待を裏切り続けた。幾度も庇い立てたというのに、辞官願いを出すという、まさに背信の所業。さぞや陛下の御怒りも相当なものだったに違いない。文之進が去った後、紫乃は感慨深げに呟いた。「あの子を弟子にして間違いなかったわね。なかなかやるじゃない」「子だなんて」さくらは微笑んで諭すように言った。「文之進さんの方が、随分お年上でしょう?」紫乃は椅子に深く寄りかかり、両手を組んで優雅な仕草を見せた。唇の端を上げながら、「年なんて関係ないわ。家格で私の方が上なのよ。沢村家では私、老御前様扱いだもの。私より年上の孫たちがいて、中には結婚している者も。甥や姪たちときたら、実家に帰るたび十何人もの子供たちが『叔母さま!』って騒ぎ立てるの。うるさいったらありゃしない」さくらは窓外の朧な灯火に目を向けた。梅月山から戻った時のことを思い出していた。幼い甥や姪たちが嬉しそうに寄り集まってきた様子、少し大きくなった子た
三姫子は参鶏湯を老夫人に飲ませてから、楽章と共に老夫人の話に耳を傾けた。「あの時、私は確かに騙されていたのよ。あの長青大師が『萌虎は家運を盛んにする子』と言っていたと、そう思い込んでいたわ。あの頃、あの人は萌虎を可愛がってたのよ。萌虎が病に伏せば、誰よりも心配して、あちこちの医者を訪ね回ってね。なのに、萌虎の体は日に日に弱っていって……五歳になる頃には、もう寝台から起き上がることすらままならなくなってたわ」その記憶を語る老夫人の表情には、まるで心臓を刺されたかのような苦痛が浮かんでいた。息をするのも辛そうな様子で言葉を紡いでいく。「長青大師が言うには、このままではあと一ヶ月ともたないかもしれないって……石山のお寺に預けて、仏様のご加護を受けるしかないと。そうすれば十八歳まで生きられる可能性があって、その年齢さえ越せば、その後は順風満帆な人生が約束されるって言うのよ」「あなたの祖父は最初、そんな戯言は信用できないって反対したわ。でもね、あの人が長青大師を連れて祖父に会いに行って、何を話したのか……結局、祖父も同意することになった。それどころか毎年三千両もの銀子を長青大師に渡して、あなたの命を繋ぐ蓮の灯明を焚いてもらうことになったのよ。仏道両方からのご加護を受けるためってね」「でも、それは全部嘘だったのよ!」老夫人の声が突然高くなり、険しい表情を浮かべた。「私も、あなたの祖父も、みんな騙されていたの。実は長青大師はね、『萌虎は祖父の運気を奪う子で、生きている限り爵位は継げない。むしろ早死にするかもしれない』って告げていたのよ。あなたを殺そうとして、薬をすり替えていたの。微毒を入れたり、相性の悪い薬を組み合わせたり、気血を弱めるものを……だからあなたの体は日に日に弱っていったのよ」息を切らしながら、老夫人の目には憎しみが満ちていた。「私が気付いたのは、あの大火の後よ。長青大師があの人を訪ねてきて、書斎で長話をしていた時。私は外で……すべてを聞いていたの。我が子を害するなんて……許せない、絶対に許せないわ!」老夫人は両手を強く握りしめ、顎を上げ、全身に力が入っていた。相手はすでにこの世にいないというのに、その憎しみは少しも薄れていないようだった。三姫子は老夫人の様子を見て、何かを直感的に悟ったようで、信じられない思いで彼女を見つめた。「では、
何かに取り憑かれたかのように、普段は足元の覚束ない老夫人が、まるで若返ったように駆け出した。織世も松平ばあやも、その背中を追いかけるのがやっとだった。耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。目に映る庭の景色は、長年心を焼き続けてきたあの業火の光景に変わっていた。火の中から聞こえてくる悲痛な叫び声。あの時、誰かに引きずられ、抱えられながら、炎が全てを呑み込んでいくのを、ただ見つめることしかできなかった。末っ子は、あの炎の中で命を落としたはずだった。焼け跡から多くの遺体が見つかり、どれが我が子なのかさえ、判別できなかった。何度も気を失うほど泣き崩れた。だが一度も、息子が生きているかもしれないとは考えなかった。そんな望みを持つ勇気すらなかった。あの子は病に衰弱し、歩くのにも人の手を借りねばならなかったのに。あの猛火の中を、どうやって逃げられただろう?正庁に駆け込んだ老夫人の目に、ただ一つの姿だけが映った。涙が溢れ出し、他の姿は霞んでいく。ぼんやりとした影を追うように、足を進めた。首を微かに傾げ、綿を詰められたような力のない、不確かな声を絞り出した。「あなたが……私の子なのかしら?」楽章には見覚えがあった。最も恨みを抱いていた相手だ。だが、この瞬間、止めどなく流れる涙を目にして、胸が締め付けられた。彼は黙って立ち尽くし、答えなかった。「母上!間違いありません、萌虎でございます!」鉄将が泣きながら叫んだ。「ああ……」老夫人の喉から引き裂かれるような悲鳴が漏れ、楽章を抱きしめた。漆黒の夜を越えて、過去の記憶が押し寄せる。心の一部が抉り取られるような痛みが、一つの叫びとなって迸った。「生きていたのね!」熱い涙が楽章の肩を濡らしていく。最初は無反応だった楽章の頬も、やがて涙で濡れていった。しかし、すぐに老夫人を突き放した。冷ややかな声で言う。「芝居はもう十分でしょう。人を食らう魔物の巣に私を送り込んだのは貴方たち。死んでいて当然だった。師匠の慈悲があって、ここにいるだけです。私は親房萌虎ではない。音無楽章という者です」「違う……」老夫人は必死に楽章に縋りつこうとする。「私は何も知らなかったのよ。何も……」激しい悲喜の入り混じった感情に押し潰され、老夫人は楽章の腕の中で意識を失った。喜楽館の中には幾つかの灯りが
