だが、これはさくらが意図的に仕掛けた策だった。実際のところ、陛下は現時点で御城番整理を望んでいない。余程の騒動でもない限り、陛下は些事に介入しない方針だ。均衡が最重要なのだ。特に今は謀反の調査中。燕良親王と淡嶋親王は疑念の対象となっているものの、確たる証拠はまだない。この時期に粛正を行えば、燕良親王が暗躍する口実を与えかねない。一人を籠絡すれば一族が従う――それは珍しい話ではない。さらに陛下には深い思惑があった。玄甲軍を掌握できないのなら、徹底的に腐敗させ、玄鉄衛による交代を自然な流れとする。しかし、さくらにとって、この無能な連中に御城番を掻き回させるわけにはいかなかった。些細な権力でさえ、民衆を苦しめる道具となる。御城番を完全に廃止するか、徹底的な改革を行うか――そうしなければ、御城番は朝廷の俸禄で養われる暴徒と化すだけだった。陛下が動かないのは、これまでの不祥事が全て揉み消されてきたからだ。しかし、一旦証拠を掘り起こし、弾正台に送れば、朝議での弾劾は避けられない。そうなれば、陛下とて黙っていられまい。さくらは陛下に逆らうつもりはなかった。だが、玄甲軍の大将として、配下の者が民を苦しめ、玄甲軍の名を汚すのを見過ごすわけにはいかない。このまま放置すれば、民の心の中で玄甲軍は、守護者たる精鋭から、民を虐げる悪党の集まりへと変わってしまう。村松はすぐに名簿を提出した。さくらはそれを一読した後、その夜、紫乃と紅竹を呼び寄せた。「この者たちを調べてほしいの」清湖が去る際、数名の部下を残していった。都景楼に雲羽流派の分館を開いたのだ。紫乃は今、手が空いていたため、この分館の采配を任されていた。部下たちも彼女の采配に従っている。二日後、北條守は刑部から追い出された。いや、正確には担ぎ出されて放り出された、と言うべきか。山田鉄男はその光景を目の当たりにして、言葉を失った。かつての部下である北條守。その所業には憤りを感じながらも、髪は乱れ、衣服は汚れ、朝廷の官吏の体面を汚すその姿に、思わず手を差し伸べた。だが、鼻を突く悪臭に、鉄男は袖で鼻を覆いながら手を放した。「どうしてこんな有様に……」北條守は魂の抜けたような目で、鉄男の姿にしばし呆然とした後、苦笑を浮かべた。「お恥ずかしい限りです」「笑い事ではありませんぞ」鉄男は
鉄男の妻は北條守が気に入らず、つまみを二、三皿だけ用意させると、下がってしまった。召使たちも連れ去る。あの臭気には我慢ならなかった。北條守は黙々と酒を煽るばかりで、料理には手をつけない。鉄男の妻の露骨な嫌悪も見透かしているようで、ますます沈んでいく。「何か食べろよ。酒ばかりじゃ……一体どうしたというのだ?」鉄男が声をかけた。北條守は杯を一気に干すと、突然机に伏せって泣き出した。大きな声は出さないものの、枕に顔を埋めたような、こもった啜り泣きが響く。鉄男は黙って酒を飲み、つまみを口に運ぶ。ただ泣き場所が欲しかっただけなのかもしれない。何を泣いているのかは分からないが。しばらくして、誰も慰めてくれないと悟ったのか、北條守は涙を拭って顔を上げた。涙で汚れが少し落ち、目の周りだけが妙に白く浮かび上がって、滑稽な様相を呈していた。思わず鉄男は噴き出してしまう。「私が笑い者だということは、山田殿もご存知なのですね」北條守は哀しげに笑った。「私こそ、この上ない道化です」鉄男は一度頷いたが、すぐに首を振る。因果は巡るものだ。「なぜ家に帰らないのだ?」「帰って何になる」北條守は立て続けに二杯を煽った。「罵られ、嘲笑われるだけだ」「官位も捨てるつもりか?」山田は口角を引きつらせた。「陛下のご機嫌を損ねれば、前途はない」「どうせ失うものだ。いや、元より前途などなかったのかもしれん。降格に減俸三年……家で無為に過ごすくらいなら、外で過ごした方がましだ。陛下の御目を穢さずに済む」鉄男は眉をひそめた。「真面目に仕事をすればいいだけだろう。お前の実力と手腕を、陛下にお見せすれば……」「実力?手腕?」北條守は泣きそうな顔で嘲るように笑った。「私の手腕と言えば、次々と女性を裏切ることばかり。軍功さえ捨てた。葉月との恋が本物だと信じ込んでいた。結局は笑い話で終わり、彼女すら裏切った」「刑部で寝られなかった。眠れば悪夢ばかりだ。平安京の者たちに皮を剥がれ、骨を砕かれ、血まみれになった彼女が私に救いを求める。かと思えば、私を罵り、呪い、『なぜ裏切った』と問い詰める彼女の姿が……」「かつての私は、未来への希望に満ちていた。天の御加護さえあった。京の権門がこぞって北平侯爵家に婿を申し出る中、上原夫人の目に留まったのは私だけで……」「やめろ」鉄男は
「おい!」鉄男が我に返って酒甕を奪い返した時には、既に大半が空になっていた。北條守はその場でぐらりと揺れ、意識を失って倒れ込んだ。追い出すことなど到底できない。鉄男は後悔の念に駆られた。なぜこんな厄介者を家に入れてしまったのか。これほどの酒量で死なれでもしたら……鉄男は怒りに任せて冷水を汲みに行ったものの、死人のように横たわる北條守の青ざめた顔を見ると、かける手が止まった。首を振りながら、鉄男は召使いに馬車の用意を命じた。仕方あるまい、自ら送り届けるしかない。馬車が揺れるたび、内部から激しい嘔吐の音が響いた。御者台の鉄男の鼻をつく吐瀉物の臭気は、まるで何年も清掃されていない下水のような腐敗臭だった。「北條守!馬車の弁償だ!」鉄男は怒りに任せて叫んだ。これは妻の外出用の馬車で、自分では普段使わない大切な品だった。妻の怒りを思うと背筋が寒くなる。人の好意も、余計な好奇心も持つものではない――そう心に刻み込んだ。将軍家に到着すると、鉄男は苛立ちながら飛び降り、門番に怒鳴った。「お宅のお坊ちゃまをお引き取り願います。こんな厄介者は私には手に負えません」北條正樹が数人の下人を引き連れて駆けつけた。幌を開けた途端、強烈な悪臭が襲い掛かり、思わず胸元に手を当てた。息を詰めながら中を覗くと、弟は馬車の隅で丸くなっていた。座布団は吐瀉物と酒で汚れ、混ざり合った悪臭が目にまで染みた。怒りを抑えながら、正樹は下人たちに弟を運び出すよう指示し、鉄男に向かって深々と頭を下げた。「山田殿、一体何があったのでしょうか?」「さあ」鉄男は不機嫌そうに答えた。「本人にでも聞いてください。私は馬車を洗いに行かねば」「申し訳ございません」正樹は気まずそうに言葉を継いだ。「どうかお気をつけて」鉄男が帰宅すると、案の定、妻の叱責が待っていた。「人を招くなとは言わないけれど、誰を連れてくるかよく考えなさい。あんな人とは関わらない方がいいのに、なぜ家まで」「馬車がこんな有様じゃないの。もう頭が痛い!明日、師匠に桜餅をお届けする予定だったのに、これじゃ行けないじゃない」「ろくでもない人を引き込むなんて。まして、あんな恩知らずの裏切り者を。人の恩を仇で返すような男を、プンッ!」鉄男の妻は決して意地悪な性格ではなかったが、北條守に対してだけ
御書院では、清和天皇の眉間に怒りの色が宿っていた。目の前に跪く北條守を見下ろし、冷厳な声音で問う。「辞官だと?よくよく考えたうえでの決断か」「臣に罪がございます」北條守は震える声で叩頭した。「陛下のご期待に背き、佐藤家にも顔向けできません」「朕の期待を知っているのなら」天皇は頭痛を覚えながら言った。「己の職務に専念すべきであろう。感情に任せて辞官などと」「陛下」また深々と頭を下げる。「これは感情からではございません。臣の無能さを悟り、玄鉄衛副指揮官の任に堪えぬと」吉田内侍は眉をひそめた。罪人と称することで、陛下の任官の判断を疑問視しているようなものだ。「数日の自省の後、また参れ」天皇の声は一層冷たさを増した。「下がれ」「御意」北條守は諦めの表情で立ち上がった。北條守が退出すると、天皇は顔を青ざめさせ、「吉田」と呼びかけた。「彼に伝えよ。佐藤大将に顔向けできないというなら、この時期に辞官などと言い出すべきではないとな」吉田内侍は既に口を開きかけていたが、陛下の言葉を待っていた。今こそ北條守に一言伝えねばと、後を追った。「北條殿、お待ちください」北條守の僅かに前屈みの背が一瞬止まり、ゆっくりと振り返った。「吉田様、他にご用でしょうか」その虚ろな表情に、吉田内侍は背筋を伸ばして言った。「なんと愚かな。この時期の辞官は佐藤家の将軍たちを巻き込むことになりませんか?御前の役職にある者が辞めれば、罷免されたと誤解されかねない。辞官なさるにしても、この時期を避けるべきでしょう。さもなくば、佐藤家への負い目がさらに深まるというものです」「私の辞官が佐藤家と何の関係が?」北條守は困惑の色を見せた。「あなたが引責辞任すれば、佐藤家の方々はどうすればよいのです?彼らも謝罪の上、辞官すべきとでも?鹿背田城へは誰の命で向かわれたのですか?」北條守の瞼が微かに震えた。「私……そこまで考えが及びませんでした」「ならばよく考えなさい。自分のためでなくとも、他人のために。いつまで周りに負担をかけ続けるおつもりか」珍しく厳しい口調の吉田内侍だったが、この優柔不断な男を前にしては、どれほどの温厚な性格でも限界があった。大それた悪事を働くわけでもない者が、かえって人の反感を買うこともある。北條守は茫然と吉田内侍を見つめ、しばらくして漸