鉄将は怒りに震える声で指を差し上げた。「戯言を!母上が実の子を捨てたことなど一度もない。兄上も私も、ここで立派に育ったではないか」「貴様らは無事でも、俺はどうなった?」楽章は咆哮した。声を張り上げすぎた反動で、胃が痙攣を起こし、しゃがみ込む。内力を使って、胃の中で渦巻く酒を押さえ込んだ。その言葉に鉄将は一瞬凍りつき、何かを思い出したかのように、楽章を見つめ直した。その目には、信じがたい現実への戸惑いが満ちていた。三姫子も嫁入り直後に聞いた話を思い出していた。姑は三人の息子を産んだが、末っ子は病に倒れ、寺に預けられた。そして寺の火事で命を落としたと、姑は目の前で見たはずだった。まさか……生きていたというのか?「お前の……名は?」鉄将の声は震え、唇は制御できないように小刻みに動いた。楽章の姿を必死に見つめている。「彼女に……訊け」楽章は胃を押さえたまま椅子に崩れ落ち、力なく呟いた。三姫子が近寄り、興奮を抑えきれない様子で言った。「思い出しました。あなたを見かけたことがある。何度か邸の前を行き来していた方……」楽章は黙したまま。三姫子は紫乃に目を向けた。紫乃は三姫子ではなく、楽章を見つめたまま話し始めた。「さあ、五郎さん。ここまで来たからには全てを話すのよ。あなたは親房萌虎。幼い頃から女の子のように育てられ、五歳で寺に捨てられた。数ヶ月で折檻され、死にかけたところを師匠が拾い上げ、命を救った。あなたに非はない。過ちを犯したのは彼らよ。きちんと説明を求めなさい」鉄将の体が雷に打たれたかのように硬直し、瞳までもが凍りついた。次の瞬間、絶叫とともに楽章に飛びつき、全身で抱きしめた。生涯で最も悲痛な声を絞り出す。「萌虎!お前は生きていたのか!」確かめる必要さえ感じなかった。ただひたすら楽章を抱きしめ、号泣を続けた。誰にも言えなかったことがある。末弟が死んでからというもの、何度も夢に見た。弟が生還する夢。まるで現実のような鮮明な夢。だが、目覚めれば常に虚しさだけが残った。楽章は鉄将を突き放そうとしたが、全身の力を込めた抱擁は微動だにしない。耳元で響く泣き声が煩わしい。楽章は口元を歪めた。胸の奥の屈辱が、少しずつ溶けていく。この家にも、自分を真摯に想う者がいたのだ。三姫子は目を潤ませ、急いで織世の手を力強く握った。声は震
程なくして、酔っ払った二人は西平大名邸に到着した。紫乃の身分を知る門番は、夜更けにも関わらず二人を通した。三姫子が病臥していることから、使用人は親房鉄将と蒼月に事態を報告に向かった。鉄将と蒼月は困惑の表情を浮かべた。こんな夜更けに沢村お嬢様が来訪するとは一体何事か。「男を連れているとな?何者だ?」鉄将が尋ねた。門番は答えた。「鉄将様、存じ上げない男でございます。態度が横柄で、邸内を物色するように歩き回り、椅子を二つも蹴り倒し、『人を欺きおって』などと罵り続けております」鉄将は眉をひそめた。「因縁でも付けに来たのか?まさか夕美が何か……」最近の出来事で神経質になっていた鉄将は、何か揉め事があれば、まず夕美が原因ではないかと考えてしまう。「違うかと……」門番は躊躇いがちに、細心の注意を払って続けた。「あの方が罵っているのは老夫人と……亡き大旦那様のことでして」展は爵位を継いでいなかったため、大名の称号はなく、屋敷の使用人たちからは「大旦那様」と敬われていた。孝行者として知られる鉄将は、亡き父と母を罵る者がいると聞いて激怒した。紫乃が連れて来た相手だろうとも構わず、「行こう。どんな馬鹿者が親房家で暴れているのか、この目で見てやる」と声を荒げた。鉄将は死者を冒涜するような無作法は、教養のない下劣な人間のすることだと考えていた。蒼月を伴い、怒りに任せて大広間へと向かった。一方、楽章が椅子を蹴り倒した時点で、既に使用人が三姫子に報告に走っていた。皆、このような事態は奥様でなければ収まらないと心得ていた。鉄将様には官位こそあれど温厚な性格で、酒に酔った荒くれ者を抑えきれまいと考えたのだ。三姫子は紫乃が連れて来た男が、亡き舅と病床の姑を罵っていると聞くや、急ぎ着物を羽織り、簡単な身支度を整えると、織世に支えられながら部屋を出た。病状は既に快方に向かっていたが、まだ体力は十分ではなかった。秋風が肌を刺す中、足早に歩を進めると、かえって血の巡りが良くなったように感じられた。正庁に着くと、普段は温和な鉄将の顔が青ざめ、まだ罵声を上げている男を指さしながら叫んでいた。「黙れ!亡き父上をどうして侮辱できる。何という無礼者め」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は鉄将の胸元を掴み、拳を振り上げた。三姫子は咄嗟に「待て!」と声を上
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一