紫乃は独特な視点で物事を捉える性格だった。しばらく黙っていたかと思うと、首を傾げてさくらに尋ねた。「もしかして、降格と減俸が気に入らなくて、拗ねてるの?」北條守がそうだったかどうかは分からない。でも、自分なら……家族や師匠から期待以下の扱いを受けると、すぐに引くふりをして攻めに転じる。そんな自分の姿と重なって見えた。さくらの表情の険しさに気付き、紫乃は話を切り替えた。「もう、あの人の話はやめましょう。陛下が許可なさらない以上、好き勝手もできないでしょう」話題は自然と桜餅の味わいへと移っていった。玄武はまだ戻っていない。「親王様のお分は取り置きしておきましょう」お珠が立ち上がり、丁寧に桜餅を別の器に移し始めた。客が去った後、紫乃はさくらに向き直った。「辞めさせた方がいいんじゃない?あんな男に玄鉄衛の指揮官なんて、もったいないわ」さくらは穏やかに首を振った。「今は関ヶ原に関わる者すべてが、できるだけ物議を醸さない方がいい。彼が辞官しても、陛下に罷免されても、必ず話題は外祖父や叔父上たちへと及ぶわ。それを狙う者たちの手に渡る口実になりかねない」「そうね、そうね」紫乃は頷きながら、少し首を傾げた。「でも、どんな口実が?」怒りが収まったさくらは、静かに説明を始めた。「燕良親王は長年、佐藤家を関ヶ原から退かせようとしている。鹿背田城の件は、平安京でも関ヶ原でも大きな騒ぎになった。これは間違いなく、平安京と燕良親王の仕組んだこと。今は葉月が首謀者として平安京に引き渡され、外祖父は総兵として監督不行き届きの責を負い、北條守は鹿背田城への出兵の責任を取る。表向きは筋が通っている。叔父上たちへの影響も最小限に抑えられた。でも、北條守が引責辞任すれば、燕良親王はこれを利用する。佐藤家が罪を知りながら兵権に執着していると噂を流す。それは佐藤軍の民心における威信を損なうことになる」紫乃はさくらの横顔を長く見つめた。胸の内に複雑な感情が渦巻く。その中に、かすかな痛みのようなものが混じっている。戦場でさくらと出会って以来、時折感じるこの感覚。梅月山での日々を思い返す。あの頃は、さくらはただ武芸に優れているだけ。経験も見識も、世間の機微も、自分の方が上だと思っていた。ただ、そういったものに興味を示さないだけだと。だが今のさくらは、何もかも理解している
恵子皇太妃は息子との食事を好まなかった。互いの好みも合わず、会話も続かない。ただ、太后様が口を酸っぱくして言うように、月に数度は母子で食事をともにしなければ、下々の噂になりかねない。玄武とさくらが不孝者だと囁かれるのを避けるためだった。「はぁ……」恵子皇太妃は小さく溜め息をつく。人というものは、いつも何かに縛られ、思い通りにはならないものだった。高松ばあやはいつも「皇太妃様は幸せの中にいながら、それがお分かりにならない」と諭すのだが、恵子皇太妃にしてみれば、この世に本当の幸せだけを享受できる者などいるはずもない。どれほど恵まれた日々を送ろうとも、その身分相応の悩みはつきまとうもの。たとえ天下一の富貴の身であっても、それなりの苦悩を抱えているのだ。結局のところ、恵子皇太妃は楽しい時は存分に楽しみ、悩み事がある時は誰も寄せ付けなかった。悩む権利くらいは、自分にもあってしかるべきだと思っていた。玄武もさくらも寡黙な性格だったため、紫乃を食事に招くことが多かった。紫乃は場を和ませるのが得意で、退屈な食事の時間を愉快なものへと変えてくれるのだった。北條守は結局、辞官はせずじまいだった。数日後、肩を落としながら官服姿で出仕する彼の姿が見られた。清和天皇は再び彼を召し出したものの、その顔には闘志のかけらも見られなかった。まるで野良犬のように、全身から疲弊の色が滲み出ていた。天皇は内心、激しい憤りを覚えていた。純粋な臣下として育て上げ、いずれ重用しようという考えがあったのだ。盗賊の討伐や戦場を経験した武将であり、没落した家の出で、なおかつ君恩を重んじる者ほど、忠誠心という意味で使い勝手が良いものはない――そう考えていたのだが。清和天皇は今や痛感していた。忠誠心は確かに貴重だが、それだけでは何の価値もない。実力が伴わなければ意味がないのだ。玄鉄衛の名を上げ、衛士を配下に収めることを期待していたが、北條守に頼るのは無理そうだった。結局のところ、樋口信也に依存せざるを得ないだろう。しかし、樋口は指揮官の任に就いているとはいえ、別の要務も抱えている。北條守がこれほど役立たずとなれば、新たな副官を登用する必要があるだろう。北條守を退出させた後、清和天皇は樋口信也を召し入れた。「安倍貴守と清張文之進、この二人を推薦させていただきます」樋口は恭
文之進の修行の志は、武芸への純粋な憧れと出世への野心、その両方にあった。そして彼には十分な忍耐力があった。三年待てなければ五年、五年では叶わなければ十年待てばよい。御前での日々を重ねれば重ねるほど、経験は確かなものとなる。諦めなければ、いつか必ず日の目を見るはずだと信じていた。もちろん、具体的な目標もあった。三年から五年以内に、副衛長、そして衛長への昇進を果たすつもりでいた。だからこそ、玄鉄衛副指揮官の辞令を賜った時、彼は完全に凍りついてしまった。生まれて初めて、殿前での作法を忘れるほどの衝撃だった。「ほれ、立ち尽くしておらずに、早う陛下に御礼申し上げよ」」傍らの樋口が軽く足を踏んで咎めた言葉に、我に返る。震える手を床について深々と叩頭すると、「陛下の御引き立てを賜り、恐悦至極に存じます。私めは忠心を尽くし、命果てるまで御奉公申し上げます」このような言葉こそ、清和天皇の望むところであった。「樋口よ」天皇は微笑を浮かべながら命じた。「彼を連れて行け。同僚たちと祝いの盃を交わさせるがよい」三人の昇進が決まり、文之進は喜びに満ち溢れていた。一方、安倍貴守は何となく肩を落とし、村松陸夫は密偵として培った技で、表情から一切の感情を読み取らせなかった。喜びも苦しみも、すべてを心の深奥に封じ込めるのが彼の習いであった。「皆、一献いかがかな」文之進は祝いの宴を提案したものの、まるで綿を踏むような足取りで、まだ現実感を掴めていないようだった。文之進は一歩一歩、着実に昇進の階段を上っていくつもりでいた。それなのに、突然天から降ってきた幸運の餅に打ち当てられたような心地だった。頭がクラクラする程の驚きの中でも、樋口の袖を引きながら尋ねずにはいられなかった。「副指揮官といえば北條様では? どうして私めのような者を……」「はっはっは」樋口は愉快そうに笑いながら説明した。「北條守殿は引き続き副指揮官として、勤龍衛、護龍衛、神弓衛を統べる。お前は親衛と左右衛を預かることになる。三衛を任されるが、お前なら務まるはずだ。判断に迷った時は、私か、それとも沢村師範に相談するとよい」「師匠、ですか?」文之進は眉を寄せた。修行は内密のつもりだったが、頻繁に稽古に通ううち、もはや秘密でもなくなっていたのだろう。「公務のことで師匠を煩わせるわけには……樋口様にご指
翌日、文之進は両親と妻子を伴い、たくさんの贈り物を携えて沢村紫乃を訪ねた。紫乃は昨夜、さくらから文之進の昇進を聞かされていた。最初は「ただの昇進か」程度にしか思わなかったのだが。しかし今、一家揃って礼に来る彼らの様子を見ると、まるで黄金の箱でも見つけたかのように喜びが溢れ、笑みが絶えない。その喜びに触れ、御前勤めの身では大功を立てない限り、昇進には何年もの年月を要することを知った紫乃は、改めてその意味を実感していた。だが、文之進は一家の感謝の言葉を前に、紫乃は恐縮するばかりだった。彼の昇進に自分は何の力も貸せていない。すべては彼自身の努力の賜物なのだから。文之進は家族を先に帰し、親王家に残ると、今後の誤解や軋轢を避けるため、伝えておくべきことがあると切り出した。一通りの説明の後、彼は真摯な面持ちで続けた。「これはすべて私の推測に過ぎません。陛下のお考えを慮ることなど、私どもには叶いませんが、他は何も気にせず、ただ真心を込めて職務に励む所存です。良心に背くような近道は決して選びません。どうか師匠様、上原師伯様にはご安心いただきたく」さくらは眉を僅かに動かし、何か言いかけたが、紫乃が文之進を誇らしげに見つめる様子に、「まあいいか、師伯で」と胸の内でつぶやいた。清和天皇が突然、文之進を抜擢したことは、北條守を見限った証だろう。実際、北條守は期待を裏切り続けた。幾度も庇い立てたというのに、辞官願いを出すという、まさに背信の所業。さぞや陛下の御怒りも相当なものだったに違いない。文之進が去った後、紫乃は感慨深げに呟いた。「あの子を弟子にして間違いなかったわね。なかなかやるじゃない」「子だなんて」さくらは微笑んで諭すように言った。「文之進さんの方が、随分お年上でしょう?」紫乃は椅子に深く寄りかかり、両手を組んで優雅な仕草を見せた。唇の端を上げながら、「年なんて関係ないわ。家格で私の方が上なのよ。沢村家では私、老御前様扱いだもの。私より年上の孫たちがいて、中には結婚している者も。甥や姪たちときたら、実家に帰るたび十何人もの子供たちが『叔母さま!』って騒ぎ立てるの。うるさいったらありゃしない」さくらは窓外の朧な灯火に目を向けた。梅月山から戻った時のことを思い出していた。幼い甥や姪たちが嬉しそうに寄り集まってきた様子、少し大きくなった子た
斎藤家。「愚かな!」斎藤式部卿は袖を払った。「なぜあの上原さくらの誑かしに乗る?皇后さまが工房を支持なされば、朝廷の清流から非難の嵐となりましょう。皇后さまは今は何もなさらずとも、大皇子さまの地位は揺るぎません。中宮の嫡子にして長子、他に誰がおりましょう」斎藤夫人は落ち着いた様子で座したまま、「ならば、なぜ工房に執着なさるのです?」と問い返した。椎名青妙の一件以来、斎藤夫人は夫を「旦那さま」と呼ばなくなっていた。長年連れ添った夫婦の間に、確かな亀裂が走っていた。式部卿は唇を引き結び、黙したままだったが、その瞳の色が一層深く沈んでいく。斎藤夫人は理由を察していた。夫の沈黙を見て、はっきりと言葉にした。「陛下はまだお若く、お元気でいらっしゃいます。皇太子の選定までは遠い道のり。後宮には多くの妃がおり、これからも皇子は増えましょう。もし大皇子さまより聡明な方が現れたら、陛下のお考えは変わるやもしれません。立太子の議論が進まない理由を、貴方は私より深くご存知でしょう。大皇子さまの凡庸さが、陛下の心に適わないのです」式部卿は眉を寄せた。反論したくても、できない。ただ言葉を絞り出す。「今、陛下の逆鱗に触れ、公卿や清流の反感を買えば、皇后さまにとって良い結果にはなりませんぞ。夫人、物事の分別をお忘れなきよう」斎藤夫人は静かに言葉を紡いだ。「北冥親王妃さまと清家夫人が先陣を切っていらっしゃる。皇后さまが旗を振る必要はございません。まずは太后さまのお気持ちを探られては?もしご賛同いただけましたら、工房にご寄付なさればよい。後に陛下からお叱りを受けても、太后さまへの孝心ゆえとお答えになれば済むこと。お咎めがなければ、世間の噂話程度で済みましょう。長い目で見れば、皇后さまと大皇子さまの評判にもよろしいはず。貴方も工房の意義はお認めのはず。でなければ、妨害などなさらなかったでしょう」しかし、いくら斎藤夫人が説得を試みても、式部卿は首を縦に振らない。何もしなければ過ちも生まれぬ。そんな危険は冒す必要がないと。説得が実らぬと悟った斎藤夫人は、それ以上は何も言わなかった。だが、自身の判断に確信があった彼女は、宮中に使いを立て、参内の意を伝えさせた。春長殿にて、斎藤夫人の言葉に皇后は驚きの色を隠せない。「お母様、何を仰いますの?私が上原さくらを支持するなど。
玄武は悠然と言葉を紡いだ。「他人に弱みを握られると、身動きが取れなくなるものだ。最初からお前の件を表沙汰にしなかったのは、良い切り札は使い時があるからだ。今がその時だ。簡単に言おう。二日以内に有田先生に文章が届かなければ、式部卿の潔白を証明する文章を書かせることになるぞ」露骨な脅しに、式部卿の胸が激しく上下した。だが、怒りに燃える目を向けることしかできない。玄武は何も気にとめない様子で、ゆっくりと斎藤家の上等な茶を味わっていた。目の肥えた彼でさえ、この茶は申し分ない。さすがは品位を重んじる家柄——表向きは高潔を気取る連中だ。こういう高潔ぶった連中こそ扱いやすい。特に式部卿のように、名声を重んじながら実際には体面を汚す者なら、なおさらだ。一煎の茶を楽しみ終えた頃、さくらと斎藤夫人が戻ってきた。玄武は立ち上がり、まだ青ざめた顔の式部卿に告げた。「用事があるので、これで失礼する。二度目の訪問は不要だと信じているがな」式部卿はもはや笑顔すら作れず、ぎこちなく立ち上がって「どうかごゆるりと」と言葉を絞り出した。対照的に、斎藤夫人の見送りは心からの誠意が感じられた。さくらに向かって優しく言う。「またぜひいらしてください。お話させていただくのが本当に楽しゅうございます」「ぜひ」さくらは微笑みながら手を振った。馬車がゆっくりと進む都の通りは、人の波で溢れかえっていた。つかの間の安らぎを求めて、二人は暗黙の了解で馬車を降り、有田先生とお珠に先に帰るよう告げた。しばし散策を楽しもうという算段だ。とはいえ、市場を普通に歩くことなど叶うはずもない。二人の容姿と気品は、どんな人混みの中でも際立ってしまうのだから。そこで選んだのは都景楼。個室で美しく趣向を凝らした料理の数々を注文し、さらに銘酒「雪見酒」も一本添えた。玄武は杯に注がれた透明な酒の芳醇な香りに目を細めた。「随分と久しぶりだな」さくらも杯を手に取り、軽く夫の杯と合わせる。「今日は存分に飲んでいいわよ。酔っちゃっても、私が背負って帰ってあげるから」と微笑んだ。玄武は笑みを浮かべながら一口含み、杯を置くと大きな手でさくらの頬を優しく撫でた。その眼差しには深い愛情が滲んでいる。「酔えば、湖で舟を浮かべて、満天の星を眺めながら横たわるのもいいな」その穏やかな声は羽が心を撫でるよう。
これは社交辞令ではない。さくらには、その言葉の真摯さが痛いほど伝わってきた。「斎藤夫人は皇后さまのお母上。もし伊織屋が皇后さまの主導であれば、これ以上ない話だったのですが」斎藤夫人は一瞬息を呑んだ。「王妃様、伊織屋は必ずや後世に名を残す事業となりましょう。すでに王妃様が着手なさっているのです。確かに障壁はございましょうが、王妃様にとってはさほどの難事ではないはず」さくらは静かに言葉を紡いだ。「簡単とは申せません。結局のところ、人々の考え方を変えていく必要がありますから」斎藤夫人は小さく頷き、ゆっくりと歩を進めながら言った。「確かに難しい道のりですね。ですが、すでに王妃様が非難を受けていらっしゃるのに、なぜ皇后にその功を分け与えようとなさるのです?」「功績を語るのは、あまりにも表面的すぎるのではないでしょうか」さくらは穏やかな微笑みを浮かべた。「この事業が円滑に進み、民のためになることこそが大切なのです」斎藤夫人の表情に驚きの色が浮かぶ。しばらくして感嘆の声を漏らした。「王妃様の度量の深さと先見の明には、感服いたします」「皇后さまにもお話しいただけませんでしょうか」さくらには明確な意図があった。女学校が太后様の後ろ盾を得たように、工房も皇后の支持があれば、多くの障壁が取り除けるはずだった。「承知いたしました。申し上げてみましょう」斎藤夫人は頷いたものの、その声音には力がなかった。その反応から、皇后の協力は期待薄だと悟ったさくらは、直接切り出した。「もし皇后さまがご興味をお持ちでないなら、斎藤夫人はいかがでしょうか?」東屋に着いて腰を下ろした斎藤夫人は、かすかに笑みを浮かべた。「家事に追われる身、王妃様のご厚意に添えぬことをお許しください」「ご無理は申しません。お気持ちの向くままに」さくらは優しく返した。その言葉に、斎藤夫人の瞳が突如として曇った。気持ちの向くまま?女にそのような自由があろうか。これは男の世の中なのに——玄武の言葉が響いた瞬間、正庁の空気が凍りついた。「伊織屋は王妃の心血を注いだ事業だ。誰であろうと、それを妨害することは許さん」玄武は一切の遠回しを避け、真っ直ぐに切り込んできた。斎藤式部卿は内心戸惑っていた。まずは世間話でも交わし、徐々に本題に入るものと思っていたのだが。この直球の物言いでは
深夜にもかかわらず、玄武は式部卿の屋敷へ使いを立て、名刺を届けさせた。「私のさくらに手を出すとは、今夜はゆっくり眠れぬだろうな」さくらは小悪魔のような笑みを浮かべ、「明日は私も一緒に斎藤夫人を訪ねましょう」と告げた。「ああ」玄武は妻を腕に抱き寄せ、その額に軽く口づけた。少し掠れた声で続ける。「もう四月だというのに、花見にも連れて行ってやれなかった。こんな夫で申し訳ない」玄武の胸に顔を寄せたさくらは、あの日の雪山での出来事を思い出し、くすりと笑った。「また雪遊びがしたいの?でも、もう雪は残ってないわよ」「い、いや、そうじゃなくて……」慌てふためく玄武は、さくらの言葉を遮るように、強引な口づけを落とした。その時、夜食を運んできた紗英ばあやが、真っ赤な顔で逃げ出すお珠とぶつかりそうになる。「まあ!そんなに慌てて、どうしたの?」紗英ばあやが二、三歩進み、簾を上げた瞬間、くるりと身を翻した。腰を痛めそうになりながら、夜食の膳を持って慌てて後退る。あまりの艶めかしい光景に、夜食など運べる状況ではなかった。二人の甘い時間を邪魔するような食事など、今は無用の長物だ。扉を静かに閉める紗英ばあやの顔には、優しい微笑みが浮かんでいた。顔を上げると、薄い雲間に隠れた三日月が、まるで世間の目を避けるように恥ずかしそうに輝いていた。斎藤家。斎藤式部卿はひじ掛け椅子に腰を下ろし、眉間に深い皺を寄せていた。北冥親王からの深夜の来訪通知は、明らかに彼の不興を買っていた。礼を欠くと言えば、夜更けの訪問状。かと言って、礼儀正しいと言えば、きちんと訪問状を送ってきている。何のためか、斎藤式部卿の胸中では察しがついていた。ただし、今回は平陽侯爵家側が先に騒ぎを起こした。普通なら、平陽侯爵家まで辿り着けば、それ以上の追及はしないはずだ。北冥親王家の執念深さには、恐れ入るほかない。影森玄武という男。昔から陛下と同じように、式部卿は彼に対して敬服と警戒の念を抱いていた。しかし最近、清和天皇の態度に変化が見られる。次第に玄武への信頼を深めているのだ。この均衡が崩れれば、必ず危機が訪れる。その予感が式部卿の胸を締め付けていた。夜中に届いた訪問状とは裏腹に、北冥親王家の馬車が斎藤家に到着したのは翌日の昼過ぎだった。心中の苛立ちを押し殺し、斎
そこへ道枝執事が戻ってきた。有馬執事との話によると、確かに儀姫には使用人を虐げ、叩いたり罵ったりする行為があったという。「蘇美さんの話になった時、有馬さんは涙を流していました」道枝執事は報告を続けた。「平陽侯爵家で蘇美さんは誰からも慕われていたそうです。もし儀姫がいなければ、正妻の座も相応しかったとか」紅羽からの報告では、新しい情報は得られなかった。平陽侯爵家の使用人たちに探りを入れても、誰も口を開こうとしないという。つまり、儀姫に虐待され、復讐を誓った数人の使用人以外、誰も証言を出してこない状況だった。これは侯爵家の使用人たちへの統制と、内輪の秘密保持が徹底されている証拠だった。そう考えると、あの数人の証言は、意図的に儀姫の評判を貶めようとしているように見えてくる。「それと」紅羽は続けた。「平陽侯爵家からは新しい手掛かりは掴めませんでしたが、別のことが分かりました。噂が急速に広がった理由は、数人の文章生が工房を非難する文章を書いたからなんです。礼教に反する罪状を並べ立てて」「その文章生たちの素性は?」紅羽は頷いた。「斎藤式部卿の門下生たちです」「斎藤式部卿?」紫乃は首を傾げた。いまいち思い出せない様子だった。「式部卿よ。斎藤家の。皇后の父上」さくらが補足した。「あの人か!」紫乃は怒りを露わにした。「どうしてこんなことを?」さくらはため息をつくだけだった。意外そうな様子もない。「女性の声を上げ、その未来を切り開く……本来なら皇后がなすべきことだったのに」「でも皇后は何もしてないじゃない。それに今は非難されてるのよ?何を奪い合うことがあるの?」「今は確かに非難の的ね。でも斎藤式部卿は先を見ているの。工房が続けば、いつか必ず民の理解と称賛を得る。そうなれば……この北冥親王妃が、国母としての皇后の輝きを奪ってしまうことになるわ」「そうなんです」紅羽は続けた。「皇后は何もしなくても、国母として民の心を得られる。でも王妃様が動き出せば…それは許されないことなんです」「じゃあ、支持すれば良いじゃない!」紫乃は腹立たしげに椅子を叩いた。「今は支持なんてできないわ」さくらは静かに言った。「皇后には非難を受ける余裕がない。まだ皇太子が立っていないから」「もう!」紫乃は頭を抱えた。「自分は何もしないくせに、人にもさせな
儀姫は蘇美との何年にも渡る確執を思い返した。今となっては、蘇美は亡き人。灯火が消えるように、この世から消えてしまった。かつての怒りも、今振り返れば、ほとんどが自分の意地の張り合いだったのかもしれない。「実は……」長い沈黙の後、儀姫は深いため息をついた。「悪い人じゃなかったわ。親孝行で寛容で、侯爵に長男を産み、長年にわたって家の切り盛りもしてた。去年、子を失わなければ、こんなに急に体調を崩すことはなかったはずなのに……」「去年、流産したの?」紫乃が身を乗り出して尋ねた。「ええ」儀姫は目を伏せた。「もともと体が弱くて、医師からも妊娠は避けるように言われてたの。でも思いがけず身籠って……その子は最初から弱くて……」儀姫の声が震えた。「流産後に体を痛めて……あの時さえなければ、こんなに若くして……」さくらは、道枝執事が有馬執事に確認した話を思い出した。有馬執事は二番目の子を産んだ時に持病ができたとは言ったが、この流産のことには一切触れていなかった。つまり、有馬執事は多くを知っていながら、道枝執事には選り好みして話したということか。紫乃は胸が痛んだ。蘇美はきっと本当に良い人だったのだろう。儀姫のような意地の悪い人間でさえ、その善良さを認めるのだから。そんな聡明で有能な女性が、出産のたびに体を壊していくなんて……本当に惜しい。「本当に使用人を殺めたことはないの?」紫乃は改めて確認した。「ないわ」儀姫は悔しそうに答えた。「叩いたり怒鳴ったりしたのは確かよ。でも、そんなに頻繁じゃなかったわ。老夫人が嫌がるし……それに」儀姫は目を伏せた。「私の周りにいるのは、ほとんど実家からついてきた人たちなのよ。腹が立っても、八つ当たりするにしても……自分の側近にするしかなかったもの」帰り道の馬車の中で、紫乃はもう儀姫を追い出すことについて一切口にしなかった。「心当たりのある人物を、二人で同時に言ってみましょう」さくらが提案した。「いいわ!」二人は目を合わせ、同時に名前を口にした。「涼子!」「蘇美さんと涼子」紫乃が言ったのは涼子だけ。さくらは蘇美と涼子の二人の名を挙げた。「えっ?」紫乃は目を丸くした。「蘇美を疑うの?まさか……今は亡くなってるし、生きてた時だって寝たきりだったじゃない。どうして蘇美が?」「もし涼子の立場だったら
紫乃は儀姫のことを考えた。悪いことは確かに悪い。でも、それ以上に愚かだ。おそらくその愚かさは、母親の影森茨子も気づいていたのだろう。だからこそ、あれほどの謀略を巡らせていた母親が、娘には何も打ち明けなかったのかもしれない。「あなたの母上のことで」紫乃は慎重に言葉を選んだ。「どのくらい知ってるの?」「なぜ……そんなことを!」儀姫は急に身構えた。「私を陥れようとしても無駄よ。何も知らないわ」針のように尖った態度を見て、紫乃はこれ以上追及するのを止めた。代わりに屋敷の侍女たちのことを尋ねると、儀姫は彼女たちは皆忠実だと答えた。「離縁された時も、連れて行かなかったわ。侯爵家なら虐げられることもないし、老夫人は寛大だもの。私と一緒に苦労させる必要なんてないでしょう?」「涼子があなたを陥れるかもしれないとは思わなかったの?薬が突然すり替わったことも気にならなかった?」さくらが尋ねた。「まさか」儀姫は断言するように答えた。「あの子は家に来てから、何から何まで私に頼り切ってたわ。私を陥れる度胸なんてないはず」「でも、あなたのことを密告したじゃない?」儀姫は一瞬言葉に詰まり、それでも無意識に涼子を弁護するように続けた。「きっと……調べられるのが怖くて、先に私のことを話したんでしょう。所詮は下剤を使っただけで、人を殺めたわけじゃないもの」「ずいぶん優しいのね」紫乃は皮肉たっぷりに言った。儀姫は紫乃の皮肉を悟り、顔を背けて黙り込んだ。「おかしいわ」さくらは首を傾げた。「嗣子に関わる重大な事件なのに、侯爵家はもっと詳しく調査しなかったの?」「ふん」儀姫は冷笑した。「老夫人は病気で、蘇美も死にかけてた。侯爵は執事のばあやに調べさせただけよ。涼子が私のことを密告した後、私はすぐに認めた。私が認めた以上、もう追及する必要なんてないでしょう。だって……」儀姫の声が苦々しくなる。「私がどんな悪事を働いても、彼らには不思議じゃないんだから」「あきれた」紫乃は舌打ちした。「悪事は全部涼子に任せて、どんな薬を、どれだけの量を使ったのかも知らないなんて。あなた、涼子のことを見下しながら、こんなに重用してたの?そんなに大人しい子だと思ってたの?覚えておきなさい。どんなに温厚なうさぎだって噛みつくことはある。まして涼子は……鼬よ、鼬」紫乃は涼子こそが黒
離れの間で、孫橋ばあやがお茶を用意した。儀姫はゴクゴクと一気に急須の中身を飲み干した。空腹と喉の渇きに苦しんでいたが、外の人々が押し入ってくることを恐れて、部屋から出られなかったのだ。儀姫の様子を見た孫橋ばあやは、「二日前まではよく働いていたもんね。うどんでも作ってあげましょうか」と声をかけた。「ありがとう……」儀姫は啜り上げるような声で答え、孫婆さんの後ろ姿を見送った。胡桃のように腫れた両目に、もともとの疲れ切った様子が重なって、儀姫は今や本当に落ちぶれた姿になっていた。「質に出せるものは全部出したわ。借金の返済に」儀姫の目が次第に虚ろになっていく。「まだたくさんの借金があるの。分かってるわ。私なんて同情に値しない人間よ。でも……平陽侯爵家で私に何ができたっていうの?義母は私を疎んじ、夫は愛してくれず、家事の采配権さえなかった。母がいた頃は、月の半分以上を実家で過ごしてた。母が亡くなって東海林家が没落して……私は庶民に身分を落とされて……侯爵家では耐えに耐えて、どんなに辛くても黙って耐えるしかなかったの」涙が頬を伝い落ちる。「紹田という女が入ってきた時だって、私には反対する資格さえなかった。昔なら気にしたかもしれない。北條涼子が入ってきた時みたいに。さくら、これを聞いたら、自業自得だって思うでしょう?だって涼子は最初、玄武様に惚れてたんだもの。そう……これは私への天罰なのね」袖で涙と鼻水を拭いながら、儀姫は胸に溜まった悔しさを吐き出した。「確かに涼子を打ち叩いたわ。でも、あの女が悪かったの!卑劣な手段を使って……寵愛を得るためなら何でもした。老夫人だってそれを知ってて、散々罰を与えたじゃない」「でも紹田夫人は違うの。私に逆らったことなんて一度もない。家に来てからずっと大人しくて……私に会えば礼儀正しく『奥様』って呼んでくれた。あの人がいなかったら、とっくにあの母親を平手打ちにしてたわ。どうして……どうして私が彼女の子供を害するなんて?私の立場を考えてみて。そんな面倒を自分から招くわけない……」「じゃあ、その母親はあなたに何をしたの?」紫乃は儀姫の長話を遮った。儀姫の目に憎しみが宿る。「あの女は本当に意地悪よ。私の滋養品を横取りしたり、燕の巣を奪ったり……『卵も産めない雌鶏に、そんな高価な物は無駄』だって。『うちの娘こそ侯爵家の貴
さくらは東屋の前で立ち止まると、薔薇の花を一輪摘んで口にくわえ、さらに三回宙返りを決めた。そして手すりを越えて軽やかに跳び上がり、紫乃の隣にすっと腰を下ろした。両腕を広げ、紫乃に向き直ると、口にくわえた薔薇を紫乃の方へ突き出した。瞳には笑みが溢れ、額には小さな汗粒が光っている。「もう!」紫乃は花を奪い取りながら、怒ったように言った。「王妃様なのに、宙返りなんかして!恥ずかしくないの?体面もへったくれもないわね」「だって、うちの紫乃様を怒らせちゃったんだもの」さくらは頬を染め、満面の笑みを浮かべた。「じゃあ、許してくれた?」「そもそも本気で怒ってたわけじゃないわ」紫乃はさくらの腕をギュッと摘んで、「さあ、工房に行って儀姫に会いましょう」と言うと、棒太郎を睨みつけた。「何笑ってんのよ。顎が外れちゃうわよ」「死ぬほど笑える」棒太郎は涙を拭いながら笑い続けた。「まるで猿みたいだったぞ」さくらと紫乃は棒太郎の冗談など気にも留めず、連れ立って東屋を後にした。後ろを歩いていた紫乃は、突然さくらの尻を蹴った。「このバカ」さくらはくるりと振り返り、舌を出して見せた。「だって、紫乃がこういうのに弱いんだもの」紫乃も思わず笑みがこぼれたが、棒太郎の言葉を思い出すと、胸が締め付けられた。目が熱くなる。このバカ……こうして一緒に馬鹿騒ぎするのも、随分と久しぶりだった。二人は伊織屋の裏口から入った。正門には十数人の民衆が集まり、罵声を浴びせながら石を投げつけ、汚水を撒き散らし、古靴を投げ込んでいた。中に入るなり、さくらは清家夫人が派遣した土井大吾に外の様子を尋ねた。土井によると、一、二時刻ごとに人が入れ替わり、本物の民衆もいれば、明らかに騒ぎを起こすために来ている者もいるとのことだった。土井大吾は、民衆が騒ぎ始めてから清家夫人が特別に派遣した人物だ。建物の破壊や人々への危害を防ぐためだった。「やっぱりね」紫乃は顔を曇らせた。「東海林のやつは?」がっしりとした体格の土井が答える。「部屋に籠もったきりで出てきません。この二日間は掃除も放棄しています。孫橋ばあやが『仕事をしないなら食事も出さない』と言いましたが、それでも部屋から出てこないんです」「部屋はどこ?」さくらが尋ねた。「梅の一号室です」土井は孫橋ばあやを呼び寄せた。「孫